2008年2月22日金曜日

2月17日 からし種のたとえ(イエスのたとえ話⑤)

マタイ13:31~32

種はどのような種でも小さなものですが、からし種は当時知られていたあらゆる植物の中でも最も小さな種です。パレスチナでは、からし種は香辛料としてだけではなく、防腐剤や医療用にも用いられたようです。黒からしの種は0.95~1.6mmで重さは1mg。しかし、生長するとどの野菜よりも大きくなると書かれています。ガリラヤ湖畔においては、2.5~3mほどにもなったと言われています。たとえの中心は「小さなものが大きくなる」ということです。「小さなはじめが、大きな終わりをもたらす」という事実をわかりやすく対照しています。ただし、ポイントは野菜でありながら木のように生長したその大きさではなく、「はじめの種の小ささ」にあります。生長したからし種より大きな木は他にもありますが、からし種より小さな種はありません。
からしというのは正確には野菜であって木ではありませんが、「木が生長するたとえ」は旧約聖書の中にもいくつか見られます。このような関連の聖句をしっかり調べて、聖書全体が伝えるメッセージのバランスを考えるのは大切なことです。エゼキエル書やダニエル書には、木の生長が「王や帝国の繁栄」の象徴として預言されているので、簡単に見てみましょう。エゼキエルは、バビロンに捕囚されるイスラエルの姿と、キリストによる救いの未来を、二羽の大鷲と木のたとえで見事に表しています。(エゼキエル17:1~10, 22~24)最初に出てくる大鷲(3)はバビロンの王ネブカデネザルであり、若枝の先(4)はエホヤキン、地の種(5)はゼデキヤ、もう一羽の大鷲(7)はエジプトの王です。ゼデキヤは、大鷲バビロンに反逆するため、もう一羽の大鷲エジプトに頼るが裏切られ、ネブカデネザルの手によって、目をえぐり出され、足かせをつながれえてバビロンに連れて行かれます。一方では、ダニエルがイスラエルを捕囚したバビロンの王ネブカデネザルの盛衰について、王自身が見た大きな木にまつわる夢を解き明かしています。(ダニエル4:10~27)これらのたとえの中では、木の生長自体は良いことでも悪いことでもなく、主の主権によって、人は栄えもすれば滅びもすることを教訓として語っているにすぎません。たとえの中では、木は確かに繁栄の証として生長していますが、大事なのは「神の主権」に服することだと教えています。しかし、このような旧約のモデルがあるので、「からし種のたとえ」は、多くの場合、上っ面だけをとらえた「御国の拡大のたとえ」としてとらえられてきたのも事実です。しかし、「からし種のたとえ」ただそれだけの単純なものではありません。マタイの福音書を見れば、それはさらに明らかです。「種まきのたとえ」に続いて「種まきのたとえの解説」があり、「毒麦のたとえ」があって、次に「毒麦のたとえの解説」が続くのではなく、その間に「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」が挿入されているのがわかります。従って、これらのたとえはそれぞれに深い関連を持っており、まさに文脈の中で解釈していく必要があるわけです。つまり、この順番は、「からし種のたとえ」は、「種まきのたとえ」の続編であり、「毒麦のたとえの解説」の前提であるという読み方が必要で、そのように意図された編集になっています。では、そのように読んでいきましょう。「種まきのたとえ」では、4つのうち3つの土地の状態は悪いのであり、まかれた種の総量に対して仮に4分の1ずつがそれぞれの条件の土地に落ちたとすれば、4分の3、つまり75パーセントの土地は実を結ばないのです。さらに、「毒麦のたとえ」では、畑には良い麦と見分けのつきにくい毒麦が根を絡ませて広がっています。この文脈から考えても、「からし種のたとえ」だけが、全体の文脈から無視した「小さな信仰がすばらしい教会成長につながる」というような単純なモデルであるわけがありません。さらに次回詳しく見ることになる「パン種のたとえ」でも明らかですが、パン種を入れてパンを大きくすることは決して喜ばしいことではなくむしろよくないことなのです。粉の中にパン種を入れる女とはもちろん教会のことです。つまり、教会は一見非常に大きくなりますが、それは「必ずしも好ましい生長ではない」と読み解くことが出来るのです。ですから、みすぼらしい小さな集まりがやがて世界的な影響力を持つようになり、今は日本人口の1パーセントにすぎないクリスチャンだが、やがて大リバイバルが起こると多くの人が救われるのだというたとえではないのです。
生長したからし種の木の姿の描写に注目すると、「空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になる」(マタイ13:32)と書かれています。この表現にも少しこだわってみます。マルコでは、「大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどなります」(マルコ4:32)ルカでは、「生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作り増した」(ルカ13:19)となっています。共通するのは、いずれも「空の鳥が」「枝に」「巣を」作っているということです。空の鳥とは、種まきのたとえの解説によれば人の心にまかれたみことばの種を取り去る悪い者(サタン)です。(マタイ13:19)「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」(エペソ2:2)という表現も思い起こされます。「枝に」「巣」が張られるとは、まさにキリスト教の分裂・分派を指し、党派心による自己主張が、悪いものに巣を張られるための枝を提供しているという見事な描写だと言えます。黙示録に目を転じても、ペルガモの教会にはサタンの王座があると書かれています。「わたしはあなたの住んでいるところを知っている」(黙示録2:13)目に見えて明らかになっているものを「わたしは・・・・知っている」となどという言い方はしません。影に隠れているもの、隠そうとしている真実を見通しているという警告です。「大きな枝の影の部分さえも神の光が照らし出している」と告げているように感じます。黙示録の中には、さらに、「憎むべき鳥どもの巣くつ」(黙示18:2)というおぞましい表現も見られます。これもまたこの世ではなく、教会の霊的堕落を指していることは明白です。
種まきのたとえにおける種は「みことば」でした。毒麦のたとえにおける良い種は「御国のこどもたち」でした。では、小さなからし種とは何を指しているのでしょうか。その秘密を解くみことばはルカの福音書にあります。「もしあなたがたにからし種のほどの信仰があったなら、この桑の木に『ねこそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(ルカ17:6)このみことばから、からし種は「信仰」を指していることがわかります。この不思議なみことばは、「私たちの信仰を増してください」という使徒たちの願いに対しての答えです。信仰は小さな目に見えないほどのからし種程度で十分。つまり、信仰は量的なものではなく、質的なものなのだと主はお答えになったわけです。
では、なぜからし種ほどの信仰に出来る大きなことの例として、桑の木が出て来るのでしょうか。そもそも桑の木を海に植えかえる必要があるのでしょうか。また、そんなくだらないことを願う人がどこにいるのでしょう。サタンがイエスさまを誘惑したように、「腹ぺこの人が石をパンに変える」という話なら意味がわかりますが、「陸に生えている桑の木を海に植え替えること」にいったい何の意味があるのでしょうか。私は長い間そのことを疑問に思っていました。しかし、最近になって、陸はユダヤ人を海は異邦人の世界を表しているのではないかと考えるようになりました。つまり、祝福が律法を守ることによってではなく、信仰によって異邦人に移っていくことを意味しているのです。イスラエルの選びは恵みですが、本当の救いは信仰によって教会にもたらされます。(ガラテヤ3:14)ちなみに桑の実は最も貧しい人々の食べ物でした。求められる信仰の質とは何でしょうか。それは、イエスを信じるということです。十字架を信じるということです。よみがえりを信じるということです。私たちがキリストのものであれば、約束による相続人なのです。私たちは、何かを築き上げるのではなく、何もしないで、イエスの信仰、イエスの勝利を相続するのです。(ガラテヤ3:29)信仰の創始者はあくまでもイエスです。(ヘブル12:2)毒麦のたとえにおける良い麦の収穫も、実ははじめの「地に落ちて死ぬ一粒の麦」にかかっています。(ヨハネ12:24)はじめの一粒が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままなのです。毒麦はおろか、たった一粒の良い麦の収穫も期待できません。すべてはイエスさまの「人の子として」の父に対する信仰にかかっているわけです。ですから、からし種の信仰も、「ささやかな私の信仰」を出発点に考えては間違いです。出発点は「イエスの信仰」です。神が人として、信仰者として生まれ、歩み、死んでゆくということ、これがからし種です。あらゆる栄光をお受けになるにふさわしい御方がそのあり方を捨て、ご自分を無にすること、仕える者の姿をとられたこと(ピリピ2:5~8)が、からし種の無に等しい小ささの根底にある意味です。「キリストが神の御姿であられる方なので、神のあり方を捨てることが出来ないと考えられた」としたら、私たちも大きな信仰も、小さな信仰もなければ、信仰の対象そのものを失うわけです。
先日私はこの一月に生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて、祝福の祈りをさせてもらう機会がありました。私は力を入れたらこわれてしまいそうな小さな赤ちゃんを胸に抱き、そのやわらかい手触りとぬくもりを胸に感じながら、イエスさまが人の子として、全能の神が、全く無力な人間の赤ちゃんとして生まれてくださった事実に対して、改めて厳粛な気持ちになりました。そして、神の子イエスを人の子としてわが胸に抱いた母マリヤの驚きや信仰の実際はどうだっただろうと思いをはせたのです。マリヤは最初からすんなり御使いのことばを信じたわけではありません。「どうしてそのようなことになりえましょう」(ルカ1:34)と言っています。当然です。妊娠があり得ないことはマリヤが一番良く知っています。しかしそのやりとりの中で、「神にとって不可能なことは一つもない」(37)と御使いに言われ、そのとおりだと受け入れます。そこではじめて「ほんとうに主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばのとおりこの身になりますように」(38)と言っています。私たちがアーメンと言うとき、実はこのマリヤ告白と同様の告白をしているのです。また、こういう告白でないと軽々しくみことばに対してアーメンなどと言ってはいけないのです。このマリヤの一言が人の子イエスの誕生を実現させたのです。マリヤの子宮に着床した人の子イエスは、まさにからし種のような小さな細胞にすぎませんでした。そしてマリヤのこの一言も、言わばからし種のような極めて小さな信仰でした。そこには神学も理論的体系も教理も律法もありません。マリヤは、神の全能とみことばの約束の真実と、そしていのちそのものを受け入れたのです。

2008年2月8日金曜日

1月27日  毒麦のたとえ(イエスのたとえ話④)

          マタイ13:24~30 36~43

毒麦という種類の植物があることはよく知られています。毒麦というくらいですから、その特徴は、まず麦によく似ていているということ、そして毒性があるということです。それは区別がつきにくいほどよく似ていて根が絡み合うので、毒麦を抜こうとすると良い麦をも傷つけてしまう危険があります。これをもしあやまって食べた場合は、吐き気やめまいや嘔吐やしびれを引き起こす危険があると言われています。こうした特徴を逆手にとって、「麦をまいたばかりの敵の畑に毒麦をまく」ということは、復讐の方法のひとつとして行われていたようです。 毒麦は麦という名がついていますが、麦角(ばっかく)という麦に寄生する菌が正体です。麦角に寄生された穂は、まるで黒い角のような穂があちこちに顔を出す。これを食べてしまった麦角病はペスト・コレラとともに恐れられた病気でした。毒麦被害の記録は、BC7世紀のアッシリアに始まり、17世紀になってようやく菌の正体がわかって次第に被害は減りましたが、20世紀になっても、まだ大被害の記録が残っています。日本は米が主食であったため、あまりなじみがないのですが、麦を作る地域で毒麦は長年にわたって大きな被害をもたら続けています。
良い麦と毒麦はそれぞれに何を指していて、誰が蒔いたのでしょうか。イエスさま御自身の解説によれば、良い種は「御国の子どもたち」で、毒麦は「悪い者の子どもたち」です。 良い種をまくのは人の子すなわちイエスさまであり、毒麦をまくのは悪魔です。こうしてイエスさまと悪魔によって正反対の目的で別々にまかれたものが、ひとつの畑の中で混じり合っている。これがキリスト教界の現状です。良い種が単に「みことば」ではなく、「御国の子どもたち」と書かれていることに注目してください。イエスさまが語られたことばは、霊でありいのちです。いのちのことばであるイエスさま自身が、一粒の麦として地に落ちて死なれたことによって、イエスの霊が私たちのうちに宿り、ひとつひとつのみことばの約束を聖霊がよみがえり力によって成就させるそれが本当の御霊の実だからです。
良い種が途中から毒麦になるということはありません。毒麦は初めから毒麦であり、サタンが悪意をもってまいたので、良い種と混じり合って成長し、根を絡ませては混乱させます。また、毒麦としてまかれたものが途中から変質して良い実を実らせるということはありません。これは絶対にないことなので、毒麦を良い麦に変えようという努力は無駄だということです。当然、異質なものが混じり合って収穫を損なうかも知れないことを知った者は、心を痛めて、「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」(マタイ13:28)と言うでしょう。しかし、主は「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えておられます。その理由は「毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかも知れない」ということです。つまり、麦と毒麦はそれくらい判別が難しく、麦と毒麦をより分けることは、「収穫の麦」である私たち自身の仕事ではないのです。実際には穂が実ると本物の麦よりもひげが長かったり、色が黒っぽかったりして区別がつくそうですが、まさに収穫寸前までは区別がつきにくいのだそうです。さらにここで配慮されているのは、良い麦を誤って抜いて傷つけてはいけないということで、毒麦に対する憐れみではないということも覚えてください。毒麦はあくまでも最後に焼かれるために成長するのです。正しい者と悪い者を分けるのは、クリスチャンの本来的な役割ではなく、そのことに責任もありません。終わりなき神学上の論争や異端審問や正当派争いには意味がないのです。
悪魔が毒麦の種をまくのは、「人々が眠っている間」と書かれています。これは、怠惰というよりは、「人の関知できないところで」という意味でしょう。毒麦の毒性というのは、極めて霊的な悪意に満ちた、人よりも上位の者のしわざだということです。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)たとえが私たちを選ぶと申しました。私たちの聞き方が私たちを選別するのです。イエスさまが、「あなたがたは悪魔から出た者だ」と言われたのは、彼らがイエスさまが語られたことばに耳を傾けられなかったからです。「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」(ヨハネ8:43)植物であるならば、神様は麦は麦、毒麦は毒麦に造られたわけで、麦や毒麦に選択の余地はありません。しかし、人は無抵抗にサタンに任命され操られるわけではありません。自分の意思でみことばを受け入れたり、また、拒んだりうして、自分のあり方を選択するのです。ヨハネ8章にあるやりとりの前半でも、イエスさまは、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とおっしゃっています。初めから拒まれているわけではなく、彼らがみことばを拒んだのです。それなのに、ユダヤ人たちはイエスさまが与える自由を求めず、すでに自由だと言い、逆にイエスさまを殺そうとします。さらに、「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります」と言っているのです。このように今日にもこの類のキリスト教徒は毒麦として混在しています。真理の霊と偽りの霊をより分け束ねることは命じられていませんが、見分けることは出来ます。霊だからといってみな信じてはいけないのです。見分けるポイントはひとつです。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって、神からの霊を知りなさい。」(Ⅰヨハネ4:2)と書かれています。イエスの受肉をどうとらえているかというのが鍵です。先ほどのユダヤ人たちもひとりの父である神を強調し、神の子であるイエスさまの人の子としての受肉を真っ向から否定しています。イエスを告白する霊です。「聖霊さま」ではありません。「唯一の神」でもないのです。(Ⅰヨハネ4:3)
「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして、世に勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:4)これもまた慰めに満ちたことばです。私たちは弱くていい。これから勝つのではなくすでに勝っている。勝利の理由は、私たちが成長するからでも、がんばるからでもなく、私たちのうちにおられる方が悪魔よりも強いからです。
「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。」(Ⅰヨハネ4:5)この世の神の入れ知恵によって語られる、自己啓発や道徳やお涙ちょうだいのエピソードや御利益話は大いにこの世に受け入れられるでしょう。みことばをみことばのまま語ることは、非常に分が悪いように思われます。しかし、その中で、淡々とみことばを語り続けることによって、それに耳を傾け、反応する人たちが起こされます。私たちはすでにそのことを見ています。私たちのような田舎の小さな教会を通して発信されるメッセージに応答される兄弟姉妹が各地におられ、事実交わりが広がり、祈りがつながっている。いのちが流れている。これはすごい奇跡を見ているようです。
「私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊を見分けます。」(Ⅰヨハネ4:6)このヨハネの言葉は、見方によれば非常に独善的なものとうつるでしょうが、それほど、まっすぐにみことばを語っているという強い核心に基づいた宣言だと言えます。私たちもこのヨハネのように、私たちの言うことに耳を傾けない者は偽りなんだと言いきれるほどのメッセージを携えていたいものです。収穫はすぐにはありません。収穫はこの世の終わりだからです。借り手は御使いです。やがて、麦と毒麦の違いが明瞭になります。御国の子どもたちとは誰なのかはっきりします。それは、「あの教団は駄目」「この教会はすばらしい」というようなものではありません。このたとえのように、根が絡み合っていて、人目にはなかなか見分けがつきにくいのです。
毒麦にあたる人たちは、「そこで泣いて歯ぎしりする」と書かれていますが、この表現はマタイの福音書に6回出てきます。これほど頻繁に出てくるこということはとても大事なことで、出来ればそうならないようにというイエスさまの思いがこめられているようです。この機会にすべての箇所をチェックしてみてください。1. 百人隊長の場面(8.12)2. 毒麦のたとえ(13:42)3. 地引網のたとえ(13:50)4. 王の披露宴のたとえ(22:13)5. 悪いしもべのたとえ(24:51)6. タラントのたとえ(25:30)
なぜ彼らは「泣いて歯ぎしり」するのでしょうか。それは激しい悲しみと悔しさの表現です。それは自分たちの受けた報いが当然であることがはっきりわかり、選択を誤ったことを思い知るからでしょう。彼らには選択を迫られた機会がありました。みことばに触れるチャンスがあったのに生かさなかった、みことばを軽んじた、みことばよりも自分の考えを選んだ人たちです。いっさいの言い訳を取り去られた世界で、正しい神の前で自分の愚かさや罪深さと向き合わされるというのは恐ろしいことです。中には確信犯もいるでしょうが、多くの人は、神に従っていると思って、この世の神であるサタンに従い、サタンの為に準備された罰をともに受けるわけですから、たまったものではないでしょう。