2009年12月14日月曜日

12月13日 メッセージのポイント

 ダビデの人口調査(ダビデの生涯と詩編⑫)
      Ⅱサムエル23~24章

          
A 人口調査は罪なのか
  ○荒野をさまよった前後の人口調査(民数記1:2,26:2)
  ○イエスのたとえ話(ルカ14:28~32)
  ○主がダビデを動かした(Ⅱサムエル21:4)
  ○サタンがダビデを誘い込んだ(Ⅰ歴代誌21:1)
  ○主の許しを得てヨブに災いをくだすサタン(ヨブ1:12)
  ○イエスは御霊に導かれて誘惑を受けた(マタイ4:1)

B 祝福の中心は何か
  ○主が怒りを燃え上がったのは、人口を数えたからではない(Ⅱサムエル24:1)
  ○祝福の中で神を忘れたダビデとイスラエル(ホセア13:5~6)
  ○祝福の中心は神御自身であり、その周辺部は宗教的御利益
  ○御利益を求める者には落とし穴や袋小路が仕掛けられている

C キリストの影
  ○人が心奮わせ涙を流すのは実は知るも知らぬも「キリストの影」
  ○祝福の中には「キリストの影」がある
  ○世を遠ざけ、世に怯え、世に媚びるのはあるべき姿ではない
  ○クリスチャンの責務はキリスト御自身を明らかにすること

D 力や栄光を数値化することの弊害
  ○ダビデの三勇士(Ⅱサムエル23:14~17)
  ○王は軍勢の多いことによっては救われない(詩編33:13~22)

E 主の手に陥ることを選択したダビデ
  ○7万人の民が疫病で死んだのはただダビデのせいではない
  ○ニネベに遣わされたヨナ
  ○ソドムをとりなしたアブラハム
  ○日本のために祈る祭司、語る預言者として

12月13日 ダビデの人口調査 (ダビデの生涯と詩編 ⑫ )

 ダビデほど波瀾万丈の生涯を送った人はいないでしょう。ダビデの生涯は、神の摂理の中にあって、イエスの地上での歩みの先行体験であり、クリスチャンにとっては追体験のモデルなのです。特に、その折々に残された喜びや悲しみの祈りは「詩編」となり、今日の至るまで、すべてのクリスチャンを慰め続けています。

 そんな「ダビデの生涯」を追いながら、詩編と合わせて学んで来たわけですが、「ダビデの信仰」には遠く及ばない私が、1年にわたってあれこれ偉そうにお話してきたことはとても心苦しいことです。私は私が経験してきた範囲でしか理解が及ばないので、「ダビデの生涯」をお伝えしても、実際よりはずいぶんスケールの小さいものになってしまったかも知れません。そのあたりの多少のお詫びの気持ちと、ダビデの残してくれた足跡への大きな感謝の気持ちをこめて、このシリーズの最後のお話をします。

 多くの苦しみの後、政治的にも安定期を迎えた晩年、ダビデは大きな罪を犯してしまいます。それが今日のお話の主題になります。それは何かと言うと、ダビデがイスラエルの民の数を数えたということでした。バテ・シェバとの姦通やそのもみ消しのための殺人が良くないことだというのはすぐにわかりますが、人口調査がどうして罪なのかという問題は若干わかりにくのではないでしょうか。改めて考えてみましょう。

 これは普通の感覚ではちょっと理解しにくい、デリケートな問題です。
 神は別の時代には、イスラエルの民に荒野をさまよった40年の前と後で、人口調査をすることを命じてもおられます。(民数記1:2,26:2)
 また、イエスは城を築くとき完成に充分な資金があるかどうか、その費用を計算することの大切さを説かれました。戦争の時には、敵を迎え打つ味方に充分な兵力があるかどうか、必要ならば講和を求めることの大切さについても語っておられます。(ルカ14:28~32)


 それなのになぜこのダビデの人口調査だけが、大きな災いを招くほどの罪なのでしょうか。聖書は、この人口調査に関して、ふたつの側面から語っています。
 Ⅱサムエル24:1では、「主がダビデを動かした」と記されています。ところが、Ⅰ歴代誌21:1では、「サタンがダビデを誘い込んだ」と書かれています。
 このふたつの記事は、矛盾するように感じられるかもしれませんが、聖書の表面上の矛盾を整合させるのは、人間の経験や感覚ではなく、さらに他の聖句との整合性ではかるべきです。

 ヨブ記を見れば、次々にヨブを襲った災いは、すべて主の許しを経たものであったことがわかります。    また福音書を見れば、イエスが荒野で誘惑を受けるために御霊が導かれたという記述もあります。このように考えると、この人口調査の背景にあるものが少し見えてきます。
 ダビデはそれを自分の意思で拒むこと出来ましたが、同時に主は今のダビデがそれ拒むことが出来ないこと、そして、その結果イスラエルが罰を受けて災いを被っても仕方がない霊的状態にあることを知っておられたのです。イスラエルは、かつてない繁栄と安定を得たことによってダビデ王にも国民にも慢心が生まれました。
 神の祝福に酔い、その祝福を与えてくださった御方を忘れてしまったのです。もし周辺諸国と総力を挙げて戦うことになったら、どれ程の兵を召集できるかを知りたい、それを広報して圧倒したいという気持ちが間違いなくダビデの中にありました。だから、数を数えたときに良心のとがめを感じたのです。(Ⅰ歴代誌21:10)

 「主なる神が怒って」と書かれているのは人口調査を行う前のことであり、その怒りの対象はダビデを含むイスラエルの全体だったわけです。
 イスラエルを懲らしめるために、王であるダビデの慢心を用いられたのです。私たちは何を学ぶでしょうか。オバマ大統領が誕生したのは、アメリカの国情を受けてのことです。日本では、自民党のリーダーがコロコロ代わり、誰もキチンと責任をとらないまま友愛鳩山政権に代わり、笑止千万の仕分け作業なんかをやっている。まさに日本国民の精神を反映しているわけです。悲しいかな、どこの国の国民も自分たちにふさわしいリーダーを選んでいるのでしょう。
 教会だってそうです。愚かな説教者を祭り上げ調子に乗らせるは、そういうメッセージを欲する人たちです。自分たちに都合のいいことを言ってくれる者を寄せ集めるのです。(Ⅱテモテ4:3)

 「傷つけられた」「ひどい目にあった」というのは、申し訳ないけど自業自得です。儲け話の詐欺にあった被害者たちほどみっともないものはないですね。欲深い奴が「楽」して「得」しようと思うから、騙されるのであって、それは、政治でも経済でも宗教でも何でも同じです。そういう祝福の中心である神を排除して、周辺の御利益だけ得ようという罪を明らかにするために、さまざまな落とし穴や袋小路をこの世に設けておられるわけです。これを仕掛けられたのはどなたでしょう。あるいはお許しになったのは誰ですか。神です。この世において一切の権威をお持ちの御方が、認められたのです。実務を担当してそそのかすのはサタンです。サムエル記は神が仕掛けられたという視点で表現され、歴代誌はサタンが実務を担当したという視点で表現されているわけです。そこに矛盾はありません。

 神の真の祝福とは何なのか、また、私たちは世に対してどのような認識を持ち、どのようにふるまうべきなのかを、わきまえておく必要があります。ダビデもイスラエルの民も祝福の中で、祝福そのものである御方を忘れたのです。あるいは軽くみたのです。
 このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」(ホセア13:5~6)

 人が心奮わせ涙を流すのは、実は知るも知らぬも「キリストの影」に対してなのです。クリスチャンはその祝福を豊かに享受し、その秘密を鮮やかに解き明かす責務があるのではないかと思っています。世を遠ざけ、世に怯え、世に媚びるのは、いずれもあるべき姿ではないのです。
 祝福の中には数々のキリストの影があります。私たちは神が与えてくださる祝福の中で、その本体である御方、実在である御方を慕い、感謝し、いつも覚えて礼拝することができるのです。
 困難や苦しみの中にいるときは、そこから逃れたい一心で神を求めます。しかし、肉の要求が満たされてしまうと、神を忘れてしまうのが人間の弱さなのです。ダビデとイスラエルの失敗から、私たちが学ばなければならないことは、今日の私たちにとっても極めて限実的に差し迫った事柄であることがおわかりいただけるのではないでしょうか。

 「数える」ということについて、もう少し別の角度から考えてみましょう。
 今年2009年を表す感じが決まったそうです。「新」という字ですね。
 選ばれた理由には、民主党による新政権や猛威をふるう新型インフルエンザに加え、イチローのメジャーリーグ新記録もあるそうです。そのイチロー選手に関することです。野球というのは数えるスポーツです。他の競技と比べても、野球にはやたら細かい記録がたくさんあります。いったい誰が数えているのかと思うくらいです。ほとんど草野球しか経験のない私が前人未踏の記録を打ち立てたトップアスリートのことを話すのもおこがましい限りですが、記録達成のプレッシャーがかかると、明らかに打席でのイチローの様子がおかしい。
 ものすごく簡単に言ってしまえば、「記録を追いかけると、野球そのものの愉しさが損なわれる」ということです。記録を目指すことが動機付けになると言う主張も当然あると思いますが、私はそれは「生きることの意義」や「愉しさ」ということに関する重要な議論だと考えています。200本のヒットも1本1本のヒットの積み重ねなわけで、基本は一球入魂の全力プレーです。それがあるとき、プレーする人も、見る人も純粋に野球が楽しい。数字を数えることに反対するわけではありませんが、力や栄光が数値化されることによって損なわれるものは少なくないでしょう。
 何万の大軍勢は、ひとりひとりの兵士のいのちなのですが、何万と数えてしまうと人格や個性や存在の尊さは消えてしまう。
 Ⅱサムエル記23章には、ダビデの勇士たちの名簿が出て来ますが、これは24章の数の記録とは違います。その中には、ダビデの三勇士もいます。この三人はダビデにただベツレヘムの井戸の水を飲ませるためでだけに、危険を顧みずペリシテの陣営を突破して、それをくみに行きます。しかし、ダビデはそれを飲もうとはせず、神に注ぐという何とも美しいエピソードが出て来ます。ダビデは戦場でおこるすべての出来事を神との関係性の中でとらえる信仰を持っていたはずでした。
 ダビデは、「王は軍勢の多いことによっては救われない」と歌っていたのです。(詩篇33:13~22)

こうした神を中心にした関係性が、24章の人口調査では完全に失われています。ダビデであってさえ、こうした罪に陥り、ダビデとともに苦楽をともにしてきた民でさえ、このように高ぶるのであれば、いわんや、日本の生ぬるい平和ボケの中で浮遊するようにいきている私たちは、あやうさを抱えて生きているのだと自らを省みる必要がありましょう。

 さて、この罪の結果、王であるダビデに対して、主は3種類の懲らしめの中からどれか一つを選ぶように言われました。 ①7年の飢饉、②3ヶ月間敵の前を逃げ、仇が追うこと、③3日間、国に疫病が蔓延することです。

 ダビデは悩み抜いた末、3日間主の手に陥ることを選びます。
 ダビデの心痛は自分の罪のために7万人のイスラエルの民が疫病によって倒れたことでしたが、(Ⅰ歴代誌21:8)それは、ダビデの認識不足であり、思い上がりです。主は、ただダビデの慢心のためだけに、罪のない7万人のイスラエルの民を巻き沿いにして疫病で打つというような理不尽はなさいません。疫病で倒れた民には、それにふさわしい罪があったはずです。
 それは、異邦人の町ニネベに遣わされたヨナとのやりとりや、ソドムとゴモラを滅ぼす前のアブラハムとのやりとりを見ればわかります。
 先にも、民がふわさしい指導者を選ぶと申しましたが、民の状態が指導者の選択にも反映するのでしょう。そこには相関関係があるようです。
 今、この地球上のあちこちで起こっているさまざまな出来事の背景には、必ずそこに住む人々の営みがあり、それをご覧になっている神の主権の範囲において、許されていることだけが起こっているだと私は理解しています。

 私たちは祭司です。今この時代の日本に生かされ、そこで感じる痛みや憂いは、預言者のそれと同じです。預言者たちが堕落していくイスラエルやユダを愛し、とりなしつつ、民には厳しく明確に語り続けたように、私たちもそうであるべきです。

 これで、一年にわたってお届けしてきたシリーズダビデの生涯と詩編はおしまいです。

2009年12月6日日曜日

12月6日 祈りについて(ひねくれ者のための聖書講座⑨)

 およそ祈ることほど馬鹿馬鹿しいことはないと思ってきました。自分でろくに努力探求せずに神様にすがるとは何事かと・・・・。人が祈る姿は、私の目には惨めでみっともないものだと映っていました。そして時には浅ましい姿にさえ思えました。敬虔を装う貪欲さを感じる場合もありました。「舌切り雀」の話を読んで、でっかい葛籠にはガラクタしか入っていないと知っているから、宝の入った小さい葛籠を選ぶような、「金の斧、銀の斧」の話を聞いて、水の女神に正直に答えて金銀の斧を両方せしめてやろうというようなしたたかさを感じるわけです。実際、「イエスに高価な香油を注いだマリヤは素晴らしい、だから、私たちも・・・・」なんて話はいっぱい聞かされるわけです。私はその手の話は苦手ですね。とにかく私はひねくれていますので、「信仰」を大事にする生き方も、弱者の杖、卑怯者の逃げ場所だと感じられたのです。今でもいわゆる宗教における「信仰」については、同じ印象を持ち続けています。

 クリスチャンになってからも、正直に言うと「祈り」にはずっと違和感がありました。祈りのことば使いやその内容が、どうにも嘘らしく思えました。どうにも嘘らしいというのはかなり控えめな表現ですね。特に、自分の祈りのことばに関して徹底的に違和感があり、結構長い間、しっくりきませんでした。実は今でも時々「何か違うぞ」と思っています。そういうわけだから、他の誰かと一緒に祈るのも決して楽しくはなかったし、充実した意味のある時間ではありませんでした。同じことばを使っていても全然違う内容をさしているようなすれ違いを感じ続けてきたわけです。
 昨日まで祈ることになど無縁だった連中が、企業の朝礼で社訓を連呼する如く、コンビニやハンバーガーショップの店員がマニュアル通りに接待する如く、けっこう流暢に祈り出す様子は、何とも不可解でした。そんなキリスト教用語で身を固めていく人たちの変わり身の「自然さ」というべきか、「不自然さ」というべきか、そこは悩むところですが、とにかくそういう生態は異様に思えました。教えとしては、「いのちが宿った」と言うことなんでしょうが、私は「洗脳」ということばを思い出しました。

 祈りに関するもうひとつの一般的なイメージとしては、「蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げた日」という歌の文句にもあるように、祈る姿自体が、ひとつのファッションというか、スタイルになっている。これも気にいらないことのひとつでした。そういうクリスチャンイメージが蔓延する中で、自分がクリスチャンとして見なされることに物凄い拒絶感がありました。それは今も同じです。そこで、蔦が絡まるどころか、舌が絡まるわけです。

 そういうことを全く感じないで、すうーっと自然に自分のことばで祈って来られた方々にとっては、逆に私の感じ方がおかしいと思われるでしょうが、それはそれでいいのです。しかし、世の中には、私のように「祈りにとまどう人たち」は少なからずいるはずです。「ことば」にこだわり、「自分のあり方」にこだわる人間にとっては、祈るという行為はそんなに単純なものではないのです。かと言って、無意味に理屈をこねまわして、「祈る」という行為を複雑なものにしようとは思っていません。「祈り」を否定しようとは思いません。
 ただ、何の疑問も感じていない人たちが、本当に正しく祈れているのかということについては、一言意見をのべたいという気持ちはあります。ただし、ひねくれ者にふさわしく、自分が何処につまずいてなかなか祈ることが出来なかったのかを明らかにしつつ、どうしてそうしたひっかかりを感じずに、あるいは、強引にかき消して、いとも簡単、かくも御立派に祈れる人になるのかということを問いただしたいと思います。

 まず、「一体何に向かって祈るのか」、次に、「何の為に祈るのか」、そして、「祈ることによって何がどう変わるのか」などが、どうにもすっきりしない。その上でさらにやっかいな、「どんなふうに、どの程度祈ればいいのか」という問題が出て来ます。私の場合も、先輩のクリスチャンたちから、それらしいマニュアルどおりの答えをいただきましたが、それがどうにも、聖書が語るところとピタッと一致するようには思えないわけです。何より、「教えてくれたその人自身があんまりよくわかってないんじゃないか」という疑念を拭えずにいました。そこで、私は他の誰がどう祈っていようが気にせず、イエスご自身がどのように祈り、何を祈れとおっしゃったのかを丹念に追求することにしました。さすがイエス・キリストです。キリスト教の教える祈りとイエスの祈りは天と地ほどの違いがあることがわかってすっとしました。
 
 「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときに自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6:5~15)
              
 まず何より腑に落ちたのは、「長々と祈るな」「往来や人前で祈るな」というイエスの祈りに関する叱責です。イエスは当時の宗教指導者たちが「これこそ祈りだ」と信じ込んでいたスタイルを根本的に否定しています。「祈りというのはそうじゃない」というメッセージですね。彼らが祈りだと思っていた祈りは、人が自分勝手に創作した言い伝えや習慣であり、何の価値も効力もないというわけです。言い換えれば、これは祈りを聞く神の側からの拒絶です。宗教的に祈りの功徳を積む人々は、一体何の教えに従ってそうするのでしょうか。聖書のこのページか国語の読解力か、そのいずれかが欠落しているとしか思えません。

 それらは、「偽善者の祈り」また「異邦人の祈り」と呼ばれています。「宗教的祈り」と言ってもいいでしょう。つまり、神ならぬ大いなるものの心を動かすための、人間側からの働きかけです。それを人間どうしがその姿勢や熱心さを評価し合うといったものになっているということです。音を鳴らしたり、仰々しい装束を身にまとったり、うやうやしく振る舞ったり、それらしい呪文をとなえたり、さまざまな難行苦行をしたり、供え物を捧げたりと、いろいろな条件が追加されます。また、朝早くから、夜を徹して、あるいは何日も連続して・・・など、何度も同じことを繰り返しながら、長時間そのことに集中して、それを見ているはずの神さまや人の心を動かそうとするわけです。こういう人の営みをすべてイエスは否定されたのです。ですから、「無駄だ」と言われていることをするのは無駄です。「やめろ」と言われていることをあえてするのは罪です。

 確認しますよ。祈りは同じことばを長く繰り返しても何の意味もありません。人前で人目を意識し、そのことによって「祈る自分」に意識が向いている時点でその祈りは無効だということです。
 イエスは「隠れたところで隠れたところにおられる御方に祈れ」と言われました。神は「隠れたところ」におられるのです。それを目に見える「かたち」にする必要はありません。隠れたところにおられる御方を信じられずに、木や石や金属でそれらしいかたちを与えたものを、聖書は「偶像」と呼んでいます。「偶像」に向かっていくら長時間それらしく祈っても何事も起こりません。もちろん「それだけ念じたのだ」という自己満足は残るでしょうが、ただそれだけのことです。このような人間の不安と自己満足を膨張させたものが「宗教」です。イエスは、キリスト教を含む一切の宗教を否定されたのです。マリヤ像のみならず、キリスト像や十字架に祈るのもまったく馬鹿げていますし、聖書はそれらを完全に否定しています。ユダヤ人はそれでも偶像を作って拝んだ時期はありましたが、イエスが来られた時代は、そういう「かたち」あるものに祈っていたから批判されたのではなく、祈る姿勢や、自分自身の信仰が偶像になっていたわけです。よもや自分に問題があるとは思っていないほど、自然にその祈り方を身につけてしまっていたわけです。そこが問題だとイエスは指摘されたわけです。

 イエスが直接叱責されても憎むばかりで悔い改める気配の乏しかった当時のパリサイ人や律法学者の様子を見れば、私ごときが意見を述べてもおそらく、気を悪くして逆に私がののしられるだけだろうと予想はしていますが、それでもイエスが語られた以上、私も言わないわけにはいかないので、決して好き好んでというわけではありませんが、こうしてメッセージをしているわけです。

 雅歌の中には、羊飼いである王、すなわちキリストが花嫁、すなわち教会を奥の間にともなう場面があり、いわゆる敬虔なキリスト教徒が眉をひそめるような官能的な描写もあります。その描写をみれば、祈りは、親しい者どうしの密室での交わりなのです。もちろん、集まって数人や教会全体で祈ったり、公の場で祈ることがすべて間違いで不純だとは言っておられるわけではありませんよ。イエスはここで、祈りというものの本質について語っておられるのです。この本質をわきまえないでいると、祈りは、形骸化し、かえって害をもたらすものになると言っておられるのです。妻や子どもや親といるときは、そんなに饒舌に語ったりしません。親しい関係になるほど、ことばの間にあるものや沈黙のコミュニケーションが多くなるのではないですか。

 イエスご自身は、弟子たちに対して「弟子になったからには、こういうことをこの程度祈るように」などと教えたり、命じたりしませんでした。学校で子どもたちに、あいさつすることを教える程度にさえ、「信じた者は祈るべきだ」と教えなかったのです。これは重要な認識です。有名な「主の祈り」があるじゃないかと思われるかも知れませんが、それは、「祈りについて教えて欲しい」と要求した弟子に対して、「祈るのならばこう祈れ」とおっしゃったものです。
 マタイは、祈りの本質を伝えるべく、先程の引用の続きに主の祈りをもってきましたが、時系列に出来事を記したルカは、主の祈りが伝えられた経緯を次のように書いています。
 「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこで、イエスは彼らに言われた。祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与え下さい。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」(ルカ11:1~13)

 この「主の祈り」が最も強く教えていることは何でしょう。それは、神の優先順位ということです。祈りのことばにおいてではなく、あらゆることにおいて、実際に第一にしていることは何なのか。ポイントはその一点です。「御国が来ますように」ということばに集約されています。それはつまり「神の国とその義を第一に求めること」です。私たちは多くの場面で、この優先順位を間違えているのです。多くの場合、世における悩みの解決や祝福が祈りの中心になっていないでしょうか。私たちは祈る前に、それらの問題を一瞬で解決できる御方が、なぜあえて、この世に多くのつまずきを置かれたのか、不合理や矛盾を容認しておられるのかを考えるべきなのです。それは、人間に「神の国とその義に目を向けさせるため」です。

 恥ずかしながら、私は詩集を2冊出版しているのですが、その1冊は「聞き手のない対話」と言います。神様を知らないとき、架空の聞き手に向かってことばを綴ったものです。2冊目は信仰を持ってからの葛藤とその根底にある喜びを綴ったもので「生贄タチの墓標」と言います。生贄たちの墓標は、次のことばで始まります。『祈りのことばを失ったとき、ぼくの祈りは始まった。』
 つまり、自分を出発点とするあらゆることばが尽き果て、イエスという「いのちのことば」が口から出てくる。これが聖書が語るところの祈りなのだと私は理解しています。

 私は通常の礼拝のメッセージは祈りで結ぶことにしていますが、この「ひねくれ者のための聖書講座」では最後に祈ることを控えています。そんなかたちの上のことは、別にどうだっていいのですが、とにかく、あいさつみたいに祈るのは嫌だということと、同時に、私と同じくひねくれた人たちへのささやかな配慮でもあったということをつけ加えておきたいと思います。