2008年8月19日火曜日

8月10日 メッセージのポイント

主人の喜び (イエスのたとえ話⑳)
マタイ25:14~46

A アイドルとタレント
  ○アイドルは偶像
  ○タレントは才能・力量
  ○人工と天然・・・・天然なら栄光はどこに
  ○虚栄の中で拡大していくイメージと実像の落差
       →アイドルは普通の女の子に戻りたい  

B タラント(マタイ25:14~30)
  ○タラントは預かり物・・・・タレントの語源
  ○たとえは感情移入を拒絶する・・・宗教は自分の「現状」や「願望」を中心にした
   「生き甲斐」や「救済」を設定するが、みことばはそれを完全に打ち砕く
  ○「小刻み」で「多様」なタラント・・・あたかもそれが自分自身のものであるかのよう
   な錯覚に陥るほどに
  ○主人の評価基準
  ○タラントは少なくとも2倍に増やせる
  ○「野心」と「不安」そして「格付け」と「安心」
  ○「わずかなもの」と「たくさんのもの」

C 主人の喜び
  ○「役立たず」なのは能力が低いからではない・・・主人の心を理解しないから
  ○歪んだ神のイメージが、自分の心を歪ませる
  ○タラントは   
     ・・・・共に分かち合うため   
     ・・・・弱い人を支えるため
     ・・・・足りないところを補うため
  ○主人の喜び

D 山羊と羊(マタイ25:31~46)
  ○思いがけない評価・・・忘れてしまうほど些細な日常のこと
  ○私たちは何かをもらうのではなく、いのちにはいる

2008年8月18日月曜日

8月10日 主人の喜び (イエスのたとえ話 20 )

マタイ25:14~30

 TVをつけると、毎日のように、アイドルとかタレントとか言われる人たちが、頻繁に登場するのを見るでしょう。ちなみに、アイドルは「偶像」、タレントは「能力」という意味です。今どういう人がどんな理由で注目を集めているのかを見ているいと、時代の流行や大衆の価値観がいかなるものなのかわかります。アイドルや流行歌の歴史をひもとけば、世相を見事に反映しているのがわかります。さて、歌手でもなく、芸人でもないという、ルックス中心の際立った能力のないタイプの人たちを「タレント」と呼ぶようですが、私は自分の技や芸を磨くために何の努力もしていない外見の綺麗な人たちも十分評価しています。いいじゃないですか、見かけがすばらしいのは。アイドルだって、体型を維持するために頑張ったり、化粧やファッションには気を使ったりしているでしょうが、それらの努力は、芸を追求する人たちの努力に比べれば、努力のうちには入らないでしょう。それも努力だと認めたとしても、全く質の違う努力です。その人が美しいのは、基本的には、その人自身ががんばったからではないということが、はっきりわかっています。人工的な整形ではなく、天然のものだからこそ高い価値があるわけです。だから、自分をデザインしてくれた神さまを賛美すればいいんですが、そういう人はあまりいません。ひとたびアイドルとしてが偶像化されると、本人も「自分が一般の人より何だかワンランク上の存在」だと思いこんでしまうことになるので具合が悪いのです。だから、その虚栄の中で拡大していくイメージと実像の落差にアイドルたちはみな悩みます。だから、普通の女の子はアイドルに憧れるのですが、アイドルは普通の女の子に戻りたがるわけです。TVはこの世や時代を学ぶ上でけっこう大切なツールだと思いますが、クリスチャンがTV的価値の中にどっぷりはまりこむのはいただけません。TVから得られる情報をみことばによってクールに分析していただきたいです。「蛇のようにさとく」なってください。甲子園やオリンピックでTVに釘付けになってしまう人も多いようですが、この夏、全国大会が行われているのは、野球だけではありません。高校にはハンドボール部もあれば、軟式テニス部だってあります。オリンピックの影ではグルジアで2千人死んでいるのです。そういうこともキチンと相対化する知能を養いつつ、楽しんでいただけるといいなと思います。「TVは有害」といって遮断するのではなく、柔軟にそこからこの世の抜け目のなさを学んでください。
 今日は「タラントのたとえ」を中心にマタイ25章を見ていくのですが、実は、英語のタレントの語源になったのが、当時の通過の単位であったタラントです。それは元来、主人が分け与えてくれた財産でした。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」(マタイ25:14)と書かれています。つまり、このたとえにおいても、財産を預けて旅に出て行く主人がお話の中心です。5タラントもらった人でも、2タラントもらった人でも、1タラントもらった人でもありません。 聖書は徹頭徹尾「神の書」です。人が創作したものではありません。それは、このようなたとえの基本的な設定や些細な言い回しの中にも現れています。人間の創作では、主人が主人公というような設定はまずありません。NHKの朝ドラでも、宮崎駿のアニメでも、女の子や幼子、弱者の視点で描かれるから、より多くの人が感情移入できるわけです。みことばは、安直な感情移入を拒否し、医者の宣告のように、ドライに私たちの現状を映し出します。人は基本的にこの世でうまくやることしか求めてはいません。誰も神や本当の正義など求めてはいないのです。人が救われたいと思っても、それは神が与えようとする救いとは全く異なるものを求めているにすぎません。だからこそ、本物の救い主が来ても、イエスが救い主には見えないのです。忘れないでください。人が救いを求めたのではなく、神が救いを計画されたのです。考えてみてください。私たちのうちの誰一人として自分から「存在したい」と願った覚えさえありません。神が一方的にこの生を与えたのです。自分で生きているのではなく、生かされているのです。宗教は、自分の現状や願望を中心にした「生き甲斐」や「救済」を設定しますが、神にある人生やキリストによる贖いは、そういうものとは全く違います。最初にきちんとそのことを確認しておけば、「タラントのたとえ」の読み方もおのずと決まってきます。
ここには、5タラントと2タラントと1タラントという3段階の財産を預かったひ人たちが登場します。これは上流、中流、下流というような、いわゆる「階級」や「格差」を表現しているのでしょうか。そうではありません。実際に私たちが受けているタラントは、さらに「小刻み」で「多様」に分けられているでしょう。ここで押さえておかなければならない重要なことは、「私たちがいかなるタラントをどれほど持っていたとしても、それは主人から預かったものであり、預かったもの以外は持っていない」ということです。ここがポイントです。画一的で全く同じものが与えれていたら、それを配給した出先が明確になります。ところが、それがあまりに小刻みで多様に配剤されたものであるからこそ、あたかもそれが自分自身のものであるかのような大きな錯覚に陥っているだけなのです。5タラント預かった者はさらに5タラント、2タラント預かったものはさらに2タラントもうけて、主人にそのことを報告し、それぞれに賞賛されています。このことから、「私たちのいただいているタラントの中には、少なくともそれを2倍に増やす力が備えられている」と考えても間違いではないでしょう。さらに言えば、それ以上には増やせないのかという「野心」もおこりますし、その基準に及ばないこともあるのではという「不安」もあるでしょう。私たちは自分の能力に関してそういう「野心」や「不安」と常に戦っています。実質を追求することよりも、外からの「格付け」をしてもらって「安心」を買いたいのです。しかし、主人の評価の仕方は、しもべの格付け願望を吹き飛ばすような痛快なものです。主人の評価の基準は、どれだけもうけたかではなく、「忠実であるかどうか」ということです。忠実な良い行いは、主人の喜びであることが書かれています。「よくやった,良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから,私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21・23)よく見てください。5タラント預かった人と、2タラント預かった人は、全く同じことばで評価されています。これが、主人の評価であり、神の基準です。大事なのは、5タラントもうけた自分の喜びではありません。「たくさんもうけた」とか、「人よりもうけた」とかではないのです。主人の喜びをともに喜ぶことです。主人の喜びをともに喜べる霊的な感性というか一体感が重要なのです。自分の喜びを追求している限り、主人の喜びには思いが至らないのです。
いよいよオリンピックですが、オリンピックに出場するようなアスリートたちは、みな5タラントの体力や運動能力を与えられた人たちです。そういうレベルの人たちが、わずかな力の差をハイレベルで競い合うわけです。それをどのようにとらえるかは大切なことですが、与えられ、磨き抜いた力を競い合うこと自体は、別に良いことでも悪いことでもありません。私たちが見て感動するのは、与えられているタラントを最大限まで使いきる姿は美しいものだからです。しかし、それをどう評価するかは問題です。勝者には「栄光」がついてきます。その栄光は誰のものでしょう。また、そもそも競い合う「動機」はどこにあるのでしょうか。オリンピックに限らず、私たちは常に能力を問われ続け、それが人間の価値を左右するかのようなレッテルを貼られて成長します。先程言った「外からの格付け」を望まなかったとしても、勝手に偏差値をつけたり、「負け組」だの、「ハケン」だの、「パートさん」だの、いろんな呼び方で、それがあたかも人間そのものの価値であるかのように評価するわけです。誰もが、そうした評価に違和感を持ちながらも、「周囲を出し抜き、少しでも上に!」と考えるのが一般的な傾向です。例えば、受験の結果が出たとします。1流校と3流校に合格した人たちは、同じ評価を受けることはありません。そういうわけで、1タラントの人は卑屈になりました。ほかの2タラントと、5タラントの人と自分を比較したからです。2タラントや5タラントはたくさんで、自分の預かった物はわずかだと考えました。「どうせ私なんて」という寂しい発想です。だいたいいじけてひねくれる人は、恨みや妬みが強く、自尊感情が低い。しかし、1タラントというのは、実際は決して少ない金額ではありません。1タラントは6000デナリ、ベタニヤのマリヤが注いだあの高価な香油が300デナリですから、その5倍もあるわけで、立派に事業を興せます。今風言えば、ベンチャー企業の資本金ぐらいにはなるわけです。神の与えたタラントというのを、人はあまりにも過小評価していると思います。「私なんて」と卑屈にならなければならないほど少なくしか与えられていない人なんて本当は一人もいないと、私は信じています。これは何千人の子どもたちを見てきた実感です。人は勝手に自分の可能性をどんどん捨てているのです。
主人は、しもべとは違ったものを比較しています。主人は、3人に預けた物を各々比べてはいません。地上のものと天のものを比較して、「わずかな物」とか「たくさんの物」と語っています。地上で預けた1タラントや2タラントや5タラントは、神にとってはいずれもともにわずかなものです。本当に任せたいものは天にあります。天でたくさんのものを預けてよいかどうかを、試されただけなのです。このテストの意味を悟らず、地上でのクリスチャン生活の意味がわかっていないと天に居場所はないでしょう。しもべの中には、役に立つしもべと役に立たないしもべがいます。「役に立たないしもべは、暗闇で泣いてはぎしりをする」と書かれていますが、これは御国に入れず、拒まれる人たちに特有の描写です。「能力がない」あるいは「低い」から役立たずなのではなく、主人の心を理解しないことが役立たずなのです。自分のタラントを地の中に隠した愚かなしもべは何と言っていたか思い出してください。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。」(マタイ25:24~25)このしもべは、とても主人に対して、非常に歪んだイメージを持っていました。タレントの高い他者をアイドル化して自分を卑下する人たちは、真の神と人格的に触れ合うことが出来ず、歪んだ神さま像を勝手に作り上げて、その自分で作り上げた神のイメージの前で自分を閉ざしていきます。こうして宗教としてのキリスト教をやっている人たちは、みなさんビョーキになられるのです。私たちが地上でお互いのタラントを比べ、測り合うのは愚かなことです。もし自分が人より何か優れているとしたら、それは共に分かちあうためであり、弱い人を支えるためであり、足りないところを補うためなのです。誰かの優位に立ち、支配し、利得を得るためではありません。イエスの生き方を見ればそれは一目瞭然ではないですか。「賜物セミナー」とか、「按手や預言を受けて有能な働き人に」とか・・・全く愚かさの極みです。 このたとえの中心は、「主人の喜びをともに喜ぶこと」です。主人の喜びはどこにあるのでしょう。5タラント与えられた人が、きちんと5タラントもうけたから主人は喜んだのでしょうか。2タラントの与えられた人が1タラントしか稼げなかったら、彼は不忠実だと責められるでしょうか。主人の喜びは、私たちのもうけの額には関係ありません。
タラントのたとえの続きには、羊と山羊とが分けられる話が出てきます。正しい人は褒められていますが、ある人たちは非難されています。正しい人たちも愚かな人たちも、自分のした良いことや悪いことに気づいていません。なぜなら、それは日常のとても些細なことだからです。もっとも小さな者に対して行った、それこそ忘れてしまうような小さな親切だったからです。それはごく平凡な交わりであって、病人を癒すとか、悪霊を追い出すとかいう特別大きなことではありませんでした。
「タラントのたとえ」を人間的に読むと、「自分はいったいどんなタラントが、どれくらい与えられているんだろう」「あの人ほど与えられてはいないけど、この人より勝っているのでは」などと考えてしまうかも知れません。しかし、1タラントのもので、他の誰かのためにその1タラントを用いることで十分なのです。自分の賜物がどれだけのものであろうと、その賜物で他の兄弟姉妹に仕え、世の人に仕えることに価値があるのです。そのささやかな奉仕を主は覚えてくださっています。私たちは何かをもらうのではなく、ただキリストのいのちにはいるのです。

8月3日 メッセージのポイント

花婿を迎える十人の娘のたとえ (イエスのたとえ話⑲)
    マタイ25:1~13

A 地上における最も重要なモデルとしての結婚
  ○創世記の結婚(創世記2:7~8,18~25)
  ○黙示録の結婚(黙示録19:6~9)
  ○雅歌・・・キリストと教会の甘美な交わり
  ○カナの奇跡
     →イエスは結婚を祝福される
     →イエスを招くことによって結婚の質が変わる  
  ○雛型の崩壊

B アダムとイエス
  ○創造の中に「贖い」が含まれている
  ○アダムの深い眠りとイエスのわき腹の傷
  ○教会の存在価値
  ○一心同体という摂理・・・アダムとエバには離れる父母はいない
  ○優先順位

C 手紙が解き明かす奥義
  ○元はひとつ(ヘブル2:11)
  ○世界の基の置かれる前から(エペソ1:4)
  ○聖く傷のないものとして立たせる(エペソ1:4 , 5:27)

D 花婿を迎える十人の娘のたとえ(マタイ25:1~13)
  ○終末における忠実な管理と準備というテーマで語られたたとえ話     
     「忠実なしもべと悪いしもべのたとえ」(マタイ24:45~51)
     「タラントのたとえ」(マタイ25:14~30)
  ○王の披露宴のたとえとのつながり
  ○ポイントは油を準備したかどうか
  ○各自がキリストから受けた油によって教えを受ける(Ⅰヨハネ2:27)
  ○油は私たちが神のものであることの保障(Ⅱコリント1:21~22)  
  ○待つことで試される信仰と愛(Ⅰペテロ1:8)(Ⅱペテロ3:3~4)   
     「主人はまだまだ帰るまい」(マタイ24:48)    
     「よほどたってから」(マタイ25:19)  
  ○ただキリストにとどまること

8月3日 花婿を迎える十人の娘のたとえ (イエスのたとえ話 19 )

マタイ25:1~13

先日といっても何週か前の放送だったと思いますが、NHKの大河ドラマ「篤姫」を見ていると、将軍家定がハリスに会見する際に篤姫の同席を許すシーンがありました。正室と言えど、女性が重要なまつりごとに関わるというのは過去に例のないことでした。とまどう篤姫に対して、家定はこう言います。「夫婦は一心同体者じゃからな・・・」 いくら篤姫の存在が家定の心を動かしたとはいえ、江戸時代に、しかも徳川家の将軍がそのような感覚を持っていたとは思えないので、それは脚本家の過度な脚色ということですが、ドラマの台詞としてはとても美しいものでした。
今日は「結婚」のお話をします。霊的な「実体」や「本質」を写したこの世におけるあらゆる「型」や「影」の中で、最も重要なもの、それは間違いなく結婚です。もう少し広げて言うと、夫婦関係、あるいは、結婚に至る男女の関係ほど重要なモデルは他にありません。それはキリストと教会の関係を表現している地上で最も美しい雛型なのです。聖書はアダムとエバの結婚に始まって、キリストと教会の結婚で終わります。そして、聖書の中で最も深く味わい深い書簡は「雅歌」です。ここには男女の心の機微を通して、キリストと教会の交わりの甘さ切なさが巧みに描かれています。まさに奥の間、至聖所の交わりです。さらに、忘れてならないのは、イエスのキリストとしての最初のしるしが、結婚式において水をぶどう酒に変えた奇跡だったということす。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。」(ヨハネ2:11)と書かれていますが、ヨハネは「水をぶどう酒に変えたことが栄光だ」と言っているのではないでしょう。このしるしがイエスの栄光である理由はふたつあります。イエスは結婚を祝福されるということ、イエスを招くことによって結婚の質が変わるということです。つまり、キリストの血による花嫁の贖いこそ真実の結婚であり、そのことを知るなら、雛型である地上の結婚も同時に豊かにされるということです。もし、この結婚にイエスが招かれていなければ、ぶどう酒は祝宴の最中に底をついたままです。まさにふたりの喜びの絶頂のときに、面目を失うことになったはずです。このようにイエスを招かない結婚は、悲しい結果をもたらしています。今日ほど、結婚が軽んじられ、男女関係がデタラメになっている時代は過去になかったのではないでしょうか。目に見える雛型の崩壊は、霊的な姿を反映しているのです。
それでは、最初の結婚について少し詳しく見てみましょう。(創世記2:7~8,18~25)アダムは土のちりで形造られ、神のいのちの息をふきこまれることによって生きものとなりました。それから、アダムはその与えられた能力によって、あらゆる野の獣や空の鳥に名前をつけました。しかし、その中に、ふさわしい助け手は見つかりませんでした。そこで、アダムに深い眠りが与えられ、そのあばら骨からエバが生まれます。これは、最も重要な創造であり、この創造の中には実は「贖い」が含まれています。神は男と女を一度に造られたのではなく、男を造ってから女を造られました。女は男のあばら骨から生まれたことが大事なのです。女は男のあばら骨から造られたから、男より格下だというイメージは間違っています。なぜ「あばら骨」なのでしょう。あばら骨はからだのどの部分にありますか。わき腹です。ご承知のように、イエスのみからだには、そのわき腹に傷跡があります。両手両足の傷は、十字架にかけられたときのものです。わき腹の傷はイエスの死を確認したときに出来たものです。アダムに与えられた深い眠りは、イエスの死を表しています。エバがあばら骨から造られたことは、教会はイエスが死なれたからこそ、そのいのちが分与されたこと、そして、エバはもともとアダムの一部であったことを表現しているのです。女は男の格下どころか、女は男にとってかけがえのない宝であることを現しているのです。
エバが造られたとき、アダムはこう言っています。「これこそ、今や私の骨からの骨、私の肉からの肉、これを女と名付けよう。これは男から取られたのだから。」(創世記2:23)さらに、みことばは続きます。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。」(創世記2:24)この記述はとても妙なんですが、お気づきでしょうか。なぜならアダムには父母はいないからです。アダムとエバは母から生まれたのではありません。にも関わらず、わざわざ「その父母を離れ」とあるのは、アダムとエバだけでなく、これから生まれてくるすべての男女に定められた結婚という摂理の深さ、偉大さを示すためです。それほど、結婚というのは大事なことなのです。イエスもこのことばを引用されています。一心同体ということばは、花婿であるキリストと妻である教会の一体を表現しています。心は一つで体もつながっている運命共同体ということです。「父母を離れ」の前に「それゆえ」ということばがあります。「それゆえ」とは、「何ゆえか」というと、「アダムからとられたから、エバはアダムとひとつになるのだ」と言っているのです。つまり、エバはアダムから取られたことにその存在価値があります。教会はキリストから生まれたことに存在価値があるのです。「その父母を離れる」とは、家族や血縁の関係性よりも、「信仰」を優先し、神の摂理に委ねるべきであることを教えています。それは、冒頭にも申し上げたように、「結婚」及び「夫婦のあり方」こそが、キリストと教会を表現する最も重要なモデルだからです。母子関係も重要です。父子関係も重要です。友人関係も重要です。主人と労働者の関係も重要です。友人や隣人との関係も重要です。しかし、最も重要なのは夫婦の関係です。この優先順位がバラバラの人は、必ず一番重要な的をはずしており、祝福を失います。まずキリスト、それから夫婦、そして子ども、さらに友人、隣人、地域社会です。キリストが第一は言うまでもないことですが、「家族をほったらかして人類愛」とか、「夫婦関係よりもまず子ども」とか、そういうのは間違いです。教会はキリストのわき腹の傷から生まれます。そして、それゆえにまたひとつとなります。「聖とする方も聖とされる者たちも、すべて元はひとつです。」(ヘブル2:11)これもまた驚くべきみことばです。私たちは「世界の基の置かれる前から」選ばれている(エペソ1:4)という信仰を持つことの大切さについては、以前にも少し触れましたが、パウロがこのように宣言する背景には、「花嫁としての選び」のイメージがあったことは明らかです。この箇所に出てくる「聖く傷のないものとして立たせる」(エペソ1:4)という表現が、キリストと教会の関係を夫と妻の関係にたとえて語られた5章にもう一度現れます。(エペソ5:27)それほど男女の関係というのは、神の御前に尊いものなのです。創世記のこの記事は、単純に人の誕生についての神話的記述ではありません。それは教会の誕生のモデルなのです。新約聖書の光を当てて、信仰をもって、旧約聖書を読んでいくと、見えてくるものが全く違います。そういうみことばの学びの習慣がつけば、目に見える世界の事実から目に見えない世界の真実を読み取る目が養われるはずです。人間が造られる前、御子イエスの助け手は、被造物の中にはありませんでした。人間が造られる前に、人間よりも能力の高い被造物はいました。神の御使いです。ルシファーを中心とする反逆した御使いたちの創造や彼らへの処遇については、聖書の中に書かれていること以外はわかりませんが、聖書を信頼するなら、なぜだかわかりませんが、私たち「人間」という存在が、神の計画の中心におかれ、教会を御子の花嫁として選ばれたことは事実です。この啓示を示された者は、みな感嘆の声をあげたのです。(詩編8:1~9)聖書は完全な書物ですが、聖書が神の創造やイエスのみわざのすべてを語り尽くしているわけではありません。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う」(ヨハネ21:25)(ヘブル13:22)
「花婿を迎える十人の娘のたとえ」(マタイ25:1~13)は、「結婚」をテーマにしていますが、もうひとつの切り口から見れば、「終末における忠実な管理と準備」というテーマで語られた3つのたとえ話のうちのひとつです。「忠実なしもべと悪いしもべのたとえ」(マタイ24:45~51)と「タラントのたとえ」(マタイ25:14~30)がこれを挟むかたちで編集されています。このような書き方は、ユダヤ独特の様式で、マタイはこの手法で福音書を編集するように導かれています。この「花婿を迎える十人の娘のたとえ」は、「王の披露宴のたとえ」とつながりがあることもわかります。ともに婚礼の祝宴について語っています。花婿を出迎える娘とは花嫁のことです。ユダヤでは婚約をしてから約1年を経て、婚礼の祝宴を催し、結婚生活を始めます。イエスさまの養父であるヨセフの場合、マリヤがこの婚約中に妊娠が発覚したわけです。
花婿を待つ十人の娘のうち五人は愚かで、五人は賢かったと書いてあります。愚かな娘たちと賢い娘たちとの差は何でしょうか。一人ひとりの容姿や性格、能力や適性については何も触れていません。ポイントはただ一点です。それは、「油を準備していたかどうか」という点です。ともしびがあっても油がないと、当然火は消えてしまいます。ともしびと油とは何を象徴しているかはおわかりですね。ともしびは「みことば」であり、油は「聖霊」の象徴です。「みことばは霊でありいのちです」(ヨハネ6:63)まず、みことばがなければ話になりません。しかし、それだけでは不十分です。油が必要です。「各自」が「キリストから受けた油」によって教えを受けます。(Ⅰヨハネ2:27)これは、極めて重要なポイントです。ご承知のように、油を強調する集団はいっぱいあります。しかし、彼らはみことばに無知です。さらに、ヨハネのことばのとおり、各自がキリストから受けた油によってキリストにとどまるのです。「特別な油注ぎの器から教えを受けて、その先生にとどまる」などと書いてある箇所はどこにもありません。そういうことを言っている人たちは、このたとえからも除外されているんです。ここで、出てくる十人の娘はみな例外なくともしびを持っているんです。そのうち五人は油をもっていない。残りの五人はともしびに加えて油も持っています。油だけ持っている娘はいません。
油は私たちにみことばを教えるだけではなく、私たちが神のものであることの保証です。「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(Ⅱコリント1:21~22)花婿の到着は夜中になったと書いてあります。「到着が遅れる」という点は、この終末のたとえ3つに共通する設定です。「忠実なしもべと悪いしもべのたとえ」では、「『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思った」と書いてあります。「タラントのたとえ」でも、「よほどたってから」しもベの主人が帰ってきたと書いてあります。これは、重要なポイントです。長い時間待たされることで試されたものは何でしょうか。それは「信仰」であり「愛」です。今目の前にないものをどれだけ信じて愛せるかということが問われているのです。若い男女の恋愛においても、学校や職場が変わって長距離恋愛と呼ばれる状況になると、心が冷めたり、どちらかが裏切ったりということがおこります。離れていること、遅れていることには意味があるのです。「あなた方はイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことの出来ない、栄えに満ちた喜びに踊っています。」(Ⅰペテロ1:8)ペテロは、祝宴の喜び待ちながらにして味わっている様子を描写したのでしょう。同時にペテロはこうも語っています。「次のことを知っておきなさい。終わりの日にあざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか、先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」(Ⅱペテロ3:3~4)ペテロは、イエスさまから聞いたいくつかのたとえを思い出しながら、このふたつのことばを手紙に記したのです。愚かな娘たちの最大の愚かさは何でしょうか。それは賢い娘たちから油を買おうとしているところです。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは、消えそうです。」(マタイ25:8)賢い娘たちはどう言っていますか。「いいえ、あなたがたに分けて上げるにはとうてい足りません。それより店に行って自分のをお買いなさい。」(マタイ25:9)油は誰かから売ったり、買ったり出来ません。油は自分で個人的に準備するものです。油はただ「キリストにとどまること」を教えます。(Ⅰヨハネ2:27)

2008年8月1日金曜日

7月27日 メッセージのポイント

自分を高くする者は低くされる (イエスのたとえ話 ⑱ )
  ルカ18:9~14

A 地上と天での立場の逆転
   ○「あとの者が先になる」(マタイ20:16)
   ○「先の者があとになる」(マタイ19:30)
   ○たとえとエピソードの関連
     →みことばを日常に適用すること   
     →自分のもの差しではなくみことばのものさしで測ること
   ○逆転の鍵は信仰

B パリサイ人の祈り
   ○わたしは悪い者ではない
   ○わたしは良いことを行っている
   ○動機は何か
   ○「良いことを長期にわたって忠実に行えば良い者になれる」という錯覚
   ○ふたり  
   ○宗教は心の中の現象

C 取税人の祈り
   ○砕かれた悔いた心(詩編51:17)
    ・遠く離れて立ち
    ・目を天に向けようともせず
    ・自分の胸をたたいて
   ○ ひとり
   ○ 救いはいのちの変化

D 神の前で自分を高くすることの虚しさ
   ○「粉飾」と「偽装」
   ○「名を上げること」と「名を残すこと」
   ○「神のあり方を捨てられた御子」と「人のあり方を忘れた罪人」

E 救いは神御自身の義を表現する
   ○「恵み」「贖い」「値なし」
   ○神御自身の義
   ○信じる者の義

7月27日 自分を高くする者は低くされる (イエスのたとえ話 18 )

ルカ18:9~14

「このようにあとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16) これは前々回にお話した「ぶどう園のたとえ」の結びのことばで、たとえ全体の教訓として語られています。実はこのフレーズは弟子たちにとっては聞き覚えのある表現でした。 おそらくこのたとえを話されるよる少し前に、金持ちの青年がイエスのもとにやって来て、問答の末悲しんで去っていくという出来事がありましたが、その際にイエスは、このことばに非常によく似たことを語られたのです。ですから、間違いなく弟子たちはそのことを思い出したはずです。この時イエスが語られたことばは、「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マタイ19:30)というものでした。ぶどう園のたとえの結びのことばとは、ことばの順番が逆になっています。 「ぶどう園のたとえ」では、一番あとから仕事に加わった者が早朝から働いていた者と同じ報酬を受けることで、主人の気前よさの恩恵を受けるという点で、「あと」と「先」が逆転したわけですが、金持ちの青年との問答の後に語られたのときは、反対に「先」をいっているように見える彼が弟子たちの「あと」になったというものです。 イエスはこのように、たとえを使って話した内容について、実際の具体的な人物や場面に当てはめて語られました。イエスは、重要な内容に関しては、同じテーマについて少しずつかたちを変えながら、繰り返し弟子たちの印象に残るように語られたことがわかります。私たちもみことばを非日常的な観念の世界でとらえるだけではなく、日々の暮らしの中で、イエスのことばのひとつひとつを正しく適用すべきです。たとえば、私たちが具体的にどれほどの祝福を受け如何に恵まれているかは、自分がすごく羨ましいと感じている人たちがあとになっていくのだという、みことばの事実に合わせて評価するべきです。目に見える現実に自分のもの差しではなく、みことばのもの差しを当てて、事実を正確に測るとき、物事の真実が見えるのです。 ただし、先の者とあとの者の順序が必ず逆になると言っておられないことにも注意する必要があります。イエスは、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多い」(マタイ19:20)と言われました。ずっと先のままの人もいれば、あとのままの人もいるはずです。要するに、イエスに対する信仰の有無によって逆転があるという話です。信仰の実質がなければ、地上でも「あと」天でも「あと」です。場合によっては、地上では最先端、天では門前払いとなるわけです。
「金持ちの青年の出来事」はたとえ話ではないので、今日はよく似たテーマを扱った別のたとえを取り上げようと思います。「パリサイ人と取税人の祈り」についてのたとえです。このたとえは、「自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たち」に対して語られたものです。あの去って行った金持ちの青年にとっても、必要なメッセージだと思います。(ルカ18:9~14)このたとえには、パリサイ人と取税人という対照的な人物が登場します。このふたりが祈るために宮に登るのですが、義と認められたのはパリサイ人ではなく取税人だという話です。 これもいわゆるパラドックス(逆説的真理)です。ルカの福音書の中では、何度もこのパターンが登場します。7章には、イエスさまの足に香油を注ぎ髪の毛でぬぐった罪深い女と彼女を軽蔑したパリサイ人シモンが出て来ます。10章には、良きサマリヤ人と冷たいユダヤの宗教指導者たち。そしてもてなしに心をくだくマルタと主の足元にすわってみことばを聞くマリヤが出て来ます。15章には、放蕩三昧の末に帰ってきて父の愛に触れる弟息子と父のそばにいながら父の愛を理解しない兄息子が出てきます。16章には、全身おできの貧乏人ラザロと毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ちが出てきます。いずれも2種類の人物を対比させながら、どういう人が神に受け入れられ、喜ばれるのかを教えています。これらのいずれの記事にも示されている共通の事柄は、「神の評価は私たちの人間的な判断とは全く異なっている」ということです。このような人間的な価値観をどんでん返しにするようなかたちで伝えることによって、メッセージをいっそう印象づける効果があるわけです。先程もお話したように、あるときはそれは「たとえ話」であり、あるときは「具体的なエピソード」として、いずれも神のことばとして福音書記者がまとめています。いずれも、人間的にすばらしい評価を受けると予想されるものが、神にとってはむしろ忌まわしいもので、逆にとうてい神に受け入れられるはずのないものが、受け入れられています。このたとえにおいても、「自分は神にふさわしくない」という取税人にとっても、他の人たちにとっても当たり前の事実を認め受け入れることによって、その告白の真実と神のなだめによって神に受け入れられるのです。これが救いの本質です。人々が尊敬し、自らも義人を自認するパリサイ人は退けられました。みことばは、人のもの差しの歪みやズレを明らかにしながら、神の基準を示しています。
 パリサイ人の祈りを見てください。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを感謝します。私は週に2度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11~12) この祈りを二つに分けて分析しましょう。前半部分は、「私は他の人のように、~(悪い者)でないことを感謝します。」という祈りです。これはどうでしょうか。パリサイ人は嘘を言っているわけではありません。彼は正しいのです。ゆする者であったり、不正な者であったり、姦淫をする者である方がよいのではありません。神さまに受け入れ、赦されるためには、そういう弁解しようのない大きな罪を犯さなければならないなんてことは絶対ないわけです。ここで問題なのは、取税人を持ち出して、「こいつよりマシだ。だから感謝するのだ」と言っている点です。つまり、そういう「~する者」と「~しない者」がいて、「自分は(しない者)だから立派なんだ」と言っているわけです。「~する、~しない」は、律法から発生した当時のユダヤ教の問題です。当時ローマの統治下にあったユダヤ人は、政治的にはローマの権威に屈しながらも、律法の約束を守ることで宗教心を満足させ、律法を捨て、ユダヤ人でありながらローマに身も心も屈している取税人を徹底的に軽蔑して優越感を持つことで、ローマへの劣等感をはらしていたわけです。このように優越感と劣等感は表裏一体なのです。
祈りの後半は、「私は、~(良いこと)をしています。」というものです。ここでも、彼は多分本当のことを言っているのでしょう。週に1回しか断食していないのに2回したと言ったり、20分の1か15分の1しかささげていないのに10分の1ささげたとごまかしたりしているのではないと思います。申告通りの生活を送っているのです。これらは何ら批判されるべきものではないでしょう。むしろ他の人もそうであるべきでしょう。問題は動機です。何のためにこれを行っているかというと、自分の徳を積み上げて神に義と認められるためです。それが問題なのです。
もう一度整理します。前半の祈りは「(悪い者)ではない」ということでしたが、後半の祈りは「(良いこと)を行っている」ということです。さすがにいきなり「自分は良い者です」とは言えませんが、「良いことを長期にわたって忠実に行えば良い者になれる」という価値観とそこへ向かう意志があるわけです。これが、人間の宗教であって、私が良く言うところの「人から神への上昇のベクトル」なのです。これは、聖書の教えとは正反対のものです。少し間違っているから、考えを修正しなければならないのではありません。聖書の語る救いとは正反対の教えです。
一方取税人はどうでしょうか。彼はパリサイ人のようにあれこれ言っていません。ただ一言です。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)これが、人間が神さまに受け入れていただくときに申し上げるべき、最善にして最高のことばです。実はこれ以外、人が神の前に言うことばなどないのです。取税人は、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った」と書いてあります。これは、具体的なある場面の描写ではなく、たとえの中の設定です。つまり、これらの表現には「神さまに近づけない、顔向けできない、そしてこの間違った道を心ならずも選んでしまった」という深い悔悛の情が表現されています。しかし、だから神さまに背を向けるのではなく、自分の中にある何かではなく、ただ神さまの憐れみにすがるという態度が生まれるのです。神は「砕かれた悔いた心」をさげすまれる方ではないと書かれています。むしろ、そのような心こそが、神への本当のいけにえなのだと聖書は語っています。(詩編51:17)取税人が神さまに届く祈りをしたのに対し、パリサイ人は「自分の心の中」で祈っています。(ルカ18:11) 宗教はどこまでいっても「心の中」の問題です。その人の心の中だけでグルグルグルグル回っているのです。ある時はゴキゲン、ある時は救われた気分だが、ある時は絶望し、みじめな気持ち。そういう繰り返しです。いつも自分の心を見つめている人は、人のことも気になります。人の目を気にし、人と自分の値打ちを測ります。偉い人にはこびて、ねたんで、おじけづき、弱い人は軽んじ、さげすみ、おさえつけます。取税人はパリサイ人を気にしていませんが、パリサイ人は取税人を気にしています。取税人は、パリサイ人が自分を義とするためにどうしても必要なアイテムだからです。もう一度念を押します。宗教は天に届きません。それは所詮「心の中の現象」です。宗教に熱中する人は、自分で自分を励ましたり慰めたりしながら、優越感や劣等感をもって一喜一憂するわけです。仏教もイスラム教もキリスト教も同じです。救われた気分は、聖書が語る救いとは無関係です。天に届かぬ祈りをどれほど積み重ねても、くたびれるだけです。
私たちは神の前に「ひとり」で立たなければなりません。自分を優位に見せる誰かと比較して測るのではなく、イエスによって測るのです。そのことを知っているなら、神の前に自分を高くする要素などどこにあるでしょうか。そんなものはありはしないのです。誰だって侮辱されたり、差別されたりして、本質とは異なる低く不当な評価を受けるのは嫌です。人間が人間を理由なく侮辱したり差別したりすることは赦されないことです。人が人に対してすることでさえ決して赦されることではありません。しかし、私たちは神の子を侮辱し、差別したのです。それでも神の子イエスは黙ってそれを忍んでくださいました。そんなとき、人間は怒りにまかせて簡単に暴言を吐くものです。ののしられたらののしり返し、やられたらやり返すものです。しかし、イエスはすべてを受け入れてくださいました。(Ⅰペテロ2:22~24)そして、神の子としてではなく、人の子として、ご自分の本来のあり方を捨てて、低く低くへりくだってくださったのです。このような御方の前に立つときに、私たちは何を誇りにしようというのでしょうか。この御方の前に、おのれを粉飾、偽装して、少しでもよく見せよう、高くしよう、立派になろうという魂胆はあまりにも愚かです。この御方のことをお伝えするにあたって、自ら師を名乗り、自分を敬うことを強要したり、自分の名を上げることや名を残すことを目論だり、さらにその家族や親族で役得を世襲するという浅ましい習慣を作ることは、あまりにも愚かすぎます。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神はキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、御自身の義を表すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:23~26)取税人に義と認められる要素はありません。イエスの義が彼を覆うのです。私たちも同じです。イエスの義が私たちを覆っているのです。