2008年4月18日金曜日

4月13日 良い牧者 (イエスのたとえ話⑨)

  ヨハネ10:1~21

今日はヨハネ10章から、「羊の囲いのたとえ」と「良い牧者のたとえ」について、ともに分かち合いましょう。全体の流れと構成をとらえるために、まず、鍵になるヨハネの説明に注目してみます。まず6節です。「イエスはこのたとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」(ヨハネ10:6)と書かれている箇所があります。続いて19節には、「このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。」(ヨハネ10:19)とあります。いずれも、短い文章ですが、たとえを聞いた人たちのリアルな反応を写し取っています。1~5節までの「羊の囲いのたとえ」を聞かされた「彼ら」とは、「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々」です。つまり、シロアムの池で目が開かれた生まれつきの盲人を会堂から追放した人々です。(ヨハネ9:40)「羊の囲いに門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者」とは、彼らのことです。  彼らは自分たちを「盗人」だの「強盗」だの言われていることにピンと来ていません。前半の1~5節までの「羊の囲いのたとえ」だけでは、彼らに意味がわからなかったのです。そこで、イエスはさらに詳しくかみ砕いて7~18節の「良い牧者のたとえ」をお話しになったというわけです。そのみことばが語られると、今度はユダヤ人の中に分裂が起こりました。生まれつきの盲人が見えるようになったことは事実であり、それは喜ぶべきことのはずですが、彼らの中の多くはそれを喜ばず、「イエスは悪霊につかれ気が狂っているのだ」と言いました。しかし、そうは思わない人たちもいたのです。イエスのみわざに心をとめる人々がいたからこそ、後半のたとえもあったわけです。
羊の群れを混乱させるのは、羊飼いのフリをしてやってくる「盗人」そして「強盗」です。彼らは門から入って来ないで、「ほかの所を乗り越えて来る」と言われています。これは重要なポイントです。門とはイエスです。つまり、「偽の牧者は、門であるイエスを通っていない」ことになります。この当時、ユダヤの宗教指導者たちは、聖書を託されキリストを待ち望むように民を指導することが期待された人たちでした。ところが、彼らは預かった神のことばを自分たちの言い伝えで覆ってしまい、歓迎すべき御方を拒絶したのです。今日のキリスト教会でも霊的に同じことが起こっています。本来は羊を養うべき羊飼いが羊を混乱させ、羊を食い物にしている。このふたつのたとえは。そのことに対する強い警告なのです。「わたしは、門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)とはっきり書かれています。どう読んでも、読み違えることなど出来ません。イエスが門です。イエスを通って入れば、だれでも救われるのです。そのように書いてあります。イエスから、その名を呼ばれ、イエスという門を通って来たのではない偽物、つまり、「牧者でなく、また羊の所有者でない雇い人」(ヨハネ10:12)は、「羊のことを心にかけていない」のです。(ヨハネ10:13) このような偽物が、教会という囲いを牛耳って、羊に牧草を与えず、自由を奪っています。「安らかに出入りすること」と、「牧草を見つけること」は、約束です。(ヨハネ10:9)イエスが来られたのは、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため」だと書かれています。(ヨハネ10:10)囲いはありますが、そこから出ないように閉じこめるものではなく、「勝手に迷いでないように」また「外敵が侵入しないように」と、羊の安全のために造られたものです。羊飼いの声が届く範囲であれば、囲いから「安らかに出入りできる」のです。他の教団、教派の教えに触れてはだめ、あの集会、この礼拝に参加してはいけないなどと縛るのは不自然です。良い羊飼いに導かれた羊は牧草を見つけるのです。牧草とはもちろんみことばであり、霊的な満たしのことです。「自由に出入りした結果、牧草を見つける」これが、良い羊飼いについて行く羊の標準的報酬です。羊は羊飼いによって養われ、いのちを満喫するのです。
イエスはご自分を「良い牧者である」と宣言されました。ユダヤ人なら誰もが詩編の23編を思い出したことでしょう。偉大なイスラエルの王ダビデが、わが羊飼いと呼んだ御方がイエスであるということです。さらに、イエスが語られたふたつのたとえは、エゼキエルの34章をさらに深く解説した内容になっています。エゼキエルは、「羊を養わないで自分だけが肥え太る牧者が主がさばかれること」「彼らの手から主が羊を救い出すこと」「主がお立てになったひとりの牧者が羊を養われること」を預言しました。これらのエゼキエルのことばは、アッシリアに滅ぼされる前のイスラエルに対してのものです。ですから、パリサイ人たちもみことばに関する知識はあっても、全く自分たちが責められているとは思わなかったのでしょう。今日、ヨハネの10章を読んで心の痛まない牧師も大勢いるわけですが、彼らはイエスが責めているのは、自分ではない別の人のことだと信じているわけです。良い牧者は「羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ10:11)とまで言われています。これは、限度を超えた極めて異常なことを語っています。家畜を飼うのは家畜に良い思いをさせるためではなく、毛皮をはいだり、肉を食べたりするためです。いくらパレスチナ地方の羊飼いと羊の結びつきが強いと言っても、牧者が羊のためにいのち捨てることなど現実にはあり得ない狂気の沙汰です。 ですから、パリサイ人の多くが、「気が狂っている」と言ったのは、ある意味当然のことなのです。「わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令を父から受けたのです」(ヨハネ10:18)イエスはさらにあり得ないことを語っています。これはヒューマニズムで理解できることばではありません。イエスを「偉大な道徳家」などと評している人はこのみことばをまともに読んだことがないのでしょう。「自分からいのちを捨てること」を一般的に自殺と言います。羊のために自殺する羊飼いがいるとしたら、その羊飼いは大馬鹿野郎です。いのちを粗末にしてはいけません。しかし、イエスは「羊を愛するあまりいのちを落とす」とは言っていません。「死ななければならない運命にあるのだ」とも言っていません。「自分から命を捨てる」と、間違いなくはっきりおっしゃっています。これは、「十字架に架けられた」のではなく、「こっちから架かってやるのだ」という意味です。ですから、十字架というのは、ある側面から見れば神の自殺なのです。人が神の子のいのちを奪ったのではありません。自殺がある意味、英雄的な魅力を秘めているのは、十字架の影だからです。しかし、人の自殺はあくまで自分のためです。イエスがいのちを捨てることは人の身勝手な自殺とは、全く意味も次元も違います。イエスの死は、「羊にいのちを得させ、それを豊かに持たせるため」のものです。羊のために良い牧者として死ぬのです。 それは、「世の罪を取り除く神の小羊」たればこそ実現できたことです。いのちを捨てるには「捨てる権威」が必要です。資格と言い換えてもいいでしょう。この御方には罪がありませんでした。だからこそ、「捨てる権威」があるのです。「権威」とは父の命令であり、それに服従することを意味しています。人にはいのちを捨てる権威はありません。わたしたちのいのちは借り物だからです。正しく管理する責任はあっても捨てる権威などあろうはずがないのです。「なぜ人をなぜ殺してはいけないか」「どうして自分のいのちなのに自殺してはいけないのか」今の大人達は、現実に絶望した子ども達に「なぜ」「どうして」と聞かれると、きちんと答えられないと言います。実は答えは簡単です。いのちは借り物です。借りたものはちゃんと管理して返さないと駄目です。
「権威」ということについて、イエスがピラトとことばを交わされた場面があります。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」とピラトは、恐れの中で語りました。(ヨハネ19:10)しかし、イエスは「もし、それが上から与えられているのでなかったら、あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです」(ヨハネ19:11)とお答えになっています。この瞬間、ピラトは迷える羊としてイエスという門の前に立っていたのですが、その門から中へ入ろうとはしませんでした。神の子イエスと向かい合ったピラトは、自分がさばくのではなく、自分がさばかれている感覚によって恐れたのです。しかし、ピラトはプライドのゆえに、こともあろうに最も権威ある御方に向かって、自分のこの世の権威を振りかざしたのです。ピラトに十字架につける権威があったのではなく、イエスにいのちを捨てる権威があったのです。それは、イエスが父の命令に服されたので、その権威がピラトを圧倒した場面でした。私たちもそれぞれにピラトの座についてイエスを評価します。ピラトはイエスを擁護し、釈放しようと努めますが、最後には「このさばきは自分とは関係ない」と宣言します。これはこの世の多くの人が取る態度と共通しています。
 「盗人」とか、「強盗」と言われているのは、他人のものをこっそり盗んだり、無理に奪ったりするからです。単に「もの」だけでなく「他人の所有権」をも奪うのです。神の権威を盗み、栄光を奪う連中は最大のクズです。イエスさまも、パリサイ人や律法学者をどれぐらいひどく罵られたか見てみればわかります。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」(マタイ23:13)他にも「目の見えぬ手引きども」(24)「白く塗った墓」(27)「おまえたち蛇ども。まむしのすえども」(33)などときっと激しい口調、険しい表情で言われたはずです。悪口と言えば悪口とも言えるこのような手厳しい評価をしっかり見つめるべきです。「互いを裁きあってはいけません」などと言って、そんなところだけ、律儀にみことばを使うのは卑怯です。自分の立ち位置が曖昧な人は、自分が下手につっこまれたくないので、吟味する義務を怠って寛容なふりをするものです。神の栄光を盗もうとする者は最も悪魔的です。「自分から語る者は、自分の「栄光を求めます。しかし、自分を遣わした方を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(ヨハネ7:18)
良い牧者についていく羊の特徴は何でしょうか。それは「彼の声を知っている」とおいうことです。他の人について行かずに逃げ出すのはなぜでしょうか。「その人の声を知らないからだ」と書いてあります。良い牧者に導かれるのは、その声になじみがあるからで、自分の名をはっきり呼ばれたからです。(ヨハネ10:3~5)9章の終わりでイエスはこうおっしゃっています。「もし、あなたがたが盲目であったら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:41)この御方の声を聞くためには、私たちはまず「見えないこと」を告白する必要があります。羊が自分で牧草を見つけられるなら、羊飼いはいらないのです。私たちは見えません。光がないところでは視力が無意味なように、霊的なものは聖霊の光なしには見えません。それが「見える」と語る人々は嘘つきであり、盗人、強盗なのです。私たちには見えませんが、この御方が確かに私を呼んでおられること、その声が確かに自分の羊飼いである方の声だとわかるのです。羊飼いは私を私以上に、あなたをあなた以上に知っておられる方です。「わたしはわたしの者を知っています。また、わたしのものはわたしを知っています」(ヨハネ10:14)それはどれくらいの程度だと書かれていますか。「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。」(ヨハネ10:15)父と御子がひとつであるぐらい、私たちと牧者は一体なのだとみことばは語っています。

4月6日 祈りについての本当の話 (中高生のために)

進級・進学おめでとうございます。まもなくそれぞれに学校も始まって新しいスタートを切るわけですが、そんな大きな節目に当たって、今日は中高生のみなさんを対象に特別にお話しようと思っています。もちろん、大人の兄弟姉妹たちにとっても、基本的なことですが、有益なメッセージになるでしょう。多分みなさんはこれまでに何らかの祈りをしたことがあるし、今も何かを祈り続けているかも知れません。でも、改めて、「これまでに何を祈り、その祈った項目一つ一つについてどんな結果や答えがあったか」と問われると、非常に曖昧であったり、とたんに自信がなくなったりということはないでしょうか。
私は、「祈りはクリスチャンにとって呼吸のようなものだ」とよく言っています。それくらい必要不可欠だということです。祈っていないクリスチャンは息をしていないのと同じ、また、聖書を読まないクリスチャンは、ご飯を食べていないのと同じ、そして、証をしないクリスチャンは運動不足で不健康だとたとえています。その中で、今日は祈りの本質にポイントをしぼってお話します。呼吸というのは、非常に奥の深いものです。無意識でも呼吸は出来ますが、あらゆるスポーツや武道、また、アートの達人の域に達する人は、呼吸というのを非常に意識的にコントロールしています。呼吸というのは、「吐いて吸うことの繰り返し」です。まず、きちんと出すことによって吸います。これをどのように意識づけるかが、しなやかなからだの動きや心の状態と深い関係があるわけです。無意識でも息をしているし、息をしているというのが生きていることであり、生きているということは息をしているということです。うまく呼吸できる人、人と呼吸を合わせることが出来る人は、自分の能力を最大限に引き出し、あらゆる状況に対応できます。齋藤孝という人が、「呼吸入門」という本の中で、呼吸が人間のあらゆる感覚や表現の基本であるということを述べていますから、興味のある人は読んでみると良いと思います。
聖書の原語で「息」というのは「霊」と同じ意味で使われています。はじめの人、アダムが造られたときのことを聖書は次のように書いています。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(創世記2:7)そして、ヨブ記の中には何度も「息」についての表現が出てきます。「私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり」(ヨブ27:3)「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える」(ヨブ32:8)「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える」(ヨブ33:4)これらのことばを見ると、ここで「息」と書かれているのは、人が普通に呼吸をするということ以上の内容を指しているのがわかりますね。「神様の霊と私の霊が循環している感じ」がわかりますか。神様が出発点となり、私の存在を存在たらしめ、そして神様に返っています。これは大切なイメージですから、心をしっかり働かせて想像してみましょう。パウロは偶像を拝んでいたアテネの人たちに言いました。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何か不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神はすべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです。」(使徒17:24~25)パウロが言いたかったのは、金や銀や大理石を見事に彫刻して形造った神々に祈っても、霊が循環するような感覚などないということです。いのちの交流はないのです。厳かな儀式や音楽や踊りで気分を高揚させるのではなくても、神さまの現れというのは、もっと自然でおだやかなものです。それは、「教え」に属するものではなく、「いのち」に属するものです。だから、とても簡単で子どもにでも「できる」ことなのです。いのちだから、たとえ意味がわからなくてもできるはずなのです。ニコデモは、教えを求めましたが、イエスは彼に新しく生まれる必要について語られました。「天の御国でだれが一番偉いのか」と弟子がたずねたとき、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、子どもたちのようにならなければ神の国に入れないと言われました。(マタイ18:3)人は、もともと「神と交流することの出来る霊的な存在」として造られています。しかし、人は罪を犯したので、親しく祈ることが出来ず、後ろめたい気持ちをひきずって生きているので、本当の神様ではない神様を造って「祈りたい気持ち」を慰めて来たのです。ユダヤ人は、偶像を拝んではいけないことを教えられ、みことばを守って来ました。でも、律法の教えの中にはいのちはなく、ますますアダムのいのちでは十分な祈りが出来ない、神様との交わりが出来ないことを思い知るだけでした。
アダムが吹きかけられた息で祈るいのりは、実は「宗教の祈り」です。この祈りをいくら積み重ねても、実は何の効果も価値もないのです。私たちが正しく祈るためには「別の息」「別の霊」を受ける必要があります。それは「復活の息」「復活の霊」です。(ヨハネ20:19~23)パウロのことばも見てみましょう。「『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45)はじめのアダムに属するのは人間的で地上的なものです。後から来る御霊のものは天に属するもの霊的なものであるとパウロは語っています。「最後のアダム」とはイエスのことです。祈るのはこの生かす御霊、つまり聖霊によって祈るのです。イエスもよく祈られました。勿論聖霊によって父に祈られるのです。祈りは交わりであり、祈ることによって三位一体というのが教えではなく、いのちの交わりであることがわかります。難しい神学を学ばなくても、いのちの交わりがあれば、子どもでも嘘を見破ることが出来ます。イエスが話されたことばこそが霊でありいのちです。(ヨハネ5:63)ですから、イエスが何を話されたのかをわかっていなければ、宗教の祈りは出来ても本当の祈りは出来ません。
祈るときにどのようなことに注意すればいいのかをイエス御自身が語れた箇所があるので、そこから大事なことを確認していきます。(マタイ6:5~15)イエスはこうでなければならないという具体的なことは言われませんでした。「こうであってはいけない」ということをふたつ示され、簡単な祈りのことばを教えてくださいました。それが「主の祈り」です。まず、「偽善者たちのようであってはいけない」と書かれています。偽善者たちは人前で祈りたがると言われています。祈ることによって信仰深さを誇る気持ちは、偽善者のものです。祈りは隠れてこっそり祈ればいいのです。決して「私は祈っています」と見せびらかすものではありません。(マタイ6:5~6)次に、「異邦人たちのようであってはならない」と書かれています。異邦人はたくさん繰り返し祈れば良いと思っていますが、それも間違いです。強く念じれば神さまに届くというのは、非常に幼稚な発想です。そんなものは祈りでも何でもなく、祈ることによる自己満足なのです。(マタイ5:7~8)彼らのまねをしてはいけません。勘違いしないようにしましょう。父に対して、こちらの必要をオーダーするのではありません。父は私たちにとって何が本当に必要なのかを知っておられるのですが、私たちはわからずに、あれもこれもと欲しがります。だから、自分にとって本当に必要なものは何なのか、神のみこころはどこにあるのかを悟るためにこそ祈るのです。私は、「私の願いを簡単に叶えるような神なら、信じるには値しないし、こちらから願い下げだ」とよく言っています。私がどのようの者で、神がどのような御方がわかってくれば、くだらない願い事などしなくなります。みこころがなるようにと祈るはずです。
では、10項目にわけて内容を整理してみます。1.誰が祈るのか。それはみなさん一人一人です。他の誰でもありません。祈りに資格はいりません。自分のことは自分で祈ります。誰か権威のある人に祈ってもらう必要は全くありません。神はみなさんの祈りを待っておられます。2.誰に祈るのか。父に祈ります。祈ることで一番大事なのは、「誰に祈るのか」という祈る対象です。自分がどれだけきよらかで敬虔な気持ちで祈るかではなく、どれだけ強い気持ちで長い時間祈るかではありません。誰に向かって祈るのかが大事なのです。父は御子イエスにとって父ですが、私たちにとってはもともと父ではありません。しかし、私たち罪人もイエスを信じることによって「親しくお父さんと呼ぶことの出来る子としての御霊」をいただいたので、自分のお父さんにいろんなことを相談するように、祈ることが出来るのです。3.どこで祈るのか。 これは隠れたところだと書いてあります。決して人前ではありません。勿論みんなの前で祈ることがありますが、本当の祈りは個人的なものです。他人を意識した祈りは神には決して届きません。4.いつ祈るのか。 いつでも構いません。本当は祈っていないときも祈りは続いていると言ってもいいほど、自然な交わりなのです。5.何を祈るのか。 「何でも祈ってよい」と書かれています。しかし、主の祈りを見れば、その優先順位に従って、内容は精選されてくるはずです。間違ったことや恥ずかしいことは祈れなくなります。6.どれくらい祈るのか。 同じことばを繰り返す必要がないので、単純なことがらを念じるような祈りを長い時間しても意味はありません。ただし、自分の心の中にある様々なものを神様の前に長い時間をかけて注ぎだしたりすることも時に必要だし、祈りの中で、神様が気づきを与えてくださったり、みことばを思い起こさせてくださったりするには、一定の時間は必要だとも言えます。7.どんなことばで祈るのか。 祈りは口に出すことばではなく、もっと深い霊のことばです。祈りが深くなればなるほど、どのように祈ってよいかわからなくなります。そんなときは、そのままの思いで主の前に出るのです。そうすると、自分では想像もしなかったようなことばが口から出てきたり、思いの中に広がったりするのを経験します。パウロはそのような経験を、「私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊御自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」(ローマ8:26)と書いています。大事なことはイエスの御名によって祈ることです。この名の権威があるからこそ、父は耳を傾けるのです。私たちが立派に熱心に祈るからではないということも覚えておきましょう。8.どんな姿勢で祈るのか。ひざまずいたり、手を上げたり、姿勢は自由です。歩きながら、お風呂に入りながらどんな体勢でも祈れます。私はベッドに横になったときや、車の運転中にもよく祈ります。駅での無駄に思える待ち時間や、くだらない会議中にも祈ります。そういうときは、祈っているとは外からはわからない姿勢ですよね。必ずひざまずたり、手を組んだり、十字を切ったりする必要はないのです。9.何のために祈るのか。私は、祈りというのは、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)というこの世界の正しい因果関係や法則を学ぶためにあると思っています。私たちは祈りを通して神を学ぶのです。10.祈った後どうするのか。祈ったきりで終わってしまうことが多いですが、祈りは必ず聞かれています。一つ一つの祈りに対し、主の答えを聞く、主が与えてくださる結果を待つことが大切です。そして、神の主権に感謝することです。 十代をいかにすごすかは、一生の豊かさを決定すると言っても過言ではありません。祈りをもって、日々主とともに過ごして欲しいと思います。

2008年3月21日金曜日

3月16日 羊と羊飼い (イエスのたとえ話 ⑧)


「あなたがたは、どう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もしいたとなれば、まことにあなたがたに告げます。その人は迷わなかった九九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいます父のみこころではありません。」(マタイ18:12~13)
これはおそらく聖書のたとえ話の中で最も有名なものではないでしょうか。日本人の生活は羊とはあまり縁がないのですが、羊は聖書の中に最も頻繁に登場する動物です。アベルが捧げたのは、彼が飼っていた羊の中の最良のものであり、それが彼の信仰の義を表すものでした。義人アベルと言われていますが、その義という漢字は、「羊」に「我」と書きます。まるでこのアベルの記事をもとに作られたような漢字です。他にも「美」や「祥」や「善」という漢字も「羊」が部首として含まれています。羊は十二支のひとつにも入っているように、一説によると、中国では8000年以上前から飼育されているそうです。「眠れない夜のために」というヒルティの名著がありますが、眠れない夜には羊を数えると良いなどと言います。羊を意味する英語のsheepというのは睡眠のsleepを語源としています。またラテン語で財産を表すpecuniaということばは、羊(家畜)を意味するpecusに由来しています。これは、日本では石高で財力や権力を表すのに似ています。こうして、洋の東西を問わず、ことばの中に組み込まれるほどですから、ヨーロッパからアジアにわたる大陸の全域において、羊はもっとも人の暮らしと関わりの深い動物だったわけです。平らな広い牧場で放牧される場合もありますが、とりわけ山間で遊牧する人々にとっては、このたとえは非常に身近でよくわかるものだったでしょう。イエスに「どう思いますか」と問いかけられたときに、99匹を残して1匹を捜しに行く羊飼いの気持ちや、その1匹を見つけたときの喜びは、容易に自分の体験と結びついて理解できたのです。ですから、このたとえは、平均的な羊飼いの行動と心情について語っているのであって、例外的な特に善良な羊飼いの話ではないということを理解しておく必要があります。
このたとえにも見られるように、羊は最も「人間性」を象徴する動物ですが、羊と人との間にはいったいどのような共通点があるのでしょうか。ご承知のように、羊と言えば、まず、あたたかくて良質の毛がとれます。それから、肉やお乳もおいしいです。しかし、人間からは毛も肉もとれません。では、何が似ているのでしょうか。それは性質です。羊は非常に臆病で弱い動物です。他の動物のように、俊敏さもなければ戦うための条件を備えていません。攻撃性もなければ、身を守るすべもない。足は短く、鋭い角も牙も爪もありません。羊は敵に襲われると、斜面を上へ上へと進み風上に向かって移動する性質があり、帰巣本能が乏しいので、迷ってしまうと、まさしくこのたとえのように群れに自力で戻って来ることは出来ないのです。人というのは、神の目にそのようなものだと聖書は語るのです。そして、一番興味深いのは人間の「群衆心理」にも似た羊の性質です。羊の群れには決まったリーダーがいないので、群れの中の一頭が身に危険を感じてあらぬ方向へ走り出すと、群れ全体が一斉にあとに続いて走るというような行動をとるのです。羊にとっては単独で行動することは非常に不安で、一頭だけを群れから離すとパニック状態になり、捕まえるのも難しいのです。そのため「一頭の羊を捕まえるよりも、百頭の羊を捕まえるほうがたやすい」と言われたりします。このように考えてくると、一匹の羊と一人の人間の比較もさることながら、集団になるとさらに良く似ているなあと思うわけです。イエスさまは御父とともに造物主ですから、聖書のたとえ話は人間のように観察と経験にもとづいたものではなく、このたとえのために羊という生き物を作られたとも言えるわけです。
しかし、比較的わかりやすいこのたとえも、読み方の視点がずれると、全く本来のメッセージは届かないままに、違った意味にすり替えらえて、贖いとは切り離されたイメージだけが独立してしまうのです。「迷える小羊」という表現の中には、人間のこころの葛藤や孤独だけがあり、羊飼いの存在は忘れられています。一例をあげてみます。夏目漱石の「三四郎」という小説がありますが、三四郎と想いを通わせる美禰子という女性は、stray sheepということばを印象的に使いながら、三四郎への思いと自分の行動の矛盾や、時代や存在の不安の中でエゴイズムに引きずられていく悲しみを象徴しています。残念ながら、イエスさまのたとえ話は、こういう「迷える状態」に留まり、自分の迷いを文学的に描写して自己憐憫することが目的ではないわけです。たとえの中心は、「羊が迷っていること」ではなく、羊飼いに見つけられて、「羊飼いが喜んでいること」にあるわけです。ルカの福音書15章では、その当たりがいっそう明確になるように、「銀貨を見つける女性のたとえ」と、「放蕩して帰ってきた息子を迎えるお父さんのたとえ」が3つ連続して描かれています。私はあえて、「失われた銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」と言いませんでした。この3つのたとえはいずれも、失われていたものが見つかった喜びが共通する主題なのです。ルカ15章と、マタイ18章の違いは、このたとえが語られている状況です。ルカの場合は「この人は、罪人たちを受け入れて食事までいっしょにする」(ルカ15:2)というパリサイ人や律法学者のつぶやきに対する答えでした。マタイの場合は、「それでは、天の御国ではだれが一番偉いのでしょうか」(マタイ18:1)という弟子たちの質問に対する答えでした。何を中心にしてどこから光を当てるかで、話のポイントや解釈は大きく異なります。たとえが語られた具体的な状況や論理的な整合性をしっかり把握することなしに、イエスさまのみこころは読めません。 羊が弱くて迷いやすい人間性を表していることは既に見ましたが、もうひとつの重要な意味があります。羊は、「人間性」とともに、その「人間性をまとわれたイエス」を象徴しています。冒頭でお話ししたアベルの捧げた羊もそれです。過越しの生け贄として殺される小羊は、まさに十字架のイエスです。 ヘブル人への手紙にはこう記されています。 「そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。」(ヘブル2:14) 「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは、民の罪のためになだめがなされるためなのです。」(ヘブル2:17) さらに、預言者イザヤは、そのふたつの象徴を一つの預言の中で見事に書き分けています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かって道に向かって行った。しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:6~7) 「私たち」は罪人である人間。そして「彼」はイエスです。ともにその「人間性」を羊という動物は象徴しています。一方の羊はさまよっており、もう一方の羊は従順です。この御方は「神の小羊」として紹介され、徹底して無力でした。イエスさまはご自分で、自分からは何事も行うことは出来ないと繰り返して語られました。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことは出来ません。」(ヨハネ5:19、5:30,8:28)
羊飼いであるイエスは、「父のみこころのゆえに」羊の弱さを身にまとい、羊の不安や恐れを体験し、「父のみこころために」失われた一匹を見つけるまで捜し求め、自らを捧げ、羊を贖うのです。ただイエスだけが、父の愛と義と羊の弱さをともに知る唯一の仲介者なのです。神と人との唯一の仲介者はイエスです。信仰の創始者であり、完成者はイエスです。私たちはこの御方に十字架によってつながれているだけなのです。羊は羊飼いを求めません。人間の書く小説は「迷える小羊の葛藤」で終わります。みことばは、羊飼いが羊を見つけ出すのです。羊が羊飼いを発見するのではありません。これは、「隠された宝」や「良い真珠」を買うのは誰かという話と共通するでしょう。
ダビデは「主は私の羊飼い」と告白しました。ですから、その後には、「私は、乏しいことがありません」ということばが続きます。(詩編23:1)「私は迷える小羊です」というのも大事な告白ですが、「羊飼い」のもとへ行かなければ、その告白は泣き言であり、文学や哲学のレベルに留まります。羊飼いの愛が見えなければ、「乏しさ」からくる不安、恐れ、飢え、渇きから抜け出すことができません。「わたしは良い牧者です。良い牧者は、羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)とイエスさまは言われました。繰り返します。羊がどうするかではなくて、羊飼いがすることが大事なのです。それがすべてです。喜ぶのは羊ではなく羊飼いです。本当に救いの意味と価値を知っているのは、罪人ではなく救い主です。私たちの罪は、神が人となってあのような苦しみを受けなければならないほどどうしようもなかったのです。同時に神がそこまでしてでも成し遂げたいほどにこの贖いの計画は完璧だったのです。迷える羊はそんなことなど知らずにただ迷っていただけです。
では、迷っている羊の側からは、本当に何ひとつ出来ないのかという疑問が残ります。ひとつだけできることがあります。この一時によって羊飼いのもとへ帰れるかどうかが決まります。それは羊飼いの声を聞き分けることです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。また、わたしは彼らを知っています。そして、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)みことばを聞くこと。他のいろんな声から良い牧者の声を聞き分けることです。羊の所有者ではない雇い人に騙されてはいけません。人に惑わされてはいけません。聞く耳のある者はたとえを聞き分けることができます。最後に羊飼いが捜し求めるのは一匹です。大会衆ではありません。イエスさまはよみがえって弟子たちのグループに現れてくださったとき、よみがえりをともに喜んだ弟子たちとその喜びを共有されたでしょう。しかし、イエスさまがさらに心にかけたのは、そこにいなかったトマスのことでした。それが羊飼いの心です。イエスさまはトマスのためだけにもう一度現れてくださいました。トマスはイエスさまがラザロたちのためにもう一度ユダヤに行こうと提案されたときに「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言った血気盛んな人物です。しかし、彼に出来たことはイエスを見殺しにすることであり、よみがえったイエスを信じないことでした。彼が出来たのは、さまようことだけです。当然、彼の心は不安といらだちでいっぱいでした。彼は自分を捜し求めてくれた羊飼いである主とわきの傷を見て、イエスさまを「私の主。私の神」として受け入れます。キリストは全人類のための救い主ではなく、あなたの救い主です。十字架は全人類の罪の総計ではなく、あなたの罪のためです。羊飼いはそのように一匹、一匹の名を呼ぶのです。あなたは名を呼ばれましたか。そして、答えましたか。  私たちは小さくて弱いままでいいのです。呼びかけに答え、ただこの方についていくことです。

2008年3月17日月曜日

3月9日 隠された宝と良い真珠 (イエスのたとえ話⑦)

 マタイ13:44~58

 人間中心に、また自分勝手に、みことばを読んでいくと、イエスさまが語りたかったことではなくて、「自分の聞きたいこと」をたとえから無理に読み取ってしまう可能性があるということは何度もお伝えしてきました。 今日は「畑に隠された宝のたとえ」「良い真珠をさがしている商人のたとえ」「あらゆる種類の魚を集める地引網のたとえ」を取り上げますが、この3つのたとえに関しても、後に続くイエスのことばを含めて、その連続性をしっかりとらえないと、非常に表面的で浅薄な読み取りに終わってしまいます。 たとえばこの3つのたとえのうちの2つのたとえを組み合わせたり、あるいはそのいずれかを取り上げたりして教訓を語る場合、「隠された宝や良い真珠を買い取るために、見つけた人は持ち物を売り払っています。みなさんも天の御国を買い取るために、信仰によって自分の持っているものすべてを捧げましょう。」というようになるわけです。もしかしたら、みなさんも「このたとえはそういう意味だ」あるいは「それ以上それ意外の意味などない」と既に刷り込まれて、読み流して来られたかも知れません。しかし、このたとえがその程度の意味のものであれば、わざわざ日曜の朝に教会まで出かけて行って職業牧師に解き明かしてもらわなくても、家で聖書を読んでいれば小学生でもわかるでしょう。そんなことを伝えるためだけであれば、わざわざこんなたとえが2つも必要でしょうか。さらに3つめの地引網のたとえとのつながりはどう説明しますか。最初に引き出したい教訓があるので、3つのうちの前の2つか、あるいはその2つのうちのいずれか1つの話しかしないのです。イエスさまは毒麦のたとえの解説とこの3つのたとえのあとに、「あなたがたはこれらのことがみなわかりましたか」と弟子たちにたずねておられます。それは、「持ち物を売り払って天の御国を買いましょう」というような答えを確認するためなのでしょうか。イエスさまがこのマタイ13章の中でも繰り返しおっしゃっているように、たとえというのは、「見るべきものを見ていない、聞くべきことを聞いていないので、そのことが明らかになるため」であり、「奥義を知ることが許される者と許されない者が聞き方に振り分けられるため」なのです。(マタイ13:11~13)また、たとえは「世の初めから隠されていることどもを物語るためのもの」(マタイ13:35)であり、新しく付け加えられたものではないということも覚えておく必要があります。
 たとえは、隠されているものを本気で求める気のない人間には、真実を秘めるために用いられているということを忘れないでください。たとえで語るのは、「本当に知りたい人だけに奥義を伝えるため」であり、本当のことを知りたくない人、知りたいふりをしているだけの人にはとんでもない誤解を生むようなからくりになっているのです。たとえは、地引き網のように海の中にいるものを集めます。そこには離れていく群衆もおり、弟子も混じっています。本物の弟子もいれば偽物の弟子もいます。それは「毒麦のたとえ」では収穫のときまで、「地引き網のたとえ」では、網を岸に上げるときまで混じり合っているわけです。たとえを理解できたかどうかは、知識の量ではなく、いのちの経験によって確実にふりわけられるのです。だから、イエスさまはたずねられるのです。「あなたがたはこれらのことが本当にわかったんですか?」と。
それでは、細かく見ていきます。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)日本でも、昔話で裏の何でもない畑に小判が埋まっているというものもあれば、戦国時代の埋蔵金などが話題になったりもします。舞台は1世紀のパレスチナです。争いで略奪が繰り返される中、資産家が地中に財産を埋めるということはけっこうあったようです。このたとえは、まだ自分の土地ではない財産を掘り出すと所有権の問題が出てくるので、発見者は宝を見つけたことを公表しないで畑ごと買うという話です。現代で言うなら株のインサイダー取引みたいなもので、よく考えてみると、何だか妙なたとえです。そこで、まず基本的な質問をひとつします。天の御国の宝を見つけて買い取るのは誰でしょう。それは、私たちではありません。誰がイエスの価値を認めましたか。イエスは宝とは見なされず、人にさげすまれ、捨てられ、十字架に架けられるのです。「私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)とイザヤが預言したとおりです。たとえ人が御国を買いたいと思っても、自分の罪を贖いたいと思っても、それにふさわしい代価を差し出せるものはいません。「人は自分の兄弟をも買い戻すことは出来ない。自分の身代金を神に払うことは出来ない。-たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。-」(詩編49:7~8)と書かれています。誰も神の賜物を買うことは出来ないのです。このたとえは、私たちが宝を買う話ではないのです。買い取ることが出来るのは主です。では買い取られる畑とは何ですか。それが私たちです。畑に宝を埋めたのは誰ですか。それも主です。主が畑である私たちを丸ごと買い取ってくださるのです。「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」(Ⅰコリント3:9)とパウロは書いています。畑には大した価値がありませんが、そこには、霊またいのちであるみことばがまかれ、それが信仰によって受け止められれば、聖霊が豊かに何十倍もの実を結びます。それが天の御国であり、神の宝です。持ち物を全部売り払うのは、私たちではなく主です。勿論、主のその愛を知って私たちも自分の持っているわずかなものも、そして自分自身もすべて主に捧げたいと思うでしょう。しかし、それはあくまでも結果であって、「さあ、持ち物を全部売り払って天の御国を買いましょう」という話ではないのです。実際に永遠のいのちを欲した金持ちの青年は、イエスさまのことばに従って持ち物を全部売り払うことができず、悲しんで去って行ったではありませんか。このたとえのとおりになるわけがないのです。人は自分から進んで地上の宝を捨てて天に宝を積むことなど出来ないのです。(マタイ19:21~22)それが罪人の現実です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)「なだめの供え物」の「なだめ」とはいったい何をなだめるのですか。私たち罪人の良心でしょうか。違います。父の義をなだめるのです。御子イエスの血だけが、父の義をなだめるのです。父がひとり子を世に与えること、これが愛であり福音です。私たちが宝を買うことなど愛などではなく、福音とは関係のない話なのです。人が何かの犠牲を払って御国のものを手に入れるというのは、まさしく宗教の発想です。
 キリストという神の宝は私たちという見た目は価値のない畑の中に埋められています。神の知恵によって真の教会は隠されているのです。このように読めば、畑の宝をひとりじめにするために、宝を見つけたことを隠しておくおかしな人のたとえより、ずっとわかりやすいはずです。
 次に真珠です。「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45)真珠が養殖できるようになったのは19世紀の後半のことです。真珠は今でも高価なものですが、この当時はさらに高価で、極めて貴重なものでした。真珠は貝の体内で生成される生体鉱物です。貝は自分の体内に入った異物を核として、カルシウム(炭酸カルシウムのアラゴナイト型結晶)とタンパク質(コンキオリン)が交互に同心円状に重なってできあがります。真珠を養殖する場合もこの性質を利用します。ドブ貝などの貝殻を丸く削った核に、アコヤ貝の細胞の一部を切り取ったピースと呼ばれる小さな細胞をひっつけてアコヤ貝に挿入し、その中で育てるのです。 この雛型は何ともすばらしいと思いませんか。 私たちは天の御国にとっては異物であり、どんなに丸く削ろうが所詮はドブ貝のようなものです。それをアコヤ貝が自分のからだを傷つけ、その体内で時間をかけて何層にもコーティングして、あのすばらしい輝きを産み出すのです。真珠を手に取った人がその美しさに感動するとき、その核になった異物のことを気にすることはありません。また、他の宝石は、原石をカッテイングする加工が必要ですが、真珠は貝の命のいとなみの中として、隠れたところですでに完成されています。良い真珠をさがしている商人、それは主です。真珠は贖われた私たち。良い真珠とは健全な教会です。そして、真珠そのものが産み出されるプロセスの中に、贖いのモデルがあります。すばらしい値打ちの真珠は一つしかありません。それはどの教団、どの先生につながる群れでもなく、イエスのいのちにつながる群れはただひとつしかないからです。イエスはそのひとつの価値ある真珠を産み出すために、ご自分の血で異物である私たちを包まれたのです。
最後に地引き網です。この「地引網のたとえ」は、隠された宝や良い真珠のたとえよりも、「毒麦のたとえ」に似ています。ともに、質の良いものと悪いものが混じっていて、それが後になってより分けられるという筋書きが共通しています。悪い者たちは、「火の燃える炉に投げ込まれ、泣いて歯ぎしりするのです」(マタイ13:42,50)毒麦のたとえの解説と地引き網のたとえが、隠された宝と良い真珠のたとえをはさんでいるのですから、そこにひとつの共通したテーマや流れがあると考えるのは当然であり、さらにそれは、前半の「種まきのたとえ」から始まって「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」という流れの中でそれぞれのたとえの個別の意味とつながりや整合性を見ていくべきなのです。イエスさまはおたずねになっています。「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか」(マタイ13:51)彼らは「はい」と言いました。そこで、イエスのことばです。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉の中から新しいものでも古いものでも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13:52)
弟子たちの中には、この世における学者はひとりもいませんでした。みな「無学な普通の人」でした。それなのになぜイエスは「学者」と言われたのでしょう。彼らはこの世の学者ではなく、御国の学者です。ニコデモはこの世の学者でした。ニコデモは学びましたが、新しく生まれていませんでした。御国の学者は御霊によってみことばを解き明かします。イエスさまもその知恵と不思議な力を、この世の学問によって得たものではありません。日常の普通の営みの中で、信仰によって奥義を見つけられたのです。新しいものとは、古いものの中に隠されていたものだからです。 新しいものとは、目に見えない御国と福音の奥義です。古いものとは、律法と目に見える被造物の世界です。それは、単に自然界だけでなく、経済や法律なども含むすべての人の営みです。たとえというのは、そのふたつの世界を行き来するための鍵なのです。

2008年3月5日水曜日

3月2日 パン種のたとえ (イエスのたとえ話⑥)

    ルカ13:20

「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、3サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」(ルカ13:20)このパン種のたとえは、マタイとルカが記していますが、ともに前回取り上げた「からし種のたとえ」とセットになっています。マルコはからし種のたとえを単独で取り上げています。ルカはこのたとえの本題の前に、イエスさまが語られた重要な前置きのことばを書いています。「神の国は何に比べましょう。」(ルカ13:20)ということばです。この表現は「からし種のたとえ」の前にも見られますが、イエスさまがあえてこの短いたとえにこのような前置きをしておられるのは、「地上における神の国の状況というのは、非常にたとえることが難しいのだ」というニュアンスを伝えておられるのです。このふたつのたとえが、「小さなはじめが大きな終わりになる」というような、単純に信仰や教会の成長を表すものだとしたら、このような前置きは全く不必要に思えます。私たちがたとえ話から読みとるべきことは、私たちが聞きたいことではなく、イエスさまが伝えたかったことであるべきです。
「パン種のたとえ」は決して望ましい成長のたとえではなく、不自然で喜ばしくないことたとえなのです。聖書は一貫して、パン種は退けるべき忌むべきものであるとしています。「あなたがたは7日間種を入れてないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第7日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。」(出エジプト12:15)「あなたがたは、種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたってこの日を守りなさい」(出エジプト12:17)「七日間はあなたたがたの家にパン種があってはならない。誰でもパン種の入ったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。あなたがたは、パン種の入ったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所はどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」(出エジプト12:19~20「あなたがたは主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。」(レビ2:11)「主への火によるささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで食べなさい。これは最も聖なるものであるから」(レビ10:12)種を入れないパンは「悩みのパン」と呼ばれ、それを食べるのは、「急いでエジプトの国を出たから」で、「その日を一生の間覚えているため」と教えられています。(申命記16:3)旧約聖書の中で例外的に一ヵ所だけ、「パン種を入れたパンを焼け」と書かれている箇所がありますが、これはユダヤ人のそむきの罪を主が告発しておられるものです。(アモス4:4~5)このように見てくると、からし種やパン種のたとえを信仰や教会の成長に関する励ましだと受けと止めているのは、皮肉を言われているのに褒められているのだと勘違いして喜んでいるぐらい愚かだということです。勿論、ここまでしつこく書かれているわけですから、よほどの馬鹿でもない限りパン種が良いものだとは思えません。それでもなお「パン種のたとえ」はすばらしい成長のたとえだと主張したい学者たちは、「パン種は多くの場合、悪影響の代名詞のように使われているが、イエスがあえてそれを御国のたとえとして用いられたのは、人々の意表をついて印象づけるためだった」などと言っているのです。ここまで来ると、屁理屈も立派なものです。
福音書に戻りましょう。(マタイ16:1~12)パンの奇跡のあと、ガリラヤ湖を渡って対岸に移動した弟子たちは、パンを持って行くのを忘れてしまいました。そこで、イエスさまが「パリサイ人とサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われたときも、弟子たちは、パリサイ人とサドカイ人との問答のことではなく、パンを忘れて来たことを叱られているのだと勘違いしてしまったのです。イエスさまがおっしゃったのは、パンではなくパン種のことだったのです。パン種とは、「パリサイ人やサドカイ人の教え」のことです。(マタイ16:12)要するに神のことばを人間の言い伝えによって空文にしていること、神をあがめると言いながら、神を神としない態度を否定されたわけです。ちなみに、マルコの福音書では「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」(マルコ8:15)となっています。私はこの表面上の不一致については、どちらかが間違っていると言うのではなく、イエスさまは、不純物が入り込むことについて、しばしばこの「~のパン種」という表現を用いられたのです。そのことを証明する一例は、ルカの福音書に見られます。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです」(ルカ12:1)つまり、パン種の正体は、「人の教え」と「偽善」なのです。イエスさまがはっきりとそうおっしゃっているのであって、別の解釈など出来るはずがありません。パン種をとって粉に入れる「女」とは、もちろん「教会」のことです。  粉の量にも注目してみたいのですが、3サトンと書かれています。1サトンが13リットルですから、3サトンでは39リットルです。かなりの量です。一人の女性が家族のためにパンを焼くとしたら、パン種を入れて膨らまさなくても十分な量の粉があるのです。
パンは人間のいのちを支えるものです。パン種が取り除くべきものであることは少し置いておいて、食の話をします。最近は食の安全を脅かすニュースが連日報道されています。戦後日本の食文化は大きく変質しました。アメリカの余剰穀物を買わされ、パンを多く食べるようになりました。学校給食も未だに半分はパンです。米を食べなくなったので、米を作らなくなりました。米が不作のときにはタイ米などを輸入する事態にまで陥ったわけです。子どもの好きな食べ物は「カレー」「ハンバーグ」「スパゲティ―」です。日本の代表的なお総菜である「しらあえ」「ひじき」「おひたし」などは、給食でも不人気メニューであり、だいたいきちんと作れる母親も少なくなってきました。私たちが何を食べるかというのは、きわめて大事なことなのです。魚も昔ほど食べなくなりました。最近、骨なしの魚はよく売れているそうですが、もちろん骨なしで泳いでいる魚などいません。日本人が手軽に食べられるように、その骨は中国人が低賃金で働いて抜いているのです。肉も輸入が大半で、きちんと調べることもされず、病死牛肉や薬漬けの牛肉が、そのままあるいは加工食品として食卓に上ります。これは「いのち」を、さらに言えば、キリストの雛型である「生け贄としての血」を馬鹿にした報いです。食というのは単なる栄養源ではなく、キリストのいのちによって養われること、またその喜びをともに分かちあうことの象徴なのです。料理には感謝と愛情と手間をかけるべきです。そして、それをともに分かち合い喜ぶべきなのです。
日本は世界でも最高の豊かな食文化を持ちながら、それを捨てようとしています。今回の餃子事件を通して、「国内で簡単につくれるものを、殺虫剤をふりかけてもらうためにわざわざ外国でつくってもらうのはどこかおかしい」と誰もが気づいたはずです。日本人が食を見つめ直すきっかけになってくれたらと思います。仕事の帰りの遅いお父さんや、塾通いの子どもたちは、お母さんが作った手料理をともに分かち合うことが少なく、ひとりぼっちでジャンクフードをかき込むというような食事で、とりあえず飢えを満たすようなもので済ませてしまうことが多いようです。「私のからだはワインで出来ているの」と言った女優がいましたが、いまやコンビニ弁当や冷凍食品でできたからだの若者は多いでしょう。そういうものばかり食べていると、そういう人間になってしまうのです。
「わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べたが死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のための私の肉です」(ヨハネ6:48~51)このことばは、聞いた者たちに大きな混乱をもたらし、弟子たちの多くがつまずきました。(ヨハネ6:60)それほど本質的なメッセージだったのです。なぜ、パンにパン種を入れてはいけないのでしょうか。それは、パンはイエスのみからだを象徴しているからです。パンは一時的な地上のいのちとからだを支えるものです。しかし、まことの食べ物、いのちのパンとは、人のなられたイエスのいのちそのものを自分の中に受け入れることであり、イエスと永遠のいのちを共有します。
パウロもまた、人間の欲望を満たす教えが、キリストの受肉と贖いのみわざを台無しにしてしまうことについて、この「パン種のたとえ」を用いて注意を促しています。「あなたがたの高慢はよくないことです。あなたがたは、ほんのわずかなパン種が、粉の固まり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで祭りをしようではありませんか。」(Ⅰコリント5:6~8)
このように聖書全体から見れば、「パン種のたとえ」は、「からし種のたとえ」とともに、教会あるいはキリスト教が、人間の欲望や価値観と結びついて大きくなることは決して喜ばしいことではないというメッセージを伝えるものであることがおわかりいただけたと思います。キリスト者にとっては、組織や影響力が大きくなることではく、むしろ信仰の「純粋さ」や「真実さ」という質的なものこそ大事なのです。祭りの価値は、規模ではなくその内実です。イエスの臨在のないメガチャーチや大聖会はパン種で膨らんでいるだけです。大事なのは、教団の名や預言者の名にもとではなく、ただ主の御名のもとに集まることです。本当に主の御名のもとに信仰によって集まっているなら、そのただ中にいつも主はおられます。

2008年2月22日金曜日

2月17日 からし種のたとえ(イエスのたとえ話⑤)

マタイ13:31~32

種はどのような種でも小さなものですが、からし種は当時知られていたあらゆる植物の中でも最も小さな種です。パレスチナでは、からし種は香辛料としてだけではなく、防腐剤や医療用にも用いられたようです。黒からしの種は0.95~1.6mmで重さは1mg。しかし、生長するとどの野菜よりも大きくなると書かれています。ガリラヤ湖畔においては、2.5~3mほどにもなったと言われています。たとえの中心は「小さなものが大きくなる」ということです。「小さなはじめが、大きな終わりをもたらす」という事実をわかりやすく対照しています。ただし、ポイントは野菜でありながら木のように生長したその大きさではなく、「はじめの種の小ささ」にあります。生長したからし種より大きな木は他にもありますが、からし種より小さな種はありません。
からしというのは正確には野菜であって木ではありませんが、「木が生長するたとえ」は旧約聖書の中にもいくつか見られます。このような関連の聖句をしっかり調べて、聖書全体が伝えるメッセージのバランスを考えるのは大切なことです。エゼキエル書やダニエル書には、木の生長が「王や帝国の繁栄」の象徴として預言されているので、簡単に見てみましょう。エゼキエルは、バビロンに捕囚されるイスラエルの姿と、キリストによる救いの未来を、二羽の大鷲と木のたとえで見事に表しています。(エゼキエル17:1~10, 22~24)最初に出てくる大鷲(3)はバビロンの王ネブカデネザルであり、若枝の先(4)はエホヤキン、地の種(5)はゼデキヤ、もう一羽の大鷲(7)はエジプトの王です。ゼデキヤは、大鷲バビロンに反逆するため、もう一羽の大鷲エジプトに頼るが裏切られ、ネブカデネザルの手によって、目をえぐり出され、足かせをつながれえてバビロンに連れて行かれます。一方では、ダニエルがイスラエルを捕囚したバビロンの王ネブカデネザルの盛衰について、王自身が見た大きな木にまつわる夢を解き明かしています。(ダニエル4:10~27)これらのたとえの中では、木の生長自体は良いことでも悪いことでもなく、主の主権によって、人は栄えもすれば滅びもすることを教訓として語っているにすぎません。たとえの中では、木は確かに繁栄の証として生長していますが、大事なのは「神の主権」に服することだと教えています。しかし、このような旧約のモデルがあるので、「からし種のたとえ」は、多くの場合、上っ面だけをとらえた「御国の拡大のたとえ」としてとらえられてきたのも事実です。しかし、「からし種のたとえ」ただそれだけの単純なものではありません。マタイの福音書を見れば、それはさらに明らかです。「種まきのたとえ」に続いて「種まきのたとえの解説」があり、「毒麦のたとえ」があって、次に「毒麦のたとえの解説」が続くのではなく、その間に「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」が挿入されているのがわかります。従って、これらのたとえはそれぞれに深い関連を持っており、まさに文脈の中で解釈していく必要があるわけです。つまり、この順番は、「からし種のたとえ」は、「種まきのたとえ」の続編であり、「毒麦のたとえの解説」の前提であるという読み方が必要で、そのように意図された編集になっています。では、そのように読んでいきましょう。「種まきのたとえ」では、4つのうち3つの土地の状態は悪いのであり、まかれた種の総量に対して仮に4分の1ずつがそれぞれの条件の土地に落ちたとすれば、4分の3、つまり75パーセントの土地は実を結ばないのです。さらに、「毒麦のたとえ」では、畑には良い麦と見分けのつきにくい毒麦が根を絡ませて広がっています。この文脈から考えても、「からし種のたとえ」だけが、全体の文脈から無視した「小さな信仰がすばらしい教会成長につながる」というような単純なモデルであるわけがありません。さらに次回詳しく見ることになる「パン種のたとえ」でも明らかですが、パン種を入れてパンを大きくすることは決して喜ばしいことではなくむしろよくないことなのです。粉の中にパン種を入れる女とはもちろん教会のことです。つまり、教会は一見非常に大きくなりますが、それは「必ずしも好ましい生長ではない」と読み解くことが出来るのです。ですから、みすぼらしい小さな集まりがやがて世界的な影響力を持つようになり、今は日本人口の1パーセントにすぎないクリスチャンだが、やがて大リバイバルが起こると多くの人が救われるのだというたとえではないのです。
生長したからし種の木の姿の描写に注目すると、「空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になる」(マタイ13:32)と書かれています。この表現にも少しこだわってみます。マルコでは、「大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどなります」(マルコ4:32)ルカでは、「生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作り増した」(ルカ13:19)となっています。共通するのは、いずれも「空の鳥が」「枝に」「巣を」作っているということです。空の鳥とは、種まきのたとえの解説によれば人の心にまかれたみことばの種を取り去る悪い者(サタン)です。(マタイ13:19)「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」(エペソ2:2)という表現も思い起こされます。「枝に」「巣」が張られるとは、まさにキリスト教の分裂・分派を指し、党派心による自己主張が、悪いものに巣を張られるための枝を提供しているという見事な描写だと言えます。黙示録に目を転じても、ペルガモの教会にはサタンの王座があると書かれています。「わたしはあなたの住んでいるところを知っている」(黙示録2:13)目に見えて明らかになっているものを「わたしは・・・・知っている」となどという言い方はしません。影に隠れているもの、隠そうとしている真実を見通しているという警告です。「大きな枝の影の部分さえも神の光が照らし出している」と告げているように感じます。黙示録の中には、さらに、「憎むべき鳥どもの巣くつ」(黙示18:2)というおぞましい表現も見られます。これもまたこの世ではなく、教会の霊的堕落を指していることは明白です。
種まきのたとえにおける種は「みことば」でした。毒麦のたとえにおける良い種は「御国のこどもたち」でした。では、小さなからし種とは何を指しているのでしょうか。その秘密を解くみことばはルカの福音書にあります。「もしあなたがたにからし種のほどの信仰があったなら、この桑の木に『ねこそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(ルカ17:6)このみことばから、からし種は「信仰」を指していることがわかります。この不思議なみことばは、「私たちの信仰を増してください」という使徒たちの願いに対しての答えです。信仰は小さな目に見えないほどのからし種程度で十分。つまり、信仰は量的なものではなく、質的なものなのだと主はお答えになったわけです。
では、なぜからし種ほどの信仰に出来る大きなことの例として、桑の木が出て来るのでしょうか。そもそも桑の木を海に植えかえる必要があるのでしょうか。また、そんなくだらないことを願う人がどこにいるのでしょう。サタンがイエスさまを誘惑したように、「腹ぺこの人が石をパンに変える」という話なら意味がわかりますが、「陸に生えている桑の木を海に植え替えること」にいったい何の意味があるのでしょうか。私は長い間そのことを疑問に思っていました。しかし、最近になって、陸はユダヤ人を海は異邦人の世界を表しているのではないかと考えるようになりました。つまり、祝福が律法を守ることによってではなく、信仰によって異邦人に移っていくことを意味しているのです。イスラエルの選びは恵みですが、本当の救いは信仰によって教会にもたらされます。(ガラテヤ3:14)ちなみに桑の実は最も貧しい人々の食べ物でした。求められる信仰の質とは何でしょうか。それは、イエスを信じるということです。十字架を信じるということです。よみがえりを信じるということです。私たちがキリストのものであれば、約束による相続人なのです。私たちは、何かを築き上げるのではなく、何もしないで、イエスの信仰、イエスの勝利を相続するのです。(ガラテヤ3:29)信仰の創始者はあくまでもイエスです。(ヘブル12:2)毒麦のたとえにおける良い麦の収穫も、実ははじめの「地に落ちて死ぬ一粒の麦」にかかっています。(ヨハネ12:24)はじめの一粒が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままなのです。毒麦はおろか、たった一粒の良い麦の収穫も期待できません。すべてはイエスさまの「人の子として」の父に対する信仰にかかっているわけです。ですから、からし種の信仰も、「ささやかな私の信仰」を出発点に考えては間違いです。出発点は「イエスの信仰」です。神が人として、信仰者として生まれ、歩み、死んでゆくということ、これがからし種です。あらゆる栄光をお受けになるにふさわしい御方がそのあり方を捨て、ご自分を無にすること、仕える者の姿をとられたこと(ピリピ2:5~8)が、からし種の無に等しい小ささの根底にある意味です。「キリストが神の御姿であられる方なので、神のあり方を捨てることが出来ないと考えられた」としたら、私たちも大きな信仰も、小さな信仰もなければ、信仰の対象そのものを失うわけです。
先日私はこの一月に生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて、祝福の祈りをさせてもらう機会がありました。私は力を入れたらこわれてしまいそうな小さな赤ちゃんを胸に抱き、そのやわらかい手触りとぬくもりを胸に感じながら、イエスさまが人の子として、全能の神が、全く無力な人間の赤ちゃんとして生まれてくださった事実に対して、改めて厳粛な気持ちになりました。そして、神の子イエスを人の子としてわが胸に抱いた母マリヤの驚きや信仰の実際はどうだっただろうと思いをはせたのです。マリヤは最初からすんなり御使いのことばを信じたわけではありません。「どうしてそのようなことになりえましょう」(ルカ1:34)と言っています。当然です。妊娠があり得ないことはマリヤが一番良く知っています。しかしそのやりとりの中で、「神にとって不可能なことは一つもない」(37)と御使いに言われ、そのとおりだと受け入れます。そこではじめて「ほんとうに主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばのとおりこの身になりますように」(38)と言っています。私たちがアーメンと言うとき、実はこのマリヤ告白と同様の告白をしているのです。また、こういう告白でないと軽々しくみことばに対してアーメンなどと言ってはいけないのです。このマリヤの一言が人の子イエスの誕生を実現させたのです。マリヤの子宮に着床した人の子イエスは、まさにからし種のような小さな細胞にすぎませんでした。そしてマリヤのこの一言も、言わばからし種のような極めて小さな信仰でした。そこには神学も理論的体系も教理も律法もありません。マリヤは、神の全能とみことばの約束の真実と、そしていのちそのものを受け入れたのです。

2008年2月8日金曜日

1月27日  毒麦のたとえ(イエスのたとえ話④)

          マタイ13:24~30 36~43

毒麦という種類の植物があることはよく知られています。毒麦というくらいですから、その特徴は、まず麦によく似ていているということ、そして毒性があるということです。それは区別がつきにくいほどよく似ていて根が絡み合うので、毒麦を抜こうとすると良い麦をも傷つけてしまう危険があります。これをもしあやまって食べた場合は、吐き気やめまいや嘔吐やしびれを引き起こす危険があると言われています。こうした特徴を逆手にとって、「麦をまいたばかりの敵の畑に毒麦をまく」ということは、復讐の方法のひとつとして行われていたようです。 毒麦は麦という名がついていますが、麦角(ばっかく)という麦に寄生する菌が正体です。麦角に寄生された穂は、まるで黒い角のような穂があちこちに顔を出す。これを食べてしまった麦角病はペスト・コレラとともに恐れられた病気でした。毒麦被害の記録は、BC7世紀のアッシリアに始まり、17世紀になってようやく菌の正体がわかって次第に被害は減りましたが、20世紀になっても、まだ大被害の記録が残っています。日本は米が主食であったため、あまりなじみがないのですが、麦を作る地域で毒麦は長年にわたって大きな被害をもたら続けています。
良い麦と毒麦はそれぞれに何を指していて、誰が蒔いたのでしょうか。イエスさま御自身の解説によれば、良い種は「御国の子どもたち」で、毒麦は「悪い者の子どもたち」です。 良い種をまくのは人の子すなわちイエスさまであり、毒麦をまくのは悪魔です。こうしてイエスさまと悪魔によって正反対の目的で別々にまかれたものが、ひとつの畑の中で混じり合っている。これがキリスト教界の現状です。良い種が単に「みことば」ではなく、「御国の子どもたち」と書かれていることに注目してください。イエスさまが語られたことばは、霊でありいのちです。いのちのことばであるイエスさま自身が、一粒の麦として地に落ちて死なれたことによって、イエスの霊が私たちのうちに宿り、ひとつひとつのみことばの約束を聖霊がよみがえり力によって成就させるそれが本当の御霊の実だからです。
良い種が途中から毒麦になるということはありません。毒麦は初めから毒麦であり、サタンが悪意をもってまいたので、良い種と混じり合って成長し、根を絡ませては混乱させます。また、毒麦としてまかれたものが途中から変質して良い実を実らせるということはありません。これは絶対にないことなので、毒麦を良い麦に変えようという努力は無駄だということです。当然、異質なものが混じり合って収穫を損なうかも知れないことを知った者は、心を痛めて、「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」(マタイ13:28)と言うでしょう。しかし、主は「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えておられます。その理由は「毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかも知れない」ということです。つまり、麦と毒麦はそれくらい判別が難しく、麦と毒麦をより分けることは、「収穫の麦」である私たち自身の仕事ではないのです。実際には穂が実ると本物の麦よりもひげが長かったり、色が黒っぽかったりして区別がつくそうですが、まさに収穫寸前までは区別がつきにくいのだそうです。さらにここで配慮されているのは、良い麦を誤って抜いて傷つけてはいけないということで、毒麦に対する憐れみではないということも覚えてください。毒麦はあくまでも最後に焼かれるために成長するのです。正しい者と悪い者を分けるのは、クリスチャンの本来的な役割ではなく、そのことに責任もありません。終わりなき神学上の論争や異端審問や正当派争いには意味がないのです。
悪魔が毒麦の種をまくのは、「人々が眠っている間」と書かれています。これは、怠惰というよりは、「人の関知できないところで」という意味でしょう。毒麦の毒性というのは、極めて霊的な悪意に満ちた、人よりも上位の者のしわざだということです。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)たとえが私たちを選ぶと申しました。私たちの聞き方が私たちを選別するのです。イエスさまが、「あなたがたは悪魔から出た者だ」と言われたのは、彼らがイエスさまが語られたことばに耳を傾けられなかったからです。「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」(ヨハネ8:43)植物であるならば、神様は麦は麦、毒麦は毒麦に造られたわけで、麦や毒麦に選択の余地はありません。しかし、人は無抵抗にサタンに任命され操られるわけではありません。自分の意思でみことばを受け入れたり、また、拒んだりうして、自分のあり方を選択するのです。ヨハネ8章にあるやりとりの前半でも、イエスさまは、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とおっしゃっています。初めから拒まれているわけではなく、彼らがみことばを拒んだのです。それなのに、ユダヤ人たちはイエスさまが与える自由を求めず、すでに自由だと言い、逆にイエスさまを殺そうとします。さらに、「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります」と言っているのです。このように今日にもこの類のキリスト教徒は毒麦として混在しています。真理の霊と偽りの霊をより分け束ねることは命じられていませんが、見分けることは出来ます。霊だからといってみな信じてはいけないのです。見分けるポイントはひとつです。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって、神からの霊を知りなさい。」(Ⅰヨハネ4:2)と書かれています。イエスの受肉をどうとらえているかというのが鍵です。先ほどのユダヤ人たちもひとりの父である神を強調し、神の子であるイエスさまの人の子としての受肉を真っ向から否定しています。イエスを告白する霊です。「聖霊さま」ではありません。「唯一の神」でもないのです。(Ⅰヨハネ4:3)
「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして、世に勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:4)これもまた慰めに満ちたことばです。私たちは弱くていい。これから勝つのではなくすでに勝っている。勝利の理由は、私たちが成長するからでも、がんばるからでもなく、私たちのうちにおられる方が悪魔よりも強いからです。
「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。」(Ⅰヨハネ4:5)この世の神の入れ知恵によって語られる、自己啓発や道徳やお涙ちょうだいのエピソードや御利益話は大いにこの世に受け入れられるでしょう。みことばをみことばのまま語ることは、非常に分が悪いように思われます。しかし、その中で、淡々とみことばを語り続けることによって、それに耳を傾け、反応する人たちが起こされます。私たちはすでにそのことを見ています。私たちのような田舎の小さな教会を通して発信されるメッセージに応答される兄弟姉妹が各地におられ、事実交わりが広がり、祈りがつながっている。いのちが流れている。これはすごい奇跡を見ているようです。
「私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊を見分けます。」(Ⅰヨハネ4:6)このヨハネの言葉は、見方によれば非常に独善的なものとうつるでしょうが、それほど、まっすぐにみことばを語っているという強い核心に基づいた宣言だと言えます。私たちもこのヨハネのように、私たちの言うことに耳を傾けない者は偽りなんだと言いきれるほどのメッセージを携えていたいものです。収穫はすぐにはありません。収穫はこの世の終わりだからです。借り手は御使いです。やがて、麦と毒麦の違いが明瞭になります。御国の子どもたちとは誰なのかはっきりします。それは、「あの教団は駄目」「この教会はすばらしい」というようなものではありません。このたとえのように、根が絡み合っていて、人目にはなかなか見分けがつきにくいのです。
毒麦にあたる人たちは、「そこで泣いて歯ぎしりする」と書かれていますが、この表現はマタイの福音書に6回出てきます。これほど頻繁に出てくるこということはとても大事なことで、出来ればそうならないようにというイエスさまの思いがこめられているようです。この機会にすべての箇所をチェックしてみてください。1. 百人隊長の場面(8.12)2. 毒麦のたとえ(13:42)3. 地引網のたとえ(13:50)4. 王の披露宴のたとえ(22:13)5. 悪いしもべのたとえ(24:51)6. タラントのたとえ(25:30)
なぜ彼らは「泣いて歯ぎしり」するのでしょうか。それは激しい悲しみと悔しさの表現です。それは自分たちの受けた報いが当然であることがはっきりわかり、選択を誤ったことを思い知るからでしょう。彼らには選択を迫られた機会がありました。みことばに触れるチャンスがあったのに生かさなかった、みことばを軽んじた、みことばよりも自分の考えを選んだ人たちです。いっさいの言い訳を取り去られた世界で、正しい神の前で自分の愚かさや罪深さと向き合わされるというのは恐ろしいことです。中には確信犯もいるでしょうが、多くの人は、神に従っていると思って、この世の神であるサタンに従い、サタンの為に準備された罰をともに受けるわけですから、たまったものではないでしょう。