2008年2月22日金曜日

2月17日 からし種のたとえ(イエスのたとえ話⑤)

マタイ13:31~32

種はどのような種でも小さなものですが、からし種は当時知られていたあらゆる植物の中でも最も小さな種です。パレスチナでは、からし種は香辛料としてだけではなく、防腐剤や医療用にも用いられたようです。黒からしの種は0.95~1.6mmで重さは1mg。しかし、生長するとどの野菜よりも大きくなると書かれています。ガリラヤ湖畔においては、2.5~3mほどにもなったと言われています。たとえの中心は「小さなものが大きくなる」ということです。「小さなはじめが、大きな終わりをもたらす」という事実をわかりやすく対照しています。ただし、ポイントは野菜でありながら木のように生長したその大きさではなく、「はじめの種の小ささ」にあります。生長したからし種より大きな木は他にもありますが、からし種より小さな種はありません。
からしというのは正確には野菜であって木ではありませんが、「木が生長するたとえ」は旧約聖書の中にもいくつか見られます。このような関連の聖句をしっかり調べて、聖書全体が伝えるメッセージのバランスを考えるのは大切なことです。エゼキエル書やダニエル書には、木の生長が「王や帝国の繁栄」の象徴として預言されているので、簡単に見てみましょう。エゼキエルは、バビロンに捕囚されるイスラエルの姿と、キリストによる救いの未来を、二羽の大鷲と木のたとえで見事に表しています。(エゼキエル17:1~10, 22~24)最初に出てくる大鷲(3)はバビロンの王ネブカデネザルであり、若枝の先(4)はエホヤキン、地の種(5)はゼデキヤ、もう一羽の大鷲(7)はエジプトの王です。ゼデキヤは、大鷲バビロンに反逆するため、もう一羽の大鷲エジプトに頼るが裏切られ、ネブカデネザルの手によって、目をえぐり出され、足かせをつながれえてバビロンに連れて行かれます。一方では、ダニエルがイスラエルを捕囚したバビロンの王ネブカデネザルの盛衰について、王自身が見た大きな木にまつわる夢を解き明かしています。(ダニエル4:10~27)これらのたとえの中では、木の生長自体は良いことでも悪いことでもなく、主の主権によって、人は栄えもすれば滅びもすることを教訓として語っているにすぎません。たとえの中では、木は確かに繁栄の証として生長していますが、大事なのは「神の主権」に服することだと教えています。しかし、このような旧約のモデルがあるので、「からし種のたとえ」は、多くの場合、上っ面だけをとらえた「御国の拡大のたとえ」としてとらえられてきたのも事実です。しかし、「からし種のたとえ」ただそれだけの単純なものではありません。マタイの福音書を見れば、それはさらに明らかです。「種まきのたとえ」に続いて「種まきのたとえの解説」があり、「毒麦のたとえ」があって、次に「毒麦のたとえの解説」が続くのではなく、その間に「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」が挿入されているのがわかります。従って、これらのたとえはそれぞれに深い関連を持っており、まさに文脈の中で解釈していく必要があるわけです。つまり、この順番は、「からし種のたとえ」は、「種まきのたとえ」の続編であり、「毒麦のたとえの解説」の前提であるという読み方が必要で、そのように意図された編集になっています。では、そのように読んでいきましょう。「種まきのたとえ」では、4つのうち3つの土地の状態は悪いのであり、まかれた種の総量に対して仮に4分の1ずつがそれぞれの条件の土地に落ちたとすれば、4分の3、つまり75パーセントの土地は実を結ばないのです。さらに、「毒麦のたとえ」では、畑には良い麦と見分けのつきにくい毒麦が根を絡ませて広がっています。この文脈から考えても、「からし種のたとえ」だけが、全体の文脈から無視した「小さな信仰がすばらしい教会成長につながる」というような単純なモデルであるわけがありません。さらに次回詳しく見ることになる「パン種のたとえ」でも明らかですが、パン種を入れてパンを大きくすることは決して喜ばしいことではなくむしろよくないことなのです。粉の中にパン種を入れる女とはもちろん教会のことです。つまり、教会は一見非常に大きくなりますが、それは「必ずしも好ましい生長ではない」と読み解くことが出来るのです。ですから、みすぼらしい小さな集まりがやがて世界的な影響力を持つようになり、今は日本人口の1パーセントにすぎないクリスチャンだが、やがて大リバイバルが起こると多くの人が救われるのだというたとえではないのです。
生長したからし種の木の姿の描写に注目すると、「空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になる」(マタイ13:32)と書かれています。この表現にも少しこだわってみます。マルコでは、「大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどなります」(マルコ4:32)ルカでは、「生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作り増した」(ルカ13:19)となっています。共通するのは、いずれも「空の鳥が」「枝に」「巣を」作っているということです。空の鳥とは、種まきのたとえの解説によれば人の心にまかれたみことばの種を取り去る悪い者(サタン)です。(マタイ13:19)「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」(エペソ2:2)という表現も思い起こされます。「枝に」「巣」が張られるとは、まさにキリスト教の分裂・分派を指し、党派心による自己主張が、悪いものに巣を張られるための枝を提供しているという見事な描写だと言えます。黙示録に目を転じても、ペルガモの教会にはサタンの王座があると書かれています。「わたしはあなたの住んでいるところを知っている」(黙示録2:13)目に見えて明らかになっているものを「わたしは・・・・知っている」となどという言い方はしません。影に隠れているもの、隠そうとしている真実を見通しているという警告です。「大きな枝の影の部分さえも神の光が照らし出している」と告げているように感じます。黙示録の中には、さらに、「憎むべき鳥どもの巣くつ」(黙示18:2)というおぞましい表現も見られます。これもまたこの世ではなく、教会の霊的堕落を指していることは明白です。
種まきのたとえにおける種は「みことば」でした。毒麦のたとえにおける良い種は「御国のこどもたち」でした。では、小さなからし種とは何を指しているのでしょうか。その秘密を解くみことばはルカの福音書にあります。「もしあなたがたにからし種のほどの信仰があったなら、この桑の木に『ねこそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(ルカ17:6)このみことばから、からし種は「信仰」を指していることがわかります。この不思議なみことばは、「私たちの信仰を増してください」という使徒たちの願いに対しての答えです。信仰は小さな目に見えないほどのからし種程度で十分。つまり、信仰は量的なものではなく、質的なものなのだと主はお答えになったわけです。
では、なぜからし種ほどの信仰に出来る大きなことの例として、桑の木が出て来るのでしょうか。そもそも桑の木を海に植えかえる必要があるのでしょうか。また、そんなくだらないことを願う人がどこにいるのでしょう。サタンがイエスさまを誘惑したように、「腹ぺこの人が石をパンに変える」という話なら意味がわかりますが、「陸に生えている桑の木を海に植え替えること」にいったい何の意味があるのでしょうか。私は長い間そのことを疑問に思っていました。しかし、最近になって、陸はユダヤ人を海は異邦人の世界を表しているのではないかと考えるようになりました。つまり、祝福が律法を守ることによってではなく、信仰によって異邦人に移っていくことを意味しているのです。イスラエルの選びは恵みですが、本当の救いは信仰によって教会にもたらされます。(ガラテヤ3:14)ちなみに桑の実は最も貧しい人々の食べ物でした。求められる信仰の質とは何でしょうか。それは、イエスを信じるということです。十字架を信じるということです。よみがえりを信じるということです。私たちがキリストのものであれば、約束による相続人なのです。私たちは、何かを築き上げるのではなく、何もしないで、イエスの信仰、イエスの勝利を相続するのです。(ガラテヤ3:29)信仰の創始者はあくまでもイエスです。(ヘブル12:2)毒麦のたとえにおける良い麦の収穫も、実ははじめの「地に落ちて死ぬ一粒の麦」にかかっています。(ヨハネ12:24)はじめの一粒が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままなのです。毒麦はおろか、たった一粒の良い麦の収穫も期待できません。すべてはイエスさまの「人の子として」の父に対する信仰にかかっているわけです。ですから、からし種の信仰も、「ささやかな私の信仰」を出発点に考えては間違いです。出発点は「イエスの信仰」です。神が人として、信仰者として生まれ、歩み、死んでゆくということ、これがからし種です。あらゆる栄光をお受けになるにふさわしい御方がそのあり方を捨て、ご自分を無にすること、仕える者の姿をとられたこと(ピリピ2:5~8)が、からし種の無に等しい小ささの根底にある意味です。「キリストが神の御姿であられる方なので、神のあり方を捨てることが出来ないと考えられた」としたら、私たちも大きな信仰も、小さな信仰もなければ、信仰の対象そのものを失うわけです。
先日私はこの一月に生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて、祝福の祈りをさせてもらう機会がありました。私は力を入れたらこわれてしまいそうな小さな赤ちゃんを胸に抱き、そのやわらかい手触りとぬくもりを胸に感じながら、イエスさまが人の子として、全能の神が、全く無力な人間の赤ちゃんとして生まれてくださった事実に対して、改めて厳粛な気持ちになりました。そして、神の子イエスを人の子としてわが胸に抱いた母マリヤの驚きや信仰の実際はどうだっただろうと思いをはせたのです。マリヤは最初からすんなり御使いのことばを信じたわけではありません。「どうしてそのようなことになりえましょう」(ルカ1:34)と言っています。当然です。妊娠があり得ないことはマリヤが一番良く知っています。しかしそのやりとりの中で、「神にとって不可能なことは一つもない」(37)と御使いに言われ、そのとおりだと受け入れます。そこではじめて「ほんとうに主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばのとおりこの身になりますように」(38)と言っています。私たちがアーメンと言うとき、実はこのマリヤ告白と同様の告白をしているのです。また、こういう告白でないと軽々しくみことばに対してアーメンなどと言ってはいけないのです。このマリヤの一言が人の子イエスの誕生を実現させたのです。マリヤの子宮に着床した人の子イエスは、まさにからし種のような小さな細胞にすぎませんでした。そしてマリヤのこの一言も、言わばからし種のような極めて小さな信仰でした。そこには神学も理論的体系も教理も律法もありません。マリヤは、神の全能とみことばの約束の真実と、そしていのちそのものを受け入れたのです。

2008年2月8日金曜日

1月27日  毒麦のたとえ(イエスのたとえ話④)

          マタイ13:24~30 36~43

毒麦という種類の植物があることはよく知られています。毒麦というくらいですから、その特徴は、まず麦によく似ていているということ、そして毒性があるということです。それは区別がつきにくいほどよく似ていて根が絡み合うので、毒麦を抜こうとすると良い麦をも傷つけてしまう危険があります。これをもしあやまって食べた場合は、吐き気やめまいや嘔吐やしびれを引き起こす危険があると言われています。こうした特徴を逆手にとって、「麦をまいたばかりの敵の畑に毒麦をまく」ということは、復讐の方法のひとつとして行われていたようです。 毒麦は麦という名がついていますが、麦角(ばっかく)という麦に寄生する菌が正体です。麦角に寄生された穂は、まるで黒い角のような穂があちこちに顔を出す。これを食べてしまった麦角病はペスト・コレラとともに恐れられた病気でした。毒麦被害の記録は、BC7世紀のアッシリアに始まり、17世紀になってようやく菌の正体がわかって次第に被害は減りましたが、20世紀になっても、まだ大被害の記録が残っています。日本は米が主食であったため、あまりなじみがないのですが、麦を作る地域で毒麦は長年にわたって大きな被害をもたら続けています。
良い麦と毒麦はそれぞれに何を指していて、誰が蒔いたのでしょうか。イエスさま御自身の解説によれば、良い種は「御国の子どもたち」で、毒麦は「悪い者の子どもたち」です。 良い種をまくのは人の子すなわちイエスさまであり、毒麦をまくのは悪魔です。こうしてイエスさまと悪魔によって正反対の目的で別々にまかれたものが、ひとつの畑の中で混じり合っている。これがキリスト教界の現状です。良い種が単に「みことば」ではなく、「御国の子どもたち」と書かれていることに注目してください。イエスさまが語られたことばは、霊でありいのちです。いのちのことばであるイエスさま自身が、一粒の麦として地に落ちて死なれたことによって、イエスの霊が私たちのうちに宿り、ひとつひとつのみことばの約束を聖霊がよみがえり力によって成就させるそれが本当の御霊の実だからです。
良い種が途中から毒麦になるということはありません。毒麦は初めから毒麦であり、サタンが悪意をもってまいたので、良い種と混じり合って成長し、根を絡ませては混乱させます。また、毒麦としてまかれたものが途中から変質して良い実を実らせるということはありません。これは絶対にないことなので、毒麦を良い麦に変えようという努力は無駄だということです。当然、異質なものが混じり合って収穫を損なうかも知れないことを知った者は、心を痛めて、「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」(マタイ13:28)と言うでしょう。しかし、主は「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えておられます。その理由は「毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかも知れない」ということです。つまり、麦と毒麦はそれくらい判別が難しく、麦と毒麦をより分けることは、「収穫の麦」である私たち自身の仕事ではないのです。実際には穂が実ると本物の麦よりもひげが長かったり、色が黒っぽかったりして区別がつくそうですが、まさに収穫寸前までは区別がつきにくいのだそうです。さらにここで配慮されているのは、良い麦を誤って抜いて傷つけてはいけないということで、毒麦に対する憐れみではないということも覚えてください。毒麦はあくまでも最後に焼かれるために成長するのです。正しい者と悪い者を分けるのは、クリスチャンの本来的な役割ではなく、そのことに責任もありません。終わりなき神学上の論争や異端審問や正当派争いには意味がないのです。
悪魔が毒麦の種をまくのは、「人々が眠っている間」と書かれています。これは、怠惰というよりは、「人の関知できないところで」という意味でしょう。毒麦の毒性というのは、極めて霊的な悪意に満ちた、人よりも上位の者のしわざだということです。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)たとえが私たちを選ぶと申しました。私たちの聞き方が私たちを選別するのです。イエスさまが、「あなたがたは悪魔から出た者だ」と言われたのは、彼らがイエスさまが語られたことばに耳を傾けられなかったからです。「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」(ヨハネ8:43)植物であるならば、神様は麦は麦、毒麦は毒麦に造られたわけで、麦や毒麦に選択の余地はありません。しかし、人は無抵抗にサタンに任命され操られるわけではありません。自分の意思でみことばを受け入れたり、また、拒んだりうして、自分のあり方を選択するのです。ヨハネ8章にあるやりとりの前半でも、イエスさまは、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とおっしゃっています。初めから拒まれているわけではなく、彼らがみことばを拒んだのです。それなのに、ユダヤ人たちはイエスさまが与える自由を求めず、すでに自由だと言い、逆にイエスさまを殺そうとします。さらに、「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります」と言っているのです。このように今日にもこの類のキリスト教徒は毒麦として混在しています。真理の霊と偽りの霊をより分け束ねることは命じられていませんが、見分けることは出来ます。霊だからといってみな信じてはいけないのです。見分けるポイントはひとつです。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって、神からの霊を知りなさい。」(Ⅰヨハネ4:2)と書かれています。イエスの受肉をどうとらえているかというのが鍵です。先ほどのユダヤ人たちもひとりの父である神を強調し、神の子であるイエスさまの人の子としての受肉を真っ向から否定しています。イエスを告白する霊です。「聖霊さま」ではありません。「唯一の神」でもないのです。(Ⅰヨハネ4:3)
「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして、世に勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:4)これもまた慰めに満ちたことばです。私たちは弱くていい。これから勝つのではなくすでに勝っている。勝利の理由は、私たちが成長するからでも、がんばるからでもなく、私たちのうちにおられる方が悪魔よりも強いからです。
「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。」(Ⅰヨハネ4:5)この世の神の入れ知恵によって語られる、自己啓発や道徳やお涙ちょうだいのエピソードや御利益話は大いにこの世に受け入れられるでしょう。みことばをみことばのまま語ることは、非常に分が悪いように思われます。しかし、その中で、淡々とみことばを語り続けることによって、それに耳を傾け、反応する人たちが起こされます。私たちはすでにそのことを見ています。私たちのような田舎の小さな教会を通して発信されるメッセージに応答される兄弟姉妹が各地におられ、事実交わりが広がり、祈りがつながっている。いのちが流れている。これはすごい奇跡を見ているようです。
「私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊を見分けます。」(Ⅰヨハネ4:6)このヨハネの言葉は、見方によれば非常に独善的なものとうつるでしょうが、それほど、まっすぐにみことばを語っているという強い核心に基づいた宣言だと言えます。私たちもこのヨハネのように、私たちの言うことに耳を傾けない者は偽りなんだと言いきれるほどのメッセージを携えていたいものです。収穫はすぐにはありません。収穫はこの世の終わりだからです。借り手は御使いです。やがて、麦と毒麦の違いが明瞭になります。御国の子どもたちとは誰なのかはっきりします。それは、「あの教団は駄目」「この教会はすばらしい」というようなものではありません。このたとえのように、根が絡み合っていて、人目にはなかなか見分けがつきにくいのです。
毒麦にあたる人たちは、「そこで泣いて歯ぎしりする」と書かれていますが、この表現はマタイの福音書に6回出てきます。これほど頻繁に出てくるこということはとても大事なことで、出来ればそうならないようにというイエスさまの思いがこめられているようです。この機会にすべての箇所をチェックしてみてください。1. 百人隊長の場面(8.12)2. 毒麦のたとえ(13:42)3. 地引網のたとえ(13:50)4. 王の披露宴のたとえ(22:13)5. 悪いしもべのたとえ(24:51)6. タラントのたとえ(25:30)
なぜ彼らは「泣いて歯ぎしり」するのでしょうか。それは激しい悲しみと悔しさの表現です。それは自分たちの受けた報いが当然であることがはっきりわかり、選択を誤ったことを思い知るからでしょう。彼らには選択を迫られた機会がありました。みことばに触れるチャンスがあったのに生かさなかった、みことばを軽んじた、みことばよりも自分の考えを選んだ人たちです。いっさいの言い訳を取り去られた世界で、正しい神の前で自分の愚かさや罪深さと向き合わされるというのは恐ろしいことです。中には確信犯もいるでしょうが、多くの人は、神に従っていると思って、この世の神であるサタンに従い、サタンの為に準備された罰をともに受けるわけですから、たまったものではないでしょう。

2008年1月24日木曜日

1月20日 種まきのたとえ (イエスのたとえ話 ③) マルコ 4:1-20

イエスさまはいろいろな場面でさまざまな人を対象にして多くのたとえをお話になりましたが、それそれのたとえが「誰に対して」「どのような状況で」語られたのかということを確認することも、たとえを正しく理解する上で大切な条件のひとつです。「種まきのたとえ」は、弟子たちにでもなく、パリサイ人や律法学者に対してではなく、特定の誰かを対象に語られたものではありません。種々雑多なおびただしい数の群衆に対して語られたメッセージです。ルカによれば、方々の町からやって来たと書かれています。場所は湖のほとり、群衆は岸辺の陸地にいましたが、イエスさまは舟の上におられました。みもとに集まってきた群衆に話をするために舟に移られたのでした。ちょっと不思議な光景ですね。
また、当時の種まきの方法についても知っておいたほうが良いでしょう。当時のユダヤの種まきには大きく2種類の方法があって、ひとつは種の入った袋に穴を開け、それをろばに背負わせて歩かせながらまくという方法です。もうひとつは、ミレーやゴッホの絵で見られるように、手でばらまく方法です。いずれにしてもいい加減なやり方なので、作業が楽な分、効率はあまり良くないわけです。日本人の感覚では「どうして道ばたに種がまかれるのか」と不思議に思うのですが、休耕地にこういうアバウトな方法で種をまいた後で耕すという方法が一般的だったようです。
種まきのたとえは非常にわかりやすいたとえだし、イエスさま自身の解説がそのままみことばの中にありますから、あえて補う必要がないほど、そのメッセージの意図は明確です。要するに「みことばの聞き方に注意するように」ということです。そして、最大のポイントは「心の良い地にみことばを落とせば多くの実を結ぶことができる」という朗報にあります。国語的な意味での理解は容易です。しかしながら多くの場合、このたとえのとおり、みことばを聞いて理解はするのは易しいけれど信じて実を結ぶということが少ないのです。私たちのみことばの受け止め方が、このたとえの分類にはめ込まれてしまっています。種まきのたとえは、このたとえだけでなく、他のすべてのたとえを含むイエスさまが語られるみことばのすべてを聞く姿勢について語っておられる点で、その重要性とわかりやすさは際立っています。では、この後の解説を心の良い地に落とせるように、十分に注意を払って起き聞ください。読み方のポイントを何点か明らかにしておきましょう。あまり重要視されない最大のポイントを初めにおさえておきます。それは、種まく人が「まく土地を選んではいない」ということです。種をまく人は、ただ「それが種だからまいているだけ」なのです。どこに落ちるかはある意味知ったことではない。種はそこに「落ちた」のです。意図して「落とした」のではない。だから種まく人の責任はそこまでです。大事なことは種まく人が「本物の種をまいているかどうか」ということです。種であれば、落ちた地が良ければ実を結びます。しかし、それが種のかたちによく似た何かの粉や粒をまいているだけなら、それは落ちても決して実を結ぶことはありません。みことばではなない道徳や教えを語っていても、そこからは何も生まれはしません。いのちがないからです。種は「そうこうしているあいだに目を出して育ち」「人手によらずに実をならせるのです」(マルコ4:26~29)これは、すごいことばです。誰も主から栄光を横取りして、私はこんな苦労したと言える者はありません。本当の働き人は誰でもそのことを普通に知っているのです。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」(Ⅰコリント3:6~7)とパウロは書いています。
教会の最大のつとめは「種をまくこと」です。要するにみことばをそのまま伝えることです。実はこの最も単純で当然のつとめを教会が怠っている。ここに問題があります。そもそもまいているものがみことばでなければ、何の芽も出ないし、仮にわずかなみことばが芽を出しても、いのちの成長にまかせず、害虫駆除のための農薬散布をし、栄養促進のための肥料をまいて奇妙な果実を作り出しているわけです。あるいは、みことばをまいていはいるが、それをわけのわからない木の箱やアルミホイルか何かで包み込んで土に埋めているのです。埋められた地表には、「誰がそれをまいたのか」という札がかかげられる。これでは立て札は残りますが、芽は出ません。きちんと種をまけば、後は夜寝て朝起きていれば、「そうこうしているうちに」実るものは実るのです。みことばはそう言っています。そうやって出来るものが「神の国」であって、栄光は神にのみあります。人が苦労して築き上げるものは所詮「人の国」です。だから栄光は人が取り合うのです。そこには恨みがあり、妬みがあり、分裂や争いがあります。
細かく、4種類の土地の様子を見ていきましょう。種は4種類の土地に落ちて、それぞれの結果をもたらしています。落ちた種は同じです。まず道ばたに落ちた種です。道ばたに落ちた種は、すぐに鳥が来て食べています。種を食べてしまう鳥はサタンです。サタンは私たちがみことばに触れることをいやがります。サタンは私たちのあらゆる力にまさっています。サタンが唯一私たちにおじけづく場合は、私たちがみことばを握っているときです。サタンが全力を出し切ってもみことばには勝てないのです。ですから、サタンは「すぐに」みことばを食べにやってきます。私たちがそれを悟って行動に移すより前に、心から取り去ってしまうのです。次に土の薄い岩地です。この地に落ちると、みことばを喜んで受け入れると書かれています。経験や考えの浅い人は、わりと抵抗なくみことばを聞き、好意的な反応を示すことが多いものです。みことばの本質的な意味が理解できないからです。しかし、みことばを受け入れることが暮らしの中で具体的なリスクを負うことがわかると直ちに離れていくのです。人間には暗い土の中に根をはるような深い経験が必要です。人間としてのそうした基礎的な経験がない者の心に種がまかれても、種の本当の価値はわからないので、ちょっとした困難に出会っただけで簡単に手放してしまうわけです。「土が薄い」ことと「根がない」ことには深い関連があります。豊かな土の中でゆっくり根をはるような期間を軽んじてはいけません。イエスさまのナザレでの30年間は、まさにそうしたことの重要性を証しておられるわけです。この根に関するお話はクリスマスのメッセージの中で詳しくお話しましたね。
続いての種はいばらの中に落ちた場合です。彼らはみことばを聞いてはいるが、世の心遣い、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので実を結ばないと言われています。私たちがイエスさまから離れる気はないのに、実を結べていないという場合は、このいばらのパターンにはまっているのだと考えてよさそうです。いばらが生えてきたのは、人が神のみことばを軽んじて善悪の知識の木の実を食べたからです。(創世記3:18)はっきり宣言しておきます。いのちによらなければ、いばらは駆除できません。善悪のモードでみことばとこの世の様々な条件をてんびんにかけて比べているなら、最終的にみことばは必ず後回しにされます。「みことばはこう言っているけど・・・・・」という、後に続く自分の見立てや見解の部分を捨てられないでいると、みことばではなく、自分にとって少しでも納得のいく現実的な選択をしているはずです。事実、そのような選択を積み重ねて多くの失敗をしてきたのではないでしょうか。ですから、何か問題がおこったとき、「どうしようか」とあれこれくよくよ悩んだり、誰かに相談したりするのは実は無駄なのです。答えはいつだってはっきりみことばの中にあるし、そこにしか本当の解決はありません。私たちは薄々そのことがわかっていながら、「みことばに従う以外の方法」で問題を解決しようとしてしまうものです。しかし、そういうことがないように、イエスさまも同じ種類の誘惑を受けてくださって、神の子としてではなく、人の子としてサタンに勝利する方法を示してくださいました。イエスさまの勝利の方程式は単純です。それは「みことばにこう書いてある」とサタンにむかって宣言することでした。ただし、みことばに何と書いてあるか知らなければ、「みことばにこう書いてある」とは言えません。アダムとエバの失敗には、善悪の知識の木を食べる以前にその原因はありました。それはみことばは軽視していたことでした。みことばを軽んじることは、自分自身を損なうことになることをしっかり肝に銘じるべきです。私たちの心の最も良い地にみことばの種が落ちていることが大事なのです。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は本当に言われたのですか」(創世記3:1)というサタンの誘導的な問いに、エバはまんまとひっかかってしまいました。エバは神がおっしゃっていないことばを付け加えました。「それに触れてはいけない」という一語です。神は「触れてはいけない」とはおっしゃっていません。そして「必ず死ぬ」が「死ぬといけない」に変わっています。(創世記2:17,3:3)何となしのいい加減な記憶では、みことばの専門家であるサタンの誘導にひっかかるのは当然です。まさにサタンの思うツボです。
最後に良い地です。私はイエスさまを受け入れ、毎週教会に来てメッセージを聞いているのだから、私は「良い地におちた」グループに入ると思って読み流しているとしたら、この箇所から学ぶ意味はありません。私たちに落ちたみことばが果たして良い地に落ちたかどうかは、結ぶ実によってわかります。勿論その規模はそれぞれ違いますが、少なくとも30倍、場合によっては100倍の実を結ぶと書かれています。みことばの聞き方の基本は、繰り返してお伝えしているように、ベタニヤのマリヤと母マリヤの中にあります。鍵は、「足元で聞く」「思いめぐらす」の2つです。
4種類の土地は必ずしも4種類の人を表しているわけではありません。ひとりの人の心がある時は道ばたのように、ある時は岩地のように、ある時はいばらに覆われたようになるでしょう。しかし、どのような土地も良い地として耕される可能性があります。私の仕事は小学校の教員です。教師の仕事は「子どもの心を耕す仕事」だと思っています。効果をすぐに期待して、やたら子どもを厳しく管理し、自分の価値観で振り回す先生もいますが、これでは良い結果はまず出ません。種を蒔いても収穫はすぐには期待出来ません。そのように神様が種をプログラムされたからです。「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。」(ヤコブ5:7)自分の3人の子どもたちにも、教会の子どもたちにも、みことばを受け止める良い地を作るほうが、狭くて浅い土を種だらけにするより大切だと信じています。しかし、芽が出て実を結んでこその種です。私たちの教育の結果は、10年後20年後に明らかになります。
最後に種まきに関するみことばをもうひとつ。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束を抱え、叫びながら帰って来る。」(詩編126:5~6)なぜ、簡単な種まきなのに種蒔く人は涙を流し、泣きながら出て行くのでしょうか。今日、みことばをそのまま蒔くことがあまりにも無駄で効果がないように思われるからです。みことばを重んじていますか。「みことばは大事です」と正解を言うことが重んじていることではないですよ。残念ながら、まだまだみことばがはそれにふさわしく重んじてられているとは言えません。

2008年1月17日木曜日

1月13日 地の塩 (イエスのたとえ話 ②)

 
「あなたがたがは地の塩です。もし、塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

今回もたとえ話というよりは比喩表現なのですが、「地の塩」ということばを取り上げ学んでいきます。私はSaltと名乗らせてもらっているので、とりわけこの言い回しには強いこだわりがあります。
マタイの福音書の中では、「地の塩」は明らかに「世の光」と対になって表されています。ひとつのたとえだけでは表現しきれないことを、もうひとつのたとえによって別の側面から語るという方法は、イエスさまのたとえにもよく見られます。「世の光」との関連については後にお話しするとして、別の箇所と対応させながら、まず「地の塩」という表現を掘り下げていきます。3つの福音書の記事には共通するところと、微妙に違っているところがあります。そういう部分を丁寧に見ていくことが大切です。

マルコの福音書にはこう書かれています。
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩はききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコ9:49~50)

ルカはこう書いています。
「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょう。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」(ルカ14:34~35」

塩は塩けをつけるものです。3つの福音書に共通して「塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけられるのでしょう」と書かれています。甘みの代用品はあっても、塩の代用品はないのです。
塩は世界中のあらゆる料理の味のベースです。肉でも野菜でも、すべての食材の素材自体の旨みを引き出すのが加えられた塩の役割です。それは辛みだけでなく、素材自体の旨みや甘みさえも引き出し、防腐、保存の効果もあります。穀物の捧げものには塩を添えて捧げなければなりませんでした。(レビ2:13)さらに、旧約聖書の中には主の契約の永遠性を語る場面で、「塩の契約」(民数記18:19)(Ⅱ歴代誌13:5)という表現も見られます。

では、塩が塩けをなくすということはどういうことでしょうか。それは、いのちのないクリスチャンを表す表現だと考えられます。全体の流れを見れば、信仰やあかしの姿勢と関係があることがわかります。「無味乾燥」ということばがありますが、知識があってもいのちがなければ、味わいがないおいしくない福音しか伝えられないのです。

マルコの福音書の塩の記事は、38節からの流れの中で読めば、クリスチャンのつまずきについて書かれています。マタイにはなくマルコで語られているのは、塩けは火によってつけられるということと、自分自身に塩気を保つべきことです。
「塩けは火によってつけられる」というのは、試練の中で磨かれるという意味でしょう。「火は試練である」というのはペテロの手紙にも見られる表現です。マルコの福音書はペテロの口述によると考えられているのでぴったりきます。期待される塩味は、主の訓練の中で磨かれます。
さらに、「自分自身に塩気を保つ」というのは、つまずきの原因は厳格に排除しなければならないけれども、その厳格さとしての塩けは「他者に対して辛口に」というよりは、自分自身の中に保つべきで、弟子たちの特権意識を戒め、むしろ人々と和合することを説かれています。もちろんそれは、いい加減なことも受け入れて妥協し、みことばを否定する人々とも取りあえずなかよくしなさいということではありません。ゲヘナの火というのは、神のさばきに耐えられないものは容赦なく焼き尽くしてしまいます。イエスさまは、不具であろうが、片足であろうが、いのちの領域にないものは焼かれるんだとおっしゃっているのです。自分はいのちの領域に安んじていれば、他の人が多少正しかろうが間違っていようが、そんなことにいちいち目くじらたてて怒ったりしません。

ルカの福音書の塩の記事は、14章全体のまとめとして書かれています。14章はイエスさまに従う者の心がまえが中心主題です。
ここでの一連のお話は、ある安息日にパリサイ派の指導者の家で語られたもので、その家に招かれた客たちが上座を選んでいるのに気づかれたイエスさまが3種類のたとえをお話になり、25節からはその3つのたとえを受けるかたちで語られ、その結びが塩の話になっていることがわかります。
パリサイ人の家での安息日の食事が、神の国での食事と重なるたとえとなっています。そこでイエスの食事を味わうというのは、どういうことなのかを語っておられるわけです。
まず、1つ目のたとえでは、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という原則が語れています。2つ目のたとえでは、「お返しを期待して招き合わなければ、その志は報われる」ということが語られています。そして、3つ目のたとえでは「、自分を高くすることしか考えず、この世での見返りばかりを期待している彼らの現状では、だれひとりイエスさまの食卓にはつくことができない」と語られています。この3つの話を受けて、神の国を目指してイエスさまに従いたいと思うのなら、見通しを持ち、しっかり覚悟を決めてでなければ不可能なことだとおっしゃっています。つまり、イエスさまが期待される塩けを保つためには、自分の財産全部を捨てて弟子になる必要があるわけです。

いかがでしょう。いくら聖書を詳しく学んで意味がわかっても、みことばを信じ、約束を握って実際に生活するのでなければ、何の意味もありません。
皆さんはキリストの弟子ですか。皆さんの中には、イエスさまが期待される塩けがあるでしょうか。もし、「はい」と即答できなければ、あなたはまだ弟子ではなく、みことばを聞いている群衆のひとりです。厳しい言い方かも知れませんが、たとえは人を選び、毎回新たな決断を迫ります。たとえをどう受けとめるかは、「あなたが弟子なのか、群衆のひとりにすぎないのか」をふるい分けるのです。塩けのないクリスチャンは、土地にも肥やしにも役に立たず、外に投げ捨てられます。つまりこの世でも教会でも無用のものとなるということです。これは脅しではなく本当のことです。すでに教会に通っていても捨てられたような人々は、あちこちにたくさんいます。
ですから、この章の締めくくりでもイエスさまはこう結んでおられます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ14:35)

さて、保留しておいた「世の光」の話に戻ります。(マタイ5:14~16)
クリスチャンは世界の光であると書かれています。それは、あたかも山の上にある町のように、人の目に隠れることができないのです。おかしな意味ではなく、私たちはこの世にあって「目立つ存在」でなければなりません。それは、「私たちがキリストを信じていることが知られている」という意味です。あかりをつければ、それは「升の下」でも、「ベッドの下」でもなく、「燭台の上」に置くべきです。あかりとはみことばのことです。「みことばはわが足のともしび、また光」と書かれています。
みことばがみことばどおり、本来のあるべき場所に掲げられていれば、家すなわち教会は明るいのです。家にいる人々全部を照らすと書かれています。
さらにそのみことばを世の人々の前で輝かせるべきで、みことばの約束を握った生き方、行動が人々の心を天におられる父に向けさせると書かれています。ここの「良い行い」とは、単なる道徳的な善行ではありません。

私たちは夜になれば、太陽が沈んで月が出ることを知っています。太陽は主を表し、月は教会を表しています。この2つの星の動きが人々に暦を教えます。
太陽はそれ自体が輝いており、光と熱を提供しています。月はそれ自体が光を放つことはありませんが、太陽の光を反射して地球の夜を照らしています。月の表面はデコボコのクレーターですが、光を受けて光っている部分が様々な形になって、人の目に映ります。

イエスさまが十字架に架かられたとき、12時から3時まであたりは真っ暗な闇に包まれました。人々は光なる方を憎み闇を愛したことの表現でした。よみがえられたイエスさまは、私たちのうちに聖霊というかたちで内住され、世の光となられました。
私たちの内におられる光が、その本来の明るさで輝くこと、これが証です。それが本当の塩けです。何をどう語るかとか、どういう風に辛口にこの世を批評するかではありません。みことばが私たちの内側に常に豊かにあり、イエスさまの内住に委ねていれば、自ずと証の機会は訪れます。

「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で塩味の聞いたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります」(コロサイ4:6)

2008年1月12日土曜日

1月6日 人間をとる漁師にしてあげよう (イエスのたとえ話①)

新年度の新しいシリーズのテーマをどうしようかと思いめぐらしてきましたが、イエスさまのたとえ話から分かち合うことにしました。全体のサイズとしては何回のシリーズになるかは未定ですが、毎回ひとつのたとえ話を取り上げて、その中からお話をしていく予定です。
私たちは日常の生活の中でも、真理を伝える手段として、より正確に相手に自分のイメージを伝えるために比喩やたとえ話を使います。人類が他の動物とは決定的に違う特徴として、火の使用や直立歩行とともに、言語による複雑なコミュニケーションや宗教心などもあげられます。虫のなかまでもからだから出す特別な臭いや飛び方によって、情報を伝え合っていますし、猿やイルカなどのなかまは、音声でかなり複雑なやりとりをしていることが明らかになっています。同じ猿でも、ニホンザルとリスザルでは声を出すときに違いがあるそうです。リスザルは目の前に仲間がいるときに声を出すのに対し、ニホンザルは目の前に相手がいないときに、意味のない声を出して、離れた場所にいるなかまの存在確認をするそうです。そういう習性を若者が携帯電話のメールで「元気?」とか「今何してる?」とか言う類のほとんど意味のない情報を交換しているのと似ているというわけです。私たちが知らないだけで、まだまだ動物の世界にもさまざまなコミュニケーションの秘密が隠されているでしょうし、そこには、人間との共通点はたくさんあると思います。しかし、動物が比喩やたとえ話を使って情報を伝えたり、それを理解し、共感し、教訓にするなどということは絶対にあり得ないことです。しかし、人類はその文化の発生から、数々の神話や寓話、おとぎ話、民話、童話などの中で、さまざまな比喩やたとえ話を産み出し、伝えてきました。それらは、むき出しの徳目や教訓よりも、はるかに聞く者の心に印象深く残り、具体的な自分の暮らしと結びついたイメージを広げることに役立っています。これらが人類特有のものであるというのは、目に見えない概念、つまり「霊的な事柄」を扱うからです。科学の発達は人間を「猿よりも少しだけ遺伝子の多い生き物」に格下げしてしましましたが、聖書は「人間は神のかたちに造られた特別な被造物」だと教えています。イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われましたが、人間だけが、神のことばを聞く耳、すなわち「たとえを理解する力」がプログラムされているわけです。実はこの点こそが、人間と他の生物との決定的な違いです。
イエスさまの数多くの比喩やたとえ話は、非常に面白く、時に辛辣で、聞く者を試す鋭さがあります。その核心にどれだけ迫ることができるかわかりませんが、みなさんとともに、イエスさまのたとえ話の世界に浸っていきたいと思います。今日は第1回目なので、実際に聖書の箇所を見る前にもう少しだけ前置きとしてのお話をします。まず、最初に「りんごのようなほっぺ」という誰でも知っている非常にありふれた比喩表現から考えてみます。これはたとえ話ではありません。ストーリーも何もない最もシンプルなたとえです。しかし、こんなシンプルなたとえにも、そこで用いられるふたつのものと、共通する目に見えない意味があります。「りんご」と「ほっぺ」は直接関係のないものですが、子どものほっぺの赤くて健康的な様を「りんごのようだ」と言うわけです。この表現を聞けば、聞き手は子どもの顔を見なくても、元気で明るい子どもの表情を容易に想像することができます。「ほっぺは果物ではない」と言う人はいません。そこに共通する普遍的な「健やかさのイメージ」があるからです。イメージする力はとても大切です。断片的な情報や体験から、共通性や関係性を見出し整理する力、蓄積した情報や体験をもとに、必要な場面で必要な情報を取り出せる能力が高い人が、本当に「賢い人」です。幼い子どもたちは「ままごと遊び」に代表される「ごっこ遊び」をしますが、これは、実際の大人社会の一部を子どもの目線で切り取って、模擬的に行う遊びです。泥団子や草の葉をハンバーグやサラダに見立てる想像力を馬鹿にしてはいけません。ごっこ遊びは、大人としての賢さを身につけるための練習なのです。今日ではTVやゲームなどの普及が、子どもたちから決定的な遊び体験を奪っています。イメージする力の乏しさは、実は信仰にも大きく影響すると私は考えています。私たちは目に見えない世界の現実を学ぶために、目に見える世界を生きているわけです。私たちがこのからだにあって生きている期間は、言ってみれば、「御国のごっこ遊び」なのです。「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:17)
りんごつながりで、ちょっと万有引力の話をします。ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て引力を発見したと言われています。りんごが木から落ちる場面は、世界中のりんごの農家の人々はもちろん、りんごの木が生えている地域の多くの人は見たことがあるはずです。しかし、そこに引力を発見したのは、ニュートンというひとりの人でした。ニュートンだけがなぜりんごの落下に引力を感じたのでしょうか。ニュートンは「神様がお造りになった世界には何事にも定まったルールがあるはずだ」と考えていたのです。そのような視点で世界を見つめているから、法則をつかむことが出来るのです。 引力は目に見えませんが、りんごが落ちるのは見えます。見えるものを通して見えないものを見る力、これは極めて信仰に近いものだと言えます。たとえ引力を知らなくても、全ての人は引力の影響を受け、その恩恵にあずかっています。法則や真理というのはそういうものです。私たちが目にするささやかな出来事のひとつひとつは、大きな法則の中で起こっていることです。万有引力の法則に限らず、そのような法則を見出すことが出来るなら幸いです。目に見えない世界を目に見える世界から見つめる視点として、「比喩」や「ごっこ遊び」「科学法則の発見」の話をしました。
今日は、たとえ話の前段階として、イエスさまの最初の比喩表現について考えてみます。「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられるとき、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』」(マタイ4:18~19)「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言うイエスさまのことばは、公の生涯に入られてから、特定の個人に向かって語られた最初のことばであり、たとえとしては最初のものです。このことばひとつを取り上げても、その意味が正確に知るには、先ほど私が申し上げたふたつの側面からの体験的理解が必要であることがわかります。「りんご」という果物を見たことも食べたこともない人に、「りんごのようなほっぺ」の比喩が伝える健やかさを伝えることは出来ません。人間をとる漁師という表現も、彼らが漁師だからこそ、このたとえは本来の意味を持つのです。つまり、「ごっこ遊び」としての漁師体験がなければ、イエスさまのことばは宙ぶらりんになってしまうでしょう。しかも、その経験は一度や二度ばかり魚をとったことがあるというような浅い経験では駄目で、一定以上の努力と成果がなければなりません。次のステップは、「人間をとる法則は、魚をとる法則とは異なるものだ」ということを体験することです。すでにお気づきだと思いますが、「人をとる法則」と「魚をとる法則」が異なるのだとしたら、彼らの熟練した漁師としてのスキルは、実はそのままでは何の役にも立たないし、むしろ邪魔になるのだということです。主のしもべは、自分の価値観や行動のベースになってきたものを否定するところに、新しい方法があるのだということを見出します。「荒れ狂う湖の上で、イエスさまだけが眠っておられ、弟子たちがいのちの危険を訴えると、ことばひとつで嵐を鎮められた事件」や、「夜通し働いても何も取れなかったのに、イエスのことばに従えば大漁になったという事件」は、まさに霊的な法則を教えるものです。弟子たちはそれらの経験から、目に見える現実の可能性ではなく、イエスのことばにこそ信頼するべきだと学ぶわけです。クリスチャンは罪から解放されてはいますが、罪は犯してしまいます。永遠のいのちは与えられていますが、やがては死にます。後の目に見える事実ではなく、前提としての目に見えない霊的な立場に足場を置くことが信仰なのです。私たちはすでに、キリストにあって「罪と死の原理」から、「いのちの御霊の原理」に移されています。そのことを信じるのです。イエスの十字架と死を通して、もう一度、この世界を見つめ直すとき、今度は漁師としての数々の経験が、何一つ無駄にならずに、「人をとる」ことに生かされることを経験します。「人を知り、人を生かすこと」また、十字架も復活も、ガリラヤ湖で彼らの平凡な日常に組み込まれ、秘められつつ、示されていたことを知るようになります。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)とペテロは言ったとき、自分の経験や価値観のすべてが主のみことばによって粉砕されたのでした。しかし、これは謙遜な罪の告白ではなく、極めて宗教的な傲慢なことばです。人間は、こういう「いかにもへりくだったようなフリ」が好きなのです。もし、イエスさまが、「よし、わかった。そうしよう。」と彼から離れて行かれたら、ペテロはいったいどうなったでしょうか。「私は罪深い人間です」って、そんなことは初めからわかりきっているわけです。ペテロは「ああ自分は罪深い奴だなあ」と自己嫌悪に陥っていたのかも知れませんが、彼がこのとき認識していた程度は極めて軽いものでした。みなさんもご存じのように、この後ペテロは、「他の弟子たちが裏切ったとしても、自分だけは従い通す」と大見得を切りながら、「イエスさまなんか知らない」と3度も宣言します。福音書に描かれている弟子たちの姿は、聖霊が内住されるまでの過渡期のモデルですから、信仰者の模範として見ることはできません。聖ペテロとか、聖アンデレとか言ってフィルターをかけてしまうと何が何やらわからなくなってしまいます。「主に離れて行かれては、自分はどこへも行けない。罪深い私を底の底まで知りながら、十字架でそれを負い、罪と死の原理から解放してくださった方が、今よみがえって、私のただ中におられる。この方のいのちと御霊の原理が私を導くのだ」というのが、正しい理解です。「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」これが、イエスさまの約束です。私たちに「人間をとる漁師になりなさい」と言っておられるのではないのです。「私たちは、人間をとる漁師にされる」のです。
イエスさまは、ご自分がたとえでお話になることをどのように伝え、人々はそれをどのように聞いていたのでしょう。マタイはこう書いています。「あなたがたは、天の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また悟ることもしないからです。」(マタイ13:11~13)これは、弟子たちがイエスさまに、なぜたとえで話されるのかをたずねたときに答えとして語られたことばです。さらにこう書かれています。「イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話にならなかった。それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。『わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから聞かされていることどもを物語ろう。』」(マタイ13:34~35) 続いてマルコです。「イエスはこのように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。たとえによらないで話されることはなかった。ただご自分の弟子たちだけには、すべてのことを解き明かされた。」(マルコ4:33~34)これらのことばによれば、イエスさまは、普遍的な真理について、聞き手に応じて多様なたとえを準備され、弟子たちだけには、特別にその解説もあったことが書かれています。 では、イエスさまのたとえを聞く側はどうでしょう。 「イエスはこのたとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話が何のことかよくわからなかった。」(ヨハネ10:6)「祭司長とパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちを指して話しておられることに気づいた。」(マタイ21:45)弟子たちに語られたのは、「羊と門のたとえ」で、祭司長とパリサイ人たちに語られたのは「ぶどう園のたとえ」です。ふたつのたとえは違うものですから、難易度も異なるでしょうから、単純な比較は出来ません。とは言うものの、祭司長やパリサイ人は解説を待たずに、たとえの意味を理解しましたが、弟子たちにはたとえの意味がわかりませんでした。祭司長とパリサイ人たちは、たとえを理解してかえってイエスさまへの殺意を燃やしました。理解が及ばない弟子たちには、イエスさまの解説がつきました。このように、イエスさまのたとえは、それが語られる段階で人を選び、また、語られた段階で、さらなる選択を迫るものです。理解する脳の働きも勿論大事ですが、「イエスさまが何を語ろうとしておられるのかを知りたいと思う心」こそ、あらゆる条件よりも大切なのだとわかります。足元にひざまずいてみことばを聞き、いつも思いめぐらして過ごせるなら幸いです。

2008年1月7日月曜日

2007年4月29日 御名の中に保たれる

ペテロとヨハネは、キリストの十字架と復活を力強く語りました。ふたりのメッセージは、大きなしるしをともなって、大勢の群衆の心をとらえました。そんな様子を察知して、祭司たち、宮の守衛長、そしてサドカイ派が次々にやってきました。宮の守衛長は治安上の問題に不安を感じたでしょうし、祭司やサドカイ派にとっては、その内容が聞き捨てならぬものだったでしょう。ルカは、「イエスを例にあげて死者の復活を宣べ伝えていた」(使徒4:2)と記しています。つまり、イエスがよみがえられたという特別な事実だけにとどまらず、「イエスにつながる死者もまたよみがえるのだ」と、復活について一般化して語ったことが、大きな問題だったわけです。サドカイ派とは、貴族や祭司の家柄につながる支配階層で議会では主流派をしめ、ローマ帝国とも現実的妥協路線を貫いていました。「長男の嫁をめとるという律法を守って、死んだ兄弟の後をとって複数の兄弟が次々にひとりの嫁をめとったような場合、よみがえったときその妻は誰の者か?」という問いをもって、イエスさまに論争をしかけた人たちです。彼らは復活を否定する立場をとっていました。そんなわけで、弟子たちの主張が民衆に受け入れられた場合のダメージを考えると、放置しておくことはできず、その権力を行使してとらえたのです。しかし、そのときには、すでに男だけで5000人にのぼる人たちが信仰を持っていました。
翌日には、民の指導者たち、長老、学者たちがエルサレムに集まりました。これはサンヘドリンと呼ばれるユダヤ人の最高会議です。イエスさまもローマ総督ピラトの裁きを受けられる前に、審問されていましたね。(マタイ26:57~68)イエスさまは、この議会における審問ではっきりとご自分が神の子キリストであることを宣言され、それを聞いた大祭司が衣を引き裂いて「彼は死刑に当たる」と決定したのです。それはまさに、「家を建てる者たちがイエスという石を捨てた」瞬間でした。大祭司カヤパは、神の深い計画を知ることなくこう言っていました。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうがあなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」(ヨハネ10:47~53)これらの事実は、十字架のみわざが人の罪と愚かさのゆえであると同時に、遙かに深い神の知恵によることを示しています。
神は、この偉大なみわざをただ一人で成就されたナザレのイエスの御名によってのみ、世界を救おうと定めておられるのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
権力者たちは「何の権威によって、だれの名によってこんなことをしたのか。」と問います。彼らが弟子たちをとらえたのも、彼らの身分を保障するのも、この世の権威、この世の組織、この世の肩書きです。それは人間同士の約束事や利害関係の中で保障された力に過ぎません。一方、弟子たちは聖霊に満たされていました。この世の権威、この世の組織、この世の肩書きと、聖霊の満たしは相反するものです。
最近掲示板にある聖会のお誘いがありました。書き込みにしてはけっこう長文でしたが、お読みになりましたか。その中には何とか先生の名前や教会の名前は出てきましたが、イエスの御名は一回も出てきませんでした。大事なのは主イエスの御名の栄光です。イエスさまの御人格とみわざを通して父があがめられることです。ペテロとヨハネが生まれつき足のきかない人を癒したとき、何と言いましたか?「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」(使徒3:6)です。その名の権威は幾千万の金銀に勝るものであり、何も持っていない彼らが持っていると誇りうるものだったのです。さらに、この奇跡について説明した箇所ではこう言っていました。「このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており、知っているこの人を強くしたのです。」(使徒3:16)
このイエスの御名はどれほどすぐれたものでしょうか。それは、「すべての名にまさる名」です。(ピリピ2:9)その名の偉大さは、本来持っておられたものではなく、神でありながら神のあり方を全く捨てて、十字架に至る道を歩まれたがゆえに獲得された偉大さなのだとパウロは語っています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、実に十字架の死にまで従われたのです。それゆえ、神はキリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:6~9)ヘブル書には、「御子は御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続された」(ヘブル1:4)という表現もあります。その御名は世襲した権威ではなく、人として神の本質を表現し罪のきよめを成し遂げたその父のみこころに服従することによって獲得された権威なのです。イエスさまは、十字架にかかられる前に、その偉大な御名の中に信じる者を保ってくださるようにと祈っておられます。「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。」(ヨハネ17:6)「あなたがわたしにくださっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らがひとつとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうち誰も滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは聖書が成就するためです。」(ヨハネ17:11~12)「そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:26)ヨハネ17章は、やさしいことばではありますが、とてつもなく深い内容が語られています。特に今ピックアップした箇所は、「御名の中に保たれる」ことについて書かれています。主が明らかにしてくださった御名の中に、信仰によって保たれ、そこに信じる者の「ひとつ」が保障され、その「ひとつ」の群れにキリストの愛が注がれるのです。その「ひとつ」とは、父と子の神が「ひとつ」であるように、聖霊を与えられた者も「ひとつ」だと言うのです。聖霊によって、信じる者には父が宿り、子が宿るからです。この御方を共有する感覚が、「御名の中に保たれる」ということです。
名は栄光と関係があります。人は自分自身の栄光を求め、「自分の名を上げよう」「自分の名を残そう」とします。バベルの塔を建設した人々の動機はどこにありましたか?「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名を上げよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11:4)そして、その結果どうなりましたか。分裂と離散です。ことばも混乱しました。教会の中でも、外でも、バベル的な動機でつくられるものは、遅かれ早かれ同じ結末に至ります。
「わたしはわたしの名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名においてくれば、あなたがたはその人を受け入れるのです。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」(ヨハネ5:43~44)キリスト教という限られた狭い世界でいんぎんにお互いを先生と呼び合ったり、教会や教団の何周年記念のイベントをやってみたり、イエスさま以外の名前を冠にした大聖会だの、キャンペーンだの、いったいそれは何のために、何を求めてやっているのでしょうか。互いの栄誉ではなく、神からの栄誉を求める行為には恐れはないのです。無知無学な彼らが、最高の教育を受けてきた指導者たちを黙らせ圧倒したのは、怖い者知らずの度胸ではなく、イエスさまに対するまっすぐな信仰です。時の権力によって捕らえられ脅されても、自分たちの運命を左右する力を持った人々に対して媚びることなく堂々と証しています。これが信仰の力です。聖霊が働かれ、彼らの能力を最大限に引き出して、必要なことばを語らせてくださるのです。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うより、あなた方に聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分のみたこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:19)
不思議なことは、イエスさまの死かからそれほど経っていないこの時期に、このありえない復活の証言を、理性的に論証し、証拠をもって否定出来なかったということです。彼らは復活の証言はまずいことをあらかじめ予測して警戒していたにもかかわらず、このような事態を引き起こしたのです。復活前の警戒も、復活後のごまかしも何の役にも立ってはいません。(マタイ27:62~66)(マタイ28:11~15)信仰以外の何かでイエスさまの復活を裏付けることは出来ないし、そのような試みには大して意味はありませんが、復活はなかったとする信仰に反対する証言が無力であったということは確認できます。
イエスさまの名前が出てくれば大丈夫というわけでもありません。どういう意識、どういう信仰がそこにあるかが問われます。(マタイ8:20~21、マタイ24:5)私たちは、イエスさまの御名前によって祈ります。この御名の力によって、私たちの祈りは、聖なる香として御前に届くわけです。聖書の言葉を要所に引用して流暢によどみなく祈るから、その優秀さで天に届くのではありません。やさしい思いやりのあふれることばで涙ながらにとりなすから、その優しさで天に届くのではありません。あきらめずにねばり強く長時間祈り続けるその熱心さのゆえに天に届くのではありません。ただ、御子の名のゆえに、祈りは天に届くのです。このような信仰に立っている人たちの中にひとつが保障されます。その中では、誰も自分の力や働きを誇ることはなく、持ち物や財産の所有権を主張する人もいませんでした。そしてこの3章4章の場面をここまで劇的に盛り上げたきかっけはやはり、足のきかなかった男がいやされたことです。この人物に望みがなかったことは誰の目にも明らかでした。だからこそ、彼が癒されたことは神の栄光だったのです。医者であるルカは彼の年齢を記しました。40歳余り(使徒4:22)それは苦しみの年月であり、社会的には絶望的な年齢です。文脈的にはやや唐突に男の年齢を書き入れたことの意味を考えてみましょう。それは神に不可能はないということ。完全な絶望から本当の希望が始まるということです。

12月16日 救い主の誕生③

かつてイザヤは預言して言いました。「私たちの聞いたことをだれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。」(イザヤ53:1)今日は、このみことばが語るポイントについてしっかり考えてみたいと思います。イエスさまも言われましたね。「耳のある者は聞きなさい」と。これはどんな意味なのでしょう。イエスさまは「聞くこと」について、種まきのたとえの中でイザヤの預言と結びつけて、かなり丁寧に解説されています。(マタイ13:13:~18)聞いて信じ、御腕の現れを体験するのは、みことばを受け入れ、その実を結ぶことなのだとわかります。
メッセージを聞けば「音」は聞こえます。ことばの「意味」もわかります。でも、本当に聞きましたか。信じましたかということです。また、私自身がこうしてお伝えしていることを、どの程度きちんと理解し、信じているのでしょうか。みことばを「悟る」ためには自分自身を明け渡し、日常と結びつけることが大切です。この点も自ら振り返りつつ、みことばを恐れつつお話します。実を結ばない理由は、「根がないこと」(マタイ21:21)と「この世の心づかいと富の惑わし」(マタイ12:22)であることを覚えておきましょう。信仰は聞くことから始まりますが、聞くことと信じることは別です。聞いても信じなければ、主の御腕が現れることはありません。しかし、聞いて信じて自らを明け渡すなら、「悟り」が生まれます。
もう一箇所イザヤのことばです。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りになり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ69:1~2)
さらに、イザヤは別の箇所でこうも言っています。「イスラエルの神、救い主よ。まことにあなたはご自分を隠す神。」(イザヤ45:15)モーセの姿が見えなくなったとき、民は不安になり偶像を作りました。まことの神が姿を隠されると、ちまたには偶像があふれ、宗教が繁栄します。ドラマの主人公のいないクリスマスが広がる構造というのは、人類の歴史そのものなのです。人はクリスマスが大好きです。プレゼントやパーティ―は好きですが、本当のイエスは嫌いです。イエスの絵画や像や、賛美する私や祈る私はお気に入りですが、みことばそのものは聞きたくないのです。クリスマスは誰でも知っていますが、すべての人のために準備された救いが、すべての人のものになっているわけではないのは、ご承知のとおりです。しかも、その確率は驚くほど低く、効率は悪いのです。だから、イザヤは「私たちの聞いたことをだれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。」と語ったのです。いわゆるクリスマス・ストーリーとして語られるいくつかの救い主の誕生に関わる粗筋がありますね。イエスさまが誕生された具体的な方法の背景には、その粗筋とは別に、短い時間では簡単に語り尽くせないさまざまな意味が秘められています。イエスさまは、なぜ「この時代に」「この土地に」「こんなかたちで」お生まれになったのでしょう。それは、しっかり見つめ、聞く心がなければ、わからないのです。クリスマス・ストーリーの粗筋を知らない人はほとんどいません。しかし、その本当の意味や価値を説明できる人もあまりいません。信じ受け入れ悟った人はごく少数なのです。クリスマス・ストーリーの中には、決してその意味を悟ることがないように歪んだイメージが固着されています。言ってみればこの冷凍された粗筋を、私たちの心の中で丁寧に解凍するような作業が必要です。
ひとつの例を取り上げて、ふたつの異なる側面から見てみます。例えば、「ヨセフとマリヤは宿にも泊まれずイエスさまは飼い葉桶でお生まれになった」という事実がありますが、これには、「神がそこまで謙遜に貧しい者として生まれてくださったという面」と、「そのような場所しか人は神のために準備できなかったのだという面」があるわけです。多くの場合、そのストーリーは知っていても、前者の謙遜の意味を正しく受け止める人はいません。さらに、後者の人の罪の側面は完全に忘れさられています。人類が誕生してから、救い主がこの世に現れることは、数千年にもわたってすべての被造物を通して証され、多くの預言者たちを通して語られて来ました。「天地創造」と「旧約聖書」は、言ってみれば長い長い予告編だったわけです。そして、いよいよ待望の救い主の誕生です。クリスマス・ストーリーは本編のドラマの始まりです。「さあ今まさに救い主が生まれるぞ」というその重要なメッセージは誰に告げられたのでしょうか。それは、極めて限られたごく少数の人たちでした。「被造物の中にある摂理」と「みことばが示す真理」を受け止めるのは、種まきのたとえにある土地、すなわち私たちの「心」です。この3つが鍵です。
特別な知らせを受けたのは、ベツレヘムの羊飼いたちです。(ルカ2:8~20)東方の博士たちは星を見ただけですが、このとき羊飼いたちが見た光景は、見る者を圧倒するような迫力満点の素晴らしいものだったでしょう。まず、御使いが現れ、主の栄光が回りを照らしました。それから多くの天の軍勢が現れて、神を賛美したのです。地上の他の出来事にたとえようのない、想像することさえ難しい光景です。ただ単に大規模で派手なものだったというだけでなく、神聖で荘厳が空気に包まれたことでしょう。改めて確認しますが、この極めて特異な歴史的な出来事に立ち会ったのは、地位も教養もないごく普通の庶民です。それは、夜番をしていた羊飼いです。しかもごく少数です。羊飼いの人数は書かれていませんが、賛美していた御使いの数の方が圧倒的に多かったことでしょう。同じ演出をするなら、どうしてエルサレムの宮ではないのでしょうか。人間的に考えれば、御使いはもっと人の集まる場所、さらに人の集まる時間に現れるべきだと思いませんか。神様は先ほどからお話していたように、これまで極めて手の込んださまざまな方法で救い主の誕生を伝えて来られました。今まさにそのことが実現しようとしているのに、どうして、観客は名もない羊飼いなのでしょう。これが、会社の広報や広告代理店の仕事なら大失敗のように思えます。
妙な言い方かも知れませんが、神は不特定多数のより多くの信者を獲得するために救い主を備えられたのではありません。もちろん神は一人の人も滅びることは望んではおられませんし、一人でも多くの方が救いにあずかることは言うまでもなく良いことです。しかし、神が求めておられるのは、「霊とまことによって礼拝する真の礼拝者」です。(ヨハネ4:21~24)救い主による新しい創造とは、まことの礼拝者を産み出すことです。罪人が受ける罰を回避させることが第一の目的ではありません。従って、御利益を求め、そろばんづくで慇懃無礼に近づいてくる的はずれな賛同者など、神は初めからお求めになってはいません。神はメガチャーチや、偉大な器などお喜びになるはずがないのです。珍しい光景を見に来るだけの暇つぶしの野次馬や、神の名を利用して自分の富や名声を求める者などいらないのです。神はこの極めて重要な救い主の誕生に、言葉はよくありませんが、どうでもいいような少数の庶民に立ち会わせます。この話は、もしルカが記していなければ、後の人はおろか、その当時の人さえ誰も知らないような出来事だったわけです。つまり、羊飼いが見た光景の記録は、「神が何を大事にされるかという価値を、その基準をみことばが書き残していること」に意味があるわけです。この話に限らず、イエスの多くのことばとわざは、特定のごく少数の人のために語られ、なされたものばかりです。VIPの人々や、大群衆を招いてのパフォーマンスはありませんでした。多くの教会が企画し目指していることは、イエスや弟子たちがなしてきたことと大きくかけ離れていることがおわかりいただけるでしょうか。人が罪を犯し、神の呼びかけを聞きつつ、身を隠した状態。(創世記3:8~10)これが救い主を待ち望みつつ、正面からみんな揃ってお出迎えできない状況なのです。
キリストの誕生の1000年前にタイムスリップします。イエスさまは、自らを「ダビデの子」と称されました。イスラエルの全盛期の王であり、彼らの心のよりどころであるダビデは救い主について多くのことを語り、自らの人生そのものがキリストのモデルとなった人物です。彼は羊飼いでした。その羊飼いダビデが王として召し出される場面を覚えておられますか。少年ダビデは大して目立たない存在でした。預言者サムエルからも、家族からも、忘れられていた存在でした。誰も彼が王になる器だとは思っていなかったのです。「人はうわべを見るが主は心をご覧になる」とみことばは語っています。(Ⅰサムエル16:7)ダビデの生涯はイエスさまのモデルです。彼の聖霊に導かれた歩みは、生まれながらの人間性のモデルとして描かれるサウル王の場合と対照的です。サウルは裕福で、美しい外見を持っていました。(Ⅰサムエル9:1~2)神にとって、本当に価値あるものは、人がそれほど尊重しないもの、見過ごしてしまうような小さなもの、つまらないもの、ありふれたもの、見栄えのしないものの中に多く隠されているのだということです。そして、神はそれを発見されます。羊飼いは、当時のパレスチナ地方においてありふれた仕事です。キリストは良い牧者であり、神の子羊ですが、それは一番ありふれていて誰にでもわかるから、そのようにたとえられているだけであって、特に羊飼いや羊をえこひいきしているわけではありません。大事なことは、神はささやかな人の営みをあたたかく見守り、しっかり覚え、もれなく慈しまれるということです。夜番をしている羊飼いのことなど、他の人は眠っていて意識してはいません。この良き訪れを、そんな羊飼い数人のために現れて、これほどの大仕掛けに紹介してくださる方は、今日も同じように、私たち庶民の暮らしを覚え、その日常の営みのただ中に、救い主の誕生を知らせてくださるということです。この「日常の営みのただ中に」という点が大事です。それは宮で生け贄を捧げたり、断食をしたり、みことばを朗読したり・・・というような特別な場面に限られた啓示ではありませんでした。この特別な出来事が、在る意味で隠れたところで、密やかに、羊飼いの日常の中に介入したことにこそ、「救い主の誕生」の本当の価値と意味があるわけです。彼らは感動して帰って行きました。彼らがその後どうなったのか書かれていませんが、彼らは多分明日も羊飼いです。(ルカ2:20)
イエスさまは、羊のために命を捨てる良き羊飼いです。救い主こそ、人を漁るまことの漁師です。そして、医者です。裁判官であり、弁護人でもあります。農夫であり、カウンセラーであり、偉大な教師であり、そして文字通り本当に大工でした。あらゆる職業の、その営みの本質の中にご自身を啓示することの出来る方です。百人隊長はユダヤ人たちが嫌悪するローマの組織の中で、神の権威と秩序を学び、イスラエルに見られないような信仰を培っていました。(マタイ8:5~13)少年ダビデは、主に召し出された時、日々の羊飼いの仕事の中で訓練を受けていました。その中で主の臨在と助けを経験していたのです。だからこそ、ゴリアテ率いるペリシテ軍を恐れなかったのです。(Ⅰサムエル17:34~37、45~47)ここに共通点を見出し、神の御腕がどのように現れるかを見出せるなら幸いです。私たちは、特別な経験をしなくても、特別な訓練を受けなくても、神はどこにでもともにおられるのです。神はその栄光の本質を、見栄えのしない外見や、目立たない場所や、貧しく地味な日常と、ささやかな地上での短い生涯の中に秘められました。その無力の中に無限の力を、闇の中に光を、その死にいのちを隠されたのです。サタンに荒野の誘惑をお受けになったとき、もし、イエスさまが石をパンに変え、この世の富と権力を手に入れ、神殿の頂から飛び降りていたら、福音書の記述は全く違ったものに私たちはなっていたでしょう。私たちは、真のキリストを隠してしまったクリスマスを嫌悪し、クリスマスの中に隠れておられる真のキリストを見出すものでありたいのものです。