2009年12月14日月曜日

12月13日 メッセージのポイント

 ダビデの人口調査(ダビデの生涯と詩編⑫)
      Ⅱサムエル23~24章

          
A 人口調査は罪なのか
  ○荒野をさまよった前後の人口調査(民数記1:2,26:2)
  ○イエスのたとえ話(ルカ14:28~32)
  ○主がダビデを動かした(Ⅱサムエル21:4)
  ○サタンがダビデを誘い込んだ(Ⅰ歴代誌21:1)
  ○主の許しを得てヨブに災いをくだすサタン(ヨブ1:12)
  ○イエスは御霊に導かれて誘惑を受けた(マタイ4:1)

B 祝福の中心は何か
  ○主が怒りを燃え上がったのは、人口を数えたからではない(Ⅱサムエル24:1)
  ○祝福の中で神を忘れたダビデとイスラエル(ホセア13:5~6)
  ○祝福の中心は神御自身であり、その周辺部は宗教的御利益
  ○御利益を求める者には落とし穴や袋小路が仕掛けられている

C キリストの影
  ○人が心奮わせ涙を流すのは実は知るも知らぬも「キリストの影」
  ○祝福の中には「キリストの影」がある
  ○世を遠ざけ、世に怯え、世に媚びるのはあるべき姿ではない
  ○クリスチャンの責務はキリスト御自身を明らかにすること

D 力や栄光を数値化することの弊害
  ○ダビデの三勇士(Ⅱサムエル23:14~17)
  ○王は軍勢の多いことによっては救われない(詩編33:13~22)

E 主の手に陥ることを選択したダビデ
  ○7万人の民が疫病で死んだのはただダビデのせいではない
  ○ニネベに遣わされたヨナ
  ○ソドムをとりなしたアブラハム
  ○日本のために祈る祭司、語る預言者として

12月13日 ダビデの人口調査 (ダビデの生涯と詩編 ⑫ )

 ダビデほど波瀾万丈の生涯を送った人はいないでしょう。ダビデの生涯は、神の摂理の中にあって、イエスの地上での歩みの先行体験であり、クリスチャンにとっては追体験のモデルなのです。特に、その折々に残された喜びや悲しみの祈りは「詩編」となり、今日の至るまで、すべてのクリスチャンを慰め続けています。

 そんな「ダビデの生涯」を追いながら、詩編と合わせて学んで来たわけですが、「ダビデの信仰」には遠く及ばない私が、1年にわたってあれこれ偉そうにお話してきたことはとても心苦しいことです。私は私が経験してきた範囲でしか理解が及ばないので、「ダビデの生涯」をお伝えしても、実際よりはずいぶんスケールの小さいものになってしまったかも知れません。そのあたりの多少のお詫びの気持ちと、ダビデの残してくれた足跡への大きな感謝の気持ちをこめて、このシリーズの最後のお話をします。

 多くの苦しみの後、政治的にも安定期を迎えた晩年、ダビデは大きな罪を犯してしまいます。それが今日のお話の主題になります。それは何かと言うと、ダビデがイスラエルの民の数を数えたということでした。バテ・シェバとの姦通やそのもみ消しのための殺人が良くないことだというのはすぐにわかりますが、人口調査がどうして罪なのかという問題は若干わかりにくのではないでしょうか。改めて考えてみましょう。

 これは普通の感覚ではちょっと理解しにくい、デリケートな問題です。
 神は別の時代には、イスラエルの民に荒野をさまよった40年の前と後で、人口調査をすることを命じてもおられます。(民数記1:2,26:2)
 また、イエスは城を築くとき完成に充分な資金があるかどうか、その費用を計算することの大切さを説かれました。戦争の時には、敵を迎え打つ味方に充分な兵力があるかどうか、必要ならば講和を求めることの大切さについても語っておられます。(ルカ14:28~32)


 それなのになぜこのダビデの人口調査だけが、大きな災いを招くほどの罪なのでしょうか。聖書は、この人口調査に関して、ふたつの側面から語っています。
 Ⅱサムエル24:1では、「主がダビデを動かした」と記されています。ところが、Ⅰ歴代誌21:1では、「サタンがダビデを誘い込んだ」と書かれています。
 このふたつの記事は、矛盾するように感じられるかもしれませんが、聖書の表面上の矛盾を整合させるのは、人間の経験や感覚ではなく、さらに他の聖句との整合性ではかるべきです。

 ヨブ記を見れば、次々にヨブを襲った災いは、すべて主の許しを経たものであったことがわかります。    また福音書を見れば、イエスが荒野で誘惑を受けるために御霊が導かれたという記述もあります。このように考えると、この人口調査の背景にあるものが少し見えてきます。
 ダビデはそれを自分の意思で拒むこと出来ましたが、同時に主は今のダビデがそれ拒むことが出来ないこと、そして、その結果イスラエルが罰を受けて災いを被っても仕方がない霊的状態にあることを知っておられたのです。イスラエルは、かつてない繁栄と安定を得たことによってダビデ王にも国民にも慢心が生まれました。
 神の祝福に酔い、その祝福を与えてくださった御方を忘れてしまったのです。もし周辺諸国と総力を挙げて戦うことになったら、どれ程の兵を召集できるかを知りたい、それを広報して圧倒したいという気持ちが間違いなくダビデの中にありました。だから、数を数えたときに良心のとがめを感じたのです。(Ⅰ歴代誌21:10)

 「主なる神が怒って」と書かれているのは人口調査を行う前のことであり、その怒りの対象はダビデを含むイスラエルの全体だったわけです。
 イスラエルを懲らしめるために、王であるダビデの慢心を用いられたのです。私たちは何を学ぶでしょうか。オバマ大統領が誕生したのは、アメリカの国情を受けてのことです。日本では、自民党のリーダーがコロコロ代わり、誰もキチンと責任をとらないまま友愛鳩山政権に代わり、笑止千万の仕分け作業なんかをやっている。まさに日本国民の精神を反映しているわけです。悲しいかな、どこの国の国民も自分たちにふさわしいリーダーを選んでいるのでしょう。
 教会だってそうです。愚かな説教者を祭り上げ調子に乗らせるは、そういうメッセージを欲する人たちです。自分たちに都合のいいことを言ってくれる者を寄せ集めるのです。(Ⅱテモテ4:3)

 「傷つけられた」「ひどい目にあった」というのは、申し訳ないけど自業自得です。儲け話の詐欺にあった被害者たちほどみっともないものはないですね。欲深い奴が「楽」して「得」しようと思うから、騙されるのであって、それは、政治でも経済でも宗教でも何でも同じです。そういう祝福の中心である神を排除して、周辺の御利益だけ得ようという罪を明らかにするために、さまざまな落とし穴や袋小路をこの世に設けておられるわけです。これを仕掛けられたのはどなたでしょう。あるいはお許しになったのは誰ですか。神です。この世において一切の権威をお持ちの御方が、認められたのです。実務を担当してそそのかすのはサタンです。サムエル記は神が仕掛けられたという視点で表現され、歴代誌はサタンが実務を担当したという視点で表現されているわけです。そこに矛盾はありません。

 神の真の祝福とは何なのか、また、私たちは世に対してどのような認識を持ち、どのようにふるまうべきなのかを、わきまえておく必要があります。ダビデもイスラエルの民も祝福の中で、祝福そのものである御方を忘れたのです。あるいは軽くみたのです。
 このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」(ホセア13:5~6)

 人が心奮わせ涙を流すのは、実は知るも知らぬも「キリストの影」に対してなのです。クリスチャンはその祝福を豊かに享受し、その秘密を鮮やかに解き明かす責務があるのではないかと思っています。世を遠ざけ、世に怯え、世に媚びるのは、いずれもあるべき姿ではないのです。
 祝福の中には数々のキリストの影があります。私たちは神が与えてくださる祝福の中で、その本体である御方、実在である御方を慕い、感謝し、いつも覚えて礼拝することができるのです。
 困難や苦しみの中にいるときは、そこから逃れたい一心で神を求めます。しかし、肉の要求が満たされてしまうと、神を忘れてしまうのが人間の弱さなのです。ダビデとイスラエルの失敗から、私たちが学ばなければならないことは、今日の私たちにとっても極めて限実的に差し迫った事柄であることがおわかりいただけるのではないでしょうか。

 「数える」ということについて、もう少し別の角度から考えてみましょう。
 今年2009年を表す感じが決まったそうです。「新」という字ですね。
 選ばれた理由には、民主党による新政権や猛威をふるう新型インフルエンザに加え、イチローのメジャーリーグ新記録もあるそうです。そのイチロー選手に関することです。野球というのは数えるスポーツです。他の競技と比べても、野球にはやたら細かい記録がたくさんあります。いったい誰が数えているのかと思うくらいです。ほとんど草野球しか経験のない私が前人未踏の記録を打ち立てたトップアスリートのことを話すのもおこがましい限りですが、記録達成のプレッシャーがかかると、明らかに打席でのイチローの様子がおかしい。
 ものすごく簡単に言ってしまえば、「記録を追いかけると、野球そのものの愉しさが損なわれる」ということです。記録を目指すことが動機付けになると言う主張も当然あると思いますが、私はそれは「生きることの意義」や「愉しさ」ということに関する重要な議論だと考えています。200本のヒットも1本1本のヒットの積み重ねなわけで、基本は一球入魂の全力プレーです。それがあるとき、プレーする人も、見る人も純粋に野球が楽しい。数字を数えることに反対するわけではありませんが、力や栄光が数値化されることによって損なわれるものは少なくないでしょう。
 何万の大軍勢は、ひとりひとりの兵士のいのちなのですが、何万と数えてしまうと人格や個性や存在の尊さは消えてしまう。
 Ⅱサムエル記23章には、ダビデの勇士たちの名簿が出て来ますが、これは24章の数の記録とは違います。その中には、ダビデの三勇士もいます。この三人はダビデにただベツレヘムの井戸の水を飲ませるためでだけに、危険を顧みずペリシテの陣営を突破して、それをくみに行きます。しかし、ダビデはそれを飲もうとはせず、神に注ぐという何とも美しいエピソードが出て来ます。ダビデは戦場でおこるすべての出来事を神との関係性の中でとらえる信仰を持っていたはずでした。
 ダビデは、「王は軍勢の多いことによっては救われない」と歌っていたのです。(詩篇33:13~22)

こうした神を中心にした関係性が、24章の人口調査では完全に失われています。ダビデであってさえ、こうした罪に陥り、ダビデとともに苦楽をともにしてきた民でさえ、このように高ぶるのであれば、いわんや、日本の生ぬるい平和ボケの中で浮遊するようにいきている私たちは、あやうさを抱えて生きているのだと自らを省みる必要がありましょう。

 さて、この罪の結果、王であるダビデに対して、主は3種類の懲らしめの中からどれか一つを選ぶように言われました。 ①7年の飢饉、②3ヶ月間敵の前を逃げ、仇が追うこと、③3日間、国に疫病が蔓延することです。

 ダビデは悩み抜いた末、3日間主の手に陥ることを選びます。
 ダビデの心痛は自分の罪のために7万人のイスラエルの民が疫病によって倒れたことでしたが、(Ⅰ歴代誌21:8)それは、ダビデの認識不足であり、思い上がりです。主は、ただダビデの慢心のためだけに、罪のない7万人のイスラエルの民を巻き沿いにして疫病で打つというような理不尽はなさいません。疫病で倒れた民には、それにふさわしい罪があったはずです。
 それは、異邦人の町ニネベに遣わされたヨナとのやりとりや、ソドムとゴモラを滅ぼす前のアブラハムとのやりとりを見ればわかります。
 先にも、民がふわさしい指導者を選ぶと申しましたが、民の状態が指導者の選択にも反映するのでしょう。そこには相関関係があるようです。
 今、この地球上のあちこちで起こっているさまざまな出来事の背景には、必ずそこに住む人々の営みがあり、それをご覧になっている神の主権の範囲において、許されていることだけが起こっているだと私は理解しています。

 私たちは祭司です。今この時代の日本に生かされ、そこで感じる痛みや憂いは、預言者のそれと同じです。預言者たちが堕落していくイスラエルやユダを愛し、とりなしつつ、民には厳しく明確に語り続けたように、私たちもそうであるべきです。

 これで、一年にわたってお届けしてきたシリーズダビデの生涯と詩編はおしまいです。

2009年12月6日日曜日

12月6日 祈りについて(ひねくれ者のための聖書講座⑨)

 およそ祈ることほど馬鹿馬鹿しいことはないと思ってきました。自分でろくに努力探求せずに神様にすがるとは何事かと・・・・。人が祈る姿は、私の目には惨めでみっともないものだと映っていました。そして時には浅ましい姿にさえ思えました。敬虔を装う貪欲さを感じる場合もありました。「舌切り雀」の話を読んで、でっかい葛籠にはガラクタしか入っていないと知っているから、宝の入った小さい葛籠を選ぶような、「金の斧、銀の斧」の話を聞いて、水の女神に正直に答えて金銀の斧を両方せしめてやろうというようなしたたかさを感じるわけです。実際、「イエスに高価な香油を注いだマリヤは素晴らしい、だから、私たちも・・・・」なんて話はいっぱい聞かされるわけです。私はその手の話は苦手ですね。とにかく私はひねくれていますので、「信仰」を大事にする生き方も、弱者の杖、卑怯者の逃げ場所だと感じられたのです。今でもいわゆる宗教における「信仰」については、同じ印象を持ち続けています。

 クリスチャンになってからも、正直に言うと「祈り」にはずっと違和感がありました。祈りのことば使いやその内容が、どうにも嘘らしく思えました。どうにも嘘らしいというのはかなり控えめな表現ですね。特に、自分の祈りのことばに関して徹底的に違和感があり、結構長い間、しっくりきませんでした。実は今でも時々「何か違うぞ」と思っています。そういうわけだから、他の誰かと一緒に祈るのも決して楽しくはなかったし、充実した意味のある時間ではありませんでした。同じことばを使っていても全然違う内容をさしているようなすれ違いを感じ続けてきたわけです。
 昨日まで祈ることになど無縁だった連中が、企業の朝礼で社訓を連呼する如く、コンビニやハンバーガーショップの店員がマニュアル通りに接待する如く、けっこう流暢に祈り出す様子は、何とも不可解でした。そんなキリスト教用語で身を固めていく人たちの変わり身の「自然さ」というべきか、「不自然さ」というべきか、そこは悩むところですが、とにかくそういう生態は異様に思えました。教えとしては、「いのちが宿った」と言うことなんでしょうが、私は「洗脳」ということばを思い出しました。

 祈りに関するもうひとつの一般的なイメージとしては、「蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げた日」という歌の文句にもあるように、祈る姿自体が、ひとつのファッションというか、スタイルになっている。これも気にいらないことのひとつでした。そういうクリスチャンイメージが蔓延する中で、自分がクリスチャンとして見なされることに物凄い拒絶感がありました。それは今も同じです。そこで、蔦が絡まるどころか、舌が絡まるわけです。

 そういうことを全く感じないで、すうーっと自然に自分のことばで祈って来られた方々にとっては、逆に私の感じ方がおかしいと思われるでしょうが、それはそれでいいのです。しかし、世の中には、私のように「祈りにとまどう人たち」は少なからずいるはずです。「ことば」にこだわり、「自分のあり方」にこだわる人間にとっては、祈るという行為はそんなに単純なものではないのです。かと言って、無意味に理屈をこねまわして、「祈る」という行為を複雑なものにしようとは思っていません。「祈り」を否定しようとは思いません。
 ただ、何の疑問も感じていない人たちが、本当に正しく祈れているのかということについては、一言意見をのべたいという気持ちはあります。ただし、ひねくれ者にふさわしく、自分が何処につまずいてなかなか祈ることが出来なかったのかを明らかにしつつ、どうしてそうしたひっかかりを感じずに、あるいは、強引にかき消して、いとも簡単、かくも御立派に祈れる人になるのかということを問いただしたいと思います。

 まず、「一体何に向かって祈るのか」、次に、「何の為に祈るのか」、そして、「祈ることによって何がどう変わるのか」などが、どうにもすっきりしない。その上でさらにやっかいな、「どんなふうに、どの程度祈ればいいのか」という問題が出て来ます。私の場合も、先輩のクリスチャンたちから、それらしいマニュアルどおりの答えをいただきましたが、それがどうにも、聖書が語るところとピタッと一致するようには思えないわけです。何より、「教えてくれたその人自身があんまりよくわかってないんじゃないか」という疑念を拭えずにいました。そこで、私は他の誰がどう祈っていようが気にせず、イエスご自身がどのように祈り、何を祈れとおっしゃったのかを丹念に追求することにしました。さすがイエス・キリストです。キリスト教の教える祈りとイエスの祈りは天と地ほどの違いがあることがわかってすっとしました。
 
 「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときに自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6:5~15)
              
 まず何より腑に落ちたのは、「長々と祈るな」「往来や人前で祈るな」というイエスの祈りに関する叱責です。イエスは当時の宗教指導者たちが「これこそ祈りだ」と信じ込んでいたスタイルを根本的に否定しています。「祈りというのはそうじゃない」というメッセージですね。彼らが祈りだと思っていた祈りは、人が自分勝手に創作した言い伝えや習慣であり、何の価値も効力もないというわけです。言い換えれば、これは祈りを聞く神の側からの拒絶です。宗教的に祈りの功徳を積む人々は、一体何の教えに従ってそうするのでしょうか。聖書のこのページか国語の読解力か、そのいずれかが欠落しているとしか思えません。

 それらは、「偽善者の祈り」また「異邦人の祈り」と呼ばれています。「宗教的祈り」と言ってもいいでしょう。つまり、神ならぬ大いなるものの心を動かすための、人間側からの働きかけです。それを人間どうしがその姿勢や熱心さを評価し合うといったものになっているということです。音を鳴らしたり、仰々しい装束を身にまとったり、うやうやしく振る舞ったり、それらしい呪文をとなえたり、さまざまな難行苦行をしたり、供え物を捧げたりと、いろいろな条件が追加されます。また、朝早くから、夜を徹して、あるいは何日も連続して・・・など、何度も同じことを繰り返しながら、長時間そのことに集中して、それを見ているはずの神さまや人の心を動かそうとするわけです。こういう人の営みをすべてイエスは否定されたのです。ですから、「無駄だ」と言われていることをするのは無駄です。「やめろ」と言われていることをあえてするのは罪です。

 確認しますよ。祈りは同じことばを長く繰り返しても何の意味もありません。人前で人目を意識し、そのことによって「祈る自分」に意識が向いている時点でその祈りは無効だということです。
 イエスは「隠れたところで隠れたところにおられる御方に祈れ」と言われました。神は「隠れたところ」におられるのです。それを目に見える「かたち」にする必要はありません。隠れたところにおられる御方を信じられずに、木や石や金属でそれらしいかたちを与えたものを、聖書は「偶像」と呼んでいます。「偶像」に向かっていくら長時間それらしく祈っても何事も起こりません。もちろん「それだけ念じたのだ」という自己満足は残るでしょうが、ただそれだけのことです。このような人間の不安と自己満足を膨張させたものが「宗教」です。イエスは、キリスト教を含む一切の宗教を否定されたのです。マリヤ像のみならず、キリスト像や十字架に祈るのもまったく馬鹿げていますし、聖書はそれらを完全に否定しています。ユダヤ人はそれでも偶像を作って拝んだ時期はありましたが、イエスが来られた時代は、そういう「かたち」あるものに祈っていたから批判されたのではなく、祈る姿勢や、自分自身の信仰が偶像になっていたわけです。よもや自分に問題があるとは思っていないほど、自然にその祈り方を身につけてしまっていたわけです。そこが問題だとイエスは指摘されたわけです。

 イエスが直接叱責されても憎むばかりで悔い改める気配の乏しかった当時のパリサイ人や律法学者の様子を見れば、私ごときが意見を述べてもおそらく、気を悪くして逆に私がののしられるだけだろうと予想はしていますが、それでもイエスが語られた以上、私も言わないわけにはいかないので、決して好き好んでというわけではありませんが、こうしてメッセージをしているわけです。

 雅歌の中には、羊飼いである王、すなわちキリストが花嫁、すなわち教会を奥の間にともなう場面があり、いわゆる敬虔なキリスト教徒が眉をひそめるような官能的な描写もあります。その描写をみれば、祈りは、親しい者どうしの密室での交わりなのです。もちろん、集まって数人や教会全体で祈ったり、公の場で祈ることがすべて間違いで不純だとは言っておられるわけではありませんよ。イエスはここで、祈りというものの本質について語っておられるのです。この本質をわきまえないでいると、祈りは、形骸化し、かえって害をもたらすものになると言っておられるのです。妻や子どもや親といるときは、そんなに饒舌に語ったりしません。親しい関係になるほど、ことばの間にあるものや沈黙のコミュニケーションが多くなるのではないですか。

 イエスご自身は、弟子たちに対して「弟子になったからには、こういうことをこの程度祈るように」などと教えたり、命じたりしませんでした。学校で子どもたちに、あいさつすることを教える程度にさえ、「信じた者は祈るべきだ」と教えなかったのです。これは重要な認識です。有名な「主の祈り」があるじゃないかと思われるかも知れませんが、それは、「祈りについて教えて欲しい」と要求した弟子に対して、「祈るのならばこう祈れ」とおっしゃったものです。
 マタイは、祈りの本質を伝えるべく、先程の引用の続きに主の祈りをもってきましたが、時系列に出来事を記したルカは、主の祈りが伝えられた経緯を次のように書いています。
 「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこで、イエスは彼らに言われた。祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与え下さい。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」(ルカ11:1~13)

 この「主の祈り」が最も強く教えていることは何でしょう。それは、神の優先順位ということです。祈りのことばにおいてではなく、あらゆることにおいて、実際に第一にしていることは何なのか。ポイントはその一点です。「御国が来ますように」ということばに集約されています。それはつまり「神の国とその義を第一に求めること」です。私たちは多くの場面で、この優先順位を間違えているのです。多くの場合、世における悩みの解決や祝福が祈りの中心になっていないでしょうか。私たちは祈る前に、それらの問題を一瞬で解決できる御方が、なぜあえて、この世に多くのつまずきを置かれたのか、不合理や矛盾を容認しておられるのかを考えるべきなのです。それは、人間に「神の国とその義に目を向けさせるため」です。

 恥ずかしながら、私は詩集を2冊出版しているのですが、その1冊は「聞き手のない対話」と言います。神様を知らないとき、架空の聞き手に向かってことばを綴ったものです。2冊目は信仰を持ってからの葛藤とその根底にある喜びを綴ったもので「生贄タチの墓標」と言います。生贄たちの墓標は、次のことばで始まります。『祈りのことばを失ったとき、ぼくの祈りは始まった。』
 つまり、自分を出発点とするあらゆることばが尽き果て、イエスという「いのちのことば」が口から出てくる。これが聖書が語るところの祈りなのだと私は理解しています。

 私は通常の礼拝のメッセージは祈りで結ぶことにしていますが、この「ひねくれ者のための聖書講座」では最後に祈ることを控えています。そんなかたちの上のことは、別にどうだっていいのですが、とにかく、あいさつみたいに祈るのは嫌だということと、同時に、私と同じくひねくれた人たちへのささやかな配慮でもあったということをつけ加えておきたいと思います。

2009年11月15日日曜日

11月15日 メッセージのポイント

ダビデとアブシャロム(ダビデの生涯と詩編⑪)
        Ⅱサムエル16~19章
          
A 王の食卓の実際
  ○異母兄弟家庭
  ○恵まれた退屈がアムノンを生む
  ○「義」と「愛」・「恵」と「まこと」の両立は難しい
  ○「立場」と「状態」を埋める信仰
  ○信仰を培うための刈り取り

B ダビデの葛藤
  ○自分の罪を赦せない→他者に対する曖昧な態度や偽の寛容さ
  ○家族をおさめることの難しさ→近い人間関係ほど難しい

C ヨアブ
  ○有能な軍人(Ⅰ歴代誌11:6)
  ○ダビデの命令を守り、躊躇せずウリヤを殺す
  ○「自分も明日はウリヤのように殺されるかも知れない」という不安
  ○アブシャロムに対する共感(アサエルを殺されたアブネルへの憎しみ)
  ○ダビデとアブシャロムとの和解をとりもつ→アブシャロムへの乗り換えを図る

D アフィトフェル
  ○有能な議官(Ⅱサムエル15:12)(Ⅱサムエル16:23)
  ○知恵に満ちた進言(Ⅱサムエル16:21)は、預言を成就させる
(Ⅱサムエル12:11~12)
  ○アブシャロムがアフィトフェルの進言を退けて、
滅びを招く(Ⅱサムエル17:1~3)が、
これはダビデの祈りの成就(Ⅱサムエル15:31)であり、
     神のみこころ(Ⅱサムエル17:14)
  ○詩編38編に見られるダビデの態度と運命の明暗を分けた鍵
  ○アフィトフェルは、イエスを裏切ったユダの型

E アブシャロムの最期
  ○長所やプライドがつまずきとなる(Ⅱサムエル18:9)
  ○ダビデの悲しみ(Ⅱサムエル18:33~19:1)に見る
   イエスを裁く御父の心(マタイ27:4~5)

11月15日 ダビデとアブシャロム (ダビデの生涯と詩篇 ⑪)

 それぞれに違う母親から生まれた子どもどうしが、お互いにどのような感情をもって過ごしていたのかは、非常に興味深いものがあります。父親はダビデですが、母親は違うわけです。これは子どもの成長や発達にとっては非常に不健全です。ダビデにしても、特別に気にいった妻の子が一番可愛かったのかも知れないし、長男に愛情の偏りがあったのかも知れません。
 子どもたちの日常の暮らしを思い浮かべてみてください。何しろ王の食卓につながる子どもたちです。飢えることもないし、様々な必要に事欠くことなどあり得ないのですから、ただ生きることにエネルギーを奪われる庶民よりも、人間関係の葛藤は深くなるのです。考えてもみてください。だいたい長男のアムノンにしても、日々やつれていくのが人目にわかるほど、かなわぬ恋に熱中して、しかもろくでもない助言をそのまま聞き入れて、仮病を使って寝こんでいられるくらい暇なんですね。要するに、人生の多くの問題というのは、神の祝福の中心を抜き取った周辺の御利益の部分に、そのきっかけがあるのです。

 ダビデの長男はアムノンです。アブシャロムは3男です。(Ⅰ歴代誌3:1~9)3男が、腹違いの長男を殺した背景には、当初はアブシャロムの思惑にはなかったかも知れない意味合いが含まれてしまうのです。
 ダビデとアブシャロムの確執は、アブシャロムが兄弟アムノンを殺した頃から、始まったようです。ダビデはアブシャロムに対する「敵意」を持っていたと書かれています。(Ⅱサムエル14:1)この「敵意」という表現から、ダビデとアブシャロムの気持ちや関係性を考えてみたいと思います。
 アブシャロムは、妹タマルを陵辱したアムノンをどうしても赦すことが出来ませんでした。アブシャロムのアムノンに対する憎しみや殺意は、日に日に募らせていったというよりは、タマルの一件の直後にあったものだと書かれています。ダビデは、そんなアブシャロムの気持ちを全く理解出来ないことはなかったと思いますが、それでも「殺す」という選択をするとは予想しなかったでしょう。何しろタマルもアムノンも、そしてアブシャロムも、3人とも大切なダビデの子どもなのですから、「どちらがどれだけ悪いから、ああして、こうして」というような整理はなかなかつかないのです。

 「義」と「愛」が両立すること、「恵み」と「まこと」がひとつになるということは、人には到底出来ないことだし、その理想がどんなものであるのかということさえわかりません。それは人の想像を遥かに超えているのです。ダビデとダビデの子どもたちの通った道を見れば、ひとたび罪を犯してしまうと、それは簡単に元には戻らないことがわかります。ひとつの過ちが連鎖して、雪だるま式に大きな不幸を生みます。罪の最終的な結果は死であり、それぞれの選択にふさわしい具体的な刈り取りが待っています。
 それは、神の御前に罪の清算がついていることとは別の次元で展開していくのです。言うまでもなく、ダビデは罪が赦されなかったのでないし、信仰がなかったのでもありません。「霊」の中で処理されていることも、「魂」はそう簡単に受け入れられません。「目に見えない世界」で完了していている事柄も、「目に見える世界」では個々の具体的な解決に追われ続けます。ですから、人の心には残された葛藤があり、圧倒的な勝利を確信しながらも、片方ではボロボロになって涙を流すということが、時として起こってしまうのです。「立場」と「状態」には、大きな隔たりがあります。これを埋めるのが信仰です。
ダビデが父親として十分なリーダーシップを発揮できなかった原因を考えてみましょう。イスラエルという国を立派に治めていたダビデですが、家族を治めることに成功していたとは言えません。どちらが本当のダビデなのかというと、この家族の混乱こそがダビデという人の本質を表しています。子どもたちの連鎖する罪のそもそもの発端は、バテ・シェバに対して自分が起こしてしまったあの事件であることは明らかです。
 勿論、ダビデは、ナタンが宣言したとおり、自分の犯した罪は即座に主に赦されたことを疑わなかったでしょう。その恐れと感謝は詩編の中に綴られているとおりです。それでもなお、子どもたちが次々に引き起こす目の前の具体的な問題に対しては、自分のことを棚上げして戒めることが出来なかったのです。
 おそらく、ダビデの心の中では、いろんな苦しい気持ちがゴチャ混ぜになっていたと思います。タマルへの不憫さも、アムノンへの怒りもあったでしょう。あれこれの思いは去来するものの、それらの感情はすべて「子どもたちへの申し訳ない気持ち」に飲まれてしまい、その結果、子どもたちではなく、自分を責めてしまうという悪循環に陥ったのです。自分の罪を赦せない気持ちは、他者に対する曖昧な態度や偽の寛容さとして現れるものなのです。

 アブシャロムに対して抱いていたダビデの敵意を見抜いたのも、アムノンに対するアブシャロムの当初から殺意と2年後の計画を見通していた人物がいます。ヨアブというダビデの側近です。ヨアブはエブス人との戦いにおいて、軍団長になった有能な軍人です。(Ⅰ歴代誌11:6)この時の描写を見ても、野心に溢れる抜け目のない人物像が浮かびます。ダビデがバテ・シェバとの姦通を誤魔化そうとしたときも、ヨアブは、ダビデの命令通り、全く躊躇することなくウリヤを殺しています。ダビデの真意を確かめずに勇士ウリヤを殺したことが立派なのか愚かなのか、そこは議論がわかれるところですし、実際その時のヨアブの認識や感情を読み取ることは難しいです。
 しかし、このことは言えます。命令には黙って服従したヨアブですが、「自分も明日はウリヤのように殺されるかも知れない」という不安だけは確実に芽生えたに違いないということです。この不安感をきっかけにダビデに対する信頼や尊敬を失ったのかも知れません。ヨアブはある時点でダビデを見限り、若くて有能なアブシャロムに乗り換えようとした可能性があります。おそらくヨアブとアブシャロムとは心情的に結びつく要素があったからでしょう。ヨアブはアサエルを殺された報いにアブネルを殺したことを覚えておられるでしょうか。ダビデの気持ちはわからなくても、妹を殺されたアブシャロムの憎しみには共感出来たのです。

 ヨアブは、アムノンを殺して潜伏中だったアブシャロムをゲシェムからエルサレムへ呼び寄せようと努めます。ダビデと和解できるように、テコアの知恵のある女を使ってダビデを説得するのです。ダビデは、それがヨアブの入れ知恵であることを見破りますが、結果的にはその要求を受け入れ、アブシャロムがエルサレムに戻ることを許します。それでも、ダビデはなかなかアブシャロムに会おうとはしません。これでは何の為にエルサレムに戻ったのかわからないと怒ったアブシャロムは、今度はヨアブを利用して、無理矢理ダビデとの面会の機会を作ります。そこでダビデはアブシャロムに口づけし和解するのですが、それはかたちだけのものでした。この対面はただの親子の和解ではありません。一国を治める王と王子の対面です。この和解は王位継承者としてアブシャロムを認めるかどうかにつながる意味を持っています。アブシャロムはダビデと会うことができました。しかし、アブシャロムは、ダビデに対する悔い改めも感謝もなく、愛や憐れみを求めたわけでもありませんでした。アブシャロムは、この王であり父であるダビデとの会見によって、絶望を確かにします。ダビデとの本質的な和解はなく、王位が自分に継承されることはないと感じ取ったアブシャロムは、やがて周到な準備の後にヘブロンで旗揚げし、謀反を起こします。一方でヨアブは、エルサレムに帰れるように計らった自分に恩義を感じることなく、さらにダビデとの会見を暴力的に求めてきたアブシャロムに対して苛立ったはずです。そんなわけで、ヨアブはアブシャロムとダビデとの間で振り子のように揺れながら、結局アブシャロムの側にはつきませんでした。

 もうひとりのキーマンであるアヒトフェルをめぐっても、ダビデとアブシャロムの名案がくっきり分かれてしまいます。アヒトフェルは、ダビデの議官をしていた人でした(Ⅱサムエル15:12)そのアヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担します。その情報は、エルサレムから落ち、オリーブ山の坂をはだしで、泣きながら登るダビデのもとのもたらされました。ダビデはそのとき、「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31)と祈ります。
 ダビデがそのように祈ったのは、アヒトフェルが極めて聡明な人物だったからでした。「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた」(Ⅱサムエル16:23)と説明されています。三国志の諸葛孔明みたいなものでしょうか。
 その知恵に満ちた助言の一例が記されています。アブシャロムがエルサレムに入った時、アヒトフェルは「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにおはいりください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたにくみする者はみな、勇気を出すでしょう」(Ⅱサムエル16:21)と助言しています。これは道徳的ないかがなものかと思いますが、非常に効果的な作戦ではありました。当時は敗者の王の妻を、新しい支配者が奪うということがありました。それは支配者の交代とその権勢を強くに示すことになります。アブシャロム軍は「勝てば官軍」イスラエルの正規軍となるいわけです。アブシャロムにつき従う者たちにも、どこかにダビデに対する複雑な思いやうしろめたさを感じる者がいたとしても、そうした感情を一気に払拭する名案だったわけです。アヒトフェルは、戦の布陣を組んだり、戦法を授けるだけでなく、心理を読み取った人心掌握に長けた数々の作戦を立てて、ダビデを支えて来たのだと思われます。
 実はこの出来事は、人の営みとしてはアフィトフェルの知恵がもたらした作戦であり、アブシャロムが合意して実行されたものですが、霊的に見れば、ダビデの姦淫の罪に対する刈り取りであって、すでに預言者ナタンによって宣言されていたことでありました。「主はこう仰せられる。・・・あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。」(Ⅱサムエル12:11~12)これは、極めて厳粛なことです。
 そして、アヒトフェルは、ダビデ討伐の作戦をアブシャロムに進言します。「私に一万二千人を選ばせてください。私は、今夜、ダビデのあとを追って出発し、彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな穏やかになるでしょう」(Ⅱサムエル17:1~3)
 ポイントは、まず「時は今」、次に「敵は王ひとり」ということです。狙いはダビデひとり。ダビデがいなければ敵兵もアブシャロムの配下で戦力になるので、無意味に殺したり傷つけないほうがいいのです。非常に賢明な作戦です。ところが、この素晴らしい作戦をアブシャロムは退けます。フシャイは「アブシャロム自身が出陣し、全軍をもって壊滅すべきこと」を進言します。それは少しでも時間を稼いでダビデを遠くに逃がし、ダビデの得意とする野戦に持ち込むためでした。(Ⅱサムエル17:8~14) これも、アブシャロムが自分の意思で選んで決定したことですが、霊的には「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31)とダビデが祈ったからです。「これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった」(Ⅱサムエル17:14)と書かれています。この結果、ダビデはヨルダン川の東に逃げ、戦いにおいて勝利を得ます。アヒトフェルは、自分のはかりごとが行なわれないのを見て、首をくくって死にました。アヒトフェルは頭のいい人でしたから、自分の策を採用しないアブシャロム軍に勝機がないのを悟っていました。ダビデを裏切った限りはもはや彼の生きる道はないと思い詰めたのでしょう。ダビデを裏切ったアフィトフェルはイエスを裏切ったユダのモデルになっています。人はいくら知恵が豊かでも、その知恵によって己の身を救うことは出来ないのです。自分の力や策に頼ったアブシャロムと、自分の罪を隠さず、自分の可能性に絶望し、ただ主の憐れみを願ったダビデの明暗が分かれます。同時にダビデは、この神のお取り扱いの中で、アフィトフェルの裏切りに深く傷つきながらもイエスの地上での苦しみを先行体験し、彼のうるわしさを学ぶことを許されました。(詩編38:5~12)同じように経験する悲しみや苦しみであっても、アブシャロムやアフィトフェルのそれとダビデが味わったものとは、何と質が異なっていることでしょう。神の恵みのもとに服するものには、それがどんな苦しみであれ、一切に無駄がありません。神がそれに価値を与えるからです。

 ダビデと長男アブシャロムは心通わせることがないまま、悲劇的な最期を迎えます。ダビデは全面対決の中でも敵軍の将であるアブシャロムの安全を願い、「アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ」と家臣たちに命じています。ところが、ヨアブはその命に背いて、無抵抗な姿になったアブシャロムを殺します。彼の自慢であった髪の毛が、人より頭一つ高かったその頭が、樫の木に引っかかったのです。何という皮肉でしょうか。人は神の前に、己のプライドによってつまずくことの象徴的な絵となっています。
 ダビデは、アブシャロムの訃報を聞いて、尋常ならぬ悲しみを隠すことなく表します。(Ⅱサムエル18:33~Ⅱ19:4)このダビデの姿から考えさせられるのは、イエスを見捨てて、容赦なく裁いた父なる神の御心です。これほど敵意を剥き出しにして、自分に挑んでくる息子であったさえ、ダビデにとってはかけがえのない息子でした。ましてや、ご自身のすべてを反映し、完全に父のみこころに従って、従順に歩まれたイエスを、罪と見なして裁かねばならないその心中はいかばかりでしょうか。イエスが十字架にかかられたとき、全地は3時間真っ暗闇に包まれました。(マタイ27:45~46)この暗闇に秘められた神の愛を感じましょう。私たちはこの暗闇から生まれた光だということです。

2009年11月1日日曜日

11月1日 聖書を構造的に読む ひねくれ者のための聖書講座⑧ 資料

「茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる」
                   夏目漱石「三四郎」

「Fair is foul and foul is fair」(いいは悪いで、悪いはいい)
                シェイクスピア「マクベス」
 
【キアスマス】
 文節や文章などをABBAのように反転させる方法をキアスマス(カイアズマス・交差配列法)と言います。ABの例は最小単位のものですが、このように言葉を反転させて繰り返しながら、読者に状況を効果的にイメージさせることに成功しています。さらにABCCBAというように、いくらでも複雑になります。さらに、真ん中に中心点になるXを置いてABCXCBAというかたちで定型をなす場合もあります。
 これらが、詩の中で複数の行数で行われる時はどうなるでしょうか。例えば4行の詩があるとすると、1行と4行が、2行と3行がそれぞれ一対になります。反転したパラレルになるわけです。このカイアズマスがもたらす反転パラレルは短文だけでなく、行や幾つかのまとまった段落の対置関係にも使われたりします。奇数行や奇数のまとまりになって、一番真ん中の行やまとまりが、折り返し点になるような構成になるのです。

C.創世記7~8章 ノアの洪水

 1.7日間洪水を待つ(7:4)
  2.動物とともに箱船に入る(7:7~15)
   3.箱船の扉を閉める(7:16)
    4.40日の洪水(7:17)
     5.箱船浮かび上がる(7:18)
      6.山々まで覆う(7:19)
       7.150日間増え続ける(7:24)
        X.神はノアたちを心に留めておられた(8:1)
       7.150日の終わりに減り始め(8:3)
      6.山々の頂が現われ(8:5)
     5.箱船アララテ山頂へ(8:7)
    4.40日が過ぎ(8:6)
   3.ノアは扉を開いた(8:6)
  2.カラスと鳩を放った(8:7~8)
 1.さらに7日間水が退くのを待つ(8:10)

D.ルカの福音書1章のバプテスマのヨハネの受胎告知

1.ふたりは神の前に正しく戒めと定めを落ち度無く行っていた(6)
  2.エリザベツは子が無く、ふたりとも年をとっていた(7)
   3.ザカリヤは、当番で祭司の務めをしていた(8)
    4.くじを引いたところ、神殿にはいって香をたくことになった(9)
     5.香をたく間、大勢の民は、外で祈っていた(10)
      6.主の使いが現われ香壇の右に立った(11)
       7.ザカリヤは不安を覚え恐怖に襲われた(12)
        X.御使いの受胎告知(13~17)
       7.ザカリヤは御使いを疑った(18)
      6.ガブリエルが、主の命だと告げ、
      信じないから、誕生まで話せなくすると言われる(19~20)
     5.香ををたくザカリヤが暇取るので、人々は外で不思議がった(21)
    4.聖所から出たザカリヤは、口がきけなくなった(22)
   3.ザカリヤは、祭司の勤めの期間を終え、家に帰った(23)
  2.エリザベツは身ごもり、5ヶ月引きこもっていた(24)
 1.エリザベツは、主が自分に心をかけて下さったことを述べた(25)


E.ローマ2:6~11

  1.神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えにな  ります(6)
    2.忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠      のいのちを与え(7)
      ×党派心(自己中心)を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒       りと憤りを下されるのです(8)
      ×患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうす       べての者の上に下り(9)
    
    2.栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての     者の上にあります(10)
  1.神にはえこひいきなどはないからです(11)

11月1日 聖書を構造的に読む (ひねくれ者のための聖書講座 ⑧ )

 私がメッセージをする上で心がけていることは、無理に聴き手の感情を駆り立てたり、語り手の感動を押しつけたりしないことです。そして、決して自ら抽出した徳目へと導かないことです。私は落ち着いて淡々と話します。たぶんイエスもそれほど激して語りはしなかったでしょう。私が話したことをよく聴いた上で、拒絶されることも、正反対の意見をお持ちになることも当然あるということは十分承知していますし、そういう判断を尊重する姿勢をもっています。しかも、この講座に関してはひねくれ者対象です。ひねくれ者なら、ひねくれ者の話なら納得するだろうなんて思い上がってはいません。尚、拒んで批判するのもご自由にという感じです。もちろん私は神に心動かされて語ります。しかし、機械的に「知識」や「教理」を伝えているわけではありません。価値の伝達が目標ではないのです。もっとそれ以前のことであり、さらにそれ以上のことです。
 私が伝えたいことは、「聖書にはこう書いてあるでしょう。ほらね」ということです。そのことを通して、聖書が紹介する「イエスという御方」を明らかにすることです。「人の状態」や「正しい生き方」の話ではないのです。勿論そういう部分も含まれはするでしょうが、中心はイエスという御方です。ですから、「私だけがこういうことを読み取ったのだ」というような特別なことはひとつもありません。イエスという御方を紹介して、それぞれに甦られたイエスに出会っていただくからです。それで私の役割のほとんどはおしまいです。この御方はその個別の出会いによって信じる者にいのちを与えるのです。伝える者は、誰であれ特別な秘儀を語るのではありません。そんな秘められた教えなんてありません。さまざまなキリスト教がバラバラなことを語っていても、聖書は2千年以上変わらず、同じひとつのことを語っています。それは、「イエスはどういう御方で何をなさったか」ということです。「福音の奥義」という言い方もありますが、それはその気になれば誰もが味わうことの出来るところにあります。門を狭くしているのは、聴く者の態度の頑なさなのであって、初めから天国の定員が決まっていたり、偏差値が高かったりするわけではありません。もってまわった妙な手続きを加えたのは、人の好き勝手な言い伝えです。

 もう一度繰り返します。ポイントは、「イエスがどういう御方で、何をなさったか」ということです。それをそのまま書かれているとおりに素直に読むことを進めています。そのように読めば、各自が主イエスと出会えます。
 誰でも心の中に神の声を聞くチューナーを持っています。それを聖書は「霊」と呼んでいます。この「霊」を吹き込まれたので、「人」は「人」となったのです。ホモサピエンスとしての「人」は「ヒト」と片仮名表記されたりしますが、そのヒトは、遺伝子レベルでは確かに猿とほとんど変わりません。ヒトとチンパンジーの違いは、ウマとシマウマ程度の違いだと言います。しかし、人は神と永遠を思い、神と交わり、永遠に生きる可能性を持っています。ここに、人の特別な存在価値があるのです。

 猿が道具を使うことはあっても、猿が何かを奉ったり拝んだりすることはありません。なぜでしょうか。人だけが神と交流するための「霊的な存在」だからです。しかし、その人の霊は不完全にしか機能していません。聖書が描写するのは、善悪の知識の実を取って食べ、神の園エデンを追放され、神との交流が断たれた人の姿です。それで人は、神や神ならぬ大いなるものとの交流を持とうとしてあがき苦しんでいるのです。そのような理由で、人は無数の宗教を生み、それらを拒否する進化論という宗教を生み、さらに聖書の教えさえ宗教に貶めてしまったのです。

 「進化論と言えば、宗教ではなく科学じゃないか」と思われるかも知れませんが、私に言わせれば、最も悪質な宗教です。
 簡単なひとつの例を思い浮かべて考えてみましょう。昆虫の世界です。蜂や蟻などの小さな虫でさえ、圧倒的な組織力をもって見事な役割分担で自分の任務を遂行しますが、そんな虫たちよりも遥かに優秀なはずの人間が産み出した世の中のシステムには、さまざまな人間関係の確執や権力の闘争があります。妬みや憎しみから巣の秩序が崩壊することはありません。蜂や蟻のようにはうまくいかないわけです。人が罪に墜ちたことによって非贓物全体が虚無に服したと書いてあるので、昆虫の世界もエデンの園の状態とは違うでしょう。しかし、人間以外の動植物の間には、人間のような「神との関係の歪み」は見られません。だから、イエスは「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われるのです。自然の動植物には人のような霊はありません。しかし、「ただ神に養われている」だけで、神との霊的な交流がなくても、それらは喜びに満ちて己のいのちを奏でているではないかというのが、イエスのメッセージです。さらに進化したものが、進化の劣位にあるものに学ぶことなどないはずです。ポイントは、「神との関係の歪み」です。この歪みが、自らを猿の末裔に貶めるのです。
 神の園エデンを追放され、神なしでやりくりしてきた私たちですが、その神の第一としない勝手気ままなやりくりに問題があるのだと聖書は指摘します。
 霊の機能不全を回復へと導くのは神のことばです。「わたしのことばは霊でありいのちである」とイエスは語られました。聖書のことばは、ただの道徳やイデオロギーではないのです。

 さて、今日の講座では、神のことばである聖書の構造的な読み方のヒントについてお話したいと思います。言ってみれば、チューナーの使い方、ダイアルの合わせ方についての手引きです。妨害電波や、偽りの情報があまりにも多いですから、こういうメッセージもあってもいいのかなと思っています。
 各自がしっかり調べ、よく吟味することが大事です。丸かじり、丸呑みはいけません。私の話も簡単に信じてはいけません。ちゃんと疑って、自分で調べてください。罪や救いなんてそう簡単にわかるはずのないことです。

 みことばを読むことは、食べ物をよく咀嚼していただくことに喩えられています。食材にはそれにふさわしい食べ方があるということです。
 動物は肉も野菜も丸かじりです。味付けも何もありません。しかし、人間はさまざまに工夫を凝らして調理します。どこの国でも、おいしい料理とは、素材の持ち味を十二分に生かしたものです。神は予め人が知恵と工夫によってさまざまな調理方法で食材を楽しめるようにすべてのものをお作りになったのです。これは物凄いことだと思いませんか。

 聖書は、さまざまな文学の形式にのっとって書かれています。あるものは歴史、あるものは詩として書かれています。ひとつのことばの原語の意味にこだわることも大事ですが、全体の流れやつながりを見ることも大事です。
 特にある部分を文脈に関係なく切り取って、自分の願いや主張を練り込んで語ったり、読んだりすることは、キリスト信仰の大いなる歪みの原因になっていると思います。こういう読み方によって膨れあがったものがキリスト教という宗教なのです。
 
 魚や野菜にだって、そのさばき方や切り方には、その種類に従ったルールがあります。聖書の読み方もデタラメでは駄目で、理にかなった方法があるのです。つまり、それぞれの聖書記者の編集意図をとらえるということです。それぞれ独立した意図をもって、また別々の様式で書かれています。手紙は手紙、系図は系図、歴史は歴史、詩は詩として表現されています。そして同時に、聖書の他の箇所との整合性、全体を貫く、構造物の真柱である「イエスとはどのような御方で、何をなさったか」というテーマとの関連から読み解く必要があります。例えば、手紙であれば「いつ」「誰が」「誰に」「どこで」「何のために」書いたのかということです。それが、個人にあてたものか、教会にあてたものかによっても違います。5枚の便せんに書かれた手紙を3枚目の途中から読み始めたり、ある数行だけ書き写して残りは何を書いてあるか知らないというような読み方はしません。自分あての手紙を、自分が読むより先に誰かに読んでもらい、その意味を解説してもらうというような愚かなことはしません。そういうことは、実際あり得ないことだし、そんなことをしたら、差し出し人を馬鹿にしているとしか思えません。しかし、聖書に限れば、そういうことが平然と行われているのです。

 今日特に取り上げるのは、文学的手法としてのひとつの定型についてですが、これは手紙の中にも詩の中にも物語の中にも見られるものなので、知っていると参考になると思います。
 定型詩や定型文のスタイルのひとつとして、交差配列法(chiasmusカイアズマス)というのがあります。ギリシア語でキアスマスと言います。
 たとえば、「茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる」というような一文があったとします。これは漱石の「三四郎」の一節ですが、このように、文節や文章などをABBAのように反転させる方法をキアスマス(カイアズマス・交差並行法)と言います。この漱石の一文は最小単位の例ですが、このように言葉を反転させて繰り返しながら、読者に状況を効果的にイメージさせることに成功しています。さらにABCCBAというように、いくらでも複雑になります。
 さらに、真ん中に中心点になるXを置いてABCXCBAというかたちで定型をなす場合もあります。
 二つめの例をご紹介します。シェイクスピアの芝居の一節に「Fair is foul and foul is fair」(いいは悪いで、悪いはいい)というのがあります。これは「マクベス」の中の魔女の台詞ですが、andを中心にしてパラレル部が反転して、不思議な調子を作り出しています。
 これが、詩の中で複数の行数で行われる時はどうなるでしょうか。例えば4行の詩があるとすると、1行と4行が、2行と3行がそれぞれ一対になります。反転したパラレルになるわけです。このカイアズマスがもたらす反転パラレルは短文だけでなく、行や幾つかのまとまった段落の対置関係にも使われたりします。奇数行や奇数のまとまりになって、一番真ん中の行やまとまりが、折り返し点になるような構成になるのです。このような文章の構造は、日本人にとってはなじみの薄いものですが、実は聖書を理解する上で非常に重要な鍵のひとつです。
 創世記7章の「ノアの箱船」の記事を見てみましょう。(創世記7:4~8:10)

 1.7日間洪水を待つ(7:4)
  2.動物とともに箱船に入る(7:7~15)
   3.箱船の扉を閉める(7:16)
    4.40日の洪水(7:17)
     5.箱船浮かび上がる(7:18)
      6.山々まで覆う(7:19)
       7.150日間増え続ける(7:24)
        X.神はノアたちを心に留めておられた(8:1)
       7.150日の終わりに減り始め(8:3)
      6.山々の頂が現われ(8:5)
     5.箱船アララテ山頂へ(8:7)
    4.40日が過ぎ(8:6)
   3.ノアは扉を開いた(8:6)
  2.カラスと鳩を放った(8:7~8)
 1.さらに7日間水が退くのを待つ(8:10)

 中心は、折り返し点のXにあたる8章1節では、神がノアを心に留めていたことを印象づけています。そして、災いも救済もともに、神が計画し、神が執行されることを厳粛に物語って印象づけています。

 続いて、バプテスマのヨハネの受胎告知の場面を取り上げてみましょう。(ルカ1:6~25)
 
1.ふたりは神の前に正しく戒めと定めを落ち度無く行っていた(6)
  2.エリザベツは子が無く、ふたりとも年をとっていた(7)
   3.ザカリヤは、当番で祭司の務めをしていた(8)
    4.くじを引いたところ、神殿にはいって香をたくことになった(9)
     5.香をたく間、大勢の民は、外で祈っていた(10)
      6.主の使いが現われ香壇の右に立った(11)
       7.ザカリヤは不安を覚え恐怖に襲われた(12)
        X.御使いの受胎告知(13~17)
       7.ザカリヤは御使いを疑った(18)
      6.ガブリエルが、主の命だと告げ、
       信じないから、誕生まで話せなくすると言われる(19          ~20)
     5.香ををたくザカリヤが暇取るので、人々は外で不思議がっ      た(21)
    4.聖所から出たザカリヤは、口がきけなくなった(22)
   3.ザカリヤは、祭司の勤めの期間を終え、家に帰った(23)
  2.エリザベツは身ごもり、5ヶ月引きこもっていた(24)
 1.エリザベツは、主が自分に心をかけて下さったことを述べた(25)
 
 この箇所では、中心のXは御使いガブリエルのことばになっています。ガブリエルのことばはちょうど13~17節まで5つあって、その真ん中の15節が、意味的にも核を成すようになっています。面白いでしょう。

 聖書は長い間、現代のように、ひとりひとりが手にとれる紙の本ではなく、羊の皮に書かれて巻物にされていた時代がありました。章や節といったものが便宜的につけられるようになるのも、ずっと後のことです。また、紙の本になってからも、民衆が自分のことばで自分の聖書を手に持って読めるようになるには、長い時間を待たねばなりませんでした。ですから、こうした神の知恵と配慮によって、話のまとまりや内容が分かりやすいように効果的に書かれていたことを知ることは、とても大事なことだと思えるのです。
 多くの教会の中では、好きなことばを適当にぶつ切りにして使用しています。しかし、聖書は本来文脈の中で読むものです。ディデイルにこだわりすぎてもいけません。このキアスマスという構造は、人が勝手に中心点や焦点がぼけさせることのないようにされた神の配慮です。何が大事かは明らかなのです。聖書が語っている以上のこと、聖書が語っている以外のことを、読み取ったり、語ったりするのは大きな罪です。

 10月は「刈り取り」にまつわるお話をしました。ヤコブとダビデを例にあげましたね。そんな刈り取りに関するパウロのことばからキアスマスの例を確かめましよう。(ローマ2:6~11)

1神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになり ます(6)
 2忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者に  は、永遠のいのちを与え、(7)
  ×党派心(自己中心)を持ち、真理に従わないで不義に従う者に    は、怒りと憤りを下されるのです。(8)
  ×患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行な     うすべての者の上に下り、(9)
 2栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行な  うすべての者の上にあります(10)
1神にはえこひいきなどはないからだ(11)
   
 6節の「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになる」と11節の「神にはえこひいきなどはないからだ」は対になっています。この部分は神の公正さが語られています。
 7節の「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え」と、10節の「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にある」は対になっています。忍耐をもって善を行うことと、不滅の価値を希求することの関連が語られています。
そして、8節の「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下される」と9節の「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下る」も対になっています。この部分が核であり、真理に従わない悪を行なう者について語られています。
 この箇所を読むだけでも、アメリカのキリスト教の価値観に根ざした対イスラエル政策や、日本の親ユダヤ的な教会のあり方の偏りは見えるわけです。
 ローマ2章では、パウロは裁きについて語っていますが、要点は、「お互いを裁く必要はない。神が公正に裁かれるから」ということです。かなり繊細な内容ですが、この部分を読むと、神はえこひいきはなく、きちんと正しく裁いてくださるのだということが印象深く伝わって来ます。だから、私は神様の正しい裁定に期待して先走って誰とも無意味に争う気はありませんが、「正しく聖書を読みましょう」という発進は静かに続けていきます。

 このように、一人ひとりが構造的に、論理的に聖書を読んでいくことは、何にもまさって大事だと思っています。「知ってるつもりの人」も「知らない人」もです。むしろ既に信仰がある方々こそ、このような視点でみことば全体を鳥瞰する力をつけることが必要です。信じている人が信じていない人に語るとき、「ある断片を自分が信じているから正しいはず」という類の情報にはほとんど説得力はありません。
 一人ひとりが自分の責任で神のみことばを扱うとき、愚かなリーダーのミスリードを受けるリスクは軽減されますが、みことばのいいとこ取りをして、勝手気ままな「信仰ならぬ思いこみ」を増長させる危険も大いにあるからです。みことばのどの部分に何が書いてあって、それは他の箇所とどのような論理的な整合性があるのかをきちんと理解していることが大事です。

 そして、イエスという御方としっかり出会うことです。この御方を知っていれば、身勝手な読み方の間違いはわかります。この御方にふさわしくない断片は本質からずれているのです。そういうものには、本当にイエスと出会った方なら「何か違うぞ」と、内におられる聖霊は「アーメン」しないはずです。そういう違和感を、大切にしていただきたいと思います。