2007年9月28日金曜日

9月23日 その夜 主がパウロのそばに立って

使徒23章は、ユダヤの議会に対するパウロのメッセージから始まります。
しかし、パウロが口を開くや否や妨害が入ります。妨害したのは大祭司です。パウロが準備していたであろうメッセージを伝える前に、議会は混乱してしまいます。図式としては、この世の権威と立場の対立になってしまいます。  
パウロはその構造と混乱の原因を見て取って、自分に向かっていた怒りや攻撃のエネルギーをお互いに向けさせようとしました。剣の達人がさらりと身を翻して同士討ちをさせる感じです。

激しく対立するのは、サドカイ派とパリサイ派という二大派閥です。ここでは、パウロは自分がパリサイ人であることを強調します。(使徒23:6)ふたつの派の対立のポイントは、「復活と御使いと霊があるかないか」といったことです。(使徒23:8)パウロは自分がパリサイ人だと言えば、一時的にパリサイ派が自分の側に立って、サドカイ派の反発を抑えてくれるだろうと計算したのですが、そのとおりになりました。論争はますます激しさを増し、パウロは引き裂かれそうになったので、ローマの千人隊長によって救われました。

パウロが難を逃れたことは喜ばしいことで、作戦が功を奏したことも悪いことではないのですが、パウロは決して晴れ晴れした気持ちではなかったと思います。なぜなら、同胞にきちんと証出来なかったからです。準備していたメッセージが出来ないまま、言いたくもない皮肉を言い、相手の愚かさを利用して安全を確保したからです。
 そんなパウロの心中を一番よくご存じなのは主です。主はこのとき、御使いを通してではなく、ご自身自らがそばに立ってパウロを励ましてくださったことが書かれています。
 「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない』と言われた。」(使徒23:11)
主はご自分の歩まれた道のりをパウロに追体験させながら、その体験の中で彼とともにいて、ご自身の福音の価値を教えていかれるのです。パウロにとって、自分の働きがどれだけの結果をもたらすかではなく、主のみこころの中にあるということが、確かな安息につながったことでしょう。主はパウロをただ伝道の道具としてお使いになったのではなく、主ご自身のおこころの理解者として、必要な経験を与えられたのだと思っています。パウロ自身も自分に与えられた導きをそのような主の愛を感じて受け止めていたことでしょう。
一夜明けると、ユダヤ人たちは徒党を組んで、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないとまで誓い合って憎しみを確かめあっています。もうここではサドカイ派もパリサイ派もなく、「パウロ憎し」で一致して新たな組織を立ち上げたわけです。彼らは普通に論争すればパウロに勝ち目がないことを知っているので、卑怯な手段で待ち伏せして殺そうとしますが、パウロの甥にあたる青年がその情報を伝えたので、パウロはここでもまたローマの護衛に守られてカイザリヤに逃れました。クラウデオ・ルシヤが総統ペリクスに当てた手紙の文面が書かれていますが、非常に常識的です。非常識なのは、みことばを手にしたユダヤ人の指導者たちです。

私たちは、この23章で起こっている出来事の中から、いったい何を学ぶべきでしょうか。ここで起こっていることは、イエスさまが十字架に追いやられていくプロセスと同じです。そして、これは2000年間ずっと世界のあちこちで起こり続け、今日も起こっている出来事と同じ構造を持っているのです。
 パウロが一瞬にして、そこに起こっている問題の本質を見て取ったように、私たちも自分たちの周辺で起こるさまざまな出来事をしっかり見定める目を持つことが期待されます。

現在のキリスト教会においても、カトリック・プロテスタント各派が、それぞれに教団の信条を守りつつ、活動を展開しています。「サドカイ派」「パリサイ派」とあるように、今日も「福音派」「聖霊派」をはじめ、数々の教団教派があります。別にそれら細かく比較して優劣をつけたところで意味がないし、全部それらは嘘っぱちですと言ってももっと意味がない。他者を批判することによって、自らの正当性を主張するのは、愚か者の手法ですから、別のかたちで考えましょう。
どんなグループに属していても、それは地上における一時的な有り様を表現しているに過ぎません。奈良に住んでいても、北海道に住んでいても、沖縄に住んでいても、みなひとつの天国に行き、ひとりの花嫁として迎えられるわけで、乱暴に言ってしまえば、所属教団や所属教会なんてどうでもいい話です。要するに、はっきり悔い改め、生まれかわって、主の御霊によってバプテスマされているかどうかということが、クリスチャンにとってアイデンティティーのすべてです。ところが、所属教団やその信仰のスタイルや教団内での地位に執拗にこだわるというのは、まさに、パウロ憎しの「パリサイ派」「サドカイ派」と同じレベル、同じ発想なのです。
どんな群れにも熱心な人と不熱心な人がいるでしょう。派閥で分けずに、違う分け方をして、本質に迫っていきたいと思います。そして、大事なことは間違いを批判することではなく、自分の立ち位置を確認することです。これがなければ、メッセージそのものが無意味になります。
サンデー・クリスチャンということばがあります。日曜日だけ礼拝に出かけその宗教的儀式や作法に習って一応自分を合わせる。しかし、教会を一歩出れば、そうした制約から解かれ、この世の人と全く同じ生活をする。このような人はこの世に完全に埋没し、クリスチャンとしての発信が出来ていません。仕事でも、近所づきあいでも、余興でも、何でも簡単に礼拝に優先します。「神の国とその義を絶対に第一にしない人たち」です。このタイプの人たちは、教会では教会の演じ方や言葉遣いがあるのでそれなりにこなし、この世でもそれなりにというか、むしろいっそういきいきとやっている場合があります。本人にとっても教会より世が楽しい。それでも教会に来るのは、教会に通うことが世においての何らかのプラスの効果を生んでいると考えるからです。しかしながら、みことばがまっすぐに語られている教会では、このスタイルは長く続けることは困難です。みことばは開かれても、隣人愛や寛容な態度などのこの世の道徳を繰り返し語るような教会であれば、この世とうまくバランスを保ちながら、一生でも二股かけてやっていけます。
同じサンデー・クリスチャンでも、逆の場合もあります。この世ではうまく自己実現出来ず、誰にも相手にしてもらえない。だから、教会に慰めを求めてやってくる。悪いのは自分でじゃなくて、自分を受け入れかったこの世。世は冷たい場所。教会だけがあたたかい私の家族。日曜日が楽しみで後はこの世で固まった状態。実際に、「モラルの社交場」になっている教会や、「病んだ人たちのたまり場」のようになっている教会はたくさんあります。
「そういう態度では、いずれも本当の信仰とは言えないのではないか」ということくらいは、信仰のない人にだってわかります。ローマの百人隊長レベルの普通の常識的な社会人なら、聖書なんか1ページも読まなくても理解できるわけです。要するに、はっきり言ってしまうと、そんな信仰なら教会なんかいかない方がまし、そんな教会なら存在しないほうがましだということです。

そこで、聖書を正しく読まずに、ムリに宗教心をかりたてるとどうなるか。自分の家族や所属する集団に対する責任を放棄しても、その集団の価値観やルールを守ろうとする教条主義になります。こうなると、自分たちの集団以外の価値観が許せなくなり、それら全てを否定しようとします。そして、おせっかいにも、その価値観こそ正義なのだとあちこちへ触れてまわるわけです。こういう人たちの振る舞いは、先に挙げた人たちとは比較にならないほど、迷惑この上ない非常識なものとなるのです。
例えば、ものすごくわかりやすい例を出せば、エホバの証人というグループの人たちが、「私たちは輸血をしません」「武道をさせません」というような選択をする場合です。なぜそんな愚かな判断が出来るのかと言えば、「それはみことばが禁じていているからだ」と言うわけです。こんなことを真面目な顔して主張するところに、まず議論は成立しません。エホバの証人を異端視する集まりでも、やれ「ホームスクールだ」となるわけです。どこのグループであろうが、人間の根本や思考のプロセスは同じです。

アメリカにはアーミッシュというクリスチャン集落があります。現代文明を拒絶して集落を形成しています。日本で言えば、白川郷の合掌造り集落で、年中もんぺはいて、いろりとランプで生活し、買い物に行かずに田畑耕して自給自足する感じです。それが正しい信仰のスタイルだと思い込んでいるわけです。アメリカはもともと国そのものが、巨大なアーミッシュみたいなもので、本国イギリスが気に食わない人たちが、祖国をエジプトに見立ててイクソダスし、先住民族を大量殺戮して建設した国です。ですから、ブッシュ政権が聖書に左手を置いて右手でアラブ人を殺しても、それは「エリコの戦い」で、自分たちはヨシュアなのだとけっこう本気で思っているわけです。
 ですから、たとえ聖書を読んでいても、その意味がわからなければ、それがどれほど小規模であっても、大規模であっても、人は必ず過ちを繰り返します。父なる神の御名を、イエスさまの御名を語って大嘘をつくのです。その挙げ句の果てが神の名を使った「正義の戦争」です。

キリスト教会の中では、この世でうまく自己実現することが出来ず、周囲に評価されなかったと感じるコンプレックスをエネルギーにして、キリスト教会という業界で人生のリベンジを狙って活躍しようとする人たちもいます。そういう人たちは、パウロのように、何の後ろ盾もないのに、自信と確信にあふれて語る人物は、その内容を聞くまでもなくその存在や態度が許せないわけです。
彼らの言い分は傑作です。「あなたは神の大祭司をののしるのか」(使徒23:4)しかも、大祭司本人は無言で、そばに立っていた付き人連中が気をつかって発言している。まるで出来損ないの水戸黄門です。

本来クリスチャンの日常は決して、この世と乖離したものであってはいけません。イエスさまのナザレでの日々を思ってください。別に伝道の大計画を立てる必要もありません。私たちもパウロのように、それぞれのエルサレムやローマで証する場面が必ずあります。そういう場面が与えられないクリスチャンはひとりもいません。いつでも心の中にある希望について弁明できるような日常を生きることが大切です。(Ⅰペテロ3:14~17)

2007年9月20日木曜日

9月16日 パウロの自由

今日のテキストは使徒22章ですが、22章はいきなりパウロの証の内容から始まっているので、パウロが話し始めるに至る経緯をふりかえりながら、前章からの流れの中で見ていきましょう。
さて、エルサレムに入ったパウロは、イエスさまを受け入れたユダヤ人の兄弟たちのつまずきを回避するために、長老たちの勧めを受け入れ、あえて律法を守る姿を示そうとしました。ところが、異邦人を宮に連れ込んだと誤解したユダヤ人たちは、パウロを殺そうとして殺到しました。
この記事のポイントは、パウロの持っていたキリストにある自由と、宗教で凝り固まっていたユダヤ人たちの不自由です。パウロは主にあって、律法から解放されて、キリストにある真の自由を獲得していましたが、ユダヤ人たちは、自分たちの立場と主張を守るために予断と偏見に心を支配されていました。そのような凝り固まった人間に宿るのは、敵意と憎しみです。信仰の問題で立場の対立する人たちの言い分を聞く必要はあまりありません。激しい敵意や憎しみを持っている人たちが主の側にいないことだけは確かです。
証の中で語っているように、パウロもかつては、律法による義を追い求めていまいしたが、イエスさまとの出会いによって、それを守ることによっては、神の望まれる義には到底達し得ないことを教えるためのものであると理解するに至りました。(Ⅰテモテ1:8~10)律法は、人の罪と契約違反を明らかにし、福音の必要を教えるためのものなのです。
「割礼を受けているかいないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」(ガラテヤ6:15~16)いうことばに見られるように、新しい創造の基準に従って進むことだけが、パウロの指針でした。もはや、パウロにとっては、生まれながらのユダヤ人が神のイスラエルなのではなく、ユダヤ人も異邦人も関係なく、新しく創造された民こそが神のイスラエルだったのです。

パウロは興奮したユダヤ人の群衆に殺されそうになったところをローマ兵によって助けられます。階段付近では、パウロの命の危険を感じたローマ兵たちが彼をかつぎあげることによって救い出したのです。(使徒21:30~36)
もしローマ兵たちの機転がなければ、パウロは群衆の勢いで圧死していたかも知れません。これはとても不思議なことです。最も厳格に律法を守り続けてきたパウロが、律法を軽んじるという理由で、本来同胞であるユダヤ人たちから殺されそうになり、逆にローマ兵がパウロのいのちを救いだすことに手を貸し、さらに千人隊長は階段上から証の機会を与えてくれたのです。(使徒21:39~40)
主は、ユダヤ人の主であるだけでなく、ローマ人にとっても主なのです。ローマ人が主を知らなくても、主はローマ人を知り、彼らを用いパウロを救い出されるのです。全世界を創造された神は、神を信じてもいないし意識もしていない人々や環境をどのようにでもお用いになります。
例えば、エジプトの奴隷とされることも、解放されることも、アッシリアやバビロンに捕集されたことも、この時代のローマとの関係も、近年ではナチスに迫害されたことも、全てはユダヤ人たちの信仰とリンクしています。異邦人世界の指導者は、自分の思いのままにやりたいことをしているだけですが、その政策や判断は、主の許しと計画の中で動いているわけです。

少し話題がそれますが、BBSでmeekさんが、ホームスクールの是非について一石を投じてくださっています。これは興味深い重要なトピックなので、関連して少しだけ触れておきたいと思います。
教会関係者の中には、「クリスチャンの子弟は、普通の学校に通わせてはよからぬ影響を受けて堕落するので、ホームスクールで教育するべきだ」と考える人たちが少なからずいます。私はモーセやヨセフを例にあげて、「彼らは世で学んだではないか」と当然のように書きました。すると、同じモーセやヨセフを例にあげて、「彼らは世に送られる前に、幼少期にユダヤ人である母や父のもとで信仰の訓練を受けたではないか。だからこそホームスクールが大切だ」と主張する人たちがいることを教えてくださいました。
モーセやヨセフの親たちが信仰を伝えたことは言うまでもないことであり、それこそが、彼らのアイデンティティーになるわけです。しかし、それは世が与える影響とのバランスの問題であって、彼らが幼少期を親とともに過ごしたことが、即ホームスクールにつながるという発想は、極めて短絡であり、「はじめに自分の主張ありき」の間違った解釈です。

 考えてみてください。自分たちが隔離しなければならないほど軽蔑しているフィールドで育った人たちを、心から尊敬して何か意味のあることを伝えられるでしょうか。イエスさまは、その人としての人生のほとんどをナザレで過ごされました。ラビとしての専門教育を全く受けられませんでした。イエスさまが進んで受けられたのは、専門教育ではなく、荒野での誘惑やヨハネのバプテスマでした。しかも、アダムのようにいきなり成人としてこの世に来られたのではありません。わざわざ赤ん坊から、普通の人々に埋もれて、全く普通に過ごされたのはなぜでしょうか。
 それはイエスさまが罪人の普通の生活を知るためです。その汗と涙を苦労と悲しみと体験するためです。主が私たちと同じであることを必要とされたのなら、主のみこころを歩もうとする者が、どうして特別な道を準備しようとするのでしょうか。イエスさまが人となられたことの意味に対して目が開かれているなら、クリスチャン子弟を、世の悪影響などという軽薄な理由で隔離してしまうことがどれほど愚かなことであるかわかるはずです。
  さらに、モーセやヨセフの時代も、イエスさまの時代も、学校教育制度なんてないわけです。つまり、家庭や地域がすべてだったわけですね。ホームスクールなどというのは、不適応者のアンチテーゼじゃないですか。全くお話にもならないと私は思います。このような選択は、子どもの教育だけの問題ではありません。子どもに望むことの中には、親の隠された本音があります。

 そういう価値観がパウロのような真の自由人に向かって、怒り狂って叫ばせるのでしょう。自分の立場や習慣を絶対とし、相手を見下して上からモノを言い、文化侵略を行って来たのです。そのような力づくの宣教を行い、宗教としてのキリスト教を拡大してきたわけです。その結果、どれほど大きな教会が建ち、大勢の人がライフスタイルを変えたとしても、それは何の意味もないこの世の流行のひとつにすぎません。
 
パウロは、今自分を殺そうとした人々に向かって話し始めます。パウロは激しく自分を憎み、襲いかかってきた彼らに対して、「兄弟たち、父たち」(使徒22:3)と語りかけます。そして、自分が体験したことをありのまま、子どものような素朴さで証するのです。そこには、何の装飾もなく、解説もありません。ユダヤ人たちは、しばらく黙ってパウロの話を聞いていましたが、異邦人の救いに話が及ぶと、殺気だってパウロのことばを遮りました。パウロの真実な証も彼らの心には全く届きませんでした。パウロはユダヤ人に敵意はありません。敵意を持っているのはユダヤ人たちのほうです。
千人隊長は、なぜユダヤ人の群衆がパウロをこれほどに憎むのか理解できず、兵営の中に引き入れてむち打って調べるために、パウロを縛りました。
そのときパウロは、「ローマ市民である者を裁判もかけずにむち打ってよいのですか。」(使徒22:25)とパウロのそばに立っている百人隊長に言いました。百人隊長は驚いて千人隊長に報告しましたが、さらに驚いたのは千人隊長でした。なぜなら、この千人隊長は大金を出して、この市民権を得たのですが、パウロは生まれながらにローマの市民権を持っていたからです。
ローマの市民権は、ローマの長い歴史の中で、それぞれの時代にさまざまな意味合いを持ちます。市民権は、はじめはローマの居住者に限られていました。それが領土の拡大にともなってローマ居住者以外でも、有力者には市民権が与えられるようになり、やがては奴隷ではない自由人すべてに与えられるようになります。パウロが生きた時代は、市民権が最も特権であった時代で、千人隊長のことばにあるように、お金で売り買いするほどの価値があったわけです。

パウロは、ここで自分がローマの市民権を持っていることを主張し、結果として難を逃れます。しかし、パウロはもちろんそのことにプライドを持っていたわけでもなく、単に苦しみを回避するために、そのカードを使ったわけではないと思います。おそらくパウロはさらに大きな証の機会を狙っていたのでしょう。パウロはここでも自分に与えられた賜物や立場を自由に用いているわけです。決してそれにより頼んでいるわけではないけれど、冷静に自分に与えられているものを利用するという態度には教えられます。
パウロは自分が生まれながらのローマ市民であることなど、別に誇りだとも特権だとも思っていません。でも、その事実を百人隊長に告げれば、どういう展開になるかは計算できるのです。これは、重要な主にある信仰の処世術のひとつです。主は無駄に私たちに与えているものは何もないと思うのです。
しかし、間違えないでください。情けないのは、信仰があっても神の子とされた価値やキリストの花嫁とされた恵みがわからず、「ローマ市民」に代表されるような、この世の特権や満足を得ようとする本末転倒の態度です。
学びたいのは、ユダヤ人にはユダヤ人に対して、ローマ人にはローマ人に対して柔軟に自分を合わせながら、それでも全く信仰のブレを起こさないパウロの姿です。このパウロが持っていたキリストにある自由こそ、信仰に生きるものにとって、最も大切なものです。(Ⅰコリント9:19~23)

心が善悪に縛られると、自分が与えられているものを、与えられていないかのように振る舞ったり、変な遠慮やこだわりが邪魔して、出来ることをあえて控えたりしてしまうことが多くなります。しかし、私たちが持っているものは、はじめから全て主のものであり、与えられたもの以外は何も持っていないわけだから、立場であれ、時間であれ、お金であれ、能力であれ、主のためなら、何でも自由に使うべきなのです。キリストを得て、その価値を知ったなら、私に属するものはすべてちりあくたであるとわかります。神の絶対の前では全てが無です。しかし、パウロの与えられたものは、世において相対化すれば、ものすごい力と影響力です。これを主にあって正しく用いるべきなのです。(ピリピ3:8~15)私たちが歩んで来た道、与えられている能力、培われてきた性質、人間関係、これらをすべて主に委ね、ひたむきに前のものに向かって進みましょう。

9月9日 主のみこころのままに

今日はかなり繊細で深いテーマに迫ってお話します。注意深くみことばをひもとき、学んでまいりましょう。
「私たちは弟子たちを見つけ出して、そこに7日間滞在した。彼らは御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した。」(使徒21:4)と書かれています。
「しきりに」と書いてあるので、おそらくパウロたちが滞在していた7日間の間に何度もツロにいた兄弟たちは、「エルサレムには行くべきではない」と勧めたのでしょう。勿論それはパウロの身を案じての心からの忠告です。見送りの場面を見ても、家の玄関先で別れたのではありません。妻や子どもたちも町はずれまで一緒についてきてパウロたちとの別れを惜しんでいます。そして海岸にひざまずいて祈っているのです。(使徒21:5)そんな様子からも、彼らの交わりの親しさと、信仰の豊かさが伺えます。そういう親しい兄弟たちが心から自分のことを心配して、繰り返し忠告してくれていたのです。単に主張がぶつかって、どちらがより正しいかなどという話ではないことがわかります。

 ツロを出たパウロたち一行はトレマイに渡りました。そして、翌日にはカイザリヤに着き、ピリポの家に滞在しています。そこへアガボという預言者がユダヤからやって来たのでした。アガボは、パウロの帯をとって自分のからだまで縛って見せて、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人にこんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される』と聖霊がお告げになっています」と伝えました。(使徒21:11)エルサレムの方角からわざわざこの預言のために下って来た人物の、パフォーマンスつきの具体的な預言です。それを聞いたカイザリヤの兄弟たちも、ルカをはじめパウロの同行者たちも、黙っていられなくなり、ともにパウロがエルサレムに上らないように頼みました。
 ツロでは「忠告」でした。その主体は「彼ら」すなわち現地の兄弟たちです。ところがカイザリヤでの場合は涙ながらの「懇願」です。その主体は「私たち」すなわちパウロと旅をともにしてきた兄弟たちです。
 当然、パウロの気持ちも揺れたはずです。先ほども触れたように、単なる反対意見やおせっかいではありません。パウロの性格や気持ち、そしてその信仰を尊敬している兄弟たちが心から止めてくれているわけです。しかし、パウロは力強く次のように答えました。
「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」(使徒21:13)
 パウロは忠告や懇願の中身を十分に理解し、彼らの優しい気持ちもくみ取ってもなお聞き入れませんでした。兄弟たちはパウロの固い決意を感じてそれ以上のことばもなく、「主のみこころのままに」と言って黙ってしまいました。
では、この場合の「主のみこころ」とは何でしょう。パウロがエルサレムに上ることは主のみこころに反しているのでしょうか。
「エルサレムへは上るべきではない」と主張した兄弟たちは、いずれも一時の感情でそう言ったのではありません。「御霊に示され」(使徒21:4)あるいは、「聖霊のお告げを受けて」(使徒21:11)自分のことばではないことばを語ったのです。言わば、彼らは「主のみこころを代弁した」のではないのでしょうか。
しかし、パウロはそれを受け入れませんでした。ではパウロは主のみこころに逆らったのでしょうか。どうやらそれも違うようです。パウロはパウロで、もっと明確な啓示を既に繰り返しいただいていたからです。
「いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でもはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。」(使徒20:22~23)
この「心を縛られて」という表現は、欄外の脚注をご覧いただくと、別訳として「聖霊に縛られて」となっています。
パウロは、自分に忠告し懇願してくれる兄弟たち以上に、自分の身にふりかかる危険や苦しみを予見していました。聖霊は同じことを何度も繰り返して、町から町へ移動するごとに、パウロに教えたのです。当然、パウロだって好き好んで苦難の道を進んでいくわけではありません。パウロは自分の考えや決意に縛られていたのではありません。聖霊に縛られていたのです。それはふりかかる苦しみを承知の上で引き受けようとするさらに大いなる力です。パウロはおそらく普通の人よりも遙かに意思が強く勇気のある人だったに違いありません。しかしこの決意は、パウロの意思の強さや人間的な勇気がもたらしたものではありません。別の次元の力がパウロを支えているのです。

繰り返して確認しますが、だからと言って、パウロ以外の兄弟たちが示されたもの、感じたこと、彼らの忠告や懇願が間違ったものだったのか、よけいなおせっかいや惑わしだったのかと言えば、そうではありません。それを示したのも、また聖霊なのです。
それぞれの兄弟たちには、それぞれの分や役割があり、理解の程度も違います。しかし、それぞれに主を愛し、主につながる兄弟を愛しています。誰もが主のみこころの中を歩みたいと願っているのです。主はその必要に応じ、さまざまな場面で、それぞれにご自身のみこころを示されます。それを受け止め、与えられた自由によって、判断し行動するのは私たちのひとりひとりの責任によるところです。
私はこの点については、次のように考えています。
例えば、ある出来事に関して意見が分かれた場合、ひとつの意見だけが正しく、他は全部間違いだとか、ひとりの人だけが100パーセント正しく、他の者の判断や行動は全てにおいてその人よりも下位に置かれるなどということはないと思っています。私が知って経験してきた限りにおいては、そう断言できます。
パウロが考えている「走るべき行程」は、十字架の向こうに続く道です。前回お話した「あなた」と「私」の走るべき行程も同じです。その道は、十字架の向こう側にしかないのです。競技場のラインは死の向こう側に引かれています。死を経ていないものはすべて偽物です。よみがえりのいのちによって導かれたのでないなら、それはこの世でいかに成功したかのように見えても、どのような高い評価を受けようとも、それはこの世限りのものです。主が喜んでくださる御霊の実ではありません。

パウロだって何も好きこのんで苦難の道を進みたいわけではありません。パウロは自分の走るべき行程の困難を理解していますが、それを見てはいません。パウロが見ているのは、さらに困難な道を既に克服してくださった御方の姿であり、ゴールで待っていてくださるこの御方の笑顔なのです。これが、単純ですが、人間的な宗教といのちの信仰との決定的な違いです。多くの人は自分の「道」にこだわります。パウロが見ていたのは、道の向こう、ゴールであり「決勝点」です。だから、パウロはこう言ったのです。「私は決勝点がどこかわからないような走り方をしてはいません。」(Ⅰコリント9:26)
迷うとき、悩むとき、落ち込むとき、私たちは決勝点を忘れています。道を見ているのです。自分の道は間違っていないだろうか。本当にこれでよかったのだろうか。祝福されるだろうか。災いに合わないだろうか。多くの困難や度重なる失敗の中で、「なぜ」「何のために」「何を目指して」歩き始めたのかを完全に忘れてしまうのです。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちもいっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、
私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえにはずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:1~2)
 ここでも、競争を走り続ける際に最も大事なことは、イエスから目を離さないことだと教えられています。

 兄弟たちが示されたことも、パウロが示されたことも、共通していました。それはエルサレムに上ればパウロは苦しみに合うというものでした。兄弟たちは、パウロが苦しみに合って欲しくないと思いました。パウロは、たとえ苦しみに合ってもさらに福音を前進させたいと考えたのです。
では、さらに進んで考えてみると、パウロの判断が主にとってさらに喜ばしいものであるとするなら、みこころを示されてもパウロのようには判断できないであろう周辺の兄弟たちに、なぜ、繰り返して、パウロの身に起こる出来事を示されたのでしょうか。エルサレムでのパウロの苦しみを予見できる御方が、そのことを兄弟たちに伝えれば、結果としてパウロの後ろ髪を引くような反応を示すことを予見できないのでしょうか。
私はパウロに「エルサレムへは行ってくれるな」と忠告し懇願した兄弟たちの思いも、主の偽らざるみこころの一部だと感じています。主が、私たちの進む行程において、あえて私たちに苦しみに合わせるとき、それは主にとっても非常につらく悲しいことなのです。それが愛です。
 主はパウロには示すことのできない、もうひとつのみこころを周辺の弟子たちに十分にお伝えになりたかったのではないでしょうか。
 アブラハムにソドムとゴモラの町のさばきをお知らせになったとき、一番その町に正しい人がいることを期待しておられたのは誰ですか。その町全部を救うことができたらと願っておられたのは誰ですか。ニネベの町についてはどうですか。ヨナは偶像を拝む、拝まないといった「信仰の正しさ」でものを見ていましたが、さまざまな経験を経る中で、神さまのみこころの深さと愛を学んでいくのです。それは魚の腹の中での十字架の死を学んだからです。神のみこころの一番深いところを流れているものは愛です。

 罪のないイエスさまが、十字架を選ぶ道行きには、葛藤があり、苦しみがありました。それがゲツセマネです。
 イエスさまの祈りはどんなものだったでしょう。
 「父よ。みこころならば、この杯を取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)
 「わたしの願い」はいつだって御父とひとつでありたいというものです。当然、十字架になど架かりたくはないのです。それは偽らざる御子の思いです。しかし、十字架に架かるためにこそ、お生まれになり、人としての御生涯を生き抜いて下さり、みことばのとおりをここまで歩んで来られたイエスさまです。これから、十字架に架かることこそが、走るべき行程の最終章であることは、百も承知のはずです。そして、御父もこの従順で真実ひとり子に極限の苦しみを負わせて見捨てるということなど出来ることではありません。「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」これこそ、御父の御子イエスへの評価の全てです。また、だからこそこの御子を罪を贖い得る唯一の御方として、十字架に架けるために、この世に遣わされたです。

父なる神もまた、御子が忠実で素晴らしいあゆみをされればされるほど、この方を罪ある者として罰するにはしのびないのです。そんなご自分を裁きがたい御父の思いさえ察する御子であるが故に、ただ自分が苦痛を回避したいと願う以上の深い祈り、それが「みこころのとおりに」の意味です。
十字架というのは、そもそも御父にとっても御子にとっても、ともに「選ばなくてもいい選択」なのです。あえてそれを選んでくださったからこそ、十字架は全てのものにまして価値あるものなのです。だからこそ、人が何一つ付け足す必要のない、付け足すことができない完全な救いなのです。主のみこころは、すべてこの十字架を通ります。

2007年9月6日木曜日

9月2日 走るべき行程


今日は「走るべき行程」というタイトルをつけました。世界陸上の影響も少しあるかも知れません。私はスポーツが好きなので、ついつい気になってチェックしていました。同じ走る競技でも、スタートラインに並んだ時点で、その種目ごとに体型まで違います。短距離には短距離の、長距離には長距離の適性やトレーニングの仕方や戦術があります。実力だけでなく、本人の体調や心理状態、天候や会場のコンディションも影響しますし、レースそのもののさまざまな駆け引きが勝敗を分けます。そして、アスリートたちは1秒でも早くゴールするために、日々の厳しい練習に耐え、レースに全神経を集中します。その真剣な姿が、見る者を引きつけるのです。素人がたとえ同じ距離を、おなかをたぷたぷさせて走っても、誰も感動など覚えないでしょう。やはり鍛え抜いた人たちが、与えられた力を極限まで発揮する姿が、人の心を動かすのです。
使徒の働きの9章以降は、パウロに関する記事が大半を占めます。読み手もついついパウロの旅路に同行するような気持ちで読み進んでしまいます。パウロの超人的な働きの背景には、勿論彼の個人的な能力の高さや、特別に与えられた役割があります。しかしながら、何度も繰り返し言っているように、それは主がともにおられたからこそ成し得たことであり、多くの不思議やしるしも主がパウロを通して行われたことでした。そして、私たちが一番心を動かされるのは、パウロの賜物や働きの大きさではありません。私たちがパウロに心ひかれるのは、その真摯な信仰の姿勢や、イエスさまに対する愛に対してではないでしょうか。パウロは自分の与えられたものすべてを使い尽くすように、限界まで努力奮闘しました。それは世界の頂点を競い合うアスリートの姿とも似ているのです。パウロ自身はこのように語っています。「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことは真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。」(Ⅰテモテ4:8~11)パウロが目指したものは、肉体の鍛錬以上のものでした。パウロは体を鍛えることが無益だと言っているのではなく、もっと有益なものを追求せよと勧めているのです。それは生ける神にのみ望みを置き、キリストのために労することです。アスリートたちが、五体満足、意気軒昂に実力を競いあえること自体が、大きな神様の恵みなわけですが、私たちもキリストの苦しみを賜ったことは恵みなのです。彼らは非常に努力しています。同じように、私たちにも努力が必要です。それは、名を上げ、自分の栄光を求める肉の努力ではありません。神の御名があがめられることを求め、神の栄光を求めるあゆみです。
さらにパウロは、「私がキリストを見習っているように見習って欲しい」(Ⅰコリント11:1)と語っていますが、まさに私たちが学ぶべきポイントはそこにあります。呪術師がパウロのわざや権威をまねようとしたように、うわべだけを見ていい格好をしたい人はたくさんいますが、私たちが見習うべきところはそんなことではないのです。パウロがここで語っている「走るべき行程」とは、単に伝道旅行のことではなく、「主に委ねられたことの全体」を指しています。パウロはそれを全うできたかどうかを自問しているわけです。
パウロはダマスコの途上で、よみがえられたイエスさまに出会うまでは、それこそ、レース場を全速力で逆走するような、あるいは、レースそのものを妨害するような生き方をしていました。信仰がなければ、この競技場も見えないし、競技のルールもわかないし、その戦いの意味も、それによってもたらされる栄誉もわかりません。この世の人には、私たちが何を礼拝し、何のために生きているのかわからないのです。
みなさんに聞きます。あなたは何を主に委ねられましたか。あなたのレースはどんなレースですか。また、自分はアスリートであるという自覚があるでしょうか。残念ながら、そんな自覚の乏しい方や備えやトレーニング不足の方も多いのではないかと思います。それでは駄目なんです。勿論、パウロは「特別な人」ですが、同じように、私たちひとりひとりも「特別な人」です。パウロに彼の「走るべき行程」が備えられていたことは疑う余地がありません。そして、パウロがその行程を忠実に歩んで来たことも、「使徒の働き」に見るとおりです。私たちはどうでしょうか。私たちには私たちの「走るべき行程」があるのです。もっと責任を明確にするために、「私たち」と言うのはやめて、「私」には「私」の、「あなた」に「あなた」のと言い換えましょう。あなたの行程はあなただけのものであり、そこには責任があります。それは非常に重い責任です。真理は私たちを自由にしました。そうです。自由です。この自由ということほど尊い価値は他にありません。私たちは罪の奴隷でした。しかし、今は自由なのです。この空中の権威者の下にいました。しかし、今はキリストの自由を得たのです。自由には責任が伴います。パウロにこう言っています。「私は、すべての人が受けるさばきについて責任がありません」(使徒20:26)です。パウロは「すべての人に対して負債を負っている」と言うふうに考えていました。(ローマ1:14)「福音を伝えることはどうしてもしなければならないことで、それをしなければ災いに会う」とさえ言っています。(Ⅰコリント9:1~18)このⅠコリントの9章では、パウロは、神の恵みのもとでの人の努力について、さらに、自由について、権利について、誇りについて語っています。私たちは、それをどう読めばいいのでしょうか。あなたは、その信仰の道のりのどのあたりにいて、さしあたって次に何をすべきなのですか。このⅠコリント9章の後半では、パウロは、いみじくも、陸上競技を信仰に喩えて書いています。
同じ陸上競技の中でも、マラソンは2時間以上走らないと結果が出ませんが、100メートル走なら息をとめて10秒と少しで結果が出ます。あなたの参加種目は何ですか。自分が何を主から委ねられ、どのように自分を鍛え、どのような心構えで、日々過ごすべきなのかという自覚がないのは困ったことです。 救われた以上、主から「何も委ねられない」ということはありません。いのちが与えられ、家族に加えられたなら、お互いがその中で役割を果たすべきです。言い換えれば、信仰に観客はいないのです。全員がアスリートであり、競技参加者です。しかも、パウロの表現から伺えるのは、タラタラ楽しく走る市民レースではなく、勝利を目指した真剣勝負です。失格は何としても避けたいものです。
 動機付けは何でしょう。世界陸上であれば、自分のため、家族やチームのため、あるいは国家のために走るでしょう。ある競技では、ケニアが金・銀・銅と独占して、3人で国旗を掲げながら、走っている姿はけっこう胸が熱くなりました。私たちの場合はどうでしょうか。「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)という教会に支払われた価値の大きさを知ることが原動力になるのです。肉の目で「教会」を見ていては、意欲などわかないでしょう。「支払われた代価」を通して教会を見つめるとき、主の愛が私たちを突き抜けて他の兄弟姉妹に及ぶようになるのです。この買い取るというギリシャ語は贖いを意味しています。ただ「買う」のではなく、「獲得する」「自分のものにする」という強い意味があるのです。「買い取られた」は完了形になっています。継続や繰り返しはないのです。それは、ただ一度過去に起こった行為、つまり十字架で流された血潮によって獲得されたのです。(エペソ1:7) さらにこのことばに後に続くのは何でしょうか。「・・・を牧させるために、あなたがたを群れの監督としてお立てになったのです。」(使徒20:28) その価値ある教会を牧するリーダーをお立てになったのは聖霊です。 教会における人事を行われるのは聖霊なのです。すべてを導かれるのは、人ではなく聖霊です。パウロは教会における聖霊の主権を宣言した直後に、起こりうる問題についても語っています。「私が出発した後、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがたの中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」(使徒20:29~30) これは、パウロが聖霊によって知っていた彼らの未来に関する予言でした。パウロはその危険を承知していたので、涙とともにひとりひとりを訓戒してきたのです。そのエッセンスが32節です。「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:32)
みことばが、私たちを育成するのです。みことばが御国を継がせるのです。みことばが私たちの唯一の武器です。やり投げの選手がやりを持たずに競技に参加できますか。ハンマー投げの選手がハンマーを持たずに競技に参加できますか。クリスチャンがみことばなしで、どうやって競技で戦うのですか。
みことばに養われていない人は、何年教会に集っても、洗礼を受けても、失格者であり、公式記録なしです。
今日のメッセージを、決して人間的にとらえないでください。もう一度ご自分でみことばを読み、主から直接教えられてください。それぞれに必要な語りかけをお聞きになると思います。

8月26日 エペソでの出来事

アポロが去った後、パウロはエペソにやって来ました。そこで12人ほどの小さな群れと出会います。この箇所の記述を巡るある種の解釈は、大きな問題を生み出しています。サタンは、「聖霊が信じた者への第二の恵みとして、信じてから後に与えられるのだ」という印象を与えようとして働きましたが、聖霊は、決してそんな偽りにはアーメンさせたりしません。慎重に学び、何が正しいかを見極め、自分のものにしてください。信仰のステップとして、「信じて時間を置いてから後に」聖霊が与えられ異言や預言を語るというのは、真っ赤な嘘です。
ひとつ誰でも思いつき、そして答えられそうな簡単な質問をしてみます。パウロはなぜこの12人に「信じたとき、聖霊を受けましたか」という質問をする必要があったのでしょうか。こういうことを考えながら読むことはとても大事なことです。この箇所に限らず、聖書を読んでいても、この種の普通の疑問を持たずに読み流し、特有の解釈を押しつけられ、信じ込まされていることが非常に多いからです。私のメッセージに関しても同じことで、所詮人間がやっていることですから、いつも正しいことを語っているかどうかは怪しいものです。「ああそういう意味だったんですか」ではなく、一緒に考え、一緒にみことばを検証して欲しいのです。あの賞賛されていたベレヤのユダヤ人たちのように、「果たしてそのとおりかどうかを毎日調べて」欲しいのです。改めて考えましょう。パウロはなぜこの12人に「信じたとき、聖霊を受けましたか」という質問をする必要があったのでしょうか。パウロはいろんな町々をめぐって、福音を語り、信じた人たちを励まし続けていますが、そこかしこで出会う人たちに同じ質問をしたと思いますか。
ごく普通に考えて、パウロはこの弟子を自称する12人に、聖霊の働きを感じなかったから、そう尋ねたのだと考えられます。彼らには、禁欲的、律法的な物事に対する真剣さはあっても、喜びや自由など、いのちがもたらすキリストの香りが感じられなかったのです。パウロの見立ては当たっていました。「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」(使徒19:2)とその弟子たちは答えています。彼らは知識としても経験としても、聖霊を知らなかったのです。なぜなら、彼らはヨハネのバプテスマしか受けていなかったからです。ヨハネの授けたバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」であって、「キリストの死にあずかるバプテスマ」ではありませんでした。(ローマ6:3~4)ここに旧約時代の終わりと、新約時代の始まりの明確な区分があります。預言者はヨハネまで、それ以降は教会の時代です。なぜそうなのかはわかりませんが、主がそうお決めになっているのです。ヨシュアとカレブはカナンの地に入りましたが、出エジプトの最大の功労者モーセにはそれが許されませんでした。旧約の時代の王でも預言者でも、彼らにとどまった主の霊は一時的なものであり、永遠に彼らの中に留まるという約束などありませんでした。しかし、新約時代に与えられる救いは、神の子どもとしての特権であり、御国を受け継ぐことの保障として聖霊が与えられるというものです。これは、旧約の時代には考えられないほど大きな恵みです。誰も思いつきもしないし、仮に思いついたとしても、口に出して願うことさえはばかるほどの畏れおおいことです。
「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中でヨハネよりもすぐれた人はひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも彼より優れています。」(ルカ7:28)とイエスさまは言われました。私たちは神の国で一番小さい者の集まりかもしれません。しかし、それでもバプテスマのヨハネより偉大なのです。ヨハネ本人も、そのことをよく自覚してこう言っています。「花嫁を迎えるのは、花婿です。花婿のことばに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:29)ヨハネとは花婿の友人であり、花嫁は私たち教会です。この明確な違いがわかりますか。これは感覚の問題ではなく、教理の問題でもなく、いのちの問題であり、福音の根本に関わることです。応用や発展ではなく、土台であり、基礎の部分です。
「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、またどのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らはそのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして、今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」(Ⅰペテロ1:10~12)
もう少し、苦く厳しい指摘をしておきましょう。今日の多くの教会はこのヨハネのバプテスマしか知らない段階で止まっているのではなく、ヨハネのバプテスマさえ知らないし、知らないから教えないところが多いのです。「悔い改めずに信じよう。あなたは愛されるために生まれた。ありのまま、そのままなのあなたでいい。信じれば、神様はあなたの一生を良いもので満たし、すべてのことが益となるのです。さあ預言だ。異言だ。祝福だ。リバイバルだ。」って・・・・こんなの嘘でしょう。ヨハネの教えたことがベースにあって、さらにイエスの死にあずかるバプテスマです。そうでなければ、なぜ福音書はヨハネから始まるのですか。イエスさまがあえて公生涯のはじめにヨハネのバプテスマを受けたのですか。このふたつのバプテスマの違いを理解せず、間違ったかたちをいのちの信仰だと思いこむことは悲惨な結果を招きます。だから、イエスさまは、「古い皮袋に新しいぶどう酒を入れると、皮袋も裂けるし、ぶどう酒も流れ出てともに駄目になる」と言われたのです。(マタイ9:17)
この12人とのやりとりの後、パウロは、会堂で3ヶ月、ツラノの講堂で2年間教えました。この間、パウロを通して驚くべき奇跡がいろいろとおこりました。その現象を見たユダヤ人の魔除け祈祷師のある者たちが、イエスの御名を使ったエピソードが出てきます。このときの悪霊の答えがおかしいですね。「自分は、イエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」(使徒19:15)
この様子が伝わって、聞く者に恐れが生じ、イエスの御名をあがめるようになったと書かれています。多くの人々が自分のしていることをさらけ出して告白し、魔術などに関する多くの書物を焼いて、はっきり過去を断ち切ったのです。(使徒19:18~19)
この箇所を先ほどの文脈の流れの中で読んでくれば、何が大事なのか、そのポイントを読み違えることなど、まずないはずです。ルカは事実を記録しているにすぎませんが、その意図は明確です。では、馬鹿らしさをこらえつつ質問します。聖書は、不思議な現象や力を追い求めることを勧めていますか。それとも、イエスの御名を恐れ、罪を告白して、過去を断ち切ることを勧めていますか。
書かれた意図を曲解する人々は、みことばの教えに耳を傾ける前に、自分たちの主張や教理が強く存在しています。それが邪魔になって、何と義務教育レベルの国語力を失ってしまっているのです。
さらに、宗教が金儲けと一体になっている様子も描かれています。アルテミス神殿の銀細工は、それで商売する人たちの懐を潤していました。御利益に預かりたい人々の欲望と、そんな宗教グッズを販売して利益を得たい人たちがお互いの欲望を金で交換して繁栄させた町それがエペソです。そんな町にとって、「人の手が造ったようなものは神ではない」と発言するパウロは迷惑千万でした。エペソは大混乱に陥ります。町中が大騒ぎになり、何が原因で騒いでいるのかわからないまま騒ぐ人まで現れます。ルカはそんな様子や群衆の心理を巧みに描いています。この混沌とした状況を見事な政治的手腕で鎮圧する人物が出てきます。エペソの町の書記役にあたる人物です。彼は問題点を整理して、集会を解散させることに成功します。これは非常に良いことのようにも思えますが、あながちそうとも言えません。実はこういう存在は、銀細工人以上に警戒が必要です。福音を是認するかに見える人々の合理的政策が、信仰を骨抜きにする可能性は大いにあります。書記役の発言や決定は、パウロのことばに感動し、そのメッセージを受け入れたためではなく、ただ町の治安を維持するためのものです。信仰のない人々の政策の中に教会の活動が抱き込まれていくことは、非常に危険です。信仰は、政治や経済とは決して並び立つものではありません。私たちはそのことを肝に銘じる必要があるでしょう。使徒19章は、「聖霊の名を借りたパフォーマンス」「しるしや不思議に惑わされること」「お金を集める宗教の愚かさ」「群集心理や政治と信仰」といった今日的なテーマに関して、極めて鋭く深い示唆を与えてくれる箇所だと言えます。
パウロは、このエペソの教会に対して、手紙の中で、この世を支配する霊的な力や流れについて、またそれに立ち向かう方法について述べていますが、それは、このような背景をもとに書かれていることを覚えてください。
「あなたがたは自分の罪過と罪の中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながらに御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:1~3)
「悪魔の策略に対して、立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊たちに対するものです。」(エペソ6:10~12)