2009年7月25日土曜日

7月5日 メッセージのポイント

ひねくれ者のための聖書講座 ⑥ 悪魔

「通り魔みたいに出来るだけ多くの人を傷つけ殺したかった。」
此花区での放火殺人の犯人である高見素直という容疑者は、逃げ隠れようともせず、自ら出頭して、そのような動機を語ったと報道されています。こういう男の歪んだ欲求を満たすために、死ななければならなかったのかと思うと、お亡くなりになった方々や御遺族の方々もいたたまれないでしょう。
実は、「誰もいいから傷つけたい」という衝動や、「自分に明るい未来が期待できないので、多くの人を道連れに堕ちていこう」という破滅的な思考パターンは非常に「悪魔」的です。勿論「火をつける」という行為は、犯人自身が選んだ道ですが、「魔がさした」という表現もあるように、そこには「悪魔」が働いているのです。

「悪魔」などというと、この科学の時代に何の戯言かと思われるかもしれません。私も最初は「悪魔」の話なんて馬鹿げていると思いました。漫画のイメージが先行して、架空の存在であるという思い込みが支配していたからです。しかし、「悪魔」は実在します。それは、まさかと思うような生きものがジャングルの奥地や深海に存在するように存在するのです。人間が納得するとか、理解するとかではなく、「いるからいる」のです。創世記を読めば、「悪魔」よりも先に神が登場します。哲学者が試みるような神の存在証明など全くなく、いきなり神が世界を創造しています。しかもそれは科学者が納得のいくような記述ではありません。神話は人が作ったものですが、聖書は「神が人を作った」と言っています。「神が人を作った」という話を人が作ったのなら、神を作ったのは人です。
しかし、実際には「神が人を作ったのか、人が神を作ったのか」というのは埒の明かない議論です。論じても答えは出ないので、結局のところ、「信じるか信じないか」の話になります。私は、聖書は人が作った神話ではなく、神が与えた啓示であると信じています。「人が書いた最も真理に近い本」だとは思っていません。「神が人に与えたメッセージであり真理そのものである」と思っています。私がそれをどう感じるかより、聖書そのものが何を言っているかが大事です。理解できないところも、退屈なところも等しく大切なのです。
人は聖書と向き合うとき、個々の事実の検証を積み上げようとします。つまり、それが信じるに値するかどうかを試すのです。納得し、理解しようとするのです。それは、決して間違った態度とは言えません。ただし、その態度を貫いていると、最終的に「信じる」という結論に至ることありません。なぜかというと、神や神の言葉である聖書は、初めから「信じるべきもの」であり、そのすべてについて、納得したり、理解したりすることは出来ないのです。別に対象が神であろうとなかろうと、大事な心の問題は証明出来ません。しかし、ある段階までの納得や理解は絶対に必要です。だから、このようなもってまわった言い方で時間をさいて話しているわけです。

この問題をさらにややこしくしているのは、キリストについて教えていると思われるキリスト教がキリストについての事実を語っていないということです。これが、前にも取り上げたキリストとキリスト教の問題です。共産主義者のキリスト教解釈を支えたフォイエルバッハという哲学者は、「神学というのは人間学」だと言いました。その通りだと思います。キリスト教は人の創作であって、信じるべきものではありません。信じるべきはキリストそのものなのです。神はキリストをこの世に送りました。キリストはいのちの木へと導く門です。しかし、悪魔はキリスト教を創作しました。これは善悪の知識の木のまわりをグルグまわらせ、荒野で死なせます。

さて、創世記によれば、最初の人類であるアダムとエバのふたりは、エデンの園からは次の世代を待つことなく追放されます。その原因を作ったのが「悪魔」です。「悪魔」は蛇に化身して現れ、人間に語りかけ、ことば巧みに誘惑し、人間に「善悪」を教えます。そして、神と人との間に溝を作り、人を「自立の道」へと誘うのです。私たちは神なきエデンの東で、どこから来てどこへ行くのかを知らずに、自分が何者で何をするべきかもわからずに、さまよっているというわけです。
人は「悪」とともに「善」が何であるかを知り、神なき世界で自主独立の道を歩み、自前の能力で文明を築きあげてきたところに、すべての不幸の原因があります。人は「悪魔」のそそのかしによって、神との交わりを失ったばかりでなく、私たちをそのような不幸へと導いた超本人である悪魔への憎しみを忘れてしまいました。「悪魔」は地上の神として、私たちの肉体の世界を、この時間と空間における権限を一時的な神から委託されています。これが聖書の教えるところです。この「誘惑のくだり」は、今日のメッセージの最後にもう一度触れたいと思っています。

しかし、科学という名の近代宗教が優位を占める世界観では、神や「悪魔」を意識の中から閉め出して物事を考えます。つまり、神や「悪魔」を追い出してしまうと、残るのは宇宙や自然ということばに象徴されるエネルギー、現象、法則、そして五感でとらえられるあらゆる物体としての宇宙や自然の断片です。こうして、宇宙や自然はほとんど神と同義語になり、「悪魔」や悪魔的要素もその中にごちゃ混ぜにして織り込まれています。こうして「悪魔」は神々の一部として、善の中にもぐりこんでしまうわけです。
さらに、感覚的な一体感や恍惚感を感じれば、「人は宇宙や自然の一部である」と主張し始めます。さらに、「神々が宇宙の隅々に満ちているなら、人は神々のようになれるのではないか」という錯覚に陥るのです。汎神論をベースにした人の生み出す宗教はおおむねこうした考え方の上に成り立っています。
また、善と悪がごちゃ混ぜに織り込また世界では、完全に善である神などは元から存在しないのだから、善も悪ととも同様に価値を失い、あらゆる存在は無意味だというもうひとつの極端な考えも生まれたりします。これが無神論の世界観です。

ナルニア国物語の作者として知られるC.Sルイスは無神論について、こう述べています。「もし、全宇宙が無意味だとするなら、それが無意味であることをわれわれは絶対知り得なかったはずである。それはちょうど、宇宙に光がなかったら、したがって、目を持つ生物が一つもいなかったら、われわれはそれが暗いということを知る由もなかったであろう。と言いうるのと同じである。その場合、暗いという言葉は全く意味のない言葉となるだろう。」だから、無神論は単純だとルイスは言うのです。かく言うルイス自身はガチガチの無神論者でした。彼は宇宙を無意味だと強く感じていた、人生に光を見いだせない暗い人でした。しかし、その無意味さ、暗さを強く感じるのは、まことの意味と光があるからだとわかったのです。
文学者であるルイスは、子どもたちのための優れたファンタジーを残しました。それを、あんなクズみたいな映画にしてしまうとどうしようもありませんが、彼の残した作品はすべて聖書がベースになっているので、彼が寓話の中で意味づけしたことをきちんと聖書と照らし合わせれば、その本来の意図やメッセージを理解できます。彼の作ったお話は、信仰のある人の子どもたちや、大人になって信仰をもったかつての子どもたちのための、かなり手の込んだ贈り物なのです。
ルイスが感じたように、エデンの記憶は善悪の葛藤となって人の心を責め立てています。その葛藤から逃げずに、考えることは、信じることと対立しません。「考えないで、信じなさい」というのは、頭の悪い牧師のことばです。聖書は言います。「よく考えないので信じたのでないなら・・・」つまり「よく考えて、それから信じろ」ということです。馬鹿は何でもすぐ信じます。でも、何かあるとすぐ捨ててしまう。それは信じたことにはなりません。それは、「土の薄い岩地に落ちた種」と同じです。種まきのたとえの中で語れています。詐欺まがいのくだらない教えに騙される人は、騙されていたことに気づいて被害者面をすると、いっそう馬鹿に見えます。しっかり考えないから信じてしまうのです。簡単に信じたりしないでよく考えてください。よく考えて「信じるしかない」と思えば、信じたものを失ったりしません。

神と悪魔に関する考えた方はいろいろありますが、悪は善の対立概念ではあり得ません。なぜなら、善はそれ自体が善であるがゆえに希求できるが、悪はそれがどこまでも悪であるという理由だけでは悪ではありえないのです。悪は単独で悪ではありえず、悪の本質は、善なるものを間違った方法で獲得しようとするところにあります。つまり悪とは動機や手続き上の問題であり、要するに「歪んだ善」「腐った善」とでも言うべきものだからです。実は、私はあるとき、そのことにはっきり気づかされました。この点についても、ルイスが物凄く面白い表現を使っています。「悪は寄生虫であって、原初的なものではない。悪が活動を継続できるのは、善から与えられた力のおかげである。悪人が効果的に悪を発揮することを可能ならしめているのはすべて、-たとえば、決断力、聡明さ、美貌、存在そのものといったように-それ自体は、善きものなのである」

 私が「ひねくれ者のための聖書講座」をやろうと思った理由は、まず私自身が相当ひねくれていたからです。正式なタイトルは「ひねくれ者によるひねくれ者のための聖書講座」です。キャッチコピーは、「ひねくれていない人は聴かないでください」です。今日はルイスのことばを引用しましたが、私はルイスの著作には本当に慰められたのです。ルイスは私に負けず劣らずひねくれ者だったからです。そのもってまわった言い回しや見事な比喩がかなりフィットしました。他にもパスカルやピカートやヒルティがお気に入りでした。私は昔も今も感情を鼓舞するような信仰書は大嫌いです。もう少し、私自身の話をさせてください。私は、はじめから信じたくてキリストを信じたわけではありません。神になんぞ救ってもらいなんて思ったことはないし、世界が神の救いによってフラットになるなんて、考えただけでもゾッとしたくらいです。十字架にかかって愛を示すなんて、自虐的で狂気じみた手段だと思いました。また、自分が十字架にかかる演出のために弟子の誰かが裏切るようなシナリオはセンスが悪いというかタチが悪いというか、どうにも馴染めませんでした。 しかし、一方で「神は不正かも知れない」という疑念をいだくほどの、かなりレベルの高い公正さをはかる物差しが私自身の心の中にあることを知っていました。しかも、そのような公正さを実現する力は自分にはありません。しかし、神なら公正たれという思いは強くありました。「世界を創った、治める、さばく」というのなら、きちんとやってくれ、やるべきだろうと強く思っていたわけです。
はじめて旧約聖書を読んだとき、そのシンプルすぎる記述の内容の重みに圧倒されました。特に、創世記の冒頭の数章の乱暴さには絶句しましたが、読み進んでアブラハムのあたりまで来ると、少しずつ印象が変わってきました。先程言った「神は公正であるべきだ」という訴えに関して、私よりすでに何千年も前に、アブラハムがきちんと神に直談判する場面が、かなり詳細に描かれていたからです。そのくだりを読んだときに、私の心の霧がすっと晴れたのを感じました。それは本当に驚くような内容です。(創世記18:16~23)神がソドムとゴモラを滅ぼす前に、アブラハムにそのことを知らせます。すると、アブラハム身内のロトとその家族を救うため、神にとりなします。「世界をさばく御方は公儀を行うべきではありませんか」という言い分です。つまり、良い人と悪い人の住んでいる町を丸ごと滅ぼすような乱暴なやり方は神にふさわしくないと意見したわけです。では、その町に正しい人が何人いるだろうとアブラハムは考え、具体的な数の交渉に入っていくのです。
ここで、アブラハムの持っている正義感は公正さの基準はどこからやってきたのだろうと思ったわけです。神はアブラハムにとりなさせることによって、義と愛を教えたかったのではないかと悟ったのです。そして、この記事を読んだ者にも、アブラハムのようであることを願っておられるのだとわかりました。私たちに残されている良心のもっともピュアな部分は、非常に神の思いに近いものです。逆にだからこそ、私たちは、その良心がきよめられなければ、善悪の葛藤に苦しみ続けるのだということも見えたのです。

最後に誘惑の場面に戻ります。(創世記3:1~7)結局、悪魔のまどわしのパターンは決まっています。まず、悪魔は神のことばを語るということです。神のことばをそのまま繰り返して、それは本当かと考えさせるのです。(1)第2に、人間の欲望や願いをくみ取って、そこに彼自身の思いを混ぜます。(2~3)神の人格に対する信頼を揺るがせ、神のことばの正反対の結果に導きます。(4~5)
人は、私たちの五感に訴えかけてくるものを神のことば以上にリアルに感じてしまいます。それは神がそのようなバランスで私たちに感覚をお与えになったからです。神のことばそのものが、神への人格への信頼抜きにして、それ自体が官能的であったり、拒絶するすべを持たずに暴力的にコントロールするものであるとすれば、人間ははじめから神の奴隷かロボットです。神と交わり、神の人格を味わい、神に信頼していきていくものとして与えられた神のかたちに対して、あなたも善悪を知って目を開かれれば神のようになれるとそそのかすのです。「悪魔」は、蛇に化身して語りかけ、自分の本来の姿を示しません。使っているのは神のことばです。鍵は神のことばをどう解釈するかというよびかけなのです。キーワードは、「目が開かれる」「神のようになる」「善悪を知る」です。確かに人は目が開かれ、善とともに悪を知りました。自分の中にある明らかな悪と、果たし得ない遠いところにある善を知ったのです。そこで、腰におおいを作り、神から隠れました。神のようにはなれませんでした。

「悪魔」は、今日も同じやり方で、人をいざないます。イエスは「悪魔」を「偽りの父」と呼びました。「・・・・なぜなら、彼は偽り者であり、偽りの父であるからです・・・・」(ヨハネ8:43~47)

2009年7月5日日曜日

7月5日 メッセージのポイント

神の箱とダビデ(ダビデの生涯と詩編⑦)
         Ⅱサムエル6章 Ⅰ歴代誌13~16章
           
A 神の箱とは
   神の臨在にポイントが置かれた表現(ヨシュア記以降)
    「契約の箱」・「あかしの箱」・「主の箱」
  ○ モーセの時代に作られ、至聖所におかれた
  ○ アカシヤ材に金をかぶせて作られている(ちょうど日本の御輿のようなかたち)
  ○ 中には十戒の石板 アロンの杖 マナのつぼ
  
B ダビデの思惑
  ○ エルサレムを統一イスラエルの首都として、政治と礼拝の拠点にしたい
  ○ 神の箱の運搬で祝福を手中にしたい。(自分はサウルとは違う)
  ○ 代表者たち、会衆の同意を得て、劇的に演出したい
  ○ 神にも認めていただける みこころに違いない

C ウザの割り込み
  ○ 神の箱はずっとウザの家にあった
  ○ ウザが物理的に触ったことが問題ではない
  ○ どうして牛はよろめいたのか
  ○ ウザの割り込みは地名になって事件は語りつがれた
  ○ 神の怒りの対象

D ダビデの悔い改め
  ○ 私はどうして私のところに神の箱をお運びできましょうか(Ⅰ歴代誌13:12)
  ○ レビ人のケハテ族しか運搬にたずさわる事は出来ない(民数記4:15)
  ○ 肩に担がねばならない(民数記7:9)
  ○ 私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったから(Ⅰ歴代誌15:13)
  ○ あなたのみわざを静かに考えよう(詩編77:4~12)
      
E 踊るダビデ
  ○ 力の限り踊ったダビデ・・・かたちにとらわれない自由な礼拝
  ○ 6歩進んだときに生贄・・・不完全な歩みを赦す贖い
  ○ 亜麻布のエポデ・・・王としてではなく、一礼拝者としての賛美

7月5日 神の箱とダビデ (ダビデの生涯と詩編 7 )

 「聖地エルサレム」などという言い方をします。ある時期にはこの地を手中に治めるために、人はたくさんの血を流しました。いわゆる聖地争奪の争いです。こんな都市は世界中でこの町をおいて他にありません。エルサレムはご承知のように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教の聖地とされ、第2次大戦後に再建されたイスラエルとパレスチナや周辺アラブ国との確執はしばしば報道されるとおりです。今日も各種宗教のごった煮状況で紛争も絶え間なく、混沌としたイメージがあります。
 一番大事なことは、ダビデがキリストのモデルであるように、エルサレムは新エルサレムのモデルだということです。キリストのモデルとして見ないならダビデはただの歴史上の人物であるように、エルサレムを新エルサレムのモデルと見ないなら、エルサレムはロンドンやパリというような世界の一都市にすぎません。今日は、そのエルサレムを、特別な場所(神の臨在と祝福があふれる聖なる都市)にするため、「神の箱」(契約の箱)を運ぶというお話です。
 「神の箱」には4つの呼び方があり、場面よって使い分けられています。まず、「契約の箱」。次は「あかしの箱」。そして「主の箱」。最後が今日出てくる「神の箱」という言い方で、これはヨシュアの時代以後表現です。治められている契約そのものよりも、神の御臨在にポイントが置かれているからでしょう。「神の箱」はモーセの時代に作られ、会見の幕屋の至聖所に置かれ、そこから主はモーセに語られ、大祭司アロンが年に一度イスラエルの贖罪を行なったと伝えています。イメージしていただくために、もう少し補足説明すると、「神の箱」は、アカシヤ材という材で作られています。長さ約1.1m、幅約66cm、高さ約66cmで、純金をかぶせ、肩にかついで持ち運ぶために左右に2個ずつ金の環を取り付け、金で覆った担ぎ棒を差し込んであります。まるで、日本の御輿そのものです。箱の中には律法の象徴である十戒を書き記した2枚の石の板が収められました。後になってアロンの杖とマナのつぼも治められました。
 さて、そのダビデの時代に話を戻しますが、この当時のエルサレムはエブス人の町であり、異教徒の都市でした。ダビデは、このエルサレムをイスラエル統一王国の首都とするため、そこを政治・軍事の中心とするだけでなく、礼拝の拠点とする必要がありました。そこで、ダビデは自分を王位に導いた神の臨在の象徴である「神の箱」を、エルサレムに運んで来ることで、その権勢を確固たるものにしたかったのです。自分はサウルとは違うという自負があったでしょう。神の約束によって王位を得て、神の祝福によってその王権を確立するのだと宣言したかったのです。ですから、ダビデが王に即位してまず真っ先に取りかかった事業が、この「神の箱」の搬入でした。まさに国家的プロジェクトとして実行に移すわけです。ダビデはこの事業を出来るだけ劇的に行おうと考えたようです。この事業の決定に関しても、ダビデの鶴の一声ではなく、異例の民主的手続きをとっています。まず代表者たちと協議し、丁寧に全会衆の賛同を得ています。(Ⅰ歴代誌上13 :1~2)

 「ダビデは再びイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上ろうとして、自分につくすべての民とともに出かけた。神の箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名で呼ばれている。彼らは神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していた。丘の上にあるアビナダブの家からそれを神の箱とともに運び出したとき、アフヨは箱の前を歩いていた。ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で力の限り喜び踊った」(Ⅱサムエル6:1~5)

 凄く華やかな光景です。3万人の精鋭部隊です。(Ⅰ歴代誌12:23~38)しかも、この精鋭部隊は、誠実な心で並び集まって、心を一つにしてダビデを王にした武装兵士たちの中の選りすぐりです。契約の箱を載せる車も新しいものをあつらえました。車を御すのは、これまで神の箱を安置していたアビナダブ家の子どもたちです。音楽隊も大いにムードを盛り上げています。弦楽器や管楽器(歴代誌にはラッパの記述あり)打楽器の音に合わせて、全イスラエルが、王とともに神をほめたたえ、賛美の歌声が高らかに響いています。何事もうまく行くかのように思えました。しかし、ここで思わぬ事故が起こったのです。運搬中に、牛がよろめいて大切な「神の箱」が落ちそうになったのです。その時、御者のひとりであったウザが機転を利かし「これはいけない」とばかりに、あわてて手で押さえようとしたところ、神に打たれて即死するという事件です。

 落ちそうになった「神の箱」を反射的に受け止めようとしたわけですから、良いも悪いもないではないか。むしろ褒められることはあってもどうして殺されなければならないのかと理解に苦しまれる方もおられるかもしれません。しかも、たまたまウザは後ろにいて、同じ仕事をしていた兄弟のアフヨは前にいたのです。ウザがずいぶんかわいそうな気がします。アフヨがいい奴で、ウザが嫌な奴だったのでしょうか。いろいろ不思議に思います。 
そもそも、神の箱をエルサレムに運ぶのがみこころなら、どうしてここで牛がよろめくんでしょうか。
何が神をここまで怒らせたのでしょうか。神はただ気まぐれにご機嫌を損ねられたのでしょうか。物理的に箱に触れたから、電気ショックのように心臓が停止したのでしょうか。イスラエルの人たちも、ダビデもこの出来事をただの事故、偶然の変死とは見なしませんでした。神の怒り、神のさばきとして、またメッセージとして受け止めました。この事件を聖書は「ウザによる割り込み」と表現しています。(Ⅰ歴代誌13:11)それは、その場所の地名にもなって出来事も語りつがれたでしょう。

 その日ダビデは神を恐れて言った。「私はどうして、私のところに神の箱をお運びできましょうか」(Ⅰ歴代誌13:12)とダビデは告白しています。
 まさに、ダビデは自分のところに、神の箱を「祝福の道具」として運ぼうとしたのです。これが根本的に思い違いであることを知らされ、ダビデは恐れます。神は常に私たちの原因であり目的である御方です。決して私たちが何かを得るための、私たちが幸福になるための手段とは成り得ない御方だということです。たとえそれが、私ではなく、国家が安定して平和であるためであったとしても・・・です。

 直接打たれたのはウザでしたが、打たれるべきはダビデでした。そして、ダビデに賛成したイスラエルの全会衆だったわけです。このことについて、もう少し丁寧に見ていきましょう。この事件には、今日にも通じる大きな意味と教訓があります。
 「神の箱」は、神の人との契約の象徴です。それは本来、会見の幕屋の至聖所に置かれるものです。決してダビデの王権の象徴ではありません。ましてや、ペリシテ人をはじめとする諸外国に対して軍事的なキャンペーンをするための道具ではないのです。  律法によると、神の箱はレビ人のケハテ族だけが運搬に携わることが許されていました。(民数記4:15)さらに、箱の下の四隅に取り付けられた金の輪に竿をさして肩に担がなければならないと厳密に定められています。(民数記7:9)
 ですから、ダビデが準備すべきだったのは、3万人の精鋭部隊ではなく、レビ人のケハテ族4人だったのです。あれほど人の力を嫌い、自分の思いを退け、主によって王位についたはずのダビデですが、この時は明らかに油断や慢心があったのでしょう。ダビデは、決してみことばを侮っていたわけではありません。しかし、「神を礼拝すること」に関して、「神の聖ということ」に関して、一番大事なポイントを外していました。それは簡単に許されることではなかったのです。

 ダビデは、自分が神によって立てられた王であることのお墨付きとして、自分の町に神の箱を置いて、そこで国家的な礼拝が組織しようと考えました。そして自分の頭で考え、自分の力で、この事業を行ったのです。先にも見たように、この事業の決定についても、代表者と協議し、会衆の同意を取り付け、民主的に事をすすめますが、神は二番目でした。「もしもこのことが、あなたがたによく、私たちの神、主の御旨から出たことなら・・・」と確かにダビデは言っています。全集団は同意し、すべての民がそのことを正しいと見たと書かれています。(Ⅰ歴代誌13:1~4)しかし、敵を攻めるときのように、「主にうかがった」とは書かれていません。主にうかがったのなら、主がそうせよと命じられたのなら、代表者との協議や、会衆の意見を確認する必要はないのです。なぜ、ダビデはそれを怠ったのでしょう。ダビデの頭にはまずこの事業の成功が頭にありました。「それは悪いことであるはずがない」という思い込みがあったのです。新しい車を作ったことは、確かにダビデの敬虔さや心構えの現れです。ただ神の箱を運べばいいという横着さはないと思います。しかし、たとえ車が新しかろうが、お金をかけて作ったものであろうが、牛に牽かせて車で運ぶのは、異邦人が自分たちの偶像を運搬する方法だということです。実際にペリシテ人が神の箱をイスラエルに返した時に取った方法と同じものです。

 ダビデは、恐れてすぐには神の箱を運び直そうとはせず、オベデ・エドムの家にそれを置きます。神の箱がおかれた彼の家と彼に属するすべてのものが祝福されたのを見て、ダビデはもう一度神の箱を運びました。ダビデはこの3ヶ月の間に自分の慢心や油断を振り返り、罪を悔い改めました。そして、今度は正しい方法で神の箱を運搬するように命じています。(Ⅰ歴代誌15:2,12~15)
 ダビデは神の怒りが燃え上がったのは、「わたしたちがこの方を定めのとおりに求めなかったから」(Ⅰ歴代誌15:13)であるという結論に至っています。そうなのです。私たちが祝福されるのも、されないのも、このみことばの法則に従っているかいないかです。「ダビデだから祝福される」「良いことだからうまくいく」のではないとうことです。結果的に言えば、誰が賛成しようが、反対しようが、神の箱がエルサレムに運ばれることは神のみこころだったと言えるでしょう。
 確かに、福音を伝えること、神を賛美することは、みこころにかなっているでしょう。しかし、その動機や方法が問題です。キリストの名を自己実現の生活の手段にしているのは誰ですか。自分の安心や満足のために奉仕や伝道をしてはいませんか。それらすべてはウザの割り込みであって、神の怒りの対象だということを今日の箇所は厳しく、鋭く警告しています。
 これだけの厳しい訓練を受けて、いよいよ王位につこうというダビデが立ち止まらされたのです。神の臨在というのは、それほど厳粛なものだということです。私は、以上のような理由で軽薄な聖会だの代表者の協議を経た一致団結などを、心の底から嫌悪し、霊の痛みをもって拒否しているのです。もし私のメッセージを聞いて、心の奥底にアーメンがあるなら、直ちにそうした穢れたものからは離れるべきです。

 神への礼拝や奉仕は、人間の側の熱心や敬虔さによって成り立つものでありません。人間がどれほど熱意をもって奉仕に取り組み、礼拝を捧げたとしても、それがそのまま神に受け入れられ喜ばれるものではありません。神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません。当時は、神の箱を担ぐにはレビ人が必要でした。しかし、今はどうですか。その資格を自称する現代の使徒・預言者の力が必要ですか。「レビ系の祭司職は終わった」とヘブル人への手紙の記者は言います。メルキゼデクの位に等しい大祭司とは誰でしょう。イエスです。私たちがイエスの血以外の何かによって近づくとき、神の聖さが私たちを滅ぼしてしまいます。偶像を運ぶ人が偶像を運んでも実害はありません。しかし、クリスチャンを自称する者が、偶像を運ぶ方法で神の臨在を運ぼうとするなら、運び手は神に打たれます。

 ウザのことがあっただけに、「神の箱」が無事にエルサレムに運び上げられたことは、ダビデにとって大きな喜びだったでしょう。同時に物凄く大きな責任を感じていたはずですから。ダビデは嬉しさのあまり、民衆を前であることを気にせず、王としての威厳を捨てて、裸で踊ってその喜びを全身で表現します。「力の限り踊った」(Ⅱサムエル6:13)と書かれています。後のミカルのことばにもあるように、どうやら、それは身内でさえ嫌悪するような醜悪さだったようです。ただ単に服を脱いでいたことだけではなさそうです。こう考えると、いわゆる宗教儀式における見せかけの荘厳さや、もったいぶった形式とは無縁な自由さが、このエルサレムにおける最初の礼拝にはあったことがわかります。
 ダビデをとんだりはねたりして踊らせたのは、無事神の箱をエルサレムへ運び上げられたという満足感ではありません。赦されている喜び、神のみことばに従う中で、罪深い私が聖なる神の臨在にあずかれるという喜びなのです。なぜ、そう言えるのでしょうか。ダビデは、かつぎ手が6歩進んだときに、生贄を捧げたました。(Ⅱサムエル6:13)なぜ、6歩ですか。6は不完全さを表す人の数字です。不完全な人の歩みを赦してくださり、完全に贖ってくださる血を象徴した生贄でした。さらにダビデは亜麻布のエポデを身につけていました。これは、神の臨在の前に王としての立場ではなく、一礼拝者として賛美しますというダビデの告白なのです。最後に、このときダビデが組織した音楽隊が歌った賛美を見てみましょう。(歴代誌16:7~37)アサフに賛美させたこの歌は、ウザの割り込みの後に作ったものでしょう。特にダビデが過去のあゆみを振り返り、もう一度立ち直る心の動きを歌った箇所は心を打たれます。(詩編77:4~12)この歌の中ではワンフレーズでサラッと歌われるだけですが、背景には主の御前でのダビデの霊の葛藤があったことが伺えます。(Ⅰ歴代誌16:11~12)