2007年11月22日木曜日

11月11日 熱と蛇

        
パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために1匹のまむしがはい出して来ました。それはパウロの手にとりつくのですが、その毒はパウロに害を与える事は出来ませんでした。 その様子を多くの島の人たちが驚きを持って見守っており、大きな証となりました。
この事件は、いったい何を意味しているのでしょうか。かつて主は、「燃える柴」の中からモーセに語られました。(出エジプト3:1~7)モーセが見た大いなる光景とは、「火で燃えていたのに柴は燃え尽きなかった」というものです。ここには、「神が人となる奥義」が隠されています。神の本質がイエスというひとりの人間の中に完全に表現されているのです。それはまさに「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」(ヘブル1:3)でした。「ひとかかえの柴」は、人としてのキリストを象徴しています。その中からはい出した1匹のまむしはサタンです。 蛇であるサタンはイエスさまを誘惑し、その人間性の弱さに訴えましたが、イエスさまはそのすべてに、神の子としての権威を行使されず、人の子としてみことばをもって勝利されます。それは肉の弱さの極限状態の中です。律法は、罪の入った人間の不義を示すものです。しかし、イエスは肉において律法を成就されたのです。それが燃える柴です。
現地の人々は、「パウロがまむしにかまれたのは彼が悪い人だからだ」と思いました。(使徒28:4)多くの人はこの世でうまくいかなかったり、災難にあったりすると、それはその人に原因があると思い込みます。これは、人が共通に持っている生まれながらの価値観です。(ヨハネ9:2・ルカ13:2,5・ヨブ)そして、自分自身ではなく、自分の身にふりかかる自分以外の何かを変えようとするのです。しかし、人間におこることはすべて、神の計画によって許されたことのみです。みことばによるならば、「一羽のすずめさえ神の許しなしに地に落ちるということはない」のです。みことばは、正義と愛の神様がこの世のすべての出来事を見守っておられると言っていますが、私たちの目に見える現実は、「神様なんて本当におられるのだろうか」と疑いたくなるような様相を呈しています。飢えや貧困や、病気や戦争、犯罪被害者や重度の障害は、神の存在を否定する証拠となりうるでしょうか。私は目に見える明らかな不公平の背後に、極めて公明正大な正しい裁き主の存在を期待できます。この世界を偏見なく見つめるとき、誰もが不公平だと理解できます。不公平を誰もが理解できるということは、共通の公平の基準があるのです。そんな達し得ぬ基準を誰が人類に教えたのでしょう。それは神です。「この世は不公平じゃないか」というのは、公平な神がおられることのひとつの証拠なのです。また、私たちの身にふりかかることのすべてが、クイズの正当数とポイントのように、納得ずくで増えていくものなら、交通違反と罰金額のようなわかりやすいものなら、納得ずくで奪われていくようなものなら良いと思われるでしょうか。  私は決してそうは思いません。「善を行うこと」が、即時的、即物的に「報いを伴う」ものであるなら、人は容易に「善」を「報い」に置き換えるでしょう。そういう価値観は、級友を顧みない点数稼ぎの学級委員みたいな連中を増やすことになるわけです。宗教に熱中するのはこのタイプです。がまん大会の勝者が偉いとなれば、みんな死ぬ直前までがまんするみたいな・・・。
良いことも、悪いことも、幸運に見えることも、不運に感じることも、なぜかはわかりませんが、ある人には起こり、ある人には起こりません。私たちにその理由の一部を知らされる場合もありますが、多くの場合は、どうしてそうなるのかは隠されています。神には明確な理由があるのですが、人にはわかりません。なぜでしょうか。人が神を神として信じ、あがめるためです。すべてが神から発し、神によって成り、神に至ることを学び、この神にのみ栄光を帰すためです。人が何であり、神が何であるかを教えるためです。(ローマ12:33~36)
柴の中の熱気はまむしを追い出したのでした。まむしは、パウロの手にとりつきますがパウロは全く害を受けません。イエスを信じる者は、もはや分かち難いほどにイエスと一体であり、まむしの毒、即ちサタンの影響からも完全に解放されているのです。これは霊的な事実です。クリスチャンも蛇にかまれます。信仰は蛇をよける鎧にはなりません。祈りは、災いを遠ざけるまじないではありません。クリスチャンも、この世の人と同じように、サタンの誘惑を受け、被害を受けることもありますが、本質的にサタンのもたらす死の害から解放されているのです。そして、私たちが人々の目の前で、自分にふりかかる目に見える災いを振り落とす時に、人々はその証に圧倒されます。何の害も受けず、涼しい顔をして立っているので、「あの人は神だ」となるのです。
まむしを追い出したのは、柴の中の熱気でした。イエスさまが宮の商売人たちを追い出される姿を見た弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」(ヨハネ2:17)というみことばを思い出しました。イエスという人間の中に宿った聖霊の義憤と情熱が、細なわでむちを作って忌むべきものを追い出したのです。この記事には「宮きよめ」という見出しがつけられますが、社会的には、正当な商売を営んでいるところ男が乱入し、器物を破損し、営業を妨害した事件です。現代なら犯罪としても立件可能な事例です。
燃える柴の熱気は、宮をきよめます。聖霊の宮である私たち自身の中に両替人や商売人を住まわせないという決意が必要です。パウロのように、主イエスの勝利を自分のものにしている人は、サタンの影響も受けず、まむしを手から振り払うでしょう。しかし、多くのクリスチャンは、未だに心の宮に両替人や商売人を何人もかくまっているのです。これは、実に恥ずべき事であり、解決しなければならない問題です。島の人々の考えを変えさせ、心を動かしたのは、パウロが蛇を振り落として何の害も受けなかったからです。私たちを騙す蛇であるサタンに、決してつけ入る隙を許さない態度が必要です。それは容易なことではないかも知れません。イエスさまのように、「みことば」によって切り返す必要があります。サタンも「みことば」を巧みに使います。エデンの園でエバを誘惑したときも、イエスさまを誘惑したときも、「みことば」を使っています。サタンは、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)を刺激して、心の中の両替人や商売人に話しかけます。明らかに罪だとわかるようなものに誘惑されているうちはかわいいものですが、これが正しいと確信しながら、みこころから外れていくことほど怖いものはないでしょう。サタンは私たちより遙かに賢く、「みことば」をすみずみまで知っています。しかし、信じてはいないのです。私たちは「みことば」を信じています。サタンに対して、まず勝利宣言をし、具体的に約束を握って、聖書にこう書いてあると明確に答えることです。「みことば」を知っていても意味がありません。「みことば」を信じて、サタンに向かって宣言することが大切です。両替人や商売人を追い出さずそのままにしておくと、彼らは強盗となって、私たちの心の宮を支配するでしょう。(ルカ19:46)
マルタ島で三ヶ月を過ごしたパウロの一行は、いよいよ執着地であるローマにやってきました。 いよいよローマです。私はもう何度も使徒の働きを読んで来ましたが、初めて読んだときは、正直に言うと、「あれ、ここで終わっちゃうの?」という感想を持ちました。たぶん終わりは当然パウロの壮絶な殉教の場面だろうと思って読み進んで来たのでしょう。ところが、劇的に展開してきた使徒の働きは、唐突に終わります。 パウロは「淡々と朝から晩まで証をした」(使徒28:23)と書いてあるだけで、おもだったユダヤ人に自分がローマにやってきたいきさつを語っただけで、詳しいメッセージの内容は出てきません。その上、聞いていた人々の反応はどうかというと、「ある人々は彼の語ることを信じたが、ある人々は信じようとしなかった」(使徒28:24)と書かれています。あまりにも当たり前すぎて、何だか拍子抜けしてしまいます。そして、それはすべてイザヤの預言の成就だということです。「一体何なんだ」と思いました。
しかし何度も読むうちに、これこそが唯一の神の方法であり、神髄なのだとわかってきました。伝道は、特別な方法で、ある種の効果や、顕著な結果を期待するものではなく、神のことばを神のことばとしてふさわしく、淡々と語るべきものなのです。いたずらに興奮もせず、聞き手にも媚びず、真理をていねいに解き明かす。それだけです。語るべき事は、「神の国のこと」であり、「イエスのこと」です。それらは当然みことばに基づいています。決して「この世のこと」や「聖霊のこと」ではありません。「私たちの幸福の秘訣」や「人生訓」ではありません。
今回、改めて読んでみると、結びの2節が実に素晴らしいものであることに気づかされました。「こうして、パウロは満2年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(使徒28:30~31)ここでも、パウロが伝えた2つのポイントは、「神の国のこと」と、「主イエス・キリストのこと」です。
ルカは、「使徒の働き」の冒頭でこう書いていました。前の書「ルカの福音書」は、イエスの行い始めであり、教え始めだと。「使徒の働き」はその続編であり、継続しているイエスの行いの続き、教えの続きであると断っていたのでした。聖霊の働きは、今も途絶えることなく脈々と続いています。言い換えれば、私たちは使徒29章の世界を生きているわけです。
燃える柴は人の子イエスの姿であり、腕にからみつく蛇を振り落とすパウロは、教会がイエスさまの蛇に対する勝利を宣言する姿だと言えます。

2007年11月8日木曜日

11月4日 荒れ狂う波にゆられて

人生はしばしば航海にたとえられます。「順風満帆」や、「波瀾万丈」ということばにも、やはり「風」や「波」、そして「帆」が出てきます。人生には激しい逆風や荒れ狂う波がつきものだというわけです。私たちを乗せた人生の船も、思うようにはいかないことが多いですが、大きな困難を乗り越えて目的地にたどりつく感動もまたすばらしいものです。
今日もハラハラドキドキの人生を送る人たちはたくさんおられるでしょうが、文字通り難破して死ぬような目に会う人は稀です。パウロという人は、ご承知のように人類史上もっとも重要なメッセージを託された「特別な召しを受けた人物」です。ですから、確かに「特別な人生」を歩みましたが、しかし、それは一般的に期待されがちないわゆる特別待遇ではありません。その真逆で、とんでもない困難の連続でした。いのちを狙われたり、実際に鞭打たれたり、難破したり・・・・と、いわゆる宗教的御利益や恩恵には何一つあずかることなく、多くの宗教指導者のような尊敬やリッチな暮らしとは縁遠い一生を送ったことがわかります。同胞からは忌み嫌われ、兄弟姉妹の中にもパウロを誤解し批判する者もいました。限られた献金しか受け取らず、自分で仕事をしながら伝道を続けました。人というのは偉くなってしまうと、あの防衛省の元事務次官のようなVIP待遇を求め、それに甘んじる弱さを持っています。偉くなる実力がない者は、何か拝んだり、うまい話にのっかたりして、幸運を求めるのです。パウロはそういう人ではありませんでした。
いつも申し上げるように、私たちもまた「特別な人生」送るために「特別な召し」を受けています。「特別」というのは、他の人より好待遇であるという意味では決してなく、人それぞれの導きや生き方、つまり唯一無二の人生設計があるということです。ペテロはヨハネのみちびきを気にかけましたが、イエスさまは、「あなたはわたしに従いなさい」と言われました。それは、主に従い抜くことを決めた人に成就していきます。状況が有利に展開したり、思わぬ幸運が舞い込むということではなく、どのような状況にあっても主がともにおられ、折りにかなった慰めや助け、平安と勝利をお与えになるということです。
パウロはカイザルに上訴した他の数名の囚人たちとともに、ローマに向かって船で護送されることになります。護送の指揮者はユリアスという親衛隊の百人隊長です。彼はパウロに敬愛していたので、その取り扱いは寛大でした。ルカとアリスタルコはパウロの世話係として同行を許されていました。この27章を自分たちもパウロと同じ船に乗っているような気もちで読んでいけるのは、同船していたルカが、「私たちは」という語り方で、そのときの経験を具体的に書いてくれているからです。シドンに入港して停泊中も、パウロは友人にもてなしを受ける自由を与えられます。百人隊長はパウロには逃亡や反逆の危険が全くないと判断したからでしょうが、通常はあり得ないことです。パウロ一行を乗せた船はシドンから出帆しますが、向かい風が強かったので、風を避けながら島影の航路をとりつつ進みました。船がクレテ島まで進んだとき、パウロはこの先の航海の危険を警告しました。しかし百人隊長はパウロのことばより船主や船長を信用して、航海に踏み切ってしまいます。(使徒27:11)いくらパウロを尊敬し信頼しているとは言っても、パウロは航海に関しては素人です。船主や船長の言うことを重んじたとしても仕方がありません。結果として、パウロの警告を無視して出航することになりました。穏やかな南風が吹いて順調に進むかに見えましたが、まもなくユーラクロンと呼ばれる暴風が吹き下ろして大嵐になり、船は巻き込まれて航行不能に陥ります。島影に入ってようやく救命用の小舟を船体に巻き付け、浅瀬に乗り上げるのを恐れて流れに任せます。翌日には積み荷を、三日目には船具を捨てて船を軽くして浸水を防ぎます。いのちの危険を感じる危機的な状況です。太陽も星も見えない真っ暗な海の上です。どれほどの不安や恐れがあったことでしょう。体は疲れ果て、気力も萎えています。「私たちが助かる最後の(直訳:すべての)のぞみも今やたたれようとしていた」(使徒27:20)と書かれています。そのような場面で、パウロだけは、他の人々とは全く違ったことを考えていました。パウロは「失われるのは船だけで、誰も命を奪われるものはない」と確信していたのです。それはパウロの希望的観測ではなく、御使いのことばです。(使徒27:21~26)パウロは他の人よりもいくらかは我慢強かったかもしれませんが、人間的に何の希望も見いだせない状況で神さまのみことばがなければ、パウロだってどうしょうもないわけです。私たちの歩みは過去のうまくいった経験や余力で乗り切れるほど甘くはないのです。パウロがそのことばを受けたのはいつだと書かれていますか。それは昨夜です。昨夜までは、パウロだって不安や恐れがあったはずです。ただし、「主が無駄に苦しみを負わせるはずはない。自分は無意味な死を遂げるわけがない。」という信仰はあったでしょう。
ここまでのポイントを整理します。パウロは囚人です。しかし、彼をローマに護送する責任者である百人隊長ユリアスは、信仰はありませんが、パウロによくしてくれます。パウロの船には、ルカとアリスタルコという兄弟たちも乗っています。同時に多くの囚人も乗っています。ローマに行って証することは、あきらかに神のみこころです。パウロはこれまで経験と霊的判断から、出帆の日を延ばすようにあらかじめ忠告を与えますが、責任者がそれを聞き入れず強行したため、予想通り逆風が吹かれ、いのちの危険にさらされます。
信仰の途上では、パウロの経験したこと同じではなくても、この逆風や嵐にたとえられるような多くの困難があります。自分の気もちはあっても、前に一歩も進めない状況におかれることがあります。まわりの人を巻き込んで、逃げられない同じ船の中で、自分の信念や生き方を問われる場面もあります。信仰があるから、運良くそういうところを逃れられるというわけではありません。私たちは、信仰のある人やない人、権力のある人やない人と一緒に、運命を同じくする船に乗って、不安定な海の上を旅しているのです。
私たちは一体何のためにこの船に乗り、どこへ行こうとしているのでしょう。そして私たちは何を信じているのでしょう。船は私たちの家族でもあり、地域でもあり、会社やその他の人間関係でもあります。私たちがその関係性を煩わしく感じて、別の船を用意したとしたら、福音は正しく伝わるでしょうか。ことさらに学校や仕事や生活を、この世から分離ささたようとするあらゆる考え方は、主に対する愛からではなく、むしろその反対であると私は思っています。
しかし、同じ船に乗っていればいいのではありません。自分の選びや召し、そして役割がわかっていないと、船はただ風に流されるまま、運命を風任せにする他ないでしょう。もし、クリスチャンである私たちが同船する人に対して忠告も助けも与えられずにいるとしたら、その存在価値とは一体どこにあるのですか。 今日のメッセージの中心は、私たちは自分の乗っている船の中で、責任を負い、どんな発信をしているのかというチャレンジです。パウロは囚人であり、276人いた乗組員のひとりです。しかし、この船におけるパウロの影響力と存在価値はどれほど大きかったでしょう。私たちは自分の乗っている船の中で、どれほどの影響力を持っていますか。目立たず忘れられている人ですか。何の発言も発信もなく、人知れず教会に来ていますという人だとしたら、それは間違いです。それはクリスチャンの姿ではありません。教会は、船からはみ出た人どうしが、嵐を避けて肩を寄せ合う場所ではないのです。また、みことばをあずかる人々が、波も風もない向こう岸にいては、嵐の渦中にいる人に対して説得力がないのは当然です。
では、教会のこの世における役割は何ですか。嵐のただ中で出来ることは何ですか。もう少し先へ行きましょう。
 アドリア海を漂流して14日目の夜、激しい嵐もどうやら納まり船が島に近づく気配を感じました。水深を測ってみると次第に浅くなっているので、暗礁に乗り上げるではないかと心配して、錨を投げおろして夜明けを待ちます。ところが水夫たちは、自分たちだけ助かろうとして錨をおろすふりをして小舟をおろして逃げ出そうとしますが、パウロは全員を助けるためにそれを止めます。そして、彼らに食事をするようにすすめます。パウロは一同の前にパンを取り、神に感謝の祈りを捧げて食事をします。それはまさに聖餐式の雛型です。このような状況で、パウロは人々を神への感謝の中に招き入れました。もう一度思い出してください。パウロはローマへ護送される囚人のうちのひとりに過ぎません。しかし、パウロは乗船者一人ひとりの命に心を配って、まるで主人のように振る舞っています。 クリスチャンは、この世の人たちの出会う苦しみや悲しみをともに分かちあいながら、その逆風の中でも神のことばだけを信じ、希望を告白し続け、そして、十字架と復活の恵みの中へ招き入れることです。
 ついに浅瀬に乗り上げ座礁したので、兵士たちは囚人が逃げることを恐れて、殺す計画を立てます。しかし、あくまでもパウロを救いたかった百人隊長の好意によって、結果的に全員のいのちが守られることになります。パウロが語ったことばどおり、船は失いましたが、全員が無事に陸に上がることが出来ました。
 当然のことながら、この世の人々の判断は、ことごとくみことばにはよりません。まず、権威を信頼します。百人隊長は、パウロがせっかく知恵のある忠告をしても、航海士や船長の方を信用しました。(使徒27:11) そして、そのときの状況だけ見て判断します。穏やかな南風が吹けば、「この時とばかり」(使徒27:13)出帆したのです。大多数の人がクレテの港へ早く行きたかったので、判断を誤ったのです。さらに、責任のある人たちが自分の利益だけを考えた行動に出ます。このような状況で水夫が逃げ出したらどうなるのでしょう。残された人たちのことは何も考えていません。嫌らしいのは、皆の安全のために錨をおろすように見せかけて、自分たちだけが逃げるための小舟を準備していたのです。(使徒27:30)今日の日本で行われている偽装や隠蔽の現実を見ると、本当に何を信じてよいのかという気分になります。さいごに、「船が壊れてしまったら、もうおしまいだ」というような絶望的で破壊的な価値観による判断と愚かな行為です。パウロとシラスが捕らえられていた牢のとびらが大地震によって開かれたときも、看守は囚人たちが逃げたと思って自害しようとしました。この場面では、「船がなくなると囚人が逃げる。囚人に逃げられると兵士としての責任が果たせない。だから殺そう」という単純な考えです。職場放棄して逃げ出そうとする水夫よりはましなのかも知れませんが、他に考えようはないのかと思います。これらが、合体したものがこの世の価値観を作り上げているわけで、そういう人たちと同じ船に乗り合わせて、風や波にもまれて生きているわけです。私たちが、強くみことばを信じ、具体的な展望を持ち、そんな世に対して本当の希望を伝えるのです。「岩なるイエスに錨おろせば流さるることなし」という聖歌がありますが、まさにそのとおりです。

2007年11月2日金曜日

10月28日 この鎖は別として

パウロはフェストとアグリッパに対して、非常に力強くシンプルな証をしました。それはエルサレムでのメッセージとほぼ同じ内容で、特に彼がイエスさまと出会った個人的な体験が盛り込まれています。イエスを迫害していた自分が、その名を信じ宣べ伝えることになった180度の人生の転換は、天からの啓示によるものであり、この自分の証こそが、預言者やモーセの語ってきたことの実現なのだというものです。
しかし、ローマ人であるフェストにとっては、そもそも死者の復活などあり得ないことで、パウロが非常に博学であることは認められても、その賢さゆえにあまりにも物事を突き詰めすぎて極端な考えに取り憑かれているようにしか見えませんでした。「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたを狂わせている。」(使徒26:24)とフェストは大声で叫んでいますが、自分の理解や経験を超えた内容について確信に満ちて語るパウロの、圧倒的な迫力に飲み込まれそうになるのを否定したかったのでしょう。だから自ずと大声になったわけです。ある意味では正直な感想です。一方、ユダヤ人であるアグリッパ王は、フェストとは少し捉え方が違います。彼はパウロに向かって、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」(使徒26:27)と言っています。つまり、旧約聖書の預言やエルサレムでの一連の出来事を詳細に知っている分、パウロのメッセージの内容については、フェストよりもよくわかっていたはずです。しかしながら、「信じない」と言えば預言者を否定したことになるし、逆に「信じる」と言えば社会的立場を危うくするし、どうしたものかと困ってしまいました。そこで苦し紛れに、「自分がパウロに対してどうか」ではなく、「パウロが自分に対してどうか」を述べてごまかしたのでした。結局、結論としてふたりともパウロのことばを受け入れてはいません。ただフェストやアグリッパは勿論のこと、同席していた人たちは、みなパウロが無罪であると感じていました。
このパウロのメッセージをテキストにしながら、証ということについて、改めて考えてみましょう。カナン教会がスタートした頃、私はみなさんに「救われた証を大事にしてください」というお願いをしてきました。クリスチャンであるなら、誰でも具体的な証を持っています。そんな証を持っていないクリスチャンは偽物です。証をすることは信じる者にとって非常に大きな喜びです。証を尻込みするようなクリスチャンがいるとしたら、その救いはなはだ怪しいものです。それは、ある日ある時たまたま「気分や状況が救われた」だけで、「新しい生まれ変わり」がないのかも知れません。いのちを得ることと宗教心を満たすことは根本的に違います。いのちに基づく健全な証の特徴は3つあります。まず第1に、パウロが語ったように決まった骨組みがあるということです。回心する前、回心した時、回心した後の3点が非常に明確であることです。イエスの死とよみがえりが、そんな自分の体験とぴったり重なるはずです。第2に、回心を決定づける具体的な「みことば」が主から直接語られているはずです。それは、教理を理解することではありません。みことばがその人の信仰と結びついていのちをもたらすと、そのみことばの種はやがて花を咲かせ実を結び、さらに豊かにそのいのちをつなごうとします。それはとても自然で自動的なもので、苦労も無理もありません。第3に、主の光の中で、新しく進むべき方向性を見出しているはずです。証を持っている人は、信じる前とは違ったものを求めて全く別の平面に立っているはずです。選ばれたこと召されたことを明確に感じているはずです。
もう一度この3つのポイントで、パウロの証を振り返ってみてください。第1のポイントです。パウロは信じる前、「信仰以前」の姿をはっきり書いています。(使徒26:5,9)信じた瞬間のこと、時、場所、状況を明確に語っています。(使徒26:13)第2のポイントです。語られたことばについても非常にはっきりしています。(使徒26:14)第3のポイントです。自分の奉仕者・証人としての選びと召しを具体的にとらえています。(使徒26:16~17)
ご自分の救いについても、是非この3つのポイントで振り返ってみてください。きっと、誰かに無意識に証しているときも必ず、このポイントを押さえておられるはずです。聖書のさまざまな箇所で、主に導かれたしもべたちの大きな変容のポイントになったときの証は、非常にはっきりしています。名前まで変わっています。シモンはペテロとなり、サウロはパウロと呼ばれます。ヤコブではなくイスラエルなのです。ヤコブは虫けらですが、イスラエルは12部族の父です。
後半は、さらに細かいポイントについて、学んでいきましょう。私は、この26章のパウロのメッセージの中で、とても気に入っている表現がふたつあります。そのひとつは、「とげのついた棒をけるのはあなたにとって痛いことだ」(使徒26:14)という表現です。これは人の良心の葛藤について鋭く言い得たことばだと思います。前にも一度ふれたことがありますが、9章に出てくるパウロの回心の場面では、この「とげのついた棒」は出てきません。(使徒9:4)エルサレムのメッセージでも、この表現は使われていません。(使徒22:7)パウロが後になってから、その場面を思い返して、証をする際につけ加えられたものではないでしょうか。パウロはヘブル語で語りかけられたのを聞いたと言っています。(使徒26:14)それは耳に響いたことばではなく、霊に直接語りかけられたものなのかも知れません。
「とげのついた棒をけるのは痛い」というのは、「無意味で不可能なことを意味するギリシャの格言で、クリスチャンを迫害するのは無意味で不可能という意味だ」という解釈もあるようですが、私はもっと深いものを感じます。これはヘブル語で語られたイエスさまのことばです。仮にそのような慣用句が古代ギリシャで使われていたとしても、ただそれだけのことを喩えるために、イエスさまがわざわざギリシャのことわざをギリシャ語がわかるパウロにへブル語で語られたことの説明としてははなはだ不十分だと思います。「とげのついた棒をける」というのは、非常に詩的な表現です。イエスさまの弟子たちを迫害することが正しい神の道だと信じてきたパウロの良心の葛藤や痛みを指しているのですが、具体的に何のことなのかはよくわかりません。それだけに、はっきりイエスさまのよみがえりの力を経験するまでのあらゆる人の葛藤とぴったりくることばだと思います。誰であれ、イエスさまに出会うまでは、「とげのついた棒」を知らずに蹴っているものなのです。とげのついた棒を進んで蹴りたい人はいません。「とげのついた棒をける」とは、「こんなはずじゃない」「どこかおかしい」「なんかへんだ」というような違和感や不快感と同義語なのです。
パウロは「ナザレ人イエスの名に強行に敵対することこそ正義」だと信じていたのですが、同時にそんな自分の心の中に分裂を起こし、強い痛みを覚えていました。そこに痛みが発生するのは、パウロの神を求める思いや渇きが本気だったからです。私たちも間違った教えや思い込みの中で、それが神のみこころだと信じて、大いに間違っていることがあります。しかし、その間違いに薄々気づいていても、また間違いを示されても、その間違いを間違いと認めず、誤魔化したり、すり替えたりするうちに、「正しい痛みの感覚」が少しずつなくなって麻痺してしまうのです。ヨハネ4章に出てくるサマリヤの女を思い出してください。彼女は人の目には男をとっかえひっかえして生きてきたふしだらな女です。5人の男と結婚し、6人目の男と同棲していますが、そこにも幸せは見出せません。しかし、イエスさまは彼女の渇きを知っておられ、彼女に会うためにわざわざサマリヤを通り、井戸の傍らに自らも喉の渇きを覚えた状態で待っておられたのでした。イエスさまこそ、彼女の渇きを満たすまことの夫、7人目の男でした。真実を求める者に、イエスさまは必ず現れてくださるのです。もし彼女が3人目か4人目の夫で「結婚はこんなもの」「人生はこんなもの」「幸せはこんなもの」と妥協していたなら、イエスさまと出会いはなかったでしょう。棒を蹴っても痛くない靴など欲しがるべきではないのです。私はあきらめずに、真実を希求する姿勢は大切だと思います。既存のキリスト教会にどこかアーメンできないものを持ち続け、イエスさまの真実、本当の聖霊の助けや、みことばの光を求めておられた方が、インターネットなどを通して、この小さな集まりにつながってくださっているのだと思います。それは私に人を満たす何かがあるのではありません。私にあったのは、ただこのサマリヤの女のようなリアルな渇きだけです。イエスさまがくださるのは井戸からくんだひしゃくいっぱいの水ではありません。決して枯れない井戸そのものを私たちの内側にくださるのです。自分の渇きに対して妥協しない人は、渇きを満たされます。妥協は罪なのです。渇きを満たすための誤魔化しやすり替えが、すなわち偶像礼拝なのです。彼女はただの男好きではなく、ただ水を求めていたわけでもありません。そして対人恐怖症の臆病者でもありませんでした。彼女は水をくみに来たはずなのに、水がめを置いて町へ行きました。人目を避けていたはずなのに、自分から証をしにいったのです。このサマリヤの女にも、健全な証の特徴はすべて当てはまります。
私が気に入っているもうひとつの表現は、「この鎖は別として、私のようになってくださることです。」(使徒26:29)ということばにある「この鎖は別として」です。これは、囚人や被告人が自分の運命を左右する人々に対して発することばとしては、はなはだ不適切ですが、超越したことばです。私たちはこの世にいる以上、何らかの鎖に縛られるでしょう。しかし、パウロは何にも縛られてはいませんでした。むしろ多くのしがらみに縛られているのは、フェストやアグリッパの方でした。パウロをとらえていたのは、ローマではなく主でした。パウロはローマの囚人ではなく主の囚人でした。(エペソ3:1,4:1)(Ⅱテモテ1:8)そして、パウロの心を縛っていたのは聖霊でした。(使徒20:22)このパウロのことばには、「縛られているのは私ではなくあなたがただ」という痛烈な皮肉が含まれているのです。
何であれ、不自由を感じる鎖に縛られている人は、自分を縛っていた鎖で他の人を縛ろうとする傾向があります。親が子どもをしつけるとき、先生が子どもを教えるとき、その人が何に縛られているのかがけっこう明確に見えます。過干渉も放任も根は同じで、ともに中心がずれているのです。同様に、牧師のメッセージにも、その人の育ちや価値観が繁栄されます。「~であるべき」を押しつける人は、みことばより、自分自身の不自由な経験が基礎になっています。「縛られている」と言っても、それは「厳格すぎる」という意味だけではありません。縛られているとは、「自由がきかない」ということです。緩みすぎているのも、デタラメな状態から抜け出せない不自由さに縛られているわけです。聖霊に縛られていることは自由であり、そこには喜びがあります。(Ⅱコリント3:17)パウロが持っていた主にある自由を私たちも得ることができます。それはあらゆる境遇の対処することのできる力です。(ピリピ4:11~13)

10月14日 イエスは生きている

ペリクスというのは実に中途半端な男でした。パウロの話も聞きたいし、金ももらいたい、しかもユダヤ人にもいい顔をしたい。ローマの市民権を持ったパウロを2年間も監禁していたことは、説明がつかないことでした。そんな中途半端な状況のまま、ペリクスは任期を終えます。ペリクスにも悔い改めるチャンスがあったわけですが、彼はその機会を無にしました。ペリクスは、24章でパウロを牢につないだままにして、25章ではその姿を消しています。
カイザリヤにおけるパウロの裁判は、新しい総督フェストの前で行われています。カイザリヤからエルサレムへ上ってくると、ユダヤ人たちは待ってましたとばかりにパウロのことを訴え出て、媚びて懇願しています。パウロをエルサレムに呼び出して途中で殺す魂胆なのです。ところが、フェストはパウロを思いやってでもなく、正義を貫こうとしてでもなく、ただ「自分の都合に合わない」という理由で、ユダヤ人の指導者たちの訴えを退け、逆にユダヤ人たちにカイザリヤに下って来ればよいとしました。こうして、カイザリヤからエルサレムにやって来るパウロを途中で殺害する計画は未遂に終わります。
フェストはカイザリヤへ戻るとすぐに法廷を開き、パウロに関する訴訟を取り上げます。エルサレムから下って来たユダヤ人はパウロを重い罪状を挙げて訴えますが、やはり証拠がありませんでした。パウロはあわてる様子もなく、「私は何の罪を犯して這いません。」(使徒25:8)と、毅然として答えます。本来ならこれで裁判は終わりです。無罪放免でよいのですが、ユダヤ人たちの歓心を買おうとしたフェストは、パウロに「あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを望むか」と尋ねました。前回はユダヤ人の懇願を拒んでパウロにエルサレム行かせなかったので、今回はちょっと点数を稼ごうと思ったのです。ところが、パウロはそのことを良しとせず、カエサルに上訴し、それが受け入れられました。
フェストもペリクス同様、非常に自己中心で、これといった信念もなく、欲望にまかせて日和見的な判断で生きています。もし、エルサレムで待ちかまえていたユダヤ人たちのはじめの要求を飲んで、パウロをカイザリヤからエルサレムへ上らせていたとしたら、パウロは途中で殺されたかも知れません。しかし、主がそれをお許しにはなりませんでした。結果的にパウロの安全が守られるように導かれたのです。しかし、そのまま釈放されるのがみこころだったのでもありません。「ローマで証をすることが自分の使命である」とパウロは信じていましたが、まさにそれこそがパウロに備えられた道でした。後でアグリッパ王がフェストに「もしカイザルに上訴しなければ釈放されたであろうに」と言っていますが、本当にその通りなのです。勿論パウロだって釈放が当然であることはわかっていましたが、あえてローマへの道を選んだのです。「勇気を出しなさい。あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」(使徒23:11)という主のおことばをパウロは一瞬たりとも忘れたことはないでしょう。
パウロをローマへ送る準備をしている間に、アグリッパ王と妻ベルニケがフェストのところにやって表敬訪問にやって来ました。フェストがパウロの裁判についての経過を説明すると、アグリッパ王は興味を持ち、パウロの話を聞きたがったのです。フェストはアグリッパに助言を求めていますが、ルカの書きぶりからすると、フェストがどうしてもアグリッパの意見や力を求めたというわけではなさそうです。(使徒25:14)言ってみれば、ローマの総督がユダヤの客人の暇つぶしのために設けたイベントでした。フェストからすれば、アグリッパは格下ですが、総督に就任して間もないのでうまくやっておきたかったのです。このアグリッパ王とパウロのやりとりは、次の26章にも詳しく出てきますので、彼の背景について、簡単に説明しておきます。ヘロデ・アグリッパの曾祖父にあたるヘロデ大王は、キリストの誕生を恐れて幼子を虐殺した人物です。  大叔父にあたる領主ヘロデ・アンティパスは、バプテスマのヨハネの首をはねました。そして、彼の父であるヘロデ・アグリッパ1世は、ヤコブを殺し、ペテロを投獄しました。このアグリッパ1世には3人の子どもがいて、一人がこのアグリッパ2世で、もうひとりが、総督ペリクスの妻であったドルシラです。そしてさらにもう一人の姉妹が、彼の妻ベルニケです。つまり、実の妹を妻としていたわけです。そんなとんでもない家系に生まれた人物ですが、同時に神殿の守護者であり領主でした。神様はこのような男にも、最高のメッセンジャーを通して福音を聞かせてくださるわけです。アグリッパとベルニケにも、ペリクスとドルシラの時と同じように救いの門は開かれていたのです。
福音は、私たちが自分の目で人を選んで語るものではないことがわかります。備えが出来ているしもべには、主が語る時を必ず与えてくださいます。聞く者よりも、語る者よりも、福音は偉大なのです。そして、福音を伝えるつとめが偉大なのです。救われて間もない人だろうと、大説教者だろうと、伝える人ではなく、預かっていることばが偉大なのです。
フェストがアグリッパに伝えていることばを見ると、フェストは福音を受け入れてはいませんが、パウロの主張のポイントがどこにあるのかは理解しているのがわかります。福音の中心は、「死んだイエスが生きている」ということです。使徒の働きには、何度も「復活の証人」ということばが出てきました。私たちがどうしても伝えなければならないことは、この十字架にかかって死んで生き返った「御方」のことです。決して、人生の成功の秘訣や、未来におこることの予告や、からだの癒しではありません。自分たちの信じ方や正当性の話ではないのです。私が批判しているのは、この中心から大きくずれている現状に対してです。特定の人やグループをターゲットにして貶めるつもりはありません。この御方を捨てるような福音などは、存在しないとパウロは語っています。「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたが急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです」(ガラテヤ1:6~7)パウロはたとえ、天の御使いであっても「福音を汚す者はのろわれよ」とさえ言っています。さらに、なぜそうなるかは「人の歓心を買おうとするからだ」と説明しています。(ガラテヤ1:8~10)
「ただ彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことであり、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。」(使徒25:19)とフェストは言っています。イエスがもし死んだままだとしたら、イエスがどれほど尊敬に値する偉大な人物だろうと、フェストとは関係のないことです。フェストが言うように、それは「彼ら自身」つまりユダヤ人だけの宗教上の問題です。しかし、パウロが主張していることが本当で、イエスがよみがえれたのが事実なら、フェストが無関心であろうと、よみがえられた御方は、今度は救い主としてではなく、裁き主としてフェストの前に立つわけで、フェストも無関心を装ってはいられなくなるわけです。しかし、イエスがよみがえられたことは、通常の感覚では受け入れることは出来ません。「それなら証拠を見せてみろ。よみがえったイエスよ現れよ。しるしを見せよ。不思議を見せよ」となるわけです。しかし、聖霊は、十字架に架かられた御方を示し、この方の死を見てよみがえりを信じるように導かれます。決して十字架から切り離された復活の証拠で人を圧倒するようなことはなさらないのです。イエスさまはトマスに現れたときに彼に向かってこう言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで信じる者になりなさい。」(ヨハネ21:26)これは、トマス自身が「イエスさまの傷跡を自分で確認しなければ信じるものか」となかまに対して語ったことばを受けたものでした。トマスには、他の弟子たちが主を見たという証言を信じられなかったのです。イエスは自分が主であるイエスさまを裏切ってしまったことの挫折感と、愛する御方を失ってしまったことの喪失感に打ちひしがれていました。何らかの理由で他の弟子達と行動をともにしていなかったトマスは、よみがえられたイエスさまと出会うチャンスを逃したわけですが、ただひがんでいじけていたのではなく、イエスさまが十字架にかかって死んだというリアリティーが強すぎて、よみがえられたことがわからなかったのです。よみがえられたイエスさまのからだに傷の跡を確認することは、自分とイエスさまの関係性を確認することです。トマスは、よみがえられたイエスさまが自分のためだけに現れてくださったので、ただただ恐れ入って「私の主。私の神」と言ったのではないと思います。その傷跡にもっともっと深いものを感じたはずです。
私は子どもの頃、母親から「へその緒」を見せてもらったことがあります。幼い私は、そのひからびたみみずのような物体が私と母親のいのちをつないでいた大切なしるしであることを知らされ、母親への感謝の気持ちを持ちました。 イエスさまの傷口を見せられたトマスの心情には、それに近い心情があったと思います。自分とイエスさまとの個人的な絆をその傷跡から感じ、それで「私の主。私の神」と言ったのです。イエスさまのからだの傷跡は、ローマ兵がつけたものです。しかし、それは私のいのちをつなぐための傷です。ただの傷ではない。それは私の罪が負わせた傷であり、その傷口から流れ出た血の贖いによって、私たちは直接神のいのちに結びつけられるのです。
イエスさまは生きておられます。このことを日々リアルに感じることが出来ますように。