2007年12月12日水曜日

12月9日 救い主の誕生 ②

 先週お話したマリヤとヨセフにおこった出来事は、実は私たちクリスチャンの新生の雛型でもあります。マリヤは、言わば「すべてのクリスチャンのさきがけ」として神を宿したわけです。ですから、クリスチャンはマリヤの身に起こった出来事を自分自身の霊的な経験と重ねて読むことができます。
もうひとつの雛型であるアダムとエバの場合と比較して考えましょう。アダムはキリストの雛型です。(ローマ5:14)パウロはひとりの罪人アダムとひとりの義人イエスとの比較の中で、全人類がひとりの人の不義によって罪と死に至り、ひとりの人の義によっていのちを得ると語っています。(ローマ5:17~18)まずエバがサタンにそそのかされ、神のことばよりも自分の感覚を優先した為に、アダムを罪の中にいざない、ともに善悪を知りました。マリヤとヨセフの場合はどうだったでしょう。マリヤが「おことばのとおりになるように」と神のことばを神のことばとして受け入れた結果、ヨセフを救いの計画の中に導きました。このマリヤとヨセフのみことばに対する従順な態度こそが、救い主イエスの誕生の舞台をつくり、新しい時代を開いたのです。
ヨセフは人間の善悪の基準では「正しい人」でした。しかし、彼の正しさや判断は、まことのいのちを宿したマリヤを去らせようとしたのです。神のいのちは聖霊によって宿るものです。人の知恵は御霊のことを理解できず、むしろそれに敵対しようとします。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることが出来ません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2:14) 男は自分の判断や正しさにこだわり、女は自分の感覚に頼る傾向があります。そろってみことばから離れていくいのです。テモテの手紙の中には、今のジェンダーフリーが声高に叫ばれる人権感覚の中では、男尊女卑かと思われるような内容がありますが、パウロがマリヤとヨセフからの、新しいいのちの流れを意識して教会のあり方を示しているものです。(Ⅰテモテ2:8~15)
マリヤの中にあるいのちは罪の影響化にある被造物のいのちではなく、神の御子のいのちです。それは、教会が受け継ぐ永遠のいのちのはじまりを意味しています。人が神のいのちを宿している。この神の永遠の計画が時至ってマリヤというひとりの生身の女性の上に実現したわけです。それは、すべての人がマリヤと同じ霊的経験をするためです。私たちが、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と願うなら、私たちはマリヤと同じなのです。ですから、マリヤを聖母だのといって特別視してあがめることが、いかにとんちんかんで、神のみこころを全く理解していないかがわかっていただけると思います。 (Ⅰヨハネ4:9,13,16 5,12)先週のメッセージの終わりに東方の博士たちのことに少し触れました。彼らの態度は今日の私たちの礼拝の良き模範です。欄外の脚注を見ると、ギリシャ語でマゴスと書かれています。これは、メディア王国で宗教儀礼を司っていたペルシャ系祭司の呼び名だそうです。彼らは占星術を行い、ゾロアスター教に近い信仰を持っていたのではないかと考えられています。キリスト教絵画の中では、彼らはすべての民族の代表ということで、白人、黒人、黄色人種に描き分けられていることが多いようです。7世紀ごろのヨーロッパでは、彼らはアラビアの人たちだとして、メルキオール、バルタザール、カスパールという名前までありました。3人は青年、壮年、老人の姿の賢者として描かれ、それぞれが黄金、乳香、没薬を持っていました。黄金は「王権」の象徴、乳香は「神性」の象徴、没薬は「死」の象徴であると信じられてきたようです。シリアの教会やアルメニアの教会でも、それぞれに別の名前が当てられていましたが、いずれも3人でした。しかし、聖書にはマゴス(複数形はマギ)と書いてあるだけです。人数は書かれていません。捧げものは3種類ですが、1人がひとつずつ持って来たとは書かれていないのです。
彼らは、星に導かれてやってきたと書かれています。星が導くなどということがあるでしょうか。全くおとぎ話や神話のように読んでしまうと、さらっと読み流してしまうかもしれjませんが、これはいったいどういう現象だったのかということを探求する学者も実はたくさんいて、博士が見たのは「惑星会合」という天体現象ではないかと考えられています。「惑星会合」とは、水星、金星、火星、木星、土星の5惑星のうちのいくつかが、重なってまばゆく輝く現象です。博士たちは、これを見たのではないかというのです。現在はパソコンを使って、何年何月という日付を入れると、その年の星の動きを画面上で再現できます。こういうのを古天文学と言います。ケプラーという16世紀の著名な天文学者がいますが、彼はコンピューターがない時代にその説を唱えていたようです。他にも、彗星説、変光星説、新星説、超新星説などいろいろあるようですが、いずれにしても、博士たちが星を見て、その動きや輝きを追いながら旅をしてきたことは事実です。天体の星の動きに精密な規則性をお与えになったのは、神様ですから、その星の動きを利用して、星の規則性を観測する人たちに何らかのメッセージをお与えになったとしても不思議はありません。彼らはエルサレムにやってきました。当然、王なのだから都で生まれるだろう。宮殿のあるエルサレムこそがそれにふさわしい場所だと思って来たのです。彼らの予想ははずれました。エルサレムでは、旧約聖書の専門家が、ミカの預言によって、「キリストはエルサレムではなくベツレヘムで生まれるのだ」と教えます。
しかし、考えて見てください。もし彼らが星を見失わず、まっすぐベツレヘムに来ていれば、ヘロデは幼子を殺すことはなかったでしょう。ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子どもが殺されたのは、博士たちがのこのこエルサレムへ出かけ、星についての証言をしたからです。(マタイ2:7,16)もちろん、博士たちには大きな罪はありません。ヘロデが悪いのです。ヘロデの狂気は、博士たちの喜びと対照的に描かれています。さらに、救い主である王の誕生を喜ばなかったのは、ヘロデだけではありません。エルサレム中の人々はみんなそうだったのです。ユダヤの王の誕生をどうして、別の国の関係のない人たちが拝みにやってきて、その国の人たちはみな恐れるのでしょうか。「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」(マタイ2:3)と書かれています。エルサレムの人々はみな、はっきり言って救い主などいらなかったのです。平壌にもうひとり将軍様はいらないし、平壌の特権階級の人々も同じです。将軍様を人格的に敬えなくても、自分の既得権を失いたくはないでしょう。永田町や霞ヶ関の不正を一掃するような正しい政治家の出現など、そこにいる人たちは誰も望んではいません。私たちは誰もが自分の人生の王でいたいのです。自分が王でいたい人は救い主を拒みます。そして、自分が王であり続けようとする人にはその自由は守られます。人間は自分を作った神を拒み、無条件で救うキリストを拒めるほどに自由な主体として作られているのです。イエスさまは私たちを強引に王座から引きずりおろすことはないのです。私たちが自ら人生の王座を降りることがなければ、救い主は、消されていくのです。マリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と言いましたが、その前にどのようなことばを発しているか覚えておられますか。マリヤは、「ほんとうに、私は主のはしためです。」(ルカ1:38)と言っています。「はしため」というのは、古い日本語なので若い人は何のことかわからないかもしれません。漢字で書くと「端女」、端金の「はした」です。女偏に卑しいという字を当てることもあります。召使いの女、下女という意味です。これは自分を卑下しているのではなく、神を神としているのです。礼拝というのは、「神を神としてあがめること」です。何らかの恩恵や祝福を得ようとすることとは根本的に違います。
幼子イエスは博士たちに何かをもたらしたでしょうか。キリストは全く人間の赤ん坊のように飼い葉桶に寝ているだけでした。博士たちは、神の約束の成就と神が人となったその事実に感動し礼拝したのです。宗教的な御利益を期待したわけではありませんし、彼らは何も得てはいません。彼らはお金を使い、時間をかけて、旅の危険を乗り越えてやってきたのです。彼らは宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬をささげました。(マタイ2:11)先ほど、黄金は「王権」を、乳香は「神性」を、そして没薬は「死」を表していると言われていることを紹介しました。 宝の箱が聖書であると見なせば、礼拝とは、みことばが教える神の栄光とご人格、そして十字架の死について覚え、ともに分かち合い、祈り、歌うことを意味しているように思えます。このように、礼拝とは「神から何かをいただくこと」ではなく、その逆です。「神に捧げること」です。あえて申し上げますが、メッセージが良いとか、賛美が盛り上がること、人が大勢集まるとか言うことは、礼拝の本質とは関係がありません。もちろん、良いメッセージをすること、賛美が盛り上がること、人が大勢集まることを願いもしますし、そのための努力はします。しかし、それはどうでもいいのです。大事なことは、救い主を拝することです。自分の良きものを捧げることです。礼拝が何だかわかっていないと、恵まれるだの、恵まれないだの、自分は仕事や負担が多いだの、少ないだの、わけのわからないことを言い出すわけです。救い主にひれ伏さず、何も捧げない礼拝は礼拝とは言えません。
 イエスさまが、ご自分の肉と血を御父にお捧げになったのは、信仰者としての礼拝の姿です。私たちも自分のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として捧げることが勧められています。(ローマ12:1)それは、御父から見れば、御子を私たちに賜った愛の表現でもあるわけです。ベタニヤのマリヤは三百デナリの香油をイエスさま注ぎました。それは彼女が十字架にかかる前のイエスさまに捧げた礼拝でした。しかし、弟子たちはなんて無駄なことをするのかとつぶやき、マリヤの行為を理解しませんでした。マリヤは香油のつぼを割ってしまったので、壺の中には何も残りませんでした。すべてを注いだからです。 御父は御子イエスを私たちに与えてくださいました。御子は御父にとってすべてのすべてです。主はすべてを私たちにすべてを与えてくださったので、新たに与えるべきものなどもう何も残ってはいません。私たちはすでに与えられた御方の価値をかみしめ、感謝し、この驚くべき計画を成就してくださった御方を礼拝する。それだけです。御子を与えた御父の手元にはもう与えるべきものはないのです。だから、毎回の礼拝で、恵んでください、祝福してくださいというのはおかしい。もう何もかも十分なはずです。 マリヤは、自分が注ぐ香油などとは比較にもならない価値あるものを注いでくださることを信仰によって見ていました。だから、自分が捧げるものには、ほとんど気もとめないのです。それが、この世の他の価値と比べて高価かどうかなんてどうだっていいのです。それほどにイエスさまの愛が私たちの心をとらえるのでなければ、礼拝など出来ません。この世の何かをイエスさまとてんびんにかけていること自体が、すでに礼拝ではありません。  私たちはしばしば、礼拝というものを取り違えて考えているようです。礼拝とはアブラハムがイサクを捧げることなのです。イサクとはアブラハムにとって彼のいのち、祝福のすべてです。みことばに従ってそれを捧げるのが礼拝です。「それでアブラハムは若い者たちに、『あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る』と言った」(創世記22:5)
救い主の誕生とは何でしょうか。父であるアブラハムが、ひとり子イサクを捧げたとき、御使いがその手を止めました。(創世記22:12)イサクは全焼のいけにえにされずに、親子で幸せに暮らしました。しかし、天の父は、ひとり子イエスを十字架に架けて殺すために、この世に赤ん坊の姿で生まれさせたのです。
この世の馬鹿騒ぎから離れ、主を覚え、主をあがめましょう。

12月2日 救い主の誕生 ①

12月は3週間にわたって救い主の誕生をテーマにお話したいと思います。私たちは救い主の誕生について、この当時のユダヤでは、結婚は今日以上に重要な意味を持っていたでしょう。それが突然、救い主を身ごもるわけです。しかも、特別変わった様子もない生まれた子どもはごく普通の赤ん坊です。救い主だからと言って3ヶ月で生まれたわけでもなく、生まれて話し始めたわけでもありません。近くの羊飼いや、遠くから博士が数人拝みにやってきたくらいで、後は時の王様にいのちを狙われるというものでした。夫婦の関係によらずに赤ん坊を抱えたふたりは、故郷にも帰れず身を隠すわけですから、一瞬だけ拝みに来る羊飼いや博士よりも、いのちを狙われることの方が、印象に残ったとしても不思議ではない状況です。後から考えてみると、生まれる場所と育った地域が一応預言通りというだけで、公に現れるまでのまでの資料はほとんど皆無です。12歳のときのエピソードが残っていますが、それも見方によれば単なる迷子事件で、少年時代のイエスさまは、地域でも評判の神童というわけでもないし、ヨセフとマリアとの間に普通に生まれてきた兄弟姉妹たちとそれほど大きな違いを誰もが感じないで過ごされたのです。それは当時の家族の反応や、ナザレの人たちの評判を聞いても明らかです。これが、人間イエスに関する誕生、成長の事実です。
どのような時代に描かれた聖画や彫刻を観ても、イエスさまは一見してそれとわかる描かれ方をしています。しかし、その全ては現実とは全く違っています。そうしたものがどれほど人間的には敬虔な思いや祈りをこめて描かれたものであるとしても、それは人間の勝手な思い込みであり、宗教心を自己満足させるものに過ぎません。そうした偶像の類を神様が喜ばれるはずはないのです。イエスさまは外見上他の人と全く同じでした。神が全く「ごく普通の人」となられた。ここに意味があるのです。それは聖書の最大のメッセージであり、福音の根幹を成すものです。罪人が神の子となる特権を得るためには、神の子が人の子となる必要があったのです。
ですから、「神の子が神の子らしく」現れても意味がないのです。もし、誰かが神の子らしく現れて、その特別な人の特別な何かにあやかろうとしているなら、これは宗教なのです。イエスさまは人々が期待するような御方ではありませんでした。多くの人々はイエスさまご自身にというより、自分自身の欲望を重ねたメシア像に裏切られたわけです。聖書をよく学び知っていると思っているものほど、その字面に裏切られました。神が人に近づいてくださるのであって、決して人が自力で神に近づくのではないのです。人が神を理解するのではなく、神が人に啓示を与えてくださるのです。これはいつも繰り返してお伝えしているように極めて重要な認識です。キリスト教はキリストではありません。むしろ、その現実とはほど遠いものです。今日世界の多くの地域でクリスマスは最もポピュラーなキリスト教イベントとなり、非キリスト教圏においても、宗教性さえも排除した年中行事になっています。本来主人公であるべきイエスさまを抜きにしたお祭りになっています。それは新郎新婦不在の披露宴のようなものです。イエスさまが来られた時も、ユダヤではキリストを予表するさまざまな祭りがありました。勿論それらは厳粛に行われてはいたのでしょうが、そこにイエスさまの居場所はありませんでした。今日の教会の礼拝、聖餐式の中に、またクリスマスやイースターやさまざまなイベントの中に、果たしてイエスさまにご臨在の余地があるでしょうか。
聖書を本当に神のことばとし、これを至上の価値として認めているクリスチャンが、巷に蔓延する非聖書的なクリスマスとどう関わればよいでしょうか。もちろん「こうしなければならない」というようなものは何一つありませんが、ひとつの提案としてお聞きください。まず、クリスマスに行われている習慣が、聖書的には何の根拠もなく意味もないのだということを知り、キリストの誕生に関して預言者たちは何を語り、福音書の記者たちは何を記録しているかをきちんと学ぶことです。そして、キリストの誕生の真実について、この機会を生かして発信していただきたいと思うのです。いかがですか。自信がありますか。イエスさまが私たちにとってかけがえのない御方であるなら、その御方の真実が踏みにじられていることは、我慢ならぬはずです。かと言って、目くじらを立てて批判しても始まりません。知恵が必要です。クリスマスは、親が子にプレゼントを贈ったり、恋人同士が愛を確かめあったり、仲間が楽しくすごしたりするお祭りになっていますが、それ自体が無意味だと責めるのではなく、本来そこになければならないものや本質について、丁寧にご紹介するのがよいでしょう。そして、サンタクロースやトナカイやツリーやケーキなどのクリスマスの登場人物やアイテム、そして12月25日と言った日程についても、聖書の根拠がないことを伝えてあげれば、けっこう目から鱗かも知れません。

2007年12月10日月曜日

11月25日 使徒の働き29章の証

使徒の働きを読んでも、それは初代教会のいきいきした時代に限られたことであって21世紀の教会というのはそうはいかないと考える人もいます。あるいは、それは誇張して伝えられたものであり、限りなくフィクションに近いものだと考える人もいます。しかし、私は言いました。「私たちは使徒の働きの29章以降の時代を生きている」と。私はそう信じています。みなさんはどうですか。私たちは聖霊の働きの最新のページを綴っているのです。もし、そうでないとしたら、私たちがこうして集まり続けることにはいたい何の意味があるでしょうか。
今日、新しい主の働きにあずかるクリスチャンの当然の姿とはどういうものなのかを、「証」という観点から、福音書の中から3つの例をあげて改めて確認したいと思います。福音書の中で起こったことが私たちのうちに成就していないなら、使徒の時代はやって来ないでしょう。使徒時代の現象だけを追ってみても、そこにはあるのは空騒ぎの占いや手品やイリュージョンです。
クリスチャンになってもなお、私には証をするのに十分な「力がない」「これが出来ない」「あれが足りない」と言って神と人との前に言い訳を続ける人がいます。しかし、私たちの無力は、私たちの証の無力とは何の関係もありません。問題は私たちが自分の力を勘定に入れて証を考えていることにあるのです。クリスチャンというのはまず第一に霊的に死んでよみがえった人でなければなりません。本当に死んでしまった人が主によってよみがえらされることはそれ自体が大変な証です。これは、生まれながらにどうような偉大な能力を持っているよりも強烈な証なのです。問題は、私たちの力が少ししかないことではなく、その少しの力にこだわって自分がすでに死んだ者であることを、依然として信仰によって受け入れられていないのです。
ベタニヤのマルタとマリヤの兄弟でラザロという人がいました。彼の性格や能力について、聖書は何ひとつ語っていません。なぜでしょうか。実は、それはどうでもいいからなのです。ただ聖書が語っているのは、ラザロを「わたしたちの友」(ヨハネ11:11)と呼ばれたこと、そして主は彼を愛しておられたということです。(ヨハネ11:5,36)そして、何よりも重要な事実は、「彼は完全に死んでいた」ということです。「死んでから4日も経ってその死体は臭くなっていた」のです。愛する友が病んでいるというのに、一刻も早くかけつけたいと思わない者はいないでしょう。しかし、ヨハネは極めて不可解なことを書いています。イエスさまはマルタとその姉妹とラザロを愛していたので、なお二日出発を遅らせたと言うのです。(ヨハネ11:5~6)姉妹たちは、死にかけのラザロがイエスの力を借りて癒されることを願っていたし、その可能性は信じていました。マルタもマリヤはそれぞれに信仰の質は違うものの、判を押したように同じことを言っています。「主よ。もし、ここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:21,32)つまり、「イエスさまの力を借りるには、たとえラザロが虫の息でも生きている必要があった」と思っているのです。私たちの信仰はどうでしょう。私たちはそれぞれに主に期待してはいますが、自分たちの何かが回復し、出来るだけ傷つかずにそのまま用いられること、持っているものを失わないでそのまま成長することを望んではいないでしょうか。導きは多様で個人差はありますが、死を経ていないものは、主の栄光にはなりません。
主の栄光が現れるためには、私たちは生きている必要はないのです。いいえ、生きていてはいけないのです。完全に死んで4日ほどほったらかしにされてはじめて、主のよみがえりの力をいただけるのです。私たちが主の友で、主に愛された者なら、私たちが死なないで生きていることは主のみこころではありません。私たちが死んで臭くなり、その上でよみがえることがみこころなのです。
主にあって死んでよみがえった者は、それだけで大きな証の力を持っているのです。ヨハネ12章はマリヤが香油を注ぐ極めて偉大な礼拝の型がありますが、これはラザロのよみがえりの次の章であること、その流れの文脈の中でしか読み解けないことを覚えてください。ヨハネは、このマリヤが香油を注ぐ場面によみがえったラザロがいたのだということを読者に印象づけようと繰り返して書いています。(ヨハネ12:1~2)マリヤの奉仕の背景には、当然マリヤがみことばに聞き入っていた姿がありますが、この兄弟たちの信仰がラザロの死を通ったことがさらに大きな証の力となっています。マルタは同じように奉仕する姿が描かれていますが、ここにはつぶやきや不平はいっさいありません。この箇所は香油を注いだマリヤにスポットを当てて書かれていますが、集まって来た人たちのお目当てはラザロでした。(ヨハネ12:9)人々は、死んでよみがえった人を見にやって来たのです。何かが出来るとか何かを語ったとかではない。イエスによみがえらされ、イエスの力で生きているということ、それが最大の証なのです。そんなわけで、第1のポイントは、まことの証は「死んで、よみがえって、そこにいる」ということです。
もうひとつの例はサマリヤの女です。サマリヤの女はイエスさまを信じたことによって、彼女の渇きが満たされたことは言うまでもないことですが、証ということについて考えるとき、劇的に変わったのは、「彼女と町の人との関係性」です。彼女は人目を避けて時間をずらして水を汲みに来ていたのですが、イエスさまを信じてからは、その自分の水がめを置いて町へ入って行き、そして、触れられたくないはずの自分の過去について、自分から進んで話をしています。これは驚くべき変化です。彼女は、「こうあるべき」とか「こうしなければ」とか考えたわけではないでしょう。しかし、サマリヤの人たちは、「あの方は、私がしたことを全部私に言った」と証言したその彼女のことばによって信じたのです。(ヨハネ4:39)イエスさまに渇きを満たされた者は、イエスさまとの出会いを語らずにはいられないものです。もし、そのような衝動がなく、語ることに喜びがないとしたら、その人はずいぶん霊的に不健康であるか、はっきり信じていないかのどちらかです。「あの方は、私がしたことを全部私に言った」というこの単純な証ですが、そこには非常に深いメッセージが含まれています。それは、女がイエスさまに自分の姿を映されたということです。それは、占い師にいろいろ過去を言い当てられたというようなレベルのものではありません。もっと本質的な自分のリアルな姿が、人となられたイエスさまの中に映し出されたのです。町の人たちは、自分の全ての愚かさを受け入れて、きっぱりと何かに訣別した女の大きな変容を敏感に感じ取りました。その証は決して胡散臭いものではありませんでした。このサマリヤの女の証が、今日広く語られているような道徳や処世術であり得たでしょうか。
本物の証は、聞く人をイエスさまの前に引きずり出すような力、主から直接聞きたいという渇きを起こさせます。(ヨハネ4:39~42)「この先生は立派だから、この先生につきたい、頼りたい」と思わせるようなメッセージは、それを語る人も、それを慕う人も怪しいものです。「もう私たちは、あなたが話したことばによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:42) そんなわけで、第2のポイントは、まことの証は「私と私の周囲との関係性を根本的に変える」ということです。信じてもなお、信じる前と同じような人間関係のしがらみをひきずっているとしたら、それはどこかに嘘や偽りがある証拠です。イエスは、「私がしたことを全部言った人」のはずです。大部分ではなく、全部です。全部が主の前に明らかになっていないと、人間関係にも必ずねじれやもつれが生じるのです。
 最後の例は、レビこと使徒マタイの例です。(ルカ5:27~28)レビが召し出される記事は、あまりにも唐突、あまりにもシンプルすぎて、読み流してしまうと、何が起こったのかほとんどわからないような記事です。しかし、しっかり読んでみると、重要な情報はすべてつまっています。 まず、レビは収税所にすわっていました。彼は仕事中でした。そして、仕事にとらわれていたのです。彼の人生、彼の価値観、彼の時間は、「取税人」という決して望まぬ仕事によって運命づけられているかのようでした。本来職業に貴賎はないのかも知れませんが、ユダヤ人にとって取税人という仕事は、間違いなく忌むべきものでした。そんな誰もが見向きもしない、むしろ目をそらしたくなるような人物に目を留めたのはイエスさまでした。レビがイエスさまに目を留めたのではありません。私たちが主を見出したのではなく、主が私たちを発見してくださったのは何と心強いことでしょう。私たちが「あなたについていかせてください」と言ったのではなく、イエスさまが「ついて来なさい」と声をかけられたのです。これも何と頼もしいことでしょう。レビはこのふたつの事実、即ち主に見出されおことばをいただいたからこそ、そこから、立ち上がることが出来ました。そのすわっていた場所から立ち上がったとき、彼は何もかも捨てていました。何もかも捨てることなしには立ち上がることは出来ませんでした。レビはイエスさまに従ったのです。 そしてどれほどの時間が経過したのでしょうか。どのような準備期間や計画があったのかわかりません。レビは自分の家でイエスのために大ぶるまいをし、そこに取税人や罪人たちを大勢招きました。(ルカ5:29) そこは、レビの自宅でした。「何もかも捨てた」人は、「自分の家」を「イエスのため」に開放する事が出来ました。友人たちを招いたのですが、それは友人たちのためである前に「イエスのため」に開かれた宴でした。すわっていた食卓は交わりです。そこに出た料理は決して貧相なものではありませんでした。相対的に見て、「大ぶるまい」と言って差し支えのないものでした。招かれた友人たちは、ちょっとわけのある、レビが声をかけたからこそ、イエスの食卓に出てくる事の出来た人たちでした。普通はそれが難しいものであったことは、パリサイ人たちの批判のことばを見れば明らかです。しかし、イエスさまのお答えにもあるように、レビのこの企画したこの食卓は、救い主の本質を表現するに十分な場面設定だったわけです。(ルカ5:30~32)このように、短いこの記述の中に、多くのメッセージが凝縮されているのです。そんなわけで、3つめのポイントは、まことの証は「イエスのために大ぶるまいをする」ということです。
 今日福音書の3つの箇所から紹介した3つの例は、すべての健全なクリスチャンに見られる健全な証の原則だろうと思います。それは「かくあるべし」という目標としてあげたわけではなく、自然な証はそのような性質を帯びているという説明にすぎません。 改めて自分の証がどうであるかを測り、もし不健全であるなら、健全なふりをして無理をするのではなく、彼らの場合とどこか違っているのかを吟味して、きちんとやり直そうではありませんか。