2008年6月28日土曜日

6月22日 努力して狭い門から入りなさい (イエスのたとえ話 15 )

ルカ13:22~30

私たちがこれまで学んで来たところによると、「努力」というのは、「信仰」とは相容れないもののように思えます。しかし、主は確かに「努力して狭い門から入りなさい」とおっしゃっています。みなさんはその意味をどのようにお考えでしょうか。信仰者にはどのような努力が求められているのでしょう。「誰でも救われる」はずなのに、「信仰は自分に属する何かは条件とはならない」はずなのに、一体、何をどう努力せよと言うのでしょうか。この「努力して」というのは、まともに受け止めればそれほど私たちを混乱させるみことばだと思います。原語の意味は「強制する」というニュアンスがあります。従ってこのみことばをより正確に訳すと「狭い門から入ることを自分に強制しなさい」というような意味になるのです。
少し話が脱線しますが、私がこのみことばを思い巡らしているとき、忘れかけていたずいぶん昔のちょっとした光景がよみがえってきました。それは、仙台空港で巡業帰りの関取衆に出会ったときのことです。単純な感想ながら、お相撲さんは本当に大きかったです。小兵と言われる力士でさえ、私よりひとまわりもふたまわりも大きいのです。私は武蔵丸や小錦が果たして金属探知機を通れるのかどうかが気になりました。結果から言うと、小錦と武蔵丸も金属探知機を通ることが出来ました。ふたりは何とからだを横にして通過したのです。一般のサイズの人のように、前を向いては無理でした。横ならお腹をすりながらですが、何とか通れます。つまり、小錦や武蔵丸をお腹で輪切りにした場合、横よりも縦のほうが若干短いってことです。まさに狭い門を「努力して」通っていたわけです。くだらないことかも知れませんが、「何も持たない状態で自分のサイズにギリギリの狭さの門をひとりで通る」ということを具体的にイメージしてもらいたいのです。私たちが信じたとき、救われた瞬間には、確かに何かをおろして、具体的にある門を越えたのです。そこで何がおこっていたのかを、こうしてみことばから学んでいるわけです。私は何を越えて、そして今どこにいるのか、そのことが見えていない人は、クリスチャンとしてのその後の道を歩むことはできません。
「狭き門」は誰かと一緒には入れません。ひとりであっても、あれこれ持ったままでは通れません。「持っているものをすべておろす必要」があります。一定以上の能力や財産を持つことが条件であれば、救いはすべての人には開かれているとは言えません。どんなに低い基準であってもそこからもれ落ちる人たちがいるでしょう。しかし、今持っているものを全部捨てることであれば、その気になれば誰にでも出来ます。1万タラント持っている人も、300デナリ持っている人も、2レプタ持っている人もすべてを捨てることは可能です。つまり、全ての人に対して開かれている救いを少数に人しか受けていないという現状は、「誰にでも出来るけれど、特別そうしたいわけではない」という人の心を反映しているわけです。それが、門の前の有様だと言えます。「努力して狭い門から入りなさい」ということばは、イエスとその一行がエルサレムに向かう旅の途上で、ある人がたずねた質問に対する答えです。語られた背景を考えれば何らかの理解の助けになるはずです。その質問の内容はこうです。「主よ。救われる者は少ないのですか。」 イスラエルの人々は「メシアがやって来さえすればイスラエルはみな救われる」と信じていました。ところが、イエスが無条件の救いを説いているにも関わらず、その救いを受けたと見える人たちがほとんどいない。時折病人を癒したりするだけで、目に見えるローマからの解放を行うわけでもなく、周囲を取り巻いているのは、無学な庶民やはぐれ者ばかり、宗教指導者やインテリ層からは認められていません。イエスの言動は、一般にはまったく不可解に映ったことでしょう。イエスの実際は、期待されていたメシア像とは全く違っていました。バプテスマのヨハネさえ、この方の言動や自分に対する処遇から、「本当に自分が紹介するべきキリストはこのイエスでよかったのだろうか」と混乱してしまったほどです。(マタイ11:2~5)しかし、イエスの言動はすべて約束されていたみことばの通りでした。イエスは獄中のヨハネを直接励ますことなく、そんなみことばのひとつを示しています。「御自身がみことばの成就である」と語られたわけです。どれもこれも不思議なことです。「主よ。救われる者は少ないのですか。」というある人が質問した裏には、その人のどんな思いがあったのでしょう。私たちも似たような感覚を持ったことがあるのではないでしょうか。「これほどすばらしい救いをどうして受け入れない人が多いのだろうか。また、なぜ自分は、真面目なあの人や親切なこの人よりも先に救いを受けたのだろうか」と不思議に思ったことはありませんか。あるいは、それとは正反対のこういう意味があったのかも知れません。「救い受けるのは少数精鋭の者ということでしょうか。それにしても、あなたの弟子達はどうもそれほどのえり抜きには見えませんし、あなたのおっしゃっている救いっていうのは、本当に大丈夫なんですか?」と。いずれにしても、ある人がイエスのことばに耳を傾け受け入れる人が少数であること、つまり、伝道が十分な成果をもたらしているように思えない現状に疑問を持ち、それをイエス御本人にたずねた可能性もあります。
この問いを発したある人は、いったい救いというものをどのようにとらえていたと思われますか。また、この人は救われていた人でしょうか。それとも救われていない人でしょうか。それは書かれていないのでわかりませんが、その文字通りの質問に対して、主はきちんと答えてくださったのです。「努力して狭い門から入りなさい」と。 ひるがえって私たちは、「救い」というものを、どのようにとらえているでしょうか。ただ「救われているか・いないか」という単純な○×ゲームのような感覚で「救い」をとらえてはいないでしょうか。これは笑い事ではなく、多くのクリスチャンの感覚としてありうることです。「救われているか・いないか」というのは、非常に重要ではあるけれども、慎重でなければならない線引きです。「世の終わりに羊と山羊をより分けるたとえ」(マタイ25:31~33)のような記事を表面的に読めば、どこかマンガ的なイメージで羊さんチームに入っていれないいというような思いを持ってしまうかもわかりませんが、「救い」というのは、それほど単純なものではありません。宗教としてのキリスト教の世界には「日曜学校で覚えた正解を諳んじれば合格シール」というようなお子様ランチ的2世牧師だっていっぱいいるでしょう。多くの教会では、一定の告白をして洗礼を受けたら「救われた」ということになり、未信者とかノンクリスチャンという名前でくくられる人々に対する伝道要員とされたりします。逆に質問ですが、「告白した人」「洗礼を受けた人」は本当に救われたのでしょうか。誰がそれを認め、評価するのでしょうか。残念ながら、この記事の後半には、「あなたは救われました」と認める立場の人も含めて、門前払いを食らう場面が出て来ます。彼らが地上で捧げた賛美や奉仕、涙を流して祈った祈りは一体何だったのでしょうか。彼らが門をたたいても開けてもらえない場面は、何とも残酷な喜劇です。告白が死を意味する場合は、告白はすべてを捨てることと同義語です。しかし、自分が口にしていることばの意味も価値もわからないようなレベルの人の口約束をとうてい信仰告白と見なすことは出来ません。「主を告白すれば誰でも救われる」と書かれているので、どんなに救われているように見えなくても、一応告白している人の信仰を認めなければならないんだと思い込んではいませんか。しかし、「主よ、主よ」とやかましく言っている連中の多くが、門前で拒まれているのを見れば、先走ってさばいてはいけない。だから、おかしなクリスチャンもどきも兄弟姉妹なんだと見なすことは間違いであり、不可能であることがわかります。本当に救われるのはまことのイスラエル、つまり「信仰のある人」です。アブラハムの子孫という意味も、単に血統を表すのではなく、「アブラハムと同じ信仰を受け継ぐ者」を意味しています。誰もがイエスを長子とした兄弟姉妹に加わる可能性を持っていますが、「父のみこころを行う者が兄弟姉妹だと」イエスを言われました。イエスの肉親や兄弟姉妹でさえ、無条件に神の家族というわけではないのです。それほど神が求める「信仰」という基準は厳密であり厳格なものだと言うことです。そんな信仰を人間の側で準備できるわけがないのです。主の憐れみにすがる他ありません。
「しんがりの者が先頭になる」(ルカ13:30)と書かれているように、拒まれる人たちは、主の憐れみにすがるどころか、その場に及んでも自己主張をします。彼らには「自分たちは先頭をきって努力してきた」という自負があるようです。ですから、「私たちをおいて誰が先に天に入るのですか」と言わんばかりに、「私はあれをした、これをした」と主張するのです。「あなたを知らない」と言われる主は冷たい御方なのでしょうか。違います。彼らの心が人の子イエスに対して冷え切っていた結果です。「誰も相手にしてくれる人がいません、さびしくて教会に来ました。みんな優しくしてくれます。もうさびしくありません。救われました。」「仕事がなくて食べる物もありません。教会へ来たらただでごはんが食べられます。おなかもいっぱいになりました。救われました。」「悩みを聞いてもらえました。救われました。」「薬やギャンブルをやめました。救われました。」「ゴスペルを歌いました。ストレス解消です。」「英語を覚えました。異文化を学び世界が広がりました。」おめでとう。それで終わりです。彼らは求めていたものを得たので満ち足りたのです。そして、極めつけはこれです。「私はこの世ではパッとしませんでしたが、キリスト教会で見事花を咲かせることが出来ました。」はい、良かったですね。
門は閉ざされれば開くことはありません。このとき、3つのことを思い出してください。まず一つめは過ぎ越しです。門柱とかもいには小羊の血が塗られていました。実はその血が門の本質です。次にノアの箱舟です。みことばに従って黙々と箱舟を造り続ける生涯、それがノアの証でした。そこに派手な宗教的パフォーマンスはありましたか。救われたのはたった8人です。ノアの伝道は失敗だったのでしょうか。いわゆるキリスト教がさかんに言うところのリバイバルはおこりましたか。箱舟のとびらをしめたのは主です。ノアが見限ったのではありません。そして、最後は黙示録のラオデキヤの教会に訪れる主の姿です。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるならわたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:20)特にこの3つ目のイメージが重要です。前回「求めること」「さがすこと」「たたくこと」が条件であると言いました。それは間違いではありません。しかし、私たちが求める前に、私たちを求め、さがし、私たちの頑なな心のとびらをたたいてくださったのはイエスです。子どもが欲しいと言う前に必要なものを準備するのが親の愛です。救いというのは、「死からいのちに移ること」(ヨハネ5:24)(Ⅰヨハネ3:14)です。門の向こうとこちらでは全然違うのです。門の向こう側の世界へ、救われるまでの価値観を持ち込んで発言するのは、「門を越えていない」からです。この死からいのちに移っている。「善悪」ではなく、「キリストのよみがえりのいのち」によって生きるということが、律法からの解放にもつながります。幕屋や神殿の雛型を考えれば、その死からいのちに移るときに、イエスという肉体の垂れ幕を通ります。これが、門に当たるわけです。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10:20)この霊的な事実を象徴する出来事として、イエスが息をひきとられるその瞬間に神殿の幕がまっぷたつに裂けたのです。(マタイ27:51)   「死からいのちに移る」という表現や、「ご自分の肉体の垂幕」という表現だけでは、水平な移動のイメージがあります。これほどすばらしいみことばであっても、神の恵みの賜物を表しきるにはまだ十分ではありません。私たちは「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえられされ、ともに天のところに住まわされた」のです。(エペソ2:6)このみことばは非常に重要です。私たちは、門を越えたとき、死からいのちに移ること、イエスの肉体という垂れ幕を通ることは、天に座すことと同じです。それは、水平面での大移動であるとともに垂直面での大移動です。まさに時空を越えた奇跡が私たちのいのちの奥深くの存在の核の部分で起こったわけです。それは、永遠のいのちの種が宿った瞬間であり、私たちがキリストのからだの一部として加えられた瞬間なのです。この奥義が私たちの中に開かれれば、どこそこの教会に属しているとか、誰々先生のメッセージを聞くとか、そんなことはほとんど何の意味も価値もないことがわかります。

6月15日 狭き門 (イエスのたとえ話 14 )

マタイ7:13~14 ルカ13:22~30

 入試や就職のシーズンになると、「狭き門」ということばをよく耳にします。文学好きの方はアンドレ・ジッドの小説のタイトルとして思い出されるかもしれませんね。ジッドは、男女のプラトニックな恋愛をカトリックとプロテスタントの確執と絡めて描いています、残念ながら、他の彼の作品と同じで、内容は聖書的なものではありません。ジッドもキリスト教被害者のひとりです。彼の文学は、幼い頃から体に染みついた宗教の欺瞞や窮屈さから解放されるための葛藤の足跡でもありました。こういう人は世界中にたくさんいます。彼らのようなタイプの物書きは、細くて険しい道を求道したように見えますが、広い門をますます広くすることに貢献しただけです。彼らの文学が高く評価されることで、結果として救いの門はますます狭くなっていくわけです。では、本題に入っていきましょう。
 
「狭い門」とはもちろんイエスのことです。別のたとえの中でイエス御自身が「わたしは門です」(ヨハネ10:9)と言っておられるとおりです。しかも、門から入るのは、私たちである前に羊の牧者なのです。(ヨハネ10:2~3)牧者に呼び出され、声をきいた羊だけがついていきます。牧者はイエスです。(ヨハネ10:14)
 では、なぜその門は「狭い」のでしょうか。天の御国には人数制限があるのでしょうか。難しい試験があるのでしょうか。入試や就職の場合は、応募人数に対して合格や採用が少ないことを「狭き門」と表現しているようです。やっぱり文語表現の方が響きがいいですね。この世の試験の場合は、「能力」でふるいわけられます。要求される能力のない者が資格を得ることはできません。それは、不公平や差別ではなく、当然のことです。人体の仕組みを知らない人にメスを握ってもらっては困るし、法律に無知な人間が犯罪人を弁護したり、判決を言い渡したりすることはできません。つまり、試験による選別は、世の中の信頼性や安全性を保障している部分はあるわけです。残念ながら、能力とモラルの高さは必ずしも比例するわけではないので、医者や弁護士にも腹黒い人々は数多くいるでしょう。しかし、モラルが高くても、能力が低ければ仕事にはなりません。社会的に責任の思い仕事は、それに見合う報酬を得るのも当然のことです。
しかしながら、「狭き門」を突破して地位を得た人たちは傲慢になりがちです。公務員試験の最難関である上級試験をクリアしてきた高級官僚諸君は、そのポストの旨みである、庶民の常識では考えられない既得権を行使することを当然のこととしています。最近話題の「居酒屋タクシー」なんぞの実態も氷山の一角です。こういうことは、今に始まったことではなく、また日本に限ったことではなく、「いつの時代、どこの世界にでも必ずあること」です。
それにしても、居酒屋タクシーは笑っちゃいます。タクシーの運転手さんも大変です。運転手さんも役人たちは金になるいいお客さんだから競い合って乗せてますが、接待しながら、心の中では「馬鹿だな、コイツら」と思ってるでしょうね。
では役人たちから運転手の姿はどんなふうに見えるのでしょう。役人たちは「上級な試験をパスした自分は上級な人間だ」と思い込んでいるのです。タクシーの運転手などはそんな自分と比べれば遙かにレベルの低い人たちなので、完全に見下しているわけです。
私に言わせれば、こういう役人こそ「若い頃時間を浪費して記憶や連想ゲームに勝っただけの人」で、「失ったお楽しみの時間を、おっさんになってからタクシーの中のビールやおつまみで埋め合わせているかわいそうな人」なのですが、本人にはあまりそういう意識はありません。タクシーの運転手がプライベートの移動でタクシーを利用することはあまりないでしょう。ビールやつまみが欲しければ、売店で買って電車に乗っての移動です。  
役人のタクシー運転手に対するまなざしは、福音書の中では、パリサイ人や律法学者が取税人や罪人たちに向けたそれと重ねることができるでしょう。このように、いつの時代どこの国でも人間の本質というのは同じです。後の者は先になり、先の者は後になる。こういうこともしばしばおこるのだと聖書は語っています。タクシー運転手の多くは役人より先に狭き門を通るのでしょう。

しかし、人間が神から離れて自力で作り上げてきた世界では、なかなか目に見える大逆転は起こりません。力の強いものが弱い者を支配します。神なき世界では「能力による生き残りをかけたサバイバル」にならざるを得ないのです。
ですから、学問の分野でも、人類は自分たちの住んでいる世界に同じような説明のつけ方をします。歴史を振り返っても、自然界を見渡しても、「発展的史観」と「進化論」がベースになっています。「発展的史観」とは、原始社会から、古代、中世、近代、現代へと社会のシステムは成熟していくという見方です。また、「進化論」とは、生物は下等なものから高等なものへと進化してゆき、環境に適合できるものが生き残っていくというものです。
しかし、聖書の記述は全く違います。歴史は「神の園エデンからの追放」で始まっています。すべての生きものははじめから「種類に従って」作られており、高等な生物に進化することなど絶対ありません。これは、「観」とか「論」ではないのです。みことばです。みことばは納得するべきものではなく、信ずるべきものです。
私にも、聖書的な「観」や「論」が弱いからダメなんだと思っていた時期があります。例えば「創造論」で「進化論」を喝破してそれから福音だというように。キリストを弁護しようと必死だったわけですが、うまくはいきませんでした。この間にいろいろ考えたり苦しんだりしたことは多少役には立っていますが、霊的な収穫はゼロです。私はキリストに弁護していただく者でありながら、キリストを弁護しようとしていたのですから、うまくいくはずがないわけです。
天の御国が「能力至上主義」なら、創造された段階ですでに救われる見込みのない人がいるでしょう。しかし、天の御国は、すべての人に対して開かれているはずです。「神にはえこひいきはなく、神はすべての人が救いに至ることを望んでいる」と書かれているからです。私はこれらのみことばを単純に信じています。なぜそれが信じるに足るのかを示すことは出来ません。ただこう思っています。この世がこの世だけで完結してしまうならば、そこには平等も正義もないと。そんなありもしない価値を追求するのは愚かです。ある人は「平等や正義が見あたらないから神も救いもない」と言います。「天国など無意味だ」「好きにやればいい」と。でも、私はそうは思いません。死とその後の復活の世界があるからこそ、平等や正義を信じることにも意味があります。この目に見える世界の不条理や矛盾を人の子イエスが十字架に負われたことが、私にとっては唯一の希望のしるしです。

私は「選びの教理」について神学的なことを論じようとは思いません。誰もが理解できるこれらの単純なみことばが説明している範囲がすべてだと思っています。それ以上のことはわかるはずもないのです。私たちは誰かの代わりに信じることも、誰かの代わりに拒むこともできせん。救いというのは極めて個人的なものです。あなたにとって、私にとって、「人の子イエスは神の子キリストであるかどうか」ということに尽きるのです。
救いの門は、その人の能力に関係なく、すべての人を対象に開かれていることは間違いありません。その人が神の定めた信仰の基準をクリアさえしていれば、「誰であれ無条件に」この神の赦しを受けるでしょう。募集人員何人とか、競争率何倍とか言うように、枠が決められていて、点数の高い人から順番に選抜されるわけではないのです。

しかし、「誰であれOK」の無条件であれば「広い門」のはずですが、やはり「狭い門」なのです。それはなぜでしょうか。私には、「見かけ上の狭さ」と「結果として狭さ」のふたつの意味があるように思えます。
「見かけ上の狭さ」は神の意思であり、その責任は神にあります。「結果として狭さ」は人の意思であり、その責任は人にあります。見かけ上の狭さとは、「人の慕うような見ばえ」や「世間の保障」がないことです。(イザヤ53:1~3)人の慕うような見ばえの華やかさや、世間の高い評価があれば、人はその真贋を見極めようとはせず、その実質を見ることなく、迷わずそれに飛びつきます。ですから、神は必要最低限の実質を残して、それ以外のすべての価値を放棄されました。それゆえ、キリストに付随するものは、ダサくて、格好悪くて、恥知らずで、最低なのです。これが、絶対的価値をあえて、相対化された救いの門の「見かけ上の狭さ」です。その貧しい門を見る限り、その奥にすばらしい世界が広がっているとは思えないほどのみすぼらしさだということです。その門を選ぶこと、それを選んで中に入って行くことにはかなりの勇気が必要です。イエスは問います。「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」(マタイ16:15)答えはキリストに決まっているわけですが、同時代に生きる人には、ナザレの大工は神が遣わされたキリストに思えないわけです。真実の救いの門イエス・キリストの狭さの本質とは何ですか。それはこの御方が限りなく「人」であることです。そして、「無力」だということです。この人としてのイエスの無力さをかき消すようなことば、特別な力やこの世の成功を語る宣伝は嘘です。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というタケシのネタは、「間違ったことでも、全員がそろって間違えば価値を逆転できる」というこの世の真理を言い当てていますが、救いの門はみすぼらしい上にひとりずつしか通れない門なのです。誰かと横並びでは進むことも、退くことも出来ません。
門を通ってきた人たちが、門を越えた向こう側で集まり交わるのはよいことですが、門の手前で群れを作って、みんなで通るための広くて華やかな門を人工的に作ろうとする営みは馬鹿げています。「結果としての狭さ」とは、「人はその門のみすぼらしさのゆえに門の存在に気づかない」あるいは「気づいても引き返す」そうでなければ「別の門を作る」ことによって、入れるのに入れない人が出てくるということです。門の周辺でうろうろしながら門を通っていないので、それが閉じられてから、「入れてくれ」と叩くというようなことが起こるわけです。

「狭き門のくだり」を、山上の垂訓の流れの中でもう少し読み深めてみましょう。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)とあります。つまり、「求めること」「捜すこと」「たたくこと」必要なものを得るための条件です。条件はそれだけです。「だれであれ」(マタイ7:8)だいじょうぶなのです。
なぜでしょうか。神は人を、父が子を思うように憐れみ、最上のもの与える備えがあるからだと言うのです。(マタイ7:9~11)お金も特別な能力も要りません。しかし、本気で「求めること」「捜すこと」「たたくこと」が必要です。大事なのは、「私たちを満たす本物」に対する渇きです。罪人や取税人たちの多くが、パリサイ人や律法学者より先に、狭い門を通れたのは、彼らは求め、捜し、たたいたからです。そして、彼らは孤独でした。派閥や権威に守られて孤独や不安を解消している人は「キリストは不要です」と宣言しているのです。上級公務員や、○○党、××派などという派閥、牧師センセイなどの権威の鎧を着て、なかまを増やすと、それこそ「狭き門」は通れないし、個人の常識で判断できることさえわからなくなるほど、恥知らずなまでに感覚が麻痺してしまうのです。
にせ者はたくさん存在するし、最後には自分がにせ者である自覚のない人たちが、門前で追い返される記事を目にします。(マタイ7:15~23)(ルカ13:25~27)
救いの「狭き門」は、この世の価値を逆転させます。なぜなら、「救いは人がただ救われるために備えられてはいない」からです。「狭き門」は救いとは何であるかという本質を示し、絶えず私たちの信仰に問いかけています。私たちが自分の人生の問題を解決し、幸せへの通過点としてパスしようとしているなら、跳ね返されます。「狭き門」の本質は「死の門」であるということです。この門を通過するときに、父なる神が、イエスの十字架の死の中に、イエスと私のいのちと本質を同一視してくださるのです。だからこそ、門の向こう側、つまり蘇りの世界で与えられるものに意味があるのです。 

2008年6月5日木曜日

5月18日 家と神殿 (イエスのたとえ話 ⑬)

ヨハネ2:13~21

今日ともに分かち合うところは、いわゆる「たとえ話」ではありませんが、このシリーズのはじめにお話したように、私がみなさんにお伝えしたいことは、単にたとえ話の解釈や適用でありません。みなさん一人ひとりが、私たちが経験しているこの世の出来事を、ひとつの大きなたとえや疑似体験、つまり霊的な実体の「型」としてとらえるという視点を持つことの重要性についてです。下から上を見上げるのではなく、上から下を見下ろすような感覚を持っていただきたいのです。私たちをとりまく状況や私たち自身は、信じても何一つ変化していないように感じるかもしれませんが、「私たちはすでにキリストとともによみがえり天に座しているのだ」という事実を出発点にするのです。そうした視点から、日常の生活の中で私たちが遭遇する様々な出来事とみことばを具体的にリンクさせることによって、霊的な祝福を実体化することができます。気がつけば、目に見える状況も私たち自身もよみがえりの力によって変えられています。それは、自分で「変わろう」「変わらなきゃ」と思ってもかなわなかったことですが、神がそうしてくださるのです。つまり、「目に見えないみことばの現実」を見つめる信仰を通して、「目に見える経験の現実」を評価することがどうしても必要です。だからこそ、「たとえ」の正しい理解が求められるのです。「たとえ」がこのふたつの世界をつなぎ解き明かすからです。前回は「家と土台」について分かち合いましたので、関連するテーマでお話してみたいと思っています。今日は「家と神殿」という主題です。「家」も「神殿」も、イエス御自身と私たちのからだを指している重要な型ですが、それぞれの表現には異なる意味合いがあります。今日のメインテキストは「宮きよめ」と言われている箇所です。およそ3年間にわたるイエスの公生涯の中で2度の宮きよめがあったことはご承知だと思いますが、それは、公生涯に出られた間もない頃と、十字架に架かられる直前の頃の2回です。ヨハネは前半の出来事について書き、マタイ、マルコ、ルカは後半の出来事について書いています。
「わたしの父の家を商売の家としてはいけない。」(ヨハネ2:16)とイエスは言われました。イエスは宮にいる牛や羊や鳩を売る者たちや、両替人を蹴散らして怒りを露わにされました。それは病人を癒し、幼子を胸に抱くやさしい御方とはまるで別人のような形相だったに違いありません。罪深い女や取税人が心を開いて近づけるほど心の広い御方のイメージとはかけ離れた行動のようにも思えます。何がイエスをそれほど怒らせ、通常の感覚からすれば、極端に思えるような激しい行動へと導いたのでしょうか。一般常識から見れば、イエスの行動は常軌を逸したもので、営業妨害、器物損壊にあたります。やられる側からすれば相当な迷惑です。今日の近代民主国家であれば、誰であれ、他人に対してこのようなことをする権利は持ってはいません。当時のエルサレムにおいても、ローマ皇帝でも軍でもないのに、同じユダヤ人どうしでいきなりこのような破壊行為に及んだわけですから、やられた者たちは、イエスに対して「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのか」と問うのは、ある意味正当で冷静な反応です。牛や羊や鳩が宮で売られていたのは、生贄にするためです。生贄には、律法の規定に従って最良のものを捧げなければありませんでした。しかし、実際には病気のものや不完全なものが堂々と捧げられていたようです。生贄ということは、すぐに殺してしまうのです。だから、家畜としては価値の低いものを捧げたのです。旧約の最後の預言者マラキの書を読めば、当時の形骸化された礼拝の様子がよくわかりますし、それは、時代を超えてすべての人が何を悔い改めるべきかという罪の本質が指摘されているように思えます。(マラキ1:6~14)両替人たちのやっていたことは、汚れたローマ帝国通貨をユダヤ通貨に両替することです。表向きは礼拝のためですが、その実はお金儲けです。上手に商売をしてお金を儲けることそれ自体は、決して卑しいことでも犯罪でもありません。「不正な管理人のたとえ」では、その抜け目ないやり方は賞賛を受けているほどです。問題は、私腹を肥やす目的が第一でありながら、「神をあがめるふり」をしていることです。
自己実現や生き甲斐のためにキリスト教を利用している人々は、キリストの名を借りて自己主張しているだけです。こういう人々は、直接お金儲けをしていなくても、もっと薄汚い取引をやっているわけです。牛や羊や鳩を売る者たちは、見た目は礼拝者が生贄を捧げるためにそこにいます。両替人についても、彼らがやっていることは「両替」ですから、純粋な泥棒や詐欺ではありません。いずれも「礼拝」のためだと看板を掲げながら、「利ざや」を抜いていたわけです。そこが問題なのです。神殿に礼拝に来る人たちは、かたちだけの生贄や献金を捧げたのです。彼らに「利ざや」を抜かれ、特に「両替」という手続きを踏むことによって、日常とは切り離された礼拝のモードに入れたわけです。家という表現は、「日常性」や「親しさ」を表します。神殿という表現は、「神聖さ」と「特別な尊厳」を表します。言わば、この両替という手続きが、「家」から「神殿」のモードに切り替えるスイッチの働きをするわけです。愚かな指導者は、みことばを使いながら自分の権威を主張したり、自分を潤すための献金を強要したりします。自分に従うことはキリストに従うことだと、本質をすり替えるのです。キリストの贖いを着るのではなく、特別な衣装を身につけます。特別なことばを使い、飾られた祭壇から、特別な権威をもって、みことばを組織ぐるみで粉飾して語るのです。こういうものにイエスは怒りを燃やされるのです。イエスははじめの宮きよめのときには「商売の家としてはならない」とおっしゃっていますが、後の方では「強盗の巣にした」と表現を変えておられます。それは、彼らが警告を無視したことによってさらに堕落しているという指摘です。牛や羊や鳩を売る者と両替人だけでなく、それを認めて利用する人たちにも責任はあります。勿論レベルは違いますが同質の罪です。その商売を繁盛させることで偽りに加担しているからです。その手続きによって神への義理を果たしているような感覚になり、薄っぺらな宗教心を満足させるわけです。不完全な生贄を売る者も買う者も、「家」を大事にして「神殿」を軽んじているわけです。「家」のために良いものを残し、「神殿」に関するものは、かたちだけでよいと横着さがあるわけです。両替によって「利ざや」を抜かれても、その何だかわりきれない不当な算術を受け入れることこそが信仰だなどと思っているわけです。両替が、「家」から「神殿」に関することへ切り替えになっているわけです。まさに、宗教を組織化し儲ける連中と、それを利用して安っぽい安心を買おうとする人たちのあさましさが見事に描かれています。イエスは、目の前の商売人に対してだけでなく、神の神殿に関わる人たちのこのような現実のすべてに怒っておられるわけです。このとき、商売人たちは、イエスの怒りに触れて、自らを恥じ悔い改めた様子はありません。イエスの行動に対してとまどい、目に見える被害に腹を立てただけです。彼らの目にはイエスの言動はただ怒りの感情にまかせた暴挙でした。ところが、弟子たちはそれを見て、ひとつのみことばを思い起こします。それは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」ということばです。弟子たちの心に焼き付いたのは、目に見える怒りの激しさや荒々しさではなく、むしろその動機の聖さと熱意だったのです。神のまなざしは、もっぱら神の家にむけられています。この家には神の御名という表札がかかっており、神の民はその管理を任されているにすぎません。主人は帰って来てご自分の家に関するさばきをなされ、最終的に責任をとられるわけです。つまり、これは、この当時のユダヤ教の実態である以上に、今日のキリスト教の姿なのです。まあ、本質的にはそういうことなのですが、罪のただ中にいる人たちにとっては、いささかレベルが高すぎるやりとりであって、このときもメッセージは届きませんでした。今日はどうでしょうか。
イエスは、ユダヤ人たちの「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるし見せてくれるのですか」という問いに対し、「この神殿をこわしてみなさい。わたしはそれを三日で建てよう」(ヨハネ2:!8~19)とお答えになっていますが、これは人を食ったような答えで、一般的には答えになっていません。彼らは、まさかそれがイエス御自身のからだを指しているなどとは思いもしませんでしたし、イエスのからだのことだとわかったとしても、「こわしてみなさい」とか「3日で建てる」とか全く意味不明です。弟子たちにもわかりませんでした。わかるはずがありません。イエスも、この段階で「ああそういうことか」と意味を理解する者がひとりでもいると期待されたわけではありません。弟子たちがこのことばの本当の意味を理解でき、信じることが出来たのは、ヨハネが書いているようにイエスが復活されてからです。(ヨハネ2:22)ですから、イエスが神殿のことを言われても、聞いていた者は誰しもが目に見える神殿のことだと思いました。だから、「この神殿は建てるのに46年もかかったのにどうやって3日で建てるのか」と、トンチンカンな話になったのです。それは当たり前なのです。ポイントは、イエスがなぜみなが理解できないとわかりきっていることをあえて語られたのかということです。イエスは彼らを彼らの常識のレベルで黙らせてしまう別のことばを語ることが出来たはずです。たとえば、姦淫の現場で女に石を投げようとしている人たちに「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と言われたように。私はこう思います。それは弟子たちが復活後にこの出来事を思い出すためです。そして、私たちがこの記事を読んで、神の家とは何か、神殿で何を捧げるべきかを、正しく悟るためです。当時のユダヤ教のためでなく、まことの「家」であり「神殿」であるキリストの教会のためです。「この神殿をこわしてみなさい。わたしはそれを三日で建てよう」というイエスのことばは、平たく言い換えれば、「あなた方がわたしを十字架に架けてみなさい。3日後によみがえるから」ということです。「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白したペテロでさえ、「エルサレムへ行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」というよりわかりやすく控えめな説明でさえ、意味がわかってもあり得ないと思えたのです。商売人にわかるわけがないし、意味がわかればいっそう受け入れられません。しかし、この記事にもしこのことばがなければ、最良の生贄をささげ、正しいレートで両替すれば良いのだという話になってしまうでしょう。このときは、意味不明のことば、しかし、イエスが実際に十字架で死に、3日目によみがえられたことによって、確かになったこのキリストの贖いという土台にこそ、永遠の神の家、神の神殿は建つのです。その十字架の前と後の違いははっきりしています。(ヘブル3:1~6)モーセはしもべとして神の家全体のために忠実でしたが、それは、ご自分を立てて方に対して忠実であったイエスに注目させるためであり、この方が治める家こそ、まことの神の家です。旧約の時代に会見の天幕や神殿に入って、わが家にいるような安心感や交わりの親しさを感じた者は誰もいません。むしろ、そこでは自分の罪や愚かさを深く意識させられたはずです。十字架の贖いが土台で、自分の何かによらずに近づけるからこそ、そこに本当の安息があるのです。それ以外の手続き、すなわち、妙な生贄や両替制度を持ち込むのは許されぬことです。
さて、「家」と「神殿」ということばの違いについてもう少しだけ述べたいと思います。家は「日常性」や「親しさ」を表し、神殿は「神聖さ」と「特別な尊厳」を表すと申しましたが、それは私なりの表現です。みなさんなりにその表現が妥当かどうか吟味して、イメージをふくらませてください。全ては語りきれませんので、いくつかのヒントを差し上げます。イエスは12歳のときに宮詣をされましたが、家族が帰るときにはともにおられませんでした。ルカの筆によればこうです。少年イエスは、「いつ」「どこで」見つかりましたか。いつ?「3日後」です。どこで?「宮の真ん中」です。そして、イエスは両親に何とお答えになりましたか?「わたしは必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか」このことばから、イエスが自分の家を神殿の真ん中ととらえ、親たちが年中行事である礼拝を終えて、文字通り「神殿」から「家」へ帰ろうとしていたと全く違う感覚を持っておられたことがわかります。母はよく理解できなかったけれど、心に留めました。そして、この経験が十字架でわが子を失うマリヤを支えるのです。十字架の上に建つ「家」と「神殿」はひとつであるべきです。しかし、たとえの理解が不十分であれば、家と神殿は離れていきます。たとえば、聖餐式も食事の交わりから分離することによって形骸化したり、混同することで、霊的価値を失ったりします。(Ⅰコリント11:22)いつのときも、正しさのキーワードは「わたしを覚えて行う」(Ⅰコリント11:24)であり、間違いのキーワードは「めいめい我先に」(Ⅰコリント11:21)です。

5月11日 家と土台 (イエスのたとえ話 ⑫)

マタイ7:24~29  ルカ6:47~49

 エジプトのピラミッドに代表されるような古代の大きな建造物を見ると、そのスケールの大きさに圧倒されます。どうやって石を削ったのかな、どんなふうに運んだり持ちあげたりしたのかなと思いめぐらすだけでも楽しいのですが、見える部分だけでなく、見えない部分の基礎工事がしっかりしていたからこそ、何千年を経ても、その姿を今に留めているわけです。みなさんは大昔にこのような大きな建造物の土台を据えるとき、どうやって水平を測ったかご存じですか。まず建物を建てたい土地に碁盤のように溝を掘って、その溝に水を流し水面のレベルに合わせて地面を削るのです。単純ですが非常に合理的な方法です。それは、聖霊が私たちの心の凹凸をみことばの標準に合わせて導いてくださるのに似ています。
今日は「家と土台」という主題でお話します。「家」よりも「土台」の話が中心になるはずです。いくつかのたとえを見ていきますが、まず「家と土台のたとえ」を読んでいきましょう。マタイとルカはそれぞれにこのたとえを記録していますが、細かいところは多少異なっています。イエスさまがこの話をされたのは一回きりではく、同じ内容のたとえをいくつかのバージョンで何度かお話になったのではないかと私は考えています。決して弟子の記憶が曖昧なために、福音書の記事がまちまちな表現になっているのではないと思います。まして、弟子が適当に創作したわけでは決してないはずです。
まずは、マタイの福音書の記述から見てみます。「岩の上に建てられた家」は、洪水や強い風にも耐えて倒れることがありません。しかし、「砂の上に建てられた家」は、洪水や強い風が襲いかかるとひどい倒れ方で倒れました。つまり大事なのは「家」ではなく「土台」であり、その土台は「砂」ではなく「岩」でないといけないことがわかります。「岩の上に家を建てる」というのは、「みことばを聞いて行う人」のことで、「砂の上に家を建てる」というのは、「みことばを聞いても行わない人」のことを指しています。続いてルカの福音書をマタイの記事と比較すながら読んでいきます。「岩の上に家を建てた人」は、「地面を深く掘り下げて岩を置いた」と書かれています。愚かな家の建て方として挙げられているのは、「砂の上」ではなく、「土台なし」で地面に家を建てたと書かれています。また、家を破壊するものについて、ルカでは「洪水」はかかれていますが「風」はありません。また、愚かな人の家のダメージについて、マタイは「倒れ方のひどさ」だけに言及していますが、ルカは「倒れるまでの速さ」にもこだわって、「一ぺんに」(ルカ6:49【新改訳】))「たちまち」【新共同訳】ということばを添えています。共通する「岩」とは、人の子イエスは神の子キリストであるという「信仰告白」です。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」というペテロのことばに対して、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ16:18)と主が答えられたのは、ペテロの名前やペテロ個人の権威に関することではなく、ペテロの信仰に対する評価です。その後、イエスはご自分の受難について語られますが、ペテロは「そんなことはあり得ない」と答えて、「下がれ、サタン」という厳しい叱責を受けます。つまり、正しい土台とは、岩となる信仰告白であり、それは「キリストの十字架と復活の事実」を受け入れることと結びつかなければなりません。キリストの犠牲が岩の信仰の実質なのです。ペテロが正しい告白の直後に、その告白を根底から覆すような間違った意見を言っているのはとても大事です。最初の告白は、天の父が明らかにされたのであり、(マタイ16:17)後の意見はサタンの意見です。(マタイ16:22)いずれも、ペテロ自身のオリジナルなものではないのです。
告白とは口で言い表すことですが、その告白を直後に否定するような言動は問題です。このように、「あなたはキリストです」といい口での言い表しだけでは不十分だということを考えるとき、思い出されるもうひとつのたとえがあります。「ふたりの息子のたとえ」(マタイ21:28~32)です。 お父さんが息子ふたりに「ぶどう園へ行って働きなさい」と命じます。兄は「お父さん、承知しました」と調子の良い返事をしますが、実際には出かけませんでした。弟は、「いやです」と答えますが、考え直して後から出かけます。「二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」という話です。当然弟の方ですよね。ここで弟にたとえられているのは、取税人や罪人たちです。それは「ヨハネが示した義の道を信じて従ったからだ」とイエスはおっしゃっています。
 ヤコブも、「信仰と行いは切り離すことの出来ないひとつのものであり、行いのない信仰は死んでいる」と書いています。(ヤコブ2:14~26)「魂のない肉体が死んだものであるように、行いをともなわない信仰は死んだものです」(26) 父が命じた仕事は、ぶどう園へ行って働くことです。ぶどう園は、神の祝福そのものを表しています。「私たちの働き」は、いのちであるぶどうの木につながり、みことばにとどまることです。ぶどうは、からし種のように不自然に大きな成長をしません。背は高く上に伸びるのではなく、一定の高さで横に広がるのです。その実は房状になって、ひとつひとつは実を主張しません。それがぶどうのいのちの特徴です。祝福を受けるとは、楽をして遊ぶことではなく、主と共に労し、兄弟たちとともにその恵みにあずかることです。
 先週見た「放蕩息子のたとえ」の場合は、放蕩の限りを尽くした弟が我に返り、悔い改めて帰ってきたことは、「交わりの土台」となりました。弟は父のところへ帰ってくるという具体的な行動によって、父に対する信頼を明らかにしたのです。その土台は弟の側の罪の告白と行動によって完成されたのですが、父の側の「赦しと贖いの備え」がなければあり得ないことです。考えてみてください。弟は自分ではどうしようもなくなってただ父の力と憐れみにすがるために帰ってきただけです。父の元にいて「財産の分け前をください」と要求したときとは、全く違う態度でお願いするためです。自分が父から何かを得られるとしたら、それはもらう資格がないもの、すなわち「恵み」であることをちゃんと理解したわけです。この認識が交わりの土台に必要なのです。一方兄はずっと父のそばにいましたが、交わりの土台がありませんでした。自分は忠実なのだから父は自分を評価すべきだと考えていました。このように土台のないところに、奉仕の家を建てていたのです。ですから、ろくでもないと思っていた弟を受け入れた父を見て、怒りと不満が爆発します。兄にしてみれば、日々の奉仕という建てかけの家は、弟が帰ってくるという突然襲ってきた洪水のような出来事によって流されてしまったわけです。
賢い建築家であったパウロのことばに学びましょう。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」(Ⅰコリント3:10~11)パウロの仕事は建築にたとえれば、「家」を建てることではなく、「土台」を据えることだったと言っているのです。しかも、それはパウロのオリジナルではなく、「すでに据えられている土台を据えただけだ」と言っているのです。それは、「家を建てるものたちが捨てた」ことによって礎石となったのです。パウロはその捨てられた石であるキリストをみことばのとおり礎石としたということです。この礎石の上に何を建てるかということよりも、この素晴らしい礎石が据えられていることに感謝すべきです。もし、私たちの働きが金や宝石の建物にたとえられるようなものだとしても、その建物の中に主が住まれるのではありません。私たちが神殿であって、そこにこそ主は住まれるのです。(Ⅰコリント3:12~17)「火が各人の働きの真価をためす」ということに怯えたり不安になったりする必要はありません。私たちが神の神殿であることを喜ぶことの方が大切です。
もう少し土台を据える条件について考えてみましょう。「土台となる岩」を置くためには、「地面を深く掘り下げる」ことが必要だとルカは書いています。(ルカ6:46)種まきのたとえでも、土の浅いところに落ちた種はすぐに芽をだすが、根がないために枯れてしまいました。「地面を深く掘り下げる」とは、みことばに照らして人間性をしっかり見つめるという作業です。神の義に触れ、自分の罪を見つめ、悔い改めるということです。みことばによって深く掘り下げられた心には神の光が差し込みます。そこではじめて罪がわかり、神の贖いの必要を感じるのです。
「ぶどう園に行って働け」と言われた弟は、なぜすぐに「はい」と言えなかったのでしょう。また、後から何を思い直して出かけたのでしょうか。そればバプテスマのヨハネのメッセージと関係がありました。(マタイ21:32)「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての谷と丘は低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が神の救いを見るようになる」(ルカ3:4~6)これがヨハネのメッセージです。このたとえの中の弟とは、取税人や遊女たちでした。彼らは、ヨハネの語ったみことばが正しく、自分たちは間違っていると感じたのです。そして、水面に合わして地面をけずるように自分自身を掘り下げたからこそ、平らになり、その上に贖いの礎石を置くことが出来たのです。悔い改めがなければ贖いを受けることは出来ません。キリストという土台を据えるための本当の信仰告白は出来ないのです。
すべての家の混乱は、土台が異なっていることに起因するものです。すでに据えられている土台は、「家を建てる者たちが捨てる石」です。それはキリスト・イエスです。どの教会もキリストが土台だと言うでしょう。果たしてそれは本当でしょうか。それは、まず、深く己を掘り下げるところから来る「悔い改め」であり、「信仰告白」であり、「私ではなくキリストによる行い」を伴っているはずです。それらをすべて同時に満たすのは、私たちとキリストをつないでひとつにする十字架の死そのものを受け入れることです。「私ではなくキリストによる行い」と言いましたが、今日のメッセージの中心になった「家と土台のたとえ」は、いずれもいわゆる「山上の垂訓」とよばれる一連のお話の結びとして語られたものです。山上の垂訓を罪人である私たちが行うのことは不可能です。律法で聞いていた基準よりもいっそう高い道徳性を示されて、それを自分なりに薄めて目標にするのは、それこそ「お父さん行きます」と言って実際は行かないようなものです。正しい反応は、「私には無理です。でも、これを命じた方自身が私を通して行ってください。」私の正しい行いの可能性を見出すことができるとしたら、それはキリストのいのち、キリストの恵み、キリストの力なのです。
このように考えてくると、私たちの伝道奉仕や信仰のあり方という建物よりも、私たち自身がその土台にふさわしい神殿そのものであることを喜び、そこに住んでくださる主がご自分のいのちを表現してくださることを期待するはずです。ところが多くの場合、「私たちが神殿である」という事実をそれだけでは十分だとは感じず、さらなる伝道奉仕や正しい信仰のあり方を追求しようとしているのではないでしょうか。教会に問題が起こるのは建物が悪いのではなく、土台が間違っており、腐っているからです。建物は立派に見せかけるために、どんなにリフォームしても、それは何の解決にもなりません。既に据えられている土台をそのまま据えることが大事なのです。そしてそこにとどまることが大事なのです。人間的な動機で家を建てるものたちは、見捨ててしまう石、それが十字架の霊的な意味です。十字架はキリストの死であるとともに、同時に私たちの死です。私たちがキリストの死とともに終わらなければ何も始まりません。「家を建てる者たちが見捨てた石。それが礎の石となった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」(マタイ21:42)