今年は一年を通して「イエスのたとえ話」をひとつひとつ出来るだけ丁寧にひもといて分かち合ってきました。本シリーズでは、「イエスがたとえをもって話された」というような明らかなひとくくりのたとえ話は勿論のこと、さらに広い範囲で、「神が創造された目に見える世界は、すべて目に見えない霊的な世界を反映した大きなたとえなのだ」という視点でお話してきました。
それはいつまでも続く「実体」や「本質」を映した一時的な「影」や「型」であり、その永遠の世界は、十字架という神御自身が引き受けてくださった究極の不条理を通して、ねじれ、反転した世界であるというメッセージをお伝えしてきたわけです。それは、「悲しむ者が幸いであったり、後の者が先になったり、苦しんでいたものが慰めを受けたり・・・」という世界です。イエスが約束された世界は、この世界の拡大や延長ではありません。またこの世界の発展や改良ではありません。キリスト御自身を共有する新しいいのちの世界です。それこそが福音の実際なのです。福音とは、「個人的な悩みが解決する」とか、「私が成功して幸福になれる」とかいうこととは全く異質のメッセージです。文明や国家のあり方とも別の次元の事柄です。その奥義は、ただイエスという「人となられた神」の人格とみわざに対する単純な信仰によってのみ知り、味わうことができます。シリーズの終わりにあたって、もう一度そのことを確認しておきたいと思います。
シリーズ最後のメッセージは何をテーマにするべきか悩んでいましたが、「光」についてお話しようと思います。自然界の中には、神の「本性」あるいは「属性」を、また「神と人の関係性」「キリストと教会の絆」を現した雛型が溢れています。その中でも「光」は、神御自身の本質を現した非常に重要なたとえであり、「光よあれ」というみことばは、神が発したことばとして、聖書の中で一番はじめのものです。(創世記1:1)
神は太陽です。太陽の光は色を作り出し、熱を与え生きものや作物を養います。光はわけへだてなくすべてのものを照らし、闇の中にあるものを明らかにします。そんな太陽を、それ自体「神」として崇める国民や宗教もありますが、みことばはそれを禁じています。造られた雛型のひとつを神としてはいけません。太陽も月も星も単なる「指のわざ」にすぎません。雛型によって解説すれば、偶像礼拝は姦淫であり、性的倒錯なのです。
神は大きな光るもの、そして小さい方の光るものをお造りになりました。夜を照らすのは、「小さいほうの光るもの」である月です。(創世記1:15)月は教会です。ご承知のように月はそれ自体は輝かず、表面はクレーターでデコボコです。それは「罪人である人間が主の栄光を反射して夜の世界を照らす」ということを映した非常に美しい雛型です。聖書はアポロが月にいくより先に、月がそれ自体何の魅力もない場所であることを暗に語っていたわけです。
さて、聖書の中には、光に関する記事はかなりたくさんありますが、今日は、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に出てくる「あかりのたとえ」を見ていきます。
「また、あかりをつけて、枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがた光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:15~16)
「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:21~23)
「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。」(ルカ8:16~17)
神は光であり、ここに書かれているあかりとは、神のことばです。神のことばはイエス御自身です。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)というみことばを思い出してください。さて、この当時のともしびやあかりはどのようにつけたのしょうか。スイッチを入れたら電気がつくのは現代の話です。あかりは油に火をつけてもやします。油は燃えますが、油に直接火をつけるのではなく、燈心に火をともすのです。燈心にしみ込んだ油が少しずつ燃えて、光を放ち、あたり暗がりを照らすわけです。あかりはみことば、油は聖霊、そして、燈心は私たちの人間性です。
今日は光のことをお話していますが、このたとえでは、光を反映した擬似的な光である「あかり」について話しています。当時の「あかり」は、それほど明るいものではありません。しかし、それは明らかに夜を照らすための光だったのです。今日のメッセージのタイトルは「くすぶる燈心」としました。非常に詩的で繊細な表現ですが、それは、光を委ねられた私たち人間の弱さ、小ささ、はかなさ、頼りなさを現すことばです。主は私たちが自分の罪や愚かさや醜さや無力を告白しなくても、そのようなものであることを十分ご存じです。油の切れた灯心に火をつけたらどうなりますか、一瞬火はつくでしょうが、黒こげになっておしまいです。イザヤのみことばを思い出してください。
「主はいたんだ葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すこともない」(イザヤ42:3)これは、私たちがどんなに弱い存在であるかを伝えると同時に、それをどこまでも、何としても守ってくださる御方のすばらしさについて伝えています。それは、わたしを支えるわたしのしもべであるイエスの描写として書かれているのであって、人の弱さや弱さの中にある可能性を強調しているのではありません。主が私たちの証を守られるのです。私自身は燃えても一瞬で燃え尽きます。私たちに必要なのは、「主が夜を照らす役割を私たちに託してくださり、主が私たちを通してあかりを灯し続けてくださるのだ」と、ただ信じることではないでしょうか。その意味では、信仰は小さなからし種でよく、あかりはくすぶっていてもよいのです。こうしたことをふまえて今日のたとえを見ていきましょう。
どういうわけか、あかりを枡の下に隠す人がいます。たとえで語られると、それが愚かで無意味であることは誰にでもわかるのですが、実際にはこういう人が多いのです。これは、自分の経験や理性で、あるいは、知性や感性でみことばを量ることを言っているようです。不遜にも、神のことばを人間が吟味するのです。本当は、神のことばが人間を吟味し、その人の隠された真実を暴くのです。ユダヤの指導者たちは、イエスを「試そうとして質問した」と書いてあります。はじめから、「わからないから」「知りたいから」教えを受ける姿勢ではないのです。
指導者たちは勿論のこと、信じた者でさえ、「みことばはそう言っているけれど、現実的にはこの程度の意味ではないか」「このみことばは、その時代のその教会の人のためにだけ語られたもので自分には直接関係がない。」というような反応はまさに、枡の下にあかりを隠すことです。そんなことをすれば、当然あかりは消えます。
実は、わたしたちがみことばをはかったように思えても、実はみことばにはかりかえされているのです。みことばを枡の下に隠すことによって、私たちはみことばの祝福を放棄しているのです。みことばをあなどることは、神をあなどることです。みことばを軽んじる者を、主は軽んじられます。
「欺きのはかりは主に忌み嫌われる。正しいおもりは主に喜ばれる。」(箴言11:1)
「異なる2種類のおもり、異なる2種類の枡、そのどちらも主に忌み嫌われる。」(箴言20:10および23) しかも、この枡ははかった後に隠しているところから考えると、どうやら底が上を向いています。はかる道具としては機能せず、隠す道具として用いているのです。つまり、人はみことばをはかっているつもりでも、あかりを隠しているだけなのだと言えます。
次に、寝台の下です。寝台は眠りと病をイメージさせます。また、暮らし全体を象徴する表現です。特に教会の指導者が病気だったり怠慢だったりすると、みことばによる訓練がおろそかになり、光は消えてしまうどころか、家全体を焼く火事の原因にもなります。また、「人の子には枕するところもない」とおっしゃったイエスのことばを思い起こせば、自分の生活を最優先する姿勢への戒めともとれます。これは、指導者のみならず、すべてのクリスチャンにとっても言えることです。いわゆるキリスト教の中では、献身者、すなわちキリスト教を生業とする人たちと、他の仕事を生業としつつ、献身者の暮らしを支える一般信者を区別して無意味な段差をつけていますが、聖書の中には賜物や役割の違いはあっても、すべての信者は兄弟姉妹、また家族であって、礼拝者、祭司として等しい立場が与えられています。「聖書はすべて、神の霊感によるものであって、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Ⅱテモテ3:16~17)「教えと戒めと矯正と義の訓練」です。どれも厳しそうなイメージです。しかし、これがない教会は、寝台の下にあかりを隠していることになります。みことばがすべての兄弟姉妹を訓練するのです。教会指導者が信者を訓練するのではありません。
3つ目は器です。器は、みことばに関わる人間を象徴しています。
あかりを器で隠すというのは、ひとつは、みことばを取りつぐ者が、自分の栄光を求めたり、みことばをまぜものにすることへの警告です。もうひとつの側面は、みことばを聞く者が、それを取りつぐ器の装飾、すなわち、肩書きや人間性に心を奪われ、あかりではなく、器に期待することへの警告です。あかりは、燭台の上にあるべきです。燭台とは教会をさします。あかりを支えるために燭台があるのです。その逆ではありません。その人自身の名前でやってくるものには要注意です。(ヨハネ5:38~43)
あかりがあれば、その周辺は明るくなり、温かくなり、はっきり真実が見えます。それは、誰の力でも知恵でもなく、あかりのおかげ、光そのものである神の証なのです。
仮に私がたとえをわかりやすく解き明かしているとしても、あかりがあるから見えるだけのことで、私が特別だから私だけに見えるのではないです。私が見ているものは、みなさんにもはっきりと同じものが見えて、ともに味わえるのです。ところが、サタンのわざは違います。スピリチュアルブームとかで、「霊が見える」などという人は、「その人だけ」しか見えないでしょう。だから、その人が見えているものが嘘か本当かなんて確かめようがないわけです。ところが、私が話していることは、聖書に書いてあります。書かれていることだけをそのまま話しているわけだから、間違ったことを言っていれば、その気になって調べれば誰でも指摘できます。当然間違いあれば、心から謝罪します。私が話していることは、話しているとおりのことを私がそう信じているというだけのことであって、それ以上の主張をするつもりはありません。みことば相互の論理的な整合性を越えた超霊解が、もし万一あるのだとしたら、私には関係のない世界なので、とっと土俵から退散します。私の知っている主イエスはそういうものを徹底的に嫌われると思いますが。
正しい場所にあかりがあるとき、まず、家の中を照らします。マタイには、「家にいる人々全部を照らす。」と書いてあります。そして、それは確かに行いとも関係があります。あかりが力強く光るのは、そのみことばを語るだけ、聞くだけではなく、行わなければなりません。行いをともなう信仰が父の栄光になります。「みことばは大切」と言いながら、何がどこに書いてあるのかわからないで説得力があるでしょうか。また、「愛が大切」と言いながら、困っている人に具体的な親切や助けを示さないとしたらどうでしょう。
律法の中にも、教会はともしびを絶やさぬようにと命じられています。(レビ24:1~4)そこには、すでに1タラントの金の燭台から打ち出され燭台によって、キリストの試練によって練られた人格の栄光とキリストと教会の一体性が見事に表現されています。(出エジプト25:31~40)(民数記8:2~4)
ルカを見るならば、家の中にいる人々だけではなく、「入ってくる人々に、その光が見える」ことが必要だと書いてあります。教会に来る人々に、こびて、おもねって、気をつかって、結局みことばを伝えないということがあります。違う光に寄ってくる虫は、かえってあとから必ず分裂や混乱をもたらします。家に入ってくる人には、「みことばの光が見える」ことこそが大切なのです。みことばの光はみことばの意味ではなく、私やあなたや、この世界のすべてを照らすのです。最後にすべて隠されていることが明らかになるのだとマルコとルカは言っています。このことを聞くとき、それはありがたいと思いますか、それとも、それは困ったと思いますか。みことばの本当の意味と力が明らかにされ、私たちがいかに信じ、いかに行ったかがすべて明らかになります。「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」(Ⅰペテロ4:17)そして、マルコのテキストは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と結んでいます。あかりの話なのに、「目を見開きなさい」ではなく、「耳」のことに触れ、「聞きなさい」と念を押しています。あかりはみことばなのです。みことばを聞かない人は、何も見えず、やがて間違いなく穴に落ち込むのです。
2009年1月2日金曜日
12月7日 メッセージのポイント
良きサマリヤ人のたとえ(イエスのたとえ話30)
ルカ10:25~37
A 律法の専門家の質問
○どうしたら永遠のいのちを得られるか
○わたしの隣人とは誰か
B イエスの答え
○行って同じようにしなさい
○誰が隣人になったのか
C ちがいはどこに
○私中心で私を満たすために「隣人」を手段とみなす
○ある人を目的としてある人を満たすために私が「隣人」となる
D 真実の隣人はイエスおひとり
○罪人は罪人の隣人にはなれない
○義人イエスだけが隣人になりうる
○本当は「私」こそ通りすがりではなく傷ついて死にかけた人
E 家族という隣人
○夫婦さえ隣人にはなれない(アダムとエバの場合)
○親子さえ隣人にはなれない(アブラハムとイサクの場合)
○神抜きの人間関係は成立しない
F 隣人愛から兄弟愛へ
○私はあなたを愛せませんという告白から始まる
○兄弟姉妹とは相互の中におられる主によって仕え合うことができる人たち
ルカ10:25~37
A 律法の専門家の質問
○どうしたら永遠のいのちを得られるか
○わたしの隣人とは誰か
B イエスの答え
○行って同じようにしなさい
○誰が隣人になったのか
C ちがいはどこに
○私中心で私を満たすために「隣人」を手段とみなす
○ある人を目的としてある人を満たすために私が「隣人」となる
D 真実の隣人はイエスおひとり
○罪人は罪人の隣人にはなれない
○義人イエスだけが隣人になりうる
○本当は「私」こそ通りすがりではなく傷ついて死にかけた人
E 家族という隣人
○夫婦さえ隣人にはなれない(アダムとエバの場合)
○親子さえ隣人にはなれない(アブラハムとイサクの場合)
○神抜きの人間関係は成立しない
F 隣人愛から兄弟愛へ
○私はあなたを愛せませんという告白から始まる
○兄弟姉妹とは相互の中におられる主によって仕え合うことができる人たち
12月7日 良きサマリヤ人のたとえ (イエスのたとえ話 30 )
ルカ10:25~37
「隣人になる」というのは、どういう意味や内容を指しているのでしょうか。当然、「ただその場に居合わせる」というだけでは足りないし、「必要な助けの手を差し伸べる」ことが出来たとしても、それだけではまだ十分ではなさそうです。では、いったいどの程度に条件を満たせば人は人の「隣人になった」と言えるのでしょう。ゴッホの絵画などでも有名な「良きサマリヤ人のたとえ」と呼ばれる記事からともに考えたいと思います。
いつものようにたとえが語られた背景を見ていきましょう。まず、律法の専門家がイエスを試そうとしてやってきたところから始まります。「先生、何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と律法の専門家はイエスに問いかけました。イエスはその問いには即答せずに、逆に質問を切り替えされました。「律法には何と書いてありますか」「あなたはそれをどう読んでいますか」彼は答えます。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛せよ。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよとあります」それは正解でした。ですから、「それを実行しなさい」とイエスは言われたのでした。しかし、そこで終わらずに、この律法の専門家は、自分を正当化しようとして、「わたしの隣人とは、だれのことですか」とイエスに質問しています。「自分を正しさを示そうとして」ということは、「自分を愛するように隣人を愛するべきだ」という正しい答えを知っている人が、その答えを知っているだけでなく、そのことを心がけて生活しているということを認められてもいいという強い自負心があったということです。しかし、この慇懃無礼でプライドの高い律法学者のしつこい質問がなければ、「良きサマリア人のたとえ」が語られなかったかも知れません。そう思うと、この人に御礼を言いたいような気分にもなります。主は常に人の愚かさを覆って余りある恵みをもって満たされる御方です。
しかし、イエスはこの律法学者の質問に直接答えてはおられません。「わたしの隣人はだれですか」という内容に対して、このたとえを語られたのです。 それは、エルサレムからエリコへくだる道で、追いはぎに襲われ傷ついたある人と三人の旅人が出会うという具体的な場面を提示して、「誰がその人の隣人になったのか」と三択で迫るという内容でした。
つまり、隣人を永遠のいのちを得るため、近づくための手段としてとらえていた律法学者に対して、イエスは「ある人」を目的として、自分がその隣人になるのだというものの見方の転換を迫られたのです。
このたとえのように、傷ついている人や困っている人を無償の愛で看護するのは、それ自体素晴らしいことです。その行為を否定しようがありません。しかし、この世のボランティアでも、教会内でのあらゆる奉仕でもそうですが、まず「中心は何か」ということです。自分が中心で自分が満たされたり、祝福されたりするためにそれを追求するのか、助ける相手やイエスと御方を中心に、物事を考え組み立てているかによって全くその意味や価値は変わってきます。
しかし、問題はその先です。イエスは「行って同じようにしなさい」と語られました。このイエスのチャレンジに文字通り答えようとすることが、実は大きな混乱を生んでいます。この読み違いの結果、世間一般のキリスト教に関するイメージのひとつとして、「キリスト教は良き隣人になろうと努力する宗教」というようなものがある気がします。この間違いを100%払拭しない限り、このたとえのみならず、みことばの全体を正しく理解できません。
そもそもこのたとえは、「どうすれば永遠のいのちが得られるか」という問いに対してなされたものです。傷ついた人を見すごした人たちは、祭司とレビ人です。当時の社会では、永遠のいのちに近そうな、庶民には難しい要求にも応えられそうな人たちです。その人たちが傷ついて死にそうな人を置き去りにしたのです。ところが、彼らが出来なかったことをやってのけた人がいました。それがサマリヤ人です。当時のユダヤ人にとっては、永遠のいのちには最も遠いと思われる軽蔑の対象でした。ですから彼らは、イエスの質問に対して「サマリヤ人です」とさえ口に出すことを嫌って、「その人に憐れみをかけてやった人」と言っています。(ルカ10:37)
傷ついた人を助けるどころか、傷ついた人を助けた人を認めることさえ出来ないのが彼らの現状だったわけで、その心の本質的な問題をつきつけられたわけです。
要するに、このたとえは決して「良きサマリヤ人にならって善行を積むことのすすめ」ではありません。「厳密な意味において人の隣人となれるのは、義人イエスだけであり、罪人は罪人の隣人にはなれないのだ」とその不可能を悟らせるためのものなのです。
あたかも善行を勧めているかのように正反対のメッセージを聴き取ってしまっている人が多いのも事実ですし、正しく読み取っているクリスチャン自身も永遠のいのちを得るためではなくても、「良きサマリヤ人のようでありたい」と願って生活しているのでよけいややこしくなっているのです。それは決して悪いことではなく、みなが隣人に対する無償の愛を心がければ世の中少しはましになるでしょう。
こうしたことをふまえた上で、「人は決して人の隣人になれない」ということを肝に銘じたいと思います。もう少し丁寧に言えば、「エデンの東においては、人は、神の贖いなしに、誰かの隣人になることはできない」ということです。同じ質問をした金持ちの役人も、「財産を貧しい人に与えよ」というチャレンジを与えられました。イエスは「欠けていることがひとつある」という言い方をされていますが、当然その「ひとつ」の意味は、文字通り「それさえ満たせば完璧」ということではありません。客観的に説明すれば、「自分は99出来ていて後の1つと思っているかも知れないが、実際には、神の基準を満たすようなことはほとんど何も出来ていない。仮にひとつぐらいは出来ているにしても、残っている99のうちの1つを教えてあげようか」ということなのです。イエスはこのような言い回しで、私たちの聞き方や心の動機を探ります。聞く側の誤解は、聞き方の悪さを暴露しているわけです。
結論は「人には出来ないが神には出来ないことはない」ということです。「頑張れば出来るから頑張ろう」ではなく、「頑張っても人には出来ないから神を信じなさい」ということなのです。このたとえの中で学ぶべきことは、サマリヤ人のように善いことをすべきだとか、祭司やレビ人たちのように悪い奴は駄目なんだということではありません。私たちは、良いことも悪いこともできずに、傷ついて死にかけている人だからです。
私は、新約聖書のたとえの中から罪や贖いについて考えるとき、しばしば、旧約聖書、とりわけ創世記に立ち戻ってその整合性についてお話しています。今回もアダムとエバ、そして、アブラハムとイサクの関係を思い出してもらえると、理解の助けになるでしょう。
神は最初の人アダムのふさわしい助け手として、言わば、理想的隣人としてエバを与えました。しかし、エバは神の戒めを破り、善悪の知識の実をとって食べ、さらにそれをアダムにも与えてしまいます。内助の功どころか、助け手としては最悪の選択をするわけです。その結果、アダムは神との契約を破ることになり、挙げ句の果てに、それを「肉からの肉、骨からの骨」と喜んだエバの責任にします。男と女の関係はたった一世代でボロボロになってしまったのです。アダムの意識の中でおこったことは、決定的なものでした。自分とエバとの切り離しです。アダムは罪を指摘された瞬間、エバとともにそれをともに負い克服しようとは考えませんでした。自分もとって食べたのに「エバが悪い」と言ったのです。これが神から離れた人間の姿です。エバはアダムの隣人とはなりえず、アダムもまたエバの隣人とはなり得ませんでした。つまり、あらゆる人間関係の中で、最も親密で深い間柄である夫婦でさえ、このように互いに隣人となることができないのです。これが罪人の現実だと聖書は教えています。まして、赤の他人どうしではどうでしょうか。理想的な隣人との関係を求めてもそれが歪んで崩れていくのは当然なのです。
ある人たちは、「親子の絆は夫婦より深い」とおっしゃるかもしれませんが、どのような親であっても子の隣人になれません。アブラハムにイサクが与えられたのは、夫婦が自力で子どもをつくる可能性を失ってからです。自分の愛情深さや、子育てのスキルに信頼を置いているなら、必ず子どもの現実に裏切られます。親として間違いなくつまずきます。大事なのは肉の力ではなく、神の約束なのです。
そして、紆余曲折を経て与えられ、愛情と信頼を育んできたイサクを捧げよというのが、究極の神の命令であり、それに従うことが礼拝でした。
イサクは自分の力や自分の何かで得たのではないことを、アブラハムは嫌というほど知り抜いていました。当然、神はアブラハムがそれを知っていることを知っておられます。しかし、それでもなお、「イサクを捧げなさい」と言われたのですから、その意味は極めて深いのです。私たちが本当に味わうべきものは、「神の祝福」でもなく、「神の約束の真実」でもなく、また「神の力」でもありません。ただ「神御自身」です。神がどのような御方なのかという御人格、神そのものに触れさせるために、私たちは訓練されます。その訓練の中で、「神こそすべてのすべてです」という告白をすることが、地上の礼拝の本質であるように思います。アブラハムがイサクを捧げて学んだことはそれです。
隣人としての子どもを愛する前に必要なことは、神を愛すること。親子の絆ではなく、神との絆が大事です。親子の絆がどうでもいいというのではありません。イサクを捧げたアブラハムから神はイサクを奪いませんでした。神とはそういう御方です。神が伝えたかったことは、「私はアブラハム以上にアブラハムを愛し、アブラハム以上にイサクを愛しているよ」という熱烈なメッセージだと思うのです。「私以上に君を大切に思う男なんて他にはいない」というミキハウスのCMがありますが、神がおられるわけです。
私は娘が大事です。もちろん、ふたりの息子も同じく大事です。彼らのことを常に気にかけ心配しています。しかし、神はそれ以上です。神は私たちに「私はそれ以上だ」と知らせたいのです。
それは、相手に一番大事だとわかっている子どもを差し出させることによってしか伝えられないほどの愛です。実に神はそのひとり子をお与えになったでしょう。本当にひとり子を十字架につけて裁かれたわけです。そのような愛です。
夫婦や親子や兄弟や親しい友人たちとは、「神抜きの関係」が成立するかのような錯覚を持ってしまいます。しかし、それは大きな間違いです。私たちは、最も親しい人たちを、実は最も愛せていないことが多いのです。たとえ、自分の都合のよいように愛せても、神が望んでおられるように愛してはいません。ここに大きな問題があります。ですから、信仰があるかのように見える人たち、教会の中で熱心に奉仕しているような人たちの家庭も、必ずしも幸せではないといったことが起こってしまうのです。
私たちが互いに隣人となるには、ただ救われるだけでは不十分です。キリストのよみがえりを得て、互いが仕え合う信仰が必要です。私の中におられるイエスにその人の隣人になっていただくこと、また兄弟姉妹の中で働かれるイエスに仕えていただくことです。ここにこそ真実な兄弟姉妹の交わりがあるのでしょう。これは口で言うほど簡単なことではありませんが、聖書を見る限り、少なくとも「私はあなたを愛します」ではなく、「あなたを愛せません」という告白から始まるはずです。自分はその人に何も出来ない、してあげられない。でも、主が私を通して、その人のために祈り、その人のために何かをなしてくださるとすれば、自分には出来そうもないことが出来るかも知れないというような、そんな感じではないでしょうか。そういうことが分かっている人の人間関係はきっと祝福され、豊かなつながりが自然に広がり深まっていくはずです。
みこころを行うものが、イエスの兄弟姉妹でありまた家族です。キリストにある兄弟姉妹だけが、本来的な意味で互いに隣人であり得るのです。クリスチャンだけが、相互の中に住んでおられる主によって仕え合うことができるからです。教会の中にそのような交わりがあるなら、地の塩、世の光としての役割はいっそう明瞭になることでしょう。
「隣人になる」というのは、どういう意味や内容を指しているのでしょうか。当然、「ただその場に居合わせる」というだけでは足りないし、「必要な助けの手を差し伸べる」ことが出来たとしても、それだけではまだ十分ではなさそうです。では、いったいどの程度に条件を満たせば人は人の「隣人になった」と言えるのでしょう。ゴッホの絵画などでも有名な「良きサマリヤ人のたとえ」と呼ばれる記事からともに考えたいと思います。
いつものようにたとえが語られた背景を見ていきましょう。まず、律法の専門家がイエスを試そうとしてやってきたところから始まります。「先生、何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と律法の専門家はイエスに問いかけました。イエスはその問いには即答せずに、逆に質問を切り替えされました。「律法には何と書いてありますか」「あなたはそれをどう読んでいますか」彼は答えます。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛せよ。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよとあります」それは正解でした。ですから、「それを実行しなさい」とイエスは言われたのでした。しかし、そこで終わらずに、この律法の専門家は、自分を正当化しようとして、「わたしの隣人とは、だれのことですか」とイエスに質問しています。「自分を正しさを示そうとして」ということは、「自分を愛するように隣人を愛するべきだ」という正しい答えを知っている人が、その答えを知っているだけでなく、そのことを心がけて生活しているということを認められてもいいという強い自負心があったということです。しかし、この慇懃無礼でプライドの高い律法学者のしつこい質問がなければ、「良きサマリア人のたとえ」が語られなかったかも知れません。そう思うと、この人に御礼を言いたいような気分にもなります。主は常に人の愚かさを覆って余りある恵みをもって満たされる御方です。
しかし、イエスはこの律法学者の質問に直接答えてはおられません。「わたしの隣人はだれですか」という内容に対して、このたとえを語られたのです。 それは、エルサレムからエリコへくだる道で、追いはぎに襲われ傷ついたある人と三人の旅人が出会うという具体的な場面を提示して、「誰がその人の隣人になったのか」と三択で迫るという内容でした。
つまり、隣人を永遠のいのちを得るため、近づくための手段としてとらえていた律法学者に対して、イエスは「ある人」を目的として、自分がその隣人になるのだというものの見方の転換を迫られたのです。
このたとえのように、傷ついている人や困っている人を無償の愛で看護するのは、それ自体素晴らしいことです。その行為を否定しようがありません。しかし、この世のボランティアでも、教会内でのあらゆる奉仕でもそうですが、まず「中心は何か」ということです。自分が中心で自分が満たされたり、祝福されたりするためにそれを追求するのか、助ける相手やイエスと御方を中心に、物事を考え組み立てているかによって全くその意味や価値は変わってきます。
しかし、問題はその先です。イエスは「行って同じようにしなさい」と語られました。このイエスのチャレンジに文字通り答えようとすることが、実は大きな混乱を生んでいます。この読み違いの結果、世間一般のキリスト教に関するイメージのひとつとして、「キリスト教は良き隣人になろうと努力する宗教」というようなものがある気がします。この間違いを100%払拭しない限り、このたとえのみならず、みことばの全体を正しく理解できません。
そもそもこのたとえは、「どうすれば永遠のいのちが得られるか」という問いに対してなされたものです。傷ついた人を見すごした人たちは、祭司とレビ人です。当時の社会では、永遠のいのちに近そうな、庶民には難しい要求にも応えられそうな人たちです。その人たちが傷ついて死にそうな人を置き去りにしたのです。ところが、彼らが出来なかったことをやってのけた人がいました。それがサマリヤ人です。当時のユダヤ人にとっては、永遠のいのちには最も遠いと思われる軽蔑の対象でした。ですから彼らは、イエスの質問に対して「サマリヤ人です」とさえ口に出すことを嫌って、「その人に憐れみをかけてやった人」と言っています。(ルカ10:37)
傷ついた人を助けるどころか、傷ついた人を助けた人を認めることさえ出来ないのが彼らの現状だったわけで、その心の本質的な問題をつきつけられたわけです。
要するに、このたとえは決して「良きサマリヤ人にならって善行を積むことのすすめ」ではありません。「厳密な意味において人の隣人となれるのは、義人イエスだけであり、罪人は罪人の隣人にはなれないのだ」とその不可能を悟らせるためのものなのです。
あたかも善行を勧めているかのように正反対のメッセージを聴き取ってしまっている人が多いのも事実ですし、正しく読み取っているクリスチャン自身も永遠のいのちを得るためではなくても、「良きサマリヤ人のようでありたい」と願って生活しているのでよけいややこしくなっているのです。それは決して悪いことではなく、みなが隣人に対する無償の愛を心がければ世の中少しはましになるでしょう。
こうしたことをふまえた上で、「人は決して人の隣人になれない」ということを肝に銘じたいと思います。もう少し丁寧に言えば、「エデンの東においては、人は、神の贖いなしに、誰かの隣人になることはできない」ということです。同じ質問をした金持ちの役人も、「財産を貧しい人に与えよ」というチャレンジを与えられました。イエスは「欠けていることがひとつある」という言い方をされていますが、当然その「ひとつ」の意味は、文字通り「それさえ満たせば完璧」ということではありません。客観的に説明すれば、「自分は99出来ていて後の1つと思っているかも知れないが、実際には、神の基準を満たすようなことはほとんど何も出来ていない。仮にひとつぐらいは出来ているにしても、残っている99のうちの1つを教えてあげようか」ということなのです。イエスはこのような言い回しで、私たちの聞き方や心の動機を探ります。聞く側の誤解は、聞き方の悪さを暴露しているわけです。
結論は「人には出来ないが神には出来ないことはない」ということです。「頑張れば出来るから頑張ろう」ではなく、「頑張っても人には出来ないから神を信じなさい」ということなのです。このたとえの中で学ぶべきことは、サマリヤ人のように善いことをすべきだとか、祭司やレビ人たちのように悪い奴は駄目なんだということではありません。私たちは、良いことも悪いこともできずに、傷ついて死にかけている人だからです。
私は、新約聖書のたとえの中から罪や贖いについて考えるとき、しばしば、旧約聖書、とりわけ創世記に立ち戻ってその整合性についてお話しています。今回もアダムとエバ、そして、アブラハムとイサクの関係を思い出してもらえると、理解の助けになるでしょう。
神は最初の人アダムのふさわしい助け手として、言わば、理想的隣人としてエバを与えました。しかし、エバは神の戒めを破り、善悪の知識の実をとって食べ、さらにそれをアダムにも与えてしまいます。内助の功どころか、助け手としては最悪の選択をするわけです。その結果、アダムは神との契約を破ることになり、挙げ句の果てに、それを「肉からの肉、骨からの骨」と喜んだエバの責任にします。男と女の関係はたった一世代でボロボロになってしまったのです。アダムの意識の中でおこったことは、決定的なものでした。自分とエバとの切り離しです。アダムは罪を指摘された瞬間、エバとともにそれをともに負い克服しようとは考えませんでした。自分もとって食べたのに「エバが悪い」と言ったのです。これが神から離れた人間の姿です。エバはアダムの隣人とはなりえず、アダムもまたエバの隣人とはなり得ませんでした。つまり、あらゆる人間関係の中で、最も親密で深い間柄である夫婦でさえ、このように互いに隣人となることができないのです。これが罪人の現実だと聖書は教えています。まして、赤の他人どうしではどうでしょうか。理想的な隣人との関係を求めてもそれが歪んで崩れていくのは当然なのです。
ある人たちは、「親子の絆は夫婦より深い」とおっしゃるかもしれませんが、どのような親であっても子の隣人になれません。アブラハムにイサクが与えられたのは、夫婦が自力で子どもをつくる可能性を失ってからです。自分の愛情深さや、子育てのスキルに信頼を置いているなら、必ず子どもの現実に裏切られます。親として間違いなくつまずきます。大事なのは肉の力ではなく、神の約束なのです。
そして、紆余曲折を経て与えられ、愛情と信頼を育んできたイサクを捧げよというのが、究極の神の命令であり、それに従うことが礼拝でした。
イサクは自分の力や自分の何かで得たのではないことを、アブラハムは嫌というほど知り抜いていました。当然、神はアブラハムがそれを知っていることを知っておられます。しかし、それでもなお、「イサクを捧げなさい」と言われたのですから、その意味は極めて深いのです。私たちが本当に味わうべきものは、「神の祝福」でもなく、「神の約束の真実」でもなく、また「神の力」でもありません。ただ「神御自身」です。神がどのような御方なのかという御人格、神そのものに触れさせるために、私たちは訓練されます。その訓練の中で、「神こそすべてのすべてです」という告白をすることが、地上の礼拝の本質であるように思います。アブラハムがイサクを捧げて学んだことはそれです。
隣人としての子どもを愛する前に必要なことは、神を愛すること。親子の絆ではなく、神との絆が大事です。親子の絆がどうでもいいというのではありません。イサクを捧げたアブラハムから神はイサクを奪いませんでした。神とはそういう御方です。神が伝えたかったことは、「私はアブラハム以上にアブラハムを愛し、アブラハム以上にイサクを愛しているよ」という熱烈なメッセージだと思うのです。「私以上に君を大切に思う男なんて他にはいない」というミキハウスのCMがありますが、神がおられるわけです。
私は娘が大事です。もちろん、ふたりの息子も同じく大事です。彼らのことを常に気にかけ心配しています。しかし、神はそれ以上です。神は私たちに「私はそれ以上だ」と知らせたいのです。
それは、相手に一番大事だとわかっている子どもを差し出させることによってしか伝えられないほどの愛です。実に神はそのひとり子をお与えになったでしょう。本当にひとり子を十字架につけて裁かれたわけです。そのような愛です。
夫婦や親子や兄弟や親しい友人たちとは、「神抜きの関係」が成立するかのような錯覚を持ってしまいます。しかし、それは大きな間違いです。私たちは、最も親しい人たちを、実は最も愛せていないことが多いのです。たとえ、自分の都合のよいように愛せても、神が望んでおられるように愛してはいません。ここに大きな問題があります。ですから、信仰があるかのように見える人たち、教会の中で熱心に奉仕しているような人たちの家庭も、必ずしも幸せではないといったことが起こってしまうのです。
私たちが互いに隣人となるには、ただ救われるだけでは不十分です。キリストのよみがえりを得て、互いが仕え合う信仰が必要です。私の中におられるイエスにその人の隣人になっていただくこと、また兄弟姉妹の中で働かれるイエスに仕えていただくことです。ここにこそ真実な兄弟姉妹の交わりがあるのでしょう。これは口で言うほど簡単なことではありませんが、聖書を見る限り、少なくとも「私はあなたを愛します」ではなく、「あなたを愛せません」という告白から始まるはずです。自分はその人に何も出来ない、してあげられない。でも、主が私を通して、その人のために祈り、その人のために何かをなしてくださるとすれば、自分には出来そうもないことが出来るかも知れないというような、そんな感じではないでしょうか。そういうことが分かっている人の人間関係はきっと祝福され、豊かなつながりが自然に広がり深まっていくはずです。
みこころを行うものが、イエスの兄弟姉妹でありまた家族です。キリストにある兄弟姉妹だけが、本来的な意味で互いに隣人であり得るのです。クリスチャンだけが、相互の中に住んでおられる主によって仕え合うことができるからです。教会の中にそのような交わりがあるなら、地の塩、世の光としての役割はいっそう明瞭になることでしょう。
2008年11月27日木曜日
11月16日 メッセージのポイント
やもめと裁判官のたとえ(イエスのたとえ話29)
ルカ18:1~8
A 「祈り」は人の価値観や考え方よりも深いところに組み込まれてい る
○神のいのちから離れた霊的仮死状態では「本来の祈り」は機能しえ ない
○宗教は「祈りの名残り」を歪んだかたちで経験させる
B 「祈り」は新しいいのちの呼吸
○イエスはまことのぶどうの木であり私たちはその枝(ヨハネ15:5)
○絶えず祈ることとは・・・・祈りの質を変えていくこと
「喜ぶこと」「感謝すること」とともに(Ⅰテサロニケ5:16~18)
C 祈りは神とのつながりや関係性の証
○私たちはどう祈ればよいのかわからない(ローマ8:26~28)
○関係が深ければ奥の間へ向かっていく(マタイ6:6)
○同じことばを繰り返すのは関係が悪い証(マタイ6:7)
○すべてのことが「神より発し」「神によって成り」「神に至る」
(ローマ10:17)
○信仰は聞くことに始まる(ローマ11:36)
D アブラハムのとりなしの真実
○まず主がアブラハムに御自身の計画を示された(創世記18:17)
○アブラハムは主の前に立っていた(同22)
○アブラハムは主に近づいて申し上げた(同23)
○アブラハムは「親族助けて欲しい」とは祈らなかった(同25)
○アブラハムは自分がちり灰にすぎないことを知っていた(同27)
E なぜ不正な裁判官とやもめなのか
○神を恐れず人を人とも思わない裁判官
・・・・「人格は最低」しかし「法律を遵守する義務がある」
→失望しなくてよい十分な理由が神様の人格にある
○やもめ・・・・社会的地位が低く相手にする必要感が乏しい
→祈る側の資質や熱心さは祈りが聞かれることと無関係
F イエスの祈りの本質
○目に見える現実と関係のない感謝(ヨハネ6:11)
○祈りは祈る側ではなく祈りに答える側にかかっているという告白
(ヨハネ11:42)
ルカ18:1~8
A 「祈り」は人の価値観や考え方よりも深いところに組み込まれてい る
○神のいのちから離れた霊的仮死状態では「本来の祈り」は機能しえ ない
○宗教は「祈りの名残り」を歪んだかたちで経験させる
B 「祈り」は新しいいのちの呼吸
○イエスはまことのぶどうの木であり私たちはその枝(ヨハネ15:5)
○絶えず祈ることとは・・・・祈りの質を変えていくこと
「喜ぶこと」「感謝すること」とともに(Ⅰテサロニケ5:16~18)
C 祈りは神とのつながりや関係性の証
○私たちはどう祈ればよいのかわからない(ローマ8:26~28)
○関係が深ければ奥の間へ向かっていく(マタイ6:6)
○同じことばを繰り返すのは関係が悪い証(マタイ6:7)
○すべてのことが「神より発し」「神によって成り」「神に至る」
(ローマ10:17)
○信仰は聞くことに始まる(ローマ11:36)
D アブラハムのとりなしの真実
○まず主がアブラハムに御自身の計画を示された(創世記18:17)
○アブラハムは主の前に立っていた(同22)
○アブラハムは主に近づいて申し上げた(同23)
○アブラハムは「親族助けて欲しい」とは祈らなかった(同25)
○アブラハムは自分がちり灰にすぎないことを知っていた(同27)
E なぜ不正な裁判官とやもめなのか
○神を恐れず人を人とも思わない裁判官
・・・・「人格は最低」しかし「法律を遵守する義務がある」
→失望しなくてよい十分な理由が神様の人格にある
○やもめ・・・・社会的地位が低く相手にする必要感が乏しい
→祈る側の資質や熱心さは祈りが聞かれることと無関係
F イエスの祈りの本質
○目に見える現実と関係のない感謝(ヨハネ6:11)
○祈りは祈る側ではなく祈りに答える側にかかっているという告白
(ヨハネ11:42)
11月16日 やもめと裁判官のたとえ (イエスのたとえ話 28 )
ルカ18:1~8
クリスチャンにとって祈りとはどういうものでしょうか。人は誰でも、何かしらに向かって祈る心や祈った経験を持っています。特に死者のために黙祷したり、初詣に行ったりするのは、日本人にとってはごく自然なことで、不思議なことに、そのために目を閉じたり、合掌したりすることは宗教的行為と見なされません。また、大きな勝負や運命を決めるような結果を待つときには、無神論者だって何ものかに向かって祈る想いで強く念じるものです。それは、人の価値観や考え方よりもさらに深いところに「祈り」というものが組み込まれているからなのです。
しかし、人は神のいのちから離れ、霊的には仮死状態にありますから、生まれながらの人間においては、本来の「祈り」は機能しません。言わば「祈りの名残」を歪んだかたちで経験しているわけです。もの言わぬ偶像に祈るのであれば、それが人間中心の身勝手なものになるのはやむを得ませんが、新生したクリスチャンがこのような宗教的な祈りにとどまっているとしたら、それは大きな問題です。では、真の神への祈りは、偶像への祈りとどこがどんな風に違うのでしょうか。そのような祈りに関する本質的な問いに今日のたとえは、答えてくれるでしょう。
祈るためには、新しく生まれることがまず第一段階です。祈りとは、その新しいいのちの活動だと理解することが必要です。
祈りは呼吸のようなものです。これは、クリスチャンが新しいいのちによって生きているなら、たとえ無意識であっても実は祈っているのです。私たちはたとえ心が主から離れているときであっても主のいのちとつながっています。イエスさまはぶどうの木で私たちは枝です。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたは鳥です」とは言われませんでした。鳥は枝を選んで意識してそこに留まっています。今空を飛んでいるのか、地面を歩いているのか、枝にとまっているのか、自覚がない鳥などいません。そして、鳥は別の場所へ飛んで行くこともあるでしょうが、枝は努力しなくてもぶどうの木とつながっています。枝は折れなければ何の努力もせずに、ひとつの運命、ひとつのいのちに結ばれています。枝がつながってさえいれば、ぶどうの木の栄養は枝のすみずみにまで行き渡ります。鳥とは違って、枝にはぶどうの木の一部であるという意識さえないほど常にひとつなのです。
その一体感は、胎内の赤ん坊と母親がへその緒で結ばれているようなものです。へその緒は出産後も、母と子の絆を現すものとして桐の箱などに入れてとっておかれます。信仰とは無関係な世界にあっても、「いのちにおいて一体であったこと」が、愛情のベースになるのです。
「絶えず祈れ」(Ⅰテサロニケ5:17)というみことばは、祈りの本質が「祈るという行為」そのものにはないことを裏付けています。祈りが「ある種の姿勢を保つこと」や、絶えず「ことばを発声すること」を要求するのであれば、絶えず祈ることなど物理的に出来ません。眠っている時間を除くとしても、起きている時間をすべて祈っている人など見たことがありません。それでは、パウロは何を言っているのでしょうか。「出来るだけ長時間、熱心に祈ることを心がけよ」という意味のメッセージを詩的表現で語りかけているのでしょうか。私は違うと思います。眠っている時間も無意識の時間帯も、全く別のことをしているときも、すべて含めて「絶えず祈れ」だと思うのです。声に出したり、ひざまずいたりして祈っていなくても、「祈りはいつもつながっているのだ」ということを意識することによって、「祈りの質を変えていくこと」を提案しているのではないでしょうか。
「絶えず祈れ」は、「いつも喜んでいなさい」と「すべての事について感謝しなさい」ということばに挟まれています。つまり、普通人の感覚では「それは出来ない」現実を認識しながらも、信仰による神のまなざしで評価することによって、祈ること、喜ぶこと、感謝することが、あらゆる場合に可能になり、そのことこそ神が私たちに望んでおられることなのだとパウロは言っているわけです。(Ⅰテサロニケ5:16~18)
意識された祈りに関しても、それは特別なものではなく、本来は親子や恋人同士の会話のように、きわめて親しみ深い自然なものです。その親しさや自然さが大事です。つまり祈りというのは「つながりや関係性の証」だからです。かといって、それはことばづかいのなれなれしさや、神へのおそれのないふてぶてしい態度を指しているのではありません。もし「いのちのよるつながり」や「愛による関係性」が祈りのベースにあるなら、祈りのことばはキリスト教用語をちりばめた形式的なものではなく、もっとしなやかで自由なものになるはずです。
折にふれ、私たちは真剣に祈ります。それは深呼吸のようなものです。呼吸を正しくコントロールすることによって、心を安定させたり、体のさまざまな能力を最大限に引き出したりすることができます。家族や親しい友人とでも、改まって深い内容の真剣な話をすることありますよね。逆に、口を開くたびに、言葉遣いは丁寧でも、自分の悩みや要求を一方的に話す人とは、良い関係にあるとは言えません。
何をどんなふうに祈っているかが大事なのです。本人の熱心さなんて祈りの本質とは何の関係もないのです。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊御自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26~28)とパウロは言っています。私たちはどう祈ったらよいかわからないのです。御霊のとりなしがない祈りなど天には届きません。このみことばの前後を読めば、パウロの主張は明らかです。祈りは、「目に見えない不確かなものに希望を抱かせる力」であり、「自分の願いではなく神の計画に委ねることによる平安をもらすもの」だということです。これらのことを理解した上でこのたとえを見ていきましょう。確かに「失望しないで祈り続けることは大事なこと」です。そのことを促すためにこのたとえは書かれています。しかし、それは失望しないことの辛抱強さや熱意を賞賛するためではありません。それは、偽善者の祈りです。主は誰にも知られず、主にだけ知っていただくように奥まった部屋で祈るように言われました。(マタイ6:5~6)親しい関係は往来から奥まった部屋へと向かわせるのです。
また、同じことばをただ繰り返す祈りは何の意味もありません。「また、祈るとき、異邦人のように同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」(マタイ6:7)これらのみことばとの調和の中でしか、たとえの正しい理解はできません。この「やもめと裁判官のたとえ」も、ただ単に「しつこく祈れば、その念が通じる」とおっしゃっているのではないことは明らかです。
祈りの起点が人ではないのです。小さな感謝や願いやとりなしにおいても、みこころにかなう祈りは、神が起点であり、みことばに支えられています。あらゆる祈りの場面において人がその起点となることは一切ないのです。祈りは神から始まる霊の循環だと思います。
「信仰は聞くことから始まる」(ローマ10:1718)のです。「すべてのことは神より発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)のです。このふたつの聖句は極めて重要です。私たちが祈りのことばを発し、神の気づかぬことを申告するなどということがあるはずがないでしょう。こういう馬鹿げたことを考えるのは人の宗教です。熱心な長時間の祈りが、こういう常識的な感覚を麻痺させるのであれば、そういう習慣はやめた方がずっとましです。祈りは、「みこころならかなえられる」のです。そして、「みこころははみことばに基づいている」のです。私たちが地上の訴えを天に響かせるのではありません。全地に響きわたった神の声、地の果てまで届いた神のみことばに霊をチューニングするのが祈りです。(ローマ10:18)
アブラハムがソドムとゴモラのためにとりなしたのは、神が御自身の計画を彼に示されたからです。(創世記18:17)彼は祈りにおいて、主の前に立ち、
(同22)そして、近づきました。(同23)アブラハムは、自分の親族を助けてくれと祈りましたか。違います。「全世界をさばく御方は公義を行うべきだ」(同25)と祈ったのです。そして、神は公義を行われました。アブラハムが祈っても祈らなくても神は公義を行われます。しかし、アブラハムが祈ったことには、極めて重要な意味と価値があるのです。
私たちの単なる思いつきやわがままな願いが、神様を動かすといいうのはあり得ないことです。私たちは自由に祈ってよいにですが、その祈りは神さまのみこころに沿ったものでなければなりません。もし私たちがみこころにかなう願いをするなら、100パーセントそれは成就すると書いてあります。しかしみこころにかなわぬことを勝手に願うだけなら、それはどれだけ熱心に祈ろうが100パーセント成就しないはずです。しかし、それは「それじゃあ人間の願いや努力はむなしいのだ」という運命論や決定論につながるものではありません。そうではなく、神が私たちのために建てられた計画は、私たちの思いを越えたすばらしいものであり、私たちを愛する愛と、キリストの贖いの上に成り立っているものです。神から出た祈りはその事実に気づかせるのです。祈りの戦士や祈りの勇者などがいて、神の栄光を横取りするような話は神から出たものではありません。主の祈りの一番はじめは何ですか。「御名があがめられますように」です。アブラハムは祈りにおいて、主に近づき迫れば迫るほど、自分がちりや灰にすぎないことを学びました。(同27)
では、今日のたとえをさらに細かくみていきましょう。このたとえの中で神様は何にたとえられていますか。「神を恐れず人を人とも思わない裁判官」です。ある側面を明確に印象づけるためにイエスはいつも父を妙な者にたとえられます。ここにはふたつの重要な情報があります。一つはこの人は「神を恐れず、人を人とも思わない」ということです。もう一つは、「裁判官」だということです。
まず、この男は人格的には最低です。しかし、法律に従って裁かなければなりません。そういうことです。では神様はどういう方ですか。人を人とも思わぬ御方でないことは明らかです。しかし、こんな最低の人間性の裁判官であっても、「うるさくて面倒だ」という理由で裁きをするのなら、憐れみに満ちた父が正しい裁きをいたずらに遅らせたりすることはないということなのです。つまり、最も重要なポイントは、こちらが失望しないで祈り続けることではなく、「失望しなくてよい十分な理由が神様の人格にあるのだ」ということです。神様はどういう御方かを思い起こさせるために、わざわざ「人を人とも思わぬ裁判官」が登場するのです。
同じことをくどくど祈ることには何の効力もありません。それはかえって神様を侮る行為です。神様は私たちが祈る前から私たちの必要を知っておられます。祈ることによって神様が知らない情報を伝えているのだと思っているとしたら、それはとんでもない思い違いです。逆に、本当の祈りは、祈ることによって神様が私たちに何を望んでおられるかを教えるものなのです。結論は何ですか。「神は速やかに裁かれる」ということです。これは誰がどれだけ祈ろうが祈ろうまいが裁かれるべきものは裁かれるのです。
祈る側の人間が、金持ちでも役人でもなく「やもめ」であるというのも重要なポイントです。当時のユダヤにおけるやもめの社会的地位はきわめて低いものだったと想像できます。「祈る側の熱心さも、祈る人の資質も、祈りが聞かれることとは関係がない」ということです。祈りに答える側の神の憐れみ深さと公明正大さにすべてがかかっているわけです。だからこそ、誰が祈っても正しく応答してくださるのであり、そこに希望が持てるのです。
「長く熱心に祈ったもの勝ち」などというおかしな価値観を持ち込むと、怪しげな宗教が出来上がってしまいます。これこそ、人の宗教です。エリヤとバアルの預言者たちの対決を思い出してください。長く激しく熱狂して祈るのは、偶像信者のものすごくわかりやすい特徴です。このやもめの祈った内容は、「相手を裁いて、わたしを守ってください。」というものです。一見わがままな内容でえこひいきを要求しているかのようにも思えますが、不当な扱いを受けていることを訴えているのであって、正しい基準が適用されれば、問題は解決されるというものです。彼女は正しい裁きを求めているのです。このやもめの状態が当時のユダヤ人の歴史的現実と重なります。こうしたことを十分理解した上で、このたとえを自分の信仰の中に生かしてください。
このことばを心にとめましょう。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰が見られるだろうか。」(ルカ18:8)このみことばどおりであるとしたら、イエスさまが来られるときには、地上に本当の信仰を見いだすことが難しい状況が生まれているはずです。もしかしたらおかしなキリスト教は広がっているかもしれません。しかし、みことばを見る限り本当の信仰はあまり期待できないのではないでしょうか。
このたとえの中でやもめの熱心さは賞賛されているでしょうか。答えはNOです。「まこと神様は人を人とも思わぬような裁判官とは違う」とおっしゃっているのです。しつこいやもめは、単に夜昼神を呼び求めている選民のたとえにすぎません。別にそのような祈りが良いのだと褒められているわけではないということをしっかり理解してください。だからこそ、「果たして地上に信仰が見られるだろうか。」とおっしゃっているのです。私たちに必要なのは、熱心としつこさではなく神への信頼と平安です。
イエスの祈りを見てみます。5つのパンと2匹の魚で大勢の人を養われたとき、イエスはどのタイミングで何と祈られましたか、具体的にことばは書いていませんが、イエスは「パンをとり、感謝をささげてから、座っている人に座っている人に分けてやられた」と(ヨハネ6:11)なっています。小さい魚も同じようにして分けられました。弟子たちが「何になりましょう」とつぶやいたそのわずかなパンと魚のために、イエスは父に感謝されたのです。「足りない、もっとくれ」としつこく祈ってパンが降ってきたのですか。違いますね。また、ラザロをよみがえらされたとき、「わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださること知っておりました」(ヨハネ11:42)と告白しておられます。しつこく祈ってパワーを獲得したのではありません。これらの記事にから「祈りは、祈る側の熱心ではなく、祈りに答える御方にかかっている」というメッセージを読み取ることができます。そして、これこそが今日のたとえのポイントでもあります。
もう一度整理します。「失望しないで祈り続ければいつか神様は聞いてくださる」と言っているのではありません。そうではなくて、「今すぐ結果は見えていなくても、神様は信頼に足る御方だから、失望しないで、いつも希望を告白し、すでにそれを得たかのように感謝しなさい」と言われているのです。
どうでしょうか。御霊の導きに従って、聖書の他の箇所との調和を考えて読んでいかないと、イエスさまの人格とはかけ離れたとんでもない教えが生まれるメカニズムがおわかりいただけましたか。 ただ主に信頼し、そして祈りましょう。
クリスチャンにとって祈りとはどういうものでしょうか。人は誰でも、何かしらに向かって祈る心や祈った経験を持っています。特に死者のために黙祷したり、初詣に行ったりするのは、日本人にとってはごく自然なことで、不思議なことに、そのために目を閉じたり、合掌したりすることは宗教的行為と見なされません。また、大きな勝負や運命を決めるような結果を待つときには、無神論者だって何ものかに向かって祈る想いで強く念じるものです。それは、人の価値観や考え方よりもさらに深いところに「祈り」というものが組み込まれているからなのです。
しかし、人は神のいのちから離れ、霊的には仮死状態にありますから、生まれながらの人間においては、本来の「祈り」は機能しません。言わば「祈りの名残」を歪んだかたちで経験しているわけです。もの言わぬ偶像に祈るのであれば、それが人間中心の身勝手なものになるのはやむを得ませんが、新生したクリスチャンがこのような宗教的な祈りにとどまっているとしたら、それは大きな問題です。では、真の神への祈りは、偶像への祈りとどこがどんな風に違うのでしょうか。そのような祈りに関する本質的な問いに今日のたとえは、答えてくれるでしょう。
祈るためには、新しく生まれることがまず第一段階です。祈りとは、その新しいいのちの活動だと理解することが必要です。
祈りは呼吸のようなものです。これは、クリスチャンが新しいいのちによって生きているなら、たとえ無意識であっても実は祈っているのです。私たちはたとえ心が主から離れているときであっても主のいのちとつながっています。イエスさまはぶどうの木で私たちは枝です。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたは鳥です」とは言われませんでした。鳥は枝を選んで意識してそこに留まっています。今空を飛んでいるのか、地面を歩いているのか、枝にとまっているのか、自覚がない鳥などいません。そして、鳥は別の場所へ飛んで行くこともあるでしょうが、枝は努力しなくてもぶどうの木とつながっています。枝は折れなければ何の努力もせずに、ひとつの運命、ひとつのいのちに結ばれています。枝がつながってさえいれば、ぶどうの木の栄養は枝のすみずみにまで行き渡ります。鳥とは違って、枝にはぶどうの木の一部であるという意識さえないほど常にひとつなのです。
その一体感は、胎内の赤ん坊と母親がへその緒で結ばれているようなものです。へその緒は出産後も、母と子の絆を現すものとして桐の箱などに入れてとっておかれます。信仰とは無関係な世界にあっても、「いのちにおいて一体であったこと」が、愛情のベースになるのです。
「絶えず祈れ」(Ⅰテサロニケ5:17)というみことばは、祈りの本質が「祈るという行為」そのものにはないことを裏付けています。祈りが「ある種の姿勢を保つこと」や、絶えず「ことばを発声すること」を要求するのであれば、絶えず祈ることなど物理的に出来ません。眠っている時間を除くとしても、起きている時間をすべて祈っている人など見たことがありません。それでは、パウロは何を言っているのでしょうか。「出来るだけ長時間、熱心に祈ることを心がけよ」という意味のメッセージを詩的表現で語りかけているのでしょうか。私は違うと思います。眠っている時間も無意識の時間帯も、全く別のことをしているときも、すべて含めて「絶えず祈れ」だと思うのです。声に出したり、ひざまずいたりして祈っていなくても、「祈りはいつもつながっているのだ」ということを意識することによって、「祈りの質を変えていくこと」を提案しているのではないでしょうか。
「絶えず祈れ」は、「いつも喜んでいなさい」と「すべての事について感謝しなさい」ということばに挟まれています。つまり、普通人の感覚では「それは出来ない」現実を認識しながらも、信仰による神のまなざしで評価することによって、祈ること、喜ぶこと、感謝することが、あらゆる場合に可能になり、そのことこそ神が私たちに望んでおられることなのだとパウロは言っているわけです。(Ⅰテサロニケ5:16~18)
意識された祈りに関しても、それは特別なものではなく、本来は親子や恋人同士の会話のように、きわめて親しみ深い自然なものです。その親しさや自然さが大事です。つまり祈りというのは「つながりや関係性の証」だからです。かといって、それはことばづかいのなれなれしさや、神へのおそれのないふてぶてしい態度を指しているのではありません。もし「いのちのよるつながり」や「愛による関係性」が祈りのベースにあるなら、祈りのことばはキリスト教用語をちりばめた形式的なものではなく、もっとしなやかで自由なものになるはずです。
折にふれ、私たちは真剣に祈ります。それは深呼吸のようなものです。呼吸を正しくコントロールすることによって、心を安定させたり、体のさまざまな能力を最大限に引き出したりすることができます。家族や親しい友人とでも、改まって深い内容の真剣な話をすることありますよね。逆に、口を開くたびに、言葉遣いは丁寧でも、自分の悩みや要求を一方的に話す人とは、良い関係にあるとは言えません。
何をどんなふうに祈っているかが大事なのです。本人の熱心さなんて祈りの本質とは何の関係もないのです。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊御自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26~28)とパウロは言っています。私たちはどう祈ったらよいかわからないのです。御霊のとりなしがない祈りなど天には届きません。このみことばの前後を読めば、パウロの主張は明らかです。祈りは、「目に見えない不確かなものに希望を抱かせる力」であり、「自分の願いではなく神の計画に委ねることによる平安をもらすもの」だということです。これらのことを理解した上でこのたとえを見ていきましょう。確かに「失望しないで祈り続けることは大事なこと」です。そのことを促すためにこのたとえは書かれています。しかし、それは失望しないことの辛抱強さや熱意を賞賛するためではありません。それは、偽善者の祈りです。主は誰にも知られず、主にだけ知っていただくように奥まった部屋で祈るように言われました。(マタイ6:5~6)親しい関係は往来から奥まった部屋へと向かわせるのです。
また、同じことばをただ繰り返す祈りは何の意味もありません。「また、祈るとき、異邦人のように同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」(マタイ6:7)これらのみことばとの調和の中でしか、たとえの正しい理解はできません。この「やもめと裁判官のたとえ」も、ただ単に「しつこく祈れば、その念が通じる」とおっしゃっているのではないことは明らかです。
祈りの起点が人ではないのです。小さな感謝や願いやとりなしにおいても、みこころにかなう祈りは、神が起点であり、みことばに支えられています。あらゆる祈りの場面において人がその起点となることは一切ないのです。祈りは神から始まる霊の循環だと思います。
「信仰は聞くことから始まる」(ローマ10:1718)のです。「すべてのことは神より発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)のです。このふたつの聖句は極めて重要です。私たちが祈りのことばを発し、神の気づかぬことを申告するなどということがあるはずがないでしょう。こういう馬鹿げたことを考えるのは人の宗教です。熱心な長時間の祈りが、こういう常識的な感覚を麻痺させるのであれば、そういう習慣はやめた方がずっとましです。祈りは、「みこころならかなえられる」のです。そして、「みこころははみことばに基づいている」のです。私たちが地上の訴えを天に響かせるのではありません。全地に響きわたった神の声、地の果てまで届いた神のみことばに霊をチューニングするのが祈りです。(ローマ10:18)
アブラハムがソドムとゴモラのためにとりなしたのは、神が御自身の計画を彼に示されたからです。(創世記18:17)彼は祈りにおいて、主の前に立ち、
(同22)そして、近づきました。(同23)アブラハムは、自分の親族を助けてくれと祈りましたか。違います。「全世界をさばく御方は公義を行うべきだ」(同25)と祈ったのです。そして、神は公義を行われました。アブラハムが祈っても祈らなくても神は公義を行われます。しかし、アブラハムが祈ったことには、極めて重要な意味と価値があるのです。
私たちの単なる思いつきやわがままな願いが、神様を動かすといいうのはあり得ないことです。私たちは自由に祈ってよいにですが、その祈りは神さまのみこころに沿ったものでなければなりません。もし私たちがみこころにかなう願いをするなら、100パーセントそれは成就すると書いてあります。しかしみこころにかなわぬことを勝手に願うだけなら、それはどれだけ熱心に祈ろうが100パーセント成就しないはずです。しかし、それは「それじゃあ人間の願いや努力はむなしいのだ」という運命論や決定論につながるものではありません。そうではなく、神が私たちのために建てられた計画は、私たちの思いを越えたすばらしいものであり、私たちを愛する愛と、キリストの贖いの上に成り立っているものです。神から出た祈りはその事実に気づかせるのです。祈りの戦士や祈りの勇者などがいて、神の栄光を横取りするような話は神から出たものではありません。主の祈りの一番はじめは何ですか。「御名があがめられますように」です。アブラハムは祈りにおいて、主に近づき迫れば迫るほど、自分がちりや灰にすぎないことを学びました。(同27)
では、今日のたとえをさらに細かくみていきましょう。このたとえの中で神様は何にたとえられていますか。「神を恐れず人を人とも思わない裁判官」です。ある側面を明確に印象づけるためにイエスはいつも父を妙な者にたとえられます。ここにはふたつの重要な情報があります。一つはこの人は「神を恐れず、人を人とも思わない」ということです。もう一つは、「裁判官」だということです。
まず、この男は人格的には最低です。しかし、法律に従って裁かなければなりません。そういうことです。では神様はどういう方ですか。人を人とも思わぬ御方でないことは明らかです。しかし、こんな最低の人間性の裁判官であっても、「うるさくて面倒だ」という理由で裁きをするのなら、憐れみに満ちた父が正しい裁きをいたずらに遅らせたりすることはないということなのです。つまり、最も重要なポイントは、こちらが失望しないで祈り続けることではなく、「失望しなくてよい十分な理由が神様の人格にあるのだ」ということです。神様はどういう御方かを思い起こさせるために、わざわざ「人を人とも思わぬ裁判官」が登場するのです。
同じことをくどくど祈ることには何の効力もありません。それはかえって神様を侮る行為です。神様は私たちが祈る前から私たちの必要を知っておられます。祈ることによって神様が知らない情報を伝えているのだと思っているとしたら、それはとんでもない思い違いです。逆に、本当の祈りは、祈ることによって神様が私たちに何を望んでおられるかを教えるものなのです。結論は何ですか。「神は速やかに裁かれる」ということです。これは誰がどれだけ祈ろうが祈ろうまいが裁かれるべきものは裁かれるのです。
祈る側の人間が、金持ちでも役人でもなく「やもめ」であるというのも重要なポイントです。当時のユダヤにおけるやもめの社会的地位はきわめて低いものだったと想像できます。「祈る側の熱心さも、祈る人の資質も、祈りが聞かれることとは関係がない」ということです。祈りに答える側の神の憐れみ深さと公明正大さにすべてがかかっているわけです。だからこそ、誰が祈っても正しく応答してくださるのであり、そこに希望が持てるのです。
「長く熱心に祈ったもの勝ち」などというおかしな価値観を持ち込むと、怪しげな宗教が出来上がってしまいます。これこそ、人の宗教です。エリヤとバアルの預言者たちの対決を思い出してください。長く激しく熱狂して祈るのは、偶像信者のものすごくわかりやすい特徴です。このやもめの祈った内容は、「相手を裁いて、わたしを守ってください。」というものです。一見わがままな内容でえこひいきを要求しているかのようにも思えますが、不当な扱いを受けていることを訴えているのであって、正しい基準が適用されれば、問題は解決されるというものです。彼女は正しい裁きを求めているのです。このやもめの状態が当時のユダヤ人の歴史的現実と重なります。こうしたことを十分理解した上で、このたとえを自分の信仰の中に生かしてください。
このことばを心にとめましょう。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰が見られるだろうか。」(ルカ18:8)このみことばどおりであるとしたら、イエスさまが来られるときには、地上に本当の信仰を見いだすことが難しい状況が生まれているはずです。もしかしたらおかしなキリスト教は広がっているかもしれません。しかし、みことばを見る限り本当の信仰はあまり期待できないのではないでしょうか。
このたとえの中でやもめの熱心さは賞賛されているでしょうか。答えはNOです。「まこと神様は人を人とも思わぬような裁判官とは違う」とおっしゃっているのです。しつこいやもめは、単に夜昼神を呼び求めている選民のたとえにすぎません。別にそのような祈りが良いのだと褒められているわけではないということをしっかり理解してください。だからこそ、「果たして地上に信仰が見られるだろうか。」とおっしゃっているのです。私たちに必要なのは、熱心としつこさではなく神への信頼と平安です。
イエスの祈りを見てみます。5つのパンと2匹の魚で大勢の人を養われたとき、イエスはどのタイミングで何と祈られましたか、具体的にことばは書いていませんが、イエスは「パンをとり、感謝をささげてから、座っている人に座っている人に分けてやられた」と(ヨハネ6:11)なっています。小さい魚も同じようにして分けられました。弟子たちが「何になりましょう」とつぶやいたそのわずかなパンと魚のために、イエスは父に感謝されたのです。「足りない、もっとくれ」としつこく祈ってパンが降ってきたのですか。違いますね。また、ラザロをよみがえらされたとき、「わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださること知っておりました」(ヨハネ11:42)と告白しておられます。しつこく祈ってパワーを獲得したのではありません。これらの記事にから「祈りは、祈る側の熱心ではなく、祈りに答える御方にかかっている」というメッセージを読み取ることができます。そして、これこそが今日のたとえのポイントでもあります。
もう一度整理します。「失望しないで祈り続ければいつか神様は聞いてくださる」と言っているのではありません。そうではなくて、「今すぐ結果は見えていなくても、神様は信頼に足る御方だから、失望しないで、いつも希望を告白し、すでにそれを得たかのように感謝しなさい」と言われているのです。
どうでしょうか。御霊の導きに従って、聖書の他の箇所との調和を考えて読んでいかないと、イエスさまの人格とはかけ離れたとんでもない教えが生まれるメカニズムがおわかりいただけましたか。 ただ主に信頼し、そして祈りましょう。
11月9日「ミナのたとえ」に関するお詫びと訂正
300デナリの香油を5回注いでも1500デナリです。1タラント(=6000デナリ)あれば、マリヤさんは20回注げるのでした。単純な計算を間違って嘘を申しておりました。
みことばの本質に関わることではありませんが、お詫びして訂正いたします。他にも間違いがあれば遠慮なく教えてください。ご意見、ご感想もお待ちしています。
salt@kcn.jp
みことばの本質に関わることではありませんが、お詫びして訂正いたします。他にも間違いがあれば遠慮なく教えてください。ご意見、ご感想もお待ちしています。
salt@kcn.jp
11月2日 メッセージのポイント
11月2日 邪悪な時代(イエスのたとえ話27)
マタイ22:1~14
A 邪悪な時代はその邪悪さを自覚しない
○イエスに酷評されたユダヤ教指導者は尊敬の的(マタイ23:2, 7)
○知識の深さ、厳格なライフスタイル(ガラテヤ2:11~14)
B イエスの律法学者・パリサイ人批判のポイント
○彼らが何を主張したかではない(マタイ23;3)
○偽りの父から始まる偽りの系譜(ヨハネ8:31~44)
○指導者が最も大きな救いの妨げとなる(マタイ21:42, 23:15)
C 神のことばを聞いてそれを守る人たちの幸い
○幸いなのは神のことばを聞いてそれを守る人たち(ルカ11:28)
○個人が特定の団体への所属をもって承認することなどない
→家族や肉親でさえひとくくりとは見なさない(マタイ12:46~50)
D 邪悪な時代が求める「しるし」と「不思議」
○イエスは「型」や「影」ではなく「本質」であり「実体」
○イエスを見たものは父を見た(ヨハネ14:7,9)
○日々みことばを味わうことがイエスと出会うこと(ヨハネ6:63)
○ヨナやソロモンに劣ると見えた人間イエス(マタイ12:41~42)
E 変貌の山で3人の弟子が見たもの
○神の栄光を完全に現すのは誰か(ヘブル1:3)
○神と人との仲介者は誰か(Ⅰテモテ2:4)
○神が満足するのは誰か(マタイ17:5)
F 邪悪な時代に必要なことは
○みことばを聞いて逆らうといっそう悪くなる(マタイ12:43~45)
○人に惑わされないこと(マタイ24:4)
→大事なのは新しい創造(ガラテヤ6:15)
○悔い改めが求められている(マルコ1:1~2,15)
→悔い改めが福音の根を支える(使徒17:26~31)
○バプテスマのヨハネに「しるし」も「不思議」もない
マタイ22:1~14
A 邪悪な時代はその邪悪さを自覚しない
○イエスに酷評されたユダヤ教指導者は尊敬の的(マタイ23:2, 7)
○知識の深さ、厳格なライフスタイル(ガラテヤ2:11~14)
B イエスの律法学者・パリサイ人批判のポイント
○彼らが何を主張したかではない(マタイ23;3)
○偽りの父から始まる偽りの系譜(ヨハネ8:31~44)
○指導者が最も大きな救いの妨げとなる(マタイ21:42, 23:15)
C 神のことばを聞いてそれを守る人たちの幸い
○幸いなのは神のことばを聞いてそれを守る人たち(ルカ11:28)
○個人が特定の団体への所属をもって承認することなどない
→家族や肉親でさえひとくくりとは見なさない(マタイ12:46~50)
D 邪悪な時代が求める「しるし」と「不思議」
○イエスは「型」や「影」ではなく「本質」であり「実体」
○イエスを見たものは父を見た(ヨハネ14:7,9)
○日々みことばを味わうことがイエスと出会うこと(ヨハネ6:63)
○ヨナやソロモンに劣ると見えた人間イエス(マタイ12:41~42)
E 変貌の山で3人の弟子が見たもの
○神の栄光を完全に現すのは誰か(ヘブル1:3)
○神と人との仲介者は誰か(Ⅰテモテ2:4)
○神が満足するのは誰か(マタイ17:5)
F 邪悪な時代に必要なことは
○みことばを聞いて逆らうといっそう悪くなる(マタイ12:43~45)
○人に惑わされないこと(マタイ24:4)
→大事なのは新しい創造(ガラテヤ6:15)
○悔い改めが求められている(マルコ1:1~2,15)
→悔い改めが福音の根を支える(使徒17:26~31)
○バプテスマのヨハネに「しるし」も「不思議」もない
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