2008年11月27日木曜日

11月16日 メッセージのポイント

やもめと裁判官のたとえ(イエスのたとえ話29)

     ルカ18:1~8

A 「祈り」は人の価値観や考え方よりも深いところに組み込まれてい る
  ○神のいのちから離れた霊的仮死状態では「本来の祈り」は機能しえ   ない
  ○宗教は「祈りの名残り」を歪んだかたちで経験させる

B 「祈り」は新しいいのちの呼吸
  ○イエスはまことのぶどうの木であり私たちはその枝(ヨハネ15:5)
  ○絶えず祈ることとは・・・・祈りの質を変えていくこと
  「喜ぶこと」「感謝すること」とともに(Ⅰテサロニケ5:16~18) 

C 祈りは神とのつながりや関係性の証
  ○私たちはどう祈ればよいのかわからない(ローマ8:26~28)
  ○関係が深ければ奥の間へ向かっていく(マタイ6:6)
  ○同じことばを繰り返すのは関係が悪い証(マタイ6:7)
  ○すべてのことが「神より発し」「神によって成り」「神に至る」
   (ローマ10:17)
  ○信仰は聞くことに始まる(ローマ11:36)

D アブラハムのとりなしの真実
  ○まず主がアブラハムに御自身の計画を示された(創世記18:17)
  ○アブラハムは主の前に立っていた(同22)
  ○アブラハムは主に近づいて申し上げた(同23)
  ○アブラハムは「親族助けて欲しい」とは祈らなかった(同25) 
  ○アブラハムは自分がちり灰にすぎないことを知っていた(同27)

E なぜ不正な裁判官とやもめなのか
  ○神を恐れず人を人とも思わない裁判官
      ・・・・「人格は最低」しかし「法律を遵守する義務がある」
     →失望しなくてよい十分な理由が神様の人格にある
  ○やもめ・・・・社会的地位が低く相手にする必要感が乏しい
     →祈る側の資質や熱心さは祈りが聞かれることと無関係

F イエスの祈りの本質
  ○目に見える現実と関係のない感謝(ヨハネ6:11)
  ○祈りは祈る側ではなく祈りに答える側にかかっているという告白
   (ヨハネ11:42)

11月16日 やもめと裁判官のたとえ (イエスのたとえ話 28 )

 ルカ18:1~8

クリスチャンにとって祈りとはどういうものでしょうか。人は誰でも、何かしらに向かって祈る心や祈った経験を持っています。特に死者のために黙祷したり、初詣に行ったりするのは、日本人にとってはごく自然なことで、不思議なことに、そのために目を閉じたり、合掌したりすることは宗教的行為と見なされません。また、大きな勝負や運命を決めるような結果を待つときには、無神論者だって何ものかに向かって祈る想いで強く念じるものです。それは、人の価値観や考え方よりもさらに深いところに「祈り」というものが組み込まれているからなのです。
しかし、人は神のいのちから離れ、霊的には仮死状態にありますから、生まれながらの人間においては、本来の「祈り」は機能しません。言わば「祈りの名残」を歪んだかたちで経験しているわけです。もの言わぬ偶像に祈るのであれば、それが人間中心の身勝手なものになるのはやむを得ませんが、新生したクリスチャンがこのような宗教的な祈りにとどまっているとしたら、それは大きな問題です。では、真の神への祈りは、偶像への祈りとどこがどんな風に違うのでしょうか。そのような祈りに関する本質的な問いに今日のたとえは、答えてくれるでしょう。
祈るためには、新しく生まれることがまず第一段階です。祈りとは、その新しいいのちの活動だと理解することが必要です。
祈りは呼吸のようなものです。これは、クリスチャンが新しいいのちによって生きているなら、たとえ無意識であっても実は祈っているのです。私たちはたとえ心が主から離れているときであっても主のいのちとつながっています。イエスさまはぶどうの木で私たちは枝です。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたは鳥です」とは言われませんでした。鳥は枝を選んで意識してそこに留まっています。今空を飛んでいるのか、地面を歩いているのか、枝にとまっているのか、自覚がない鳥などいません。そして、鳥は別の場所へ飛んで行くこともあるでしょうが、枝は努力しなくてもぶどうの木とつながっています。枝は折れなければ何の努力もせずに、ひとつの運命、ひとつのいのちに結ばれています。枝がつながってさえいれば、ぶどうの木の栄養は枝のすみずみにまで行き渡ります。鳥とは違って、枝にはぶどうの木の一部であるという意識さえないほど常にひとつなのです。
その一体感は、胎内の赤ん坊と母親がへその緒で結ばれているようなものです。へその緒は出産後も、母と子の絆を現すものとして桐の箱などに入れてとっておかれます。信仰とは無関係な世界にあっても、「いのちにおいて一体であったこと」が、愛情のベースになるのです。
「絶えず祈れ」(Ⅰテサロニケ5:17)というみことばは、祈りの本質が「祈るという行為」そのものにはないことを裏付けています。祈りが「ある種の姿勢を保つこと」や、絶えず「ことばを発声すること」を要求するのであれば、絶えず祈ることなど物理的に出来ません。眠っている時間を除くとしても、起きている時間をすべて祈っている人など見たことがありません。それでは、パウロは何を言っているのでしょうか。「出来るだけ長時間、熱心に祈ることを心がけよ」という意味のメッセージを詩的表現で語りかけているのでしょうか。私は違うと思います。眠っている時間も無意識の時間帯も、全く別のことをしているときも、すべて含めて「絶えず祈れ」だと思うのです。声に出したり、ひざまずいたりして祈っていなくても、「祈りはいつもつながっているのだ」ということを意識することによって、「祈りの質を変えていくこと」を提案しているのではないでしょうか。
「絶えず祈れ」は、「いつも喜んでいなさい」と「すべての事について感謝しなさい」ということばに挟まれています。つまり、普通人の感覚では「それは出来ない」現実を認識しながらも、信仰による神のまなざしで評価することによって、祈ること、喜ぶこと、感謝することが、あらゆる場合に可能になり、そのことこそ神が私たちに望んでおられることなのだとパウロは言っているわけです。(Ⅰテサロニケ5:16~18)
意識された祈りに関しても、それは特別なものではなく、本来は親子や恋人同士の会話のように、きわめて親しみ深い自然なものです。その親しさや自然さが大事です。つまり祈りというのは「つながりや関係性の証」だからです。かといって、それはことばづかいのなれなれしさや、神へのおそれのないふてぶてしい態度を指しているのではありません。もし「いのちのよるつながり」や「愛による関係性」が祈りのベースにあるなら、祈りのことばはキリスト教用語をちりばめた形式的なものではなく、もっとしなやかで自由なものになるはずです。
折にふれ、私たちは真剣に祈ります。それは深呼吸のようなものです。呼吸を正しくコントロールすることによって、心を安定させたり、体のさまざまな能力を最大限に引き出したりすることができます。家族や親しい友人とでも、改まって深い内容の真剣な話をすることありますよね。逆に、口を開くたびに、言葉遣いは丁寧でも、自分の悩みや要求を一方的に話す人とは、良い関係にあるとは言えません。
何をどんなふうに祈っているかが大事なのです。本人の熱心さなんて祈りの本質とは何の関係もないのです。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊御自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26~28)とパウロは言っています。私たちはどう祈ったらよいかわからないのです。御霊のとりなしがない祈りなど天には届きません。このみことばの前後を読めば、パウロの主張は明らかです。祈りは、「目に見えない不確かなものに希望を抱かせる力」であり、「自分の願いではなく神の計画に委ねることによる平安をもらすもの」だということです。これらのことを理解した上でこのたとえを見ていきましょう。確かに「失望しないで祈り続けることは大事なこと」です。そのことを促すためにこのたとえは書かれています。しかし、それは失望しないことの辛抱強さや熱意を賞賛するためではありません。それは、偽善者の祈りです。主は誰にも知られず、主にだけ知っていただくように奥まった部屋で祈るように言われました。(マタイ6:5~6)親しい関係は往来から奥まった部屋へと向かわせるのです。
また、同じことばをただ繰り返す祈りは何の意味もありません。「また、祈るとき、異邦人のように同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」(マタイ6:7)これらのみことばとの調和の中でしか、たとえの正しい理解はできません。この「やもめと裁判官のたとえ」も、ただ単に「しつこく祈れば、その念が通じる」とおっしゃっているのではないことは明らかです。
 
祈りの起点が人ではないのです。小さな感謝や願いやとりなしにおいても、みこころにかなう祈りは、神が起点であり、みことばに支えられています。あらゆる祈りの場面において人がその起点となることは一切ないのです。祈りは神から始まる霊の循環だと思います。
「信仰は聞くことから始まる」(ローマ10:1718)のです。「すべてのことは神より発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)のです。このふたつの聖句は極めて重要です。私たちが祈りのことばを発し、神の気づかぬことを申告するなどということがあるはずがないでしょう。こういう馬鹿げたことを考えるのは人の宗教です。熱心な長時間の祈りが、こういう常識的な感覚を麻痺させるのであれば、そういう習慣はやめた方がずっとましです。祈りは、「みこころならかなえられる」のです。そして、「みこころははみことばに基づいている」のです。私たちが地上の訴えを天に響かせるのではありません。全地に響きわたった神の声、地の果てまで届いた神のみことばに霊をチューニングするのが祈りです。(ローマ10:18)
アブラハムがソドムとゴモラのためにとりなしたのは、神が御自身の計画を彼に示されたからです。(創世記18:17)彼は祈りにおいて、主の前に立ち、
(同22)そして、近づきました。(同23)アブラハムは、自分の親族を助けてくれと祈りましたか。違います。「全世界をさばく御方は公義を行うべきだ」(同25)と祈ったのです。そして、神は公義を行われました。アブラハムが祈っても祈らなくても神は公義を行われます。しかし、アブラハムが祈ったことには、極めて重要な意味と価値があるのです。
私たちの単なる思いつきやわがままな願いが、神様を動かすといいうのはあり得ないことです。私たちは自由に祈ってよいにですが、その祈りは神さまのみこころに沿ったものでなければなりません。もし私たちがみこころにかなう願いをするなら、100パーセントそれは成就すると書いてあります。しかしみこころにかなわぬことを勝手に願うだけなら、それはどれだけ熱心に祈ろうが100パーセント成就しないはずです。しかし、それは「それじゃあ人間の願いや努力はむなしいのだ」という運命論や決定論につながるものではありません。そうではなく、神が私たちのために建てられた計画は、私たちの思いを越えたすばらしいものであり、私たちを愛する愛と、キリストの贖いの上に成り立っているものです。神から出た祈りはその事実に気づかせるのです。祈りの戦士や祈りの勇者などがいて、神の栄光を横取りするような話は神から出たものではありません。主の祈りの一番はじめは何ですか。「御名があがめられますように」です。アブラハムは祈りにおいて、主に近づき迫れば迫るほど、自分がちりや灰にすぎないことを学びました。(同27)
では、今日のたとえをさらに細かくみていきましょう。このたとえの中で神様は何にたとえられていますか。「神を恐れず人を人とも思わない裁判官」です。ある側面を明確に印象づけるためにイエスはいつも父を妙な者にたとえられます。ここにはふたつの重要な情報があります。一つはこの人は「神を恐れず、人を人とも思わない」ということです。もう一つは、「裁判官」だということです。
 まず、この男は人格的には最低です。しかし、法律に従って裁かなければなりません。そういうことです。では神様はどういう方ですか。人を人とも思わぬ御方でないことは明らかです。しかし、こんな最低の人間性の裁判官であっても、「うるさくて面倒だ」という理由で裁きをするのなら、憐れみに満ちた父が正しい裁きをいたずらに遅らせたりすることはないということなのです。つまり、最も重要なポイントは、こちらが失望しないで祈り続けることではなく、「失望しなくてよい十分な理由が神様の人格にあるのだ」ということです。神様はどういう御方かを思い起こさせるために、わざわざ「人を人とも思わぬ裁判官」が登場するのです。
 同じことをくどくど祈ることには何の効力もありません。それはかえって神様を侮る行為です。神様は私たちが祈る前から私たちの必要を知っておられます。祈ることによって神様が知らない情報を伝えているのだと思っているとしたら、それはとんでもない思い違いです。逆に、本当の祈りは、祈ることによって神様が私たちに何を望んでおられるかを教えるものなのです。結論は何ですか。「神は速やかに裁かれる」ということです。これは誰がどれだけ祈ろうが祈ろうまいが裁かれるべきものは裁かれるのです。
 祈る側の人間が、金持ちでも役人でもなく「やもめ」であるというのも重要なポイントです。当時のユダヤにおけるやもめの社会的地位はきわめて低いものだったと想像できます。「祈る側の熱心さも、祈る人の資質も、祈りが聞かれることとは関係がない」ということです。祈りに答える側の神の憐れみ深さと公明正大さにすべてがかかっているわけです。だからこそ、誰が祈っても正しく応答してくださるのであり、そこに希望が持てるのです。
「長く熱心に祈ったもの勝ち」などというおかしな価値観を持ち込むと、怪しげな宗教が出来上がってしまいます。これこそ、人の宗教です。エリヤとバアルの預言者たちの対決を思い出してください。長く激しく熱狂して祈るのは、偶像信者のものすごくわかりやすい特徴です。このやもめの祈った内容は、「相手を裁いて、わたしを守ってください。」というものです。一見わがままな内容でえこひいきを要求しているかのようにも思えますが、不当な扱いを受けていることを訴えているのであって、正しい基準が適用されれば、問題は解決されるというものです。彼女は正しい裁きを求めているのです。このやもめの状態が当時のユダヤ人の歴史的現実と重なります。こうしたことを十分理解した上で、このたとえを自分の信仰の中に生かしてください。
 
 このことばを心にとめましょう。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰が見られるだろうか。」(ルカ18:8)このみことばどおりであるとしたら、イエスさまが来られるときには、地上に本当の信仰を見いだすことが難しい状況が生まれているはずです。もしかしたらおかしなキリスト教は広がっているかもしれません。しかし、みことばを見る限り本当の信仰はあまり期待できないのではないでしょうか。
このたとえの中でやもめの熱心さは賞賛されているでしょうか。答えはNOです。「まこと神様は人を人とも思わぬような裁判官とは違う」とおっしゃっているのです。しつこいやもめは、単に夜昼神を呼び求めている選民のたとえにすぎません。別にそのような祈りが良いのだと褒められているわけではないということをしっかり理解してください。だからこそ、「果たして地上に信仰が見られるだろうか。」とおっしゃっているのです。私たちに必要なのは、熱心としつこさではなく神への信頼と平安です。
イエスの祈りを見てみます。5つのパンと2匹の魚で大勢の人を養われたとき、イエスはどのタイミングで何と祈られましたか、具体的にことばは書いていませんが、イエスは「パンをとり、感謝をささげてから、座っている人に座っている人に分けてやられた」と(ヨハネ6:11)なっています。小さい魚も同じようにして分けられました。弟子たちが「何になりましょう」とつぶやいたそのわずかなパンと魚のために、イエスは父に感謝されたのです。「足りない、もっとくれ」としつこく祈ってパンが降ってきたのですか。違いますね。また、ラザロをよみがえらされたとき、「わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださること知っておりました」(ヨハネ11:42)と告白しておられます。しつこく祈ってパワーを獲得したのではありません。これらの記事にから「祈りは、祈る側の熱心ではなく、祈りに答える御方にかかっている」というメッセージを読み取ることができます。そして、これこそが今日のたとえのポイントでもあります。
もう一度整理します。「失望しないで祈り続ければいつか神様は聞いてくださる」と言っているのではありません。そうではなくて、「今すぐ結果は見えていなくても、神様は信頼に足る御方だから、失望しないで、いつも希望を告白し、すでにそれを得たかのように感謝しなさい」と言われているのです。
 どうでしょうか。御霊の導きに従って、聖書の他の箇所との調和を考えて読んでいかないと、イエスさまの人格とはかけ離れたとんでもない教えが生まれるメカニズムがおわかりいただけましたか。 ただ主に信頼し、そして祈りましょう。
 

11月9日「ミナのたとえ」に関するお詫びと訂正

300デナリの香油を5回注いでも1500デナリです。1タラント(=6000デナリ)あれば、マリヤさんは20回注げるのでした。単純な計算を間違って嘘を申しておりました。
みことばの本質に関わることではありませんが、お詫びして訂正いたします。他にも間違いがあれば遠慮なく教えてください。ご意見、ご感想もお待ちしています。
salt@kcn.jp

11月2日 メッセージのポイント

11月2日     邪悪な時代(イエスのたとえ話27)

             マタイ22:1~14

A 邪悪な時代はその邪悪さを自覚しない
  ○イエスに酷評されたユダヤ教指導者は尊敬の的(マタイ23:2, 7)
  ○知識の深さ、厳格なライフスタイル(ガラテヤ2:11~14)

B イエスの律法学者・パリサイ人批判のポイント
  ○彼らが何を主張したかではない(マタイ23;3)
  ○偽りの父から始まる偽りの系譜(ヨハネ8:31~44)
  ○指導者が最も大きな救いの妨げとなる(マタイ21:42, 23:15)

C 神のことばを聞いてそれを守る人たちの幸い
  ○幸いなのは神のことばを聞いてそれを守る人たち(ルカ11:28)
  ○個人が特定の団体への所属をもって承認することなどない
     →家族や肉親でさえひとくくりとは見なさない(マタイ12:46~50)

D 邪悪な時代が求める「しるし」と「不思議」
  ○イエスは「型」や「影」ではなく「本質」であり「実体」
  ○イエスを見たものは父を見た(ヨハネ14:7,9)
  ○日々みことばを味わうことがイエスと出会うこと(ヨハネ6:63)
  ○ヨナやソロモンに劣ると見えた人間イエス(マタイ12:41~42)

E 変貌の山で3人の弟子が見たもの 
  ○神の栄光を完全に現すのは誰か(ヘブル1:3)
  ○神と人との仲介者は誰か(Ⅰテモテ2:4)
  ○神が満足するのは誰か(マタイ17:5)

F 邪悪な時代に必要なことは
  ○みことばを聞いて逆らうといっそう悪くなる(マタイ12:43~45)
  ○人に惑わされないこと(マタイ24:4)
      →大事なのは新しい創造(ガラテヤ6:15)
  ○悔い改めが求められている(マルコ1:1~2,15)
      →悔い改めが福音の根を支える(使徒17:26~31)
  ○バプテスマのヨハネに「しるし」も「不思議」もない

2008年10月24日金曜日

10月19日 メッセージのポイント

披露宴のたとえ (イエスのたとえ話 26)

 マタイ22:1~14

A 神を拒む3つのたとえ
  ○ ふたりの息子のたとえ(マタイ21:28~32) 
  ○ 悪い農夫のたとえ(マタイ21:33~44)
  ○ 披露宴のたとえ(マタイ22:1~14)
     「ユダヤ人の指導者たちが、待ち望んでいたはずのキリストであるイエスを拒
     むことによって、罪人や異邦人たちに救いが広がっていく」
         →唯一の神からの栄誉よりも互いの栄誉を重んじた(ヨハネ5:44)
         →新しい着物を着ようとは思わなかった。
            古い権威への執着(マタイ21:23,45~46)

B 披露宴の象徴するもの
  ○ 王・・・・父なる神     
  ○ 王子・・・・御子イエス
  ○ 披露宴・・・・教会の交わり 
  ○ 招待しておいた客・・・・ユダヤ人
  ○ 大通りで集められた人・・・・異邦人 

C 「礼服」こそが参加資格
  ○ 当時のユダヤでは、王は招待客に晴れ着を送る習慣があった
  ○ 礼服を着ているかいないか・・・参加資格は「人」ではなく「服」
    「礼服を着ている悪い人は楽しく飲み食いしているのに、礼服を着ていない良い
    人は手足を縛られて放り出されているということも当然起こり得る」
  ○ 礼服はイエス・キリストの義による贖い
  ○ 礼服を着ていくことは信仰の告白 
    「私は罪人であり、イエスおひとりが義であり、そのイエスの義が私の罪を覆っ
    ている。だから神はキリストの義のゆえに罪人の私を、そのままで受け入れる
    ことができる」(ガラテヤ3:26~27)
  ○ 礼服を軽んじることは威光を傷つけ名を汚すこと・・・・救いの拒絶
  ○ イエス・キリストを日常的に着ていること(ローマ13:14)

D 天の御国とは
  ○ 父なる神のご人格そのもの(マタイ22:2)→イエスを味わうこと
  ○ 人となられたイエスがおられない世界は本質的に空っぽ

10月19日 披露宴のたとえ (イエスのたとえ話 26 )

マタイ22:1~14

先週に続いて、宴会のたとえ見ていきます。前回は「ある人のある宴会」だったのに対して、今回は、「王が王子のために催した結婚披露宴」という設定です。少し具体的ですね。この「披露宴のたとえ」(マタイ22:1~14)は、「ふたりの息子のたとえ」「悪い農夫のたとえ」とあわせて共通のテーマで語らえた言わば3部作のたとえの最後の部分です。「ユダヤ人の指導者たちが、彼らが待ち望んでいたはずのキリストであるイエスを拒むことによって、罪人や異邦人たちにも救いが広がっていく」というメッセージを、この3つのたとえは伝えています。イエスはその異邦人たちの救いの計画を語りつつ、その根底には本来招かれていたはずのユダヤ人に対する深い悲しみが表現されています。従って、福音の世界的な広がりを暗示するたとえでありながら、何ともせつなく、どうにもすっきりしない印象を受けます。聞き手の抱える問題のゆえに、イエスはたとえに宴会の楽しさや本質を盛り込むことができなかったのです。
ユダヤ人の指導者たちは、唯一の神を教えられながら、救いを心や思想の問題にすりかえてしまいました。人間の言い伝えや規則を民衆に説きながら、それによって自分を高めようと努力していました。神様に罪が赦されることより、人から尊敬されることやよく思われることを重んじたのです。(ヨハネ5:44)また、群衆たちも、最初はご自分が救い主であることの証拠としての癒しや奇跡を行われている間はイエスに付き従っていますが、政治的状況が改善されないことを見て失望し、やがて離れ去っていきます。先々週にお話した「古い着物に新しい着物を継ぐ」という愚かな目論見は、いずれをも無価値にしてしまうのです。古い着物一枚しかないときには、それを着るしか選択肢はないわけですが、新しい着物があればそれを着ればいいけです。わざわざそれを切り刻んで、古い着物を繕う必要はありません。ところが、彼らは新しい着物をそのまま着ようとは思わなかったのです。今日のメッセージの核心部分もこの新しい着物と関連しています。あくまでも自分たちの古い価値観のものさしでイエスを測り、相互の評価や既得権にこだわっています。(マタイ21:23,45~46)
このたとえの中で、語られている王とは「父なる神」であり、王子とは「御子イエス」であり、披露宴とは「教会の交わり」すなわち「救い」です。そして、招待しておいたお客は「ユダヤ人」を、大通りで集められた人は「異邦人」を指しています。当時のユダヤでは、客を招待しておいても時刻は知らせず、準備が整ってから召使が案内して回るのが普通でした。ユダヤ人は自分たちが招かれていることを承知の上で、はっきり拒みました。その理由は畑や商売などのためでした。(同22:5)宴会への出席を拒んだ理由については、ルカが紹介したたとえほど詳細は書かれていないのも特徴的です。仕方なく、しもべたちは通りに出て行ってあらゆる人を招きました。こうして、世界中に福音は広がり、たまたまそこにいあわせたような人、旧約聖書を知らない昨日まで偶像を拝んでいたような私たちにさえ救いが及びました。ですから、その中にはいろんな人がいて、中に礼服を着ていない人もいました。    
ユダヤでは旧約の時代から、王様は招待客に晴れ着を送る習慣がありました。この礼服こそ、最大のポイントなのです。この礼服とは何を意味しているのでしょう。果たして、王はそれぞれの「人」ではなく「礼服」を招いたのでしょうか。救いとは単なる天国の数あわせのようなものなのでしょうか。しもべは、誰でもいいから、往来で見かけた人を良い人も悪い人も集めて来たわけです。良い人が受け入れられ、悪い人が拒まれるというのなら、まだ納得がいきますが、ここでは「礼服を着ているか着ていないか」ということが、この披露宴の参加資格になっています。礼服を着ている悪い人は楽しく飲み食いをしているのに、礼服を着ていない良い人は手足を縛られ放り出されるということも当然起こり得るのです。この極端なまでの扱いの差はどうしてなのでしょう。皆さんは不思議に思われませんか。このたとえは、「礼服」が何を象徴するものなのかわらなければ、絶対理解できないし、納得のいかないたとえです。私もはじめてこのたとえを読んだときには、何となく気分が悪くなりました。もともとどんな種類の宴会も嫌いな私は、誰がこんな王様の招きに応じるものかと反発を覚えました。つまり、簡単に神さまの思惑通りには反応したくない。安易に神さまにしっぽをふって気に入っていただこうなんて思わなかったのです。これは、無知だった頃の私の個人的な感じ方でした。しかし、この礼服の意味することの深さと愛がわかり、自分の罪がわかり、今ではこの礼服なしに神の宴に出ようなどということは想像だに出来ません。
この礼服は、神が備えられた新しい着物です。それは、イエス・キリストの義を象徴するものです。そしてそれを着ていくという行為は神への信仰告白です。その告白の内容はこういうものです。即ち「私は罪人であり、イエスおひとりが義であり、そのイエスの義が私の罪を覆っている。だから、神はキリストの義のゆえに、罪人の私をそのままで受け入れることができるのだ」という告白です。ですからこのとき、「私が何者であるか」ということは大事なことではないのです。たとえの中で、全くどうでもいいような人がその個人の資質とは無関係に、言ってみればかなり乱暴に招かれていることにちょっと奇異な、あるいは不快な印象を持たれたかも知れません。しかし、そういう描き方をしなければ、この一番重要な救いの真理は伝わらないでしょう。招かれる側には「礼服を着ている」ということ以外には、王がプラスの評価する要素は何一つないのです。(ガラテヤ3:26~27)ですから、逆にその礼服を着ていない人は、王からもらった礼服を軽んじることによって、その威光を傷つけ、名を汚したのです。つまり、披露宴そのものを軽んじたのです。先程お話ししたように、この礼服は招かれた際に、王のしもべによって無料支給されていました。誰でもその気になれば、それを羽織って参加することが出来たのです。そして、それはキリストの義と贖いの必要を認めず、自分の罪を軽んじ、救いを拒んだことに等しいのです。
救いは、決して人間の努力や犠牲によって得られるものではありません。「天の御国は、・・・王にたとえることができる」とこのたとえの冒頭にあります。(マタイ22:2)天の御国とは、父なる神ご自身の人格そのものなのです。これこそ、救いにおける最も重要なポイントです。宴会の本質はまさにそこにあります。宗教の描く天国は、「平等で平和な世界」「病気や死がない世界」というようなものでしょう。祈りのことばや賛美の歌があっても、そのことばが流暢で、声が大きくても、人となられたイエスがおられない世界は本質的に空っぽなのです。なぜなら、イエスは御国の王子であり、王は結婚を祝いたいのです。この結婚とは、キリストと教会の結婚です。つまり、この祝宴は、「神と人とがひとつになるという奥義」を表現した祝宴です。それがどれほど重要なものであるかは言うまでもないことです。何にも勝って最優先すべき事柄なのです。王と王子はひとつです。父と御子がひとつであるように神と人が一つになり、兄弟たちもキリストにあってひとつになるのです。救いとは、神がどのような方かということを味わうことに他なりません。前回は、私たちの中にある最も大切な救いの証は、「イエスに対する愛」であると申し上げました。愛する相手がどのような人格の持ち主であるかを知らずに愛することなど絶対出来ません。神のひとり子イエスを知ることが父を知ることであり、イエスによって示された愛が私たちへのメッセージです。神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛されたのです。(ヨハネ3:16)御子を与えた父は、御自身以上のものを与えたののです。この王(王子)とひとつになってユダヤに来られたのです。(マタイ21:5)以上が、私たちがこの宴会に集って味わうべき内容です。
私たちがそれを味わう前提として、御子の血による贖いが、まず父の義をなだめています。「父の義をなだめる礼服」がひとりひとりのために準備されることなしに、この婚礼の祝宴はありませんでした。礼服は神の小羊イエスの血が流され、その皮を提供することで得られたのです。「なだめの供え物」とはそういう意味です。そもそも、この宴会は私たちが計画したり、参加をお願いしたりしたのではありません。パーティ―券を買ったのではなく、一方的に礼服を与えられ招かれたのです。これはすべて父の企画、父の演出です。この結婚は父の願いであり喜びなのです。そして、それは何よりも王子のためです。招待客のために披露宴を催すのではありません。救いを救われる側の人間中心ではなく、救う御子中心の視点でとらえて聖書を読んでいけば、これまでとは違うものが見えてくるでしょう。長い時間かけて準備され、待ち望んで来られた父の熱心さに比べたら、私たちは、このたとえにある通り、「たまたま道を歩いて王のしもべに出会った悪人」に過ぎないわけです。「誰も私を十字架につけたものはいない。自分から十字架にかかるのだ」(ヨハネ10:18)というのが、イエスの証言です。こういう角度から十字架や復活を見ていく必要があります。古い衣に新しい衣を継ぐようなみことばの引用は避けるべきです。古い衣を脱ぎ捨てて、新しい衣をそのまま着るのです。それが礼服を着て宴会に参加するということです。
救いに関するもうひとつの大きな誤解をもう一度はっきり修正しておきましょう。それは、「救われればいくらか立派になるはずだ」という考えがやはり根深くあることです。つまり、何らかの超自然的な力で道徳的になっていくのではないかと思うのです。生まれながらの人間性を改良、あるいは修正して立派になれると考えるのは大きな間違いです。聖書は生まれながらの人間性を「肉」と呼んでいますが、これは、キリストに反するもの、御霊の思いに敵対するものです。これは、古い着物、古い皮袋なのです。もう一度繰り返します。古い肉に神の領域の霊的なものを継ぎ接ぎすることはできません。古い皮袋に新しいぶどう酒の力がみなぎるとそれは破けてしまうのです。私たちは.全く新しいいのちである御霊の実を結みます。御霊の実は、みことばという種が成長したものです。かたちや色や香りが似ていても、みことばの種が結んでいない実は、御霊の実ではありません。品種改良された古きものではありません。クリスチャンでなくても、柔和な人、親切な人はいくらでもいます。しかし、それは、神の前に喜ばれるようなものではありません。それは、白く塗った墓(マタイ23:27)であることが多いのです。礼服を着ていない良い人は神の宴会に連なることは出来ないのです。それが神の基準であり、神の評価です。クリスチャンの妙なエゴを強調する人は、このあたりをどこかはき違えています。自分が値なしに受け入れられていることを思えば、信仰を持っていない人たちを理由なく見下すような態度は間違いであることに気づきます。彼らはかつての私たちのように往来を歩いているだけなのです。御霊の実を結んでいても、イエスから目を離せば罪を犯します。ダビデやペテロの失敗を見れば明らかなように、どれだけ偉大な信仰の人であっても、その人の信じる力が充電されて、その人自身が立派になって、神の助けなしでいられる瞬間などないのです。イエスから目を離せば、誰であれすぐに転落します。救いとは、免許をとるようなものではありません、しっかりと目を見開いて運転し続けることなのです。洗礼を受けておいたから安心とかいうようなものではないのです。
「主イエスキリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:14)とパウロは言っています。礼服を着ていることが、なぜここまで大きな問題になるのかはこれでおわかりだと思います。

10月12日 メッセージのポイント

宴に招かれたなら (イエスのたとえ話 25 )

 ルカ14:15~25

A 救いとは
  ○ この世においては・・・・古きものの変化にすぎない
     ・ 大きな悩みが解決した
     ・ 気分が楽になった
     ・ 何かに励まされた→状況の改善→考え方や生き方の転換 
  ○ 聖書においては・・・・全く新しい創造
     ・イエス・キリストの血による贖い
     ・永遠のいのちの地上での始まり
     ・生まれ変わり

B 救いを証するもの
  ○ 正しい告白(ローマ10:8~10)
  ○ 内なる喜び(ヨハネ16:22~24)  
  ○ イエスへの愛(Ⅰペテロ1:8)

C 宴会のたとえの背景
  ○ 上席を選んで座ろうとする人たちの心にあるもの
  ○ 神の国で食事をする人の幸いとは?

D 宴会の心得
  ○ 招かれたら末席に座れ
  ○ 招くときにはお返しの出来ない人を招け

E  断る理由    
  ○畑を買った(Ⅰコリント3:9)    
  ○牛を買った(詩編147:10~11)    
  ○妻を迎えた(エペソ5:32)    
         ↓ ↓
  「神なしでやっていける」という傲慢
  「神と一緒だと窮屈」という誤解  

10月12日 宴に招かれたなら (イエスのたとえ話 25 )

ルカ14:7~24 

救われるとはどういうことでしょう。私たちが普通「救われた」というとき、「大きな悩みや問題が解決すること」を指したり、広い意味では、「気分が楽になった」とか、「何かに励まされた」とかいう場合も使ったりします。しかし、聖書で言う救いとは、「イエス・キリストの血による贖い」であり、「永遠のいのちの地上での始まり」です。救いは、私たちの存在そのものに関わる問題であって、単に考え方や生き方が変わるとか、状況が改善されるとかということとは全く違う次元の話です。当然、罪の贖いや新しいいのちの結果として、「考え方」や「生き方」も大きく変わりますが、それはあくまでも、後からごく自然に「そのこと自体を目的とせずに」達成されるのです。
もう少し具体的にお話していきましょう。先週、引き取り手のない犬の飼い主を求めてお越しになった方がいましたが、彼の第一声は、「ここはキリスト教の教会ですよね・・・・」でした。それから、「事情のある犬を引き取ったけれども育てられない」というお話をされました。彼の中にあるキリスト教会のイメージが、散歩中の彼の足を止め教会の扉を開けさせたわけです。そのイメージとは、「教会は人を大切にするところだろうから、動物のいのちだって守ってくれるはずだ」というものです。言ってみれば、人助けや・・・今回のケースは犬助けですが・・・こういう小さな徳を積み重ねるところが、彼にとっての教会なのです。その人が別に悪いわけでも軽薄だと言いたいわけでもありません。しかし、多くの場合、教会を訪れる人は、まるでタウンページでふすまの張り替え業者を探すように、個別の悩み解決のためにやってくるわけです。誤解がないように念を押しますが、勿論それはとっかかりとしては間違いではありません。イエスに自分から近づいて行った人たちは、病をいやして欲しかったり、目が見えるようになりたかったりという願いを持っていました。キリストにこのことをしてもらいたいというのは、キリストにそれが出来ると信じている点において意味があります。また、「わたしに何をして欲しいのか」という問いは、絶えず主から私たちに対しても向けられています。しかし、逆にそれは「わたしへの要求はそれだけでいいのか」「一番優先すべきことはそんなことか」という内容も含んでいます。
その犬の件については、聞かれていた方もいたと思いますが、私は次のように答えました。「教会はかわいそうな犬のお世話をするところではありません。教会の働きとは関係ないけれど、力になってくれそうな友人が数名いるので声をかけてみます。」犬の飼い主が見つかりさえすれば、彼が教会に来る理由はなくなってしまうでしょう。結果はどうなるかわかりません。彼は犬の飼い主を見つけて「助かった。救われた」と言うようになるかもしれませんが、それだけでは、彼のもっと本質的な問題は何も解決していません。同様に、英会話やゴスペルで生き甲斐や充実感を味わったとしても、麻薬やアルコールやギャンブルの依存症が治っても、いわゆる教会の奉仕とやらに精を出しても、それが、単に「考え方」や「生き方」のレベルにとどまっているとしたら、「犬の飼い主が見つかった喜び」と大差ないのです。それは悪いことではありませんし、彼のやさしさはむしろ賞賛すべきですが、それは、人生の最優先課題ではないということです。今日の話の核になるのは、この最優先課題です。最優先課題とは、言うまでもなく、「罪の贖い」であり、「生まれ変わり」です。これは「一時的な喜びや解放感」ではなく、「永遠に育まれていく愛」です。神は唯一であって、私たちは、現在生きて働かれるイエスを愛しているのです。「神を愛すること」これがすべてなのです。仏教徒は釈迦を尊敬し、その教えを大切にしていますが、釈迦を熱烈に愛しているわけではありません。また、多くの自称クリスチャンも「教会で祈りを捧げるわたくし」を愛しているだけで、本当の救いは、拒み続けています。十字架はファッションではありません。人間が首にぶらさげるものではなく、人間がそれに磔けられねばならないのです。心が楽になっても思想が充実しても救われません。人間の本質は霊です。人間は霊的な存在です。救いは霊的な変化です。では、私が救われたかどうか、ある人が救われているかどうかは、どうしてわかりますか。天からメンバーシップを表すゴールドカードが降ってくればわかりやすいし、そのしるしやナンバーを確認しあえれば、本物と偽物はもっとはっきりするでしょうが、そんな便利なものは降ってきません。だから、不安になって教団にメンバー登録したり、献金を納め続けたり、洗礼証明書を発行したりするのでしょう。私たちが救われているかどうかを証するものは3つしかありません。そして、それはどれも目に見ることも、手に取ることも出来ません。私たちの証は、「みことばに基づいた正しい告白」(ローマ10:8~10)と「奪われることのない内なる喜び」(ヨハネ16:22~24)そして「イエスへの愛」(Ⅰペテロ1:8~9)です。それ以外は存在しないし、存在してはいけないのです。救いとは、霊においてイエスとひとつになることであり、私たちがその次元で救われているかどうかは、イエスに対する愛によって確かめられるとペテロへ言っています。先程も申しましたが、この3つ目が決定的な決め手です。告白のまねごとや、喜びに似たものには、自分や周囲を錯覚させるほどのフェイクが通用してしまうことがありますが、「イエスへの愛」は誤魔化しようのないものです。ところが、それだけでは満足出来ない人があまりにも多いので、わけのわからない宗教が生まれ、その中に封じ込められていくわけです。先週のたとえの舞台は、レビこと、取税人マタイが催した大ぶるまいの宴会でしたが、イエスも非常に不思議な「宴会のたとえ」を少なくとも2回以上話されたようです。そのひとつをマタイが、もうひとつをルカが紹介しています。今回はルカの福音書から見ていきましょう。(ルカ14:15~24)来週はマタイの福音書を見ます。要点はこうです。「ある人が盛大な宴会を催しました。いざ用意ができて招待客を呼びにいくと、それぞれに事情を言って断り始めます。その事実をしもべから知らされた主人は怒って、新たな招待客を集めるよう命じました」これはまた非常に妙なたとえです。そうまでしてこの宴会を拒む理由が何かがあったのでしょうか。予め招かれていた大勢の人たちが、申し合わせたかのように、苦しい言い訳をして何とか出席を避けようとしています。こんなおかしな宴会は聞いたことがありません。招待客にそろってドタキャンされるような宴会は、一般的に考えれば、企画そのものに無理や問題がありそうな感じがします。例えば、この話を聖書も何も知らない小学生に聞かせたらどういう反応をすると思いますか。「なんて横暴でわがままな王様だ。きっと領民に意地悪ばかりしていたから嫌われたにちがいない」と言うでしょう。普通に考えればそうです。招待客が何としても宴会に出席したくない理由はどこにあるのでしょう。理由として考えられることは、「主催者の人柄がよほど悪い」「宴会が窮屈で楽しくない」「参加すると何らかのリスクを負わされる」というようなものです。他のたとえも、普通に考えるとどこか設定や展開が奇妙であるように、このたとえも相当おかしなものです。「救いを拒む人を責める」のであれば、もう少し気のきいたたとえも出来そうなものです。しかし、イエスはそんなことはすべて承知の上です。その上であえてこのたとえをされたことには意味があるのです。
このたとえは、ある宴会で招待客が上席を選ぶ様子に気づいて注意を促された後に語られたものです。(ルカ14:7~14)そして、直接的には「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(ルカ14:15)と言った人のことばを受けて語られています。このふたつの話を関連づけて読まなければ、細かい読み違えがおこるので、心に留めておく必要があります。みことばを自分勝手につぎはぎしてはいけません。その背景をしっかり理解し、全体の文脈の流れの中で部分を見ていく必要があります。そして、聖書の他の書簡との整合性、そしてその教えが人となられたイエスの人格にふさわしいものであるかどうかを丁寧に検証しなければなりません。今回はまず最初に結論から言ってしまいますが、このふたつのたとえが教えているのは、「招待してくれた人の気持ちや、ともに集う人の気持ちを顧みずに、自分の座る席を気にしているような者は、絶対に神の国の食事を味わえない」ということです。この上席を取り合った宴会は明らかに招いた側も何らかの見返りを期待してのものであり、レビが催した大ぶるまいとは性質は違っていたようです。ですから、「宴会に招かれたなら、上席ではなく、末席から埋めていくように」(ルカ14:10)また、「誰かを招くならお返しが出来ないような貧しく弱い立場の人たちを招くよう」に言われたのです。(ルカ14:12~13)この後半の部分が、後で語られるたとえの中で、最終的に招かれた人たちが、お返しの出来ないような人たちであったことと重なっている理由もおわかりいただけると思います。続いて、宴会を断った人たちの理由を細かく検証しましょう。まず、一人目です。「畑を買ったので、見に行かなければなりません。」(18)みことばによれば、私たちが神の畑であって、神御自身が農夫です。私たちが全く別の収穫を期待した畑を持つことは出来ません。その畑が私たち自身であっても、神に耕されることなく、神から離れて自己管理することは出来ないのです。(Ⅰコリント3:9)二人目の人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」(19)と言っています。要するに神以外の力を金で買い、それを最優先したことに問題があります。象徴的な意味はともかく、実際の畑仕事のために、計画的に牛を買うことは間違いではないし、むしろそれは正しい管理です。仕事をする代わりに一日部屋で祈っても収穫などありません。実際には人なり牛なりがきちんと働いてこそ実りが得られるわけです。ダビデも訓練された家来を持ち、自らも戦士としての技能を保ち、戦いの際には馬や戦車を利用しました。しかし、それを勝利のための必要十分条件とは考えていませんでした。救いや勝利は主の御手の中にあると知っていたのです。(詩編147:10~11)三人目の人は、ちょっと違った理由です。「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」(20)聖書は結婚を否定し、夫婦の絆を引き裂くものなのでしょうか。全く逆です。結婚については、「夫婦は一心同体で、神が結びつけたものを離してはならない」とまで言われています。それでは、何が問題なのでしょう。それは、夫婦のつながりから神を除外したことです。夫婦が一心同体であるのは、あくまでもキリストと教会にあってのことです。(エペソ5:32~33)これはみことばによるのではなく、個人的な観察による私の勝手な思いですが、人間的に愛の強い人は、愛の純粋さを求める人は、結婚生活がうまくいかないケースが多いにように思います。結婚生活は、その雛型があまりにも素晴らしすぎて、神さまのいのちの満たし抜きでは到底やりくりしきれないのです。これは私の個人的な考えではなく神のことばです。キリストと教会の雛型であることを信仰によって意識することになしに、お互いを「本当に尊重し愛し合うこと」は、絶対出来ません。妻のことを、「これは私の骨からの骨。肉からの肉」と讃え尊んだとしても、何かがおこったときに、相手を責めるのが人間です。最初はお互い裸でも恥ずかしくなかったのに、お互いに恥部を覆いました。それは、神のまなざしに耐えられなかっただけではなく、お互いのまなざしにも耐えられなかったのです。なぜなら、人は善とは何であるかを知ってしまったからです。新婚を理由に宴会の出席を拒んだ人がどうして責められなければならないのかもおわかりいただけたでしょうか。それぞれ宴会の出席を拒んだ理由はさまざまですが、三人に共通して言えるのは、「神なしでやっていける」という傲慢、「神と一緒だと窮屈」という誤解です。彼らは予めの招待客であって、主人の人柄や宴会についてある程度の予備知識があった人たちです。だからこそ、宴会主催者の怒りは大きいのです。彼らの代わりに招かれた人たちは、招かれる理由も資格もなかった人たちです。私たちの救いはこの末席から始まります。

10月5日 メッセージのポイント

新しい着物・新しいぶどう酒・新しい皮袋 (イエスのたとえ話 24 )

 ルカ5:36~39 ヨハネ2章 創世記3章

A 取税人レビの回心と大ぶるまい
  ○ パリサイ人たちの論点・あなたの弟子は全然頑張っていないじゃないか・あなたの弟子は楽(らく)をして楽しそうじゃないか
  ○ レビの思い
     ・ イエスと出会って自分が変えられたことが嬉しい
     ・ イエスが自分の催した宴の中心におられることが嬉しい
     ・ 何とかしてイエスを皆に紹介したい
  ○ イエスの答え
   ・ 花婿である私とともにいることを彼らは喜んでいるのだだから、これでいいのだ

B 古い着物と新しい着物
  ○ 当時の人の暮らし(出エジプト22:26~27)
  ○ 古い着物(アダム由来のもの)新しい着物(キリスト由来のもの)
  ○ 古い着物をベースに新しい着物を切り裂いて継ぐことなどあり得ない
    →生まれながらの私たちを脱ぎ捨てて、ギリストの義の衣を着ること

C ぶどう酒と皮袋
  ○ 新しい皮袋は弾力性があるが、古くなると硬くなる
  ○ 新しいぶどう酒は発酵途中で生命力にあふれているが、おいしくない
  ○ 古いぶどう酒は価値がある
  ○ 古い皮袋に新しいぶどう酒を入れるとガスが発生して破れてしまう

D 古い物と新しい物・ふたつのたとえの整合性
  ○「新しいぶどう酒は福音のことで、新しい皮袋はクリスチャン生活のこと。みなさんも救いを受けたのだから、それにふさわしい教会生活を送りましょう」ってホント?
  ○ 新しいぶどう酒は神さまがくださるもの、新しい皮袋は私たちが準備するもの?
  ○ いちじくの葉(創世記3:6)・・・・「古い着物」「古い皮袋」
    皮の衣(同3:20)・・・・      「新しい皮袋」「新しいぶどう酒」
  ○まことの飲み物はどこから来るのかを知り味わうこと(ヨハネ2章) 

10月5日 新しい着物・新しいぶどう酒・新しい皮袋 (イエスのたとえ話 24 )

「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しいぶどう酒を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」(ルカ5:36-39)

 このたとえは、レビこと取税人マタイが自宅を開放して催した宴会の席で語られたものです。パリサイ人たちは、「なぜイエスが取税人や罪人たちと一緒に飲み食いするのか」とたずねた後、イエスの答えには納得いかず、さらに訴えます。それは、「ヨハネやパリサイ人たちは、断食や祈りをしているけれど、あなたの弟子は食べたり、飲んだりしています。」(ルカ5:33)という内容でした。要するに、律法を重んじている人たちはがんばってしんどくてつらいことに耐えているのに、あなたの弟子は、全然がんばっていないじゃないか。楽(らく)をして楽しそうじゃないかと言っているのです。これは実に面白い指摘で、今のキリスト教の世界でも、同じような様子を見ることができます。本当はやりたいことを無理して辛抱している人は、他人にもその辛抱を強要する傾向があります。そればかりか、「どれだけ辛抱しているか」で人を測る物差しにさえします。これは実に宗教的です。放蕩息子とそのお父さんの物語で、兄息子が弟の放蕩を軽蔑しつつどこかでその自由を羨望し、自分は窮屈で辛くてしかもそれを辛抱し続けてきたのに、お父さんは評価してくれなかったじゃないかと文句を言う心理状態と同じです。この問いかけに、イエスがどのように解答されたかに注目しましょう。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友達に断食させることが、あなたにできますか。しかし、その時がやって来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します」(ルカ5:34~35)つまり、イエスの答えは、「彼らは花婿を喜んでいるのだから、喜んでいいのだ。」という主旨のものでした。律法主義者達が、自分の信仰のスタイルこだわっているのに対し、「福音を受け入れた人たちは、単純にイエスとともにあることを喜んでいるのだ」ということです。
 このことをさらにわかりやすくするために、イエスは今日の中心主題である「新しい着物と新しいぶどう酒と新しい皮袋のたとえ」を話してくださいました。なぜあえてこういう表現をしているのか、やがて明らかにあると思います。それでは、宴会をしているレビの食卓に招かれたつもりで読み進みましょう。レビの家に招かれた人達の中には裕福な人もいれば、貧しい人もいたでしょう。おそらく、継ぎはぎだらけの上着をまとった人もいたでしょう。しかし、食卓の上には何種類ものぶどう酒が並んでいたし、料理もふんだんにありました。わざわざ「大ぶるまい」と書かれているぐらいですから、かなりの規模だったはずです。何しろレビは取税人ですからかなりの金持ちです。金はありましたが、多分ケチだったので、こうして振る舞う友もなく、こういう楽しい機会もあまりなかったはずです。ですから、レビはこういうホスト役としては全く不慣れだったと考えられます。この宴会も、お酒や食材はふんだんにあったでしょうが、それほど洒落たパーティーではなく、どことなく締まりのない品格や美意識に欠ける宴会だった違いありません。「趣味の良い」パリサイ人たちにしてみれば、見かねる様子だったのかもしれません。しかし、レビはイエスと出会って自分が変えられたことが嬉しく、イエスが自分の催した宴の中心におられることが嬉しく、そんなイエスを何とかして皆に紹介したかったのです。以上がイエスがこのたとえを語られた背景です。イエスは、そこに居合わせた人たちの心を読み取り、誰もが今身に着け、味わっているものから、わかりやすく話されたのです。
このように、私たちの日常の中には、多くの神の教訓やメッセージが隠された宝のように埋め込まれています。それらをひとつひとつ丹念にみことばによって掘り起こすような感性が必要だと思っています。今年、私がイエスのたとえをひもといてひとつずつ出来るだけ丁寧にお話しているのは、単にそのたとえの意味を解説するためではありません。イエスが人として、この世界で何を見、何を感じ、目に見えない世界をどのように解き明かされたのかを知ることによって、私たちが「今、目にしているもの」を「目に見えない本当の価値」と正しく結びつけるためです。イエスは神の子であるがゆえに、その全知の力で、世界の設計者として、被造物の世界を解き明かされたのではないと、私は思っています。イエスは人としての経験を通して成長され、人としての感性を培われました。目に見えない世界や永遠のことも、人として、信仰によって獲得されたのだと考える方が聖書的です。たとえから学ぶこと、それは、イエスの信仰を学ぶことなのです。
 たとえの内容に戻ります。当時のユダヤ人は大きな布で出来た上着を身にまとっていたようです。その上着を、貧しい人たちは年中ほとんど一枚か、ほんの数枚だけで過ごしていました。時に布団代わりにもされました。そんなわけで、それは古びて傷み、継ぎはぎもたくさんあったでしょう。乾燥した地域ですから、日本とは違い、かなり長い期間着たきりというのが一般的だったのでしょう。 「もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のたった一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう」(出エジプト22:26~27)と律法には記されているところからも、一般の庶民の暮らしが伺われます。その上着は、私たちの汗や油を吸い込み、ほこりや汚れをいっぱいつけたどうしようもないものです。そんな古い着物をベースに穴やほころびに「新しい布」、すなわち「イエスの義の衣」を引き裂いて継ぎをするなんてあり得ないことです。どう考えても、古びた上着を脱ぎ捨てて、イエスの義の衣を着るべきです。 もう一つは「ぶどう酒と皮袋のたとえ」です。ぶどう酒も当時の生活には欠かすことの出来ないものでした。この宴会の席でも当然ぶどう酒は振る舞われていたはずです。そのぶどう酒を保存するのに、樽や瓶などというものがないので、皮袋が使われていました。皮袋は、新しいうちは弾力性があって丈夫ですが、古くなると次第に弾力性が失われ硬くなります。そんなこわばり、くたびれた皮袋に、まだ発酵が続いている新しいぶどう酒を入れるとどうなるでしょうか。発酵中のぶどう酒はガスを発生し、古い皮袋を破いてしまいます。ぶどう酒の強い生命力に負けてしまうのです。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるできなのです。では、このことでイエスが伝えたかったことは何でしょう。良く語られるのは、次のような解釈です。「新しいぶどう酒というのは福音のことで、新しい皮袋はクリスチャン生活のことです。みなさんも、救いを受けたのだから、それにふさわしい正しい教会生活をしましょう。」さて、本当にこんな幼稚な教えを説くために、このふたつのたとえが必要ですか。このたとえが語られたのは、レビとそのなかまたちの宴会の場所です。「こいつらは、正しい生活をしていないじゃないか」という一見正しい人たちの側からの批判がベースにあったことを思い出してください。さらに、もうひとつ覚えておいてください。当時の一般常識として、「新しい着物で古い着物をつぐ人や、新しいぶどう酒を古い皮袋にいれる人は絶対いない」ということです。そんなことは当たり前でわかりきっていることなのです。このふたつのたとえは、その取り立てて言われなくてもわかっていると思っていることの本質的な意味が、実は分かっていなかったという話です。「正しい教会生活、あるべきクリスチャン生活をしましょう」というのは、このたとえの中では何のことですか。「古い着物」「古い皮袋」のことでしょう。そんな薄っぺらの自己満足や人の道徳に、十字架にかかられた御方の義を、アップリケみたいに、継ぎはぎするのですか。神の小羊が流してくださった尊い血を私たちの正しい行いとやらの皮袋にいれるのですか。そんなことは出来るわけがないじゃないですか。こういう基本中の基本を、全く間違って教えている教会が多いのです。多少のニュアンスは違うかもしれませんが、「新しいぶどう酒は神さまが与えてくださるもの、新しい皮袋は私たちの側で準備するもの」という捉え方で語られているはずです。この切り口だと、前半の着物のたとえとの整合性がわからないので、ぶどう酒のたとえが単独で語られているはずです。調べてみてください。たいていそのようになっていると思います。
アダムとエバが罪を犯したとき、あわてて腰を覆いました。ふたりでいちじくの葉をつづり合わせたのです。これが人の宗教であり、このたとえに当てはめるなら「古い着物」「古い皮袋」にあたります。(創世記3:6)しかし、神はそれでは不十分なので、新しい着物を与えてくださいました。それは皮の衣でした。(創世記3:20)これが、「新しい着物」「新しい皮袋」にあたります。念のため、お尋ねします。いちじくの葉は誰が準備しましたか。・・・・人です。皮の衣は誰か準備しましたか。・・・・・神です。「新しい着物」「新しい皮袋」は、罪を犯した私たちには決して準備できないものなのです。では、もうひとつの質問です。皮袋のもとは何ですか。・・・・・・それは動物のいのちです。この皮の記述は、聖書の一番初めに出てくる「血による贖いといけにえの型」なのです。
ぶどう酒についてもう少し考えてみましょう。皆さんもよくご承知のように、ぶどう酒は古いものの方が新しいものよりも価値があります。「この箇所でも、「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです」(ルカ5:39)と書かれています。これは、人の感想です。伝統的な宗教儀式や律法を重んじることは、確かに人の目には良いと見えるのです。レビのどんちゃん騒ぎの表面だけ見ていては、実際人を引きつけるような魅力はありません。しかし、そこにはイエスがおられるのです。レビはイエスがおられるからこそ、この宴を催したのです。イエスのいない抜け殻のような儀式とどちらに本当の価値があるでしょう。
「イエスが水をぶどう酒に変えられた奇跡」を思い出してください。(ヨハネ2:1~11)イエスの出されたぶどう酒を味わった者は、その出所を知りませんでしたが、その味を評価しました。それはおいしかったのです。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」(ヨハネ2:10)と宴会の世話役は言っています。この世話役のコメントは、イエスの出されたぶどう酒の味が良かったということ以外に、当時の披露宴での常識を語っています。普通は、良いものを先に出して、皆が酔っぱらって少し味覚が麻痺し始めたころには、悪いのを出すのが当たり前なのです。つまり、最初は古いぶどう酒を出し、途中から新しいぶどう酒を出すのです。世話役は思ったはずです。この深い味わいは、何年もののぶどう酒だろうと。しかし、イエスのぶどう酒は古いぶどう酒ではありませんでした。その場で水から変えられた全く新しいぶどう酒です。原料はぶどうではなく「水」です。それは、まことのぶどうから絞り出されたまことの飲み物の型です。「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた」(ヨハネ2:9)この水はただの水ですが、特別な水です。イエスのことばを信じた人たちが、みことばに従って満たした水です。いわばこの水は信仰によって息吹かれたみことばです。人がみことばを心から信じ受け入れるとき、みことばはいのちとなってその人の中で働きます。みことばの約束は私たちを酔わせるぶどう酒に変わるのです。新しい着物も、新しいぶどう酒も、新しい皮袋も、すべて主が一方的に与えてくださるものだということを、再度確認しましょう。そして、私たちは、パリサイ人の仲間入りをするのではなく、レビの宴につながりそこにただ主がおられることを喜び楽しみましょう。その「まことの飲みもの」の象徴であるそのぶどう酒がどこから来たかを知ることが一番大事なのです。(ヨハネ2:9)

2008年10月3日金曜日

9月14日 メッセージのポイント

憐れみのないしもべのたとえ (イエスのたとえ話 23 )
  マタイ18:21~35

A 赦せない感情の背景
  ○当然守るべき契約や約束が守られていない
  ○間違っている人が正しい人を「妬む」「恨む」「憎む」
  ○自分のことを棚上げして他人の違反が気になる
  ○自分で自分が赦せず心を病んだり自殺したりする
  ○正義と愛「かわいそう」と「十字架」(ヨハネ8:1:~11)

B 兄弟を何度まで赦すべきか
  ○ペテロを取り巻く弟子たちの人間関係
               (マタイ18:1)(マタイ20:24)
  ○「7度まででしょうか」と問う寛容さと限界(ルカ11:3~4)
  ○「赦すべきか」という発想では決して赦せない

C 罪という借金の返済方法
  ○1万タラントは返済不可能な額(約6000億円)
  ○100デナリは返済可能な額(約100万円)
  ○無効になった債務証書(コロサイ2:14)
  ○十字架による完済(ヨハネ19:30)

D 心から赦す
  ○赦すことは感情の問題ではない
  ○赦すことは計算の問題

E 正しい計算
  ○「人に対する罪」と「主の前の罪」
  ○みことばによって勝利と完済を宣言すること
  ○私が友から受け取るべき100デナリは免除された1万タラントに含まれている
  ○誰かに借りのある私も誰かに貸しのある私も既に死んでいる

9月14日 憐れみのないしもべのたとえ (イエスのたとえ話 23 )

マタイ18:21~35

人にとって最も難しいことは、「人を赦し、受け入れる」ということではないでしょうか。「赦せない」という感情が生じるときには多様な背景があります。まず考えられるのは、「当然守るべきルールが守られていない場合」に、そのルールを守っている人たちの間に生じるケースです。しかし、そのルール違反が自分にどれだけの損害をもたらすかによって、「赦せない」程度は変化します。それは、人は自分勝手で他人の痛みに関しては恐ろしく鈍感だからです。例えば、大分の教員採用に関わる不正がありましたが、「ひどい話だ」と思いながらも、「あんなことは大分に限らずどこの県でもあることだ」軽く受け流してしまうかもしれません。「不正合格者の採用が取り消しになった」というニュースにも、「何もそこまでしなくても」と考える人たちも大勢います。ここでちょっと立ち止まって考えてみてください。自分が合格点に達していたにも関わらず、権力者の不正な口利きのために不合格になった当事者だったとしたらどうでしょう。「不正な口利きはどこにでもあること」と見逃せる話ではないでしょう。それこそ断じて「赦せない」のではないでしょうか。「不正合格者は採用を取り消されて当然」と思うはずです。そのルールが一般的にきちんと守られていないような場合は、反応はいっそう鈍感になります。例えば、交通ルールについて考えてみてください。自動車を運転する人で制限速度を破ったことは一度もないし、道路交通法は完全に守っているという人はおそらくいないでしょうから、違反に関しても、警察の交通安全課の人以外はかなり寛容です。ところが、もし自分の家族が、ルール違反の車にはねられていのちを奪われたとしたら、見方は全く異なってくるはずです。違反したドライバーのみならず、スピード違反や標識無視の車を見かけたら、怒りがわいてくるはずです。「赦し、受け入れる」ことに関して、わかりやすい単純な不正や罪に関しても、傍観者と当事者にはこれだけの感覚の違いがあるのです。
姦淫の現場で捕らえられた女が、当時の宗教指導者たちのはかりごとによって衆目に晒されました。律法によれば確かにそのような女は赦すべきではない。しかし、彼女を取り囲んだ群衆の和の中に彼女の家族がいたらどう思うでしょう。「確かに罪だが、その罪を覆ってやりたい」という一般的には想像もつかないような感情が湧きあがってくるはずです。そんな家族の思いを単純なことばでまとめることはできませんが、あえて表現するなら、「彼女がかわいそう」ということだと思います。それは家族には彼女に対する愛があるからです。赦しにおける問題を考えるとき、まず正義の問題について、そして、愛の問題について考える必要があります。しかし、個人の損害の程度とは関係なく、ルール違反に一定のぺナルティがあるべきで、それは個人の感情で左右されるべきではないでしょう。正しい人が間違っている人を赦せないのは当たり前です。ルール違反がペナルティを払わないまま、赦され、受け入れられるとしたら、集団の秩序は崩壊します。「正義を保つためには、罪を適切に処理せずに、罪を犯した人を赦し受け入れることは不可能」なのです。「赦さないこと」「受け入れないこと」が正解なのです。姦淫の現場でとらえられた女に対して「私もあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)と言われたイエスは、そのことばの裏に「自分がその罪を処理するから大丈夫だ」という覚悟を秘めておられたのです。あのような緊張した場面で、興奮した群衆をたったひとことで解散させることができたのは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい」と言われたからですが、それは単にレトリックの勝利ではなく、そのイエスの深い愛による覚悟と権威に圧倒されたからだと思います。 間違っている人が正しい人をその人の正しさゆえに妬み憎しむケースもあります。聖書に描かれている人類最初の死は、病気や怪我によるものではなく殺人でした。死因は兄弟による撲殺でした。カインに殺意まではなかったでしょうから、現代の法律で言えば、それは傷害致死です。逆にそうだからこそ、「心の中の悪い動機が、人を殺す結果につながるのだ」という意味の戒めがあるのです。イエスが十字架に架けられた直接の原因は、パリサイ人や律法学者たちのねたみです。人の妬み、虚栄心や、偶像礼拝は神を殺すことにつながるのです。さらに、自分のことを棚上げして他人を赦せないというケースがあります。そういう場合は、誰が見てもルールを犯している社会規範の逸脱者を軽蔑することによって自分の中立や無罪あるいは善良さを確認したいという心理が働いています。このようなケースは、「自分の目の中の梁に気づかないまま兄弟の目の中のちりをとってやろうという」おせっかいにまで発展します。こうなると、相手のルール違反と気づかずにいる自分のルール違反が五十歩百歩だったりすることが多いのです。それとは逆に、誰も責めてはいないのに、自分で自分が赦せないで精神を病んだり自ら命を絶ったりするケースさえあります。兎にも角にも、誰かを赦し受け入れるということは、人にとってそれほど難しいテーマだということです。
 さて、今日ともに考えるのは、「憐れみのないしもべのたとえ」です。このたとえの中には、人が人を赦すことの難しさと、その唯一の解決の道がわかりやすく示されています。このたとえは、「兄弟が罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。」というペテロの問いに対する答えとして語られています。内容に入る前に私が問題にしたいのは、ペテロはなぜこんな質問をしたのかということです。イエスと寝食をともにして日々を過ごすうち、弟子たちをはじめ取り巻く者が増えてきました。12弟子の中にもさまざまな人物がいます。いろんな意見の衝突や確執があったのでしょう。ペテロは、良くも悪くも「誰よりもイエスの良き弟子でありたい」と願っていました。いつもイエスの言われることに直ちに反応し、口を開き、行動しました。この質問をする少し前に、弟子たちは「天の御国で誰が一番偉いのか。」(マタイ18:1)という質問をしています。おそらくこの中にはペテロも含まれており、イエスに聞きに来る前に聖書に書かれていない弟子たちだけの議論があったのかも知れません。つまり、12弟子の中にも、イエスと自分という垂直関係の他に、他の弟子たちと自分という水平関係が重要な問題として存在していました。例えば、ヤコブとヨハネが「天においてイエスの右と左に座らせて欲しい」と願い出たとき、「このことを聞いたほかの10人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた(マタイ20:24)と書かれています。ゼベダイの子たちとか、ヤコブとヨハネと書かないで、「ふたりの兄弟」と記しています。これは、「兄弟に対して腹を立てる」ということを思い起こさせるためだと思います。これらのことから考えても、ペテロが、「何度まで赦すべきか」を主に問う背景には、赦せない兄弟や出来事が心にあったはずです。ペテロは「何度まで赦すべきでしょうか」で質問を切らず、「7度まででしょうか」と自分なりの寛容さを示し、「7度まで赦せば、それでよい」というある種の承認を求めているようにも思えます。これにもわけがあります。当時のユダヤのラビたちは3度まで赦すことを教えていたのです。さらに、イエスご自身が7度まで赦すことを語られたことがあるからです。「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して1日に7度罪を犯しても、『悔い改めます。』と亥って7度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ11:3~4)これは全く想像ですが、兄弟がペテロに対して罪を犯し、ペテロは悔い改めた兄弟を何度か赦したのでしょう。その回数は3度を越えて、4度か5度赦したのかもしれません。しかし回数が重なると「また、おまえか」と、赦したはずなのに、その兄弟と穏やかに接することが出来なくなっていたのかも知れません。それで、7回までは我慢してやるが、7回辛抱すれば反撃に転じることができるという許可を求めていたのかも知れません。聖書は私たちの罪を借金にたとえますが、今日出てくるしもべの負債額は1万タラントです。さて、この借金はどれだけの金額になるでしょう。1タラントは6000デナリです。1万タラントといえば60,000,000デナリです。1デナリを1万円と計算しても、6000億円です。到底払えない数字です。これが、実は私たちが神さまに対して負っている負債です。
最初は妻子も持ち物全部売り払って返済するように命じた王様ですが、ひれ伏して懇願するしもべの姿を見てかわいそうに思い、借金を免除してやりました。かわいそうに思っただけで、全額を赦してやるとはかなり現実離れしていますが、この債権者は高利貸しではなく、王さまです。天の御国はこの憐れみ深い王さまのようだとイエスはおっしゃいました。「1時間しか働かなかった労務者に1日分の日当支払う気前のいいぶどう園の主人」といい、天の御国はこのような心の大きな桁外れの度量をもった憐れみ深い人物にたとえられています。ここで、たとえは終わりません。その赦されたしもべは、自分が借金を免除してもらった直後に、同じ仲間に貸した金を取り立てます。これは、人間が共通してもっている性質です。借りた金は返すべきです。それは守るべき当然のルールです。別に強盗しようとしているわけではないのです。不思議ですね。自分が強い立場になるとき、自分が被害を受けるとき、私たちは、厳しいルールを相手に強いるのです。そのことをもって私たちの心に神様が定めた変わることのないルールが記されていることを証言します。ところが、自分が弱い立場になったとき、自分が誰かに迷惑をかけたり、容赦してもらわなければならないときに、そのルールをないものにしようという意識が働き、ごまかし、言い訳、取り繕いが始まります。私たちがこの世の中で正当なルールにのっとってやっていると思われていることの中には、このようなごまかし、言い訳、取り繕いなしでは成り立たない仕事がたくさんあります。 私たちが神から離れたとき、私たち自分が裸であることを知り、いちじくの葉っぱで腰のまわりを覆いました。これが、ごまかし、言い訳、取り繕いのはじまりです。とって食べてはならない実を食べたことを追求されると、アダムは「エバのせいだ」と言いました。エバは「蛇のせいだ」と言いました。こうしてエデンの東で、人間は延々と、ごまかし、言い訳、取り繕いを繰り返してきました。各自が主人に対して1万タラントの借金があるという認識を持たず、いや、故意に忘れ、お互いが小銭を取りたてあっています。なかまのしもべどうしの借金の金額は100デナリです。100日分の給料です。決して簡単に免除してやれる金額ではありませんが、1万タラントに比べれば、微々たるものです。60万分の1です。1万タラント赦されたしもべは、自分が免除してもらった事実がなかったかのように、冷たく対処します。懇願する友だちを牢に投げ入れたのです。この憐れむことを知らないしもべは、私たちの姿です。私たちは、まずお互いが向き合う前に、ひとりひとりが主にどれだけのことをしていただいたのかを心にとめる必要があります。どれだけ赦され、どれだけ愛されているのか。これはお金には換算できないほど大きなものです。主との関係の健全さが、そのまま人間関係に反映されます。主の前にごまかし、言い訳をし、取り繕う人は、人の前にもごまかし、言い訳をし、取り繕うでしょう。主に自分の借金を免除されていることを聞いても、そこに愛を感じない人がいます。単に、借金を払わなくていいと思う人がいます。確かに十字架の上には、私たちの債務証書が貼り付けられています。しかし、無効になった債務証書は見えても十字架の苦しみや愛が見えない人がいます。(コロサイ2:14)巨万の富を持つ王が、憐れなしもべをかわいそうに思って借金を免除してやることは、このたとえの中では簡単に書かれています。しかし、神様は反面銀行のように、厳密な計算をされる御方です。イエスがきっちりと十字架の苦しみによって私たちの借金を支払ってくださったのです。それはイエスの十字架上のことばのとおり、完了しています。その計算の正確さ、手続きの正当性によって、はじめて1万タラントもの借金が帳消しになったことを覚えなければなりません。
最後に「心から赦す」(マタイ18:35)ということばは、サタンが悪用したみことばでかなり上位に入るものだと思います。このみことばには、「すっきり何のわだかまりもなくなるような感情をともなってこそはじめて人を赦せたのだ」という印象があるからです。しかし、これは違います。人は「赦そう」「赦そう」と思えば思うほどそのしこりは大きくなって赦せない自分をより強く認識するだけです。この点についても、十字架にしか解決はありません。あの罪もこの罪もすべて十字架で贖いが完了していることを宣言することが勝利への唯一の道です。人を赦すのは私ではなく、主です。私が友だちから受け取るべき100デナリは、免除された1万タラントの中に含まれているということです。100デナリを切り離して見つめていては、いつまでもたっても、心から赦すことなどできません。それが人間なのです。10デナリだって、1デナリだって人が人を心から赦すことは不可能です。十字架の事実の中にあらゆる赦しの完了があります。自分が赦されることの中に他者に対する赦しが含まれています。誰かに貸しがある私はすでに死んでいるのです。心から赦すとは、その事実を心の目で見ることなのです。

9月7日 メッセージのポイント

まことのぶどうの木 (イエスのたとえ話 22 )
   ヨハネ15:1~8

A ぶどうの木はイエスの影・教会のモデル
  ○ぶどうの木は低く横に広がる
  ○ぶどうの実はひとつの実ではなく房状
  ○ぶどう酒は契約の血

B とどまるべきところ
  ○実を結ぶものは刈り込まれる(ヨハネ15:2)
  ○「わたしはすでにきよい」というみことばに立つ(ヨハネ15:3)
  ○イエスを離れての居場所などない(ヨハネ15:4~6)

C すでにきよい
  ○残すところなく示された愛(ヨハネ13:1)
  ○「上着を脱ぐ」(ヨハネ13:2)
      →特権を主張しない(ピリピ2:6)
      →いのちを捨てる(ヨハネ10:11)
  ○ペテロはすでにきよめられている自分を再発見した
      →しっかり反省できた自分に納得できたのではない  
  ○聖霊による更新の洗い(テトス3:5)

D 欲しいものを求めよ
  ○私たちが主にとどまる
      →みことばが私たちにとどまる
      →何でも私たちの欲しいものを願う
      →私たちの為にそれはかなえられる(ヨハネ15:7)
  ○鍵はみことばがとどまって「いる」か「いない」か
  ○50パーセントや70パーセントの「確信」「安息」の欺瞞

E 弟子は実を結ぶ
  ○実を結ぶことと弟子になることはひとつ(ヨハネ15:8)
  ○「イエスとともにいたのだ」というリアリティーを伝えること(使徒4:13)
  ○枝を含んだ全体がぶどうの木
  ○「まこと」は誰に属する?・・・弟子とはイエスの「忠実」また「真実」(黙示19:11)
    を知る者

9月7日 まことのぶどうの木 (イエスのたとえ話 22 )

ヨハネ15:1~8

先週の礼拝後の分かち合いの中で、プランターや畑で野菜を育てながら感じたことの証がありました。そのひとつは、プランターで育てたプチトマトが枯れてしまったので、それを片付けようとしたときの小さな気づきについてでした。「枝から落ちたものは腐っているが、枝につながっているものは、みずみずしさは失ってはいても腐ってはいない。主のいのちにつながっていることの大切さを感じつつ、深く感動した」と言うものでした。さらにその話を受けて、「しなびてもうダメかなと思っていた野菜が、雨でいきいきと生き返り、その野菜の変化を通して近所の人に証ができた」と言うお話もありました。こういう些細なことが実は最も大切なのです。何でもない日常生活の中のひとこまですが、それは立派な礼拝です。霊的に健全な感性が育っていると、日常の些細な事柄もただ意味もなく虚しく流れていくということはありません。また、しかめっ面をして窮屈な思いをするともないでしょう。単調で平凡に思える毎日の出来事の中に、実は大きな事件が隠れています。それを発見し、喜び、驚くことができる信仰の目と柔軟な感性を持つことが大事です。行くところどこにおいても主を発見し、主と喜び、主に驚いてください。全ての始まりにも、途中にも、終わりにも、至る所に主の備えがあり、そこには知恵と愛が溢れているはずです。
これらの証を聞いて、今回取り上げるたとえのテーマが決まりました。ヨハネ15章の「まことのぶどうの木」についてです。今年はずっとイエスのたとえ話を見ているので、過去のメッセージと重なるところもずいぶんありますが、常に新しい感動をもって、バージョンアップしてお伝えしています。主のみことばが古びるということはありません。「もうそれはわかっている」「すでに十分知っている」というようなものでもありません。振りかえると、この「まことのぶどうの木」についても、同じテーマで2004年の1月25日にもお話していますが、もう一度整理し直して分かち合いたいと思います。
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(1) イエスはぶどうの木で、天の父は農夫であると書かれています。イエスは、「まことのぶどうの木」です。「まことの・・・」ということばは、非常に強い表現です。世界中に何百何千種類のぶどうがあるのか知りませんが、イエスがその本体また実体であって、地上のぶどうはその性質を教えるために、影としておかれたものだということです。何度もお話していますが、ぶどうの木は背丈は低く、上に伸びずに横に広がります。その実はひとつの大きな実ではなく、小さな粒が房状になっています。それはまさにイエスのからだである教会の姿です。そしてぶどう酒は新しい契約を表すイエスの血、まことの飲み物と言われています。
「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(2)実を結ばないものは取り除かれます。ですから、取り除かれていないものは必ず実を結ぶのです。そして、実を結ぶ枝は刈り込まれるのです。それは無駄な枝に栄養がいかないようにして、もっと良い実を多く実らせるためです。私は「もっと良い実を多く実らせる枝になりましょう」と言うつもりはありません。そんなことは枝が考えても仕方がないし、できっこないのです。ぶどうの木は枝の意思に関係なく勝手に実を結ぶのです。
ただ実を「結ぶ」「結ばない」の違いは次のみことばによって示されています。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(4) 4節以降、「とどまる」ということばが繰り返し使われています。「主イエスにとどまること」が大切なのです。それは「枝にいのちが流れている」ということです。枝がぶどうの木であるイエスのいのちにつながっているとは、実際にはどういうことでしょうか。詩的なイメージとしては分かりますが、具体的にはどういう事実を表しているのでしょう。 この「とどまりなさい。」の繰り返しの前に、3節にこう書かれています。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(3)このやや唐突に挿入されたみことばが鍵です。「わたしは、すでにきよい。」というみことばの基準に立つことです。わたしたちが主から離れるときは、たいてい、罪を犯してしまったり、自分の愚かさを露呈したりする場合です。そういう時は、かつてペテロが言ったように、「主よ。私のようなものから離れてください。私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8)という心境に陥っているのです。もし、イエスが、「わかった。そうしよう」と言われたら、残された私はどうなるでしょうか。まことのぶどうの木を離れては、枝の存在価値はありません。
 十字架を目前に控えて、イエスは弟子たちの足を洗われました。そのとき、イエスは言われたのです。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13:7)弟子たちは、十字架を経て、足を洗ってくださることが、十字架の血によってきよめられることと、聖霊によって洗われることを予表していたことを悟りました。しかし、イエスのことばどおり、弟子たちにはその時は意味がわかりませんでした。ペテロは、イエスに足を洗っていただくことを恐れ多いことと考えました。だから、「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言ったのです。すると、イエスは、「もし、わたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」とお答えになりました。ペテロは主との関係がなくなってしまうと聞いて、今度は「手も頭も洗ってください。」と申し出ました。イエスと離れての居場所などないことがわかっていたからです。
ところが、イエスは、「水浴したものは、足以外は洗う必要がなく、全身がきよい。」と言われたのです。弟子たちの足を洗うことによってイエスは「その愛を残すところなく示された」と書かれています。「残すところなく」というギリシャ語は、エイス・エロスで、「最後まで」とか「完全に」という意味合いがあります。残すところなく示されたということは、「もう何も残っていない」のです。この出来事は、過越の祭りの前に、ご自分の最後を意識して象徴的に行われたことです。足を洗うことは盲人が歩いたり、足なえが立ち上がったりという種類の奇跡ではありません。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威があることをお示しになった大きなしるしです。「上着を脱ぐ」とは、「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることが出来ないとは考えないでご自分を無にする」という、「特権を主張しない」という意味合いだけでなく、「いのちを捨てる」という意味もあります。ここで「脱ぐ」と訳されているティセーミというギリシャ語は、「良い牧者は羊のために命を捨てます。」(ヨハネ10・11)の「捨てる」ということばと同じことばです。
神の子が人の子として、罪人の足を現れたことの価値については、いくら強調しても、しすぎということはないでしょう。私たちはこの「すでにきよい」という立場に立たなければ健全な枝としてまことのぶどうの木と一部になったとは言えないのです。裏切ったペテロは、一体どれほどの後悔の涙を流せば、もう一度きよくなれたのでしょうか。どれだけ悔いれば、どんな風に改めれば、主は受け入れてくださるのでしょうか。ペテロは、反省した自分に納得して戻ってきたのではありません。すでにきよめられていた自分を再発見したので、その基準に従って主のもとに戻ってきたからこそ、実を結ぶことができたのです。これが本当の意味で「自分を受け入れる」「自分を愛する」ということです。「私には価値があるんだ」「祝福を勝ち取るんだ」という歪んだ自己愛とは違います。「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による更新の洗いをもって私たちを救ってくださったのです。」(テトス3:5) これらのみことばが、私たちを支え守ります。私たちが意識してひとつひとつのみことばにとどまるなら、主はわたしたちにとどまってくだいます。主はご自分が語られたことを否むことができません。私たちは真実でなくても、主は常に真実なのです。それなのに私たちは、自分が不真実であることも、主が真実であることも認めようとしません。それが肉の性質なのです。みことばにとどまるとは、「聖書は神のことばです」と全体を抽象的に支持することではなく、ひとつひとつのみことばの伝えている意味をきちんと理解して、具体的で個人的な契約内容として受け止めることです。理解していなければいのちにはなりません。イエスがぶどうの木で私たちがその枝であれば、私たちは神の一部であり、キリストのようにきよいのです。そしてさらに驚くべきことに、「主のことばが私たちにとどまるなら、私たちの願うところが、主の願いとなり、私たちの祈りは100パーセントの確率で実現する」と書かれています。100パーセントですよ。私たちが強い確信や平安を持てないのは、それが弱いことが問題なのではないのです。主のことばがとどまっていないことが問題なのです。主のことばがとどまるなら100パーセントです。サタンは、私たちにいつも50パーセントとか、70パーセントがあるのだと錯覚させます。そして、みことば全体を信じているような気にさせますが、具体的な約束は何も信じていないのです。具体的な約束について「はい」か「いいえ」しかないのです。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(7)「求めなさい」と言われているのは何ですか。「何でもあなたがたの欲しいもの」です。これほどの自由が与えられながら、満足に足るものを求められない、得ていないとすれば、それは私たちが主とつながっていることを信じておらず、主がわたしにとどまってくださっていないからではないでしょうか。枝ががんばって風雪に耐えているのではなく、気まじめに葉を繁らせて光を集め、蒸散しているのではありません。ぶどうの木という大きないのちの営みの中に自然に巻き込まれているなら、幹と枝の境界線はわからなくなり、枝と枝は他人どうしではなくなるのです。各々の教会が各々を主張するのは、大きなぶどうの木の一体性についての基本的な認識と信仰が欠落しているからです。どんなにたくさん実をつけた枝でも、その枝単独の栄光などありません。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(8)栄光はすべて、ぶどうの木を育てた農夫である父のものだとイエスは言われました。最後に忘れてはならないことがあります。それは、弟子になるというポイントです。多くの実を結び、弟子になることです。本来実を結ぶことと弟子になることはひとつなのです。つまり実を結ぶ者が弟子であり、実を結ばない者は弟子ではない。様々な実があるでしょうが、訓練された弟子たちの結実した証は、「イエスとともにいたのだ」というリアリティーを伝えます。それは、無学な者が学を積み、普通の人が特別な人になることではいのです。(使徒4:13)もう一度確認します。イエスが「わたしはまことのぶどうの木」と言われるとき、枝を含んだ全体を指していることは明白です。まことは「忠実」また「真実」と言い換えてもいいでしょう。(黙示19:11)それはイエスに属するのです。

2008年9月9日火曜日

8月31日 メッセージのポイント

ボアネルゲ(イエスのたとえ話21)
   マタイ25:24~25  マルコ3:13~19

A 賜物の質的な違いと量的な違い
  ○お金には質はないが、賜物には質がある
  ○互いの賜物を良く知り、大きく伸ばし、豊かに用いる
  ○質の違いがあるからこそ、互いに仕え合うことができる
  ○買うことによって、その選択に信仰が反映される

B マイナスのタラント
  ○マイナスだと感じる賜物もある
    ・・・・障害・病気や好ましくない性格も預けられたタラントの一部
  ○自分に与えられた賜物が気に入らない
  ○他の人の賜物がよく見える

C マイナスを受け入れる
  ○ボアネルゲは雷の子
    ・・・・シモンをケパと呼ばれたのとは違う(ヨハネ1:42)
  ○愛の使徒はキリスト教の言い伝え  
  ○タラントは「能力+個性」 個性にはプラスもマイナスもある  
  ○個人的に愛されているという自覚と喜びがいのちを育てる
  ○私たちがまだ罪人であったとき(ローマ5:6~11)
  ○私たちが神を愛したのではない(Ⅰヨハネ4:10,19)

D 十二弟子の選抜
  ○無学な普通の人(使徒4:13)
  ○徹夜の祈り(ルカ6:12~13)
  ○お望みになる者(マルコ3:13~14)
  ○裏切りと回復  
  ○分与されたキリストのいのちが彼らの個性の中に表現される

E タラントを埋める人
  ○「私はダメです」は謙遜ではなく不信仰
  ○「これがあなたのもの」と言うのは「自分のものが別にある」証拠
  ○「愛せない自分」「受け入れられない自分」と信仰によって向き合う
  ○「奇妙な着ぐるみ」←→「主に愛された弟子」(ヨハネ21:7,20)

8月31日 ボアネルゲ (イエスのたとえ話 21 )

マタイ25:24~25 マルコ3:13~19

 「タラントのたとえ」を読んで1番気になるのは、1タラントの人がどうしてせっかく預かったお金を地面になど埋めてしまったのだろうかということです。1タラントが事業を興すには十分な金額のお金であったことを知れば、その疑問はますます大きくなります。1タラントという金額が少なかったから、結果として他の人のようにはうまく儲けることができなかったわけではないのです。今日はその1タラントを埋めてしまう人の行動とその動機について、もう少し掘り下げて考えたいと思います。彼が自分に与えられたタラントを埋めてしまった原因として、前回指摘したのは、他の人と比べたこと、主人に対して歪んだイメージと不満を持ったことでした。1タラント与えられた人が他の人と比べて自分は乏しいと考えたのは、量的な比較です。しかし、私たちは実際に神様からお金を預かっているわけではなく、それぞれに委ねられているのは、「能力」や「賜物」というタラントです。これには、量的な違いという側面もありますが、質的な違いという側面もあり、これを見逃すことはできません。むしろ、互いの賜物の質を良く知り、それを大きく伸ばし、豊かに用いることが重要です。タラントが量的な違いだけであれば、互いの賜物によって互いに仕え合うということは出来ません。賜物は自分が儲けるためではなく、自分以外の人に仕えるために与えられているのです。仕えるために必要を感じて買うという行為が発生しまう。代価を払って買う、その選択に信仰が反映されます。
ただし、この表現も説明が不足すると誤解を助長することになりかねません。つまり、タラントというと「教会で奉仕するための能力」というような単純な置き換えをしてしまいがちです。しかし、私はそれだけではタラントの半分しか説明していません。勿論それも大事な部分ではありますが、私たちが預かっているのは、決してそのままで「良いもの」ばかりではないからです。障害や病気や好ましくない性格でさえ、神の栄光のために預けられたタラントの一部だということです。これが、今日のメッセージの中で最も強調したいポイントのひとつです。自分に与えられた賜物が気に入らない、他の人の賜物がよく見えるから埋めてしまうのです。ですから、今日の主題をボアネルゲとしました。ボアネルゲというのは、雷の子という意味です。これは「すぐにかっとなる性質」のヤコブとヨハネにつけられたあだ名でした。ガリラヤの漁師仲間や弟子達の間でそのようなニックネームで親しまれていたというののではありません。イエス御自身がつけられた名前です。これは、シモンをケパと呼ばれたのとは全く違う意味での命名です。シモンをケパと呼ばれたのは、「生まれながらの軽率で軟弱なシモンを、岩のような不動の信仰をもった弟子にする」というイエスの宣言です。(ヨハネ1:42)実際ペテロの成長のプロセスを追うと、イエスのことばのとおりにシモンがケパに変えられていうのを見ることができます。シモンは自分で努力してもケパにはなれません。自分には出来ないと心底わかったときに、神が変えてくださる。これがクリスチャンのいのちの成長の型です。しかし、ボアネルゲの場合は、ケパのように「信仰の目標地点や完成された個性」を表す表現ではなく、それは、むしろ「肉の出発点であり、未完成で不完全な受け入れにくい個性」です。タラントはある役割を果たすための能力であると同時に、その人に与えられた個性そのものであるととらえるべきだと思います。ですから、プラスの面もあれば、マイナスの面もあり、実はそのマイナスだと思っていることが実はプラスだったり、さまざまなマイナスをかかえた人たちがいることで、それをいたわり、補い合うような相互のあたたかくてやさしいつながりが生まれるのです。だからこそ、ボアネルゲという愛の使徒ヨハネにとっては不名誉なあだ名が、あえて十二弟子の名簿に添えて書かれているのです。ちなみに、「愛の使徒」などという滑稽な称号はキリスト教がつけたものです。ボアネルゲといのが、私たちの主イエスが付けられたヨハネの正しい呼び名です。ボアネルゲというあだ名は、ヨハネの短気を忌むべきものとされたからではなく、その性質をありのままを受け入れられたからであり、他の弟子にも、「この兄弟は怒りっぽいけど、そういうつもりで仲良くつきあうように」というようなあたたかくてやさしいメッセージがあったに違いないのです。しかしこれは、「あなたはあなたのままでいいのです。神はそのまま受け入れてくださいます」という甘やかしの愛とは違うのだと覚えてください。この部分だけを拡大して、義の側面を無視すると、今日のメッセージはピントがずれはじめます。
ボアネルゲと呼ばれたヨハネは、確かに「愛の使徒」と呼びたくなるようなあたたかい書簡と、偉大な4つ目の福音書と黙示録を残しましたが、ボアネルゲと呼ばれた気短で荒っぽい性質はほとんど見られなくなりました。ヨハネはキリスト教道徳によって、「怒りっぽい私」から「柔和な私」になろうしたわけではありません。イエスに従う中できわめて自然に、少しずつ変えられていったのです。ヨハネは自分がイエスに愛された弟子であることを強調しましたが、これが鍵です。この「私は個人的にイエスに愛されている」という深い自覚と喜びがヨハネを変えていきます。その体験が、彼につけられたあだ名が彼の性質とは不似合いなものとなり、やがて昆虫がさなぎを置いて成虫へと羽化するように、そのあだ名の中から抜け脱すのです。ヨハネはイエスの愛を、イエスの真実を、じっと目で見て、手でさわって感じたのです。
イエスが愛されたのは、私たちがどんなときですか。それは「私たちがまだ罪人であったとき」だとパウロは言っています。それはつまり、「愛するに値する者ではないとき」であり、「愛するに値する者になろうともしていない、全く罪にも神にも無自覚で、不信仰で不敬虔などうしようもないとき」だったのです。(ローマ5:6~11)そんな私を無条件に受け入れてくださった愛の中に浸りきることによって、いつまでも罪の中にとどまる状態でいられなくなります。私が変わるのではなく自ずと変えられるのです。「私たちが神を愛したのではない」とヨハネは言っています。(Ⅰヨハネ4:10)「愛が私たちのうちに完全なものになる」のも、「私たちがさばきの日に大胆さを持つことができる」のも、神がまず愛してくださったのだということを深く知ることによります。(Ⅰヨハネ4:19) そもそも、イエスは何のために十二弟子を選ばれたのでしょうか。彼らはイエスの伝道の効果を上げるために選ばれたわけではありません。つまり彼らがそのための能力に秀でていたからではありません。イエスはあえて「無学な普通の人」(使徒4:13)を選ばれたのです。この世の大部分の人は「無学な普通の人」です。ですから、医者のルカや、生まれながらの市民権を持つ博識のパウロは十二弟子ではありません。だから、誰でもよかったのではありません。ガリラヤ周辺の人を中心に取りあえず十二人を選んだわけではなく、慎重に選ばれたのです。その証拠に、イエスさまは十二弟子を選ぶ際に徹夜で祈っておられます。(ルカ6:12~13)十二弟子は、「ご自身のお望みになる者」であり、イエスが「身近に置くため」に選ばれたのです。(マルコ3:13~14)イエスの選抜基準は単に見栄えや能力ではないのです。なぜだかわかりませんが、その人を身近に置こうとお望みになったのです。 繰り返しますが、十二弟子は「無学な普通の人」であって、大した力はありません。十二弟子の存在は、人がいかに神の役に立たないかを私たちに見せてくれます。彼らを聖マタイだの聖ヨハネなどと崇め奉るのは、全く愚かなことです。十二弟子は組織の業績を上げるというような意味合いにおいては、全く何の役にも立たないのです。しかし、イエスは彼らを個別に選び、召しだして、三年余り寝食を共にし、友として関わり、罪人の犠牲になるというより、自ら進んで愛する友の身代わりとして十字架に架かられるのです。にもかかわらず、十二弟子はそんなイエスの思いを少しも理解せず、香油を捧げたマリヤを非難し、「自分たちの中で誰が一番偉いか」を気にしながら、ゲツセマネでは眠りこけ、十字架にかかられるときには見捨て、「この方を知らない」と誓います。裏切ったのはユダだけではありません。イエスと十二弟子の関係は、神と人の関係、神の義と人の罪、神の愛と人の裏切り、そして、神の全能と人の無能を表現するモデルなのです。このモデルの必要と、そして何よりも愛のゆえに、主は十二弟子を、そして私たちを求めてくださいました。十二弟子の裏切りと回復は、それに続く私たちのためです。
 十二弟子が役に立ち始めるのは、イエスがよみがえられてからです。十字架を経たイエスに息を吹きかけれ、彼らはよみがえりのいのちを分与され、はじめて生きた信仰を持ち始めます。善悪や義侠心によってイエスに従った結果は裏切りと深い罪の自覚でした。十二弟子はイエスによって教育され、訓練されましたが、それは、イエスのいのちが彼らの個性の中で表現されるためでした。彼らが「役に立つ者」となったのは、みことばが彼らのよみがえりのいのちの中で成就したのであって、彼らが生まれながらの力で努力して変容したのではありません。それはあくまでもいのちの結果なのです。聖霊は人の子イエスの中に宿り、死と復活を経て分与され、「弟子たち」を通して、言い換えれば「教会」という新しいからだを得て働きを継続して今日に至っています。からだの各器官が、いのちを維持するために連携するごとく、神のいのちは教会というからだの中で確かに機能しています。からだはかしらであるキリストとしっかり結びついてこそ、そのいのちの機能を発揮します。キリストのいのちの営み、すなわち霊的な教会の建設は、この世の組織や階級、儀式や習慣とは、全く別の次元で行われているわざです。いのちの活動は、非常に自然で自動的です。私たちが確かにイエスを信じているなら、一人ひとりは間違いなくそのからだの一部としての何らかの役割を担っています。その役割のためのタラントを預かっていないことなどあり得ないのです。ですから、その事実に対して目が開かれ、信仰によって意識的にとらえ、アスリートのようにそれを鍛え、用いることができるなら、それはからだ全体の益になることは言うまでもありません。あなたは、自分の賜物が何だかわかっていますか。私には何もありません。「私はダメです。力不足です」というのは、謙遜ではなく、傲慢で不信仰なのだと肝に銘じてください。主は本当にあなたに何もくださらなかったのですか。未だにまだそんなことを言っているとしたら、1タラントの人と同じ言い草ではないですか。「ご主人さま。あなたは蒔かないところから、刈り取り、散らさない所から、集めるひどい方だとわかっていました。私は怖くなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。」(マタイ25:24~25)この人は、主に預かった1タラントを地に埋めて、それを掘り起こして「それはあなたのものだ」と言って返しています。つまり返したあなたのもの以外のわたしのものを暗示する表現です。ここにこの人の最も大きな問題があります。地に埋めなかった、1タラント返した後に残っている「わたしのもの」「わたしの分」とは、いったい何なのでしょう。1タラントの人は、主のものと自分のものを分離し、他の兄弟の働きも自分とは無関係な利益だと考えていたことに大きな問題があります。主と私はもはや分かちがたいほどひとつです。だからこそ、肉は罪をもったままですが、私は主にあってすでにきよいのであり、どこかで主と私の境目や区切りがあるとしたら、そこから私は腐っていくでしょう。キリストの血の贖いが、私を部分的にではなく、完全に覆っているのです。主と私がひとつであるなら、贖われたあなたと私、兄弟姉妹も主にあってひとつなのです。主はそうおっしゃっています。 だから、私たちは進んで交わるのです。
十字架は自分を否むことですが、それは決して自分を愛さないことではありません。主が受け入れてくださった私を、主が与えてくださった私の個性を愛することです。自分を受け入れ、愛することを知らない人は、絶対他人を受け入れたり、愛したりは出来ません。自分自身を愛することを知らない人が、他人を愛することなど出来るはずがありません。「自分を愛するように隣人を愛する」のです。自分を愛せない人には、隣人は愛せません。主が愛された私を受け入れることは「我が身かわいさ」とは根本的に違います。ところがキリスト教は、「我が身かわいさ」はいけないので、「自分はさておき、隣人を愛する」というスローガンをかかげました。さらに「自分の中のマイナスを憎んで取り除こう」という長期キャンペーンを行いました。そんなプラスの要素だけを固めた無個性なキリスト教的着ぐるみは、実に味気なく不気味です。反対にボアネルゲとは、いかにも愛嬌があるではないですか。愛せない自分、受け入れられない自分と信仰によって向き合うこと、これは基本中の基本なのですが、多くの人たちが棚上げしている問題です。これが出来ないから、心の病気になるのです。へんな着ぐるみを来たまま、風呂に入ったり、トイレに行ったりしているわけです。どう考えても不自然です。 私たちは、健やかでいましょう。「主に愛された弟子」と福音書の中で自己主張しても良いのです。(ヨハネ21:7,20)ヨハネがこのように書けのたは、イエスにあだ名をつけてもらい、それを受け入れたからです。

2008年8月19日火曜日

8月10日 メッセージのポイント

主人の喜び (イエスのたとえ話⑳)
マタイ25:14~46

A アイドルとタレント
  ○アイドルは偶像
  ○タレントは才能・力量
  ○人工と天然・・・・天然なら栄光はどこに
  ○虚栄の中で拡大していくイメージと実像の落差
       →アイドルは普通の女の子に戻りたい  

B タラント(マタイ25:14~30)
  ○タラントは預かり物・・・・タレントの語源
  ○たとえは感情移入を拒絶する・・・宗教は自分の「現状」や「願望」を中心にした
   「生き甲斐」や「救済」を設定するが、みことばはそれを完全に打ち砕く
  ○「小刻み」で「多様」なタラント・・・あたかもそれが自分自身のものであるかのよう
   な錯覚に陥るほどに
  ○主人の評価基準
  ○タラントは少なくとも2倍に増やせる
  ○「野心」と「不安」そして「格付け」と「安心」
  ○「わずかなもの」と「たくさんのもの」

C 主人の喜び
  ○「役立たず」なのは能力が低いからではない・・・主人の心を理解しないから
  ○歪んだ神のイメージが、自分の心を歪ませる
  ○タラントは   
     ・・・・共に分かち合うため   
     ・・・・弱い人を支えるため
     ・・・・足りないところを補うため
  ○主人の喜び

D 山羊と羊(マタイ25:31~46)
  ○思いがけない評価・・・忘れてしまうほど些細な日常のこと
  ○私たちは何かをもらうのではなく、いのちにはいる

2008年8月18日月曜日

8月10日 主人の喜び (イエスのたとえ話 20 )

マタイ25:14~30

 TVをつけると、毎日のように、アイドルとかタレントとか言われる人たちが、頻繁に登場するのを見るでしょう。ちなみに、アイドルは「偶像」、タレントは「能力」という意味です。今どういう人がどんな理由で注目を集めているのかを見ているいと、時代の流行や大衆の価値観がいかなるものなのかわかります。アイドルや流行歌の歴史をひもとけば、世相を見事に反映しているのがわかります。さて、歌手でもなく、芸人でもないという、ルックス中心の際立った能力のないタイプの人たちを「タレント」と呼ぶようですが、私は自分の技や芸を磨くために何の努力もしていない外見の綺麗な人たちも十分評価しています。いいじゃないですか、見かけがすばらしいのは。アイドルだって、体型を維持するために頑張ったり、化粧やファッションには気を使ったりしているでしょうが、それらの努力は、芸を追求する人たちの努力に比べれば、努力のうちには入らないでしょう。それも努力だと認めたとしても、全く質の違う努力です。その人が美しいのは、基本的には、その人自身ががんばったからではないということが、はっきりわかっています。人工的な整形ではなく、天然のものだからこそ高い価値があるわけです。だから、自分をデザインしてくれた神さまを賛美すればいいんですが、そういう人はあまりいません。ひとたびアイドルとしてが偶像化されると、本人も「自分が一般の人より何だかワンランク上の存在」だと思いこんでしまうことになるので具合が悪いのです。だから、その虚栄の中で拡大していくイメージと実像の落差にアイドルたちはみな悩みます。だから、普通の女の子はアイドルに憧れるのですが、アイドルは普通の女の子に戻りたがるわけです。TVはこの世や時代を学ぶ上でけっこう大切なツールだと思いますが、クリスチャンがTV的価値の中にどっぷりはまりこむのはいただけません。TVから得られる情報をみことばによってクールに分析していただきたいです。「蛇のようにさとく」なってください。甲子園やオリンピックでTVに釘付けになってしまう人も多いようですが、この夏、全国大会が行われているのは、野球だけではありません。高校にはハンドボール部もあれば、軟式テニス部だってあります。オリンピックの影ではグルジアで2千人死んでいるのです。そういうこともキチンと相対化する知能を養いつつ、楽しんでいただけるといいなと思います。「TVは有害」といって遮断するのではなく、柔軟にそこからこの世の抜け目のなさを学んでください。
 今日は「タラントのたとえ」を中心にマタイ25章を見ていくのですが、実は、英語のタレントの語源になったのが、当時の通過の単位であったタラントです。それは元来、主人が分け与えてくれた財産でした。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」(マタイ25:14)と書かれています。つまり、このたとえにおいても、財産を預けて旅に出て行く主人がお話の中心です。5タラントもらった人でも、2タラントもらった人でも、1タラントもらった人でもありません。 聖書は徹頭徹尾「神の書」です。人が創作したものではありません。それは、このようなたとえの基本的な設定や些細な言い回しの中にも現れています。人間の創作では、主人が主人公というような設定はまずありません。NHKの朝ドラでも、宮崎駿のアニメでも、女の子や幼子、弱者の視点で描かれるから、より多くの人が感情移入できるわけです。みことばは、安直な感情移入を拒否し、医者の宣告のように、ドライに私たちの現状を映し出します。人は基本的にこの世でうまくやることしか求めてはいません。誰も神や本当の正義など求めてはいないのです。人が救われたいと思っても、それは神が与えようとする救いとは全く異なるものを求めているにすぎません。だからこそ、本物の救い主が来ても、イエスが救い主には見えないのです。忘れないでください。人が救いを求めたのではなく、神が救いを計画されたのです。考えてみてください。私たちのうちの誰一人として自分から「存在したい」と願った覚えさえありません。神が一方的にこの生を与えたのです。自分で生きているのではなく、生かされているのです。宗教は、自分の現状や願望を中心にした「生き甲斐」や「救済」を設定しますが、神にある人生やキリストによる贖いは、そういうものとは全く違います。最初にきちんとそのことを確認しておけば、「タラントのたとえ」の読み方もおのずと決まってきます。
ここには、5タラントと2タラントと1タラントという3段階の財産を預かったひ人たちが登場します。これは上流、中流、下流というような、いわゆる「階級」や「格差」を表現しているのでしょうか。そうではありません。実際に私たちが受けているタラントは、さらに「小刻み」で「多様」に分けられているでしょう。ここで押さえておかなければならない重要なことは、「私たちがいかなるタラントをどれほど持っていたとしても、それは主人から預かったものであり、預かったもの以外は持っていない」ということです。ここがポイントです。画一的で全く同じものが与えれていたら、それを配給した出先が明確になります。ところが、それがあまりに小刻みで多様に配剤されたものであるからこそ、あたかもそれが自分自身のものであるかのような大きな錯覚に陥っているだけなのです。5タラント預かった者はさらに5タラント、2タラント預かったものはさらに2タラントもうけて、主人にそのことを報告し、それぞれに賞賛されています。このことから、「私たちのいただいているタラントの中には、少なくともそれを2倍に増やす力が備えられている」と考えても間違いではないでしょう。さらに言えば、それ以上には増やせないのかという「野心」もおこりますし、その基準に及ばないこともあるのではという「不安」もあるでしょう。私たちは自分の能力に関してそういう「野心」や「不安」と常に戦っています。実質を追求することよりも、外からの「格付け」をしてもらって「安心」を買いたいのです。しかし、主人の評価の仕方は、しもべの格付け願望を吹き飛ばすような痛快なものです。主人の評価の基準は、どれだけもうけたかではなく、「忠実であるかどうか」ということです。忠実な良い行いは、主人の喜びであることが書かれています。「よくやった,良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから,私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21・23)よく見てください。5タラント預かった人と、2タラント預かった人は、全く同じことばで評価されています。これが、主人の評価であり、神の基準です。大事なのは、5タラントもうけた自分の喜びではありません。「たくさんもうけた」とか、「人よりもうけた」とかではないのです。主人の喜びをともに喜ぶことです。主人の喜びをともに喜べる霊的な感性というか一体感が重要なのです。自分の喜びを追求している限り、主人の喜びには思いが至らないのです。
いよいよオリンピックですが、オリンピックに出場するようなアスリートたちは、みな5タラントの体力や運動能力を与えられた人たちです。そういうレベルの人たちが、わずかな力の差をハイレベルで競い合うわけです。それをどのようにとらえるかは大切なことですが、与えられ、磨き抜いた力を競い合うこと自体は、別に良いことでも悪いことでもありません。私たちが見て感動するのは、与えられているタラントを最大限まで使いきる姿は美しいものだからです。しかし、それをどう評価するかは問題です。勝者には「栄光」がついてきます。その栄光は誰のものでしょう。また、そもそも競い合う「動機」はどこにあるのでしょうか。オリンピックに限らず、私たちは常に能力を問われ続け、それが人間の価値を左右するかのようなレッテルを貼られて成長します。先程言った「外からの格付け」を望まなかったとしても、勝手に偏差値をつけたり、「負け組」だの、「ハケン」だの、「パートさん」だの、いろんな呼び方で、それがあたかも人間そのものの価値であるかのように評価するわけです。誰もが、そうした評価に違和感を持ちながらも、「周囲を出し抜き、少しでも上に!」と考えるのが一般的な傾向です。例えば、受験の結果が出たとします。1流校と3流校に合格した人たちは、同じ評価を受けることはありません。そういうわけで、1タラントの人は卑屈になりました。ほかの2タラントと、5タラントの人と自分を比較したからです。2タラントや5タラントはたくさんで、自分の預かった物はわずかだと考えました。「どうせ私なんて」という寂しい発想です。だいたいいじけてひねくれる人は、恨みや妬みが強く、自尊感情が低い。しかし、1タラントというのは、実際は決して少ない金額ではありません。1タラントは6000デナリ、ベタニヤのマリヤが注いだあの高価な香油が300デナリですから、その5倍もあるわけで、立派に事業を興せます。今風言えば、ベンチャー企業の資本金ぐらいにはなるわけです。神の与えたタラントというのを、人はあまりにも過小評価していると思います。「私なんて」と卑屈にならなければならないほど少なくしか与えられていない人なんて本当は一人もいないと、私は信じています。これは何千人の子どもたちを見てきた実感です。人は勝手に自分の可能性をどんどん捨てているのです。
主人は、しもべとは違ったものを比較しています。主人は、3人に預けた物を各々比べてはいません。地上のものと天のものを比較して、「わずかな物」とか「たくさんの物」と語っています。地上で預けた1タラントや2タラントや5タラントは、神にとってはいずれもともにわずかなものです。本当に任せたいものは天にあります。天でたくさんのものを預けてよいかどうかを、試されただけなのです。このテストの意味を悟らず、地上でのクリスチャン生活の意味がわかっていないと天に居場所はないでしょう。しもべの中には、役に立つしもべと役に立たないしもべがいます。「役に立たないしもべは、暗闇で泣いてはぎしりをする」と書かれていますが、これは御国に入れず、拒まれる人たちに特有の描写です。「能力がない」あるいは「低い」から役立たずなのではなく、主人の心を理解しないことが役立たずなのです。自分のタラントを地の中に隠した愚かなしもべは何と言っていたか思い出してください。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。」(マタイ25:24~25)このしもべは、とても主人に対して、非常に歪んだイメージを持っていました。タレントの高い他者をアイドル化して自分を卑下する人たちは、真の神と人格的に触れ合うことが出来ず、歪んだ神さま像を勝手に作り上げて、その自分で作り上げた神のイメージの前で自分を閉ざしていきます。こうして宗教としてのキリスト教をやっている人たちは、みなさんビョーキになられるのです。私たちが地上でお互いのタラントを比べ、測り合うのは愚かなことです。もし自分が人より何か優れているとしたら、それは共に分かちあうためであり、弱い人を支えるためであり、足りないところを補うためなのです。誰かの優位に立ち、支配し、利得を得るためではありません。イエスの生き方を見ればそれは一目瞭然ではないですか。「賜物セミナー」とか、「按手や預言を受けて有能な働き人に」とか・・・全く愚かさの極みです。 このたとえの中心は、「主人の喜びをともに喜ぶこと」です。主人の喜びはどこにあるのでしょう。5タラント与えられた人が、きちんと5タラントもうけたから主人は喜んだのでしょうか。2タラントの与えられた人が1タラントしか稼げなかったら、彼は不忠実だと責められるでしょうか。主人の喜びは、私たちのもうけの額には関係ありません。
タラントのたとえの続きには、羊と山羊とが分けられる話が出てきます。正しい人は褒められていますが、ある人たちは非難されています。正しい人たちも愚かな人たちも、自分のした良いことや悪いことに気づいていません。なぜなら、それは日常のとても些細なことだからです。もっとも小さな者に対して行った、それこそ忘れてしまうような小さな親切だったからです。それはごく平凡な交わりであって、病人を癒すとか、悪霊を追い出すとかいう特別大きなことではありませんでした。
「タラントのたとえ」を人間的に読むと、「自分はいったいどんなタラントが、どれくらい与えられているんだろう」「あの人ほど与えられてはいないけど、この人より勝っているのでは」などと考えてしまうかも知れません。しかし、1タラントのもので、他の誰かのためにその1タラントを用いることで十分なのです。自分の賜物がどれだけのものであろうと、その賜物で他の兄弟姉妹に仕え、世の人に仕えることに価値があるのです。そのささやかな奉仕を主は覚えてくださっています。私たちは何かをもらうのではなく、ただキリストのいのちにはいるのです。

8月3日 メッセージのポイント

花婿を迎える十人の娘のたとえ (イエスのたとえ話⑲)
    マタイ25:1~13

A 地上における最も重要なモデルとしての結婚
  ○創世記の結婚(創世記2:7~8,18~25)
  ○黙示録の結婚(黙示録19:6~9)
  ○雅歌・・・キリストと教会の甘美な交わり
  ○カナの奇跡
     →イエスは結婚を祝福される
     →イエスを招くことによって結婚の質が変わる  
  ○雛型の崩壊

B アダムとイエス
  ○創造の中に「贖い」が含まれている
  ○アダムの深い眠りとイエスのわき腹の傷
  ○教会の存在価値
  ○一心同体という摂理・・・アダムとエバには離れる父母はいない
  ○優先順位

C 手紙が解き明かす奥義
  ○元はひとつ(ヘブル2:11)
  ○世界の基の置かれる前から(エペソ1:4)
  ○聖く傷のないものとして立たせる(エペソ1:4 , 5:27)

D 花婿を迎える十人の娘のたとえ(マタイ25:1~13)
  ○終末における忠実な管理と準備というテーマで語られたたとえ話     
     「忠実なしもべと悪いしもべのたとえ」(マタイ24:45~51)
     「タラントのたとえ」(マタイ25:14~30)
  ○王の披露宴のたとえとのつながり
  ○ポイントは油を準備したかどうか
  ○各自がキリストから受けた油によって教えを受ける(Ⅰヨハネ2:27)
  ○油は私たちが神のものであることの保障(Ⅱコリント1:21~22)  
  ○待つことで試される信仰と愛(Ⅰペテロ1:8)(Ⅱペテロ3:3~4)   
     「主人はまだまだ帰るまい」(マタイ24:48)    
     「よほどたってから」(マタイ25:19)  
  ○ただキリストにとどまること

8月3日 花婿を迎える十人の娘のたとえ (イエスのたとえ話 19 )

マタイ25:1~13

先日といっても何週か前の放送だったと思いますが、NHKの大河ドラマ「篤姫」を見ていると、将軍家定がハリスに会見する際に篤姫の同席を許すシーンがありました。正室と言えど、女性が重要なまつりごとに関わるというのは過去に例のないことでした。とまどう篤姫に対して、家定はこう言います。「夫婦は一心同体者じゃからな・・・」 いくら篤姫の存在が家定の心を動かしたとはいえ、江戸時代に、しかも徳川家の将軍がそのような感覚を持っていたとは思えないので、それは脚本家の過度な脚色ということですが、ドラマの台詞としてはとても美しいものでした。
今日は「結婚」のお話をします。霊的な「実体」や「本質」を写したこの世におけるあらゆる「型」や「影」の中で、最も重要なもの、それは間違いなく結婚です。もう少し広げて言うと、夫婦関係、あるいは、結婚に至る男女の関係ほど重要なモデルは他にありません。それはキリストと教会の関係を表現している地上で最も美しい雛型なのです。聖書はアダムとエバの結婚に始まって、キリストと教会の結婚で終わります。そして、聖書の中で最も深く味わい深い書簡は「雅歌」です。ここには男女の心の機微を通して、キリストと教会の交わりの甘さ切なさが巧みに描かれています。まさに奥の間、至聖所の交わりです。さらに、忘れてならないのは、イエスのキリストとしての最初のしるしが、結婚式において水をぶどう酒に変えた奇跡だったということす。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。」(ヨハネ2:11)と書かれていますが、ヨハネは「水をぶどう酒に変えたことが栄光だ」と言っているのではないでしょう。このしるしがイエスの栄光である理由はふたつあります。イエスは結婚を祝福されるということ、イエスを招くことによって結婚の質が変わるということです。つまり、キリストの血による花嫁の贖いこそ真実の結婚であり、そのことを知るなら、雛型である地上の結婚も同時に豊かにされるということです。もし、この結婚にイエスが招かれていなければ、ぶどう酒は祝宴の最中に底をついたままです。まさにふたりの喜びの絶頂のときに、面目を失うことになったはずです。このようにイエスを招かない結婚は、悲しい結果をもたらしています。今日ほど、結婚が軽んじられ、男女関係がデタラメになっている時代は過去になかったのではないでしょうか。目に見える雛型の崩壊は、霊的な姿を反映しているのです。
それでは、最初の結婚について少し詳しく見てみましょう。(創世記2:7~8,18~25)アダムは土のちりで形造られ、神のいのちの息をふきこまれることによって生きものとなりました。それから、アダムはその与えられた能力によって、あらゆる野の獣や空の鳥に名前をつけました。しかし、その中に、ふさわしい助け手は見つかりませんでした。そこで、アダムに深い眠りが与えられ、そのあばら骨からエバが生まれます。これは、最も重要な創造であり、この創造の中には実は「贖い」が含まれています。神は男と女を一度に造られたのではなく、男を造ってから女を造られました。女は男のあばら骨から生まれたことが大事なのです。女は男のあばら骨から造られたから、男より格下だというイメージは間違っています。なぜ「あばら骨」なのでしょう。あばら骨はからだのどの部分にありますか。わき腹です。ご承知のように、イエスのみからだには、そのわき腹に傷跡があります。両手両足の傷は、十字架にかけられたときのものです。わき腹の傷はイエスの死を確認したときに出来たものです。アダムに与えられた深い眠りは、イエスの死を表しています。エバがあばら骨から造られたことは、教会はイエスが死なれたからこそ、そのいのちが分与されたこと、そして、エバはもともとアダムの一部であったことを表現しているのです。女は男の格下どころか、女は男にとってかけがえのない宝であることを現しているのです。
エバが造られたとき、アダムはこう言っています。「これこそ、今や私の骨からの骨、私の肉からの肉、これを女と名付けよう。これは男から取られたのだから。」(創世記2:23)さらに、みことばは続きます。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。」(創世記2:24)この記述はとても妙なんですが、お気づきでしょうか。なぜならアダムには父母はいないからです。アダムとエバは母から生まれたのではありません。にも関わらず、わざわざ「その父母を離れ」とあるのは、アダムとエバだけでなく、これから生まれてくるすべての男女に定められた結婚という摂理の深さ、偉大さを示すためです。それほど、結婚というのは大事なことなのです。イエスもこのことばを引用されています。一心同体ということばは、花婿であるキリストと妻である教会の一体を表現しています。心は一つで体もつながっている運命共同体ということです。「父母を離れ」の前に「それゆえ」ということばがあります。「それゆえ」とは、「何ゆえか」というと、「アダムからとられたから、エバはアダムとひとつになるのだ」と言っているのです。つまり、エバはアダムから取られたことにその存在価値があります。教会はキリストから生まれたことに存在価値があるのです。「その父母を離れる」とは、家族や血縁の関係性よりも、「信仰」を優先し、神の摂理に委ねるべきであることを教えています。それは、冒頭にも申し上げたように、「結婚」及び「夫婦のあり方」こそが、キリストと教会を表現する最も重要なモデルだからです。母子関係も重要です。父子関係も重要です。友人関係も重要です。主人と労働者の関係も重要です。友人や隣人との関係も重要です。しかし、最も重要なのは夫婦の関係です。この優先順位がバラバラの人は、必ず一番重要な的をはずしており、祝福を失います。まずキリスト、それから夫婦、そして子ども、さらに友人、隣人、地域社会です。キリストが第一は言うまでもないことですが、「家族をほったらかして人類愛」とか、「夫婦関係よりもまず子ども」とか、そういうのは間違いです。教会はキリストのわき腹の傷から生まれます。そして、それゆえにまたひとつとなります。「聖とする方も聖とされる者たちも、すべて元はひとつです。」(ヘブル2:11)これもまた驚くべきみことばです。私たちは「世界の基の置かれる前から」選ばれている(エペソ1:4)という信仰を持つことの大切さについては、以前にも少し触れましたが、パウロがこのように宣言する背景には、「花嫁としての選び」のイメージがあったことは明らかです。この箇所に出てくる「聖く傷のないものとして立たせる」(エペソ1:4)という表現が、キリストと教会の関係を夫と妻の関係にたとえて語られた5章にもう一度現れます。(エペソ5:27)それほど男女の関係というのは、神の御前に尊いものなのです。創世記のこの記事は、単純に人の誕生についての神話的記述ではありません。それは教会の誕生のモデルなのです。新約聖書の光を当てて、信仰をもって、旧約聖書を読んでいくと、見えてくるものが全く違います。そういうみことばの学びの習慣がつけば、目に見える世界の事実から目に見えない世界の真実を読み取る目が養われるはずです。人間が造られる前、御子イエスの助け手は、被造物の中にはありませんでした。人間が造られる前に、人間よりも能力の高い被造物はいました。神の御使いです。ルシファーを中心とする反逆した御使いたちの創造や彼らへの処遇については、聖書の中に書かれていること以外はわかりませんが、聖書を信頼するなら、なぜだかわかりませんが、私たち「人間」という存在が、神の計画の中心におかれ、教会を御子の花嫁として選ばれたことは事実です。この啓示を示された者は、みな感嘆の声をあげたのです。(詩編8:1~9)聖書は完全な書物ですが、聖書が神の創造やイエスのみわざのすべてを語り尽くしているわけではありません。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う」(ヨハネ21:25)(ヘブル13:22)
「花婿を迎える十人の娘のたとえ」(マタイ25:1~13)は、「結婚」をテーマにしていますが、もうひとつの切り口から見れば、「終末における忠実な管理と準備」というテーマで語られた3つのたとえ話のうちのひとつです。「忠実なしもべと悪いしもべのたとえ」(マタイ24:45~51)と「タラントのたとえ」(マタイ25:14~30)がこれを挟むかたちで編集されています。このような書き方は、ユダヤ独特の様式で、マタイはこの手法で福音書を編集するように導かれています。この「花婿を迎える十人の娘のたとえ」は、「王の披露宴のたとえ」とつながりがあることもわかります。ともに婚礼の祝宴について語っています。花婿を出迎える娘とは花嫁のことです。ユダヤでは婚約をしてから約1年を経て、婚礼の祝宴を催し、結婚生活を始めます。イエスさまの養父であるヨセフの場合、マリヤがこの婚約中に妊娠が発覚したわけです。
花婿を待つ十人の娘のうち五人は愚かで、五人は賢かったと書いてあります。愚かな娘たちと賢い娘たちとの差は何でしょうか。一人ひとりの容姿や性格、能力や適性については何も触れていません。ポイントはただ一点です。それは、「油を準備していたかどうか」という点です。ともしびがあっても油がないと、当然火は消えてしまいます。ともしびと油とは何を象徴しているかはおわかりですね。ともしびは「みことば」であり、油は「聖霊」の象徴です。「みことばは霊でありいのちです」(ヨハネ6:63)まず、みことばがなければ話になりません。しかし、それだけでは不十分です。油が必要です。「各自」が「キリストから受けた油」によって教えを受けます。(Ⅰヨハネ2:27)これは、極めて重要なポイントです。ご承知のように、油を強調する集団はいっぱいあります。しかし、彼らはみことばに無知です。さらに、ヨハネのことばのとおり、各自がキリストから受けた油によってキリストにとどまるのです。「特別な油注ぎの器から教えを受けて、その先生にとどまる」などと書いてある箇所はどこにもありません。そういうことを言っている人たちは、このたとえからも除外されているんです。ここで、出てくる十人の娘はみな例外なくともしびを持っているんです。そのうち五人は油をもっていない。残りの五人はともしびに加えて油も持っています。油だけ持っている娘はいません。
油は私たちにみことばを教えるだけではなく、私たちが神のものであることの保証です。「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(Ⅱコリント1:21~22)花婿の到着は夜中になったと書いてあります。「到着が遅れる」という点は、この終末のたとえ3つに共通する設定です。「忠実なしもべと悪いしもべのたとえ」では、「『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思った」と書いてあります。「タラントのたとえ」でも、「よほどたってから」しもベの主人が帰ってきたと書いてあります。これは、重要なポイントです。長い時間待たされることで試されたものは何でしょうか。それは「信仰」であり「愛」です。今目の前にないものをどれだけ信じて愛せるかということが問われているのです。若い男女の恋愛においても、学校や職場が変わって長距離恋愛と呼ばれる状況になると、心が冷めたり、どちらかが裏切ったりということがおこります。離れていること、遅れていることには意味があるのです。「あなた方はイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことの出来ない、栄えに満ちた喜びに踊っています。」(Ⅰペテロ1:8)ペテロは、祝宴の喜び待ちながらにして味わっている様子を描写したのでしょう。同時にペテロはこうも語っています。「次のことを知っておきなさい。終わりの日にあざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか、先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」(Ⅱペテロ3:3~4)ペテロは、イエスさまから聞いたいくつかのたとえを思い出しながら、このふたつのことばを手紙に記したのです。愚かな娘たちの最大の愚かさは何でしょうか。それは賢い娘たちから油を買おうとしているところです。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは、消えそうです。」(マタイ25:8)賢い娘たちはどう言っていますか。「いいえ、あなたがたに分けて上げるにはとうてい足りません。それより店に行って自分のをお買いなさい。」(マタイ25:9)油は誰かから売ったり、買ったり出来ません。油は自分で個人的に準備するものです。油はただ「キリストにとどまること」を教えます。(Ⅰヨハネ2:27)

2008年8月1日金曜日

7月27日 メッセージのポイント

自分を高くする者は低くされる (イエスのたとえ話 ⑱ )
  ルカ18:9~14

A 地上と天での立場の逆転
   ○「あとの者が先になる」(マタイ20:16)
   ○「先の者があとになる」(マタイ19:30)
   ○たとえとエピソードの関連
     →みことばを日常に適用すること   
     →自分のもの差しではなくみことばのものさしで測ること
   ○逆転の鍵は信仰

B パリサイ人の祈り
   ○わたしは悪い者ではない
   ○わたしは良いことを行っている
   ○動機は何か
   ○「良いことを長期にわたって忠実に行えば良い者になれる」という錯覚
   ○ふたり  
   ○宗教は心の中の現象

C 取税人の祈り
   ○砕かれた悔いた心(詩編51:17)
    ・遠く離れて立ち
    ・目を天に向けようともせず
    ・自分の胸をたたいて
   ○ ひとり
   ○ 救いはいのちの変化

D 神の前で自分を高くすることの虚しさ
   ○「粉飾」と「偽装」
   ○「名を上げること」と「名を残すこと」
   ○「神のあり方を捨てられた御子」と「人のあり方を忘れた罪人」

E 救いは神御自身の義を表現する
   ○「恵み」「贖い」「値なし」
   ○神御自身の義
   ○信じる者の義

7月27日 自分を高くする者は低くされる (イエスのたとえ話 18 )

ルカ18:9~14

「このようにあとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16) これは前々回にお話した「ぶどう園のたとえ」の結びのことばで、たとえ全体の教訓として語られています。実はこのフレーズは弟子たちにとっては聞き覚えのある表現でした。 おそらくこのたとえを話されるよる少し前に、金持ちの青年がイエスのもとにやって来て、問答の末悲しんで去っていくという出来事がありましたが、その際にイエスは、このことばに非常によく似たことを語られたのです。ですから、間違いなく弟子たちはそのことを思い出したはずです。この時イエスが語られたことばは、「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マタイ19:30)というものでした。ぶどう園のたとえの結びのことばとは、ことばの順番が逆になっています。 「ぶどう園のたとえ」では、一番あとから仕事に加わった者が早朝から働いていた者と同じ報酬を受けることで、主人の気前よさの恩恵を受けるという点で、「あと」と「先」が逆転したわけですが、金持ちの青年との問答の後に語られたのときは、反対に「先」をいっているように見える彼が弟子たちの「あと」になったというものです。 イエスはこのように、たとえを使って話した内容について、実際の具体的な人物や場面に当てはめて語られました。イエスは、重要な内容に関しては、同じテーマについて少しずつかたちを変えながら、繰り返し弟子たちの印象に残るように語られたことがわかります。私たちもみことばを非日常的な観念の世界でとらえるだけではなく、日々の暮らしの中で、イエスのことばのひとつひとつを正しく適用すべきです。たとえば、私たちが具体的にどれほどの祝福を受け如何に恵まれているかは、自分がすごく羨ましいと感じている人たちがあとになっていくのだという、みことばの事実に合わせて評価するべきです。目に見える現実に自分のもの差しではなく、みことばのもの差しを当てて、事実を正確に測るとき、物事の真実が見えるのです。 ただし、先の者とあとの者の順序が必ず逆になると言っておられないことにも注意する必要があります。イエスは、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多い」(マタイ19:20)と言われました。ずっと先のままの人もいれば、あとのままの人もいるはずです。要するに、イエスに対する信仰の有無によって逆転があるという話です。信仰の実質がなければ、地上でも「あと」天でも「あと」です。場合によっては、地上では最先端、天では門前払いとなるわけです。
「金持ちの青年の出来事」はたとえ話ではないので、今日はよく似たテーマを扱った別のたとえを取り上げようと思います。「パリサイ人と取税人の祈り」についてのたとえです。このたとえは、「自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たち」に対して語られたものです。あの去って行った金持ちの青年にとっても、必要なメッセージだと思います。(ルカ18:9~14)このたとえには、パリサイ人と取税人という対照的な人物が登場します。このふたりが祈るために宮に登るのですが、義と認められたのはパリサイ人ではなく取税人だという話です。 これもいわゆるパラドックス(逆説的真理)です。ルカの福音書の中では、何度もこのパターンが登場します。7章には、イエスさまの足に香油を注ぎ髪の毛でぬぐった罪深い女と彼女を軽蔑したパリサイ人シモンが出て来ます。10章には、良きサマリヤ人と冷たいユダヤの宗教指導者たち。そしてもてなしに心をくだくマルタと主の足元にすわってみことばを聞くマリヤが出て来ます。15章には、放蕩三昧の末に帰ってきて父の愛に触れる弟息子と父のそばにいながら父の愛を理解しない兄息子が出てきます。16章には、全身おできの貧乏人ラザロと毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ちが出てきます。いずれも2種類の人物を対比させながら、どういう人が神に受け入れられ、喜ばれるのかを教えています。これらのいずれの記事にも示されている共通の事柄は、「神の評価は私たちの人間的な判断とは全く異なっている」ということです。このような人間的な価値観をどんでん返しにするようなかたちで伝えることによって、メッセージをいっそう印象づける効果があるわけです。先程もお話したように、あるときはそれは「たとえ話」であり、あるときは「具体的なエピソード」として、いずれも神のことばとして福音書記者がまとめています。いずれも、人間的にすばらしい評価を受けると予想されるものが、神にとってはむしろ忌まわしいもので、逆にとうてい神に受け入れられるはずのないものが、受け入れられています。このたとえにおいても、「自分は神にふさわしくない」という取税人にとっても、他の人たちにとっても当たり前の事実を認め受け入れることによって、その告白の真実と神のなだめによって神に受け入れられるのです。これが救いの本質です。人々が尊敬し、自らも義人を自認するパリサイ人は退けられました。みことばは、人のもの差しの歪みやズレを明らかにしながら、神の基準を示しています。
 パリサイ人の祈りを見てください。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを感謝します。私は週に2度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11~12) この祈りを二つに分けて分析しましょう。前半部分は、「私は他の人のように、~(悪い者)でないことを感謝します。」という祈りです。これはどうでしょうか。パリサイ人は嘘を言っているわけではありません。彼は正しいのです。ゆする者であったり、不正な者であったり、姦淫をする者である方がよいのではありません。神さまに受け入れ、赦されるためには、そういう弁解しようのない大きな罪を犯さなければならないなんてことは絶対ないわけです。ここで問題なのは、取税人を持ち出して、「こいつよりマシだ。だから感謝するのだ」と言っている点です。つまり、そういう「~する者」と「~しない者」がいて、「自分は(しない者)だから立派なんだ」と言っているわけです。「~する、~しない」は、律法から発生した当時のユダヤ教の問題です。当時ローマの統治下にあったユダヤ人は、政治的にはローマの権威に屈しながらも、律法の約束を守ることで宗教心を満足させ、律法を捨て、ユダヤ人でありながらローマに身も心も屈している取税人を徹底的に軽蔑して優越感を持つことで、ローマへの劣等感をはらしていたわけです。このように優越感と劣等感は表裏一体なのです。
祈りの後半は、「私は、~(良いこと)をしています。」というものです。ここでも、彼は多分本当のことを言っているのでしょう。週に1回しか断食していないのに2回したと言ったり、20分の1か15分の1しかささげていないのに10分の1ささげたとごまかしたりしているのではないと思います。申告通りの生活を送っているのです。これらは何ら批判されるべきものではないでしょう。むしろ他の人もそうであるべきでしょう。問題は動機です。何のためにこれを行っているかというと、自分の徳を積み上げて神に義と認められるためです。それが問題なのです。
もう一度整理します。前半の祈りは「(悪い者)ではない」ということでしたが、後半の祈りは「(良いこと)を行っている」ということです。さすがにいきなり「自分は良い者です」とは言えませんが、「良いことを長期にわたって忠実に行えば良い者になれる」という価値観とそこへ向かう意志があるわけです。これが、人間の宗教であって、私が良く言うところの「人から神への上昇のベクトル」なのです。これは、聖書の教えとは正反対のものです。少し間違っているから、考えを修正しなければならないのではありません。聖書の語る救いとは正反対の教えです。
一方取税人はどうでしょうか。彼はパリサイ人のようにあれこれ言っていません。ただ一言です。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)これが、人間が神さまに受け入れていただくときに申し上げるべき、最善にして最高のことばです。実はこれ以外、人が神の前に言うことばなどないのです。取税人は、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った」と書いてあります。これは、具体的なある場面の描写ではなく、たとえの中の設定です。つまり、これらの表現には「神さまに近づけない、顔向けできない、そしてこの間違った道を心ならずも選んでしまった」という深い悔悛の情が表現されています。しかし、だから神さまに背を向けるのではなく、自分の中にある何かではなく、ただ神さまの憐れみにすがるという態度が生まれるのです。神は「砕かれた悔いた心」をさげすまれる方ではないと書かれています。むしろ、そのような心こそが、神への本当のいけにえなのだと聖書は語っています。(詩編51:17)取税人が神さまに届く祈りをしたのに対し、パリサイ人は「自分の心の中」で祈っています。(ルカ18:11) 宗教はどこまでいっても「心の中」の問題です。その人の心の中だけでグルグルグルグル回っているのです。ある時はゴキゲン、ある時は救われた気分だが、ある時は絶望し、みじめな気持ち。そういう繰り返しです。いつも自分の心を見つめている人は、人のことも気になります。人の目を気にし、人と自分の値打ちを測ります。偉い人にはこびて、ねたんで、おじけづき、弱い人は軽んじ、さげすみ、おさえつけます。取税人はパリサイ人を気にしていませんが、パリサイ人は取税人を気にしています。取税人は、パリサイ人が自分を義とするためにどうしても必要なアイテムだからです。もう一度念を押します。宗教は天に届きません。それは所詮「心の中の現象」です。宗教に熱中する人は、自分で自分を励ましたり慰めたりしながら、優越感や劣等感をもって一喜一憂するわけです。仏教もイスラム教もキリスト教も同じです。救われた気分は、聖書が語る救いとは無関係です。天に届かぬ祈りをどれほど積み重ねても、くたびれるだけです。
私たちは神の前に「ひとり」で立たなければなりません。自分を優位に見せる誰かと比較して測るのではなく、イエスによって測るのです。そのことを知っているなら、神の前に自分を高くする要素などどこにあるでしょうか。そんなものはありはしないのです。誰だって侮辱されたり、差別されたりして、本質とは異なる低く不当な評価を受けるのは嫌です。人間が人間を理由なく侮辱したり差別したりすることは赦されないことです。人が人に対してすることでさえ決して赦されることではありません。しかし、私たちは神の子を侮辱し、差別したのです。それでも神の子イエスは黙ってそれを忍んでくださいました。そんなとき、人間は怒りにまかせて簡単に暴言を吐くものです。ののしられたらののしり返し、やられたらやり返すものです。しかし、イエスはすべてを受け入れてくださいました。(Ⅰペテロ2:22~24)そして、神の子としてではなく、人の子として、ご自分の本来のあり方を捨てて、低く低くへりくだってくださったのです。このような御方の前に立つときに、私たちは何を誇りにしようというのでしょうか。この御方の前に、おのれを粉飾、偽装して、少しでもよく見せよう、高くしよう、立派になろうという魂胆はあまりにも愚かです。この御方のことをお伝えするにあたって、自ら師を名乗り、自分を敬うことを強要したり、自分の名を上げることや名を残すことを目論だり、さらにその家族や親族で役得を世襲するという浅ましい習慣を作ることは、あまりにも愚かすぎます。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神はキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、御自身の義を表すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:23~26)取税人に義と認められる要素はありません。イエスの義が彼を覆うのです。私たちも同じです。イエスの義が私たちを覆っているのです。

2008年7月18日金曜日

7月13日 メッセージのポイント

悪い農夫のたとえ (イエスのたとえ話 17 )

  マタイ 21:33~46 
  マルコ 13:1~12 
  ル カ 20:9~18   

A 十字架は神の弱さ・神の愚かさ(Ⅰコリント18~25)
    ○ユダヤ人は「しるし」を、ギリシャ人は「知恵」を求めるが、最大のしるし、最高の
     知恵である十字架が、人の目には弱く愚かにしか見えない
    ○引き裂かれた肉体の垂れ幕を通る一体感をイメージすること

B 人の知恵や力では神を解き明かすことはできない。(ヨハネ1:18)
    ○「すり替え」(ローマ1:23)
    ○「横取り」(ヨハネ7:18)

C たとえは聞く力に応じて語られている(マルコ4:33)
    ○聞き方や動機が悪ければ理解できない
    ○「理解すること」「受け入れること」「豊かに実を結ぶこと」は別
    ○聞いた責任と理解できたのに行動しない罪

D ぶどう園の意味(ヨハネ15章)  
    ○多くの実が集まってひとつの房になる 
    ○実を結ぶことがすべて
    ○まことのぶどうの木とその枝はつながっている

E たとえ話の「歪み」と「ねじれ」の原因
    ○あまりにも残虐な農夫と信じられないほど寛容な主人
    ○「そんなことがあってはなりません」→人はこの歪みやねじれを罪の問題として
     意識出来る
    ○人に与えられた自由と良心と知恵
    ○神の期待と人の裏切り(エレミヤ2:21)
    ○ぶどう園に絶えず向けられる主人の関心と愛(イザヤ5:1~2)

7月13日 悪い農夫のたとえ (イエスのたとえ話 17)

マタイ21:33~46  マルコ13:1~12  ルカ20:9~18

「イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話にならなかった。」(マタイ13:34)とマタイは書いています。しかも、そのような話し方をされることは預言の成就であるともつけ加えています。(マタイ13:35,詩編78:2)たとえ話だけが、「目に見える世界」と「目に見えない世界」を結びつけるのです。たとえ話は、「目に見えない真実」を「目に見える現実」の中に隠します。みことばは、目に見えない世界に入るための「隠された狭き門」です。「ナルニア国物語」で言えば、ナルニアへと続く洋服ダンスです。ルイスも当然それを意識して書いています。私たちはコートをかきわけて入るのではなく、引き裂かれたイエスの肉体の垂れ幕を通るのです。それがしるしです。たとえを学ぶとき、イエスのからだを意識することはとても重要なことです。洋服ダンスの中で子どもたちがコートに包まれている感じをイメージしてください。私たちは信仰によってイエスのからだに包まれているからこそ、目に見えない世界を見ることができるのです。みことばをことばの上だけで論じているだけなら、それは洋服ダンスで戯れる猫のような楽しみで終わりです。洋服ダンスを突き抜けて向こう側の世界へ行く必要があります。たとえはすべて「十字架のことば」であり、「十字架につけられたキリスト」です。それは、「人の強さ」を砕く「神の弱さ」であり、「人の知恵」に勝る「神の愚かさ」なのです。「しるし」を求めるユダヤ人も、「知恵」を求めるギリシャ人にとっても、十字架は大きなつまずきとなりました。十字架がわからなければたとえは目に見える世界のお人好しの道徳に過ぎません。(Ⅰコリント1:18~25)
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)とヨハネは言っています。これは、世の知者を自負する人たちとっては、実におもしろくない受け入れがたい事実なのです。人は自分の知恵と力で神のわざを解き明かしたいという欲望を持っています。目に見える世界が素晴らしい法則に貫かれ、さまざまな恩恵を与えてくれるのは、神がそのようにお造りになったからで、人が発見したり、産み出したりしたわけではありません。それなのに、人は本来へ栄光を受けるべき神を崇めず、自らの知恵と力を誇り、感謝することなくただ恩恵を受けています。今日のキーワードは、「横取り」(ヨハネ7:16~18)あるいは、すり替え(ローマ1:21~23)です。
 それでは、「悪い農夫のたとえ」を見ていきます。(ルカ20:9~18)いつも申し上げているように、たとえ話を正しく理解するためには、「どういう状況で」「誰に対して」「何のために」語られたのかを知らねばなりません。この「悪い農夫のたとえ」は、イエスが、祭司長、律法学者、長老たちと「権威について」の問答をされた後、「民衆に対して」語られたものです。さらに、そのたとえを聴き終えた後の様子について、ルカは直接語られた民衆の反応については触れずに、横で聴いていた律法学者や祭司長たちのことを記しています。イエスはたとえを語りっぱなしで終わるわけではありません。イエスは常に相手の「聞く力に応じて」(マルコ4:33)語られています。それは必ずしも「100%理解して受け入れることが出来ることばだけを語る」という意味ではありません。イエスは、聞く者の霊を見極めて語られ、その聞き方を評価されるということです。「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた。」(ルカ20:19)たとえ自体の中にも、「あれは、あと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」(ルカ20:14)という農夫たちの発言があります。つまり、律法学者やパリサイ人は、イエスさまが誰なのかをわかっていて拒んだのです。無知と愚かさのゆえに扇動にのせられて「十字架につけろ」と叫んでいた群衆よりも、指導者たちの罪は遙かに重いのだということがわかります。そして、悪い農夫たちは息子をぶどう園の外で殺してしまいます。それは、予め指導者たちの反応を知っておられた主が、それさえもたとえ話の中に組み込んでおられるのです。ひとしきりたとえを語られた後に、「こうなると、ぶどう園の主人はどうするでしょう。」と主はたとえを聞いていた民衆に問われました。「彼は、戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」と答えます。ルカの福音書では、イエス御自身がたとえ話の結末として、その中でひと続きに語っておられるような書き方をしていますが、マタイの福音書を見ると、この部分は聞き手である民衆が答えています。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」(マタイ21:41) これは、面白い部分です。民衆はたとえを受け入れて、きちんと筋通りに答えています。悪党とはだれでしょう。それは勿論律法学者であり、祭司長を指しているわけですが、民衆がそれを意識して答えたとは思えません。しかし、律法学者やパリサイ人にはそれが自分たちを指していることがわかります。 つまり、このたとえの意味を受け入れた人たちは理解できず、理解できた人たちは受け入れなかったのです。今日新約聖書の3つの福音書に記されたこのたとえを教会時代の私たちはどう読んでいるでしょうか。たとえを自分との関わりの中で読むことがなければ、話のアウトラインを理解できたとしても、何の意味もありません。「本当に悪い農夫だなあ」でおしまいです。また、自分のことを言われているのではないかと、たとえを適用できたとしても、それを語ったイエスに対する憎しみを燃やしているようでは、さらに不幸なことです。 このように、たとえ話はどんな風にでも読むことが可能です。たとえ話は、それを聞いた人の心を映すために仕掛けられているのです。イエスは、こうも言われています。 「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちにはすべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るが見えず、聞くには聞くが悟らず悔い改めて赦されることのないため』です。」(マルコ4:11)つまり、「聞き方」や「動機」が悪ければ、決してたとえの本当の意味は解けない仕掛けなのです。さらにイエスは、次のようなことばをつけ加えておられます。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。」(マルコ4:13)ここで言う「このたとえ」とは、「種まきのたとえ」のことです。イエスは、この「種まきのたとえ」には、特別に詳しい解き明かしを加え、「なぜ自分はたとえで語るのか」を話しておられます。それは、「種まきのたとえ」が、あらゆるたとえのベースになるからです。簡単に言えば、「良い地に落ちる種しか実を結ばない」ということなのです。さて、今日の「悪い農夫のたとえ」に戻りますが、それはみなさんの心の「良い地」に落ちるでしょうか。すべてを聞き終わった群衆は、「そんなことがあってはなりません。」(ルカ20:16)と言っていますが、それは祝福が取り去られることを思ってのことばでしょうか。それとも、主人の無念に共感してのことばでしょうか。多分後者が優位でしょうが、いずれにせよ、あってはならないような悲劇が語られています。このたとえが浮き彫りにするのは、寛容すぎる主人と不忠実で残虐な小作人のすれ違いです。
この畑はぶどう園です。ぶどうは神の祝福を表します。もともとフルーツはすべて神の祝福を表しています。特に、イスラエルは「ぶどう」や「いちじく」や「オリーブ」などにたとえられてきました。この3種類の植物はそれぞれに重要な意味を持っていますが、その中でも一番重要なのはぶどうです。ぶどうという植物の持っている特徴は、非常に具体的に神の思いを反映させています。ぶどうは、1個の大きな実ではなく、小さな実が集まってひとつの房を形成しています。これは教会を意味します。縦に大きく伸びずに横へ横へと広がっていきます。ぶどうの木自体はそれを家具や建物の材として用いることはありません。実を結ぶことが大事なのです。そして何より、ぶどうはワインの原料です。勿論それはイエスの贖いの血を象徴するものです。まことのぶどうの木とは何でしょうか。それはイエス御自身です。まことの農夫とはだれでしょうか。それは父なる神です。そして、枝は教会です。実も教会です。枝も実もふくめてぶどうの木です。教会とイエスはひとつなのです。これがこの世にぶどうの木が存在する意味です。ヨハネ15章は、ぶどうについて語られた最も重要な箇所です。もともとぶどう園とはイスラエルを指していますが、それは、教会へと移行します。置き換えられるのではなく、本質と祝福が移行するのです。もちろんイスラエルも完全に祝福を失うわけではありません。「実を結ばぬいちじく」や、「接ぎ木されるオリーブ」の話を思い出してください。ですから、イスラエルをすべて教会に読み替えるという神学は、厳密には聖書的ではありません。ザアカイが救いに導かれたとき、イエスさまはこう言われました。「この人もアブラハムの子なのですから。」(ルカ19:9)これは、血統としてのアブラハムの子孫という意味ではなく、アブラハムと同じ信仰による義を受け継ぐ者という意味です。血統的にもアブラハムの子であったザアカイにあえて信仰による子孫であることを確認されたわけです。これも聞き方によっては意味の取り違いがおこります。農夫とは、欄外脚注にもあるように「小作人(tenant farmer)」です。小作人が主人を無視しテナント料を滞納し、さらに取り立てに来た者に反抗して傷つけ、その挙げ句に息子を殺害したりすれば、これはいつの時代、どこの国であれ、大変な犯罪です。小作人であるイスラエルが、歪んだ選民意識のプライドを持ち、異邦人を見下し土地の貸し主である神を認めず、預言者による再三にわたる警告を無視し、イエスを十字架につけることによって、彼らの選んだように、その血の責任を負います。イエスの十字架は、このように小作人の無能と貸し主である神の愛の深さを象徴するものとして、神が直接管理するまことのぶどう畑である教会を誕生させます。そのことによって、祝福の本質は異邦人世界へ移行するわけです。アブラハムの子は血統ではなく、信仰を受け継ぐ子を意味するようになります。サマリヤの女に語れたように、まことの礼拝者を異邦人からも募集されるようになったわけです。
このたとえ話の主人は常識はずれのお人好しです。どうして、ここまでひどい小作人に対して寛容でいられるのか不思議になります。ところが、律法学者や祭司長たちは、この信じられないような神の寛容さにも心を動されることなく、自分たちが皮肉られているととって、怒り出すわけです。変な話です。このストーリーのぎこちなさは何なのでしょう。  それは、主人である神は初めから小作人を見捨てる計画を立てられたのではないからだと思います。小作人の意志や選択が織りなした結果生まれたスト-―リーであるがゆえに「歪み」や「ねじれ」のようなものが生じ、聞く者に一種の不自然さを感じさせるのではないでしょうか。歴史には、人の意思やその決定による選択が反映しています。簡単に言えば、神がしたいようにしているわけではないということです。そんな神のみこころを知ることが出来るみことばを開きましょう。
「わたしはあなたをことごとく、純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうして、あなたは質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。」(エレミヤ2:21)「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうがなるのを待ち望んでいた。ところが酸いぶどうができてしまった。」(イザヤ5:1~2)このように、多くの預言者たちを通して、主人のぶどう園への思いを語られますが、イスラエルの反応はイエスさまのたとえどおり、エレミヤやイザヤを迫害します。今日においても、このイスラエルへの警告や、パリサイ人への叱責を教会に当てはめて真摯に受け止めるというような読み方も大切です。悔い改めて教会の享受している恩恵をもう一度見つめ直すべきでしょう。人に与えれてている自由の範囲と、良心の確かさ、そして、本当の知恵というものについて、いろいろと考えさせられます。

2008年7月17日木曜日

7月6日 メッセージのポイント

あとの者が先になる (イエスのたとえ話 16 )           
  マタイ20:1~16

A たとえとは何か
 ○地上にいる私たちに天の御国とはどのようなものなのか、その「本質的な意味や価
  値」を「具体的な手応え」をもって伝えるため
 ○「霊的な目に見えない世界」を「物質的な目に見えて手で触ることの出来る世界」
  へと置き換えてモデル化したもの

B 「門」を中心にした水平モデル
 ○門の向こう側の「よみがえりのいのちの世界」が、門の手前の「善悪の知識の世
  界」に表現されたもの
 ○門を越えた反対側から「善悪の世界に表現された死とよみがえり」また、「目に見え
  る事実に隠された目に見えない真実」を見つめなければ、たとえの本当の内容はわ
  からない
 ○このふたつの世界の間に門があり垂れ幕がある実体は人の子イエスの十字架

C 「目に見えて手で触れることの出来る世界」とは・・・・
  「模型」や「影」としての価値と
  その役割の限界

  ・一時的なもの
  ・バーチャルなもの
  ・部分的(断片的)なもの
  ・コンパクトに凝縮されたもの
  ・ベールに覆われたぼんやりしたもの

 ◇ユダヤ人に特化された恩恵
  ・「模型」=「幕屋」(ヘブル9:24) 
  ・「影」=「律法」(ヘブル10:1)

 ◇異邦人も含む全人類に示された恩恵 
  ・広義では、目に見えて手で触ることができる世界のすべて」を指して「模型」あるい
   は「影」という表現でよい(ヘブル11:2)
  ・「神の目に見えない本性は被造物によって明らかにされている」(ローマ1:20)
       ※ 目に見える世界から、「みことばの啓示」によらず、目に見えない世界を
         想像すると「宗教」が生まれる
       ※「模型」や「型」に栄光を与えることが偶像礼拝の本質

D 「実物」(ヘブル10:1)「実体」(ヘブル11:1)とは・・・ 
  すべての模型や型を終わらせたイエスの顕現 
 ○ヨハネは、永遠のロゴスを「聞いて、見て、手でさわった」と表現した
  (Ⅰヨハネ1:1)
 ○パウロは、御子は「見えない神のかたち」であり、「神の本質」なのだと説明した
  (コロサイ1:15~20)
 ○天の御国の本質である「人格的な交わり」はすでに始まっている
 ○「地上にいながらにして天を味わう」ことのすばらしさ分かち合うこと
 ○立場と状態を矛盾なく結びつけるのが信仰
 ○失望に終わらない希望と言いようのない心のうめき
 ○喜びと葛藤は聖霊の内住の証拠

E 十字架が生むパラドックス(逆説的真理)
 ○可視的世界の体験のひとつひとつは十字架によって反転して霊的な世界へとつな
  がる
 ○霊的な世界の常識を善悪の世界中に移すと逆説的に感じられることが多い
 ○十字架があるから「悲しむ者」や「迫害されている者」も幸い

F ぶどう園の主人と私
 ○ポイントは「ぶどう園で働くこと」でも「報酬を受けること」でもない
 ○「主人がどういう人格なのか」ということが最大のポイント
 ○「良いこと」じゃなくて大事なのは「良い方」(マタイ19:17)
 ○主人は一人ひとりに同じだけの愛や恵みを注ぎたい気前の良い方
 ○自分の苦労を語り出すなら要注意(マタイ20:12)
 ○「友よ」という語りかけの中に主人の農園経営に対する深い理念や哲学が反映され
  ている

G 教会とは
 ○目に見える世界で目に見えない霊的な価値を生み出す農園
 ○「模型」や「影」がその役割を終えた世界で唯一永遠の価値を生み出すために機能
  している存在

7月6日 あとの者が先になる (イエスのたとえ話⑯)

 マタイ20:1~16

イエスは天の御国を実にいろいろなものにたとえてくださっています。その中には、とても不思議な内容のものがたくさんあります。それは、地上にいる私たちに天の御国とはどのようなものなのか、その「本質的な意味や価値」を「具体的な手応え」をもって伝えるためです。今日のメッセージの前半は、もう一度「たとえとは何なのか」ということを整理してみたいと思います。後半は、「ぶどう園のたとえ」を具体的に学んでいきます。たとえは、「霊的な目に見えない世界」を「物質的な目に見えて手で触ることの出来る世界」へと置き換えてモデル化したものです。「羊の門」や「狭き門」との関連で説明すると、門の向こう側の「よみがえりのいのちの世界」を門の手前の「善悪の知識の世界」に表現したことになるわけです。ですから、門を越えた反対側から「善悪の世界に表現された死とよみがえり」また、「目に見える事実に隠された目に見えない真実」を見つめなければ、たとえの本当の内容は正しく理解できないのです。目に見える現実が目に見えない真実を覆い隠していますが、信仰の目は、現実の中に埋もれた真実を見極めることができます。
「目に見えて手で触れることの出来る世界」は、誰にとっても疑いようのないほどリアルなものでしょうが、みことばは、それは「一時的」であり、どんなにすばらしく思えても、逆に辛く感じても、「やがて過ぎ去り終わってしまうのだ」と教えています。ですから、いくらリアルに見えても実際にはバーチャルなものだと言っているのです。その辛い感じ、「痛み」や「悲しみ」という歓迎したくないものも、ふたつの世界がつながっている者にとっては、大切な「教訓」「訓練」としての意味を持っていますが、ふたつの世界が切り離されたままでは、「痛み」や「悲しみ」は「ただの不幸せ」でしかないということになります。(ヘブル12:11)(Ⅰペテロ1:6~7)「目に見えて手で触れることの出来る世界」で味わうことができるのは、すべて部分的なものであり、コンパクトに凝縮されたものです。そして、ベールに覆われたぼんやりしたものです。それは決して無意味で無価値なものではありませんが、先ほども申し上げたように、それ自体の中で完結してしまうとしたら、極めて残念なことだと言わねばなりません。それは、ハリウッド映画を観たことのない子どもがUSJで遊んでいるようなものです。映画を観てからならUSJのアトラクションの価値や意味が具体的にわかります。逆に、キャラクターのデザインやアトラクションだけを手がかりにして映画を想像するのは、けっこう難しいはずです。歪んだ神様像や天国のイメージはそのような空想から生まれるわけです。
「目に見えて手で触れることのできる世界」、それは「模型」や「影」のようなもので、その「実物」(ヘブル10:1)「実体」(ヘブル11:1)は目に見えない霊的な世界にあります。その世界の中心は人の子イエスであり、その世界は「いつまでも変わることなく続く」ものです。天地を造られた神御自身が「人となって」私たちの間に住まわれた。その永遠のロゴスをヨハネは、「聞いて、見て、手でさわった」と表現したのです。(Ⅰヨハネ1:1)イエスは「模型」でも「影」でもありません。神の「実物」であり、「実体」そのものが目に見える世界に顕現したものです。パウロは、御子は「見えない神のかたち」であり、「満ち満ちた神の本質」なのだと説明しています。(コロサイ1:15~20)例えば家を建てる場合、建築士は設計図に基づいて模型を造り依頼主に見せます。依頼主は模型を見て、これから建つ家に対するイメージに持つことが出来、そこで家族とともに幸せに暮らすことを思いめぐらすでしょう。模型がいかに良くできていようと、それが実際の建設や、そこで住むことにつながらなければ、その模型は意味を果たしたとは言えません。(ヘブル11:1)
模型を作るのは、実物をイメージさせるためであり、家を建てるのは、そこに住んで家族と幸せに暮らすためです。間のプロセスとばせば、模型を作るのは幸せに暮らすためです。いつの間にか、目的を離れてこれらがすべてバラバラになってしまったのです。掟の中に縛られることや罪の意識に苦しむことは幸せではありません。人は模型の中にも、イメージの中に住むことは出来ないのです。「わたしの家には住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2)とイエスはおっしゃっています。居場所があるという確約は素晴らしいものですが、その価値と本質はイエス御自身との人格的な交わりにあります。そしてさらに重要なことは、それは天においてやがて実現するのではなくすでに始まっているということです。実際に家が建ってみればわかるように、すべては天の御国へ行けば明らかになるわけですが、主は、「地上にいながらにして天を味わう」ことのすばらしさを何とか分かち合いたいとお考えなのです。それは可能なのでしょうか。「二人でも三人でも私の名において集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)「見よ。私は、世の終わりまでいつも、あなたがたとともにイル」(マタイ28:20)これは将来の天における約束ではなく、今まさにこの「世」において、「地上」において主はともにいてくださるという約束です。ですから、この世が「模型」や「影」であると言っても、決して私たちの日常の営みはどうでもよいという意味ではありません。「すべては死後の来たるべき世界、目に見えぬ別次元の世界のことだから、そのことを強く思ったり念じたりしなさい」という意味でもありません。私たちの意識や感覚が実際の生活を軽視し、専ら祈りや瞑想の世界へ導かれるとしたら、それはどこか違っています。それは人の宗教であり。善悪の知識の中で、神様のイメージを歪めているだけです。1タラントを地に埋めて、勝手に厳しい主人の影におびえているだけなのです。
「模型」や「影」のたとえをもう少し厳密に追求しましょう。「目に見えて手で触ることができる世界」は信仰を持ってもずっと続いていますが、同時にそれはもう既に終わっているのです。既に終わっているのですが、それは続いています。主は言われました。「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)主はよみがえりであり、いのちですが、私たちはよみがえりでも、いのちでもありません。主を信じる場合において、主のいのちは私のいのちとなり、私の中で主はよみがえります。しかし、私たちは死を免れることは出来ません。私たちは信仰によってよみがりを得ていますが、確実に死ぬのです。この立場と状態を矛盾なく結びつけるのが信仰であり、その信仰を可能にするのは、善悪ではなくていのちです。いのちの結果、私たちには誰にも奪われることのない失望に終わらない希望と言いようのない心のうめきがあるはずです。それらの喜びと葛藤は聖霊の内住の証拠です。(Ⅰペテロ1:8~9)(ローマ8:21~25)正確に言えば、聖書が「模型」と呼んでいるのは「幕屋」のことで、(ヘブル9:24)「影」と呼んでいるのは「律法」のことです。(ヘブル10:1)私は、もっと広い意味で「目に見えて手で触ることができる世界のすべて」を指して「模型」あるいは「影」という表現をよく使います。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを知り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」(ヘブル11:2)と書かれているからです。クリスチャンはこの「模型」や「影」の世界に身をおきながら、もう一つ異なる次元の喜びやリアリティ―を常に経験することが許されています。幕屋や律法に限らず、この世界はイエスの模型やキリストの影で満ちています。幕屋や律法はユダヤ人に特化された恩恵ですが、異邦人にとっても「神の目に見えない本性は被造物によって明らかにされている」とパウロは語っています。(ローマ1:20)しかし、「模型」や「影」は実物と出会い、実体を味わえば、意味や価値は大きく目減りします。ユダヤのしきたりや律法も、大自然のすばらしさも、それ自体をイエスの本質に変えて、あるいは付け加えて、ことさらに尊重すべきではありません。「模型」や「影」に栄光を与えることが偶像礼拝につながるのです。
さらに、クリスチャンにとっては、可視的世界の体験のひとつひとつは十字架によって反転して霊的な世界へとつながります。そのような感覚で十字架を通して日常を受け止めることによって、「悲しむ者」や「迫害されている者」が時として幸いであるとわかるのです。今日のメッセージの主題にもあるように、「あとの者が先になる」ということもおこります。霊的な世界の常識を善悪の中に移すと、それが逆説的に感じられることが多いのです。しかし、門の手前の善悪や道徳の世界の中だけでは、「悲しむ者や迫害されている者がどうして幸いなのか」を説明することなどできません。イエスは、ある金持ち全身おできの貧乏人ラザロと話をなさいましが、これはたとえではなく、黄泉の世界のひとつの実例を出されたわけです。(ルカ16:19~31)死を境に、金持ちとラザロの立場は逆転しています。私たちは生きているときも、死んでからも、自分の力で「獲得する」のではなく、一方的に神から「受ける」のです。(ルカ16:25)そのことをしっかり心に刻む必要があります。      今日見る箇所では、天の御国は「ぶどう園の主人」にたとえられています。(マタイ20:1~16)このたとえは、普通に読むと非常に不思議なところにポイントがおかれています。天の御国は「ぶどう園で働くこと」でも、「報酬を受けること」でもありません。中心は労働にも報酬にもありません。中心は労働者ではなく、主人なのです。「主人がどういう人格なのか」ということが最大のポイントなのです。宗教は、私たちの信仰の姿勢や私たちが差し出すもの問うのですが、聖書は一貫してそんなことは言っていません。以前にもお話しましたが、「放蕩息子のたとえ」の主人公は放蕩息子ではありません。「お父さん」です。お父さんがどういう人格かということがポイントでした。このたとえも、よく目にする「ぶどう園の労務者のたとえ」という表現は適当ではありません。むしろ、「ぶどう園の主人のたとえ」なのです。「結婚の披露宴のたとえ」でも、ポイントは花婿でも花嫁でもなく、披露宴そのものでもなく、「披露宴を設けた王」の思いや言動にあります。「天の御国に入るため、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたらよいのか」という問いにイエスが答えられたのは、「良いこと」じゃなくて大事なのは「良い方」つまり、その「良い御方の人格」であって、それは父おひとりを指しているのでした。(マタイ19:17)これも鍵になるみことばです。 それでは、このたとえに出てくるぶどう園主人の人格をとらえるために、細かく読んでいきましょう。主人ははじめから労務者たちと1日1デナリの約束をしました。主人は夕方になって約束通り1デナリ支払いました。ですから何の問題もないはずなのですが、ここで問題が発生しました。同じ報酬をもらった各人の働きぶりが違っていたからです。仕事終了時刻は同じですが、働き始めた時間はバラバラでした。それぞれ、朝早く、9時頃、12時頃、3時頃、5時頃です。報酬はどの人も一律に1デナリですから、時給に換算してみるとなるほど確かにずいぶん差が出ます。1時間働いた人と1日働いた人が同じ報酬と言うのは、1日は働いた人にとっては納得がいかないわけです。表面的には、主人が過剰に支払い、後から来た人は得をしたことになります。しかし、早くから働いている人が損をしたわけではありません。主人の常識はずれの気前よさのせいで、相対的に見ると「損をしたような気分」になっているだけです。
スーパーでも値札が半額になるのを狙って、定休日の前の夕方に買い物に行く人がいますが、天の御国もそれと同じで、「死ぬ間際に告白したり、せいぜい放蕩三昧した後に救われるのが御お得ですよ」というようなたとえなのでしょうか。しかし、スーパーでシールが貼られる前に買い物をしたところで、それが欲しいから買うのであって、法外な値段で押し売りされたわけでもないし、損をしたわけでもありません。欲しくなければ買わなければいいのです。本当はそれほど欲しくもないのに、人につられたりして買ってしまうから、他の人が気になって「得した」「損した」と騒ぐのです。文句を言う人、信仰のない人は、必ず人と比べてどうこう言います。アベルをねたんで殺したカイン、ヨセフを売った兄弟たち、モーセに腹を立てるミリアム、マリヤを引き合いに出すマルタ、取税人を見下して自分を義人だとするパリサイ人、みんな同じです。そして、受けた恩恵ではなく、自分の苦労を語り出すのです。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」(マタイ20:12)このような訴えに対し、主人は「友よ」と語りかけています。主人と日雇い労働者は当然、友達ではありません。従って、雇用者に対する「友よ」という呼びかけは非常に奇妙で不自然なものです。しかし、この「友よ」という語りかけの中に、この主人の農園経営に対する深い理念や哲学が反映されています。つまり、神はこの世界の中に、霊的な価値を生み出すひとつの農園を作られました。それが「教会」です。そこに加わることの価値、意味を理解し、そのために労することは、それ自体が「喜び」であり「報酬」なのです。もちろん、それは「労苦」や「暑さ」を伴うつらさもありますが、そのひとつひとつの中に発見があるはずです。ポイントは、私たちが何をするかではなく、「主人が一人ひとりに同じだけの愛や恵みを注ぎたい気前の良い方だ」ということです。その方がいつも私たちの中心におられるのです。誰よりも早く農園に来て、誰よりも汗を流し、働いておられる御方のことを知ることです。私たちが農園のためにどれだけ労したかではなく、少しでも農園のプロジェクト、つまり教会の奉仕に関わっていること自体が極めて大きな恵みなのです。さらに言うなら、「教会」こそが、模型や影がその役割を終えた世界で唯一永遠の価値を生み出すために機能している存在なのです。

2008年6月28日土曜日

6月22日 努力して狭い門から入りなさい (イエスのたとえ話 15 )

ルカ13:22~30

私たちがこれまで学んで来たところによると、「努力」というのは、「信仰」とは相容れないもののように思えます。しかし、主は確かに「努力して狭い門から入りなさい」とおっしゃっています。みなさんはその意味をどのようにお考えでしょうか。信仰者にはどのような努力が求められているのでしょう。「誰でも救われる」はずなのに、「信仰は自分に属する何かは条件とはならない」はずなのに、一体、何をどう努力せよと言うのでしょうか。この「努力して」というのは、まともに受け止めればそれほど私たちを混乱させるみことばだと思います。原語の意味は「強制する」というニュアンスがあります。従ってこのみことばをより正確に訳すと「狭い門から入ることを自分に強制しなさい」というような意味になるのです。
少し話が脱線しますが、私がこのみことばを思い巡らしているとき、忘れかけていたずいぶん昔のちょっとした光景がよみがえってきました。それは、仙台空港で巡業帰りの関取衆に出会ったときのことです。単純な感想ながら、お相撲さんは本当に大きかったです。小兵と言われる力士でさえ、私よりひとまわりもふたまわりも大きいのです。私は武蔵丸や小錦が果たして金属探知機を通れるのかどうかが気になりました。結果から言うと、小錦と武蔵丸も金属探知機を通ることが出来ました。ふたりは何とからだを横にして通過したのです。一般のサイズの人のように、前を向いては無理でした。横ならお腹をすりながらですが、何とか通れます。つまり、小錦や武蔵丸をお腹で輪切りにした場合、横よりも縦のほうが若干短いってことです。まさに狭い門を「努力して」通っていたわけです。くだらないことかも知れませんが、「何も持たない状態で自分のサイズにギリギリの狭さの門をひとりで通る」ということを具体的にイメージしてもらいたいのです。私たちが信じたとき、救われた瞬間には、確かに何かをおろして、具体的にある門を越えたのです。そこで何がおこっていたのかを、こうしてみことばから学んでいるわけです。私は何を越えて、そして今どこにいるのか、そのことが見えていない人は、クリスチャンとしてのその後の道を歩むことはできません。
「狭き門」は誰かと一緒には入れません。ひとりであっても、あれこれ持ったままでは通れません。「持っているものをすべておろす必要」があります。一定以上の能力や財産を持つことが条件であれば、救いはすべての人には開かれているとは言えません。どんなに低い基準であってもそこからもれ落ちる人たちがいるでしょう。しかし、今持っているものを全部捨てることであれば、その気になれば誰にでも出来ます。1万タラント持っている人も、300デナリ持っている人も、2レプタ持っている人もすべてを捨てることは可能です。つまり、全ての人に対して開かれている救いを少数に人しか受けていないという現状は、「誰にでも出来るけれど、特別そうしたいわけではない」という人の心を反映しているわけです。それが、門の前の有様だと言えます。「努力して狭い門から入りなさい」ということばは、イエスとその一行がエルサレムに向かう旅の途上で、ある人がたずねた質問に対する答えです。語られた背景を考えれば何らかの理解の助けになるはずです。その質問の内容はこうです。「主よ。救われる者は少ないのですか。」 イスラエルの人々は「メシアがやって来さえすればイスラエルはみな救われる」と信じていました。ところが、イエスが無条件の救いを説いているにも関わらず、その救いを受けたと見える人たちがほとんどいない。時折病人を癒したりするだけで、目に見えるローマからの解放を行うわけでもなく、周囲を取り巻いているのは、無学な庶民やはぐれ者ばかり、宗教指導者やインテリ層からは認められていません。イエスの言動は、一般にはまったく不可解に映ったことでしょう。イエスの実際は、期待されていたメシア像とは全く違っていました。バプテスマのヨハネさえ、この方の言動や自分に対する処遇から、「本当に自分が紹介するべきキリストはこのイエスでよかったのだろうか」と混乱してしまったほどです。(マタイ11:2~5)しかし、イエスの言動はすべて約束されていたみことばの通りでした。イエスは獄中のヨハネを直接励ますことなく、そんなみことばのひとつを示しています。「御自身がみことばの成就である」と語られたわけです。どれもこれも不思議なことです。「主よ。救われる者は少ないのですか。」というある人が質問した裏には、その人のどんな思いがあったのでしょう。私たちも似たような感覚を持ったことがあるのではないでしょうか。「これほどすばらしい救いをどうして受け入れない人が多いのだろうか。また、なぜ自分は、真面目なあの人や親切なこの人よりも先に救いを受けたのだろうか」と不思議に思ったことはありませんか。あるいは、それとは正反対のこういう意味があったのかも知れません。「救い受けるのは少数精鋭の者ということでしょうか。それにしても、あなたの弟子達はどうもそれほどのえり抜きには見えませんし、あなたのおっしゃっている救いっていうのは、本当に大丈夫なんですか?」と。いずれにしても、ある人がイエスのことばに耳を傾け受け入れる人が少数であること、つまり、伝道が十分な成果をもたらしているように思えない現状に疑問を持ち、それをイエス御本人にたずねた可能性もあります。
この問いを発したある人は、いったい救いというものをどのようにとらえていたと思われますか。また、この人は救われていた人でしょうか。それとも救われていない人でしょうか。それは書かれていないのでわかりませんが、その文字通りの質問に対して、主はきちんと答えてくださったのです。「努力して狭い門から入りなさい」と。 ひるがえって私たちは、「救い」というものを、どのようにとらえているでしょうか。ただ「救われているか・いないか」という単純な○×ゲームのような感覚で「救い」をとらえてはいないでしょうか。これは笑い事ではなく、多くのクリスチャンの感覚としてありうることです。「救われているか・いないか」というのは、非常に重要ではあるけれども、慎重でなければならない線引きです。「世の終わりに羊と山羊をより分けるたとえ」(マタイ25:31~33)のような記事を表面的に読めば、どこかマンガ的なイメージで羊さんチームに入っていれないいというような思いを持ってしまうかもわかりませんが、「救い」というのは、それほど単純なものではありません。宗教としてのキリスト教の世界には「日曜学校で覚えた正解を諳んじれば合格シール」というようなお子様ランチ的2世牧師だっていっぱいいるでしょう。多くの教会では、一定の告白をして洗礼を受けたら「救われた」ということになり、未信者とかノンクリスチャンという名前でくくられる人々に対する伝道要員とされたりします。逆に質問ですが、「告白した人」「洗礼を受けた人」は本当に救われたのでしょうか。誰がそれを認め、評価するのでしょうか。残念ながら、この記事の後半には、「あなたは救われました」と認める立場の人も含めて、門前払いを食らう場面が出て来ます。彼らが地上で捧げた賛美や奉仕、涙を流して祈った祈りは一体何だったのでしょうか。彼らが門をたたいても開けてもらえない場面は、何とも残酷な喜劇です。告白が死を意味する場合は、告白はすべてを捨てることと同義語です。しかし、自分が口にしていることばの意味も価値もわからないようなレベルの人の口約束をとうてい信仰告白と見なすことは出来ません。「主を告白すれば誰でも救われる」と書かれているので、どんなに救われているように見えなくても、一応告白している人の信仰を認めなければならないんだと思い込んではいませんか。しかし、「主よ、主よ」とやかましく言っている連中の多くが、門前で拒まれているのを見れば、先走ってさばいてはいけない。だから、おかしなクリスチャンもどきも兄弟姉妹なんだと見なすことは間違いであり、不可能であることがわかります。本当に救われるのはまことのイスラエル、つまり「信仰のある人」です。アブラハムの子孫という意味も、単に血統を表すのではなく、「アブラハムと同じ信仰を受け継ぐ者」を意味しています。誰もがイエスを長子とした兄弟姉妹に加わる可能性を持っていますが、「父のみこころを行う者が兄弟姉妹だと」イエスを言われました。イエスの肉親や兄弟姉妹でさえ、無条件に神の家族というわけではないのです。それほど神が求める「信仰」という基準は厳密であり厳格なものだと言うことです。そんな信仰を人間の側で準備できるわけがないのです。主の憐れみにすがる他ありません。
「しんがりの者が先頭になる」(ルカ13:30)と書かれているように、拒まれる人たちは、主の憐れみにすがるどころか、その場に及んでも自己主張をします。彼らには「自分たちは先頭をきって努力してきた」という自負があるようです。ですから、「私たちをおいて誰が先に天に入るのですか」と言わんばかりに、「私はあれをした、これをした」と主張するのです。「あなたを知らない」と言われる主は冷たい御方なのでしょうか。違います。彼らの心が人の子イエスに対して冷え切っていた結果です。「誰も相手にしてくれる人がいません、さびしくて教会に来ました。みんな優しくしてくれます。もうさびしくありません。救われました。」「仕事がなくて食べる物もありません。教会へ来たらただでごはんが食べられます。おなかもいっぱいになりました。救われました。」「悩みを聞いてもらえました。救われました。」「薬やギャンブルをやめました。救われました。」「ゴスペルを歌いました。ストレス解消です。」「英語を覚えました。異文化を学び世界が広がりました。」おめでとう。それで終わりです。彼らは求めていたものを得たので満ち足りたのです。そして、極めつけはこれです。「私はこの世ではパッとしませんでしたが、キリスト教会で見事花を咲かせることが出来ました。」はい、良かったですね。
門は閉ざされれば開くことはありません。このとき、3つのことを思い出してください。まず一つめは過ぎ越しです。門柱とかもいには小羊の血が塗られていました。実はその血が門の本質です。次にノアの箱舟です。みことばに従って黙々と箱舟を造り続ける生涯、それがノアの証でした。そこに派手な宗教的パフォーマンスはありましたか。救われたのはたった8人です。ノアの伝道は失敗だったのでしょうか。いわゆるキリスト教がさかんに言うところのリバイバルはおこりましたか。箱舟のとびらをしめたのは主です。ノアが見限ったのではありません。そして、最後は黙示録のラオデキヤの教会に訪れる主の姿です。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるならわたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:20)特にこの3つ目のイメージが重要です。前回「求めること」「さがすこと」「たたくこと」が条件であると言いました。それは間違いではありません。しかし、私たちが求める前に、私たちを求め、さがし、私たちの頑なな心のとびらをたたいてくださったのはイエスです。子どもが欲しいと言う前に必要なものを準備するのが親の愛です。救いというのは、「死からいのちに移ること」(ヨハネ5:24)(Ⅰヨハネ3:14)です。門の向こうとこちらでは全然違うのです。門の向こう側の世界へ、救われるまでの価値観を持ち込んで発言するのは、「門を越えていない」からです。この死からいのちに移っている。「善悪」ではなく、「キリストのよみがえりのいのち」によって生きるということが、律法からの解放にもつながります。幕屋や神殿の雛型を考えれば、その死からいのちに移るときに、イエスという肉体の垂れ幕を通ります。これが、門に当たるわけです。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10:20)この霊的な事実を象徴する出来事として、イエスが息をひきとられるその瞬間に神殿の幕がまっぷたつに裂けたのです。(マタイ27:51)   「死からいのちに移る」という表現や、「ご自分の肉体の垂幕」という表現だけでは、水平な移動のイメージがあります。これほどすばらしいみことばであっても、神の恵みの賜物を表しきるにはまだ十分ではありません。私たちは「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえられされ、ともに天のところに住まわされた」のです。(エペソ2:6)このみことばは非常に重要です。私たちは、門を越えたとき、死からいのちに移ること、イエスの肉体という垂れ幕を通ることは、天に座すことと同じです。それは、水平面での大移動であるとともに垂直面での大移動です。まさに時空を越えた奇跡が私たちのいのちの奥深くの存在の核の部分で起こったわけです。それは、永遠のいのちの種が宿った瞬間であり、私たちがキリストのからだの一部として加えられた瞬間なのです。この奥義が私たちの中に開かれれば、どこそこの教会に属しているとか、誰々先生のメッセージを聞くとか、そんなことはほとんど何の意味も価値もないことがわかります。

6月15日 狭き門 (イエスのたとえ話 14 )

マタイ7:13~14 ルカ13:22~30

 入試や就職のシーズンになると、「狭き門」ということばをよく耳にします。文学好きの方はアンドレ・ジッドの小説のタイトルとして思い出されるかもしれませんね。ジッドは、男女のプラトニックな恋愛をカトリックとプロテスタントの確執と絡めて描いています、残念ながら、他の彼の作品と同じで、内容は聖書的なものではありません。ジッドもキリスト教被害者のひとりです。彼の文学は、幼い頃から体に染みついた宗教の欺瞞や窮屈さから解放されるための葛藤の足跡でもありました。こういう人は世界中にたくさんいます。彼らのようなタイプの物書きは、細くて険しい道を求道したように見えますが、広い門をますます広くすることに貢献しただけです。彼らの文学が高く評価されることで、結果として救いの門はますます狭くなっていくわけです。では、本題に入っていきましょう。
 
「狭い門」とはもちろんイエスのことです。別のたとえの中でイエス御自身が「わたしは門です」(ヨハネ10:9)と言っておられるとおりです。しかも、門から入るのは、私たちである前に羊の牧者なのです。(ヨハネ10:2~3)牧者に呼び出され、声をきいた羊だけがついていきます。牧者はイエスです。(ヨハネ10:14)
 では、なぜその門は「狭い」のでしょうか。天の御国には人数制限があるのでしょうか。難しい試験があるのでしょうか。入試や就職の場合は、応募人数に対して合格や採用が少ないことを「狭き門」と表現しているようです。やっぱり文語表現の方が響きがいいですね。この世の試験の場合は、「能力」でふるいわけられます。要求される能力のない者が資格を得ることはできません。それは、不公平や差別ではなく、当然のことです。人体の仕組みを知らない人にメスを握ってもらっては困るし、法律に無知な人間が犯罪人を弁護したり、判決を言い渡したりすることはできません。つまり、試験による選別は、世の中の信頼性や安全性を保障している部分はあるわけです。残念ながら、能力とモラルの高さは必ずしも比例するわけではないので、医者や弁護士にも腹黒い人々は数多くいるでしょう。しかし、モラルが高くても、能力が低ければ仕事にはなりません。社会的に責任の思い仕事は、それに見合う報酬を得るのも当然のことです。
しかしながら、「狭き門」を突破して地位を得た人たちは傲慢になりがちです。公務員試験の最難関である上級試験をクリアしてきた高級官僚諸君は、そのポストの旨みである、庶民の常識では考えられない既得権を行使することを当然のこととしています。最近話題の「居酒屋タクシー」なんぞの実態も氷山の一角です。こういうことは、今に始まったことではなく、また日本に限ったことではなく、「いつの時代、どこの世界にでも必ずあること」です。
それにしても、居酒屋タクシーは笑っちゃいます。タクシーの運転手さんも大変です。運転手さんも役人たちは金になるいいお客さんだから競い合って乗せてますが、接待しながら、心の中では「馬鹿だな、コイツら」と思ってるでしょうね。
では役人たちから運転手の姿はどんなふうに見えるのでしょう。役人たちは「上級な試験をパスした自分は上級な人間だ」と思い込んでいるのです。タクシーの運転手などはそんな自分と比べれば遙かにレベルの低い人たちなので、完全に見下しているわけです。
私に言わせれば、こういう役人こそ「若い頃時間を浪費して記憶や連想ゲームに勝っただけの人」で、「失ったお楽しみの時間を、おっさんになってからタクシーの中のビールやおつまみで埋め合わせているかわいそうな人」なのですが、本人にはあまりそういう意識はありません。タクシーの運転手がプライベートの移動でタクシーを利用することはあまりないでしょう。ビールやつまみが欲しければ、売店で買って電車に乗っての移動です。  
役人のタクシー運転手に対するまなざしは、福音書の中では、パリサイ人や律法学者が取税人や罪人たちに向けたそれと重ねることができるでしょう。このように、いつの時代どこの国でも人間の本質というのは同じです。後の者は先になり、先の者は後になる。こういうこともしばしばおこるのだと聖書は語っています。タクシー運転手の多くは役人より先に狭き門を通るのでしょう。

しかし、人間が神から離れて自力で作り上げてきた世界では、なかなか目に見える大逆転は起こりません。力の強いものが弱い者を支配します。神なき世界では「能力による生き残りをかけたサバイバル」にならざるを得ないのです。
ですから、学問の分野でも、人類は自分たちの住んでいる世界に同じような説明のつけ方をします。歴史を振り返っても、自然界を見渡しても、「発展的史観」と「進化論」がベースになっています。「発展的史観」とは、原始社会から、古代、中世、近代、現代へと社会のシステムは成熟していくという見方です。また、「進化論」とは、生物は下等なものから高等なものへと進化してゆき、環境に適合できるものが生き残っていくというものです。
しかし、聖書の記述は全く違います。歴史は「神の園エデンからの追放」で始まっています。すべての生きものははじめから「種類に従って」作られており、高等な生物に進化することなど絶対ありません。これは、「観」とか「論」ではないのです。みことばです。みことばは納得するべきものではなく、信ずるべきものです。
私にも、聖書的な「観」や「論」が弱いからダメなんだと思っていた時期があります。例えば「創造論」で「進化論」を喝破してそれから福音だというように。キリストを弁護しようと必死だったわけですが、うまくはいきませんでした。この間にいろいろ考えたり苦しんだりしたことは多少役には立っていますが、霊的な収穫はゼロです。私はキリストに弁護していただく者でありながら、キリストを弁護しようとしていたのですから、うまくいくはずがないわけです。
天の御国が「能力至上主義」なら、創造された段階ですでに救われる見込みのない人がいるでしょう。しかし、天の御国は、すべての人に対して開かれているはずです。「神にはえこひいきはなく、神はすべての人が救いに至ることを望んでいる」と書かれているからです。私はこれらのみことばを単純に信じています。なぜそれが信じるに足るのかを示すことは出来ません。ただこう思っています。この世がこの世だけで完結してしまうならば、そこには平等も正義もないと。そんなありもしない価値を追求するのは愚かです。ある人は「平等や正義が見あたらないから神も救いもない」と言います。「天国など無意味だ」「好きにやればいい」と。でも、私はそうは思いません。死とその後の復活の世界があるからこそ、平等や正義を信じることにも意味があります。この目に見える世界の不条理や矛盾を人の子イエスが十字架に負われたことが、私にとっては唯一の希望のしるしです。

私は「選びの教理」について神学的なことを論じようとは思いません。誰もが理解できるこれらの単純なみことばが説明している範囲がすべてだと思っています。それ以上のことはわかるはずもないのです。私たちは誰かの代わりに信じることも、誰かの代わりに拒むこともできせん。救いというのは極めて個人的なものです。あなたにとって、私にとって、「人の子イエスは神の子キリストであるかどうか」ということに尽きるのです。
救いの門は、その人の能力に関係なく、すべての人を対象に開かれていることは間違いありません。その人が神の定めた信仰の基準をクリアさえしていれば、「誰であれ無条件に」この神の赦しを受けるでしょう。募集人員何人とか、競争率何倍とか言うように、枠が決められていて、点数の高い人から順番に選抜されるわけではないのです。

しかし、「誰であれOK」の無条件であれば「広い門」のはずですが、やはり「狭い門」なのです。それはなぜでしょうか。私には、「見かけ上の狭さ」と「結果として狭さ」のふたつの意味があるように思えます。
「見かけ上の狭さ」は神の意思であり、その責任は神にあります。「結果として狭さ」は人の意思であり、その責任は人にあります。見かけ上の狭さとは、「人の慕うような見ばえ」や「世間の保障」がないことです。(イザヤ53:1~3)人の慕うような見ばえの華やかさや、世間の高い評価があれば、人はその真贋を見極めようとはせず、その実質を見ることなく、迷わずそれに飛びつきます。ですから、神は必要最低限の実質を残して、それ以外のすべての価値を放棄されました。それゆえ、キリストに付随するものは、ダサくて、格好悪くて、恥知らずで、最低なのです。これが、絶対的価値をあえて、相対化された救いの門の「見かけ上の狭さ」です。その貧しい門を見る限り、その奥にすばらしい世界が広がっているとは思えないほどのみすぼらしさだということです。その門を選ぶこと、それを選んで中に入って行くことにはかなりの勇気が必要です。イエスは問います。「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」(マタイ16:15)答えはキリストに決まっているわけですが、同時代に生きる人には、ナザレの大工は神が遣わされたキリストに思えないわけです。真実の救いの門イエス・キリストの狭さの本質とは何ですか。それはこの御方が限りなく「人」であることです。そして、「無力」だということです。この人としてのイエスの無力さをかき消すようなことば、特別な力やこの世の成功を語る宣伝は嘘です。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というタケシのネタは、「間違ったことでも、全員がそろって間違えば価値を逆転できる」というこの世の真理を言い当てていますが、救いの門はみすぼらしい上にひとりずつしか通れない門なのです。誰かと横並びでは進むことも、退くことも出来ません。
門を通ってきた人たちが、門を越えた向こう側で集まり交わるのはよいことですが、門の手前で群れを作って、みんなで通るための広くて華やかな門を人工的に作ろうとする営みは馬鹿げています。「結果としての狭さ」とは、「人はその門のみすぼらしさのゆえに門の存在に気づかない」あるいは「気づいても引き返す」そうでなければ「別の門を作る」ことによって、入れるのに入れない人が出てくるということです。門の周辺でうろうろしながら門を通っていないので、それが閉じられてから、「入れてくれ」と叩くというようなことが起こるわけです。

「狭き門のくだり」を、山上の垂訓の流れの中でもう少し読み深めてみましょう。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)とあります。つまり、「求めること」「捜すこと」「たたくこと」必要なものを得るための条件です。条件はそれだけです。「だれであれ」(マタイ7:8)だいじょうぶなのです。
なぜでしょうか。神は人を、父が子を思うように憐れみ、最上のもの与える備えがあるからだと言うのです。(マタイ7:9~11)お金も特別な能力も要りません。しかし、本気で「求めること」「捜すこと」「たたくこと」が必要です。大事なのは、「私たちを満たす本物」に対する渇きです。罪人や取税人たちの多くが、パリサイ人や律法学者より先に、狭い門を通れたのは、彼らは求め、捜し、たたいたからです。そして、彼らは孤独でした。派閥や権威に守られて孤独や不安を解消している人は「キリストは不要です」と宣言しているのです。上級公務員や、○○党、××派などという派閥、牧師センセイなどの権威の鎧を着て、なかまを増やすと、それこそ「狭き門」は通れないし、個人の常識で判断できることさえわからなくなるほど、恥知らずなまでに感覚が麻痺してしまうのです。
にせ者はたくさん存在するし、最後には自分がにせ者である自覚のない人たちが、門前で追い返される記事を目にします。(マタイ7:15~23)(ルカ13:25~27)
救いの「狭き門」は、この世の価値を逆転させます。なぜなら、「救いは人がただ救われるために備えられてはいない」からです。「狭き門」は救いとは何であるかという本質を示し、絶えず私たちの信仰に問いかけています。私たちが自分の人生の問題を解決し、幸せへの通過点としてパスしようとしているなら、跳ね返されます。「狭き門」の本質は「死の門」であるということです。この門を通過するときに、父なる神が、イエスの十字架の死の中に、イエスと私のいのちと本質を同一視してくださるのです。だからこそ、門の向こう側、つまり蘇りの世界で与えられるものに意味があるのです。 

2008年6月5日木曜日

5月18日 家と神殿 (イエスのたとえ話 ⑬)

ヨハネ2:13~21

今日ともに分かち合うところは、いわゆる「たとえ話」ではありませんが、このシリーズのはじめにお話したように、私がみなさんにお伝えしたいことは、単にたとえ話の解釈や適用でありません。みなさん一人ひとりが、私たちが経験しているこの世の出来事を、ひとつの大きなたとえや疑似体験、つまり霊的な実体の「型」としてとらえるという視点を持つことの重要性についてです。下から上を見上げるのではなく、上から下を見下ろすような感覚を持っていただきたいのです。私たちをとりまく状況や私たち自身は、信じても何一つ変化していないように感じるかもしれませんが、「私たちはすでにキリストとともによみがえり天に座しているのだ」という事実を出発点にするのです。そうした視点から、日常の生活の中で私たちが遭遇する様々な出来事とみことばを具体的にリンクさせることによって、霊的な祝福を実体化することができます。気がつけば、目に見える状況も私たち自身もよみがえりの力によって変えられています。それは、自分で「変わろう」「変わらなきゃ」と思ってもかなわなかったことですが、神がそうしてくださるのです。つまり、「目に見えないみことばの現実」を見つめる信仰を通して、「目に見える経験の現実」を評価することがどうしても必要です。だからこそ、「たとえ」の正しい理解が求められるのです。「たとえ」がこのふたつの世界をつなぎ解き明かすからです。前回は「家と土台」について分かち合いましたので、関連するテーマでお話してみたいと思っています。今日は「家と神殿」という主題です。「家」も「神殿」も、イエス御自身と私たちのからだを指している重要な型ですが、それぞれの表現には異なる意味合いがあります。今日のメインテキストは「宮きよめ」と言われている箇所です。およそ3年間にわたるイエスの公生涯の中で2度の宮きよめがあったことはご承知だと思いますが、それは、公生涯に出られた間もない頃と、十字架に架かられる直前の頃の2回です。ヨハネは前半の出来事について書き、マタイ、マルコ、ルカは後半の出来事について書いています。
「わたしの父の家を商売の家としてはいけない。」(ヨハネ2:16)とイエスは言われました。イエスは宮にいる牛や羊や鳩を売る者たちや、両替人を蹴散らして怒りを露わにされました。それは病人を癒し、幼子を胸に抱くやさしい御方とはまるで別人のような形相だったに違いありません。罪深い女や取税人が心を開いて近づけるほど心の広い御方のイメージとはかけ離れた行動のようにも思えます。何がイエスをそれほど怒らせ、通常の感覚からすれば、極端に思えるような激しい行動へと導いたのでしょうか。一般常識から見れば、イエスの行動は常軌を逸したもので、営業妨害、器物損壊にあたります。やられる側からすれば相当な迷惑です。今日の近代民主国家であれば、誰であれ、他人に対してこのようなことをする権利は持ってはいません。当時のエルサレムにおいても、ローマ皇帝でも軍でもないのに、同じユダヤ人どうしでいきなりこのような破壊行為に及んだわけですから、やられた者たちは、イエスに対して「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのか」と問うのは、ある意味正当で冷静な反応です。牛や羊や鳩が宮で売られていたのは、生贄にするためです。生贄には、律法の規定に従って最良のものを捧げなければありませんでした。しかし、実際には病気のものや不完全なものが堂々と捧げられていたようです。生贄ということは、すぐに殺してしまうのです。だから、家畜としては価値の低いものを捧げたのです。旧約の最後の預言者マラキの書を読めば、当時の形骸化された礼拝の様子がよくわかりますし、それは、時代を超えてすべての人が何を悔い改めるべきかという罪の本質が指摘されているように思えます。(マラキ1:6~14)両替人たちのやっていたことは、汚れたローマ帝国通貨をユダヤ通貨に両替することです。表向きは礼拝のためですが、その実はお金儲けです。上手に商売をしてお金を儲けることそれ自体は、決して卑しいことでも犯罪でもありません。「不正な管理人のたとえ」では、その抜け目ないやり方は賞賛を受けているほどです。問題は、私腹を肥やす目的が第一でありながら、「神をあがめるふり」をしていることです。
自己実現や生き甲斐のためにキリスト教を利用している人々は、キリストの名を借りて自己主張しているだけです。こういう人々は、直接お金儲けをしていなくても、もっと薄汚い取引をやっているわけです。牛や羊や鳩を売る者たちは、見た目は礼拝者が生贄を捧げるためにそこにいます。両替人についても、彼らがやっていることは「両替」ですから、純粋な泥棒や詐欺ではありません。いずれも「礼拝」のためだと看板を掲げながら、「利ざや」を抜いていたわけです。そこが問題なのです。神殿に礼拝に来る人たちは、かたちだけの生贄や献金を捧げたのです。彼らに「利ざや」を抜かれ、特に「両替」という手続きを踏むことによって、日常とは切り離された礼拝のモードに入れたわけです。家という表現は、「日常性」や「親しさ」を表します。神殿という表現は、「神聖さ」と「特別な尊厳」を表します。言わば、この両替という手続きが、「家」から「神殿」のモードに切り替えるスイッチの働きをするわけです。愚かな指導者は、みことばを使いながら自分の権威を主張したり、自分を潤すための献金を強要したりします。自分に従うことはキリストに従うことだと、本質をすり替えるのです。キリストの贖いを着るのではなく、特別な衣装を身につけます。特別なことばを使い、飾られた祭壇から、特別な権威をもって、みことばを組織ぐるみで粉飾して語るのです。こういうものにイエスは怒りを燃やされるのです。イエスははじめの宮きよめのときには「商売の家としてはならない」とおっしゃっていますが、後の方では「強盗の巣にした」と表現を変えておられます。それは、彼らが警告を無視したことによってさらに堕落しているという指摘です。牛や羊や鳩を売る者と両替人だけでなく、それを認めて利用する人たちにも責任はあります。勿論レベルは違いますが同質の罪です。その商売を繁盛させることで偽りに加担しているからです。その手続きによって神への義理を果たしているような感覚になり、薄っぺらな宗教心を満足させるわけです。不完全な生贄を売る者も買う者も、「家」を大事にして「神殿」を軽んじているわけです。「家」のために良いものを残し、「神殿」に関するものは、かたちだけでよいと横着さがあるわけです。両替によって「利ざや」を抜かれても、その何だかわりきれない不当な算術を受け入れることこそが信仰だなどと思っているわけです。両替が、「家」から「神殿」に関することへ切り替えになっているわけです。まさに、宗教を組織化し儲ける連中と、それを利用して安っぽい安心を買おうとする人たちのあさましさが見事に描かれています。イエスは、目の前の商売人に対してだけでなく、神の神殿に関わる人たちのこのような現実のすべてに怒っておられるわけです。このとき、商売人たちは、イエスの怒りに触れて、自らを恥じ悔い改めた様子はありません。イエスの行動に対してとまどい、目に見える被害に腹を立てただけです。彼らの目にはイエスの言動はただ怒りの感情にまかせた暴挙でした。ところが、弟子たちはそれを見て、ひとつのみことばを思い起こします。それは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」ということばです。弟子たちの心に焼き付いたのは、目に見える怒りの激しさや荒々しさではなく、むしろその動機の聖さと熱意だったのです。神のまなざしは、もっぱら神の家にむけられています。この家には神の御名という表札がかかっており、神の民はその管理を任されているにすぎません。主人は帰って来てご自分の家に関するさばきをなされ、最終的に責任をとられるわけです。つまり、これは、この当時のユダヤ教の実態である以上に、今日のキリスト教の姿なのです。まあ、本質的にはそういうことなのですが、罪のただ中にいる人たちにとっては、いささかレベルが高すぎるやりとりであって、このときもメッセージは届きませんでした。今日はどうでしょうか。
イエスは、ユダヤ人たちの「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるし見せてくれるのですか」という問いに対し、「この神殿をこわしてみなさい。わたしはそれを三日で建てよう」(ヨハネ2:!8~19)とお答えになっていますが、これは人を食ったような答えで、一般的には答えになっていません。彼らは、まさかそれがイエス御自身のからだを指しているなどとは思いもしませんでしたし、イエスのからだのことだとわかったとしても、「こわしてみなさい」とか「3日で建てる」とか全く意味不明です。弟子たちにもわかりませんでした。わかるはずがありません。イエスも、この段階で「ああそういうことか」と意味を理解する者がひとりでもいると期待されたわけではありません。弟子たちがこのことばの本当の意味を理解でき、信じることが出来たのは、ヨハネが書いているようにイエスが復活されてからです。(ヨハネ2:22)ですから、イエスが神殿のことを言われても、聞いていた者は誰しもが目に見える神殿のことだと思いました。だから、「この神殿は建てるのに46年もかかったのにどうやって3日で建てるのか」と、トンチンカンな話になったのです。それは当たり前なのです。ポイントは、イエスがなぜみなが理解できないとわかりきっていることをあえて語られたのかということです。イエスは彼らを彼らの常識のレベルで黙らせてしまう別のことばを語ることが出来たはずです。たとえば、姦淫の現場で女に石を投げようとしている人たちに「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と言われたように。私はこう思います。それは弟子たちが復活後にこの出来事を思い出すためです。そして、私たちがこの記事を読んで、神の家とは何か、神殿で何を捧げるべきかを、正しく悟るためです。当時のユダヤ教のためでなく、まことの「家」であり「神殿」であるキリストの教会のためです。「この神殿をこわしてみなさい。わたしはそれを三日で建てよう」というイエスのことばは、平たく言い換えれば、「あなた方がわたしを十字架に架けてみなさい。3日後によみがえるから」ということです。「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白したペテロでさえ、「エルサレムへ行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」というよりわかりやすく控えめな説明でさえ、意味がわかってもあり得ないと思えたのです。商売人にわかるわけがないし、意味がわかればいっそう受け入れられません。しかし、この記事にもしこのことばがなければ、最良の生贄をささげ、正しいレートで両替すれば良いのだという話になってしまうでしょう。このときは、意味不明のことば、しかし、イエスが実際に十字架で死に、3日目によみがえられたことによって、確かになったこのキリストの贖いという土台にこそ、永遠の神の家、神の神殿は建つのです。その十字架の前と後の違いははっきりしています。(ヘブル3:1~6)モーセはしもべとして神の家全体のために忠実でしたが、それは、ご自分を立てて方に対して忠実であったイエスに注目させるためであり、この方が治める家こそ、まことの神の家です。旧約の時代に会見の天幕や神殿に入って、わが家にいるような安心感や交わりの親しさを感じた者は誰もいません。むしろ、そこでは自分の罪や愚かさを深く意識させられたはずです。十字架の贖いが土台で、自分の何かによらずに近づけるからこそ、そこに本当の安息があるのです。それ以外の手続き、すなわち、妙な生贄や両替制度を持ち込むのは許されぬことです。
さて、「家」と「神殿」ということばの違いについてもう少しだけ述べたいと思います。家は「日常性」や「親しさ」を表し、神殿は「神聖さ」と「特別な尊厳」を表すと申しましたが、それは私なりの表現です。みなさんなりにその表現が妥当かどうか吟味して、イメージをふくらませてください。全ては語りきれませんので、いくつかのヒントを差し上げます。イエスは12歳のときに宮詣をされましたが、家族が帰るときにはともにおられませんでした。ルカの筆によればこうです。少年イエスは、「いつ」「どこで」見つかりましたか。いつ?「3日後」です。どこで?「宮の真ん中」です。そして、イエスは両親に何とお答えになりましたか?「わたしは必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか」このことばから、イエスが自分の家を神殿の真ん中ととらえ、親たちが年中行事である礼拝を終えて、文字通り「神殿」から「家」へ帰ろうとしていたと全く違う感覚を持っておられたことがわかります。母はよく理解できなかったけれど、心に留めました。そして、この経験が十字架でわが子を失うマリヤを支えるのです。十字架の上に建つ「家」と「神殿」はひとつであるべきです。しかし、たとえの理解が不十分であれば、家と神殿は離れていきます。たとえば、聖餐式も食事の交わりから分離することによって形骸化したり、混同することで、霊的価値を失ったりします。(Ⅰコリント11:22)いつのときも、正しさのキーワードは「わたしを覚えて行う」(Ⅰコリント11:24)であり、間違いのキーワードは「めいめい我先に」(Ⅰコリント11:21)です。

5月11日 家と土台 (イエスのたとえ話 ⑫)

マタイ7:24~29  ルカ6:47~49

 エジプトのピラミッドに代表されるような古代の大きな建造物を見ると、そのスケールの大きさに圧倒されます。どうやって石を削ったのかな、どんなふうに運んだり持ちあげたりしたのかなと思いめぐらすだけでも楽しいのですが、見える部分だけでなく、見えない部分の基礎工事がしっかりしていたからこそ、何千年を経ても、その姿を今に留めているわけです。みなさんは大昔にこのような大きな建造物の土台を据えるとき、どうやって水平を測ったかご存じですか。まず建物を建てたい土地に碁盤のように溝を掘って、その溝に水を流し水面のレベルに合わせて地面を削るのです。単純ですが非常に合理的な方法です。それは、聖霊が私たちの心の凹凸をみことばの標準に合わせて導いてくださるのに似ています。
今日は「家と土台」という主題でお話します。「家」よりも「土台」の話が中心になるはずです。いくつかのたとえを見ていきますが、まず「家と土台のたとえ」を読んでいきましょう。マタイとルカはそれぞれにこのたとえを記録していますが、細かいところは多少異なっています。イエスさまがこの話をされたのは一回きりではく、同じ内容のたとえをいくつかのバージョンで何度かお話になったのではないかと私は考えています。決して弟子の記憶が曖昧なために、福音書の記事がまちまちな表現になっているのではないと思います。まして、弟子が適当に創作したわけでは決してないはずです。
まずは、マタイの福音書の記述から見てみます。「岩の上に建てられた家」は、洪水や強い風にも耐えて倒れることがありません。しかし、「砂の上に建てられた家」は、洪水や強い風が襲いかかるとひどい倒れ方で倒れました。つまり大事なのは「家」ではなく「土台」であり、その土台は「砂」ではなく「岩」でないといけないことがわかります。「岩の上に家を建てる」というのは、「みことばを聞いて行う人」のことで、「砂の上に家を建てる」というのは、「みことばを聞いても行わない人」のことを指しています。続いてルカの福音書をマタイの記事と比較すながら読んでいきます。「岩の上に家を建てた人」は、「地面を深く掘り下げて岩を置いた」と書かれています。愚かな家の建て方として挙げられているのは、「砂の上」ではなく、「土台なし」で地面に家を建てたと書かれています。また、家を破壊するものについて、ルカでは「洪水」はかかれていますが「風」はありません。また、愚かな人の家のダメージについて、マタイは「倒れ方のひどさ」だけに言及していますが、ルカは「倒れるまでの速さ」にもこだわって、「一ぺんに」(ルカ6:49【新改訳】))「たちまち」【新共同訳】ということばを添えています。共通する「岩」とは、人の子イエスは神の子キリストであるという「信仰告白」です。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」というペテロのことばに対して、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ16:18)と主が答えられたのは、ペテロの名前やペテロ個人の権威に関することではなく、ペテロの信仰に対する評価です。その後、イエスはご自分の受難について語られますが、ペテロは「そんなことはあり得ない」と答えて、「下がれ、サタン」という厳しい叱責を受けます。つまり、正しい土台とは、岩となる信仰告白であり、それは「キリストの十字架と復活の事実」を受け入れることと結びつかなければなりません。キリストの犠牲が岩の信仰の実質なのです。ペテロが正しい告白の直後に、その告白を根底から覆すような間違った意見を言っているのはとても大事です。最初の告白は、天の父が明らかにされたのであり、(マタイ16:17)後の意見はサタンの意見です。(マタイ16:22)いずれも、ペテロ自身のオリジナルなものではないのです。
告白とは口で言い表すことですが、その告白を直後に否定するような言動は問題です。このように、「あなたはキリストです」といい口での言い表しだけでは不十分だということを考えるとき、思い出されるもうひとつのたとえがあります。「ふたりの息子のたとえ」(マタイ21:28~32)です。 お父さんが息子ふたりに「ぶどう園へ行って働きなさい」と命じます。兄は「お父さん、承知しました」と調子の良い返事をしますが、実際には出かけませんでした。弟は、「いやです」と答えますが、考え直して後から出かけます。「二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」という話です。当然弟の方ですよね。ここで弟にたとえられているのは、取税人や罪人たちです。それは「ヨハネが示した義の道を信じて従ったからだ」とイエスはおっしゃっています。
 ヤコブも、「信仰と行いは切り離すことの出来ないひとつのものであり、行いのない信仰は死んでいる」と書いています。(ヤコブ2:14~26)「魂のない肉体が死んだものであるように、行いをともなわない信仰は死んだものです」(26) 父が命じた仕事は、ぶどう園へ行って働くことです。ぶどう園は、神の祝福そのものを表しています。「私たちの働き」は、いのちであるぶどうの木につながり、みことばにとどまることです。ぶどうは、からし種のように不自然に大きな成長をしません。背は高く上に伸びるのではなく、一定の高さで横に広がるのです。その実は房状になって、ひとつひとつは実を主張しません。それがぶどうのいのちの特徴です。祝福を受けるとは、楽をして遊ぶことではなく、主と共に労し、兄弟たちとともにその恵みにあずかることです。
 先週見た「放蕩息子のたとえ」の場合は、放蕩の限りを尽くした弟が我に返り、悔い改めて帰ってきたことは、「交わりの土台」となりました。弟は父のところへ帰ってくるという具体的な行動によって、父に対する信頼を明らかにしたのです。その土台は弟の側の罪の告白と行動によって完成されたのですが、父の側の「赦しと贖いの備え」がなければあり得ないことです。考えてみてください。弟は自分ではどうしようもなくなってただ父の力と憐れみにすがるために帰ってきただけです。父の元にいて「財産の分け前をください」と要求したときとは、全く違う態度でお願いするためです。自分が父から何かを得られるとしたら、それはもらう資格がないもの、すなわち「恵み」であることをちゃんと理解したわけです。この認識が交わりの土台に必要なのです。一方兄はずっと父のそばにいましたが、交わりの土台がありませんでした。自分は忠実なのだから父は自分を評価すべきだと考えていました。このように土台のないところに、奉仕の家を建てていたのです。ですから、ろくでもないと思っていた弟を受け入れた父を見て、怒りと不満が爆発します。兄にしてみれば、日々の奉仕という建てかけの家は、弟が帰ってくるという突然襲ってきた洪水のような出来事によって流されてしまったわけです。
賢い建築家であったパウロのことばに学びましょう。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」(Ⅰコリント3:10~11)パウロの仕事は建築にたとえれば、「家」を建てることではなく、「土台」を据えることだったと言っているのです。しかも、それはパウロのオリジナルではなく、「すでに据えられている土台を据えただけだ」と言っているのです。それは、「家を建てるものたちが捨てた」ことによって礎石となったのです。パウロはその捨てられた石であるキリストをみことばのとおり礎石としたということです。この礎石の上に何を建てるかということよりも、この素晴らしい礎石が据えられていることに感謝すべきです。もし、私たちの働きが金や宝石の建物にたとえられるようなものだとしても、その建物の中に主が住まれるのではありません。私たちが神殿であって、そこにこそ主は住まれるのです。(Ⅰコリント3:12~17)「火が各人の働きの真価をためす」ということに怯えたり不安になったりする必要はありません。私たちが神の神殿であることを喜ぶことの方が大切です。
もう少し土台を据える条件について考えてみましょう。「土台となる岩」を置くためには、「地面を深く掘り下げる」ことが必要だとルカは書いています。(ルカ6:46)種まきのたとえでも、土の浅いところに落ちた種はすぐに芽をだすが、根がないために枯れてしまいました。「地面を深く掘り下げる」とは、みことばに照らして人間性をしっかり見つめるという作業です。神の義に触れ、自分の罪を見つめ、悔い改めるということです。みことばによって深く掘り下げられた心には神の光が差し込みます。そこではじめて罪がわかり、神の贖いの必要を感じるのです。
「ぶどう園に行って働け」と言われた弟は、なぜすぐに「はい」と言えなかったのでしょう。また、後から何を思い直して出かけたのでしょうか。そればバプテスマのヨハネのメッセージと関係がありました。(マタイ21:32)「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての谷と丘は低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が神の救いを見るようになる」(ルカ3:4~6)これがヨハネのメッセージです。このたとえの中の弟とは、取税人や遊女たちでした。彼らは、ヨハネの語ったみことばが正しく、自分たちは間違っていると感じたのです。そして、水面に合わして地面をけずるように自分自身を掘り下げたからこそ、平らになり、その上に贖いの礎石を置くことが出来たのです。悔い改めがなければ贖いを受けることは出来ません。キリストという土台を据えるための本当の信仰告白は出来ないのです。
すべての家の混乱は、土台が異なっていることに起因するものです。すでに据えられている土台は、「家を建てる者たちが捨てる石」です。それはキリスト・イエスです。どの教会もキリストが土台だと言うでしょう。果たしてそれは本当でしょうか。それは、まず、深く己を掘り下げるところから来る「悔い改め」であり、「信仰告白」であり、「私ではなくキリストによる行い」を伴っているはずです。それらをすべて同時に満たすのは、私たちとキリストをつないでひとつにする十字架の死そのものを受け入れることです。「私ではなくキリストによる行い」と言いましたが、今日のメッセージの中心になった「家と土台のたとえ」は、いずれもいわゆる「山上の垂訓」とよばれる一連のお話の結びとして語られたものです。山上の垂訓を罪人である私たちが行うのことは不可能です。律法で聞いていた基準よりもいっそう高い道徳性を示されて、それを自分なりに薄めて目標にするのは、それこそ「お父さん行きます」と言って実際は行かないようなものです。正しい反応は、「私には無理です。でも、これを命じた方自身が私を通して行ってください。」私の正しい行いの可能性を見出すことができるとしたら、それはキリストのいのち、キリストの恵み、キリストの力なのです。
このように考えてくると、私たちの伝道奉仕や信仰のあり方という建物よりも、私たち自身がその土台にふさわしい神殿そのものであることを喜び、そこに住んでくださる主がご自分のいのちを表現してくださることを期待するはずです。ところが多くの場合、「私たちが神殿である」という事実をそれだけでは十分だとは感じず、さらなる伝道奉仕や正しい信仰のあり方を追求しようとしているのではないでしょうか。教会に問題が起こるのは建物が悪いのではなく、土台が間違っており、腐っているからです。建物は立派に見せかけるために、どんなにリフォームしても、それは何の解決にもなりません。既に据えられている土台をそのまま据えることが大事なのです。そしてそこにとどまることが大事なのです。人間的な動機で家を建てるものたちは、見捨ててしまう石、それが十字架の霊的な意味です。十字架はキリストの死であるとともに、同時に私たちの死です。私たちがキリストの死とともに終わらなければ何も始まりません。「家を建てる者たちが見捨てた石。それが礎の石となった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」(マタイ21:42)