2009年6月30日火曜日

6月28日 罪と罰 (ひねくれ者のための聖書講座 5 ) 

 足利事件の再審が決まりましたね。検察が先に謝罪するという異例の展開となっていたわけですが、その決め手は、無実の人を犯人にしたDNA鑑定の最新の結果だというから皮肉なものです。「最新」の結果が「再審」を決定させたのです。

 無罪放免が決まったとしても、誰がどんなかたちで管家さんの失われた日々を贖うのでしょうか?「無罪でした。ごめんなさい」で名誉回復というわけにはいきません。この過ちをつぐなうことなど誰にも出来ないことです。管家さんの前に当時の責任者や関係者が涙を流して土下座して謝ったなら、多少は気が晴れるでしょうが、それだけのことです。そのことによって、どれだけの悔しさや苦しみや悲しみを埋め合わせることができるでしょうか。

 私の願うところは、こうした冤罪事件を通して、当人や関係者はもちろん、この事件に興味をもった方々が「究極の冤罪事件」であるイエスの十字架に触れてくださることです。
 イエス・キリストほど不当な手続きによって、何の罪状もないのに極刑にされた人はいません。彼の罪状は、「人でありながら自分を神だと主張した」というものです。これが、ユダヤの指導者たちを不愉快にさせたわけですが、死刑の最終決定を出すことのできるローマ総督のピラトは、それはユダヤ人の宗教上の問題なので私はさばけない。さばきたくない。イエスには罪はないと言って、何とかイエスを釈放しようとしますが、ユダヤ人の指導者たちに扇動された群衆が暴動を起こす勢いだったので、ついに最終決定をくだしてしまうのです。
 「人でありながら自分を神だと主張したイエス」の、その主張が嘘なら、荒唐無稽な嘘をついたために不当な手続きで殺されたかわいそうな人だということになりますが、もしその主張が本当なら、つまりイエスが本当に神なら、人は不当な手続きによって神を殺したのです。

 聖書は、それが神の予めの計画であり、イエスが冤罪で死ぬことが人の罪の贖いになるのだと言っているのです。これは信じられないような驚くべきメッセージです。つまりイエスは十字架にかかるために生まれ、十字架にかかることによって、この世の罪を示すと同時にこの世を贖ったのです。人は、善悪の基準では神を正しくさばけませんでした。イエスも人の罪の世界を善悪ではさばきません。十字架によってさばかれるのです。

 もし、管家さんがイエスと出会い、この御方を自分の救い主として受け入れることがあれば、彼が負った傷は「全く違う意味」を持って輝きを放ち、ものすごく高い価値と意味を持つことになるでしょう。
 管家さんのようなひどい目に逢う人はめったにいません。こういう人がたくさんおられたら大変です。しかし、少しでも彼の身になって考えてみれば、人が人を裁く手続きの難しさや罪と罰についていろいろと考えさせられるはずです。今日は「罪と罰」という主題で、ひねくれたお話を進めていきたいと思っています。
 管家さんと同じ目に会うことはなくても、自分は何もしていないのに人からマイナスの評価を受けたり、自分の正当な主張を受け入れてもらえなかったり、人間としての尊厳をふみにじられるようにして居場所や時間を奪われたりといった擬似的な体験は、私たちの廻りに意外とたくさんあるのではないかと思います。
 勿論、逆の立場で人を責めたり追い立てたりすることもあるでしょうが、私たちの置かれた立場や受ける仕打ちが理不尽で不当なものであればあるほど、「正義」について、また正義を取り繕う「偽善」について、また「罪と罰」について多少なりとも考えるものです。
 管家さんも、「警察や検察にはきちんと謝ってもらいたい」と厳しい口調で訴えておられましたが、やはり悪いことをした人にはきちんと「謝ってもらいたい」し、かたちだけの謝罪ではなく、「心から反省して欲しい」と思うのは当然のことでしょう。

 一方では、「管家さん自身がもともと周囲の人に合わせてしまうきちんと自己主張のしにくい人だった」というような報道や言説がなされています。まるで冤罪を生んだ背景として、管家さんにもその責任の一部があったかのような言い分ですが、これは全く本質から離れた意見です。世の中には気の弱い人やしっかり自分の言い分を伝えられない人がたくさんいます。そういう人たちの権利を十分に守れなかった手続きの問題なのです。冤罪被害者にもそのした間違いを生んだ要因があるなどというのは、本末転倒のとんでもない言いがかりです。
 裁判員制度も本格的に導入され、私たちも好むと好まざるとに関わらず、裁きの場に立ち会わなくてはならぬようになりました。「罪と罰」が他人ごとではなくなってきたのです。
 
 聖書の中にも、人の心の中にある「罪と罰」の意識と具体的な法手続きとが絡み合う場面が出て来ます。
 ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女が出て来る比較的有名な箇所です。(ヨハネ8:1~11)
 「自分たちの社会にあるふしだらな行為は許せない」というのではなく、イエスを陥れるための罠として彼女の罪を利用した特殊な場面設定ですが、私がいつもこの箇所を呼んで思うのは、「どうして相手の男が一緒にいないのか」ということです。普通に考えれば、この策を練ったグループと相手の男は何らかのかたちでつながっていたのではないかと想像されます。あるいは、女を差し出すことで男だけが免罪されるという条件を飲まされたかどちらかでしょう。

 今日の日本社会では、「浮気は甲斐性」「不倫は文化」だとなどと言って、ちょっと眉をひそめられる程度になっていますが、当時のユダヤ社会での、こうした淫らな行為は死罪に当たるものでした。しかし、当時のユダヤはローマ帝国の統治下にありましたから、実際の死刑執行権はローマが握っていました。ですから、もし、律法に従って、「女を石で打て」と言えば、ローマの権威を侮ったことになるし、ローマに権威に服して、「女を石で打つな」と言えば、律法を無視したことになります。ユダヤの指導者たちは、このような巧妙な罠を仕掛けられたことにと得意になっていたことでしょう。
 人々の注目と尊敬を集め始めていたイエスをこの現場に立ち会わせることで、どちらを選択してもどちらかを否定しまうことになるという問題を突き付けたわけです。
 さて、イエスの反応はどうだったでしょうか。
 イエスは反論することなく、身を低くして地面に何かを書いておられました。人々の目には、答えることに窮して追いつめられた姿と見えたでしょう。「してやったり・・・・」と自分たちの作戦の成功を確信して問い続ける指導者たちの顔は、イエスにとっては、直視するに耐え難いものだったのかも知れません。
 イエスが地面に何かを書いておられたのかは、あきらかにはされていません。しかし、このような場面でイエスの秘められた心のうちを知りたい。イエスはどんな思いでいらっしゃったのか、何を伝えたかったのかを思いめぐらすことには意味があるでしょう。

 彼らが問い続けてやめないので、イエスは言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)
 罪には楽しみや快楽も伴うものです。ときにそれは甘い誘惑となります。人はそれがいけないとわかっていても道をふみはずし、罪を犯してしまいます。罪は相手を傷つけ、自分をも傷つけ、家族や周囲の人たちをみな傷つけます。
 ですから、罪を憎む気持ち、悔やむ気持ち、またその罪に対して罰を求める気持ちは誰にでもあるのです.。そこで、社会が被害者に変わって罰や制裁を加えることで、秩序を保とうと様々な約束事を作ってきたのです。
 しかし、実際の罪をさばく手続きやその執行のかたちは、一度犯されてしまった罪のダメージを完全に回復させることなど出来ないし、事件に関わるすべての人を決して満足させるものではないことも知っています。これは、いつの世の中でも同じです。この場面ではどうでしょう。ユダヤの社会には律法がありました。しかし、その律法よりも、ローマの法が事実上権威をもっていたのです。そこに横たわる矛盾を神に問い、逆に神に問かえされたのがこの場面です。この箇所には「罪と罰」の問題の本質が凝縮されています。

 イエスのことばを聞いた人々はみなその場から立ち去りました。年長者から順にひとりひとり出て行ったと書かれています。(ヨハネ8:7)
 誰も女に石を投げられなかったし、誰かが投げるのを見るのも辛かったのでしょう。今日、裁判員になって、重大事件に関わって判断したくない。凶悪犯にでも死刑判決などを出したくないという心理と非常によく似ています。
 しかも、年長者からひとりずつ立ち去って行ったのです。
 年を重ねるごとに、人は罪を重ねます。日頃は無自覚であって自分のことは棚上げしていたとしても、条件が揃えば、人の心には必ず自分の罪と向き合うように出来ているのです。自分の罪を知っているのも、それと向き合うことが出来るのも自分だけです。

 人が女を罪に定めないのと、イエスがこの女を罪に定めないのは違います。人がこの女に石を投げられないのは、罪の本質においてこの女と五十歩百歩の同罪だからです。ところが、イエスには全く罪というものがありませんでした。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)とイエスが言われた意味は、「罪がないのなら、石を投げることが出来ます」という意味ではなく、「誰も彼女に石を投げることなんか出来ないでしょう」という意味です。「義人はいない」つまり「神の前に完全に正しい罪の無い人など誰もいないんですよ」という意味です。義人はイエスおひとりだというのです。ですから、イエスだけがこの女を石で打つ権威をもっておられます。しかし、イエスはあえてそのあり方を捨ててこの女の汚らわしい罪をご自身の身に負われるのです。その覚悟のことばです。さらに言えば、イエスは、罪の当人以上にその罪の本質を知っておられ、そして憎んでおられるのだということを忘れてはなりません。
 この御方が関わってくださることを信じ、この御方の光の中で明らかにされる自分の罪を正直に認めるなら、私たちはその信仰のゆえに罰を免れます。そうでなければ、自分の罪の自分で負い、自分の罪の中で死ぬだけです。(ヨハネ8:23~24)イエスのことばを聞いて心の罪を責められ、自分の家にそれぞれ帰っていった人たちは、自分の罪の中で死ぬだけです。しかし、一番罪深いと思われたこの女は、イエスのもとに留まり、イエスのことばを受け入れ、イエスの救いを受け入れたので救われるのです。「女はそのままそこにいた」(ヨハネ8:9)イエスは語るべきひとことを語られた後は、再び身をかがめたと書いてあります。誰がここから立ち去り、誰が残るのかを腕組みして見守っておられたのではありません。
 この女もその時群衆に紛れてその場を立ち去ること出来たはずです。しかし、女は自分意思でそこにいたのです。イエスのひとことは、この女の心にも届きました。四方八方から石つぶてが飛んできて殺されるイメージが襲ったでしょう。言い訳しようのない現行犯としてとらえられ、自分の罪を否応なく意識していたその中で、自分を責めたてる人たちを追い払ってくれたのです。
 女はこの予期しなかった時間の中で、イエスにさばきを託し、自分自身をゆだねようと覚悟を決めたのでしょう。このとき、この女の心の中でおこったことが、彼女の永遠を変えました。この女は何かイエスに問いかけたり、言い訳したりしたでしょうか。女は自分の罪と向き合いながら、黙って聞いていたのです。イエスが身をおこして、「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と問われたとき、女は「だれもいません」と答えています。欄外脚注を見れば、原文には「主よ」という呼びかけがあると書いてあります。彼女はイエスを主として受け入れたことがわかります。

 イエスをためして問い続けてやめなかった指導者たちは、イエスからことばを聞いたとき、そこに留まることを嫌って立ち去りました。帰っていく「自分の領域」というか「自分の居場所」があるという思い込みがあるからです。女にはもう逃げる場所がなかった。こう感じることが出来たことは、実は感謝なのです。多くの人はイエスに従わない領域、ニュートラルな場所があるのだと思っていますが、実はイエスに従わないでいることは闇の中にいることなのです。
 「神がいるなら」と神を試すことをやめましょう。神に己の罪を隠すのもやめましょう。聖書は私たちの罪を指摘して、ちょっとでも罪を犯すことがないように正しい生活を送りなさいと教えているのではありません。神は人を罪の中に誕生させた責任をとって、自らを罰したのです。それが十字架です。この世のご自身の血で贖って、この世界のいっさいの不合理、矛盾にけりをつけられたのです。このことを知っているか、知らないか、受け入れるか、受け入れないかでは全く人生が変わります。このことは、最も価値のある情報だと私は信じています。

6月14日 メッセージのポイント

ダビデ王の誕生とその周辺(ダビデの生涯と詩編⑥)
                 Ⅱサムエル1~4章
           
A 登場人物
  ○サウル・・・・・・・・イスラエルの初代王。
              ペリシテとの闘いで悲惨な最期をとげる。

  ○イシュ・ボシェテ・・・サウルの息子。
              サウル亡き後王位を継承するが、アブネルの傀儡。
            
  ○アブネル・・・・・・・サウルの将軍。
              ヨアブの弟アサエルを殺し、ダビデとの講和を求めるが、
              交渉半ばでヨアブに殺される。

  ○ヨアブ・・・・・・・・ダビデの将軍。
              弟アサエルを殺されたことに恨みを持ちアブネルを殺す。

  ○アサエル・・・・・・・足の速いヨアブの弟。
              内戦においてアブネルを執拗に追い、返り討ちにあって戦死。

  ○ミカル・・・・・・・・サウルの娘でダビデの元妻。
              イスラエルとの和平の条件として取り戻す。   

B ダビデとその周辺人物の違い
 1 ダビデは羊・・・・・・自分の力で獲物を追う
 2 獅子や狼ではない。
         主の養いによって保たれ、羊飼いを求めていた。
  ○ダビデの遺言・・・・・ヨアブを殺せ(Ⅰ列王2:1~6)

C ふたつの詩編に綴られたダビデの心
  1 詩編37編・・・・・・あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。 
               主が成し遂げてくださる。(5
               主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
               おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対
               して、腹を立てるな。(6)
  2 詩編145編・・・・・すべての道 すべてのみわざ (17)

6月14日 ダビデ王の誕生とその周辺 (ダビデの生涯と詩篇 6 )

 今日はサウルの死後、ダビデがまずユダの王となり、それからイスラエル全土の王になるまでの7年半の間に、ダビデとその周辺でおこった出来事や、人物にスポットを当ててお話します。このあたりの出来事や登場人物について、よくご存じの方も、あまり馴染みのない方も、よく聴いてそれぞれのキャラクターや関係性を整理してください。

 まず、イスラエルの初代王サウル、そしてサウルの死後王位につく息子のイシュ・ボシェテ、将軍アブネル、そして、ダビデと将軍ヨアブ、その弟でアブネルに殺されるアサエル、ダビデが取り返すサウルの娘ミカルなどが主な登場人物です。

 サウル王の死は、いよいよ王位に着くときが近づいたことを意味していました。しかし、サウル王が死んだことを聞いても、ダビデは単純に喜びませんでした。自分のいのちを狙い、苦しめ続けてきた人間がいなくなったのですから、ほっとした気持ちが全くなかったとしたら、それは嘘になるかも知れませんが、サムエル記の中には、ダビデが喜んで「いよいよ王位が近づいた」と息巻いている姿は出て来ません。

 どうしてもダビデの引き立て役のような役回りを演じてしまうサウルですが、その最期も非常に惨めなものでした。絶望の中で自害するのですが、死にきれませんでした。激しいけいれんに襲われ、苦しみながら、最終的には異邦人に介錯を求めました。これはユダヤの王、軍人である者にとっては、最大の恥辱だったでしょう。その悔しい心のうちを察することが出来ます。

 サウルの最期を見取ったその男は、良き知らせを届けたつもりでしたが、ダビデは逆に怒って彼を殺しました。ダビデはこう言っています。
「主に油注がれた方に、手を下して殺すのを恐れなかったとはどうしたことか。」(Ⅰサムエル1:14)
 このことばはダビデの一貫した姿勢を表している重要なことばです。
 ダビデはサウルの手を逃れて国中を逃げ回り、結果的には国外にまで落ち延びますが、サウルの力に怯えたことなどありません。ガチンコ対決したらいつだって負けることなどなかったでしょう。ダビデが恐れたのは、サウルに油注がれた主です。王としては不適格で、自分のいのちをねらい続けるサウルをあえてそのまま王として扱っておられた主の摂理に服していたのです。ダビデは、理不尽な仕打ちや、理解できない展開に疲れ、傷つくことはあってもサウルに対しておじけずいていたわけではないのです。

 ダビデには勝てないのに、力ずくで殺そうとしたサウルと、勝とうと思えばいつで勝てるのに、あえてそうしなかったダビデ。ふたりが見つめているものは全く違っていました。
 ダビデの心にあったのは、主のみこころが実現することでした。単にサウルが死ぬことや、自分が王位につくことをのぞんでいたわけではありません。ダビデがサウルとヨナタンの死を悼む哀歌を読むと、不思議な気持ちになります。有能な戦士であり、竪琴奏者でもあったダビデの心意気と、彼の経験や人格を通して聖霊が豊かに語ってくださっているのを感じます。(Ⅱサムエル1:19~27)

 サウル亡き後、ダビデもアクションをおこします。しかし、軽はずみに自分から王位を宣言したりしません。その時カナンの南端に近いツィケラグに居たダビデは、これからどうしたらいいかを主にたずねました。「ユダの一つの町に上っていくべきでしょうか」主の答えは「上って行け」です。ダビデはどこへ上って行くべきかをたずねます。「ヘブロンに上って行け」と主から答えがありました。 
 もしヘブロンではなく、当時の首都であったギブアに上るなら、それは彼が王になりたがっている野心だと人々は理解したはずです。ダビデは、当然そういう可能性も考慮に入れて、「ユダの一つの町に上っていくべきでしょうか」と主に伺いを立てたのでしょう。主の答えは「ギブアへ」ではなく「ヘブロンへ」だったのです。この主のことばによって、ダビデは「王になるべき自分の時はまだ来ていないという」主からのメッセージを受け止めたはずです。

 ヘブロンはエルサレムから南西32㎞に位置しており、エルサレム、ガザ、ベエルシェバ、紅海の方面にのびる四大交通路の分岐点にあたる交通の要所であり、古くから栄えたユダの中心部でした。その地でとれるブドウは優良種として有名です。
 そして、ヘブロンはイスラエルの父であるアブラハムが亡くなった妻サラを葬るためにヘテ人エブロンから買い取った地所です。かつてアブラハムはここに天幕を張り、祭壇を築きました。アブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長とその妻たちであるサラ、リベカ、レアの墓もあります。そして、何よりこの町はユダ族に属し、あやまって大罪を犯した人たちをかくまう「逃れの町」でもありました。
 そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油を注いでユダの家の王としました。ユダの人々は主のみこころはよそに、ただ単純に、サウル亡き後はダビデしかないと思って集まって来たのです。 

 一方、首都ギブアでは、サウルの息子イシュ・ボシェテがサウルの後継者として、王位を継いでおりました。イシュ・ボシェテとは、「恥(ボシェト)の人(イシュ)」(恥さらし、面汚し)という意味です。本名はエシュ・バアルといいます。欄外に書かれているのが本名で、歴代誌にはちゃんとその名で記されています。(Ⅰ歴代8:33)ちなみに本名のエシュ・バアルは「神の子」の意味です。(Ⅱサムエル2:8~9)

 ギルボア山での決戦でペリシテ軍に大敗を喫したイスラエルですが、その後、ユダ族はヘブロンに戻ったダビデの許に集まり、彼に油を注いで「ユダの家の王」としました(Ⅱサムエル:1~4)残りの部族は、ヨルダン川東岸マハナイムへと拠点を移した将軍アブネルのもとで、サウルの子イシュ・ボシェテを「全イスラエルの王」とするのでした。ギルボアでの敗北以後、イスラエルはペリシテの属領となったため、サウルに続くイシュ・ボシェテ政権は、ペリシテの実質的な力が及ばないヨルダン川東岸のマハナイムで言わば、亡命政権のようなかたちで樹立されることになります。

 しかし、サウルの子イシュ・ボシェテはあくまでもお飾りであって、将軍アブネルが実権を握っていました。傀儡政権というやつです。これに対し、ヘブロンでユダの王になったと言っても、ダビデは敵国ペリシテの家臣にすぎませんでした。

 この時点では、まだイスラエル全体はペリシテの占領下にあり、独立した王国ではありません。そんなイスラエルの一部族にすぎないユダの王になったといっても、敵にとっても大した驚異ではなく、むしろ、ペリシテによる支配の延長と見なされていたようです。
 とは言え、イスラエルにしてみれば、ひとつの国に二人の王が擁立されたことになりそれはそれで大問題です。その結果、サウルの家とダビデの家の間に内戦が起こり、激しい闘いが続きますが、ダビデの軍が優勢だった様子が書かれています。(Ⅱサムエル2:17)

 この内戦においてダビデ軍の将軍ヨアブの弟である韋駄天のアサエルが、敗走するアブネルを執拗に追いかけた末に、逆にアブネルの返り討ちにあって戦死します。ダビデの将軍ヨアブはそのことを深く恨んでいました。(Ⅱサムエル2:18~23)

 一方、サウルの亡命政権の実権を握っていたアブネルですが、サウルの側女リツパと通じていました。それを王であり、サウルの子であるイシュ・ボシェトが非難したのは当然です。もちろんそれはふしだらなことですが、イシュボシェテは別に、道義的責任を追求する気はあまりないのです。むしろ、実質的に王権を奪おうという企みが見えたからでしょう。日本の摂関政治と同じですが、王の嫁や娘をめとるという行為の背景には、王位継承者であることの主張があります。(Ⅱサムエル3:6~11)ダビデは後にサウルの娘ミカルを取り戻しますが、それも、愛情というよりはおそらく戦略上の判断でしょう。

 イシュ・ボシェテは、アブネルに頭が上がりませんでしたが、対ペリシテ戦略を考えると、ダビデと敵対するよりは、取り入った方が有利だと判断したようです。やがてアブネルは、やがてイシュ・ボシェテを見限ってダビデと良い関係をもって操ろうと考えたのです。そんなアブネルの魂胆と行状を見切っていたダビデは、かつて娶っていたミカルを返すことを交換条件として提示します。これを交渉に来たアブネルだけでなく、王であるイシュ・ボシェテに使いを送って言わせました。(Ⅱサムエル3:12~16)この当たりの交渉術を見ると、ダビデは戦士としてはもちろん、政治家としても一流であったことがわかります。
アブネルよりも一枚上手だったダビデは、別に策を弄したわけでもなく。寛大な気持ちでアブネルを歓迎しますが、ダビデの将軍ヨアブはそれが気にいりません。「ネルの子アブネルが、あなたを惑わし、あなたの動静を探り、あなたのなさることを残らず知るために来たのに、お気づきにならなかったのですか」(Ⅱサムエル3:25)と言っています。ヨアブはダビデには断らずに自分の判断でアブネルを殺します。ヨアブは忠臣を装っていますが、本音は将軍の地位を脅かすであろうライバルの芽を断つことそして、何より兄弟アサエルの恨みをはらすためでした。(Ⅱサムエル3:26~27)
今日は、ダビデとダビデの周辺の人たちとの「信仰の違い」と「主のお取り扱いの違い」をしっかり見て欲しいのです。サムエル記を単なる「国盗り物語」や「軍記物」のように表面を追う読み方も出来るでしょうが、それだけでは十分ではありません。ダビデの信仰やサウルの不信仰だけでなく、「主のお取り扱い」に注目しながら注意深く読みたいものです。そのような視点で、もう一度整理してみましょう。

 まず、内戦でアブネルに殺されたヨアブの弟アサエルを思い出してください。アサエルは足が速く、そのことに物凄い自信を持っていたことがわかります。アブネルはアサエルを殺すことを嫌い、忠告を与えますが、アサエルは執拗に追い続けたのでした。ダビデの王アブシャロムも、自慢の髪の毛が木に引っかかって、それが殺されるきっかけとなりました。自分の美しさや力や富に頼る者は、それに裏切られます。

 ダビデの将軍だったヨアブと、サウルの将軍であり、サウル王家の実権を握るアブネルは、このアサエルを巡って遺恨を深めるわけですが、このふたりの確執からも、ダビデは一歩退いたところにいます。

 アブネルは野心家であり、策士でもあり、頭もキレました。イシュ・ボシェテを立てたものの、このままサウル家に仕えても、ダビデに勝ち目のないことを悟っていたからです。そこで、和解を申し出るわけですが、ダビデについておいて、少しでも自分の影響力を保とうという策略です。

 ダビデの将軍ヨアブは有能な軍人です。異邦人との戦いに数々の輝かしい戦績をあげ、ダビデ王朝の基盤を築き上げた功労者であることには間違いありません。しかしヨアブの心はダビデとは違っていました。主に頼るよりも、何でも自分の力でやりくりするタイプでした。敵を滅ぼすためには、勇猛果敢に、時には卑怯な手を使っても、容赦なく立ち向かいました。

 ダビデは歴戦の勇士ではありますが、彼が見ていたものは、ふたりの将軍とは全然違います。アブネルやヨアブが狼や獅子なら、ダビデは羊です。ダビデは少年時代から、いつも羊飼いである主の姿を追い続けてきました。

 サウルを殺す機会がありながら、ダビデはあえて手をくだすことをしませんでした。サウルが死んでも、それを喜ばず、ひたすら主の時を待ちます。自分の力で無理やり幸運を引き寄せようとするのではなく、神が実現してくださるのを待ち続けてきました。その結果、サウルの将軍アブネルも、サウルの後をとったイシュ・ボシェテも、ダビデが直接手をくださずに死んでしまいます。そして、サウルの死から7年後6ヶ月後に、ダビデは全イスラエルの王となるのです。

 ダビデはこう言っています。「ツェルヤの子(ヨアブ)らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。」(Ⅱサムエル3:39) 信仰によらずに、ことを推し進めようとするヨアブは、たとえ力強い味方であっても、ダビデの心からの信頼を得ていなかったことがわかります。

 そして、極めつけはこのことばです。(Ⅰ列王2:5~6)
 「ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように言いつけた。」その中でヨアブについて指示します。『あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルのふたりの将軍、ネルの子アブネルとエテルの子アマサとにしたことを知っている。彼は彼らを虐殺し、平和な時に、戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけたのだ。・・・彼のしらが頭を安らかによみに下らせてはならない。』」ビデはソロモンへの遺言の中で、自分に仕え続けたヨアブを殺せと命じたのです。

 このダビデの遺言の中にあるヨアブへの評価は、極めて公正なものとして注目に値します。ダビデはヨアブがアサエルのことで憎しみを燃え上がらせたように、ヨアブを恨んでいたわけではありません。ダビデは息子アブシャロムの件については触れず、アブネルアマサの件についての罪を指摘しているからです。
 いわゆるキリスト教の理解では、「アブネルは悪者、ヨアブは良い者、その心はダビデの味方だから」みたいなメッセージもあるようですが、このことばを見る限り、それは間違いであることがはっきりわかります。

 ヨアブは、アブネルとは似た者同士。お互いの腹は容易に読めるし、それだけに赦しがたい相手なのでしょう。エルサレムを攻めたとき、真っ先にエブス人を撃ったのも、ダビデの命令に従って、その意味を問うこともなく、ウリヤを殺したのも、自分に代わって将軍となったアマサを殺したのも、ダビデの息子アブシャロムにとどめを刺したのもヨアブでした。

 行動の動機が全く信仰と関係ないなら、かたちだけダビデに仕えても駄目です。たとえ、結果を出したように見えても、それは主がヨアブを使ってご自身のみことばを成就させただけであって、それは、ヨアブの信仰の結果ではないのです。
 
 自分で自分の未来を有利に切り開いていこうとせず、自分の思いを十字架につけ、みことばの成就を待ち続けるとで、主への絶対的な信頼を明らかにしたダビデの思いが、詩編の中に綴られています。

 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て
 おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
 悪を行う者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。
(詩編37:1-9)

 主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。
 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。
 また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。
 すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。
 私の口が主の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。
(詩篇145:17-21)

 自分の力に頼り、策をめぐらし、有利な展開を切り開こうとすることは、主の最善の計画が実現されることを阻みます。

 現実生活の中で単純にみことばの約束の実現を待つことは、実はそれほど簡単ではありません。多くの人が力を持てあまし、己を過信し、神のいのちによらず、神のことばによらず、勝手に計画を立て、巨大なプロジェクトを実現するために、多くの汗や血を流し、崩壊と破滅に向かっていくのです。

 ダビデにならって、みことばの約束をしっかりにぎり、主を愛し、主を求め、主の御手にゆだねることが大切です。