2008年10月24日金曜日

10月19日 メッセージのポイント

披露宴のたとえ (イエスのたとえ話 26)

 マタイ22:1~14

A 神を拒む3つのたとえ
  ○ ふたりの息子のたとえ(マタイ21:28~32) 
  ○ 悪い農夫のたとえ(マタイ21:33~44)
  ○ 披露宴のたとえ(マタイ22:1~14)
     「ユダヤ人の指導者たちが、待ち望んでいたはずのキリストであるイエスを拒
     むことによって、罪人や異邦人たちに救いが広がっていく」
         →唯一の神からの栄誉よりも互いの栄誉を重んじた(ヨハネ5:44)
         →新しい着物を着ようとは思わなかった。
            古い権威への執着(マタイ21:23,45~46)

B 披露宴の象徴するもの
  ○ 王・・・・父なる神     
  ○ 王子・・・・御子イエス
  ○ 披露宴・・・・教会の交わり 
  ○ 招待しておいた客・・・・ユダヤ人
  ○ 大通りで集められた人・・・・異邦人 

C 「礼服」こそが参加資格
  ○ 当時のユダヤでは、王は招待客に晴れ着を送る習慣があった
  ○ 礼服を着ているかいないか・・・参加資格は「人」ではなく「服」
    「礼服を着ている悪い人は楽しく飲み食いしているのに、礼服を着ていない良い
    人は手足を縛られて放り出されているということも当然起こり得る」
  ○ 礼服はイエス・キリストの義による贖い
  ○ 礼服を着ていくことは信仰の告白 
    「私は罪人であり、イエスおひとりが義であり、そのイエスの義が私の罪を覆っ
    ている。だから神はキリストの義のゆえに罪人の私を、そのままで受け入れる
    ことができる」(ガラテヤ3:26~27)
  ○ 礼服を軽んじることは威光を傷つけ名を汚すこと・・・・救いの拒絶
  ○ イエス・キリストを日常的に着ていること(ローマ13:14)

D 天の御国とは
  ○ 父なる神のご人格そのもの(マタイ22:2)→イエスを味わうこと
  ○ 人となられたイエスがおられない世界は本質的に空っぽ

10月19日 披露宴のたとえ (イエスのたとえ話 26 )

マタイ22:1~14

先週に続いて、宴会のたとえ見ていきます。前回は「ある人のある宴会」だったのに対して、今回は、「王が王子のために催した結婚披露宴」という設定です。少し具体的ですね。この「披露宴のたとえ」(マタイ22:1~14)は、「ふたりの息子のたとえ」「悪い農夫のたとえ」とあわせて共通のテーマで語らえた言わば3部作のたとえの最後の部分です。「ユダヤ人の指導者たちが、彼らが待ち望んでいたはずのキリストであるイエスを拒むことによって、罪人や異邦人たちにも救いが広がっていく」というメッセージを、この3つのたとえは伝えています。イエスはその異邦人たちの救いの計画を語りつつ、その根底には本来招かれていたはずのユダヤ人に対する深い悲しみが表現されています。従って、福音の世界的な広がりを暗示するたとえでありながら、何ともせつなく、どうにもすっきりしない印象を受けます。聞き手の抱える問題のゆえに、イエスはたとえに宴会の楽しさや本質を盛り込むことができなかったのです。
ユダヤ人の指導者たちは、唯一の神を教えられながら、救いを心や思想の問題にすりかえてしまいました。人間の言い伝えや規則を民衆に説きながら、それによって自分を高めようと努力していました。神様に罪が赦されることより、人から尊敬されることやよく思われることを重んじたのです。(ヨハネ5:44)また、群衆たちも、最初はご自分が救い主であることの証拠としての癒しや奇跡を行われている間はイエスに付き従っていますが、政治的状況が改善されないことを見て失望し、やがて離れ去っていきます。先々週にお話した「古い着物に新しい着物を継ぐ」という愚かな目論見は、いずれをも無価値にしてしまうのです。古い着物一枚しかないときには、それを着るしか選択肢はないわけですが、新しい着物があればそれを着ればいいけです。わざわざそれを切り刻んで、古い着物を繕う必要はありません。ところが、彼らは新しい着物をそのまま着ようとは思わなかったのです。今日のメッセージの核心部分もこの新しい着物と関連しています。あくまでも自分たちの古い価値観のものさしでイエスを測り、相互の評価や既得権にこだわっています。(マタイ21:23,45~46)
このたとえの中で、語られている王とは「父なる神」であり、王子とは「御子イエス」であり、披露宴とは「教会の交わり」すなわち「救い」です。そして、招待しておいたお客は「ユダヤ人」を、大通りで集められた人は「異邦人」を指しています。当時のユダヤでは、客を招待しておいても時刻は知らせず、準備が整ってから召使が案内して回るのが普通でした。ユダヤ人は自分たちが招かれていることを承知の上で、はっきり拒みました。その理由は畑や商売などのためでした。(同22:5)宴会への出席を拒んだ理由については、ルカが紹介したたとえほど詳細は書かれていないのも特徴的です。仕方なく、しもべたちは通りに出て行ってあらゆる人を招きました。こうして、世界中に福音は広がり、たまたまそこにいあわせたような人、旧約聖書を知らない昨日まで偶像を拝んでいたような私たちにさえ救いが及びました。ですから、その中にはいろんな人がいて、中に礼服を着ていない人もいました。    
ユダヤでは旧約の時代から、王様は招待客に晴れ着を送る習慣がありました。この礼服こそ、最大のポイントなのです。この礼服とは何を意味しているのでしょう。果たして、王はそれぞれの「人」ではなく「礼服」を招いたのでしょうか。救いとは単なる天国の数あわせのようなものなのでしょうか。しもべは、誰でもいいから、往来で見かけた人を良い人も悪い人も集めて来たわけです。良い人が受け入れられ、悪い人が拒まれるというのなら、まだ納得がいきますが、ここでは「礼服を着ているか着ていないか」ということが、この披露宴の参加資格になっています。礼服を着ている悪い人は楽しく飲み食いをしているのに、礼服を着ていない良い人は手足を縛られ放り出されるということも当然起こり得るのです。この極端なまでの扱いの差はどうしてなのでしょう。皆さんは不思議に思われませんか。このたとえは、「礼服」が何を象徴するものなのかわらなければ、絶対理解できないし、納得のいかないたとえです。私もはじめてこのたとえを読んだときには、何となく気分が悪くなりました。もともとどんな種類の宴会も嫌いな私は、誰がこんな王様の招きに応じるものかと反発を覚えました。つまり、簡単に神さまの思惑通りには反応したくない。安易に神さまにしっぽをふって気に入っていただこうなんて思わなかったのです。これは、無知だった頃の私の個人的な感じ方でした。しかし、この礼服の意味することの深さと愛がわかり、自分の罪がわかり、今ではこの礼服なしに神の宴に出ようなどということは想像だに出来ません。
この礼服は、神が備えられた新しい着物です。それは、イエス・キリストの義を象徴するものです。そしてそれを着ていくという行為は神への信仰告白です。その告白の内容はこういうものです。即ち「私は罪人であり、イエスおひとりが義であり、そのイエスの義が私の罪を覆っている。だから、神はキリストの義のゆえに、罪人の私をそのままで受け入れることができるのだ」という告白です。ですからこのとき、「私が何者であるか」ということは大事なことではないのです。たとえの中で、全くどうでもいいような人がその個人の資質とは無関係に、言ってみればかなり乱暴に招かれていることにちょっと奇異な、あるいは不快な印象を持たれたかも知れません。しかし、そういう描き方をしなければ、この一番重要な救いの真理は伝わらないでしょう。招かれる側には「礼服を着ている」ということ以外には、王がプラスの評価する要素は何一つないのです。(ガラテヤ3:26~27)ですから、逆にその礼服を着ていない人は、王からもらった礼服を軽んじることによって、その威光を傷つけ、名を汚したのです。つまり、披露宴そのものを軽んじたのです。先程お話ししたように、この礼服は招かれた際に、王のしもべによって無料支給されていました。誰でもその気になれば、それを羽織って参加することが出来たのです。そして、それはキリストの義と贖いの必要を認めず、自分の罪を軽んじ、救いを拒んだことに等しいのです。
救いは、決して人間の努力や犠牲によって得られるものではありません。「天の御国は、・・・王にたとえることができる」とこのたとえの冒頭にあります。(マタイ22:2)天の御国とは、父なる神ご自身の人格そのものなのです。これこそ、救いにおける最も重要なポイントです。宴会の本質はまさにそこにあります。宗教の描く天国は、「平等で平和な世界」「病気や死がない世界」というようなものでしょう。祈りのことばや賛美の歌があっても、そのことばが流暢で、声が大きくても、人となられたイエスがおられない世界は本質的に空っぽなのです。なぜなら、イエスは御国の王子であり、王は結婚を祝いたいのです。この結婚とは、キリストと教会の結婚です。つまり、この祝宴は、「神と人とがひとつになるという奥義」を表現した祝宴です。それがどれほど重要なものであるかは言うまでもないことです。何にも勝って最優先すべき事柄なのです。王と王子はひとつです。父と御子がひとつであるように神と人が一つになり、兄弟たちもキリストにあってひとつになるのです。救いとは、神がどのような方かということを味わうことに他なりません。前回は、私たちの中にある最も大切な救いの証は、「イエスに対する愛」であると申し上げました。愛する相手がどのような人格の持ち主であるかを知らずに愛することなど絶対出来ません。神のひとり子イエスを知ることが父を知ることであり、イエスによって示された愛が私たちへのメッセージです。神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛されたのです。(ヨハネ3:16)御子を与えた父は、御自身以上のものを与えたののです。この王(王子)とひとつになってユダヤに来られたのです。(マタイ21:5)以上が、私たちがこの宴会に集って味わうべき内容です。
私たちがそれを味わう前提として、御子の血による贖いが、まず父の義をなだめています。「父の義をなだめる礼服」がひとりひとりのために準備されることなしに、この婚礼の祝宴はありませんでした。礼服は神の小羊イエスの血が流され、その皮を提供することで得られたのです。「なだめの供え物」とはそういう意味です。そもそも、この宴会は私たちが計画したり、参加をお願いしたりしたのではありません。パーティ―券を買ったのではなく、一方的に礼服を与えられ招かれたのです。これはすべて父の企画、父の演出です。この結婚は父の願いであり喜びなのです。そして、それは何よりも王子のためです。招待客のために披露宴を催すのではありません。救いを救われる側の人間中心ではなく、救う御子中心の視点でとらえて聖書を読んでいけば、これまでとは違うものが見えてくるでしょう。長い時間かけて準備され、待ち望んで来られた父の熱心さに比べたら、私たちは、このたとえにある通り、「たまたま道を歩いて王のしもべに出会った悪人」に過ぎないわけです。「誰も私を十字架につけたものはいない。自分から十字架にかかるのだ」(ヨハネ10:18)というのが、イエスの証言です。こういう角度から十字架や復活を見ていく必要があります。古い衣に新しい衣を継ぐようなみことばの引用は避けるべきです。古い衣を脱ぎ捨てて、新しい衣をそのまま着るのです。それが礼服を着て宴会に参加するということです。
救いに関するもうひとつの大きな誤解をもう一度はっきり修正しておきましょう。それは、「救われればいくらか立派になるはずだ」という考えがやはり根深くあることです。つまり、何らかの超自然的な力で道徳的になっていくのではないかと思うのです。生まれながらの人間性を改良、あるいは修正して立派になれると考えるのは大きな間違いです。聖書は生まれながらの人間性を「肉」と呼んでいますが、これは、キリストに反するもの、御霊の思いに敵対するものです。これは、古い着物、古い皮袋なのです。もう一度繰り返します。古い肉に神の領域の霊的なものを継ぎ接ぎすることはできません。古い皮袋に新しいぶどう酒の力がみなぎるとそれは破けてしまうのです。私たちは.全く新しいいのちである御霊の実を結みます。御霊の実は、みことばという種が成長したものです。かたちや色や香りが似ていても、みことばの種が結んでいない実は、御霊の実ではありません。品種改良された古きものではありません。クリスチャンでなくても、柔和な人、親切な人はいくらでもいます。しかし、それは、神の前に喜ばれるようなものではありません。それは、白く塗った墓(マタイ23:27)であることが多いのです。礼服を着ていない良い人は神の宴会に連なることは出来ないのです。それが神の基準であり、神の評価です。クリスチャンの妙なエゴを強調する人は、このあたりをどこかはき違えています。自分が値なしに受け入れられていることを思えば、信仰を持っていない人たちを理由なく見下すような態度は間違いであることに気づきます。彼らはかつての私たちのように往来を歩いているだけなのです。御霊の実を結んでいても、イエスから目を離せば罪を犯します。ダビデやペテロの失敗を見れば明らかなように、どれだけ偉大な信仰の人であっても、その人の信じる力が充電されて、その人自身が立派になって、神の助けなしでいられる瞬間などないのです。イエスから目を離せば、誰であれすぐに転落します。救いとは、免許をとるようなものではありません、しっかりと目を見開いて運転し続けることなのです。洗礼を受けておいたから安心とかいうようなものではないのです。
「主イエスキリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:14)とパウロは言っています。礼服を着ていることが、なぜここまで大きな問題になるのかはこれでおわかりだと思います。

10月12日 メッセージのポイント

宴に招かれたなら (イエスのたとえ話 25 )

 ルカ14:15~25

A 救いとは
  ○ この世においては・・・・古きものの変化にすぎない
     ・ 大きな悩みが解決した
     ・ 気分が楽になった
     ・ 何かに励まされた→状況の改善→考え方や生き方の転換 
  ○ 聖書においては・・・・全く新しい創造
     ・イエス・キリストの血による贖い
     ・永遠のいのちの地上での始まり
     ・生まれ変わり

B 救いを証するもの
  ○ 正しい告白(ローマ10:8~10)
  ○ 内なる喜び(ヨハネ16:22~24)  
  ○ イエスへの愛(Ⅰペテロ1:8)

C 宴会のたとえの背景
  ○ 上席を選んで座ろうとする人たちの心にあるもの
  ○ 神の国で食事をする人の幸いとは?

D 宴会の心得
  ○ 招かれたら末席に座れ
  ○ 招くときにはお返しの出来ない人を招け

E  断る理由    
  ○畑を買った(Ⅰコリント3:9)    
  ○牛を買った(詩編147:10~11)    
  ○妻を迎えた(エペソ5:32)    
         ↓ ↓
  「神なしでやっていける」という傲慢
  「神と一緒だと窮屈」という誤解  

10月12日 宴に招かれたなら (イエスのたとえ話 25 )

ルカ14:7~24 

救われるとはどういうことでしょう。私たちが普通「救われた」というとき、「大きな悩みや問題が解決すること」を指したり、広い意味では、「気分が楽になった」とか、「何かに励まされた」とかいう場合も使ったりします。しかし、聖書で言う救いとは、「イエス・キリストの血による贖い」であり、「永遠のいのちの地上での始まり」です。救いは、私たちの存在そのものに関わる問題であって、単に考え方や生き方が変わるとか、状況が改善されるとかということとは全く違う次元の話です。当然、罪の贖いや新しいいのちの結果として、「考え方」や「生き方」も大きく変わりますが、それはあくまでも、後からごく自然に「そのこと自体を目的とせずに」達成されるのです。
もう少し具体的にお話していきましょう。先週、引き取り手のない犬の飼い主を求めてお越しになった方がいましたが、彼の第一声は、「ここはキリスト教の教会ですよね・・・・」でした。それから、「事情のある犬を引き取ったけれども育てられない」というお話をされました。彼の中にあるキリスト教会のイメージが、散歩中の彼の足を止め教会の扉を開けさせたわけです。そのイメージとは、「教会は人を大切にするところだろうから、動物のいのちだって守ってくれるはずだ」というものです。言ってみれば、人助けや・・・今回のケースは犬助けですが・・・こういう小さな徳を積み重ねるところが、彼にとっての教会なのです。その人が別に悪いわけでも軽薄だと言いたいわけでもありません。しかし、多くの場合、教会を訪れる人は、まるでタウンページでふすまの張り替え業者を探すように、個別の悩み解決のためにやってくるわけです。誤解がないように念を押しますが、勿論それはとっかかりとしては間違いではありません。イエスに自分から近づいて行った人たちは、病をいやして欲しかったり、目が見えるようになりたかったりという願いを持っていました。キリストにこのことをしてもらいたいというのは、キリストにそれが出来ると信じている点において意味があります。また、「わたしに何をして欲しいのか」という問いは、絶えず主から私たちに対しても向けられています。しかし、逆にそれは「わたしへの要求はそれだけでいいのか」「一番優先すべきことはそんなことか」という内容も含んでいます。
その犬の件については、聞かれていた方もいたと思いますが、私は次のように答えました。「教会はかわいそうな犬のお世話をするところではありません。教会の働きとは関係ないけれど、力になってくれそうな友人が数名いるので声をかけてみます。」犬の飼い主が見つかりさえすれば、彼が教会に来る理由はなくなってしまうでしょう。結果はどうなるかわかりません。彼は犬の飼い主を見つけて「助かった。救われた」と言うようになるかもしれませんが、それだけでは、彼のもっと本質的な問題は何も解決していません。同様に、英会話やゴスペルで生き甲斐や充実感を味わったとしても、麻薬やアルコールやギャンブルの依存症が治っても、いわゆる教会の奉仕とやらに精を出しても、それが、単に「考え方」や「生き方」のレベルにとどまっているとしたら、「犬の飼い主が見つかった喜び」と大差ないのです。それは悪いことではありませんし、彼のやさしさはむしろ賞賛すべきですが、それは、人生の最優先課題ではないということです。今日の話の核になるのは、この最優先課題です。最優先課題とは、言うまでもなく、「罪の贖い」であり、「生まれ変わり」です。これは「一時的な喜びや解放感」ではなく、「永遠に育まれていく愛」です。神は唯一であって、私たちは、現在生きて働かれるイエスを愛しているのです。「神を愛すること」これがすべてなのです。仏教徒は釈迦を尊敬し、その教えを大切にしていますが、釈迦を熱烈に愛しているわけではありません。また、多くの自称クリスチャンも「教会で祈りを捧げるわたくし」を愛しているだけで、本当の救いは、拒み続けています。十字架はファッションではありません。人間が首にぶらさげるものではなく、人間がそれに磔けられねばならないのです。心が楽になっても思想が充実しても救われません。人間の本質は霊です。人間は霊的な存在です。救いは霊的な変化です。では、私が救われたかどうか、ある人が救われているかどうかは、どうしてわかりますか。天からメンバーシップを表すゴールドカードが降ってくればわかりやすいし、そのしるしやナンバーを確認しあえれば、本物と偽物はもっとはっきりするでしょうが、そんな便利なものは降ってきません。だから、不安になって教団にメンバー登録したり、献金を納め続けたり、洗礼証明書を発行したりするのでしょう。私たちが救われているかどうかを証するものは3つしかありません。そして、それはどれも目に見ることも、手に取ることも出来ません。私たちの証は、「みことばに基づいた正しい告白」(ローマ10:8~10)と「奪われることのない内なる喜び」(ヨハネ16:22~24)そして「イエスへの愛」(Ⅰペテロ1:8~9)です。それ以外は存在しないし、存在してはいけないのです。救いとは、霊においてイエスとひとつになることであり、私たちがその次元で救われているかどうかは、イエスに対する愛によって確かめられるとペテロへ言っています。先程も申しましたが、この3つ目が決定的な決め手です。告白のまねごとや、喜びに似たものには、自分や周囲を錯覚させるほどのフェイクが通用してしまうことがありますが、「イエスへの愛」は誤魔化しようのないものです。ところが、それだけでは満足出来ない人があまりにも多いので、わけのわからない宗教が生まれ、その中に封じ込められていくわけです。先週のたとえの舞台は、レビこと、取税人マタイが催した大ぶるまいの宴会でしたが、イエスも非常に不思議な「宴会のたとえ」を少なくとも2回以上話されたようです。そのひとつをマタイが、もうひとつをルカが紹介しています。今回はルカの福音書から見ていきましょう。(ルカ14:15~24)来週はマタイの福音書を見ます。要点はこうです。「ある人が盛大な宴会を催しました。いざ用意ができて招待客を呼びにいくと、それぞれに事情を言って断り始めます。その事実をしもべから知らされた主人は怒って、新たな招待客を集めるよう命じました」これはまた非常に妙なたとえです。そうまでしてこの宴会を拒む理由が何かがあったのでしょうか。予め招かれていた大勢の人たちが、申し合わせたかのように、苦しい言い訳をして何とか出席を避けようとしています。こんなおかしな宴会は聞いたことがありません。招待客にそろってドタキャンされるような宴会は、一般的に考えれば、企画そのものに無理や問題がありそうな感じがします。例えば、この話を聖書も何も知らない小学生に聞かせたらどういう反応をすると思いますか。「なんて横暴でわがままな王様だ。きっと領民に意地悪ばかりしていたから嫌われたにちがいない」と言うでしょう。普通に考えればそうです。招待客が何としても宴会に出席したくない理由はどこにあるのでしょう。理由として考えられることは、「主催者の人柄がよほど悪い」「宴会が窮屈で楽しくない」「参加すると何らかのリスクを負わされる」というようなものです。他のたとえも、普通に考えるとどこか設定や展開が奇妙であるように、このたとえも相当おかしなものです。「救いを拒む人を責める」のであれば、もう少し気のきいたたとえも出来そうなものです。しかし、イエスはそんなことはすべて承知の上です。その上であえてこのたとえをされたことには意味があるのです。
このたとえは、ある宴会で招待客が上席を選ぶ様子に気づいて注意を促された後に語られたものです。(ルカ14:7~14)そして、直接的には「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(ルカ14:15)と言った人のことばを受けて語られています。このふたつの話を関連づけて読まなければ、細かい読み違えがおこるので、心に留めておく必要があります。みことばを自分勝手につぎはぎしてはいけません。その背景をしっかり理解し、全体の文脈の流れの中で部分を見ていく必要があります。そして、聖書の他の書簡との整合性、そしてその教えが人となられたイエスの人格にふさわしいものであるかどうかを丁寧に検証しなければなりません。今回はまず最初に結論から言ってしまいますが、このふたつのたとえが教えているのは、「招待してくれた人の気持ちや、ともに集う人の気持ちを顧みずに、自分の座る席を気にしているような者は、絶対に神の国の食事を味わえない」ということです。この上席を取り合った宴会は明らかに招いた側も何らかの見返りを期待してのものであり、レビが催した大ぶるまいとは性質は違っていたようです。ですから、「宴会に招かれたなら、上席ではなく、末席から埋めていくように」(ルカ14:10)また、「誰かを招くならお返しが出来ないような貧しく弱い立場の人たちを招くよう」に言われたのです。(ルカ14:12~13)この後半の部分が、後で語られるたとえの中で、最終的に招かれた人たちが、お返しの出来ないような人たちであったことと重なっている理由もおわかりいただけると思います。続いて、宴会を断った人たちの理由を細かく検証しましょう。まず、一人目です。「畑を買ったので、見に行かなければなりません。」(18)みことばによれば、私たちが神の畑であって、神御自身が農夫です。私たちが全く別の収穫を期待した畑を持つことは出来ません。その畑が私たち自身であっても、神に耕されることなく、神から離れて自己管理することは出来ないのです。(Ⅰコリント3:9)二人目の人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」(19)と言っています。要するに神以外の力を金で買い、それを最優先したことに問題があります。象徴的な意味はともかく、実際の畑仕事のために、計画的に牛を買うことは間違いではないし、むしろそれは正しい管理です。仕事をする代わりに一日部屋で祈っても収穫などありません。実際には人なり牛なりがきちんと働いてこそ実りが得られるわけです。ダビデも訓練された家来を持ち、自らも戦士としての技能を保ち、戦いの際には馬や戦車を利用しました。しかし、それを勝利のための必要十分条件とは考えていませんでした。救いや勝利は主の御手の中にあると知っていたのです。(詩編147:10~11)三人目の人は、ちょっと違った理由です。「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」(20)聖書は結婚を否定し、夫婦の絆を引き裂くものなのでしょうか。全く逆です。結婚については、「夫婦は一心同体で、神が結びつけたものを離してはならない」とまで言われています。それでは、何が問題なのでしょう。それは、夫婦のつながりから神を除外したことです。夫婦が一心同体であるのは、あくまでもキリストと教会にあってのことです。(エペソ5:32~33)これはみことばによるのではなく、個人的な観察による私の勝手な思いですが、人間的に愛の強い人は、愛の純粋さを求める人は、結婚生活がうまくいかないケースが多いにように思います。結婚生活は、その雛型があまりにも素晴らしすぎて、神さまのいのちの満たし抜きでは到底やりくりしきれないのです。これは私の個人的な考えではなく神のことばです。キリストと教会の雛型であることを信仰によって意識することになしに、お互いを「本当に尊重し愛し合うこと」は、絶対出来ません。妻のことを、「これは私の骨からの骨。肉からの肉」と讃え尊んだとしても、何かがおこったときに、相手を責めるのが人間です。最初はお互い裸でも恥ずかしくなかったのに、お互いに恥部を覆いました。それは、神のまなざしに耐えられなかっただけではなく、お互いのまなざしにも耐えられなかったのです。なぜなら、人は善とは何であるかを知ってしまったからです。新婚を理由に宴会の出席を拒んだ人がどうして責められなければならないのかもおわかりいただけたでしょうか。それぞれ宴会の出席を拒んだ理由はさまざまですが、三人に共通して言えるのは、「神なしでやっていける」という傲慢、「神と一緒だと窮屈」という誤解です。彼らは予めの招待客であって、主人の人柄や宴会についてある程度の予備知識があった人たちです。だからこそ、宴会主催者の怒りは大きいのです。彼らの代わりに招かれた人たちは、招かれる理由も資格もなかった人たちです。私たちの救いはこの末席から始まります。

10月5日 メッセージのポイント

新しい着物・新しいぶどう酒・新しい皮袋 (イエスのたとえ話 24 )

 ルカ5:36~39 ヨハネ2章 創世記3章

A 取税人レビの回心と大ぶるまい
  ○ パリサイ人たちの論点・あなたの弟子は全然頑張っていないじゃないか・あなたの弟子は楽(らく)をして楽しそうじゃないか
  ○ レビの思い
     ・ イエスと出会って自分が変えられたことが嬉しい
     ・ イエスが自分の催した宴の中心におられることが嬉しい
     ・ 何とかしてイエスを皆に紹介したい
  ○ イエスの答え
   ・ 花婿である私とともにいることを彼らは喜んでいるのだだから、これでいいのだ

B 古い着物と新しい着物
  ○ 当時の人の暮らし(出エジプト22:26~27)
  ○ 古い着物(アダム由来のもの)新しい着物(キリスト由来のもの)
  ○ 古い着物をベースに新しい着物を切り裂いて継ぐことなどあり得ない
    →生まれながらの私たちを脱ぎ捨てて、ギリストの義の衣を着ること

C ぶどう酒と皮袋
  ○ 新しい皮袋は弾力性があるが、古くなると硬くなる
  ○ 新しいぶどう酒は発酵途中で生命力にあふれているが、おいしくない
  ○ 古いぶどう酒は価値がある
  ○ 古い皮袋に新しいぶどう酒を入れるとガスが発生して破れてしまう

D 古い物と新しい物・ふたつのたとえの整合性
  ○「新しいぶどう酒は福音のことで、新しい皮袋はクリスチャン生活のこと。みなさんも救いを受けたのだから、それにふさわしい教会生活を送りましょう」ってホント?
  ○ 新しいぶどう酒は神さまがくださるもの、新しい皮袋は私たちが準備するもの?
  ○ いちじくの葉(創世記3:6)・・・・「古い着物」「古い皮袋」
    皮の衣(同3:20)・・・・      「新しい皮袋」「新しいぶどう酒」
  ○まことの飲み物はどこから来るのかを知り味わうこと(ヨハネ2章) 

10月5日 新しい着物・新しいぶどう酒・新しい皮袋 (イエスのたとえ話 24 )

「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しいぶどう酒を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」(ルカ5:36-39)

 このたとえは、レビこと取税人マタイが自宅を開放して催した宴会の席で語られたものです。パリサイ人たちは、「なぜイエスが取税人や罪人たちと一緒に飲み食いするのか」とたずねた後、イエスの答えには納得いかず、さらに訴えます。それは、「ヨハネやパリサイ人たちは、断食や祈りをしているけれど、あなたの弟子は食べたり、飲んだりしています。」(ルカ5:33)という内容でした。要するに、律法を重んじている人たちはがんばってしんどくてつらいことに耐えているのに、あなたの弟子は、全然がんばっていないじゃないか。楽(らく)をして楽しそうじゃないかと言っているのです。これは実に面白い指摘で、今のキリスト教の世界でも、同じような様子を見ることができます。本当はやりたいことを無理して辛抱している人は、他人にもその辛抱を強要する傾向があります。そればかりか、「どれだけ辛抱しているか」で人を測る物差しにさえします。これは実に宗教的です。放蕩息子とそのお父さんの物語で、兄息子が弟の放蕩を軽蔑しつつどこかでその自由を羨望し、自分は窮屈で辛くてしかもそれを辛抱し続けてきたのに、お父さんは評価してくれなかったじゃないかと文句を言う心理状態と同じです。この問いかけに、イエスがどのように解答されたかに注目しましょう。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友達に断食させることが、あなたにできますか。しかし、その時がやって来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します」(ルカ5:34~35)つまり、イエスの答えは、「彼らは花婿を喜んでいるのだから、喜んでいいのだ。」という主旨のものでした。律法主義者達が、自分の信仰のスタイルこだわっているのに対し、「福音を受け入れた人たちは、単純にイエスとともにあることを喜んでいるのだ」ということです。
 このことをさらにわかりやすくするために、イエスは今日の中心主題である「新しい着物と新しいぶどう酒と新しい皮袋のたとえ」を話してくださいました。なぜあえてこういう表現をしているのか、やがて明らかにあると思います。それでは、宴会をしているレビの食卓に招かれたつもりで読み進みましょう。レビの家に招かれた人達の中には裕福な人もいれば、貧しい人もいたでしょう。おそらく、継ぎはぎだらけの上着をまとった人もいたでしょう。しかし、食卓の上には何種類ものぶどう酒が並んでいたし、料理もふんだんにありました。わざわざ「大ぶるまい」と書かれているぐらいですから、かなりの規模だったはずです。何しろレビは取税人ですからかなりの金持ちです。金はありましたが、多分ケチだったので、こうして振る舞う友もなく、こういう楽しい機会もあまりなかったはずです。ですから、レビはこういうホスト役としては全く不慣れだったと考えられます。この宴会も、お酒や食材はふんだんにあったでしょうが、それほど洒落たパーティーではなく、どことなく締まりのない品格や美意識に欠ける宴会だった違いありません。「趣味の良い」パリサイ人たちにしてみれば、見かねる様子だったのかもしれません。しかし、レビはイエスと出会って自分が変えられたことが嬉しく、イエスが自分の催した宴の中心におられることが嬉しく、そんなイエスを何とかして皆に紹介したかったのです。以上がイエスがこのたとえを語られた背景です。イエスは、そこに居合わせた人たちの心を読み取り、誰もが今身に着け、味わっているものから、わかりやすく話されたのです。
このように、私たちの日常の中には、多くの神の教訓やメッセージが隠された宝のように埋め込まれています。それらをひとつひとつ丹念にみことばによって掘り起こすような感性が必要だと思っています。今年、私がイエスのたとえをひもといてひとつずつ出来るだけ丁寧にお話しているのは、単にそのたとえの意味を解説するためではありません。イエスが人として、この世界で何を見、何を感じ、目に見えない世界をどのように解き明かされたのかを知ることによって、私たちが「今、目にしているもの」を「目に見えない本当の価値」と正しく結びつけるためです。イエスは神の子であるがゆえに、その全知の力で、世界の設計者として、被造物の世界を解き明かされたのではないと、私は思っています。イエスは人としての経験を通して成長され、人としての感性を培われました。目に見えない世界や永遠のことも、人として、信仰によって獲得されたのだと考える方が聖書的です。たとえから学ぶこと、それは、イエスの信仰を学ぶことなのです。
 たとえの内容に戻ります。当時のユダヤ人は大きな布で出来た上着を身にまとっていたようです。その上着を、貧しい人たちは年中ほとんど一枚か、ほんの数枚だけで過ごしていました。時に布団代わりにもされました。そんなわけで、それは古びて傷み、継ぎはぎもたくさんあったでしょう。乾燥した地域ですから、日本とは違い、かなり長い期間着たきりというのが一般的だったのでしょう。 「もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のたった一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう」(出エジプト22:26~27)と律法には記されているところからも、一般の庶民の暮らしが伺われます。その上着は、私たちの汗や油を吸い込み、ほこりや汚れをいっぱいつけたどうしようもないものです。そんな古い着物をベースに穴やほころびに「新しい布」、すなわち「イエスの義の衣」を引き裂いて継ぎをするなんてあり得ないことです。どう考えても、古びた上着を脱ぎ捨てて、イエスの義の衣を着るべきです。 もう一つは「ぶどう酒と皮袋のたとえ」です。ぶどう酒も当時の生活には欠かすことの出来ないものでした。この宴会の席でも当然ぶどう酒は振る舞われていたはずです。そのぶどう酒を保存するのに、樽や瓶などというものがないので、皮袋が使われていました。皮袋は、新しいうちは弾力性があって丈夫ですが、古くなると次第に弾力性が失われ硬くなります。そんなこわばり、くたびれた皮袋に、まだ発酵が続いている新しいぶどう酒を入れるとどうなるでしょうか。発酵中のぶどう酒はガスを発生し、古い皮袋を破いてしまいます。ぶどう酒の強い生命力に負けてしまうのです。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるできなのです。では、このことでイエスが伝えたかったことは何でしょう。良く語られるのは、次のような解釈です。「新しいぶどう酒というのは福音のことで、新しい皮袋はクリスチャン生活のことです。みなさんも、救いを受けたのだから、それにふさわしい正しい教会生活をしましょう。」さて、本当にこんな幼稚な教えを説くために、このふたつのたとえが必要ですか。このたとえが語られたのは、レビとそのなかまたちの宴会の場所です。「こいつらは、正しい生活をしていないじゃないか」という一見正しい人たちの側からの批判がベースにあったことを思い出してください。さらに、もうひとつ覚えておいてください。当時の一般常識として、「新しい着物で古い着物をつぐ人や、新しいぶどう酒を古い皮袋にいれる人は絶対いない」ということです。そんなことは当たり前でわかりきっていることなのです。このふたつのたとえは、その取り立てて言われなくてもわかっていると思っていることの本質的な意味が、実は分かっていなかったという話です。「正しい教会生活、あるべきクリスチャン生活をしましょう」というのは、このたとえの中では何のことですか。「古い着物」「古い皮袋」のことでしょう。そんな薄っぺらの自己満足や人の道徳に、十字架にかかられた御方の義を、アップリケみたいに、継ぎはぎするのですか。神の小羊が流してくださった尊い血を私たちの正しい行いとやらの皮袋にいれるのですか。そんなことは出来るわけがないじゃないですか。こういう基本中の基本を、全く間違って教えている教会が多いのです。多少のニュアンスは違うかもしれませんが、「新しいぶどう酒は神さまが与えてくださるもの、新しい皮袋は私たちの側で準備するもの」という捉え方で語られているはずです。この切り口だと、前半の着物のたとえとの整合性がわからないので、ぶどう酒のたとえが単独で語られているはずです。調べてみてください。たいていそのようになっていると思います。
アダムとエバが罪を犯したとき、あわてて腰を覆いました。ふたりでいちじくの葉をつづり合わせたのです。これが人の宗教であり、このたとえに当てはめるなら「古い着物」「古い皮袋」にあたります。(創世記3:6)しかし、神はそれでは不十分なので、新しい着物を与えてくださいました。それは皮の衣でした。(創世記3:20)これが、「新しい着物」「新しい皮袋」にあたります。念のため、お尋ねします。いちじくの葉は誰が準備しましたか。・・・・人です。皮の衣は誰か準備しましたか。・・・・・神です。「新しい着物」「新しい皮袋」は、罪を犯した私たちには決して準備できないものなのです。では、もうひとつの質問です。皮袋のもとは何ですか。・・・・・・それは動物のいのちです。この皮の記述は、聖書の一番初めに出てくる「血による贖いといけにえの型」なのです。
ぶどう酒についてもう少し考えてみましょう。皆さんもよくご承知のように、ぶどう酒は古いものの方が新しいものよりも価値があります。「この箇所でも、「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです」(ルカ5:39)と書かれています。これは、人の感想です。伝統的な宗教儀式や律法を重んじることは、確かに人の目には良いと見えるのです。レビのどんちゃん騒ぎの表面だけ見ていては、実際人を引きつけるような魅力はありません。しかし、そこにはイエスがおられるのです。レビはイエスがおられるからこそ、この宴を催したのです。イエスのいない抜け殻のような儀式とどちらに本当の価値があるでしょう。
「イエスが水をぶどう酒に変えられた奇跡」を思い出してください。(ヨハネ2:1~11)イエスの出されたぶどう酒を味わった者は、その出所を知りませんでしたが、その味を評価しました。それはおいしかったのです。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」(ヨハネ2:10)と宴会の世話役は言っています。この世話役のコメントは、イエスの出されたぶどう酒の味が良かったということ以外に、当時の披露宴での常識を語っています。普通は、良いものを先に出して、皆が酔っぱらって少し味覚が麻痺し始めたころには、悪いのを出すのが当たり前なのです。つまり、最初は古いぶどう酒を出し、途中から新しいぶどう酒を出すのです。世話役は思ったはずです。この深い味わいは、何年もののぶどう酒だろうと。しかし、イエスのぶどう酒は古いぶどう酒ではありませんでした。その場で水から変えられた全く新しいぶどう酒です。原料はぶどうではなく「水」です。それは、まことのぶどうから絞り出されたまことの飲み物の型です。「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた」(ヨハネ2:9)この水はただの水ですが、特別な水です。イエスのことばを信じた人たちが、みことばに従って満たした水です。いわばこの水は信仰によって息吹かれたみことばです。人がみことばを心から信じ受け入れるとき、みことばはいのちとなってその人の中で働きます。みことばの約束は私たちを酔わせるぶどう酒に変わるのです。新しい着物も、新しいぶどう酒も、新しい皮袋も、すべて主が一方的に与えてくださるものだということを、再度確認しましょう。そして、私たちは、パリサイ人の仲間入りをするのではなく、レビの宴につながりそこにただ主がおられることを喜び楽しみましょう。その「まことの飲みもの」の象徴であるそのぶどう酒がどこから来たかを知ることが一番大事なのです。(ヨハネ2:9)

2008年10月3日金曜日

9月14日 メッセージのポイント

憐れみのないしもべのたとえ (イエスのたとえ話 23 )
  マタイ18:21~35

A 赦せない感情の背景
  ○当然守るべき契約や約束が守られていない
  ○間違っている人が正しい人を「妬む」「恨む」「憎む」
  ○自分のことを棚上げして他人の違反が気になる
  ○自分で自分が赦せず心を病んだり自殺したりする
  ○正義と愛「かわいそう」と「十字架」(ヨハネ8:1:~11)

B 兄弟を何度まで赦すべきか
  ○ペテロを取り巻く弟子たちの人間関係
               (マタイ18:1)(マタイ20:24)
  ○「7度まででしょうか」と問う寛容さと限界(ルカ11:3~4)
  ○「赦すべきか」という発想では決して赦せない

C 罪という借金の返済方法
  ○1万タラントは返済不可能な額(約6000億円)
  ○100デナリは返済可能な額(約100万円)
  ○無効になった債務証書(コロサイ2:14)
  ○十字架による完済(ヨハネ19:30)

D 心から赦す
  ○赦すことは感情の問題ではない
  ○赦すことは計算の問題

E 正しい計算
  ○「人に対する罪」と「主の前の罪」
  ○みことばによって勝利と完済を宣言すること
  ○私が友から受け取るべき100デナリは免除された1万タラントに含まれている
  ○誰かに借りのある私も誰かに貸しのある私も既に死んでいる

9月14日 憐れみのないしもべのたとえ (イエスのたとえ話 23 )

マタイ18:21~35

人にとって最も難しいことは、「人を赦し、受け入れる」ということではないでしょうか。「赦せない」という感情が生じるときには多様な背景があります。まず考えられるのは、「当然守るべきルールが守られていない場合」に、そのルールを守っている人たちの間に生じるケースです。しかし、そのルール違反が自分にどれだけの損害をもたらすかによって、「赦せない」程度は変化します。それは、人は自分勝手で他人の痛みに関しては恐ろしく鈍感だからです。例えば、大分の教員採用に関わる不正がありましたが、「ひどい話だ」と思いながらも、「あんなことは大分に限らずどこの県でもあることだ」軽く受け流してしまうかもしれません。「不正合格者の採用が取り消しになった」というニュースにも、「何もそこまでしなくても」と考える人たちも大勢います。ここでちょっと立ち止まって考えてみてください。自分が合格点に達していたにも関わらず、権力者の不正な口利きのために不合格になった当事者だったとしたらどうでしょう。「不正な口利きはどこにでもあること」と見逃せる話ではないでしょう。それこそ断じて「赦せない」のではないでしょうか。「不正合格者は採用を取り消されて当然」と思うはずです。そのルールが一般的にきちんと守られていないような場合は、反応はいっそう鈍感になります。例えば、交通ルールについて考えてみてください。自動車を運転する人で制限速度を破ったことは一度もないし、道路交通法は完全に守っているという人はおそらくいないでしょうから、違反に関しても、警察の交通安全課の人以外はかなり寛容です。ところが、もし自分の家族が、ルール違反の車にはねられていのちを奪われたとしたら、見方は全く異なってくるはずです。違反したドライバーのみならず、スピード違反や標識無視の車を見かけたら、怒りがわいてくるはずです。「赦し、受け入れる」ことに関して、わかりやすい単純な不正や罪に関しても、傍観者と当事者にはこれだけの感覚の違いがあるのです。
姦淫の現場で捕らえられた女が、当時の宗教指導者たちのはかりごとによって衆目に晒されました。律法によれば確かにそのような女は赦すべきではない。しかし、彼女を取り囲んだ群衆の和の中に彼女の家族がいたらどう思うでしょう。「確かに罪だが、その罪を覆ってやりたい」という一般的には想像もつかないような感情が湧きあがってくるはずです。そんな家族の思いを単純なことばでまとめることはできませんが、あえて表現するなら、「彼女がかわいそう」ということだと思います。それは家族には彼女に対する愛があるからです。赦しにおける問題を考えるとき、まず正義の問題について、そして、愛の問題について考える必要があります。しかし、個人の損害の程度とは関係なく、ルール違反に一定のぺナルティがあるべきで、それは個人の感情で左右されるべきではないでしょう。正しい人が間違っている人を赦せないのは当たり前です。ルール違反がペナルティを払わないまま、赦され、受け入れられるとしたら、集団の秩序は崩壊します。「正義を保つためには、罪を適切に処理せずに、罪を犯した人を赦し受け入れることは不可能」なのです。「赦さないこと」「受け入れないこと」が正解なのです。姦淫の現場でとらえられた女に対して「私もあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)と言われたイエスは、そのことばの裏に「自分がその罪を処理するから大丈夫だ」という覚悟を秘めておられたのです。あのような緊張した場面で、興奮した群衆をたったひとことで解散させることができたのは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい」と言われたからですが、それは単にレトリックの勝利ではなく、そのイエスの深い愛による覚悟と権威に圧倒されたからだと思います。 間違っている人が正しい人をその人の正しさゆえに妬み憎しむケースもあります。聖書に描かれている人類最初の死は、病気や怪我によるものではなく殺人でした。死因は兄弟による撲殺でした。カインに殺意まではなかったでしょうから、現代の法律で言えば、それは傷害致死です。逆にそうだからこそ、「心の中の悪い動機が、人を殺す結果につながるのだ」という意味の戒めがあるのです。イエスが十字架に架けられた直接の原因は、パリサイ人や律法学者たちのねたみです。人の妬み、虚栄心や、偶像礼拝は神を殺すことにつながるのです。さらに、自分のことを棚上げして他人を赦せないというケースがあります。そういう場合は、誰が見てもルールを犯している社会規範の逸脱者を軽蔑することによって自分の中立や無罪あるいは善良さを確認したいという心理が働いています。このようなケースは、「自分の目の中の梁に気づかないまま兄弟の目の中のちりをとってやろうという」おせっかいにまで発展します。こうなると、相手のルール違反と気づかずにいる自分のルール違反が五十歩百歩だったりすることが多いのです。それとは逆に、誰も責めてはいないのに、自分で自分が赦せないで精神を病んだり自ら命を絶ったりするケースさえあります。兎にも角にも、誰かを赦し受け入れるということは、人にとってそれほど難しいテーマだということです。
 さて、今日ともに考えるのは、「憐れみのないしもべのたとえ」です。このたとえの中には、人が人を赦すことの難しさと、その唯一の解決の道がわかりやすく示されています。このたとえは、「兄弟が罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。」というペテロの問いに対する答えとして語られています。内容に入る前に私が問題にしたいのは、ペテロはなぜこんな質問をしたのかということです。イエスと寝食をともにして日々を過ごすうち、弟子たちをはじめ取り巻く者が増えてきました。12弟子の中にもさまざまな人物がいます。いろんな意見の衝突や確執があったのでしょう。ペテロは、良くも悪くも「誰よりもイエスの良き弟子でありたい」と願っていました。いつもイエスの言われることに直ちに反応し、口を開き、行動しました。この質問をする少し前に、弟子たちは「天の御国で誰が一番偉いのか。」(マタイ18:1)という質問をしています。おそらくこの中にはペテロも含まれており、イエスに聞きに来る前に聖書に書かれていない弟子たちだけの議論があったのかも知れません。つまり、12弟子の中にも、イエスと自分という垂直関係の他に、他の弟子たちと自分という水平関係が重要な問題として存在していました。例えば、ヤコブとヨハネが「天においてイエスの右と左に座らせて欲しい」と願い出たとき、「このことを聞いたほかの10人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた(マタイ20:24)と書かれています。ゼベダイの子たちとか、ヤコブとヨハネと書かないで、「ふたりの兄弟」と記しています。これは、「兄弟に対して腹を立てる」ということを思い起こさせるためだと思います。これらのことから考えても、ペテロが、「何度まで赦すべきか」を主に問う背景には、赦せない兄弟や出来事が心にあったはずです。ペテロは「何度まで赦すべきでしょうか」で質問を切らず、「7度まででしょうか」と自分なりの寛容さを示し、「7度まで赦せば、それでよい」というある種の承認を求めているようにも思えます。これにもわけがあります。当時のユダヤのラビたちは3度まで赦すことを教えていたのです。さらに、イエスご自身が7度まで赦すことを語られたことがあるからです。「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して1日に7度罪を犯しても、『悔い改めます。』と亥って7度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ11:3~4)これは全く想像ですが、兄弟がペテロに対して罪を犯し、ペテロは悔い改めた兄弟を何度か赦したのでしょう。その回数は3度を越えて、4度か5度赦したのかもしれません。しかし回数が重なると「また、おまえか」と、赦したはずなのに、その兄弟と穏やかに接することが出来なくなっていたのかも知れません。それで、7回までは我慢してやるが、7回辛抱すれば反撃に転じることができるという許可を求めていたのかも知れません。聖書は私たちの罪を借金にたとえますが、今日出てくるしもべの負債額は1万タラントです。さて、この借金はどれだけの金額になるでしょう。1タラントは6000デナリです。1万タラントといえば60,000,000デナリです。1デナリを1万円と計算しても、6000億円です。到底払えない数字です。これが、実は私たちが神さまに対して負っている負債です。
最初は妻子も持ち物全部売り払って返済するように命じた王様ですが、ひれ伏して懇願するしもべの姿を見てかわいそうに思い、借金を免除してやりました。かわいそうに思っただけで、全額を赦してやるとはかなり現実離れしていますが、この債権者は高利貸しではなく、王さまです。天の御国はこの憐れみ深い王さまのようだとイエスはおっしゃいました。「1時間しか働かなかった労務者に1日分の日当支払う気前のいいぶどう園の主人」といい、天の御国はこのような心の大きな桁外れの度量をもった憐れみ深い人物にたとえられています。ここで、たとえは終わりません。その赦されたしもべは、自分が借金を免除してもらった直後に、同じ仲間に貸した金を取り立てます。これは、人間が共通してもっている性質です。借りた金は返すべきです。それは守るべき当然のルールです。別に強盗しようとしているわけではないのです。不思議ですね。自分が強い立場になるとき、自分が被害を受けるとき、私たちは、厳しいルールを相手に強いるのです。そのことをもって私たちの心に神様が定めた変わることのないルールが記されていることを証言します。ところが、自分が弱い立場になったとき、自分が誰かに迷惑をかけたり、容赦してもらわなければならないときに、そのルールをないものにしようという意識が働き、ごまかし、言い訳、取り繕いが始まります。私たちがこの世の中で正当なルールにのっとってやっていると思われていることの中には、このようなごまかし、言い訳、取り繕いなしでは成り立たない仕事がたくさんあります。 私たちが神から離れたとき、私たち自分が裸であることを知り、いちじくの葉っぱで腰のまわりを覆いました。これが、ごまかし、言い訳、取り繕いのはじまりです。とって食べてはならない実を食べたことを追求されると、アダムは「エバのせいだ」と言いました。エバは「蛇のせいだ」と言いました。こうしてエデンの東で、人間は延々と、ごまかし、言い訳、取り繕いを繰り返してきました。各自が主人に対して1万タラントの借金があるという認識を持たず、いや、故意に忘れ、お互いが小銭を取りたてあっています。なかまのしもべどうしの借金の金額は100デナリです。100日分の給料です。決して簡単に免除してやれる金額ではありませんが、1万タラントに比べれば、微々たるものです。60万分の1です。1万タラント赦されたしもべは、自分が免除してもらった事実がなかったかのように、冷たく対処します。懇願する友だちを牢に投げ入れたのです。この憐れむことを知らないしもべは、私たちの姿です。私たちは、まずお互いが向き合う前に、ひとりひとりが主にどれだけのことをしていただいたのかを心にとめる必要があります。どれだけ赦され、どれだけ愛されているのか。これはお金には換算できないほど大きなものです。主との関係の健全さが、そのまま人間関係に反映されます。主の前にごまかし、言い訳をし、取り繕う人は、人の前にもごまかし、言い訳をし、取り繕うでしょう。主に自分の借金を免除されていることを聞いても、そこに愛を感じない人がいます。単に、借金を払わなくていいと思う人がいます。確かに十字架の上には、私たちの債務証書が貼り付けられています。しかし、無効になった債務証書は見えても十字架の苦しみや愛が見えない人がいます。(コロサイ2:14)巨万の富を持つ王が、憐れなしもべをかわいそうに思って借金を免除してやることは、このたとえの中では簡単に書かれています。しかし、神様は反面銀行のように、厳密な計算をされる御方です。イエスがきっちりと十字架の苦しみによって私たちの借金を支払ってくださったのです。それはイエスの十字架上のことばのとおり、完了しています。その計算の正確さ、手続きの正当性によって、はじめて1万タラントもの借金が帳消しになったことを覚えなければなりません。
最後に「心から赦す」(マタイ18:35)ということばは、サタンが悪用したみことばでかなり上位に入るものだと思います。このみことばには、「すっきり何のわだかまりもなくなるような感情をともなってこそはじめて人を赦せたのだ」という印象があるからです。しかし、これは違います。人は「赦そう」「赦そう」と思えば思うほどそのしこりは大きくなって赦せない自分をより強く認識するだけです。この点についても、十字架にしか解決はありません。あの罪もこの罪もすべて十字架で贖いが完了していることを宣言することが勝利への唯一の道です。人を赦すのは私ではなく、主です。私が友だちから受け取るべき100デナリは、免除された1万タラントの中に含まれているということです。100デナリを切り離して見つめていては、いつまでもたっても、心から赦すことなどできません。それが人間なのです。10デナリだって、1デナリだって人が人を心から赦すことは不可能です。十字架の事実の中にあらゆる赦しの完了があります。自分が赦されることの中に他者に対する赦しが含まれています。誰かに貸しがある私はすでに死んでいるのです。心から赦すとは、その事実を心の目で見ることなのです。

9月7日 メッセージのポイント

まことのぶどうの木 (イエスのたとえ話 22 )
   ヨハネ15:1~8

A ぶどうの木はイエスの影・教会のモデル
  ○ぶどうの木は低く横に広がる
  ○ぶどうの実はひとつの実ではなく房状
  ○ぶどう酒は契約の血

B とどまるべきところ
  ○実を結ぶものは刈り込まれる(ヨハネ15:2)
  ○「わたしはすでにきよい」というみことばに立つ(ヨハネ15:3)
  ○イエスを離れての居場所などない(ヨハネ15:4~6)

C すでにきよい
  ○残すところなく示された愛(ヨハネ13:1)
  ○「上着を脱ぐ」(ヨハネ13:2)
      →特権を主張しない(ピリピ2:6)
      →いのちを捨てる(ヨハネ10:11)
  ○ペテロはすでにきよめられている自分を再発見した
      →しっかり反省できた自分に納得できたのではない  
  ○聖霊による更新の洗い(テトス3:5)

D 欲しいものを求めよ
  ○私たちが主にとどまる
      →みことばが私たちにとどまる
      →何でも私たちの欲しいものを願う
      →私たちの為にそれはかなえられる(ヨハネ15:7)
  ○鍵はみことばがとどまって「いる」か「いない」か
  ○50パーセントや70パーセントの「確信」「安息」の欺瞞

E 弟子は実を結ぶ
  ○実を結ぶことと弟子になることはひとつ(ヨハネ15:8)
  ○「イエスとともにいたのだ」というリアリティーを伝えること(使徒4:13)
  ○枝を含んだ全体がぶどうの木
  ○「まこと」は誰に属する?・・・弟子とはイエスの「忠実」また「真実」(黙示19:11)
    を知る者

9月7日 まことのぶどうの木 (イエスのたとえ話 22 )

ヨハネ15:1~8

先週の礼拝後の分かち合いの中で、プランターや畑で野菜を育てながら感じたことの証がありました。そのひとつは、プランターで育てたプチトマトが枯れてしまったので、それを片付けようとしたときの小さな気づきについてでした。「枝から落ちたものは腐っているが、枝につながっているものは、みずみずしさは失ってはいても腐ってはいない。主のいのちにつながっていることの大切さを感じつつ、深く感動した」と言うものでした。さらにその話を受けて、「しなびてもうダメかなと思っていた野菜が、雨でいきいきと生き返り、その野菜の変化を通して近所の人に証ができた」と言うお話もありました。こういう些細なことが実は最も大切なのです。何でもない日常生活の中のひとこまですが、それは立派な礼拝です。霊的に健全な感性が育っていると、日常の些細な事柄もただ意味もなく虚しく流れていくということはありません。また、しかめっ面をして窮屈な思いをするともないでしょう。単調で平凡に思える毎日の出来事の中に、実は大きな事件が隠れています。それを発見し、喜び、驚くことができる信仰の目と柔軟な感性を持つことが大事です。行くところどこにおいても主を発見し、主と喜び、主に驚いてください。全ての始まりにも、途中にも、終わりにも、至る所に主の備えがあり、そこには知恵と愛が溢れているはずです。
これらの証を聞いて、今回取り上げるたとえのテーマが決まりました。ヨハネ15章の「まことのぶどうの木」についてです。今年はずっとイエスのたとえ話を見ているので、過去のメッセージと重なるところもずいぶんありますが、常に新しい感動をもって、バージョンアップしてお伝えしています。主のみことばが古びるということはありません。「もうそれはわかっている」「すでに十分知っている」というようなものでもありません。振りかえると、この「まことのぶどうの木」についても、同じテーマで2004年の1月25日にもお話していますが、もう一度整理し直して分かち合いたいと思います。
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(1) イエスはぶどうの木で、天の父は農夫であると書かれています。イエスは、「まことのぶどうの木」です。「まことの・・・」ということばは、非常に強い表現です。世界中に何百何千種類のぶどうがあるのか知りませんが、イエスがその本体また実体であって、地上のぶどうはその性質を教えるために、影としておかれたものだということです。何度もお話していますが、ぶどうの木は背丈は低く、上に伸びずに横に広がります。その実はひとつの大きな実ではなく、小さな粒が房状になっています。それはまさにイエスのからだである教会の姿です。そしてぶどう酒は新しい契約を表すイエスの血、まことの飲み物と言われています。
「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(2)実を結ばないものは取り除かれます。ですから、取り除かれていないものは必ず実を結ぶのです。そして、実を結ぶ枝は刈り込まれるのです。それは無駄な枝に栄養がいかないようにして、もっと良い実を多く実らせるためです。私は「もっと良い実を多く実らせる枝になりましょう」と言うつもりはありません。そんなことは枝が考えても仕方がないし、できっこないのです。ぶどうの木は枝の意思に関係なく勝手に実を結ぶのです。
ただ実を「結ぶ」「結ばない」の違いは次のみことばによって示されています。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(4) 4節以降、「とどまる」ということばが繰り返し使われています。「主イエスにとどまること」が大切なのです。それは「枝にいのちが流れている」ということです。枝がぶどうの木であるイエスのいのちにつながっているとは、実際にはどういうことでしょうか。詩的なイメージとしては分かりますが、具体的にはどういう事実を表しているのでしょう。 この「とどまりなさい。」の繰り返しの前に、3節にこう書かれています。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(3)このやや唐突に挿入されたみことばが鍵です。「わたしは、すでにきよい。」というみことばの基準に立つことです。わたしたちが主から離れるときは、たいてい、罪を犯してしまったり、自分の愚かさを露呈したりする場合です。そういう時は、かつてペテロが言ったように、「主よ。私のようなものから離れてください。私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8)という心境に陥っているのです。もし、イエスが、「わかった。そうしよう」と言われたら、残された私はどうなるでしょうか。まことのぶどうの木を離れては、枝の存在価値はありません。
 十字架を目前に控えて、イエスは弟子たちの足を洗われました。そのとき、イエスは言われたのです。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13:7)弟子たちは、十字架を経て、足を洗ってくださることが、十字架の血によってきよめられることと、聖霊によって洗われることを予表していたことを悟りました。しかし、イエスのことばどおり、弟子たちにはその時は意味がわかりませんでした。ペテロは、イエスに足を洗っていただくことを恐れ多いことと考えました。だから、「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言ったのです。すると、イエスは、「もし、わたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」とお答えになりました。ペテロは主との関係がなくなってしまうと聞いて、今度は「手も頭も洗ってください。」と申し出ました。イエスと離れての居場所などないことがわかっていたからです。
ところが、イエスは、「水浴したものは、足以外は洗う必要がなく、全身がきよい。」と言われたのです。弟子たちの足を洗うことによってイエスは「その愛を残すところなく示された」と書かれています。「残すところなく」というギリシャ語は、エイス・エロスで、「最後まで」とか「完全に」という意味合いがあります。残すところなく示されたということは、「もう何も残っていない」のです。この出来事は、過越の祭りの前に、ご自分の最後を意識して象徴的に行われたことです。足を洗うことは盲人が歩いたり、足なえが立ち上がったりという種類の奇跡ではありません。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威があることをお示しになった大きなしるしです。「上着を脱ぐ」とは、「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることが出来ないとは考えないでご自分を無にする」という、「特権を主張しない」という意味合いだけでなく、「いのちを捨てる」という意味もあります。ここで「脱ぐ」と訳されているティセーミというギリシャ語は、「良い牧者は羊のために命を捨てます。」(ヨハネ10・11)の「捨てる」ということばと同じことばです。
神の子が人の子として、罪人の足を現れたことの価値については、いくら強調しても、しすぎということはないでしょう。私たちはこの「すでにきよい」という立場に立たなければ健全な枝としてまことのぶどうの木と一部になったとは言えないのです。裏切ったペテロは、一体どれほどの後悔の涙を流せば、もう一度きよくなれたのでしょうか。どれだけ悔いれば、どんな風に改めれば、主は受け入れてくださるのでしょうか。ペテロは、反省した自分に納得して戻ってきたのではありません。すでにきよめられていた自分を再発見したので、その基準に従って主のもとに戻ってきたからこそ、実を結ぶことができたのです。これが本当の意味で「自分を受け入れる」「自分を愛する」ということです。「私には価値があるんだ」「祝福を勝ち取るんだ」という歪んだ自己愛とは違います。「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による更新の洗いをもって私たちを救ってくださったのです。」(テトス3:5) これらのみことばが、私たちを支え守ります。私たちが意識してひとつひとつのみことばにとどまるなら、主はわたしたちにとどまってくだいます。主はご自分が語られたことを否むことができません。私たちは真実でなくても、主は常に真実なのです。それなのに私たちは、自分が不真実であることも、主が真実であることも認めようとしません。それが肉の性質なのです。みことばにとどまるとは、「聖書は神のことばです」と全体を抽象的に支持することではなく、ひとつひとつのみことばの伝えている意味をきちんと理解して、具体的で個人的な契約内容として受け止めることです。理解していなければいのちにはなりません。イエスがぶどうの木で私たちがその枝であれば、私たちは神の一部であり、キリストのようにきよいのです。そしてさらに驚くべきことに、「主のことばが私たちにとどまるなら、私たちの願うところが、主の願いとなり、私たちの祈りは100パーセントの確率で実現する」と書かれています。100パーセントですよ。私たちが強い確信や平安を持てないのは、それが弱いことが問題なのではないのです。主のことばがとどまっていないことが問題なのです。主のことばがとどまるなら100パーセントです。サタンは、私たちにいつも50パーセントとか、70パーセントがあるのだと錯覚させます。そして、みことば全体を信じているような気にさせますが、具体的な約束は何も信じていないのです。具体的な約束について「はい」か「いいえ」しかないのです。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(7)「求めなさい」と言われているのは何ですか。「何でもあなたがたの欲しいもの」です。これほどの自由が与えられながら、満足に足るものを求められない、得ていないとすれば、それは私たちが主とつながっていることを信じておらず、主がわたしにとどまってくださっていないからではないでしょうか。枝ががんばって風雪に耐えているのではなく、気まじめに葉を繁らせて光を集め、蒸散しているのではありません。ぶどうの木という大きないのちの営みの中に自然に巻き込まれているなら、幹と枝の境界線はわからなくなり、枝と枝は他人どうしではなくなるのです。各々の教会が各々を主張するのは、大きなぶどうの木の一体性についての基本的な認識と信仰が欠落しているからです。どんなにたくさん実をつけた枝でも、その枝単独の栄光などありません。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(8)栄光はすべて、ぶどうの木を育てた農夫である父のものだとイエスは言われました。最後に忘れてはならないことがあります。それは、弟子になるというポイントです。多くの実を結び、弟子になることです。本来実を結ぶことと弟子になることはひとつなのです。つまり実を結ぶ者が弟子であり、実を結ばない者は弟子ではない。様々な実があるでしょうが、訓練された弟子たちの結実した証は、「イエスとともにいたのだ」というリアリティーを伝えます。それは、無学な者が学を積み、普通の人が特別な人になることではいのです。(使徒4:13)もう一度確認します。イエスが「わたしはまことのぶどうの木」と言われるとき、枝を含んだ全体を指していることは明白です。まことは「忠実」また「真実」と言い換えてもいいでしょう。(黙示19:11)それはイエスに属するのです。