2009年10月19日月曜日

10月18日 メッセージのポイント

 罪を刈り取るダビデ(ダビデの生涯と詩編⑩)
    Ⅱサムエル13~15章
   
       
A 神の祝福を受けるということ 
  ○祝福は御利益ではない(ラッキーなことの連続や順風満帆の歩みではない)
  ○神の祝福は繊細で奥深い→私たちの願いではなく神の人格にふさわしい
  ○神の祝福は教育的、建設的、系統的、具体的(エレミヤ29:11)
  ○刈り取りと訓練を理解すること(箴言19:3)
  ○苦しみからの学び(詩編119:67.71.74)

B ダビデの失敗
  ○複数の妻は「信仰によって」ではなく「当時の習慣によって」得  たもの
  ○男女の関係は単なる道徳ではない→キリストと教会のモデル
  ○目に見えない神への信仰は目に見える人間関係に表れる

C バテ・シェバをめぐる三角関係とその結果
  ○第1子の死と第2子の祝福(Ⅱサムエル12:15~23)
  ○アムノンのタマル陵辱(Ⅱサムエル13:1~21)
  ○アブシャロムによるアムノン殺害(Ⅱサムエル13:23~27)
  ○アブシャロムの謀反(Ⅱサムエル15:1~12)

D 苦しみの中でダビデが学んだこと
  ○主が中心であるということ→神の箱は何処に
  ○主のみこころがなるということ→自分の願いや力や計画ではない
  ○主の御人格の深さ→そのいつくしみときびしさと・・・(Ⅱサムエル15:25~26)

E 詩編にみるダビデの信仰と霊的モデル
  ○詩編31:9~13
  ○詩編55:12~15
  ○詩編88:13~18
  ○詩編3編

10月18日 罪を刈り取るダビデ(ダビデの生涯と詩編 ⑩ )

 ダビデがバテ・シェバとその夫であるウリヤに対して犯した罪は、ダビデが預言者ナタンのメッセージを受け入れて、神の前にはっきり悔い改めたことによって完全な赦しを得ました。こうして、主の前にその罪は覆われ、ダビデはその後もさらに祝福を受け続けます。みなさんは、ダビデとバテ・シェバとウリヤの三角関係の中に起こった一連の出来事の顛末をご覧になってどんな印象を持たれるでしょうか。妻を寝取られたことも知らずに、ダビデを信じ切ったまま戦場に散ったウリヤとダビデを比べると、その扱いはまるで違うように見えます。私たちは、人の一生をどのように見つめて如何に評価するでしょう。神のお取り扱いは、非常に繊細で奥深いものです。一見不公平に思えることであっても、神は御自身にふさわしいやり方で、すべてのことを公正に取り扱われているのだということを、私は固く信じています。神の祝福の計画はよきものです。教育的で建設的です。系統的で具体的です。私たちは自分の将来、明日のことさえわかりません。しかし、神は私たちのために、すばらしい計画を持っていてくださり、それをよくご存じなのです。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

 「神の祝福を受ける」ということは、決して人間的に見てラッキーな出来事が連続することではありません。順風満帆の日々を送るということでもありません。もっと複雑です。望まぬ出来事に直面し、悲しみや苦しみの道を通ることもあります。私たちが出会うさまざまな出来事には、すべてを見通しておられる御方からの具体的なメッセージが含まれているのです。もちろん、蛇口をひねれば水が出るし、不養生をすれば風邪を引いたりするでしょう。そのような物事の当然の因果関係の法則の中で起こることに、いちいち神様の意図を深読みするのは行き過ぎですが、私たちが、神を信じ、具体的にみこころを求めて生きているにも関わらず、大きな人生の選択において、自分が強く願っていることや深く思い込んでいることと異なる展開になっていったとしたら、そこには、まず間違いなく、神様からのメッセージや訓練の意味合いがあるはずです。

 主は罪を完全に赦されるのですから、ダビデが家庭生活で味わった様々な悲しみや苦しみは、主が与えた罰というわけではありません。自分が選んだことの結果を見せられているのです。これは似ているようですが、全然違います。ダビデにせよ、私たちにせよ、誰であれ、自分が語ったこと、為したことの結果を見せられます。私たちは、自分の蒔いた種を刈り取ることを通して、「神がどのような御方であるか」を学ぶのです。すなわち、「神は決して侮られる御方ではないということ」、そして、「神は義であり、そして愛である」ということです。自分の蒔いた種の刈り取りをしながら、重要な神の学課を学んでいるのです。
 単にエゴを積み重ねて、健やかに富み栄えることは、祝福とは呼べません。本当の祝福とは「神を知ること」です。つまり、私たちが間違った選択をすれば、それがそのままうまくいくことはありません。神が「恵みによって」つまずかせてくださり、信仰によらない選択の結果を、きちんと見せてくださいます。私たちは愚かであやまった意志で突き進んでうまくいかないのは感謝すべきことなのです。ですから、うまくいかないとき、神に向かって憤ってはいけません。箴言にはそれを警告することばもあります。
「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る」(箴言19:3)
 失敗すること、挫折することは出来れば避けたいことですし、とても辛いことです。しかし、それは恵みです。その中でこそ、人ははじめて学ぶべきことを学ぶのです。神がお与えになる苦しみと神のおきてを学ぶこととの関連を詩編の作者は歌っています。(詩編119:67,71,75)
 妙な言い回しかも知れませんが、私たちは自分に裏切られる必要があります。そして、裏切らない御方はイエスただおひとりであると知る必要があるのです。ペテロやパウロが、いのちの信仰のスタートラインに立つまで失敗を思い返してみてください。私が語った「自分に裏切られる経験」がちゃんとあるでしょう。それは、刈り取りであると同時に重要な神の学課なのです。

 ダビデに話を元に戻しましょう。ダビデが複数の妻をもったことは、「信仰によって」ではなく、「当時の習慣」によってです。それを今の価値観で簡単に責めることは出来ませんが、神の原則は時代の価値観によって揺らぐものではありません。結婚の基準に限らず、時代とともに知らずに犯している罪はたくさんあると思います。知らずに悪に荷担しているのです。
 最初の男と女が作られたときから、神のみこころは一夫一妻です。これは「道徳」ではなく、それ以上の霊的な「価値」と「意味」があります。男女の関係は最もすばらしいキリストと教会のモデルだからです。ですから、複数の妻をもった場合は、必ず弊害が生まれます。当然妻どうしの確執、異母兄弟のねたみや争いという問題が発生するのです。人間の本質は、古今東西どこでも一緒です。こういう関係のもつれや感情の行き違いが、いつの時代、どこの国でも、あらゆる芝居や映画のモチーフになるわけです。人の興味は、専ら自分を中心にした人間関係に尽きるのです。
 信仰によって約束の祝福を受け継ぐ人々にとっても、目に見えない神に対する信仰の本質は目に見える人間関係の中に現れるわけです。ですから、神との「縦の関係」が全くデタラメなのに、人との「横の関係」を避けたがる人たちは、既に自分のあり方によって、自分の愚かさや恥を表現していると言えます。神を信じる人たちが、「神を信じる他の人たち」や「異なる神々を信じる人たち」また「神も仏も信じない人たち」との多様な人間関係の中で、ともに生きるというのは、それほど簡単なことではないのです。
 アブラハムもイサクもヤコブも、そしてダビデも、信仰の人はみな「旅人」「寄留者」です。「旅人」「寄留者」は、旅先、寄留先でいろんな人と上手に関わる必要があるわけです。ですから、同じような経験をして苦しみました。ダビデの場合はまた特別です。羊飼いから王になり、その大いなる成功とともに、その影にはウリヤの妻であるバテ・シェバとの不倫とそのもみ消しのための嘘や殺人がありました。ですから、ダビデの苦しみと刈り取りがアブラハムやヤコブのそれとは、比較にならないほど大きなもの深いものだったことが容易に想像されます。

 まず、バテ・シェバとの間に生まれた最初の子どもは死んでしまいました。これが、ダビデにとっては最初の具体的な罪の刈り取りでした。ところが、次の子どもは大いに祝福されます。その次の子どもこそ後の王であるソロモンです。このふたりの子どもの何が違うのでしょうか。神は最初の子どもを憐れむことは出来なかったのでしょうか。それは無理でした。確かにふたりとも、ダビデとバテ・シェバとの関係から生まれた子どもですが、最初の子はダビデが無理矢理犯して孕ませた子です。しかし、次の子どもはウリヤが死んで、正式に娶ってから合意の上で結ばれて与えられた子どもです。これは、大いに違います。最近は「出来ちゃった婚」などということばが市民権を得て、お腹が大きい新婦さんがウエディグドレスを着ている姿も珍しくなくなりました。おそらく、さげすまれることもなくないでしょう。しかしそれは、世の中が多様性を認める寛容さを持ったからではなく、感覚が麻痺してきているのです。このようなダビデのふたりの子どもに対する主の扱いを見ても、人が刈り取るべきことと、神の祝福そのものとの違いがわかるのではないでしょうか。単に御利益を求めて命乞いをしても聞き届けられることはないのです。

 この後、ダビデにはさらにつらい出来事がありました。息子アムノンが、娘タマルに恋して辱めるというとんでもない事件です。(Ⅱサムエル13:1~21)メフィボシェテのお話のときに、「キリストにある王の食卓」のすばらしさを語りましたが、雛形である「ダビデの王の食卓」連なっていた子どもたちの実際はこういう側面もあったのだという事実を正視する必要があるでしょう。
 この事件がダビデに与えたダメージは相当なものだったでしょう。加害者も被害者もともに大事な自分の子どもです。しかも、父であるダビデはアムノンの仮病を見破れなかったばかりか、彼の願いをそのまま聞き入れ、自分の命令でタマルを世話につかせたのです。ずる賢いヨナダブという友人でさえ、アムノンの様子がおかしいことに気がついたのです。ところが、ダビデは気づきませんでした。ダビデの家族には、親密な交わりがなかったということです。ここに大きな問題の根があります。
 欲望にかられて身勝手な思いを遂げる。これは、かつてダビデがバテ・シェバにしたことと同じです。しかも被害者はよその娘ではなく、可愛いわが子です。娘タマルは辱めを受け激しく傷つきましたが、娘の傷は、ダビデの心をも同じようにえぐりました。それは、まさに自分がウリヤに対してしたことの報いでした。

 次にダビデを襲った不幸は、子どもたちどうしの兄弟での殺し合いです。(Ⅱサムエル13:23~37)
 先の事件の被害者タマルの兄であるアブシャロムが加害者アムノンを殺すというものでした。アブシャロムは同じ母から生まれた妹タマルへの思いの深さ故にアムノンを許すことができませんでした。アブシャロムは機会をうかがいつつ2年間は沈黙し、ついにアムノンを殺しました。その際、アブシャロムはダビデも招待していましたが、ダビデは行きたがらず、アムノンの参加にも多少問題を感じながら、認めてしまいます。
 これらの一連の出来事に対してのダビデの態度は、全く煮え切らないものでした。自分の犯した罪を痛烈に思い知らされていただけに、子どもたちに対して毅然とした態度を保つ事が出来ず、適切な戒めや指導が出来なかったのです。(Ⅱサムエル13:20~22)(23~27)
 もしダビデが、アムノンやタマルに対して、きちんと納得のいく裁定をくだしていたなら、またアブシャロムの働きかけに対して、きちんと出向いて思いを伝えていたなら、いくつかの不幸は回避できたかも知れません。ところが、ダビデは心を痛めるだけで全く何も出来ませんでした。(Ⅱサムエル13:37~39)逆に言えば、それが出来ないほどダビデのダメージは深かったとも言えます。
 やがてアブシャロムは反旗を翻しました。ダビデはアブシャロムとの直接対決を避けて、逃げて行きます。息子を討つ気力はダビデにはありませんでした。それは勝てるとか、勝てないとかの力関係ではありません。それは愛ゆえ葛藤です。ダビデはアブシャロムを愛していたのです。
 3年間ゲシュルに逃げていたアブシャロムをエルサレムに連れ戻しはしますが、決して彼の顔を見ようとはしませんでした。アブシャロムの気持ちは、次第に父ダビデから離れ、屈折していったことに違いありません。ダビデの心情ばかりにスポットがあたりますが、アブシャロムも相当辛かったでしょう。この苦しみの中で、彼の心はどんどん屈折していくのです。ある日、アブシャロムは自分の親衛隊を作ります。さらに、不満があって、王に訴えようとする人々をつかまえて、門前でつかまえて「あなたの言い分はわかる。私が王ならあなたを弁護する……」と味方をするのです。 アブシャロムは、このようにことば巧みに「心を盗んで」いきます。アブシャロムがダビデに反旗を翻したのはヘブロンです。かつてダビデがユダの王として君臨していた町。アブシャロムはこのヘブロンの生まれたのです。ダビデはヘブロンを捨ててエルサレムに移ったので、ヘブロンの人々にしてみれば、ダビデ王に見捨てられたという思いもあったかも知れません。そのような心理を利用したとしたのかも知れません。アブシャロムは、蜂起するに当ってイスラエル全部族に使いを送り、「アブシャロムがヘブロンで王となった」と言わせました。ろくな通信手段のない時代です。この蜂起を全国に一斉に知らしめ、全イスラエルの人々を動かそうとした方法は実に効果的でした。全イスラエルの心が、アブシャロムに移り始めます。さらに、ダビデの参謀であったアヒトフェルという人を自分のもとに迎え入れました。このアヒトフェルの裏切りは、ダビデのダメージを決定的にします。その発言力はものすごい影響力があったようです。(Ⅱサムエル16:23)このアフィトフェルという人物、実はバテシェバの祖父にあたるのです。これも皮肉です。孫娘を手込めにしたダビデに対する複雑な感情がアブシャロムと共鳴したに違いありません。アフィトフェルによる裏切りはイエスとユダとの関係と重なります。

 さて、ダビデはどうしたでしょう。(Ⅱサムエル15:13~18)まさか、 息子が反旗を翻し、父である自分に刃を向くなどとは思いもしなかったでしょう。さらに。すでに多くの人々の心がアブシャロムに傾くなんて想像もしていなかったでしょう。いろいろな思いがダビデの心を去来したに違いありません。 
 ダビデは、「直ちに逃げる」という決断をしました。それは、身の安全のためだけではありませんでした。そうしなければ、アブシャロムは間違いなくエルサレムを討つでしょう。エルサレムは特別な場所です。神の箱を迎え入れて、主なる神様の都としたのです。エルサレムを息子との闘いで破壊することは出来ないと考えました。ほとんどダビデはいいとこなしですが、流石にポイントは押さえています。ダビデがこの苦しみの中で学んだ信仰告白が輝いています。
 「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は私を連れ戻してくださる。もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうかこの私に主が良いと思われることをしてください」」(Ⅱサムエル15:25~26)すべての決定は主の御手にある。あらゆることは主の御心次第だというのです。事を決するのは、アブシャロムの武力でも、アヒトフェルのはかりごとでもなく、自分の力でも、そして信仰でさえない。ただ主の御心がなるというのです。これは、諦めから来る投げやりなことばではありません。主は最善のことをされる。その恵みに自分が預かることが出来たなら・・・という追い詰められたダビデにとってギリギリの告白です。レビ人たちは神の箱を逃げるダビデを追うように移動させて来ましたが、ダビデは途中でそれを改め、エルサレムに戻すように命じています。王座に復権できなくても、エルサレムに帰れなくてもそれもまた良し。主がそのように導かれたのだからということです。「ただそれでも、主の憐れみにあずかることができますように・・・・」と、神の御人格に寄りかかっているのです。

 これから紹介するいくつかの詩編は、ダビデがまさにこの苦しみのただ中で記したものでしょう。ダビデの苦しみの中での心の叫びは、神の御前で昇華され、イエスの地上での苦しみと重なって眩しく輝いているのがわかります。(詩編31:9~13)(詩編55:12~15)(詩編88:13~18)(詩編3編)
 これを読むと、主がただいたずらに人に苦しみを与える御方ではないことがよくわかります。罪の刈り取りというのは、単なる罰ゲームではありません。神は私たちの愚かさや失敗さえも、さらに質の高いものに変えてくださるのです。

2009年10月11日日曜日

10月11日 御利益と祝福 (ひねくれ者のための聖書講座 ⑦ )

 私は聖書を信じているので、どんなに努力しても、妥協しても、信じていないような話は出来ません。しかし、元から聖書を信じていたわけではないし、喜んで信じたわけでもないので、信じていない人の気持ちやあり方についても、自分の経験の範囲ではありますが、ある程度は理解できるわけです。
 そして、何度かお話してきているように、「自分は聖書を信じていると信じている」さまざまなタイプの人たちが、「信じていない人たちを信じさせようとして」、さまざまな善意の押し付けや、神の名において行ってきたことをどうにも許容することができないという強い気持ちもあります。
 キリスト教の歴史は、言わば、闘争と文化侵略の歴史です。破壊や強奪、挙句の果てに殺戮まで行い、それが「信仰の結果」であり、「神のみこころである」と宣言する特に最近のアメリカの現状を見るに至っては、「本当の信仰」と「そうではないもの」をきちんと区別してお伝えする必要を強く感じるようになりました。この講座もそうした私なりのこだわりのひとつです。
 もちろん、「私だけ」が、また、「私の関連するグループだけが」正しい信仰を継承しているのだと、旗を掲げ、何かを主張したいと思っているのではありません。あるのは、「主の側」であって、そちらに誰がつくかという話なのです。分裂、分派の中で甲乙を競うことは全く無意味です。
 つまり、私が問いかけたいことは簡単に言うと、ふたつだけです。とてもシンプルです。そのひとつは、「聖書に何と書いてありますか」ということ。それは、特別な資格や資質を持った人でなくてもわかります。誰であっても誠実に検証すればわかることなのです。むしろおかしな知識や、妙な経験なんてない方がむしろいいのです。真理というのは、誰の目にも明らかなものです。いつまでたってもある一握りの人にしかわからないような秘密は真理とは言えません。そしてもうひとつは、「あなたは個人的に神の問いかけにどう答えるのですか」ということです。信仰は個人的なものです。集団で醸し出す雰囲気や形式、ともに遵守する約束事の中にあるのがキリスト教であるなら、聖書を自分の判断で読み、個人的に応答するのがキリスト者のあり方です。私はこれを「神の前のひとり」という言い方で、何度かHPでも発信して、かなりの反響を頂いています。

 さて、今日は、「御利益と祝福」というテーマで考えていきます。
 イエスを信じたらどんな御利益があるのでしょう。「神の子どもとされる特権」とか、「永遠のいのち」とか言われても、それがどれほど大きな祝福なのか、いかに確かなものなのか、すぐにはわかりません。
 福音書の中で、中風の人が癒される場面がありますが、その際にイエスは、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのとどちらがやさしいか」という問いかけをされます。これは、直接は「罪を赦す」という発言に敏感に反応した律法学者に対してのことばなのですが、同時に、今まさに「中風が癒されること」しか頭にない病気の人やその周辺の人々に対することばでもあります。「罪という概念」にとらわれていては、病気がもたらす人の痛みが見えなくなります。逆に目の前の「病気の痛み」にとらわれていては、神の前の罪が見えません。

 このイエスの問いかけが意味することは何でしょうか。
 それは、「目に見える奇跡」がもたらす「御利益」ではなく、それがいったい何の「しるし」であり、目に見えないどのような「価値」を暗示しているかを信仰によってとらえるべきであるというメッセージです。すなわち、神の与えようとしている「本当の祝福とは何か」ということです。

 しかし、この中風の人に限らず、借金を返せたとか、悪い習慣から解放されたとか、病気が治った、友だちができたとかいうような極めて自己中心で手前勝手な願いがかなうことが、本質的な罪の問題や神との関係に優先する価値に見えてしまうのが、人間の弱さというものです。
 そうした欲望を満たしてくれる力があるなら、何でもすがるし、何でも拝む。多少の無理も承知で、時間や財産も投資します・・・というのが宗教の本質です。宗教というのは、そのような「人の御利益願望」を満たす組織や体系」なのです。もちろん神は私たちが健やかに問題なく人生を楽しむことを望んでおられます。そのようなレベルでも人を祝福することは神の喜びではありません。それは神にとって難しいことではありませんが、神にふさわしいことではないのです。ですから、この世には目に見える一時的な不幸や災いは存在します。

 誰もが自分の子どもに対して無償ですべてを与えてやりたいと思う気持ちをもっていますが、賢明な親は、いくら裕福であっても、やたらめったら、物やら金やら与えたりはしません。子どもの発達や能力や特性に応じて、その必要に応じて順次与えていくものです。  
 神の祝福というのは計画的で教育的なものです。そして、何よりその祝福を通して伝えたいのは祝福そのものではなく、御自身の「愛」であり「人格」なのです。
 そのような意味における宗教が与える「御利益」と、神がお与えになる「祝福」の違いについてお話しましょう。「御利益」がすべて悪いというわけではありません。私もまず普通に願うことは、御利益的なものです。それは人間であれば当然です。
 私のことばの定義でも、祝福の中には御利益が含まれています。しかし、「本当の祝福や祝福の中心は御利益ではない」ということです。神の愛、神の御人格という、祝福の中心を失うと祝福の周辺も失われます。そのとき失われる周辺の祝福を、私は御利益と定義してお話しています。
このあたりをよくわかっていたくために、ユダヤ人の偉大な先祖であるヤコブという人について考えていきましょう。
 ヤコブというのは、「押しのける者」という意味です。ヤコブは、その名の通り兄をも押しのけて祝福を奪おうという貪欲さと、それを実現するための狡猾さを併せ持った男です。
 猟から帰って来た疲れ切った兄をだまして、長子の権利を強引に奪い取ったその手口には、やさしさも品格の欠片さえありません。どう読んでも褒められたものじゃないです。(創世記25:27~34)

 この記事からわかることは、ヤコブは日頃から弟である自分の立場を悲観し、兄エサウを妬んでいたことがわかります。それは父イサクが明らかにエサウを偏愛していたことにも原因があると思いますが、イサクがアブラハムから受け継いだ祝福がすべて兄に持って行かれることに怒りを感じていたようです。そうでなければ、疲れて帰って来た空腹の兄に「たった一杯のあつものと引き換えに長子の権利を売れ」などということばはとっさに出てきません。たまたま煮物が出来上がったタイミングでエサウが帰って来たのか、エサウが帰ってくるタイミングを見計らって、ヤコブが調理をしていたのかは定かではありませんが、おそらく計算ずくでしょう。本来、兄弟は苦しみや悲しみを分かちあったり、互いの弱さを補いあったりするものでしょうが、ヤコブはエサウの弱点を知り抜いて、この場面を設定したように思えます。このように解説すると、ますますヤコブは最低な人物に思えてきます。

 ヤコブの人格形成には、両親の養育態度も大きく影響していました。父イサクはエサウをひいきしていましたが、母リベカはヤコブをひいきしていました。これは家庭教育のあり方としていただけません。信仰なんか関係なく、紛れもまく馬鹿親の態度です。親子の関係が夫婦の絆に優先するのは、危険信号です。日本の家庭の場合はたいていこうなっています。昔から「子はかすがい」と言いますよね。かすがいとは、2つの材木をつなぎとめるためのコの字型の大きな釘のことです。聖書は、夫婦は一体、つまり一本の木だと言っているのです。死に瀕した夫をだます妻に、そうした麗しいものを感じることは出来ません。母リベカは大事なヤコブに入れ知恵して、死ぬ間際の夫イサクをだまします。イサクはその策略を見抜けず、ヤコブをエサウだと思って祝福してしまうのです。(創世記27章)愚かなストーリーです。

 しかし、これは決してリベカとヤコブの策略がすぐれていたからではなく、エサウが長子の権利を軽蔑した結果、こういう展開になったと見るのが聖書的な見解です。(創世記25:34)「一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がいないようにしなさい。」(ヘブル12:16)と聖書は言っています。
 人間の側のあれこれでヤコブが祝福を引き継ぐのですが、こうした一連の意地汚い不正行為の手口を使った結果、彼は祝福とともにその巻いた種を刈り取る経験をすることになります。
 一杯の食物と引き換えに長子の権利を奪った取引も姑息なら、父イサクの死に際してのこの嘘も、負けず劣らずとんでもないものです。年老いて目が見えにくくなった家長の弱点につけこんだこの卑劣で子どもじみたトリックをもう一度確認しましょう。
 「それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。」(創27:15,16)
 弟ヤコブは、母リベカと一緒になって策略をめぐらし、「兄の晴れ着と子やぎの毛皮」を使って兄エサウになりすましてイサクの枕辺に近づきました。年と共に視覚と聴覚は衰えても、臭覚と触覚はまだ大丈夫でした。残された自分の感覚を信じたイサクもまた愚かとしか言いようがありません。
 「ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。『声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。』ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。・・・イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。『ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。・・・』」(創27:22~27)
 このだました方法をよく覚えておいてください。

 弟ヤコブは兄エサウの憎しみと仕返しを恐れ、その後、おじラバンの家に潜伏します。母リベカは、ラバンが「自分の兄だから、可愛がっているヤコブを大事にしてくれる」と考えたのでしょうが、それは都合の良すぎる甘い考えというものです。ヤコブは死に際の父をだまし、兄の祝福を奪い取ったのです。より近い身内である親兄弟に進んで恥を追わせるような人間を、より関係の薄い親戚が親切に献身的に迎えるはずもありません。
 ヤコブは羊飼いとして働きますが、おじのラバンは幾度もヤコブの報酬を変えます。ヤコブはラバンの下の娘ラケルを愛し、彼女をめとるために7年間仕えますが、ラバンはヤコブをだまして姉のレアを与えます。そして、ラバンの下でさらに7年仕えることになります。(創世記29:25~27)当然、こうしてめとったふたりの妻はうまくいくわけがなく、嫌われているレアの方が先に子どもを産むので話はますますややこしくなります。(創世記30:1~8)おそらくヤコブは自分の卑劣な方法を思い返し、神の前に恥じたことでしょう。そんな中でもヤコブは不思議な方法で神に祝福を受けて豊かになっていきます。(創世記31:5~9)

 やがてイスラエル12部族の祖となる12人の子どもたちに恵まれ、安泰に老後を向かえると思えたときです
 またも、ヤコブは、過去の愚かさを思い起こされる出来事に遭遇します。リベカが自分を偏愛したように、ヤコブはヨセフを偏愛します。これに特別な服を着せるのです。この感覚も普通に考えればどうかしています。兄弟はヨセフを妬んで、彼をエジプトに売りとばし、さらに父ヤコブにはヨセフの長服に獣の血をつけて、自分たちの仕業ではなく死んだように見せかけます。

 「彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、『これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。』と言った。父は、それを調べて、言った。『これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。』ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、『私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。』と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」(創世記37:31~35)

 ヤコブは子どもたちからまんまとだまされました。しかもそれは、自分が兄をだましたのとそっくり同じ方法でした。たとえ、求めるものが正しかったとしても間違った方法で、それを求めたことを、主は見逃してはおられなかったのです。

 ヤコブの子であるユダも、家族である嫁のタマルからだまされています。それは彼女がやもめの服を脱ぎ、「ベールをかぶって遊女のふりをしていた」ので判別できなかったのです。これも情けない事件です。(創世記38:12~26)
 この自分の嫁を娼婦だと思いこんで床をともにして身ごもらせた事実が、マタイの福音書のあるキリストの系図に出てくるのです。(マタイ1:3)

 まだあります。ヨセフは実際に生きていてエジプトで大切にされます。エジプトのポティファルの妻に誘惑された場面でも、ヨセフは罪を犯さず逃れますが、「寝室に残された彼の上着」が物的証拠となってしまいます。
 「ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。それで彼女はヨセフの上着をつかんで、『私と寝ておくれ。』と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。 『ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。』彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。」(創39:11~16)
 ここまで来ると、横溝正史的な「ヤコブ家の一族、衣の呪い」とでも名付けたくなります。
 蒔いた種の種類に応じて、収穫を刈り取るように、その育て方が収穫を左右すりように、人は必ず蒔いたように育てたように、その実を刈る取ることになります。これは神の法則です。

 「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」(オバデヤ1:15)

 旧約聖書のみならず、新約の恵みの下でも、その法則は同じです。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7,8) 
 
 罪は信じた瞬間にすべて贖われています。ヤコブが受けたのは、決して罪が赦されなかったための罰ではありません。祝福とは、神の法則から、神の御性質を学ぶことです。神の御性質がわからなければ、交わりはできません。神の御性質とは何でしょうか。
 それは「人としてのイエス」です。私たちが、人生の歩みにおいて「十字架と復活を経験すること」これが祝福の中心なのです。ヤコブが兄を押しのけて求めた財産は、単なる「御利益」です。放蕩息子が父からもらった身代も「御利益」です。これらは、逆に苦しみや悲しみをもたらし、また、湯水のように無くなるものです。

 そのような中で、自分のあさましさや醜さが浮き彫りにされ、己の人格や力量の底を見せられること、これが十字架であり、そこから復活したいのちによって、永遠につながる祝福が始まるわけです。「死を越えたよみがえりのいのち」、これは宗教のもたらす御利益とは全く別の次元のものです。