2007年7月28日土曜日

7月22日 獄中の賛美


パウロはテモテに割礼を施しました。私は最初にこの箇所を読んだとき、「あれ」と思いました。割礼の慣習にこだわるユダヤ人を喝破しておきながら、いとも簡単に妥協しているではないかという印象を受けたからです。しかし、この後のパウロの言動や、晩年のテモテにあてた2通の手紙を見ると、パウロにとってテモテはどれほど大事な存在であったかということがわかります。そして、パウロは、「キリストにある自由」を本当に豊かに用いた人なのだとわかります。テモテが割礼を受けているかいないかなどは、パウロにとってもテモテにとっても本当にどうでもよいことでした。「割礼を受けなくてよい」ということは、「受けない」ほうが正しいという考え方に縛られることでもなく、「どうでもいいんだから、別に受けたっていい」ということも含んでいるのだとパウロは示したのです。割礼を受けないことで、相手の弱い良心と信仰をつまずかせるより、割礼を受けて後の良い関係を作るほうがよいだろうと考えたのでしょう。ガラテヤ人への手紙では、アンテオケにおいて、割礼のことで妥協したペテロについて激しく批判したことが書いてあります。ですから、パウロがテモテに受けさせた割礼がペテロのようにユダヤ人を恐れた妥協ではないことは明らかです。パウロの思いはこのひとことに尽きるでしょう。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)クリスチャンにとって大事なことは、この新しい創造の基準、すなわち、よみがえりのいのちによって歩んでいるか否かです。
「自由・自由」と口で言う人はたくさんいますが、本当に解放された自由な生き方を見せられると、けっこうとまどうものです。はっきり言って、それを見てとまどう人は本当の自由を得ていないのです。たとえば、KFCのルークさんは、自身がカリスマ化されることを嫌って、あえて「酒を飲んだ」だの、「映画を観た」だの、「プールやサウナですっきりした」だの「温泉が楽しみだ」だのと書いておられます。それは、確信犯的な自由の提言であって、「真理が人を自由にしたひとつのかたち」を示しておられるわけです。彼の日々のコメントを読んで、いろんな刺激を受け、自らを振り返る方は多いと思います。
しかし、「そういうのがお洒落なんだ」「それがホントのクリスチャンライフなんだ」と思いこんだりすると、今度はそうしたゆがんだ 基準でしかものが見えなくなり、今度は一見堅苦しく見えるけど、本当に解放されている人たちを見下したりする危険性も出てきます。 同じいのちに生きる兄弟姉妹でも、パウロのような人もいれば、バルナバのような人もいます。そして、マルコのような人もいます。さらに、テモテが割礼を受けなければ、いつまでも「彼のお父さんはギリシャ人だ」とこだわってしまうユダヤ人の兄弟だっているのです。パウロは、テモテに割礼を受けさせることで、そういうユダヤ人の信仰の弱い兄弟たちのつぶやきを消したのです。ですから、パウロがテモテに施した割礼は、人間的な妥協ではなく、与えられた自由な決定を聖霊が指示した結果だと見ます。その後の展開を見ても、「アジアでみことばを語ることを聖霊が禁じた」(使徒16:6)という表現や、「ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」(使徒16:7)という表現から、パウロの伝道の道のりが、完全な聖霊のみちびきにのっとったものであることが伺えます。それは、その辿ったコースだけではなく、その先々でのパウロの言動もまた、聖霊とともにあったと言えるでしょう。パウロはマケドニヤ人の幻を見て、アジアからマケドニヤへと完全に方向を転じることになります。パウロは確信を持って進んで行ったと記されています。
そのような聖霊の導きの中にありながら、妨害され、鞭打たれ、投獄されます。こういう状況で、人はいったい何を考えるでしょうか。おそらく、「みこころでなかったから戒められているんだろうか」というような過ぎたことについての葛藤や、「何でこんなことになるのか」という現状に対する不満や、「これから先どうなるのだろうか」と未来への不安などが、心に渦巻くことでしょう。しかし、パウロとシラスの心に沸き上がってきたのは賛美でした。彼らのまなざしは囚われた自分自身にではなく、神さまに向けられていました。ただの賛美ではありません。この賛美はただのゴスペルミュージックでも、礼拝の式次第の中の賛美ではありません。彼らは「祈りつつ」賛美を歌っていたのです。(使徒16:25)
賛美と地震の因果関係はわかりません。ある人々は、パウロとシラスの賛美と祈りの力が地を揺り動かしたのだと言うでしょう。でも私は、パウロとシラスが解放を求めて祈ったり賛美を歌ったりしていたのだとは思えません。むしろ、最善以下のことは決してなさらないはずの神が、みこころに従っている自分たちをあえて鞭打たせ、あえて獄につないだからには、何かがそこであるはずだと信じていたと思うのです。その証拠に、大地震がおこっても、とびらが開いて鎖がほどけても、驚きもせず、「今こそチャンスだ」とばかりに牢から逃げたりもしません。神のみこころの中にいる人たちは、どのような状況であろうと、神が神であるというただそれだけの理由で賛美できるのです。これは単なる私の偏見にすぎませんが、パウロとシラスの賛美が音楽的にとびきり素晴らしいものだったとは思えません。しかし、ほかの囚人たちが聞き入るような崇高な何かが感じられたのです。なぜ、そう考えるかというと、ただ音楽的に優れていただけなら、真夜中に歌われると、「やかましい」と感じるのが普通だからです。真夜中に聞かされてもやかましいと感じさせない何かがあったと考えるのが自然です。
さて、そこに突然の地震です。このような状況になれば、囚人は看守の目を盗んで逃げ出すものと決まっています。牢のあいたとびらを発見するや、看守は自害しようとしていました。パウロは大声で叫んでそれを止めます。この看守の自殺を免れただけではありません。パウロの語る福音を信じたことによって、彼と彼の家族全員が救われたのです。すばらしい証です。もし、彼が自害していたら、残された家族は何とみじめだったことでしょう。殉職と言うにはあまりにも馬鹿馬鹿しい死に方です。囚人が逃げてもいないのに、逃げたと思い込んで自らいのちを絶つのです。そんな間抜けな主人を失った妻子は、憐れとしか言いようがありません。しかし、彼は信じました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)家族全員の永遠の運命を変えたみことばです。
この素晴らしい出来事は、「獄中」でおこりました。これらの証のために、パウロとシラスは鞭打たれ獄につながれる必要があったのです。この獄中ということで、もう少し考えてみます。
新約聖書は、わたしたちのからだを「聖霊の宮」「神殿」また「幕屋」であるという表現を繰り返し使っています。それは、「私たちの存在の本質はからだではない」という意味と、「その本質を宿すからだも大切なものである」という二重の意味があります。からだがそれ自体汚れているとか、いないとかとは、全く別の次元の問題として取り上げています。  反面、旧約聖書の中には、「人間はただ生きているだけでその存在自体が汚れている」ということを意識させるような律法が細かくあります。それは、その人物がどういう人物で何をしたとか、しなかったとかいうこととは関係なく、「生まれながらの人間はそのままでは神に近づけない」ということを教えるためのルールでした。アダムの契約違反によって、人は善悪を知り、己の裸を知り、いのちへの道を閉ざされたのです。このように見てくると、ユダヤ人たちがきよめの儀式にことさらにこだわったのも、それなりの理由があったということがおわかりいただけるでしょう。この新旧の聖書の基準には何の矛盾もありません。当然ながら、神は全く同じ、変わらないきよさを保っておられます。神は、旧約では動物の血を、新約ではキリストの血を見ておられるのです。神は人間の心の動機や暮らしの隅々を、深い関心を持って見つめておられますが、きよさという点で人を評価されることはありません。人は生まれながらにきよくないのです。きよくないから、何の関係もない動物の血が必要なのです。人間が汚れを取り除くためには、無数の動物の血を必要としました。しかし、その動物の血が象徴していた神の子羊イエスの血が流されたことによって、生けにえは必要がなくなったのです。イエスさまは、世の罪を取り除く神の子羊ですから、イエスさまの血潮によって、もう罪は除かれているのです。ですから、罪や汚れという問題の葛藤へと陥るのは、十字架の意味が何もわかっていないのだと言えます。
さて、ただ一度の贖いのために、父なる神は「なだめの供え物として」の御子を世にお与えになりました。父は御子を十字架に架け、苦しみを与えるために肉体を与えたのです。永遠の神のロゴスなる御方が、人となって、肉体を持たれたとも言えます。「ことばは人(肉)となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)これは、幕屋を張られたという原語なのだと何度か申し上げているとおりです。神が肉体という牢獄につながれてくださったのです。それが人の子イエスの姿です。無限の御方が、人として時間や空間的制限を受け、みことばに服し、聖霊に導かれ、みこころの中を歩むがゆえに、人から侮られ、妨害され、そして鞭打たれ、それでもあえて肉にとどまってくださったのです。しかし、イエスさまは鎖につながれてはいませんでした。その門はいつも開かれていました。この御方は肉体の中にありながら、完全に自由でした。もうすでにおわかりのように、獄中のパウロたちの姿は、肉体を持たれたイエスさまの姿と重なって見えます。そして、自害をとめられた看守は私たちの姿です。私たちの家族も救われなければなりません。そのために、「救われるために主イエスを信じる」という意味をしっかりとらえる必要があります。
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10:19~20)この道を通ってまことの聖所へはいることが、まことの救いです。
パウロは、肉体という幕屋にいるときの「うめき」や「重荷」について語り、さらに、「肉体にあってした行為応じて報いを受けること」を語っています。(Ⅱコリント4:16~5:10)また、「私たちが肉体にいる間は、主から離れている」(Ⅱコリント5:6)と言っています。 肉体にある状況は、決して喜ばしいものではなく、それは肉の目には「神殿」ではなく、「牢獄」です。だからこそ、私たちは見えるところによってではなく、信仰によって歩むのです。それこそが、牢獄の中の本当の賛美です。

7月15日 聖霊と私たち

使徒15章は、一般に「エルサレム会議」と言われている内容がその中心を占めています。ペンテコステから約20年、そして、異邦人が教会に受け入れられてから10年目くらいのことだと考えられています。ペテロが見た幻の中で示されたことは、異邦人を割礼なしで受け入れるということでした。ペテロから直接証を聞いたリーダーたちは、その事実を受け入れ神をほめたたえたことが記録されています。(使徒11:18)しかしながら、ユダヤ人のあるグループの者たちは、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていました。(使徒15:1)これは、この時代のこの問題に限ったことではありません。ここには、ふたつの大きな問題を孕んでいます。そのひとつは、「偏った教条・教理への頑なな固執」です。もうひとつは、「救いに関して十字架以外の何かの条件を付加する」ということです。この種のとんでもない間違いを、教会はその約2000年にわたる歴史の中で、延々繰り返し続けているのです。このときのポイントは、「モーセの慣習に従う」ということでした。そして、それを言い出すのはユダヤ人です。「律法の精神を守る」のではなく、「モーセの慣習に従う」という表現になっていることにも注目です。三島由紀夫は、「習慣は精神を凌駕する」と言っていますが、それは信仰にも当てはまります。人は容易に教条に支配され、形式にはめ込まれる弱さを持っています。そして、それは宗教的習慣となって、批判力や思考力を麻痺させるのです。こういう群衆の弱さを政治家や為政者たちは利用するわけです。コミュニストたちがよく言う「宗教はアヘンである」というのはまさにその通りなのです。
そして、サタンは、自分たちの救われる前の何かや、少しでも他の者よりも優位に立てる何かを盛り込ませようと、人の自尊心を刺激します。ユダヤ人にしてみれば、自分たちが軽蔑していた異邦人が、自分たちと同列に置かれることが喜びというよりは不快なのです。しかし、「それは喜ぶべきことである」という建前があるので、異邦人との差別化を図るために、救われる前に、まずユダヤ人並になるべきだと要求するのです。 これは非常に大きな問題です。十字架はすべてのものをひとつにするのです。ユダヤ人と異邦人の間の隔ての壁をぶちこわすのが十字架です。福音は、知識のある人にとってもない人にとってもローマ人にも未開人にも有効です。 ですから、信じる前の状態を強調して、キャンペーンを行ったり、グループを形成するのは、聖霊が導かれることではないというのが、私の強い意見です。ミッション・○○など、元○○だったことを「売り文句」に使ったり、過去の何事かを人間的な結束のよりどころにしようとするのは大間違いだと思っています。もちろん同じつらさを体験した人たちが、その痛みを分かち合うのはすばらしいことだし、そんなつながりの中で人が救われる可能性は高いでしょう。そういうことを否定しているのではありません。福音書を書いたマタイが救われたとき、彼は大きな宴を開きました。彼の主催だからこそ、多くの取税人が集まったでしょう。しかし、彼は取税人なかまのためにそのパーティ―を開いたわけではありません。「イエスのための大ぶるまいをした」(ルカ5:29)のです。最初の弟子たちの仲にガリラヤ漁師組合とか、売春婦同盟とか、そういうのはありませんでした。私たちの集まりだけが唯一正統などという主張もあやしいものです。コリントの手紙には、「私はパウロにつく」「私はケパにつく」というグループだけでなく、「私はキリストにつく」という人々も分派と見なされています。私たちカナン教会のスタイルは、イエスさまを心から信じて、十字架を受け入れ、あたらしいよみがえりを経験している人は、どこの人であれ兄弟姉妹であり、神の家族として受け入れるというものです。逆に、十字架以外の要素を持ち込み、「霊とまことの礼拝」を乱そうとする人は、どんな肩書きをもった方であろうと、ご遠慮願います。
また、世襲牧師が、他人の献金に支えられる生活をしながら、「自分は立派な献身者で、自分の生活を支えてくれている兄弟姉妹は世俗の手垢にまみれている。自分が相談にのったり、お世話をしたりして、面倒を見てあげるのだ」と、主にあって家族とされた兄弟姉妹を一段下に見て関係性を構築する様子は、あるべき教会の姿とは全くかけ離れています。そして、こういう職業的世襲牧師の発想の根源は、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」(使徒15:1)というのと全く根は同じです。「神学校に行かなければ牧師になれない」「仕事をやめなければ献身できない」と主張している人が、聖会などで「献身」を呼びかけることがありますが、私はいつも、全員が手を挙げたら、一体誰がこいつの生活を保障するのだろうと心配になります。こういう心配のために、教団組織から給料を出すようになるわけです。リーダーたちは、主に信頼するのではなく、そのシステムに信頼するようになります。そして、主に献身するのではなく、教団に就職する人たちが出てくるわけです。
こういう愚かな主張をする人たちと、パウロやバルナバとの間に激しい対立と論争が生じるのは当然のことです。パウロとバルナバは自分たちの考えではなく、主がしてくださったことを証します。ところが、パリサイ派で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また律法を守ることを命じるべきである」と言いました。
このさらなるパリサイ派の反発がきっかけになり、使徒たちと長老たちは、おおまかな信仰のアウトラインを出すことになりました。ここで、決められた項目もさることながら、このとき、ペテロが語ったことばは非常に重要です。このペテロの発言の前にも激しい論争があったのだとルカは書いています。(使徒15:7)しかし、ペテロのメッセージで全会衆は沈黙してしまいました。(使徒15:12)ルカは激しく交わされた論争のすべてを割愛し、ペテロのことばだけを記録しました。ペテロは、非常に平易なことばで、本質を語っています。「兄弟たち。ご存じのとおり、神ははじめのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたのと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(使徒15:7~11)大事なことが3つあります。1つ目は、すべての兄弟姉妹は同じように聖霊を与えられており、そこには何の差別もないということです。もちろん、この世における社会的地位や能力や財産などには、驚くほどの差があり、教会の中での役割にも違いはありますが、すべての兄弟姉妹に同じ聖霊が差別なく与えられているということです。2つ目は、すべての兄弟姉妹の心は、神の御目がご覧になったとき、完全にきよめられているということです。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」(使徒10:15)のです。その事実から離れると、人は「邪悪な良心」と呼ばれるものに蝕まれます。そして、かつてペテロも口にしたことば、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)というような身勝手な謙遜に陥るのです。そういう自己の内面を見つめる戦いからは解放されるできなのです。3つ目は、すべての兄弟姉妹は、例外なく100パーセント恵みによって救われたのです。恵みが15パーセントの人も、85パーセントの人もありません。サタンは、「十字架も有効だが、あなたの何かも必要だ」と必ず言うのです。しかし、それは間違いです。十字架のみわざにあなたのわずかな何かをつけたそうと考えることは、何も信じていないのと同じくらい間違っているのです。例えば、一流の料理人が最高の料理をふるまってくれたとしましょう。あなたは、さらにそれに何かを加えて味付けしたいと思いますか。バッグの中から塩こしょうや味の素を出して、料理にふりかけ始めたら、これは料理人にとっては、耐え難いほどの侮辱ではないでしょうか。そして、ユダヤ人の提案は、「自分たちが負いきれなかったくびきを、他人の首に掛けるようなもので、それは神を試みることになる」とペテロは言っています。人は、自分の負っているものを他人にも負わせようとする傾向があります。自分が何かを我慢している人は、また、ずっと我慢してきた人は、他人にもそれを強要しようとするし、自分が耐えてきた分をプラスに評価しようとするものさしを手放そうとしないものです。それは、放蕩息子のお兄さんの弟に向けられた冷たいまなざしの中に表現されています。解放されていない牧師の病気に巻き込まれると、教会中がそのくびきを負わされることになるのです。私たちはひとりひとりがキリストのもとに行き、自分の荷をおろすべきです。そして、キリストのくびきを負うのです。
この会議で決められたことは、聖霊の導きと承認によることがはっきり書かれています。その決定責任の主体は「聖霊と私たち」(使徒15:28)です。その内容は、旧約聖書の律法の細かい規定とはかけ離れた、とても大まかで寛容なものでした。異邦人には割礼は不必要であるということ。そして、異邦人世界では普通に行われていた偶像礼拝と不道徳を避けることです。(使徒15:29)この決議内容のポイントは、「これを守れ」ということではなく、「どんな重荷も負わせない」ということです。(使徒15:28) 真理は常に信じる者を解放し、本当の自由へと導きます。聖霊の働かれるところには、自由があるのです。  その自由は、時としてすばらしい信仰をもった有能なリーダーが反目するというかたちうで現れたりもします。(使徒15:36~41)パウロとバルナバがヨハネに対する評価でもめたことを、ルカはわざわざ記しています。そのことで、エルサレム会議での衆議一決がシャンシャンと決められたのではなく、本当に高い次元の「聖霊」の一致によったものであることを現し、同時に、パウロとバルナバの選択がいずれも、明らかに間違いとは言えない「私たち」の側の選択の幅であることを伝えてくれているように思います。パウロとバルナバは、ともに主のみこころを選んで生きる人たちですから、いつまでも反目してはいません。後のパウロの手紙の中には、バルナバやマルコを受け入れ、主にあってともに労している姿を証することばがあります。(Ⅰコリント9:6,コロサイ4:10)
人間というのは、絶対妥協してはいけない部分ではだらしなく寛容になり、逆に赦ししあい受け入れあわならなければならないところで、対立しては、憎しみを募らせるものです。新約聖書がなかった時代に、初期の兄弟姉妹たちが、聖霊のみちびきに従った結果、今日の真理が保たれ、66巻の聖書が成立していることに驚嘆します。私たちが与えられた自由を、聖霊の働きを妨げることに用いないようにしたいものです。

2007年7月12日木曜日

7月8日 自分の足でまっすぐ立ちなさい

パウロとバルナバのふたりは、ピシデアのアンテオケを追い出され、東へ約80キロ離れたイコニオムへ移動します。ここでも、大ぜいの人たちが信仰にはいりました。しかし一方では、「信じようとしない人たち」がいました。(使徒14:1~2)13章で、「自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めた」(使徒13:46)「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った」(使徒13:48)というふたつの文から、みことばが聞いた人々を二分したことを見ましたが、ここでも状況は同じでした。これらの記事を見るとき、まっすぐに語られたいのちのことばは、心地よく聞き流せるようなものでも、すべての人に歓迎されるようなものでもなく、聞く人たちを混乱させる結果を招くことがわかります。聖書の真理に対して、ある人々は激しく反発し、攻撃するようになるのです。
そのことを検証するため、ヨハネの福音書からいくつかの具体的な場面を四箇所見てみます。人々は、イエスさまが奇跡を行っているときは、人々は次の奇跡を待ち望みました。また、道徳について語られると「それはよい話だ」と耳を傾けました。しかし、悔い改めやいのちに関する本質的なことについて話が及ぶと、今まで喜んで聞いていた人たちが、見事なほどに混乱する様子が描かれています。イエスさまがメッセージの核心に迫られると、直ちに、議論が巻き起こり、激しい対立が始まるのです。
例えば、イエスさまがパンの奇跡をなさって、その意味について解き明かされた場面ではどうでしょうか。「パンの奇跡は、ただ飢えた者の腹を満たすことが目的ではなく、まことの食べ物はイエスご自身の肉であり、まことの飲み物はその血であるということを教えるためなのだ」という趣旨の解説をされました。聞いていた人たちの反応は次のとおりです。「すると、ユダヤ人たちは、『この人はどのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることが出来るのか。』と言って互いに議論した」(ヨハネ6:52)さらに、「そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておれようか。』」(6:60)と反発します。そして、「こういうわけで弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」(6:66)と書かれています。
また、イエスさまが後に注がれる御霊について証されると、ここでも分裂が起こりました。「このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、『あの方は、確かにあの預言者なのだ。』と言い、またある者は、『この方はキリストだ。』と言った。また、ある者は言った。『まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る。と聖書が言っているではないか。』そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。」(7:40~43) 
生まれつきの盲人が癒された場面でも、盲人が見えるようになったことを喜ぶのではなく、そのことが安息日であったかどうかにこだわって分裂が起こります。「すると、パリサイ人の中のある人々が、『その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ』と言った。しかし、他の者は言った。『罪人である者にどうしてこのようなしるしを行うことができよう』そして、彼らの間に分裂が起こった」(9:16 )
そして、イエスさまが自分からいのちを捨てるのだと語られたときにも、当然分裂が起こりました。「このみことばを聞いて、ユダヤ人の間にまた分裂が起こった」(10:19)
これらのイエスさまを取り巻く人々の反応を見ても、パウロとバルナバの伝道の結果を見ても、いずれの場合も、真理が語られることによって、それを聞いた人たちが見事に二分されているとがわかります。真理に従う人たちには自由が保障され一致が生まれますが、その裏側では、真理に従う人たちに敵対することによって偽りの一致が生まれる構図があることがわかります。(使徒14:4)
おそらく、ルカは福音書に記したこのイエスさまのことばを思い返したはずです。「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるために来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」(ルカ12:49~53)
 イエスさまが投げ込んだ火とは何でしょうか。イエスさまは、それが燃えていることを願っておられるのです。ルカの福音書の文脈から見れば、それは、「目を覚ましていること」(ルカ12:37)「主人の心を知り備えをしていること」(ルカ12:47)とつまがります。つまり、そこに聖霊の支配があり、具体的に信仰を働かせているということです。そして、そこに分裂がおこるのは、生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れる事が出来ないからです。(Ⅰコリント2:14) 私たちがこの世の知恵ではなく、御霊のことばを語るなら、生まれながらの人間は、これに強く反発します。逆に言えば、生まれながらの人間が葛藤もなく、反発もせず、心地よく聞けたり、聞き流したりできるとしたら、それは、御霊のことばではなく、この世の知恵なのです。パウロとバルナバは、御霊のことばを語っていたので、信じる人たちも獲得しましたが、同時に彼らをはずかしめ、殺そうとする人たちも現れます。(使徒14:5)  ルステラで生まれながらに足のきかない人がいました。この人はパウロの話に耳を傾けていました。そして彼に「いやされる信仰があるのを見た」のです。 パウロは、大声で言いました。「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」(使徒14:10)生まれながらに自分の体重を支えたことなどない足です。きっと筋肉もなく、細くて短くて弱々しい足です。誰の目にも、とうてい使い物にならないと見えたに違いありません。信仰ということを無視すれば、自分の力で一歩も歩んだことのない人に対して、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」ということばはあまりにも思いやりを欠いた残酷なものです。ところが、「彼は飛び上がって歩き出した」(使徒14:10)と書いてあります。ゆっくりよろめきながら、歯を食いしばって立ち上がったのではなく、飛び上がって歩き出したのです。この後、群衆はパウロとバルナバを祭り上げる大騒ぎをしますが、そんな気持ちになるほどの奇跡でした。
「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」ということばは、もちろん、このとき、この男に対して、個人的に語られたことばです。しかし、私は主がすべての信じる人たちに語っておられるように思えるのです。イエスさまは、38年間病気だった男には、「よくなりたいか」とおたずねになり、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われました。また、生まれつきの盲目の人には、その目に泥を塗り、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と命じられました。これらの例には共通点があります。すべてのことは、主がしてくださいます。いっさいが恵みです。しかし、信仰はただ受け身ではないのです。信じた者は、自分が信じたことを表現する必要があります。神は私たちをずっと受け身でいさせるようなことはありません。信仰は「たなからぼた餅」のような祝福を受けることではありません。よみがえりのいのちによって立ち上がり、イエスさまとともに歩むことです。
いつまでも、自分の足で立とうとしない人がいます。その人は、自分の足がいかに不自由かを詳しく語ります。今まで自分は一度も自分の足で立ったことがないし、まっすぐになど立てるわけがないと考えています。そして、「誰かが自分を支えて立たしてくれたらいいのに」「誰かが手を引いてくれるべきだ」と思います。そして挙げ句の果てに、「神さまは自分をこんな足にして、その上、立たせてもくれない」と言うのです。これでは、全く状況は変わりません。自分の現状から出発して考えていたのでは、足なえはいつまでも歩けず、依然として病気は治らず、死ぬまで目は見えないままです。すべてはみことばから出発し、みことばの約束を握って一歩踏み出すことです。私たちは萎えた足で立ち上がることができます。一歩も歩いたことのない足で、飛び上がり走り回ることができるのです。自分の中の可能性はゼロです。ただ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」という命令に力があるのです。それが主によって出来ると信じれば出来るのです。信仰というのはそういうことです。丈夫な足で飛び上がってもそれは、丈夫な足の力です。一歩の歩いたことのない萎えた足で飛び上がり、歩き出すから、それは主の力なのです。
その奇跡を見た群衆は、パウロとバルナバにいけにえを捧げようとしました。それは、間違っていました。癒された本人には信仰がありましたが、それを見ていた群衆には信仰がありませんでした。確かな主のわざを見ても、それが正しく理解され、評価されるわけではありません。生まれつきの人間は、現象を賛美し、人間を崇拝します。目に見えるものにしか反応できないのです。
イコニオムでは石打を逃れたパウロとバルナバでしたが、ルステラでは、そういうわけにはいきませんでした。神様扱いされて、的はずれな賞賛を受けたかと思えば、群衆に囲まれ、石打にされ、死ぬほどの目にあっています。(使徒14:5~6,19)これは、とても不思議です。神様はいつも災いから守ってくださるわけではありません。パウロは、この問題に関しては、次のように語っています。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14:22)私たちが聞いた福音は、家族を分裂させ、多くの苦しみを経験させるものです。本当に聖書が語っていることは、調子の良い人集めのキリスト教が言っていることと何と異なっていることでしょう。私たちが語らなければならない福音は、イエスご自身です。それは、人となられた神の御子キの人格なのです。イエスさまという御方から切り離された祝福や恵みではありません。哲学でも道徳でもありません。教えではなくいのちなのです。
アンテオケに戻ってきたパウロとバルナバから、残っていた弟子たちは、異邦人に信仰の門を開いてくださったという報告を受けました。(使徒14:27)しかし、弟子たちはその嬉しい報告とともに、石に打たれた痛々しいあざや傷跡を、ふたりの顔やからだに見たはずです。パウロは晩年に、この時期を振り返ってこう語っています。「また、アンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ:11~12)
ですから、時に、逆風が吹き荒れ、つらい思いをするのも当然なのです。しっかりその中で、立ち上がり、イエスさまとともに歩みましょう。信仰の力が無力に感じるときがあるからこそ、パウロは「しっかりと信仰にとどまるように」勧め、弟子たちの心を強めたのです。(使徒14:22)

7月1日 イエスの証人

 初代教会は、ステパノの殉教に続く迫害を受けて、その難を逃れるかたちで、福音をユダヤとサマリヤに伝えました。その結果、それぞれの町に信じる者たちの集まりが出来始めました。その頃、迫害者パウロは、ダマスコの途上で目からうろこの回心を果たし、一方、ペテロによるローマのは百人隊長コルネリオとの出会いで異邦人への救いの計画について目が開かれました。 イエスを信じる弟子たちの群れは、シリヤのアンテオケで、「キリスト者」と呼ばれるようになり、次第に大きな影響力を持つようになりました。そして、町ごとの集まりは、それぞれの力に応じて助け合う交わりを持ち始めました。使徒13章は、そのような背景の下、エルサレムへの救援物資を届ける任務を終えて戻って来たバルナバとパウロが、休む間もなく、さらに新しい任務に遣わされるところから始まります。(使徒12:25)それは、本人たちの意思を超えた完全な聖霊の導きでした。(使徒13:2)いよいよ第一次伝道旅行の始まりです。  これから、たくさん地名が出てきますので、頭の中におおよその地図が描けるようになっておくと、読んでいて臨場感が増すと思いますので、簡単に示しておきます。一度に全部は覚えられませんが、知らない地名が出てきたら、どのあたりかなと地図で確認してみてください。さて、シリヤ領のアンテオケが、これから伝道の拠点になっていきます。バルナバとパウロは、地中海に浮かぶバルナバの故郷キプロスに渡り、さらにパンフリヤのペルガに入り、ピシデアのアンテオケへ移動します。これらの町は現在のトルコ領です。出発したアンテオケはシリヤですから、同じ名前ですが実は別の場所です。いずれも、セレウコス・ニカトルが父親のアンティオコスの名前にちなんで建てた町です。この13章のメッセージは、ピシデアのアンテオケのユダヤ人シナゴーグで同胞のユダヤ人向けに語ったものです。パウロは2週にわたってメッセージをしますが、2週目にはほとんど町中の人が集まり、ここでみことばを拒否するユダヤ人と受け入れる異邦人とに二分され、そこに住むユダヤ人たちに見切りをつけたバルナバとパウロは、さらにイコニオムへと進みます。21世紀の日本に生きる私たちが、バルナバやパウロの華々しい活躍ぶりを見ると、彼らの信仰の素晴らしさや賜物の豊かさに圧倒されるかもしれません。しかし、私たちも彼らと同じいのちを共有し、同じ聖霊をいただいています。今日は「イエスの証人」というタイトルにしましたが、バルナバやパウロをはじめ、私たちクリスチャンがイエスの証人たり得るのは、イエスさまの約束のみことばが支えているからです。イエスさまご自身が語られた重要なみことばの約束を確認します。
「そこで、イエスは聖書を悟らせるために彼らの心を開いてこう言われた。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、3日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』」(ルカ24:45~49)「イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお決めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた」(使徒1:8)
私たちは「イエスの証人」です。それは、私たちの資質や努力によるのではありません。すべては神さまの召しと聖霊にかかっているのです。宣教を支えるのは、教会の組織力でもなく、ペテロの積極性でもバルナバの寛容さでもパウロの才能でもありません。大事なのは、聖霊の力です。使徒の働きに展開していることは、これらのイエスさまのみことばの成就なのです。バルナバとサウロ(パウロ)を遣われたのは、聖霊がそう言われたからです。資格試験をしたり、話し合いをしたりして決めたわけではありません。(使徒13:2,4)サラミスでエルマという魔術師を叱責したことも、人間的な対立や感情によるものではなく、聖霊による憤りからのものでした。(使徒13:9)パウロの激しいことばは、エルマという人物の本質を捕らえ喝破しています。これは、パウロの並はずれた知識や豊富な経験から得た洞察ではなく、ただ聖霊に満たしによって、エルマの霊を見抜いたのだとわかります。
エルマは、神のことばを聞きたいと願っていた地方総督セルギオ・パウロを、信仰から遠ざけようとしていたのです。(使徒13:7~8)みことばのあるところには、常にそれを聞きたいと願う人たちと、それに敵対する人たちがいます。(使徒13:42,45)人間的な性格がどうとか、好き嫌いとか、そういうものを遙かに超えた関係性が露わになります。みことばを拒む人たちは、その自らの意思決定によって、「自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者」と決めるのです。(使徒13:46)一方、信じる人たちは、自分たちが「永遠のいのちに定められていた」(使徒13:48)ことを感謝します。この救いと選びに関するふたつのみことばは同じ事実について語っています。それは難しい教理ではありません。それは、神が決めるのではなく、証人の証の上手・下手や熱心・不熱心が決めるのでもありません。みことばを聞いた当人が自分の意思で受け入れたり、拒んだりするのです。聖書の最重要事項は、イエスを信じるか信じないかという、たったそれだけの極めて簡単な意思決定によるのであり、それがすべてです。
救いにはふたつの側面があります。ひとつは、罪からの解放であり、もう一つは、この世からの解放です。聖書の中では、罪からの解放は、出エジプトで表現されており、世からの解放は、カナンの相続で表現されています。私たちは、罪の赦しを受けてもなお、自分の資質や賜物、状態にこだわっていることが多いものです。これは「世の領域」のことです。そういうところにいつまでもとどまっていてはいけないのです。私たちが依然として自分にこだわっているなら、シナイ山のまわりをいつまでもグルグル回っている荒野でいのちを落とした人たちと同じです。こういう状態にとどまる人たちを神さまは怒っておられるのです。(ヘブル3:17)ヨシュアとカレブのように、約束の地で具体的に勝利を得るためには、信仰によってそこから抜け出す必要があります。ヨシュアとカレブは、自分たちの力を過信したのでも、とびきり勇気があったのでもありません。彼らとて、みことばの約束がなければ、おじけづく要素は目の前にいっぱいあったのです。ただ、勝利を得たふたりは、そういう自分や自分のまわりのマイナス条件を全く考えなかったのです。そういう問題から解放されていたわけです。パウロは、13章に記されたユダヤ人へのメッセージの中で、先祖の歴史を振り返りながら、こう言っています。「モーセの律法によって解放されることのできなかった全ての点について、信じる者はみな、この方によって解放されるのです」(使徒13:39)本来クリスチャンは、律法に引っかかるすべての問題から解放されていなければいけないのです。「解放される」というのは、実は、「義と認められる」という意味です。これは、欄外の脚注にも書いてあります。「解放される」というのは、これから何かが起こって義と認められるのではなく、すでに義と認められていることを知り、その事実にとどまるということです。さらに進んだ状態へ変えられることではなく、完全な立場を確認することなのです。今日多くのクリスチャンは、この「解放」がきちんと確認されていないので、「証人」としての力が弱いのです。私たちとバルナバやパウロの差はここにあります。解放されていることを日々の暮らしの中で経験して、勝利を宣言することが大事です。エルマのようなでたらめや悪巧みは許さず、にらみつけ、叱責する姿勢も大切です。
神から義と認められる確信が得られない人は、絶えず人からの承認を得ようとします。自分のあり方にも常に自信が持てないでいるので、自分の心の中で互いに責め合ったり弁明し合ったりして、いつまでも前には進めないでいるのです。この「彼らの思いは互いに責め合ったり、弁明し合ったりしています」(ローマ2:15)という言いまわしは、パウロが異邦人について語っている箇所に見られる表現ですが、福音も律法にしてしまうクリスチャンは、「ああでもない」「こうでもない」といつまでも葛藤を繰り返して、いのちの道を歩めず、聖霊の力もほとんど味わうことがありません。礼拝も奉仕も、すべてが形式的、組織的になってしまうわけです。
キリスト者であるなら、私たちはイエスの証人です。証人の理想的な態度は、バプテスマのヨハネに見られます。パウロはピシデアのアンテオケでのメッセージの中で、バプテスマのヨハネについて、次のように語りました。「ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は後からおいでになります。私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません。』兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々、この救いのことばは、私たちに送られているのです。」(使徒13:25~26)
 バプテスマのヨハネは聖霊に満ちた人でしたが、何の奇跡も起こしませんでした。この「一生を終えようとするころ」に語ったと言われる短いことばの中に彼の信仰がはっきりと伺えます。 バプテスマのヨハネが一生をかけてこだわったのは、ただ「その方」です。イエスをキリストとして紹介することがすべてでした。聖霊に満たされた人は、聖霊そのものを主張しません。「御霊はわたしの栄光を現わします。」(ヨハネ16:14)とイエスさまは言われました。バプテスマのヨハネは、「あなたはどなたですか」と問われ、自分は何者でもないと、不思議な返事を繰り返します。「私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」と問われ、ようやく答えたのが、「預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)というものでした。この箇所は、イザヤ40:3のみことばです。KJVでは、『荒野で叫んでいる者』は、The voice of himです。エルサレムはherと表現されています。ヨハネは「自分は声だ」と言いました。声の主は神ご自身です。証人は「声」であるべきなのです。自分が声の主になって、主が語られてもいないことを語る人々は、イエスの証人とは言えません。
この使徒13章におけるパウロのメッセージにしても、あのステパノのメッセージにしても、まるでグーグル・アースのように、歴史全体を鳥瞰し、ものすごいスケールで、的確に語っているのに驚かされます。信仰によって神の主権と、歴史に浮かび上がるキリストの姿を見ているのです。私たちは、たぶんその最終ランナー、ゴールに近いところを走っているという自覚をもう少し持つべきでしょう。