2008年3月21日金曜日

3月16日 羊と羊飼い (イエスのたとえ話 ⑧)


「あなたがたは、どう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もしいたとなれば、まことにあなたがたに告げます。その人は迷わなかった九九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいます父のみこころではありません。」(マタイ18:12~13)
これはおそらく聖書のたとえ話の中で最も有名なものではないでしょうか。日本人の生活は羊とはあまり縁がないのですが、羊は聖書の中に最も頻繁に登場する動物です。アベルが捧げたのは、彼が飼っていた羊の中の最良のものであり、それが彼の信仰の義を表すものでした。義人アベルと言われていますが、その義という漢字は、「羊」に「我」と書きます。まるでこのアベルの記事をもとに作られたような漢字です。他にも「美」や「祥」や「善」という漢字も「羊」が部首として含まれています。羊は十二支のひとつにも入っているように、一説によると、中国では8000年以上前から飼育されているそうです。「眠れない夜のために」というヒルティの名著がありますが、眠れない夜には羊を数えると良いなどと言います。羊を意味する英語のsheepというのは睡眠のsleepを語源としています。またラテン語で財産を表すpecuniaということばは、羊(家畜)を意味するpecusに由来しています。これは、日本では石高で財力や権力を表すのに似ています。こうして、洋の東西を問わず、ことばの中に組み込まれるほどですから、ヨーロッパからアジアにわたる大陸の全域において、羊はもっとも人の暮らしと関わりの深い動物だったわけです。平らな広い牧場で放牧される場合もありますが、とりわけ山間で遊牧する人々にとっては、このたとえは非常に身近でよくわかるものだったでしょう。イエスに「どう思いますか」と問いかけられたときに、99匹を残して1匹を捜しに行く羊飼いの気持ちや、その1匹を見つけたときの喜びは、容易に自分の体験と結びついて理解できたのです。ですから、このたとえは、平均的な羊飼いの行動と心情について語っているのであって、例外的な特に善良な羊飼いの話ではないということを理解しておく必要があります。
このたとえにも見られるように、羊は最も「人間性」を象徴する動物ですが、羊と人との間にはいったいどのような共通点があるのでしょうか。ご承知のように、羊と言えば、まず、あたたかくて良質の毛がとれます。それから、肉やお乳もおいしいです。しかし、人間からは毛も肉もとれません。では、何が似ているのでしょうか。それは性質です。羊は非常に臆病で弱い動物です。他の動物のように、俊敏さもなければ戦うための条件を備えていません。攻撃性もなければ、身を守るすべもない。足は短く、鋭い角も牙も爪もありません。羊は敵に襲われると、斜面を上へ上へと進み風上に向かって移動する性質があり、帰巣本能が乏しいので、迷ってしまうと、まさしくこのたとえのように群れに自力で戻って来ることは出来ないのです。人というのは、神の目にそのようなものだと聖書は語るのです。そして、一番興味深いのは人間の「群衆心理」にも似た羊の性質です。羊の群れには決まったリーダーがいないので、群れの中の一頭が身に危険を感じてあらぬ方向へ走り出すと、群れ全体が一斉にあとに続いて走るというような行動をとるのです。羊にとっては単独で行動することは非常に不安で、一頭だけを群れから離すとパニック状態になり、捕まえるのも難しいのです。そのため「一頭の羊を捕まえるよりも、百頭の羊を捕まえるほうがたやすい」と言われたりします。このように考えてくると、一匹の羊と一人の人間の比較もさることながら、集団になるとさらに良く似ているなあと思うわけです。イエスさまは御父とともに造物主ですから、聖書のたとえ話は人間のように観察と経験にもとづいたものではなく、このたとえのために羊という生き物を作られたとも言えるわけです。
しかし、比較的わかりやすいこのたとえも、読み方の視点がずれると、全く本来のメッセージは届かないままに、違った意味にすり替えらえて、贖いとは切り離されたイメージだけが独立してしまうのです。「迷える小羊」という表現の中には、人間のこころの葛藤や孤独だけがあり、羊飼いの存在は忘れられています。一例をあげてみます。夏目漱石の「三四郎」という小説がありますが、三四郎と想いを通わせる美禰子という女性は、stray sheepということばを印象的に使いながら、三四郎への思いと自分の行動の矛盾や、時代や存在の不安の中でエゴイズムに引きずられていく悲しみを象徴しています。残念ながら、イエスさまのたとえ話は、こういう「迷える状態」に留まり、自分の迷いを文学的に描写して自己憐憫することが目的ではないわけです。たとえの中心は、「羊が迷っていること」ではなく、羊飼いに見つけられて、「羊飼いが喜んでいること」にあるわけです。ルカの福音書15章では、その当たりがいっそう明確になるように、「銀貨を見つける女性のたとえ」と、「放蕩して帰ってきた息子を迎えるお父さんのたとえ」が3つ連続して描かれています。私はあえて、「失われた銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」と言いませんでした。この3つのたとえはいずれも、失われていたものが見つかった喜びが共通する主題なのです。ルカ15章と、マタイ18章の違いは、このたとえが語られている状況です。ルカの場合は「この人は、罪人たちを受け入れて食事までいっしょにする」(ルカ15:2)というパリサイ人や律法学者のつぶやきに対する答えでした。マタイの場合は、「それでは、天の御国ではだれが一番偉いのでしょうか」(マタイ18:1)という弟子たちの質問に対する答えでした。何を中心にしてどこから光を当てるかで、話のポイントや解釈は大きく異なります。たとえが語られた具体的な状況や論理的な整合性をしっかり把握することなしに、イエスさまのみこころは読めません。 羊が弱くて迷いやすい人間性を表していることは既に見ましたが、もうひとつの重要な意味があります。羊は、「人間性」とともに、その「人間性をまとわれたイエス」を象徴しています。冒頭でお話ししたアベルの捧げた羊もそれです。過越しの生け贄として殺される小羊は、まさに十字架のイエスです。 ヘブル人への手紙にはこう記されています。 「そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。」(ヘブル2:14) 「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは、民の罪のためになだめがなされるためなのです。」(ヘブル2:17) さらに、預言者イザヤは、そのふたつの象徴を一つの預言の中で見事に書き分けています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かって道に向かって行った。しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:6~7) 「私たち」は罪人である人間。そして「彼」はイエスです。ともにその「人間性」を羊という動物は象徴しています。一方の羊はさまよっており、もう一方の羊は従順です。この御方は「神の小羊」として紹介され、徹底して無力でした。イエスさまはご自分で、自分からは何事も行うことは出来ないと繰り返して語られました。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことは出来ません。」(ヨハネ5:19、5:30,8:28)
羊飼いであるイエスは、「父のみこころのゆえに」羊の弱さを身にまとい、羊の不安や恐れを体験し、「父のみこころために」失われた一匹を見つけるまで捜し求め、自らを捧げ、羊を贖うのです。ただイエスだけが、父の愛と義と羊の弱さをともに知る唯一の仲介者なのです。神と人との唯一の仲介者はイエスです。信仰の創始者であり、完成者はイエスです。私たちはこの御方に十字架によってつながれているだけなのです。羊は羊飼いを求めません。人間の書く小説は「迷える小羊の葛藤」で終わります。みことばは、羊飼いが羊を見つけ出すのです。羊が羊飼いを発見するのではありません。これは、「隠された宝」や「良い真珠」を買うのは誰かという話と共通するでしょう。
ダビデは「主は私の羊飼い」と告白しました。ですから、その後には、「私は、乏しいことがありません」ということばが続きます。(詩編23:1)「私は迷える小羊です」というのも大事な告白ですが、「羊飼い」のもとへ行かなければ、その告白は泣き言であり、文学や哲学のレベルに留まります。羊飼いの愛が見えなければ、「乏しさ」からくる不安、恐れ、飢え、渇きから抜け出すことができません。「わたしは良い牧者です。良い牧者は、羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)とイエスさまは言われました。繰り返します。羊がどうするかではなくて、羊飼いがすることが大事なのです。それがすべてです。喜ぶのは羊ではなく羊飼いです。本当に救いの意味と価値を知っているのは、罪人ではなく救い主です。私たちの罪は、神が人となってあのような苦しみを受けなければならないほどどうしようもなかったのです。同時に神がそこまでしてでも成し遂げたいほどにこの贖いの計画は完璧だったのです。迷える羊はそんなことなど知らずにただ迷っていただけです。
では、迷っている羊の側からは、本当に何ひとつ出来ないのかという疑問が残ります。ひとつだけできることがあります。この一時によって羊飼いのもとへ帰れるかどうかが決まります。それは羊飼いの声を聞き分けることです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。また、わたしは彼らを知っています。そして、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)みことばを聞くこと。他のいろんな声から良い牧者の声を聞き分けることです。羊の所有者ではない雇い人に騙されてはいけません。人に惑わされてはいけません。聞く耳のある者はたとえを聞き分けることができます。最後に羊飼いが捜し求めるのは一匹です。大会衆ではありません。イエスさまはよみがえって弟子たちのグループに現れてくださったとき、よみがえりをともに喜んだ弟子たちとその喜びを共有されたでしょう。しかし、イエスさまがさらに心にかけたのは、そこにいなかったトマスのことでした。それが羊飼いの心です。イエスさまはトマスのためだけにもう一度現れてくださいました。トマスはイエスさまがラザロたちのためにもう一度ユダヤに行こうと提案されたときに「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言った血気盛んな人物です。しかし、彼に出来たことはイエスを見殺しにすることであり、よみがえったイエスを信じないことでした。彼が出来たのは、さまようことだけです。当然、彼の心は不安といらだちでいっぱいでした。彼は自分を捜し求めてくれた羊飼いである主とわきの傷を見て、イエスさまを「私の主。私の神」として受け入れます。キリストは全人類のための救い主ではなく、あなたの救い主です。十字架は全人類の罪の総計ではなく、あなたの罪のためです。羊飼いはそのように一匹、一匹の名を呼ぶのです。あなたは名を呼ばれましたか。そして、答えましたか。  私たちは小さくて弱いままでいいのです。呼びかけに答え、ただこの方についていくことです。

2008年3月17日月曜日

3月9日 隠された宝と良い真珠 (イエスのたとえ話⑦)

 マタイ13:44~58

 人間中心に、また自分勝手に、みことばを読んでいくと、イエスさまが語りたかったことではなくて、「自分の聞きたいこと」をたとえから無理に読み取ってしまう可能性があるということは何度もお伝えしてきました。 今日は「畑に隠された宝のたとえ」「良い真珠をさがしている商人のたとえ」「あらゆる種類の魚を集める地引網のたとえ」を取り上げますが、この3つのたとえに関しても、後に続くイエスのことばを含めて、その連続性をしっかりとらえないと、非常に表面的で浅薄な読み取りに終わってしまいます。 たとえばこの3つのたとえのうちの2つのたとえを組み合わせたり、あるいはそのいずれかを取り上げたりして教訓を語る場合、「隠された宝や良い真珠を買い取るために、見つけた人は持ち物を売り払っています。みなさんも天の御国を買い取るために、信仰によって自分の持っているものすべてを捧げましょう。」というようになるわけです。もしかしたら、みなさんも「このたとえはそういう意味だ」あるいは「それ以上それ意外の意味などない」と既に刷り込まれて、読み流して来られたかも知れません。しかし、このたとえがその程度の意味のものであれば、わざわざ日曜の朝に教会まで出かけて行って職業牧師に解き明かしてもらわなくても、家で聖書を読んでいれば小学生でもわかるでしょう。そんなことを伝えるためだけであれば、わざわざこんなたとえが2つも必要でしょうか。さらに3つめの地引網のたとえとのつながりはどう説明しますか。最初に引き出したい教訓があるので、3つのうちの前の2つか、あるいはその2つのうちのいずれか1つの話しかしないのです。イエスさまは毒麦のたとえの解説とこの3つのたとえのあとに、「あなたがたはこれらのことがみなわかりましたか」と弟子たちにたずねておられます。それは、「持ち物を売り払って天の御国を買いましょう」というような答えを確認するためなのでしょうか。イエスさまがこのマタイ13章の中でも繰り返しおっしゃっているように、たとえというのは、「見るべきものを見ていない、聞くべきことを聞いていないので、そのことが明らかになるため」であり、「奥義を知ることが許される者と許されない者が聞き方に振り分けられるため」なのです。(マタイ13:11~13)また、たとえは「世の初めから隠されていることどもを物語るためのもの」(マタイ13:35)であり、新しく付け加えられたものではないということも覚えておく必要があります。
 たとえは、隠されているものを本気で求める気のない人間には、真実を秘めるために用いられているということを忘れないでください。たとえで語るのは、「本当に知りたい人だけに奥義を伝えるため」であり、本当のことを知りたくない人、知りたいふりをしているだけの人にはとんでもない誤解を生むようなからくりになっているのです。たとえは、地引き網のように海の中にいるものを集めます。そこには離れていく群衆もおり、弟子も混じっています。本物の弟子もいれば偽物の弟子もいます。それは「毒麦のたとえ」では収穫のときまで、「地引き網のたとえ」では、網を岸に上げるときまで混じり合っているわけです。たとえを理解できたかどうかは、知識の量ではなく、いのちの経験によって確実にふりわけられるのです。だから、イエスさまはたずねられるのです。「あなたがたはこれらのことが本当にわかったんですか?」と。
それでは、細かく見ていきます。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)日本でも、昔話で裏の何でもない畑に小判が埋まっているというものもあれば、戦国時代の埋蔵金などが話題になったりもします。舞台は1世紀のパレスチナです。争いで略奪が繰り返される中、資産家が地中に財産を埋めるということはけっこうあったようです。このたとえは、まだ自分の土地ではない財産を掘り出すと所有権の問題が出てくるので、発見者は宝を見つけたことを公表しないで畑ごと買うという話です。現代で言うなら株のインサイダー取引みたいなもので、よく考えてみると、何だか妙なたとえです。そこで、まず基本的な質問をひとつします。天の御国の宝を見つけて買い取るのは誰でしょう。それは、私たちではありません。誰がイエスの価値を認めましたか。イエスは宝とは見なされず、人にさげすまれ、捨てられ、十字架に架けられるのです。「私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)とイザヤが預言したとおりです。たとえ人が御国を買いたいと思っても、自分の罪を贖いたいと思っても、それにふさわしい代価を差し出せるものはいません。「人は自分の兄弟をも買い戻すことは出来ない。自分の身代金を神に払うことは出来ない。-たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。-」(詩編49:7~8)と書かれています。誰も神の賜物を買うことは出来ないのです。このたとえは、私たちが宝を買う話ではないのです。買い取ることが出来るのは主です。では買い取られる畑とは何ですか。それが私たちです。畑に宝を埋めたのは誰ですか。それも主です。主が畑である私たちを丸ごと買い取ってくださるのです。「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」(Ⅰコリント3:9)とパウロは書いています。畑には大した価値がありませんが、そこには、霊またいのちであるみことばがまかれ、それが信仰によって受け止められれば、聖霊が豊かに何十倍もの実を結びます。それが天の御国であり、神の宝です。持ち物を全部売り払うのは、私たちではなく主です。勿論、主のその愛を知って私たちも自分の持っているわずかなものも、そして自分自身もすべて主に捧げたいと思うでしょう。しかし、それはあくまでも結果であって、「さあ、持ち物を全部売り払って天の御国を買いましょう」という話ではないのです。実際に永遠のいのちを欲した金持ちの青年は、イエスさまのことばに従って持ち物を全部売り払うことができず、悲しんで去って行ったではありませんか。このたとえのとおりになるわけがないのです。人は自分から進んで地上の宝を捨てて天に宝を積むことなど出来ないのです。(マタイ19:21~22)それが罪人の現実です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)「なだめの供え物」の「なだめ」とはいったい何をなだめるのですか。私たち罪人の良心でしょうか。違います。父の義をなだめるのです。御子イエスの血だけが、父の義をなだめるのです。父がひとり子を世に与えること、これが愛であり福音です。私たちが宝を買うことなど愛などではなく、福音とは関係のない話なのです。人が何かの犠牲を払って御国のものを手に入れるというのは、まさしく宗教の発想です。
 キリストという神の宝は私たちという見た目は価値のない畑の中に埋められています。神の知恵によって真の教会は隠されているのです。このように読めば、畑の宝をひとりじめにするために、宝を見つけたことを隠しておくおかしな人のたとえより、ずっとわかりやすいはずです。
 次に真珠です。「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45)真珠が養殖できるようになったのは19世紀の後半のことです。真珠は今でも高価なものですが、この当時はさらに高価で、極めて貴重なものでした。真珠は貝の体内で生成される生体鉱物です。貝は自分の体内に入った異物を核として、カルシウム(炭酸カルシウムのアラゴナイト型結晶)とタンパク質(コンキオリン)が交互に同心円状に重なってできあがります。真珠を養殖する場合もこの性質を利用します。ドブ貝などの貝殻を丸く削った核に、アコヤ貝の細胞の一部を切り取ったピースと呼ばれる小さな細胞をひっつけてアコヤ貝に挿入し、その中で育てるのです。 この雛型は何ともすばらしいと思いませんか。 私たちは天の御国にとっては異物であり、どんなに丸く削ろうが所詮はドブ貝のようなものです。それをアコヤ貝が自分のからだを傷つけ、その体内で時間をかけて何層にもコーティングして、あのすばらしい輝きを産み出すのです。真珠を手に取った人がその美しさに感動するとき、その核になった異物のことを気にすることはありません。また、他の宝石は、原石をカッテイングする加工が必要ですが、真珠は貝の命のいとなみの中として、隠れたところですでに完成されています。良い真珠をさがしている商人、それは主です。真珠は贖われた私たち。良い真珠とは健全な教会です。そして、真珠そのものが産み出されるプロセスの中に、贖いのモデルがあります。すばらしい値打ちの真珠は一つしかありません。それはどの教団、どの先生につながる群れでもなく、イエスのいのちにつながる群れはただひとつしかないからです。イエスはそのひとつの価値ある真珠を産み出すために、ご自分の血で異物である私たちを包まれたのです。
最後に地引き網です。この「地引網のたとえ」は、隠された宝や良い真珠のたとえよりも、「毒麦のたとえ」に似ています。ともに、質の良いものと悪いものが混じっていて、それが後になってより分けられるという筋書きが共通しています。悪い者たちは、「火の燃える炉に投げ込まれ、泣いて歯ぎしりするのです」(マタイ13:42,50)毒麦のたとえの解説と地引き網のたとえが、隠された宝と良い真珠のたとえをはさんでいるのですから、そこにひとつの共通したテーマや流れがあると考えるのは当然であり、さらにそれは、前半の「種まきのたとえ」から始まって「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」という流れの中でそれぞれのたとえの個別の意味とつながりや整合性を見ていくべきなのです。イエスさまはおたずねになっています。「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか」(マタイ13:51)彼らは「はい」と言いました。そこで、イエスのことばです。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉の中から新しいものでも古いものでも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13:52)
弟子たちの中には、この世における学者はひとりもいませんでした。みな「無学な普通の人」でした。それなのになぜイエスは「学者」と言われたのでしょう。彼らはこの世の学者ではなく、御国の学者です。ニコデモはこの世の学者でした。ニコデモは学びましたが、新しく生まれていませんでした。御国の学者は御霊によってみことばを解き明かします。イエスさまもその知恵と不思議な力を、この世の学問によって得たものではありません。日常の普通の営みの中で、信仰によって奥義を見つけられたのです。新しいものとは、古いものの中に隠されていたものだからです。 新しいものとは、目に見えない御国と福音の奥義です。古いものとは、律法と目に見える被造物の世界です。それは、単に自然界だけでなく、経済や法律なども含むすべての人の営みです。たとえというのは、そのふたつの世界を行き来するための鍵なのです。

2008年3月5日水曜日

3月2日 パン種のたとえ (イエスのたとえ話⑥)

    ルカ13:20

「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、3サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」(ルカ13:20)このパン種のたとえは、マタイとルカが記していますが、ともに前回取り上げた「からし種のたとえ」とセットになっています。マルコはからし種のたとえを単独で取り上げています。ルカはこのたとえの本題の前に、イエスさまが語られた重要な前置きのことばを書いています。「神の国は何に比べましょう。」(ルカ13:20)ということばです。この表現は「からし種のたとえ」の前にも見られますが、イエスさまがあえてこの短いたとえにこのような前置きをしておられるのは、「地上における神の国の状況というのは、非常にたとえることが難しいのだ」というニュアンスを伝えておられるのです。このふたつのたとえが、「小さなはじめが大きな終わりになる」というような、単純に信仰や教会の成長を表すものだとしたら、このような前置きは全く不必要に思えます。私たちがたとえ話から読みとるべきことは、私たちが聞きたいことではなく、イエスさまが伝えたかったことであるべきです。
「パン種のたとえ」は決して望ましい成長のたとえではなく、不自然で喜ばしくないことたとえなのです。聖書は一貫して、パン種は退けるべき忌むべきものであるとしています。「あなたがたは7日間種を入れてないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第7日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。」(出エジプト12:15)「あなたがたは、種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたってこの日を守りなさい」(出エジプト12:17)「七日間はあなたたがたの家にパン種があってはならない。誰でもパン種の入ったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。あなたがたは、パン種の入ったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所はどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」(出エジプト12:19~20「あなたがたは主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。」(レビ2:11)「主への火によるささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで食べなさい。これは最も聖なるものであるから」(レビ10:12)種を入れないパンは「悩みのパン」と呼ばれ、それを食べるのは、「急いでエジプトの国を出たから」で、「その日を一生の間覚えているため」と教えられています。(申命記16:3)旧約聖書の中で例外的に一ヵ所だけ、「パン種を入れたパンを焼け」と書かれている箇所がありますが、これはユダヤ人のそむきの罪を主が告発しておられるものです。(アモス4:4~5)このように見てくると、からし種やパン種のたとえを信仰や教会の成長に関する励ましだと受けと止めているのは、皮肉を言われているのに褒められているのだと勘違いして喜んでいるぐらい愚かだということです。勿論、ここまでしつこく書かれているわけですから、よほどの馬鹿でもない限りパン種が良いものだとは思えません。それでもなお「パン種のたとえ」はすばらしい成長のたとえだと主張したい学者たちは、「パン種は多くの場合、悪影響の代名詞のように使われているが、イエスがあえてそれを御国のたとえとして用いられたのは、人々の意表をついて印象づけるためだった」などと言っているのです。ここまで来ると、屁理屈も立派なものです。
福音書に戻りましょう。(マタイ16:1~12)パンの奇跡のあと、ガリラヤ湖を渡って対岸に移動した弟子たちは、パンを持って行くのを忘れてしまいました。そこで、イエスさまが「パリサイ人とサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われたときも、弟子たちは、パリサイ人とサドカイ人との問答のことではなく、パンを忘れて来たことを叱られているのだと勘違いしてしまったのです。イエスさまがおっしゃったのは、パンではなくパン種のことだったのです。パン種とは、「パリサイ人やサドカイ人の教え」のことです。(マタイ16:12)要するに神のことばを人間の言い伝えによって空文にしていること、神をあがめると言いながら、神を神としない態度を否定されたわけです。ちなみに、マルコの福音書では「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」(マルコ8:15)となっています。私はこの表面上の不一致については、どちらかが間違っていると言うのではなく、イエスさまは、不純物が入り込むことについて、しばしばこの「~のパン種」という表現を用いられたのです。そのことを証明する一例は、ルカの福音書に見られます。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです」(ルカ12:1)つまり、パン種の正体は、「人の教え」と「偽善」なのです。イエスさまがはっきりとそうおっしゃっているのであって、別の解釈など出来るはずがありません。パン種をとって粉に入れる「女」とは、もちろん「教会」のことです。  粉の量にも注目してみたいのですが、3サトンと書かれています。1サトンが13リットルですから、3サトンでは39リットルです。かなりの量です。一人の女性が家族のためにパンを焼くとしたら、パン種を入れて膨らまさなくても十分な量の粉があるのです。
パンは人間のいのちを支えるものです。パン種が取り除くべきものであることは少し置いておいて、食の話をします。最近は食の安全を脅かすニュースが連日報道されています。戦後日本の食文化は大きく変質しました。アメリカの余剰穀物を買わされ、パンを多く食べるようになりました。学校給食も未だに半分はパンです。米を食べなくなったので、米を作らなくなりました。米が不作のときにはタイ米などを輸入する事態にまで陥ったわけです。子どもの好きな食べ物は「カレー」「ハンバーグ」「スパゲティ―」です。日本の代表的なお総菜である「しらあえ」「ひじき」「おひたし」などは、給食でも不人気メニューであり、だいたいきちんと作れる母親も少なくなってきました。私たちが何を食べるかというのは、きわめて大事なことなのです。魚も昔ほど食べなくなりました。最近、骨なしの魚はよく売れているそうですが、もちろん骨なしで泳いでいる魚などいません。日本人が手軽に食べられるように、その骨は中国人が低賃金で働いて抜いているのです。肉も輸入が大半で、きちんと調べることもされず、病死牛肉や薬漬けの牛肉が、そのままあるいは加工食品として食卓に上ります。これは「いのち」を、さらに言えば、キリストの雛型である「生け贄としての血」を馬鹿にした報いです。食というのは単なる栄養源ではなく、キリストのいのちによって養われること、またその喜びをともに分かちあうことの象徴なのです。料理には感謝と愛情と手間をかけるべきです。そして、それをともに分かち合い喜ぶべきなのです。
日本は世界でも最高の豊かな食文化を持ちながら、それを捨てようとしています。今回の餃子事件を通して、「国内で簡単につくれるものを、殺虫剤をふりかけてもらうためにわざわざ外国でつくってもらうのはどこかおかしい」と誰もが気づいたはずです。日本人が食を見つめ直すきっかけになってくれたらと思います。仕事の帰りの遅いお父さんや、塾通いの子どもたちは、お母さんが作った手料理をともに分かち合うことが少なく、ひとりぼっちでジャンクフードをかき込むというような食事で、とりあえず飢えを満たすようなもので済ませてしまうことが多いようです。「私のからだはワインで出来ているの」と言った女優がいましたが、いまやコンビニ弁当や冷凍食品でできたからだの若者は多いでしょう。そういうものばかり食べていると、そういう人間になってしまうのです。
「わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べたが死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のための私の肉です」(ヨハネ6:48~51)このことばは、聞いた者たちに大きな混乱をもたらし、弟子たちの多くがつまずきました。(ヨハネ6:60)それほど本質的なメッセージだったのです。なぜ、パンにパン種を入れてはいけないのでしょうか。それは、パンはイエスのみからだを象徴しているからです。パンは一時的な地上のいのちとからだを支えるものです。しかし、まことの食べ物、いのちのパンとは、人のなられたイエスのいのちそのものを自分の中に受け入れることであり、イエスと永遠のいのちを共有します。
パウロもまた、人間の欲望を満たす教えが、キリストの受肉と贖いのみわざを台無しにしてしまうことについて、この「パン種のたとえ」を用いて注意を促しています。「あなたがたの高慢はよくないことです。あなたがたは、ほんのわずかなパン種が、粉の固まり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで祭りをしようではありませんか。」(Ⅰコリント5:6~8)
このように聖書全体から見れば、「パン種のたとえ」は、「からし種のたとえ」とともに、教会あるいはキリスト教が、人間の欲望や価値観と結びついて大きくなることは決して喜ばしいことではないというメッセージを伝えるものであることがおわかりいただけたと思います。キリスト者にとっては、組織や影響力が大きくなることではく、むしろ信仰の「純粋さ」や「真実さ」という質的なものこそ大事なのです。祭りの価値は、規模ではなくその内実です。イエスの臨在のないメガチャーチや大聖会はパン種で膨らんでいるだけです。大事なのは、教団の名や預言者の名にもとではなく、ただ主の御名のもとに集まることです。本当に主の御名のもとに信仰によって集まっているなら、そのただ中にいつも主はおられます。