2008年5月10日土曜日

5月4日 父なる神 (イエスのたとえ話⑪)

 ルカ15:11~32

「放蕩息子のたとえ」と言われるこの箇所は、聖書の中で最も有名な箇所です。おそらく皆さんも、自分で何度もこの箇所を読んだり、メッセージを聞いたりしておられるでしょう。私も何度もこの箇所からメッセージをしています。2006年の5月には、この放蕩息子の部分を、「放蕩息子」「兄息子の放蕩」「祝宴」と、3回に分けてかなり詳細にメッセージしていますが、今回は、ルカ15章の3つのたとえをそれぞれ毎週ひとつずつとりあげて話して来ました。「良い牧者」「失われた銀貨」というタイトルでお話させてもらいました。今日は、「父なる神」という主題で、この3つめのたとえからともに分かち合いましよう。当然、前回のシリーズと重なる部分もあるでのすが、タイトルどおり、「父の側から見た救い」を中心にお話します。
このたとえは、「ある人に息子が二人あった。」という設定で始まります。私たちは何気なく読み過ごすかも知れませんが、少しこだわって立ち止まってみましょう。ここで語られている「ある人」が「父なる神」であるなら、この方には息子はひとりしかおられないはずです。それは、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と言われたイエスだけです。元来私たち人間は「造られたもの」であって、「神のいのちから生まれた」のではありません。息子ではないのです。しかし、このたとえの中では、放蕩息子は「血を分けた実の息子」として描かれていますし、父に不満を持ち、弟を軽蔑している兄にも同様の立場が与えられています。これは驚くべきことではないでしょうか。神は私たちをご自分の子どもとして扱いたいと願っておられることは明らかです。しかし、私たちがどれだけ優れたものとして造られたとしても、その出来映えは、被造物から神の子どもへと格上げさせる条件にはなりません。私たちが神の子どもとされるためには、「贖われること」が必要です。神のひとり子イエスが完成された救いを受け入れ、その名を信じることが必要なのです。(ヨハネ1:12)したがって、本来は贖いを受けることによって、「子どもしての特権」を受けるのですが、このたとえの中では、父の元を離れた弟も、家に残っている兄も、初めから「子ども」として扱われています。この世の財産は、やがて与えられる目に見えない財産の型です。私たちはたとえに出てくる弟息子のように、父に財産を要求してはいませんが、「要求しなくても与えられている現状」を考えるとき、心ある者であれば、この息子たちと自分自身の姿を重ねて聞くことが出来ます。我に返ったとき、弟息子は財産を与えてくれた父の存在を思い出し、今はまだ与えられていない無尽蔵の目に見えない財産を思い起こしました。兄息子は、父が帰って来た弟息子をやさしく迎え入れたときに、「私には子山羊1匹くれなかった」と不平を言っていますが、父は「わたしのものは全部お前のものだ」と答えています。(ルカ15:29~31)父は兄にも同じように身代を分けていたのです。(12)さらに驚くべきは、父の養育態度です。弟が財産の分け前が欲しいと要求したときに、父は言われたとおりに、とがめもせずに与えています。財産の管理や暮らし方についての諸注意を与えるわけでもありません。家庭教育のあり方を考えるなら、父親として子どもが願うままに財産を分けてやるのはいかがなものかと思いますが、みなさんは、このお父さんをどう評価しますか。
当然のことながら、この父親は「天の父なる神」の姿を映しているのですから、父は子どもをただ甘やかすだけの馬鹿親父ではないはずです。父は無力なのではなく、強い主権と計画の中で、息子を黙って旅出させました。これには意味があるのです。父は息子の失敗を予見しつつ、それでもあえて財産を与えて自由にさせたわけです。なぜでしょうか。この「父と子のねじれた関係」こそ、私たち人間の置かれている立場や現状そのものなのです。弟も兄も、すばらしい父の愛を享受できる恵まれた立場にありながら、それを全く味わっていないという共通点があります。兄が行っているのは宗教です。弟はそれを嫌い、自分の欲望に素直になることを選びました。それが自由だとはき違えたのです。それはいずれも正しい選択ではありませんでした。弟も兄も父がどれほど自分たちを愛してくれているのかがわかりませんでしたが、それはやがて父が放蕩した弟を受け入れることによって明らかにされます。父はふたりをどれほど愛しているのかを、時をみてきちんと伝えようとしておられるのです。それは、はじめから計画されていたことです。それは、私たちが「律法」ではなく、「御霊」に導かれるものとなるためです。言い換えれば、道徳や生き方の問題として、何かに縛られて、不安や恐れから神を求めるのではなく、自然に父の人格を味わう者となるということです。兄も弟も父との人格的な交流がないままに育って来たことがわかります。親子の関係でありながら、親子の実質がないのです。それは、造物主と秘造物の関係であって、贖われていないからです。
御霊に導かれる人が、神の子どもなのです。御霊は「子としていただく御霊」であり、相続人なのです。財産の分け前をくださいと訴えなくても、私たちはすべてを相続するようになるのだと聖書は語っています。(ローマ8:14~21)「創造の前に贖いの計画があったことを知ること」は、私たちの信仰をいっそう強くします。(エペソ1:4~14)つまり、息子が放蕩してどうしようもなくなることは、父にとっては初めから想定の範囲内だということです。それに対して兄が反発することもわかっていました。むしろ、創造者と被造物が、力による「支配・被支配」の関係を突き抜けて、親子の「愛の関係」の中に入るためには、祝福をすべて失って窮することも、祝福のただ中で行き詰まることも、必要不可欠な経験だったとも言えるのです。
では、弟息子の放蕩の内容を少し見てみましょう。「幾日もたたぬうちに」という表現からは、父の支配や影響から離れたくて仕方がなかった心情が伺えます。「遠い国」という表現は、父から離れた距離を表しています。息子は、できるだけ父から遠く離れたかったのです。「放蕩して湯水のように財産を使う」という表現は、本来正しく管理するべく委ねられたものを、自分の欲望にまかせて一時的な快楽のために無駄に使ってしまったことを意味しています。与えられたものの価値がわからず、委ねられた仕事が見えないとき、人は短期間で、それらを無駄に費やしてしまいます。そのことによって、預かったものを失うばかりでなく、自分自身を深く傷つけます。そして、彼はついに何もかも失って、食べるものに困りはじめるのですが、それでもまだ彼は父のところに戻ろうとはせず、「ある人」のもとに身を寄せたと書かれています。ところが、その「ある人」は、豚の食べるいなご豆さえ与えてはくれませんでした。豚というのはユダヤ人にとっては汚れた動物であり、その汚れた動物のえさでもいいから口にしたいと思ったのに、それさえ与えてもらえませんでした。言ってみれば惨めさの極限状態を比喩したものです。遠い国で私たちが頼るもうひとりの「ある人」は誰でしょうか。それは、私たちを父から引き離そうとする力の源サタンです。神から独立して成功を収めたい、名を上げたいという欲望はサタンのものです。人間は、神の支配からの独立を目指しますが、それは、神ではなくサタンの欲望に忠実に応答しているだけなのです。しかし、サタンは決して私たちを救ってはくれず、よりいっそう惨めな思いをさせるだけです。サタンは自分の正体を明らかにはせず、あらゆるものに身をやつし、時には御使いにさえ化けて私たちを騙します。わたしたちが人生の窮地にすがりたくなる神以外のもの、イエス以外の御名は、すべてこの「ある人」サタンの化身なのです。それは、偶像と呼ぶべきものです。サタンは自分の運命を知っており、道連れを捜しています。サタンには、神が人間という被造物を贖う計画が我慢ならず、常にこれを妨害しようとしています。サタンはイエスが十字架につくことを妨げようとしました。人間に対しては、兄に対してしむけたように、虚しい心で父に仕えさせて消耗させようとします。また弟に対してしむけたように、神から独立することの自由さ、自分の力で名をあげさせようと挑発するのです。多くの人が、このサタンのわなにはまっています。
この放蕩息子のたとえの中では、羊飼いや銀貨の中では語られていない大きなポイントがあります。それは「罪」ということです。さまよえる羊についても、失われた銀貨についても、羊や銀貨の責任を追求するようなことばはありません。ところが、放蕩息子は、「私は罪を犯した」と言っています。財産を求めたこと、荷物をまとめて出て行ったこと、放蕩したこと、豚の世話をしたこと、何を指して彼は罪を犯したと告白したのでしょうか。皆さんはどう思われますか。答えを出す前にもうひとつ質問します。弟がしたあらゆることをしなかった兄息子は、父に対して罪がないのでしょうか。この3つのたとえは、初めからパリサイ人や律法学者に対して語られているのですから、今お話したふたつめの部分、「兄息子には罪がないと思うか」という問いかけが裏側に隠されているのです。このように考えてくると、罪は息子たちがしたこととは関係がないことがわかります。我に返ったときの弟息子の気づきはどういうものだったでしょう。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしそうだ」(ルカ15:17)罪の中にあるとき、悔い改めと言ってもせいぜいこの程度のことです。放蕩息子も、ボロボロになって戻って来た自分に、父が思いがけない愛情を注いでくれるのを味わう中で、少しずつ自分の本当の罪深さを知っていくことでしょう。罪とは「神に対して背を向けること」です。重要なことは、彼が「向きを変えて」「父を目指して」「帰ってきた」ことです。(イザヤ44:22)
本当の幸せのためには、神の祝福ではなく「神御自身との正常な関係」が必要だということです。それは、自由な交わりです。大切なのは、私たちが少しばかり正しいとか立派だとか言うことではなく、父の憐れみや優しさを深く感じているかどうかということです。それを兄弟たちと分かちあっているかどうかということです。このたとえの中では、帰って来た弟と兄との交わりはありません。誤解を恐れずに言いますが、「正しい信仰」とか「立派な教会」なんてどうでもいいのです。大事なのは純粋ないのちの交わりです。贖いが土台となった、イエスの血によってきよめられた交わりです。
神はみこころのままに、価値のない私たちを無償の愛によって贖ってくださいました。「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」(ルカ15:24)これが、父がここまで喜んで宴会を催す理由だと書いてあります。帰って来ただけの息子には思いがけない歓迎で、なぜここまで父が喜んでいるのかはわからないかも知れません。兄にとっては、さらに不愉快な宴会です。
「多くの招待客が何かと理由をつけて宴会に出席することを拒む」という別のたとえがありますが、贖いの価値がわからなければ、日々の予定の方が大切に感じられるのです。宴会に出席した人の中にも礼服を着て来なかった人がいます。この人は交わりの純度を損なったので、ひどい仕打ちを受けることになります。 「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ1:3)父との正常な関係が、兄弟姉妹との交わりのベースになります。キリストという贖いの礼服なしには参加できないのです。

4月27日 失われた銀貨 (イエスのたとえ話⑩)

 ルカ15:8~10

ルカ15章には、よく知られた3つの美しいたとえがあります。その2つ目が、「失われた銀貨のたとえ」です。3つのたとえの共通するテーマは、「失われていたものが見つかった喜び」ですが、それぞれの違いが立体的に救いの意味と価値について伝えています。このうちどれが欠けても十分ではありません。「銀貨をさがす女のたとえ」は、「羊と羊飼いのたとえ」と「放蕩息の父のたとえ」の影に隠れて、この3つの中では最も地味なたとえに見えますが、この「銀貨をさがす女のたとえ」がなければ、どうしても伝えることの出来ない側面があるのです。それはいったいどのようなことでしょうか。今日は、銀貨のたとえを、前後のたとえとのつながりを考えながら、いろいろな角度から読んでいきたいと思っています。
はじめのたとえの主人公は「羊飼い」です。さいごの放蕩息子のたとえでは「父」です。そして、銀貨のたとえでは「女」です。いずれも自分にとって大切なものを失っているときは、その心には「悲しみ」や「憂い」、そして「痛み」があります。その失った大切なものが見つかってもう一度自分の手元に戻ってくるまで、その感情は絶え間なく続いています。3つのたとえは、それぞれにシチュエーションは違いますが、いずれも「大切なものを失った悲しみ」「それをもう一度取りもどそうとする熱心」「そして価値が回復したことの喜び」という流れで失った側から描かれているということを確認したいと思います。そして、この3つのたとえは、イエスが罪人たちを迎えて食事までいっしょにしていることに対するパリサイ人や律法学者たちの不平に対する答えとして語られたものだということも、押さえておきたいポイントのひとつです。(ルカ15:1~2)パリサイ人や律法学者が、「人間の視点」で、人間どうしを比較して差別しているのに対し、イエスは、これらのたとえをもって「神の視点」から人が失われて無価値になった状態であることを示されたのです。この3つのたとえは、「神が救いというものをどのように見ておられるか」ということの表現です。そして何より重要なことは、「一人の人が救われることによる神の喜びの大きさ」です。(ルカ15:6~7,9~10,32)救われた人の喜びではなく、救う側の神の喜びが表現されているのです。羊飼いも女も父も、その喜びを押さえきれず、みんなと分かち合おうとしています。パリサイ人や律法学者には、自分たちが失われた状態にいることさえわからず、しかめっ面をして、イエスの周りに集まる人たちを蔑視し、そんな自分たちの目から見て卑しいと感じる人々を愛情を持って受け入れるイエスにも腹を立てているのです。まさしく放蕩息子の兄の姿です。人は隣人の幸せにも不幸せにも無関心です。この大げさにも思えるような喜びようの中に、神の愛が表現されています。「愛の反対は無関心である」と言われます。愛そのものであられる神は、私たち一人ひとりに限りない関心をお持ちです。人は神が私たちに関心を持っておられることを忘れています。クリスチャンであっても、それを信じられない人が多いのは残念なことです。神が私たちの価値に比例して関心を深められるのだしたら絶望的かもしれません。しかし、神は私たちが「失われているがゆえ」に、また、「御自身が愛であるがゆえ」に、私たちに関心を持ち、捜し求め、また、待っていてくださるのです。このことを絶対に忘れてはいけません。
今度は、失われた側から考えてみましょう。失われた側から考えてみると、銀貨のたとえの特徴が際立ちます。「銀貨」だけが生きものではないからです。羊飼いから離れた「羊」も、お父さんから離れた「息子」も、追いつめられてとても不安な状況に陥っています。ところが、「銀貨」にはいのちも人格もありません。失われた状態にあったても、銀貨は自分の状態を自覚することは出来ません。銀貨が困ったり、持ち主を求めて、泣いたり叫んだりすることはありません。それは、ただ「客観的に価値を失っている」のです。いざという時には、羊ならメェーと鳴き声をあげたり、放蕩息子なら我に返って土下座したりするでしょうが、銀貨は自分から何も出来ません。また、羊は自分が群れから離れたことに気づき、羊飼いを見失ったことを自覚するまで、自分の置かれている立場や状況の悲惨さに気づきません。放蕩息子も父の財産を完全に使い果たすまでは、それなりに自由な生活を楽しんでいた期間があるのです。しかし、銀貨は女の手元になければ、その価値は失われています。女の手から離れた瞬間から、それは「存在しないのと同じ」なのです。銀貨は「失われて悲しい」とも、「早く持ち主のところへ戻りたい」とも言いません。勿論「見つけてくれて感謝します」と言うはずもないわけです。  つまり、「銀貨のたとえ」においては、必死になって失われた価値を取り戻そうとする「神の熱心だけがただ一方的に描かれている」のです。これは、非常に重要なポイントです。ですから、「失われた羊」や「放蕩する息子」は小説になっても、銀貨の話は小説になりません。自己憐憫による人間の側からの感情移入が出来ないからです。銀貨のたとえは、人の宗教性を閉め出すのです。人の迷いや悲しみではなく、神の愛が与える安らぎ、神の喜びが重要なのです。(ゼパニヤ3:17)神は喜ぶのは当然だと言って喜んでくださるのです。
女は1枚の銀貨を失いました。この銀貨はドラクマであると書かれています。ドラクマはギリシャの通貨で、ローマ通貨のデナリとほぼ同じ価値があります。1ドラクマ=1デナリで、当時の一日の賃銀にほぼ相当します。女はそれを10枚持っていました。一説によれば女が持っていたのは、銀貨10枚を鎖でつなぎ合わせた髪飾りではないかと言われています。当時女性はヴェールを被るときに、銀貨をつなぎ合わせて輪のようにしたものを被って固定していたそうです。また、10枚つないで首にかけていたこともあったそうです、もしそうだとしたら、10枚のうち1枚を失うと、残りの9枚も使えなくなってしまうので、さらにたとえの意味は広がります。1枚1枚の銀貨にも価値がありますが、10枚揃っていることにいっそうの価値があります。女は「教会」を表し、あかりは「聖霊」を表しています。聖霊がみことばのあかりによって闇を照らし、その中で銀貨は見出されます。「あかりをつけ、家をはいて、見つけるまで念入りに捜す」ことによって、価値は取り戻されます。
3つのたとえの中で、羊飼いは「御子イエス」を表し、ふたりの息子のお父さんは「天の父」の雛型ですから、それらを合わせると、救いのみわざは、父子聖霊の三位一体の働きであることが示されているのです。こうして見てくると、なぜたとえが3つ必要なのかがより明らかになりますね。贖いは失われた価値を回復するだけでなく、それ以上の関係性を新しく創造するためのものだと言えます。
なぜこのたとえの中で失われているのが、人格のない銀貨なのかということをもう少し考えてみましょう。お金は、その原材料を考えれば、その額面どおりの価値があるわけではありません。銘や刻印があるから、その通貨を発行する国の権威によって、その価値が保障されているだけです。イエスが「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)と言われたことや、パウロが「私はイエスの焼き印を受けている」(ガラテヤ6:17)と書いていることを考え合わせると、私たちは聖霊によって御国を受け継ぐことの保障を得たのであり、御子の権威において、神に捧げる特権を得ている。天に通用する価値を獲得していると言えます。さらに、地上においても、みこころの実現のためであるなら、必要はすべて満たされるのだと断言できるわけです。今回の学びにおいて、私自身が反省させられたのは、御国の権威において通用する通貨をこの世のレベルで無駄遣いしているのではないかということです。
世の中には貯金通帳を見ていれば幸せだという人も稀におられるようですが、本来、通帳の上の数字やお金そのものには、価値はありません。価値がある別の何かと交換してこそ意味があるのです。それを「どんな価値と交換するか」がポイントです。女はこれから何かを買おうとしていています。銀貨を眺めてニヤニヤするために、10枚そろえたかったわけではありません。10ドラクマの価値があるものは、9ドラクマでは買えません。失った1ドラクマを何と交換出来るかではなく、「すべて」を神の為に用いることが大切なのです。だから、どうしても失われていた1枚を見つけだす必要があったのではないでしょうか。女にとってはその「すべて」という条件を満たすことが大事なのであって、失った1枚がもったいないというのとは少し違うと思うのです。ベタニヤのマリヤは、300デナリの香油を、「つぼを割って」イエスに注いでいます。貧しいやもめは、生活費のすべてであった2枚のレプタを、「両方とも」宮に捧げました。捧げた額ではなく「つぼを割ったこと」「両方とも捧げたこと」が大事なのです。神は私たちがどれだけのものを持っているのかをご存じです。そして、神のものをいかに神に返すのかを見ておられます。このように考えてくると、10分の1献金というのは、純粋な信仰の動機を破壊するくだらない宗教の取り決めだと感じます。手元に残っている10分の9を不自然に容認するからです。
銀貨は単純に私たちの財布を指しているわけではありません。私たちの能力や時間、神様に委ねられているものすべてです。2レプタと300デナリは、その金額として比較するために書かれているのではありませんが、聖書はありのままを記録しています。大事なことはその額面ではなく、ふたりの女にとって、その行為はその状況下で出来る最上のことだったということです。神は私たちからお金を奪って身ぐるみはごうと思ってはおられません。礼拝とは捧げることです。アブラハムはお金ではなくイサクを捧げました。イサクを捧げなさいと言われたからです。礼拝者は常に捧げることを求められています。不妊の女ハンナは、最初は女の意地で「子どもを持ちたい」と主に祈りました。しかし、悩みと嘆きの中で「子どもを授かったなら、その子の一生を主に捧げる」(サムエル1:11)と言っています。不思議です。捧げてしまうのなら、子どもが無いのと同じか、無いより苦しいのではと思うかも知れません。しかし、そうではないのです。アブラハムがイサクを捧げたので、さらにその子ヤコブから12部族が生まれました。ハンナがサムエルを主に明け渡したので、サムエルはダビデに油を注ぐ者となったのです。これが神の方法です。もし、私たちがこれらのプロセスを経ずに、捧げることを経験しないで、無条件に恵みを受けるとすれば、それは意味のわからない祝福を受け続けるどうしようものない金持ちの馬鹿息子のようになってしまうのではないでしょうか。
授かったものを捧げることによって、私たちは互いに新創造の領域の中で関係性を構築するのです。そして、それは私たちの思いを遙かに越えて、何十倍、何百倍の御国における価値へと昇華されていくのです。私たちは、自分にとっての最高、最良のものを神に捧げることによって、それさえも神によって与えられたものであることを喜ぶのです。そして、私たちがそれらを捧げることが出来るのは、さらにすぐれた最高、最良のもの、すなわちひとり子イエスがすでに私たちに与えられたからです。そして、私たちが捧げたものはすべてこの方のよみがえりとともに、何十倍何百倍となって私たちの霊的な祝福として返って来るのです。