2008年9月9日火曜日

8月31日 メッセージのポイント

ボアネルゲ(イエスのたとえ話21)
   マタイ25:24~25  マルコ3:13~19

A 賜物の質的な違いと量的な違い
  ○お金には質はないが、賜物には質がある
  ○互いの賜物を良く知り、大きく伸ばし、豊かに用いる
  ○質の違いがあるからこそ、互いに仕え合うことができる
  ○買うことによって、その選択に信仰が反映される

B マイナスのタラント
  ○マイナスだと感じる賜物もある
    ・・・・障害・病気や好ましくない性格も預けられたタラントの一部
  ○自分に与えられた賜物が気に入らない
  ○他の人の賜物がよく見える

C マイナスを受け入れる
  ○ボアネルゲは雷の子
    ・・・・シモンをケパと呼ばれたのとは違う(ヨハネ1:42)
  ○愛の使徒はキリスト教の言い伝え  
  ○タラントは「能力+個性」 個性にはプラスもマイナスもある  
  ○個人的に愛されているという自覚と喜びがいのちを育てる
  ○私たちがまだ罪人であったとき(ローマ5:6~11)
  ○私たちが神を愛したのではない(Ⅰヨハネ4:10,19)

D 十二弟子の選抜
  ○無学な普通の人(使徒4:13)
  ○徹夜の祈り(ルカ6:12~13)
  ○お望みになる者(マルコ3:13~14)
  ○裏切りと回復  
  ○分与されたキリストのいのちが彼らの個性の中に表現される

E タラントを埋める人
  ○「私はダメです」は謙遜ではなく不信仰
  ○「これがあなたのもの」と言うのは「自分のものが別にある」証拠
  ○「愛せない自分」「受け入れられない自分」と信仰によって向き合う
  ○「奇妙な着ぐるみ」←→「主に愛された弟子」(ヨハネ21:7,20)

8月31日 ボアネルゲ (イエスのたとえ話 21 )

マタイ25:24~25 マルコ3:13~19

 「タラントのたとえ」を読んで1番気になるのは、1タラントの人がどうしてせっかく預かったお金を地面になど埋めてしまったのだろうかということです。1タラントが事業を興すには十分な金額のお金であったことを知れば、その疑問はますます大きくなります。1タラントという金額が少なかったから、結果として他の人のようにはうまく儲けることができなかったわけではないのです。今日はその1タラントを埋めてしまう人の行動とその動機について、もう少し掘り下げて考えたいと思います。彼が自分に与えられたタラントを埋めてしまった原因として、前回指摘したのは、他の人と比べたこと、主人に対して歪んだイメージと不満を持ったことでした。1タラント与えられた人が他の人と比べて自分は乏しいと考えたのは、量的な比較です。しかし、私たちは実際に神様からお金を預かっているわけではなく、それぞれに委ねられているのは、「能力」や「賜物」というタラントです。これには、量的な違いという側面もありますが、質的な違いという側面もあり、これを見逃すことはできません。むしろ、互いの賜物の質を良く知り、それを大きく伸ばし、豊かに用いることが重要です。タラントが量的な違いだけであれば、互いの賜物によって互いに仕え合うということは出来ません。賜物は自分が儲けるためではなく、自分以外の人に仕えるために与えられているのです。仕えるために必要を感じて買うという行為が発生しまう。代価を払って買う、その選択に信仰が反映されます。
ただし、この表現も説明が不足すると誤解を助長することになりかねません。つまり、タラントというと「教会で奉仕するための能力」というような単純な置き換えをしてしまいがちです。しかし、私はそれだけではタラントの半分しか説明していません。勿論それも大事な部分ではありますが、私たちが預かっているのは、決してそのままで「良いもの」ばかりではないからです。障害や病気や好ましくない性格でさえ、神の栄光のために預けられたタラントの一部だということです。これが、今日のメッセージの中で最も強調したいポイントのひとつです。自分に与えられた賜物が気に入らない、他の人の賜物がよく見えるから埋めてしまうのです。ですから、今日の主題をボアネルゲとしました。ボアネルゲというのは、雷の子という意味です。これは「すぐにかっとなる性質」のヤコブとヨハネにつけられたあだ名でした。ガリラヤの漁師仲間や弟子達の間でそのようなニックネームで親しまれていたというののではありません。イエス御自身がつけられた名前です。これは、シモンをケパと呼ばれたのとは全く違う意味での命名です。シモンをケパと呼ばれたのは、「生まれながらの軽率で軟弱なシモンを、岩のような不動の信仰をもった弟子にする」というイエスの宣言です。(ヨハネ1:42)実際ペテロの成長のプロセスを追うと、イエスのことばのとおりにシモンがケパに変えられていうのを見ることができます。シモンは自分で努力してもケパにはなれません。自分には出来ないと心底わかったときに、神が変えてくださる。これがクリスチャンのいのちの成長の型です。しかし、ボアネルゲの場合は、ケパのように「信仰の目標地点や完成された個性」を表す表現ではなく、それは、むしろ「肉の出発点であり、未完成で不完全な受け入れにくい個性」です。タラントはある役割を果たすための能力であると同時に、その人に与えられた個性そのものであるととらえるべきだと思います。ですから、プラスの面もあれば、マイナスの面もあり、実はそのマイナスだと思っていることが実はプラスだったり、さまざまなマイナスをかかえた人たちがいることで、それをいたわり、補い合うような相互のあたたかくてやさしいつながりが生まれるのです。だからこそ、ボアネルゲという愛の使徒ヨハネにとっては不名誉なあだ名が、あえて十二弟子の名簿に添えて書かれているのです。ちなみに、「愛の使徒」などという滑稽な称号はキリスト教がつけたものです。ボアネルゲといのが、私たちの主イエスが付けられたヨハネの正しい呼び名です。ボアネルゲというあだ名は、ヨハネの短気を忌むべきものとされたからではなく、その性質をありのままを受け入れられたからであり、他の弟子にも、「この兄弟は怒りっぽいけど、そういうつもりで仲良くつきあうように」というようなあたたかくてやさしいメッセージがあったに違いないのです。しかしこれは、「あなたはあなたのままでいいのです。神はそのまま受け入れてくださいます」という甘やかしの愛とは違うのだと覚えてください。この部分だけを拡大して、義の側面を無視すると、今日のメッセージはピントがずれはじめます。
ボアネルゲと呼ばれたヨハネは、確かに「愛の使徒」と呼びたくなるようなあたたかい書簡と、偉大な4つ目の福音書と黙示録を残しましたが、ボアネルゲと呼ばれた気短で荒っぽい性質はほとんど見られなくなりました。ヨハネはキリスト教道徳によって、「怒りっぽい私」から「柔和な私」になろうしたわけではありません。イエスに従う中できわめて自然に、少しずつ変えられていったのです。ヨハネは自分がイエスに愛された弟子であることを強調しましたが、これが鍵です。この「私は個人的にイエスに愛されている」という深い自覚と喜びがヨハネを変えていきます。その体験が、彼につけられたあだ名が彼の性質とは不似合いなものとなり、やがて昆虫がさなぎを置いて成虫へと羽化するように、そのあだ名の中から抜け脱すのです。ヨハネはイエスの愛を、イエスの真実を、じっと目で見て、手でさわって感じたのです。
イエスが愛されたのは、私たちがどんなときですか。それは「私たちがまだ罪人であったとき」だとパウロは言っています。それはつまり、「愛するに値する者ではないとき」であり、「愛するに値する者になろうともしていない、全く罪にも神にも無自覚で、不信仰で不敬虔などうしようもないとき」だったのです。(ローマ5:6~11)そんな私を無条件に受け入れてくださった愛の中に浸りきることによって、いつまでも罪の中にとどまる状態でいられなくなります。私が変わるのではなく自ずと変えられるのです。「私たちが神を愛したのではない」とヨハネは言っています。(Ⅰヨハネ4:10)「愛が私たちのうちに完全なものになる」のも、「私たちがさばきの日に大胆さを持つことができる」のも、神がまず愛してくださったのだということを深く知ることによります。(Ⅰヨハネ4:19) そもそも、イエスは何のために十二弟子を選ばれたのでしょうか。彼らはイエスの伝道の効果を上げるために選ばれたわけではありません。つまり彼らがそのための能力に秀でていたからではありません。イエスはあえて「無学な普通の人」(使徒4:13)を選ばれたのです。この世の大部分の人は「無学な普通の人」です。ですから、医者のルカや、生まれながらの市民権を持つ博識のパウロは十二弟子ではありません。だから、誰でもよかったのではありません。ガリラヤ周辺の人を中心に取りあえず十二人を選んだわけではなく、慎重に選ばれたのです。その証拠に、イエスさまは十二弟子を選ぶ際に徹夜で祈っておられます。(ルカ6:12~13)十二弟子は、「ご自身のお望みになる者」であり、イエスが「身近に置くため」に選ばれたのです。(マルコ3:13~14)イエスの選抜基準は単に見栄えや能力ではないのです。なぜだかわかりませんが、その人を身近に置こうとお望みになったのです。 繰り返しますが、十二弟子は「無学な普通の人」であって、大した力はありません。十二弟子の存在は、人がいかに神の役に立たないかを私たちに見せてくれます。彼らを聖マタイだの聖ヨハネなどと崇め奉るのは、全く愚かなことです。十二弟子は組織の業績を上げるというような意味合いにおいては、全く何の役にも立たないのです。しかし、イエスは彼らを個別に選び、召しだして、三年余り寝食を共にし、友として関わり、罪人の犠牲になるというより、自ら進んで愛する友の身代わりとして十字架に架かられるのです。にもかかわらず、十二弟子はそんなイエスの思いを少しも理解せず、香油を捧げたマリヤを非難し、「自分たちの中で誰が一番偉いか」を気にしながら、ゲツセマネでは眠りこけ、十字架にかかられるときには見捨て、「この方を知らない」と誓います。裏切ったのはユダだけではありません。イエスと十二弟子の関係は、神と人の関係、神の義と人の罪、神の愛と人の裏切り、そして、神の全能と人の無能を表現するモデルなのです。このモデルの必要と、そして何よりも愛のゆえに、主は十二弟子を、そして私たちを求めてくださいました。十二弟子の裏切りと回復は、それに続く私たちのためです。
 十二弟子が役に立ち始めるのは、イエスがよみがえられてからです。十字架を経たイエスに息を吹きかけれ、彼らはよみがえりのいのちを分与され、はじめて生きた信仰を持ち始めます。善悪や義侠心によってイエスに従った結果は裏切りと深い罪の自覚でした。十二弟子はイエスによって教育され、訓練されましたが、それは、イエスのいのちが彼らの個性の中で表現されるためでした。彼らが「役に立つ者」となったのは、みことばが彼らのよみがえりのいのちの中で成就したのであって、彼らが生まれながらの力で努力して変容したのではありません。それはあくまでもいのちの結果なのです。聖霊は人の子イエスの中に宿り、死と復活を経て分与され、「弟子たち」を通して、言い換えれば「教会」という新しいからだを得て働きを継続して今日に至っています。からだの各器官が、いのちを維持するために連携するごとく、神のいのちは教会というからだの中で確かに機能しています。からだはかしらであるキリストとしっかり結びついてこそ、そのいのちの機能を発揮します。キリストのいのちの営み、すなわち霊的な教会の建設は、この世の組織や階級、儀式や習慣とは、全く別の次元で行われているわざです。いのちの活動は、非常に自然で自動的です。私たちが確かにイエスを信じているなら、一人ひとりは間違いなくそのからだの一部としての何らかの役割を担っています。その役割のためのタラントを預かっていないことなどあり得ないのです。ですから、その事実に対して目が開かれ、信仰によって意識的にとらえ、アスリートのようにそれを鍛え、用いることができるなら、それはからだ全体の益になることは言うまでもありません。あなたは、自分の賜物が何だかわかっていますか。私には何もありません。「私はダメです。力不足です」というのは、謙遜ではなく、傲慢で不信仰なのだと肝に銘じてください。主は本当にあなたに何もくださらなかったのですか。未だにまだそんなことを言っているとしたら、1タラントの人と同じ言い草ではないですか。「ご主人さま。あなたは蒔かないところから、刈り取り、散らさない所から、集めるひどい方だとわかっていました。私は怖くなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。」(マタイ25:24~25)この人は、主に預かった1タラントを地に埋めて、それを掘り起こして「それはあなたのものだ」と言って返しています。つまり返したあなたのもの以外のわたしのものを暗示する表現です。ここにこの人の最も大きな問題があります。地に埋めなかった、1タラント返した後に残っている「わたしのもの」「わたしの分」とは、いったい何なのでしょう。1タラントの人は、主のものと自分のものを分離し、他の兄弟の働きも自分とは無関係な利益だと考えていたことに大きな問題があります。主と私はもはや分かちがたいほどひとつです。だからこそ、肉は罪をもったままですが、私は主にあってすでにきよいのであり、どこかで主と私の境目や区切りがあるとしたら、そこから私は腐っていくでしょう。キリストの血の贖いが、私を部分的にではなく、完全に覆っているのです。主と私がひとつであるなら、贖われたあなたと私、兄弟姉妹も主にあってひとつなのです。主はそうおっしゃっています。 だから、私たちは進んで交わるのです。
十字架は自分を否むことですが、それは決して自分を愛さないことではありません。主が受け入れてくださった私を、主が与えてくださった私の個性を愛することです。自分を受け入れ、愛することを知らない人は、絶対他人を受け入れたり、愛したりは出来ません。自分自身を愛することを知らない人が、他人を愛することなど出来るはずがありません。「自分を愛するように隣人を愛する」のです。自分を愛せない人には、隣人は愛せません。主が愛された私を受け入れることは「我が身かわいさ」とは根本的に違います。ところがキリスト教は、「我が身かわいさ」はいけないので、「自分はさておき、隣人を愛する」というスローガンをかかげました。さらに「自分の中のマイナスを憎んで取り除こう」という長期キャンペーンを行いました。そんなプラスの要素だけを固めた無個性なキリスト教的着ぐるみは、実に味気なく不気味です。反対にボアネルゲとは、いかにも愛嬌があるではないですか。愛せない自分、受け入れられない自分と信仰によって向き合うこと、これは基本中の基本なのですが、多くの人たちが棚上げしている問題です。これが出来ないから、心の病気になるのです。へんな着ぐるみを来たまま、風呂に入ったり、トイレに行ったりしているわけです。どう考えても不自然です。 私たちは、健やかでいましょう。「主に愛された弟子」と福音書の中で自己主張しても良いのです。(ヨハネ21:7,20)ヨハネがこのように書けのたは、イエスにあだ名をつけてもらい、それを受け入れたからです。