2009年9月14日月曜日

9月13日 メッセージのポイント

 ダビデとバテ・シェバ(ダビデの生涯と詩編⑨)
Ⅱサムエル11章 
           
A いちじくの葉から皮の衣へ
  ○腰をおおう
  ○いちじくの葉・・・一時的 人の努力や取り繕い(創世記3:7)
  ○皮の衣・・・・・・永遠 神の恩寵と血の贖い(創世記3:21)

B 汚された結婚
  ○壊れた結婚のかたち→罪に墜ちたのは結婚の後
  ○夫と妻はキリストと教会のモデル(エペソ5:31~32)
  ○「模型」(ヘブル9:24)「型」(ヘブル11:9)と「実体」
  ○「影」(ヘブル10:1)と「実物」

C 夫と妻の関係はキリストと教会の関係を反映する
  ○からだの権利は相手にある→一対一対応(Ⅰコリント7:4)
  ○離れている場合も合意が必要→ともにいるのが原則(Ⅰコリント7:5)
  ○夫や妻が第一ならそれは世のこと→神が第一

D 偶像礼拝は一対多対応
  ○対象ではなく、欲望中心→愛は交換不可能 
  ○放蕩の裏表→ダビデの失敗もペテロの裏切りと同様のひとつのモデル
(ルカ15:29)
  
E ダビデの罪
  ○怠惰(Ⅱサムエル11:1~2)
  ○姦淫(3~5)
  ○ごまかし(6~11)
  ○人殺し(14~21)
  ○すべてはキリストから目を離した結果・・・すべてのポイントから引き返せた

F 葛藤と贖いそして赦しと刈り取り
  ○詩編51編
  ○アブシャロム(Ⅱサムエル15:1~5)
  ○第一の子どもの死、第二の子どもソロモン
  ○すべてを覆う神の摂理

9月13日 ダビデとバテ・シェバ (ダビデの生涯と詩編 9 )

 今日は「ダビデとバテ・シェバの物語」を見ていきます。(Ⅱサムエル11章)
 ダビデの数々の栄光の軌跡が書き綴られたサムエル記に、このような内容のエピソードが詳細に記されていることは本当に驚くべきことです。まさしく聖書は神のことばであると再認識させられます。
 これを単に「腰から下の物語」として、ワイドショー的な視点で評価し、「ダビデと言えども、ただの男なんだ」という程度の学びで終わってはいけません。結婚や男女の間の事柄というのは、目に見えない霊的な事実とダイレクトに結びついているのです。人間は罪を犯した次の瞬間には腰のまわりを覆いました。確かに私たちは、腰のまわりを覆われなければなりません。それは、自分たちでつづり合わせた「いちじくの葉」ではなく、主が着せてくださる「皮の衣」によってです。いちじくは一時的でよけいに罪を意識させます。皮の衣は血による贖いであり、永遠の祝福と恩寵を表しています。

 結婚というのは聖なるものです。一人の男と一人の女が、苦楽をともにして歩み、添い遂げるということは、極めて大切なことなのです。男と女は地上で一番大切なキリストと教会のモデルです。
 「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私はキリストと教会をさして言っているのです」(エペソ5:31~32)という有名な聖句のとおりです。
 そもそも模型というのは、実物をイメージするために作られます。ですから、このモデルを滅茶苦茶に破壊すること、あるいは微妙に歪めることは、サタンの有効な戦略だと考えられます。「モデルなんだから、実物が現れたらもういらない」というわけではありません。
 私は、今「模型」あるいは「モデル」という表現を使いましたが、それは、「キリストは、本物の模型にすぎない、手で作った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです」(ヘブル9:24)「それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」(ヘブル11:19)という表現が根拠です。しかし、もうひとつ忘れてはならない大事な表現があります。それは「実物と影」という言い方です。これは、「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はない」(ヘブル10:1)というみことばに基づいています。つまり、光が実物にあたって影をつくるわけですから、キリストと私の目に見えない関係が、夫や妻との関係に投影されるわけです。聖書は、この比喩によって、「実物を得れば模型は不要」という考え方の間違いがないように補っているのです。

 ですから、「キリストと熱心に交わるが、夫や妻との会話も交流もほとんどない」などということは実はあり得ないことです。神を第一にし、信仰によって生きるということとは別次元の話です。「そもそも結婚した時点で自分のからだに関する権利は相手が所有するのだ」(Ⅰコリント7:4)とパウロは言っています。これは、愛の関係においては一対一対応が原則だということです。「祈りに専心するために離れている場合でも、合意が必要だ」(Ⅰコリント7:5)と書いています。これは、ともに住む、一緒に時間や空間を共有することが原則だということです。お互いの態度にどちらかが、あるいは、両方が強い不満を持っているということは、あってはならないのです。これは、夫婦のいずれもが信者である場合も、いずれかが信者でない場合も同じことが言えます。
 また、「夫や妻を喜ばせることが、神に優先するならそれは世のことである」とも書かれています。(Ⅰコリント7:32~33)それらのみことばの論理的な整合を見るなら、語られていることは明らかです。キリストとの関係が実体であって、その逆ではない。しかし、キリストとの良好な関係は必ず夫婦関係に反映されるということです。大事なことは、神における前の夫婦の一体性であり、その交わりの実質です。
神を第一にしていれば、夫や妻を二の次、三の次にはしないということです。夫婦の危機は霊的危機です。

 偶像礼拝というのは、神ならぬものを第一とするということです。神の栄光を他のものに置き換え、移し替えて、それを拝むということです。夫や妻も偶像に成り得るし、また、夫以外の男や妻以外の女に心が動くということは、霊的にも偶像を求めている現れです。
 ダビデの時代、王が複数の妻を持っていることはごく普通のことでした。キリストのモデルであるダビデもその例外ではありませんでした。このように、時代の価値観や文化の中で、私たちの行動が不自然に制限されたり、過度に許容されることは確かにあるでしょう。しかし、神の律法が定める基準は天地が滅びても一点一画変えられることのない不易な価値を示しています。それは、決して時代の流行に左右されるものではない極めて厳格なものです。
 わかりやすい例をあげれば、ある「ことば」や「画像」、「映像」あるいは「行為」を見て、「破廉恥、あるいは、ふしだらである」また、「許せない」と感じる基準は、日本においても世代間の感覚的なズレはかなり大きいと思います。特にこのわずか数10年の間に、相当なソドム化が進行しているようにも感じます。私たちは目に見える現実ではなく、みことばに照らして判断すべきです。
 とは言うものの、昔の人のモラルが現代よりも高かったのかというと、決してそういうわけではありません。その時々の国や時代の空気というものがあるだけです。古今東西、力を持った男は必ずと言っていいほど美女をはべらせてきました。女の子もイケメンや金持ちが大好きです。「自分の遺伝子を受け継ぐ優秀で美しい子孫を残したいという本能がそうさせるのだ」という説明は、「なるほど」と納得したいところですが、それは主のみこころではありません。しかし、これは男にとっても女にとっても強い誘惑です。
 怪しげな宗教の指導者は、その他の手段で力をもった男と同様に、不健全な金と外見の美しい女を集めます。あるいは、その逆にストイックに金や女を遠ざけます。優越感と劣等感がひとつの感情の裏表であるように、いずれも、ものすごく金や女を意識しているわけです。
 「放蕩息子のたとえ」の中では、父の下で勤勉に過ごしていた兄息子は、弟の放蕩ぶりを評して「遊女におぼれて身代を食いつぶした」(ルカ15:29)と言っていますが、それは、裏返してみれば、自分のやってみたかったことを告白しているようなものです。
 もし、私たちがダビデの立場におり、彼の力を持っているならば、同じことをしなかったとは言い切れないし、そうした自由のきかないところにいて、手の届かないバテ・シェバの美貌に憧れてつつ、ダビデの不徳を責めているだけなら、放蕩息子の兄貴と似たようなものです。

 こうしたことを頭においた上でダビデの記事をもう一度丁寧に読んでいきましょう。
 ダビデは夕暮れ時になって起きて来ました。まず、このあたりに問題の根があります。ダビデは、罪を犯して神から目を離したのではなく、この時点で既に神から目を離していたので、簡単に誘惑に負けたのだと言えます。戦いではいつも最前線にいたダビデですが、このときは、イスラエル軍が戦っている最中であるにも関わらず、ダビデは寝ていました。いのちを狙われていたときにはあり得なかったことです。
 人は空腹に耐えられても満腹には耐えられないものです。逆風のときには、負けじと足をふんばりますが、風が凪ぐとよろけてしまうものなのです。ノアも箱舟を造っているときは忠実でした。しかし、洪水後に酔っぱらって裸になっています。長い極度の緊張から解放されたダビデの姿を単純に批判することは出来ないということは承知しています。しかし、罪は罪です。

 先程も申し上げましたが、王にとって、気に入った美女を召し抱えることはごく一般的なことでした。人妻であるバテ・シェバを招くことも、異邦人の王の基準なら何とか許容の範囲でしょうが、ユダヤ人であるダビデにとっては許されないことです。ダビデはユダヤの王であり、キリストのモデルなのです。
 その後はさらに問題です。バテ・シェバは月のさわりの汚れをきよめていたのですから、律法によれば、ダビデは彼女に触れてはいけません。しかし、ダビデはバテ・シェバと関係をもっただけでなく、そのことを誤魔化すために、詭弁を弄して何とかウリヤを家へ帰らせようとします。ところが生真面目なウリヤは王の許しを得たにも関わらず、自分を甘やかすことなく、家に戻ろうとしません。そんな忠実な家来をダビデはためらうことなく殺してしまったのです。男として、戦士として、王として、最低の行為です。彼の前半生の栄光を地に落とすような大きな罪です。

 さて、ダビデの物語を中心にウリヤを見れば、彼はただの不幸な脇役です。ダビデに召し出され、後にソロモンの母となる美しい女性バテ・シェバの殺された夫という役回りです。しかし、ウリヤの人生を中心に考えれば、そんな役回りを簡単に納得することなどできません。ウリヤは有能で忠実な兵士です。だからこそ、王が欲しがるような美しい妻を娶ることも出来たのでしょう。ウリヤには何の落ち度も問題もありません。原因はすべてダビデのわがままな欲望です。ウリヤはいのちがけで仕事をこなしているのに、暇を持て余した王に突然妻を奪われ、その王に信頼しきって戦っている戦場で罠にかけられて殺されるのです。
 神はなぜこのようなひどいことをお許しになるのでしょう。ダビデが罪の結果主に討たれるのならまだしも、後から悔い改めて許されるのですから、ウリヤや遺族の被害者の心情を考えれば全くうかばれません。世の中にはこうした不公平・不平等・不合理が山ほどあります。義なる神がいらっしゃるなら、なぜ、どうしてこんなことにと天に向かって叫びたくなるのは当然です。

 かつてアブラハムは、「全世界をさばく御方は、公義を行うべきではありませんか」(創世記18:25)と祈りました。私たちがある事実を目の当たりにしたときに、それは「不公平・不平等・不合理」だと感じる基準は神が与えてくださった物差しです。その物差しで私たちは自分を測り、キリストを測るように求められているわけです。しかし、預言者ナタンがダビデに語ったことばを丁寧に見れば、少しすっきりします。(Ⅱサムエル12:1~15)
 この譬えの中で、ウリヤは「貧しい人」になぞらえられ、彼が一緒に暮らしていた小さな雌の小羊をどれほど大事にしていたかを伝えています。神はウリヤがどれほどバテ・シェバを愛していたかをよくご存じでした。バテ・シェバもまたウリヤを愛していました。ウリヤの死を知らされ、「彼女は悼み悲しんだ」と記されています。(Ⅱサムエル11:26)
 ダビデはナタンが語った譬え話の中の卑劣な人物が自分自身であることに気づかされました。この気づきと明確な悔い改めこそが、私たちにとってもっとも大事なものだと思います。ダビデの罪はこの瞬間に完全に許されました。ダビデの心の葛藤は詩編51編に記されています。
 しかし、ダビデは罪の後始末をしなければなりませんでした。神の前に罪が赦されることと、人が自分の蒔いた種の刈り取りをすることは別のことです。ですから、ダビデは夫婦関係や家庭の中に常に安息を見出していたとは言えないのです。様々な思い煩いや心配事をかかえ、苦悩しています。これについては、時を改めて詳しく話します。

 繰り返しますが、結婚というのは、キリストと教会のモデルです。ダビデはキリストのモデルですから、ダビデの花嫁は教会のモデルです。一般の夫婦関係以上に際立った雛型です。そのダビデには、たくさんの妻がいました。それは時代の許容でしたが、みこころではありません。このたくさんの妻がそれぞれに子どもをもうけ、子どもどうしが互いに対立する様は、まるでキリストの看板を掲げる多くの教会が分裂分派を繰り返す歴史を予表しているようです。中でもアブシャロムがダビデを押しのけて王位と狙い、名誉を求める姿は、キリストを追い出した教会の姿そのままに写ります。アブシャロムは、ダビデとイスラエル人との間に入って群衆の心を操ります。「アブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ」と書いてあります。(Ⅱサムエル15:1~5)どこかで見聞きしたような光景です。

 「姦淫」「ごまかし」「人殺し」という罪のオンパレード。これが、あの勇敢で、憐れみ深い、信仰の人ダビデなのでしょうか。しかし、聖書は包み隠さず、英雄の汚点を書き残しています。ダビデは私たちと全く同じ罪人です。ダビデ自身がそのことをよく知っています。私たちもそれを知ることが大事です。偉大な王や預言者や聖人などと呼ばれる人は、人の言い伝えが産み出すものです。人類はみな生まれながらにアダムの罪を継承しており、「御怒りを受けるべき存在」なのです。聖書が語るのは、ただの贖われた罪人が信仰によって勝利する姿です。その秘密が「ただ信仰にある」ことを見失うと、単にその子孫であることを誇りとしたり、特別視して崇め奉ったり、そういう姿を努力して目指そうというようになったりします。これらはいずれも間違いです。
 ダビデの妻たちは、それぞれの理由、さまざまなタイミングでダビデの元にやってきました。サウルの子であったミカルはダビデとの間に子をもうけることが出来ませんでした。聖書はダビデをあざ笑ったことが原因であるかのように記述をしています。ダビデの信仰を評価しなかったミカルは神の祝福としての子宝を与えられませんでした。ところが、バテ・シェバの場合は、たった一度の交わりで、子どもが与えられてしまったわけです。その子は死にます。そしてこの次に出来る子が、かのソロモン王です。要するに、私たちの欲から生まれて来る者は死ななければならず、その死を越えて神がお与えになる第2の者にこそ、栄光があるのです。カインではなくアベル、イシュマエルではなくイサク、エサウではなくヤコブ、サウルではなくダビデ。アダムではなくイエスです。

 ダビデの生涯には、神の計画とダビデの信仰による選択が織りなされています。それは必ずしも、すべてが栄光の軌跡ではありません。しかし、ダビデも失敗や愚かささえも、神の恵みの御手がそれを受け止め、深い摂理のもとに、その上にさらにすばらしいキリストが描き出されることには、本当に驚くばかりです。ダビデの失敗を観て、女性たちが男性の愚かさを軽蔑してほしくはありません。既婚者は夫を遠ざけたり、未婚者は男を避けたりすることはみこころではありません。それは、サタンの思うつぼです。男たちはダビデの落ちた失敗へと同じように導かれる可能性が高くなるでしょうし、それは女性にとっても不幸なことなのです。預言者ナタンが話したウリヤとバテ・シェバのようなつながりがいい関係なのです。「貧しい人には、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子供たちと暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした」(Ⅱサムエル12:3)夫婦はいつまでも、このようであるべきです。このような関係の中にこそ、本物の神の祝福があるのです。