ダビデとアブシャロム(ダビデの生涯と詩編⑪)
Ⅱサムエル16~19章
A 王の食卓の実際
○異母兄弟家庭
○恵まれた退屈がアムノンを生む
○「義」と「愛」・「恵」と「まこと」の両立は難しい
○「立場」と「状態」を埋める信仰
○信仰を培うための刈り取り
B ダビデの葛藤
○自分の罪を赦せない→他者に対する曖昧な態度や偽の寛容さ
○家族をおさめることの難しさ→近い人間関係ほど難しい
C ヨアブ
○有能な軍人(Ⅰ歴代誌11:6)
○ダビデの命令を守り、躊躇せずウリヤを殺す
○「自分も明日はウリヤのように殺されるかも知れない」という不安
○アブシャロムに対する共感(アサエルを殺されたアブネルへの憎しみ)
○ダビデとアブシャロムとの和解をとりもつ→アブシャロムへの乗り換えを図る
D アフィトフェル
○有能な議官(Ⅱサムエル15:12)(Ⅱサムエル16:23)
○知恵に満ちた進言(Ⅱサムエル16:21)は、預言を成就させる
(Ⅱサムエル12:11~12)
○アブシャロムがアフィトフェルの進言を退けて、
滅びを招く(Ⅱサムエル17:1~3)が、
これはダビデの祈りの成就(Ⅱサムエル15:31)であり、
神のみこころ(Ⅱサムエル17:14)
○詩編38編に見られるダビデの態度と運命の明暗を分けた鍵
○アフィトフェルは、イエスを裏切ったユダの型
E アブシャロムの最期
○長所やプライドがつまずきとなる(Ⅱサムエル18:9)
○ダビデの悲しみ(Ⅱサムエル18:33~19:1)に見る
イエスを裁く御父の心(マタイ27:4~5)
2009年11月15日日曜日
11月15日 ダビデとアブシャロム (ダビデの生涯と詩篇 ⑪)
それぞれに違う母親から生まれた子どもどうしが、お互いにどのような感情をもって過ごしていたのかは、非常に興味深いものがあります。父親はダビデですが、母親は違うわけです。これは子どもの成長や発達にとっては非常に不健全です。ダビデにしても、特別に気にいった妻の子が一番可愛かったのかも知れないし、長男に愛情の偏りがあったのかも知れません。
子どもたちの日常の暮らしを思い浮かべてみてください。何しろ王の食卓につながる子どもたちです。飢えることもないし、様々な必要に事欠くことなどあり得ないのですから、ただ生きることにエネルギーを奪われる庶民よりも、人間関係の葛藤は深くなるのです。考えてもみてください。だいたい長男のアムノンにしても、日々やつれていくのが人目にわかるほど、かなわぬ恋に熱中して、しかもろくでもない助言をそのまま聞き入れて、仮病を使って寝こんでいられるくらい暇なんですね。要するに、人生の多くの問題というのは、神の祝福の中心を抜き取った周辺の御利益の部分に、そのきっかけがあるのです。
ダビデの長男はアムノンです。アブシャロムは3男です。(Ⅰ歴代誌3:1~9)3男が、腹違いの長男を殺した背景には、当初はアブシャロムの思惑にはなかったかも知れない意味合いが含まれてしまうのです。
ダビデとアブシャロムの確執は、アブシャロムが兄弟アムノンを殺した頃から、始まったようです。ダビデはアブシャロムに対する「敵意」を持っていたと書かれています。(Ⅱサムエル14:1)この「敵意」という表現から、ダビデとアブシャロムの気持ちや関係性を考えてみたいと思います。
アブシャロムは、妹タマルを陵辱したアムノンをどうしても赦すことが出来ませんでした。アブシャロムのアムノンに対する憎しみや殺意は、日に日に募らせていったというよりは、タマルの一件の直後にあったものだと書かれています。ダビデは、そんなアブシャロムの気持ちを全く理解出来ないことはなかったと思いますが、それでも「殺す」という選択をするとは予想しなかったでしょう。何しろタマルもアムノンも、そしてアブシャロムも、3人とも大切なダビデの子どもなのですから、「どちらがどれだけ悪いから、ああして、こうして」というような整理はなかなかつかないのです。
「義」と「愛」が両立すること、「恵み」と「まこと」がひとつになるということは、人には到底出来ないことだし、その理想がどんなものであるのかということさえわかりません。それは人の想像を遥かに超えているのです。ダビデとダビデの子どもたちの通った道を見れば、ひとたび罪を犯してしまうと、それは簡単に元には戻らないことがわかります。ひとつの過ちが連鎖して、雪だるま式に大きな不幸を生みます。罪の最終的な結果は死であり、それぞれの選択にふさわしい具体的な刈り取りが待っています。
それは、神の御前に罪の清算がついていることとは別の次元で展開していくのです。言うまでもなく、ダビデは罪が赦されなかったのでないし、信仰がなかったのでもありません。「霊」の中で処理されていることも、「魂」はそう簡単に受け入れられません。「目に見えない世界」で完了していている事柄も、「目に見える世界」では個々の具体的な解決に追われ続けます。ですから、人の心には残された葛藤があり、圧倒的な勝利を確信しながらも、片方ではボロボロになって涙を流すということが、時として起こってしまうのです。「立場」と「状態」には、大きな隔たりがあります。これを埋めるのが信仰です。
ダビデが父親として十分なリーダーシップを発揮できなかった原因を考えてみましょう。イスラエルという国を立派に治めていたダビデですが、家族を治めることに成功していたとは言えません。どちらが本当のダビデなのかというと、この家族の混乱こそがダビデという人の本質を表しています。子どもたちの連鎖する罪のそもそもの発端は、バテ・シェバに対して自分が起こしてしまったあの事件であることは明らかです。
勿論、ダビデは、ナタンが宣言したとおり、自分の犯した罪は即座に主に赦されたことを疑わなかったでしょう。その恐れと感謝は詩編の中に綴られているとおりです。それでもなお、子どもたちが次々に引き起こす目の前の具体的な問題に対しては、自分のことを棚上げして戒めることが出来なかったのです。
おそらく、ダビデの心の中では、いろんな苦しい気持ちがゴチャ混ぜになっていたと思います。タマルへの不憫さも、アムノンへの怒りもあったでしょう。あれこれの思いは去来するものの、それらの感情はすべて「子どもたちへの申し訳ない気持ち」に飲まれてしまい、その結果、子どもたちではなく、自分を責めてしまうという悪循環に陥ったのです。自分の罪を赦せない気持ちは、他者に対する曖昧な態度や偽の寛容さとして現れるものなのです。
アブシャロムに対して抱いていたダビデの敵意を見抜いたのも、アムノンに対するアブシャロムの当初から殺意と2年後の計画を見通していた人物がいます。ヨアブというダビデの側近です。ヨアブはエブス人との戦いにおいて、軍団長になった有能な軍人です。(Ⅰ歴代誌11:6)この時の描写を見ても、野心に溢れる抜け目のない人物像が浮かびます。ダビデがバテ・シェバとの姦通を誤魔化そうとしたときも、ヨアブは、ダビデの命令通り、全く躊躇することなくウリヤを殺しています。ダビデの真意を確かめずに勇士ウリヤを殺したことが立派なのか愚かなのか、そこは議論がわかれるところですし、実際その時のヨアブの認識や感情を読み取ることは難しいです。
しかし、このことは言えます。命令には黙って服従したヨアブですが、「自分も明日はウリヤのように殺されるかも知れない」という不安だけは確実に芽生えたに違いないということです。この不安感をきっかけにダビデに対する信頼や尊敬を失ったのかも知れません。ヨアブはある時点でダビデを見限り、若くて有能なアブシャロムに乗り換えようとした可能性があります。おそらくヨアブとアブシャロムとは心情的に結びつく要素があったからでしょう。ヨアブはアサエルを殺された報いにアブネルを殺したことを覚えておられるでしょうか。ダビデの気持ちはわからなくても、妹を殺されたアブシャロムの憎しみには共感出来たのです。
ヨアブは、アムノンを殺して潜伏中だったアブシャロムをゲシェムからエルサレムへ呼び寄せようと努めます。ダビデと和解できるように、テコアの知恵のある女を使ってダビデを説得するのです。ダビデは、それがヨアブの入れ知恵であることを見破りますが、結果的にはその要求を受け入れ、アブシャロムがエルサレムに戻ることを許します。それでも、ダビデはなかなかアブシャロムに会おうとはしません。これでは何の為にエルサレムに戻ったのかわからないと怒ったアブシャロムは、今度はヨアブを利用して、無理矢理ダビデとの面会の機会を作ります。そこでダビデはアブシャロムに口づけし和解するのですが、それはかたちだけのものでした。この対面はただの親子の和解ではありません。一国を治める王と王子の対面です。この和解は王位継承者としてアブシャロムを認めるかどうかにつながる意味を持っています。アブシャロムはダビデと会うことができました。しかし、アブシャロムは、ダビデに対する悔い改めも感謝もなく、愛や憐れみを求めたわけでもありませんでした。アブシャロムは、この王であり父であるダビデとの会見によって、絶望を確かにします。ダビデとの本質的な和解はなく、王位が自分に継承されることはないと感じ取ったアブシャロムは、やがて周到な準備の後にヘブロンで旗揚げし、謀反を起こします。一方でヨアブは、エルサレムに帰れるように計らった自分に恩義を感じることなく、さらにダビデとの会見を暴力的に求めてきたアブシャロムに対して苛立ったはずです。そんなわけで、ヨアブはアブシャロムとダビデとの間で振り子のように揺れながら、結局アブシャロムの側にはつきませんでした。
もうひとりのキーマンであるアヒトフェルをめぐっても、ダビデとアブシャロムの名案がくっきり分かれてしまいます。アヒトフェルは、ダビデの議官をしていた人でした(Ⅱサムエル15:12)そのアヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担します。その情報は、エルサレムから落ち、オリーブ山の坂をはだしで、泣きながら登るダビデのもとのもたらされました。ダビデはそのとき、「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31)と祈ります。
ダビデがそのように祈ったのは、アヒトフェルが極めて聡明な人物だったからでした。「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた」(Ⅱサムエル16:23)と説明されています。三国志の諸葛孔明みたいなものでしょうか。
その知恵に満ちた助言の一例が記されています。アブシャロムがエルサレムに入った時、アヒトフェルは「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにおはいりください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたにくみする者はみな、勇気を出すでしょう」(Ⅱサムエル16:21)と助言しています。これは道徳的ないかがなものかと思いますが、非常に効果的な作戦ではありました。当時は敗者の王の妻を、新しい支配者が奪うということがありました。それは支配者の交代とその権勢を強くに示すことになります。アブシャロム軍は「勝てば官軍」イスラエルの正規軍となるいわけです。アブシャロムにつき従う者たちにも、どこかにダビデに対する複雑な思いやうしろめたさを感じる者がいたとしても、そうした感情を一気に払拭する名案だったわけです。アヒトフェルは、戦の布陣を組んだり、戦法を授けるだけでなく、心理を読み取った人心掌握に長けた数々の作戦を立てて、ダビデを支えて来たのだと思われます。
実はこの出来事は、人の営みとしてはアフィトフェルの知恵がもたらした作戦であり、アブシャロムが合意して実行されたものですが、霊的に見れば、ダビデの姦淫の罪に対する刈り取りであって、すでに預言者ナタンによって宣言されていたことでありました。「主はこう仰せられる。・・・あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。」(Ⅱサムエル12:11~12)これは、極めて厳粛なことです。
そして、アヒトフェルは、ダビデ討伐の作戦をアブシャロムに進言します。「私に一万二千人を選ばせてください。私は、今夜、ダビデのあとを追って出発し、彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな穏やかになるでしょう」(Ⅱサムエル17:1~3)
ポイントは、まず「時は今」、次に「敵は王ひとり」ということです。狙いはダビデひとり。ダビデがいなければ敵兵もアブシャロムの配下で戦力になるので、無意味に殺したり傷つけないほうがいいのです。非常に賢明な作戦です。ところが、この素晴らしい作戦をアブシャロムは退けます。フシャイは「アブシャロム自身が出陣し、全軍をもって壊滅すべきこと」を進言します。それは少しでも時間を稼いでダビデを遠くに逃がし、ダビデの得意とする野戦に持ち込むためでした。(Ⅱサムエル17:8~14) これも、アブシャロムが自分の意思で選んで決定したことですが、霊的には「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31)とダビデが祈ったからです。「これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった」(Ⅱサムエル17:14)と書かれています。この結果、ダビデはヨルダン川の東に逃げ、戦いにおいて勝利を得ます。アヒトフェルは、自分のはかりごとが行なわれないのを見て、首をくくって死にました。アヒトフェルは頭のいい人でしたから、自分の策を採用しないアブシャロム軍に勝機がないのを悟っていました。ダビデを裏切った限りはもはや彼の生きる道はないと思い詰めたのでしょう。ダビデを裏切ったアフィトフェルはイエスを裏切ったユダのモデルになっています。人はいくら知恵が豊かでも、その知恵によって己の身を救うことは出来ないのです。自分の力や策に頼ったアブシャロムと、自分の罪を隠さず、自分の可能性に絶望し、ただ主の憐れみを願ったダビデの明暗が分かれます。同時にダビデは、この神のお取り扱いの中で、アフィトフェルの裏切りに深く傷つきながらもイエスの地上での苦しみを先行体験し、彼のうるわしさを学ぶことを許されました。(詩編38:5~12)同じように経験する悲しみや苦しみであっても、アブシャロムやアフィトフェルのそれとダビデが味わったものとは、何と質が異なっていることでしょう。神の恵みのもとに服するものには、それがどんな苦しみであれ、一切に無駄がありません。神がそれに価値を与えるからです。
ダビデと長男アブシャロムは心通わせることがないまま、悲劇的な最期を迎えます。ダビデは全面対決の中でも敵軍の将であるアブシャロムの安全を願い、「アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ」と家臣たちに命じています。ところが、ヨアブはその命に背いて、無抵抗な姿になったアブシャロムを殺します。彼の自慢であった髪の毛が、人より頭一つ高かったその頭が、樫の木に引っかかったのです。何という皮肉でしょうか。人は神の前に、己のプライドによってつまずくことの象徴的な絵となっています。
ダビデは、アブシャロムの訃報を聞いて、尋常ならぬ悲しみを隠すことなく表します。(Ⅱサムエル18:33~Ⅱ19:4)このダビデの姿から考えさせられるのは、イエスを見捨てて、容赦なく裁いた父なる神の御心です。これほど敵意を剥き出しにして、自分に挑んでくる息子であったさえ、ダビデにとってはかけがえのない息子でした。ましてや、ご自身のすべてを反映し、完全に父のみこころに従って、従順に歩まれたイエスを、罪と見なして裁かねばならないその心中はいかばかりでしょうか。イエスが十字架にかかられたとき、全地は3時間真っ暗闇に包まれました。(マタイ27:45~46)この暗闇に秘められた神の愛を感じましょう。私たちはこの暗闇から生まれた光だということです。
子どもたちの日常の暮らしを思い浮かべてみてください。何しろ王の食卓につながる子どもたちです。飢えることもないし、様々な必要に事欠くことなどあり得ないのですから、ただ生きることにエネルギーを奪われる庶民よりも、人間関係の葛藤は深くなるのです。考えてもみてください。だいたい長男のアムノンにしても、日々やつれていくのが人目にわかるほど、かなわぬ恋に熱中して、しかもろくでもない助言をそのまま聞き入れて、仮病を使って寝こんでいられるくらい暇なんですね。要するに、人生の多くの問題というのは、神の祝福の中心を抜き取った周辺の御利益の部分に、そのきっかけがあるのです。
ダビデの長男はアムノンです。アブシャロムは3男です。(Ⅰ歴代誌3:1~9)3男が、腹違いの長男を殺した背景には、当初はアブシャロムの思惑にはなかったかも知れない意味合いが含まれてしまうのです。
ダビデとアブシャロムの確執は、アブシャロムが兄弟アムノンを殺した頃から、始まったようです。ダビデはアブシャロムに対する「敵意」を持っていたと書かれています。(Ⅱサムエル14:1)この「敵意」という表現から、ダビデとアブシャロムの気持ちや関係性を考えてみたいと思います。
アブシャロムは、妹タマルを陵辱したアムノンをどうしても赦すことが出来ませんでした。アブシャロムのアムノンに対する憎しみや殺意は、日に日に募らせていったというよりは、タマルの一件の直後にあったものだと書かれています。ダビデは、そんなアブシャロムの気持ちを全く理解出来ないことはなかったと思いますが、それでも「殺す」という選択をするとは予想しなかったでしょう。何しろタマルもアムノンも、そしてアブシャロムも、3人とも大切なダビデの子どもなのですから、「どちらがどれだけ悪いから、ああして、こうして」というような整理はなかなかつかないのです。
「義」と「愛」が両立すること、「恵み」と「まこと」がひとつになるということは、人には到底出来ないことだし、その理想がどんなものであるのかということさえわかりません。それは人の想像を遥かに超えているのです。ダビデとダビデの子どもたちの通った道を見れば、ひとたび罪を犯してしまうと、それは簡単に元には戻らないことがわかります。ひとつの過ちが連鎖して、雪だるま式に大きな不幸を生みます。罪の最終的な結果は死であり、それぞれの選択にふさわしい具体的な刈り取りが待っています。
それは、神の御前に罪の清算がついていることとは別の次元で展開していくのです。言うまでもなく、ダビデは罪が赦されなかったのでないし、信仰がなかったのでもありません。「霊」の中で処理されていることも、「魂」はそう簡単に受け入れられません。「目に見えない世界」で完了していている事柄も、「目に見える世界」では個々の具体的な解決に追われ続けます。ですから、人の心には残された葛藤があり、圧倒的な勝利を確信しながらも、片方ではボロボロになって涙を流すということが、時として起こってしまうのです。「立場」と「状態」には、大きな隔たりがあります。これを埋めるのが信仰です。
ダビデが父親として十分なリーダーシップを発揮できなかった原因を考えてみましょう。イスラエルという国を立派に治めていたダビデですが、家族を治めることに成功していたとは言えません。どちらが本当のダビデなのかというと、この家族の混乱こそがダビデという人の本質を表しています。子どもたちの連鎖する罪のそもそもの発端は、バテ・シェバに対して自分が起こしてしまったあの事件であることは明らかです。
勿論、ダビデは、ナタンが宣言したとおり、自分の犯した罪は即座に主に赦されたことを疑わなかったでしょう。その恐れと感謝は詩編の中に綴られているとおりです。それでもなお、子どもたちが次々に引き起こす目の前の具体的な問題に対しては、自分のことを棚上げして戒めることが出来なかったのです。
おそらく、ダビデの心の中では、いろんな苦しい気持ちがゴチャ混ぜになっていたと思います。タマルへの不憫さも、アムノンへの怒りもあったでしょう。あれこれの思いは去来するものの、それらの感情はすべて「子どもたちへの申し訳ない気持ち」に飲まれてしまい、その結果、子どもたちではなく、自分を責めてしまうという悪循環に陥ったのです。自分の罪を赦せない気持ちは、他者に対する曖昧な態度や偽の寛容さとして現れるものなのです。
アブシャロムに対して抱いていたダビデの敵意を見抜いたのも、アムノンに対するアブシャロムの当初から殺意と2年後の計画を見通していた人物がいます。ヨアブというダビデの側近です。ヨアブはエブス人との戦いにおいて、軍団長になった有能な軍人です。(Ⅰ歴代誌11:6)この時の描写を見ても、野心に溢れる抜け目のない人物像が浮かびます。ダビデがバテ・シェバとの姦通を誤魔化そうとしたときも、ヨアブは、ダビデの命令通り、全く躊躇することなくウリヤを殺しています。ダビデの真意を確かめずに勇士ウリヤを殺したことが立派なのか愚かなのか、そこは議論がわかれるところですし、実際その時のヨアブの認識や感情を読み取ることは難しいです。
しかし、このことは言えます。命令には黙って服従したヨアブですが、「自分も明日はウリヤのように殺されるかも知れない」という不安だけは確実に芽生えたに違いないということです。この不安感をきっかけにダビデに対する信頼や尊敬を失ったのかも知れません。ヨアブはある時点でダビデを見限り、若くて有能なアブシャロムに乗り換えようとした可能性があります。おそらくヨアブとアブシャロムとは心情的に結びつく要素があったからでしょう。ヨアブはアサエルを殺された報いにアブネルを殺したことを覚えておられるでしょうか。ダビデの気持ちはわからなくても、妹を殺されたアブシャロムの憎しみには共感出来たのです。
ヨアブは、アムノンを殺して潜伏中だったアブシャロムをゲシェムからエルサレムへ呼び寄せようと努めます。ダビデと和解できるように、テコアの知恵のある女を使ってダビデを説得するのです。ダビデは、それがヨアブの入れ知恵であることを見破りますが、結果的にはその要求を受け入れ、アブシャロムがエルサレムに戻ることを許します。それでも、ダビデはなかなかアブシャロムに会おうとはしません。これでは何の為にエルサレムに戻ったのかわからないと怒ったアブシャロムは、今度はヨアブを利用して、無理矢理ダビデとの面会の機会を作ります。そこでダビデはアブシャロムに口づけし和解するのですが、それはかたちだけのものでした。この対面はただの親子の和解ではありません。一国を治める王と王子の対面です。この和解は王位継承者としてアブシャロムを認めるかどうかにつながる意味を持っています。アブシャロムはダビデと会うことができました。しかし、アブシャロムは、ダビデに対する悔い改めも感謝もなく、愛や憐れみを求めたわけでもありませんでした。アブシャロムは、この王であり父であるダビデとの会見によって、絶望を確かにします。ダビデとの本質的な和解はなく、王位が自分に継承されることはないと感じ取ったアブシャロムは、やがて周到な準備の後にヘブロンで旗揚げし、謀反を起こします。一方でヨアブは、エルサレムに帰れるように計らった自分に恩義を感じることなく、さらにダビデとの会見を暴力的に求めてきたアブシャロムに対して苛立ったはずです。そんなわけで、ヨアブはアブシャロムとダビデとの間で振り子のように揺れながら、結局アブシャロムの側にはつきませんでした。
もうひとりのキーマンであるアヒトフェルをめぐっても、ダビデとアブシャロムの名案がくっきり分かれてしまいます。アヒトフェルは、ダビデの議官をしていた人でした(Ⅱサムエル15:12)そのアヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担します。その情報は、エルサレムから落ち、オリーブ山の坂をはだしで、泣きながら登るダビデのもとのもたらされました。ダビデはそのとき、「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31)と祈ります。
ダビデがそのように祈ったのは、アヒトフェルが極めて聡明な人物だったからでした。「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた」(Ⅱサムエル16:23)と説明されています。三国志の諸葛孔明みたいなものでしょうか。
その知恵に満ちた助言の一例が記されています。アブシャロムがエルサレムに入った時、アヒトフェルは「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにおはいりください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたにくみする者はみな、勇気を出すでしょう」(Ⅱサムエル16:21)と助言しています。これは道徳的ないかがなものかと思いますが、非常に効果的な作戦ではありました。当時は敗者の王の妻を、新しい支配者が奪うということがありました。それは支配者の交代とその権勢を強くに示すことになります。アブシャロム軍は「勝てば官軍」イスラエルの正規軍となるいわけです。アブシャロムにつき従う者たちにも、どこかにダビデに対する複雑な思いやうしろめたさを感じる者がいたとしても、そうした感情を一気に払拭する名案だったわけです。アヒトフェルは、戦の布陣を組んだり、戦法を授けるだけでなく、心理を読み取った人心掌握に長けた数々の作戦を立てて、ダビデを支えて来たのだと思われます。
実はこの出来事は、人の営みとしてはアフィトフェルの知恵がもたらした作戦であり、アブシャロムが合意して実行されたものですが、霊的に見れば、ダビデの姦淫の罪に対する刈り取りであって、すでに預言者ナタンによって宣言されていたことでありました。「主はこう仰せられる。・・・あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。」(Ⅱサムエル12:11~12)これは、極めて厳粛なことです。
そして、アヒトフェルは、ダビデ討伐の作戦をアブシャロムに進言します。「私に一万二千人を選ばせてください。私は、今夜、ダビデのあとを追って出発し、彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな穏やかになるでしょう」(Ⅱサムエル17:1~3)
ポイントは、まず「時は今」、次に「敵は王ひとり」ということです。狙いはダビデひとり。ダビデがいなければ敵兵もアブシャロムの配下で戦力になるので、無意味に殺したり傷つけないほうがいいのです。非常に賢明な作戦です。ところが、この素晴らしい作戦をアブシャロムは退けます。フシャイは「アブシャロム自身が出陣し、全軍をもって壊滅すべきこと」を進言します。それは少しでも時間を稼いでダビデを遠くに逃がし、ダビデの得意とする野戦に持ち込むためでした。(Ⅱサムエル17:8~14) これも、アブシャロムが自分の意思で選んで決定したことですが、霊的には「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31)とダビデが祈ったからです。「これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった」(Ⅱサムエル17:14)と書かれています。この結果、ダビデはヨルダン川の東に逃げ、戦いにおいて勝利を得ます。アヒトフェルは、自分のはかりごとが行なわれないのを見て、首をくくって死にました。アヒトフェルは頭のいい人でしたから、自分の策を採用しないアブシャロム軍に勝機がないのを悟っていました。ダビデを裏切った限りはもはや彼の生きる道はないと思い詰めたのでしょう。ダビデを裏切ったアフィトフェルはイエスを裏切ったユダのモデルになっています。人はいくら知恵が豊かでも、その知恵によって己の身を救うことは出来ないのです。自分の力や策に頼ったアブシャロムと、自分の罪を隠さず、自分の可能性に絶望し、ただ主の憐れみを願ったダビデの明暗が分かれます。同時にダビデは、この神のお取り扱いの中で、アフィトフェルの裏切りに深く傷つきながらもイエスの地上での苦しみを先行体験し、彼のうるわしさを学ぶことを許されました。(詩編38:5~12)同じように経験する悲しみや苦しみであっても、アブシャロムやアフィトフェルのそれとダビデが味わったものとは、何と質が異なっていることでしょう。神の恵みのもとに服するものには、それがどんな苦しみであれ、一切に無駄がありません。神がそれに価値を与えるからです。
ダビデと長男アブシャロムは心通わせることがないまま、悲劇的な最期を迎えます。ダビデは全面対決の中でも敵軍の将であるアブシャロムの安全を願い、「アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ」と家臣たちに命じています。ところが、ヨアブはその命に背いて、無抵抗な姿になったアブシャロムを殺します。彼の自慢であった髪の毛が、人より頭一つ高かったその頭が、樫の木に引っかかったのです。何という皮肉でしょうか。人は神の前に、己のプライドによってつまずくことの象徴的な絵となっています。
ダビデは、アブシャロムの訃報を聞いて、尋常ならぬ悲しみを隠すことなく表します。(Ⅱサムエル18:33~Ⅱ19:4)このダビデの姿から考えさせられるのは、イエスを見捨てて、容赦なく裁いた父なる神の御心です。これほど敵意を剥き出しにして、自分に挑んでくる息子であったさえ、ダビデにとってはかけがえのない息子でした。ましてや、ご自身のすべてを反映し、完全に父のみこころに従って、従順に歩まれたイエスを、罪と見なして裁かねばならないその心中はいかばかりでしょうか。イエスが十字架にかかられたとき、全地は3時間真っ暗闇に包まれました。(マタイ27:45~46)この暗闇に秘められた神の愛を感じましょう。私たちはこの暗闇から生まれた光だということです。
2009年11月1日日曜日
11月1日 聖書を構造的に読む ひねくれ者のための聖書講座⑧ 資料
「茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる」
夏目漱石「三四郎」
「Fair is foul and foul is fair」(いいは悪いで、悪いはいい)
シェイクスピア「マクベス」
【キアスマス】
文節や文章などをABBAのように反転させる方法をキアスマス(カイアズマス・交差配列法)と言います。ABの例は最小単位のものですが、このように言葉を反転させて繰り返しながら、読者に状況を効果的にイメージさせることに成功しています。さらにABCCBAというように、いくらでも複雑になります。さらに、真ん中に中心点になるXを置いてABCXCBAというかたちで定型をなす場合もあります。
これらが、詩の中で複数の行数で行われる時はどうなるでしょうか。例えば4行の詩があるとすると、1行と4行が、2行と3行がそれぞれ一対になります。反転したパラレルになるわけです。このカイアズマスがもたらす反転パラレルは短文だけでなく、行や幾つかのまとまった段落の対置関係にも使われたりします。奇数行や奇数のまとまりになって、一番真ん中の行やまとまりが、折り返し点になるような構成になるのです。
C.創世記7~8章 ノアの洪水
1.7日間洪水を待つ(7:4)
2.動物とともに箱船に入る(7:7~15)
3.箱船の扉を閉める(7:16)
4.40日の洪水(7:17)
5.箱船浮かび上がる(7:18)
6.山々まで覆う(7:19)
7.150日間増え続ける(7:24)
X.神はノアたちを心に留めておられた(8:1)
7.150日の終わりに減り始め(8:3)
6.山々の頂が現われ(8:5)
5.箱船アララテ山頂へ(8:7)
4.40日が過ぎ(8:6)
3.ノアは扉を開いた(8:6)
2.カラスと鳩を放った(8:7~8)
1.さらに7日間水が退くのを待つ(8:10)
D.ルカの福音書1章のバプテスマのヨハネの受胎告知
1.ふたりは神の前に正しく戒めと定めを落ち度無く行っていた(6)
2.エリザベツは子が無く、ふたりとも年をとっていた(7)
3.ザカリヤは、当番で祭司の務めをしていた(8)
4.くじを引いたところ、神殿にはいって香をたくことになった(9)
5.香をたく間、大勢の民は、外で祈っていた(10)
6.主の使いが現われ香壇の右に立った(11)
7.ザカリヤは不安を覚え恐怖に襲われた(12)
X.御使いの受胎告知(13~17)
7.ザカリヤは御使いを疑った(18)
6.ガブリエルが、主の命だと告げ、
信じないから、誕生まで話せなくすると言われる(19~20)
5.香ををたくザカリヤが暇取るので、人々は外で不思議がった(21)
4.聖所から出たザカリヤは、口がきけなくなった(22)
3.ザカリヤは、祭司の勤めの期間を終え、家に帰った(23)
2.エリザベツは身ごもり、5ヶ月引きこもっていた(24)
1.エリザベツは、主が自分に心をかけて下さったことを述べた(25)
E.ローマ2:6~11
1.神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えにな ります(6)
2.忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠 のいのちを与え(7)
×党派心(自己中心)を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒 りと憤りを下されるのです(8)
×患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうす べての者の上に下り(9)
2.栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての 者の上にあります(10)
1.神にはえこひいきなどはないからです(11)
夏目漱石「三四郎」
「Fair is foul and foul is fair」(いいは悪いで、悪いはいい)
シェイクスピア「マクベス」
【キアスマス】
文節や文章などをABBAのように反転させる方法をキアスマス(カイアズマス・交差配列法)と言います。ABの例は最小単位のものですが、このように言葉を反転させて繰り返しながら、読者に状況を効果的にイメージさせることに成功しています。さらにABCCBAというように、いくらでも複雑になります。さらに、真ん中に中心点になるXを置いてABCXCBAというかたちで定型をなす場合もあります。
これらが、詩の中で複数の行数で行われる時はどうなるでしょうか。例えば4行の詩があるとすると、1行と4行が、2行と3行がそれぞれ一対になります。反転したパラレルになるわけです。このカイアズマスがもたらす反転パラレルは短文だけでなく、行や幾つかのまとまった段落の対置関係にも使われたりします。奇数行や奇数のまとまりになって、一番真ん中の行やまとまりが、折り返し点になるような構成になるのです。
C.創世記7~8章 ノアの洪水
1.7日間洪水を待つ(7:4)
2.動物とともに箱船に入る(7:7~15)
3.箱船の扉を閉める(7:16)
4.40日の洪水(7:17)
5.箱船浮かび上がる(7:18)
6.山々まで覆う(7:19)
7.150日間増え続ける(7:24)
X.神はノアたちを心に留めておられた(8:1)
7.150日の終わりに減り始め(8:3)
6.山々の頂が現われ(8:5)
5.箱船アララテ山頂へ(8:7)
4.40日が過ぎ(8:6)
3.ノアは扉を開いた(8:6)
2.カラスと鳩を放った(8:7~8)
1.さらに7日間水が退くのを待つ(8:10)
D.ルカの福音書1章のバプテスマのヨハネの受胎告知
1.ふたりは神の前に正しく戒めと定めを落ち度無く行っていた(6)
2.エリザベツは子が無く、ふたりとも年をとっていた(7)
3.ザカリヤは、当番で祭司の務めをしていた(8)
4.くじを引いたところ、神殿にはいって香をたくことになった(9)
5.香をたく間、大勢の民は、外で祈っていた(10)
6.主の使いが現われ香壇の右に立った(11)
7.ザカリヤは不安を覚え恐怖に襲われた(12)
X.御使いの受胎告知(13~17)
7.ザカリヤは御使いを疑った(18)
6.ガブリエルが、主の命だと告げ、
信じないから、誕生まで話せなくすると言われる(19~20)
5.香ををたくザカリヤが暇取るので、人々は外で不思議がった(21)
4.聖所から出たザカリヤは、口がきけなくなった(22)
3.ザカリヤは、祭司の勤めの期間を終え、家に帰った(23)
2.エリザベツは身ごもり、5ヶ月引きこもっていた(24)
1.エリザベツは、主が自分に心をかけて下さったことを述べた(25)
E.ローマ2:6~11
1.神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えにな ります(6)
2.忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠 のいのちを与え(7)
×党派心(自己中心)を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒 りと憤りを下されるのです(8)
×患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうす べての者の上に下り(9)
2.栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての 者の上にあります(10)
1.神にはえこひいきなどはないからです(11)
11月1日 聖書を構造的に読む (ひねくれ者のための聖書講座 ⑧ )
私がメッセージをする上で心がけていることは、無理に聴き手の感情を駆り立てたり、語り手の感動を押しつけたりしないことです。そして、決して自ら抽出した徳目へと導かないことです。私は落ち着いて淡々と話します。たぶんイエスもそれほど激して語りはしなかったでしょう。私が話したことをよく聴いた上で、拒絶されることも、正反対の意見をお持ちになることも当然あるということは十分承知していますし、そういう判断を尊重する姿勢をもっています。しかも、この講座に関してはひねくれ者対象です。ひねくれ者なら、ひねくれ者の話なら納得するだろうなんて思い上がってはいません。尚、拒んで批判するのもご自由にという感じです。もちろん私は神に心動かされて語ります。しかし、機械的に「知識」や「教理」を伝えているわけではありません。価値の伝達が目標ではないのです。もっとそれ以前のことであり、さらにそれ以上のことです。
私が伝えたいことは、「聖書にはこう書いてあるでしょう。ほらね」ということです。そのことを通して、聖書が紹介する「イエスという御方」を明らかにすることです。「人の状態」や「正しい生き方」の話ではないのです。勿論そういう部分も含まれはするでしょうが、中心はイエスという御方です。ですから、「私だけがこういうことを読み取ったのだ」というような特別なことはひとつもありません。イエスという御方を紹介して、それぞれに甦られたイエスに出会っていただくからです。それで私の役割のほとんどはおしまいです。この御方はその個別の出会いによって信じる者にいのちを与えるのです。伝える者は、誰であれ特別な秘儀を語るのではありません。そんな秘められた教えなんてありません。さまざまなキリスト教がバラバラなことを語っていても、聖書は2千年以上変わらず、同じひとつのことを語っています。それは、「イエスはどういう御方で何をなさったか」ということです。「福音の奥義」という言い方もありますが、それはその気になれば誰もが味わうことの出来るところにあります。門を狭くしているのは、聴く者の態度の頑なさなのであって、初めから天国の定員が決まっていたり、偏差値が高かったりするわけではありません。もってまわった妙な手続きを加えたのは、人の好き勝手な言い伝えです。
もう一度繰り返します。ポイントは、「イエスがどういう御方で、何をなさったか」ということです。それをそのまま書かれているとおりに素直に読むことを進めています。そのように読めば、各自が主イエスと出会えます。
誰でも心の中に神の声を聞くチューナーを持っています。それを聖書は「霊」と呼んでいます。この「霊」を吹き込まれたので、「人」は「人」となったのです。ホモサピエンスとしての「人」は「ヒト」と片仮名表記されたりしますが、そのヒトは、遺伝子レベルでは確かに猿とほとんど変わりません。ヒトとチンパンジーの違いは、ウマとシマウマ程度の違いだと言います。しかし、人は神と永遠を思い、神と交わり、永遠に生きる可能性を持っています。ここに、人の特別な存在価値があるのです。
猿が道具を使うことはあっても、猿が何かを奉ったり拝んだりすることはありません。なぜでしょうか。人だけが神と交流するための「霊的な存在」だからです。しかし、その人の霊は不完全にしか機能していません。聖書が描写するのは、善悪の知識の実を取って食べ、神の園エデンを追放され、神との交流が断たれた人の姿です。それで人は、神や神ならぬ大いなるものとの交流を持とうとしてあがき苦しんでいるのです。そのような理由で、人は無数の宗教を生み、それらを拒否する進化論という宗教を生み、さらに聖書の教えさえ宗教に貶めてしまったのです。
「進化論と言えば、宗教ではなく科学じゃないか」と思われるかも知れませんが、私に言わせれば、最も悪質な宗教です。
簡単なひとつの例を思い浮かべて考えてみましょう。昆虫の世界です。蜂や蟻などの小さな虫でさえ、圧倒的な組織力をもって見事な役割分担で自分の任務を遂行しますが、そんな虫たちよりも遥かに優秀なはずの人間が産み出した世の中のシステムには、さまざまな人間関係の確執や権力の闘争があります。妬みや憎しみから巣の秩序が崩壊することはありません。蜂や蟻のようにはうまくいかないわけです。人が罪に墜ちたことによって非贓物全体が虚無に服したと書いてあるので、昆虫の世界もエデンの園の状態とは違うでしょう。しかし、人間以外の動植物の間には、人間のような「神との関係の歪み」は見られません。だから、イエスは「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われるのです。自然の動植物には人のような霊はありません。しかし、「ただ神に養われている」だけで、神との霊的な交流がなくても、それらは喜びに満ちて己のいのちを奏でているではないかというのが、イエスのメッセージです。さらに進化したものが、進化の劣位にあるものに学ぶことなどないはずです。ポイントは、「神との関係の歪み」です。この歪みが、自らを猿の末裔に貶めるのです。
神の園エデンを追放され、神なしでやりくりしてきた私たちですが、その神の第一としない勝手気ままなやりくりに問題があるのだと聖書は指摘します。
霊の機能不全を回復へと導くのは神のことばです。「わたしのことばは霊でありいのちである」とイエスは語られました。聖書のことばは、ただの道徳やイデオロギーではないのです。
さて、今日の講座では、神のことばである聖書の構造的な読み方のヒントについてお話したいと思います。言ってみれば、チューナーの使い方、ダイアルの合わせ方についての手引きです。妨害電波や、偽りの情報があまりにも多いですから、こういうメッセージもあってもいいのかなと思っています。
各自がしっかり調べ、よく吟味することが大事です。丸かじり、丸呑みはいけません。私の話も簡単に信じてはいけません。ちゃんと疑って、自分で調べてください。罪や救いなんてそう簡単にわかるはずのないことです。
みことばを読むことは、食べ物をよく咀嚼していただくことに喩えられています。食材にはそれにふさわしい食べ方があるということです。
動物は肉も野菜も丸かじりです。味付けも何もありません。しかし、人間はさまざまに工夫を凝らして調理します。どこの国でも、おいしい料理とは、素材の持ち味を十二分に生かしたものです。神は予め人が知恵と工夫によってさまざまな調理方法で食材を楽しめるようにすべてのものをお作りになったのです。これは物凄いことだと思いませんか。
聖書は、さまざまな文学の形式にのっとって書かれています。あるものは歴史、あるものは詩として書かれています。ひとつのことばの原語の意味にこだわることも大事ですが、全体の流れやつながりを見ることも大事です。
特にある部分を文脈に関係なく切り取って、自分の願いや主張を練り込んで語ったり、読んだりすることは、キリスト信仰の大いなる歪みの原因になっていると思います。こういう読み方によって膨れあがったものがキリスト教という宗教なのです。
魚や野菜にだって、そのさばき方や切り方には、その種類に従ったルールがあります。聖書の読み方もデタラメでは駄目で、理にかなった方法があるのです。つまり、それぞれの聖書記者の編集意図をとらえるということです。それぞれ独立した意図をもって、また別々の様式で書かれています。手紙は手紙、系図は系図、歴史は歴史、詩は詩として表現されています。そして同時に、聖書の他の箇所との整合性、全体を貫く、構造物の真柱である「イエスとはどのような御方で、何をなさったか」というテーマとの関連から読み解く必要があります。例えば、手紙であれば「いつ」「誰が」「誰に」「どこで」「何のために」書いたのかということです。それが、個人にあてたものか、教会にあてたものかによっても違います。5枚の便せんに書かれた手紙を3枚目の途中から読み始めたり、ある数行だけ書き写して残りは何を書いてあるか知らないというような読み方はしません。自分あての手紙を、自分が読むより先に誰かに読んでもらい、その意味を解説してもらうというような愚かなことはしません。そういうことは、実際あり得ないことだし、そんなことをしたら、差し出し人を馬鹿にしているとしか思えません。しかし、聖書に限れば、そういうことが平然と行われているのです。
今日特に取り上げるのは、文学的手法としてのひとつの定型についてですが、これは手紙の中にも詩の中にも物語の中にも見られるものなので、知っていると参考になると思います。
定型詩や定型文のスタイルのひとつとして、交差配列法(chiasmusカイアズマス)というのがあります。ギリシア語でキアスマスと言います。
たとえば、「茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる」というような一文があったとします。これは漱石の「三四郎」の一節ですが、このように、文節や文章などをABBAのように反転させる方法をキアスマス(カイアズマス・交差並行法)と言います。この漱石の一文は最小単位の例ですが、このように言葉を反転させて繰り返しながら、読者に状況を効果的にイメージさせることに成功しています。さらにABCCBAというように、いくらでも複雑になります。
さらに、真ん中に中心点になるXを置いてABCXCBAというかたちで定型をなす場合もあります。
二つめの例をご紹介します。シェイクスピアの芝居の一節に「Fair is foul and foul is fair」(いいは悪いで、悪いはいい)というのがあります。これは「マクベス」の中の魔女の台詞ですが、andを中心にしてパラレル部が反転して、不思議な調子を作り出しています。
これが、詩の中で複数の行数で行われる時はどうなるでしょうか。例えば4行の詩があるとすると、1行と4行が、2行と3行がそれぞれ一対になります。反転したパラレルになるわけです。このカイアズマスがもたらす反転パラレルは短文だけでなく、行や幾つかのまとまった段落の対置関係にも使われたりします。奇数行や奇数のまとまりになって、一番真ん中の行やまとまりが、折り返し点になるような構成になるのです。このような文章の構造は、日本人にとってはなじみの薄いものですが、実は聖書を理解する上で非常に重要な鍵のひとつです。
創世記7章の「ノアの箱船」の記事を見てみましょう。(創世記7:4~8:10)
1.7日間洪水を待つ(7:4)
2.動物とともに箱船に入る(7:7~15)
3.箱船の扉を閉める(7:16)
4.40日の洪水(7:17)
5.箱船浮かび上がる(7:18)
6.山々まで覆う(7:19)
7.150日間増え続ける(7:24)
X.神はノアたちを心に留めておられた(8:1)
7.150日の終わりに減り始め(8:3)
6.山々の頂が現われ(8:5)
5.箱船アララテ山頂へ(8:7)
4.40日が過ぎ(8:6)
3.ノアは扉を開いた(8:6)
2.カラスと鳩を放った(8:7~8)
1.さらに7日間水が退くのを待つ(8:10)
中心は、折り返し点のXにあたる8章1節では、神がノアを心に留めていたことを印象づけています。そして、災いも救済もともに、神が計画し、神が執行されることを厳粛に物語って印象づけています。
続いて、バプテスマのヨハネの受胎告知の場面を取り上げてみましょう。(ルカ1:6~25)
1.ふたりは神の前に正しく戒めと定めを落ち度無く行っていた(6)
2.エリザベツは子が無く、ふたりとも年をとっていた(7)
3.ザカリヤは、当番で祭司の務めをしていた(8)
4.くじを引いたところ、神殿にはいって香をたくことになった(9)
5.香をたく間、大勢の民は、外で祈っていた(10)
6.主の使いが現われ香壇の右に立った(11)
7.ザカリヤは不安を覚え恐怖に襲われた(12)
X.御使いの受胎告知(13~17)
7.ザカリヤは御使いを疑った(18)
6.ガブリエルが、主の命だと告げ、
信じないから、誕生まで話せなくすると言われる(19 ~20)
5.香ををたくザカリヤが暇取るので、人々は外で不思議がっ た(21)
4.聖所から出たザカリヤは、口がきけなくなった(22)
3.ザカリヤは、祭司の勤めの期間を終え、家に帰った(23)
2.エリザベツは身ごもり、5ヶ月引きこもっていた(24)
1.エリザベツは、主が自分に心をかけて下さったことを述べた(25)
この箇所では、中心のXは御使いガブリエルのことばになっています。ガブリエルのことばはちょうど13~17節まで5つあって、その真ん中の15節が、意味的にも核を成すようになっています。面白いでしょう。
聖書は長い間、現代のように、ひとりひとりが手にとれる紙の本ではなく、羊の皮に書かれて巻物にされていた時代がありました。章や節といったものが便宜的につけられるようになるのも、ずっと後のことです。また、紙の本になってからも、民衆が自分のことばで自分の聖書を手に持って読めるようになるには、長い時間を待たねばなりませんでした。ですから、こうした神の知恵と配慮によって、話のまとまりや内容が分かりやすいように効果的に書かれていたことを知ることは、とても大事なことだと思えるのです。
多くの教会の中では、好きなことばを適当にぶつ切りにして使用しています。しかし、聖書は本来文脈の中で読むものです。ディデイルにこだわりすぎてもいけません。このキアスマスという構造は、人が勝手に中心点や焦点がぼけさせることのないようにされた神の配慮です。何が大事かは明らかなのです。聖書が語っている以上のこと、聖書が語っている以外のことを、読み取ったり、語ったりするのは大きな罪です。
10月は「刈り取り」にまつわるお話をしました。ヤコブとダビデを例にあげましたね。そんな刈り取りに関するパウロのことばからキアスマスの例を確かめましよう。(ローマ2:6~11)
1神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになり ます(6)
2忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者に は、永遠のいのちを与え、(7)
×党派心(自己中心)を持ち、真理に従わないで不義に従う者に は、怒りと憤りを下されるのです。(8)
×患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行な うすべての者の上に下り、(9)
2栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行な うすべての者の上にあります(10)
1神にはえこひいきなどはないからだ(11)
6節の「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになる」と11節の「神にはえこひいきなどはないからだ」は対になっています。この部分は神の公正さが語られています。
7節の「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え」と、10節の「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にある」は対になっています。忍耐をもって善を行うことと、不滅の価値を希求することの関連が語られています。
そして、8節の「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下される」と9節の「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下る」も対になっています。この部分が核であり、真理に従わない悪を行なう者について語られています。
この箇所を読むだけでも、アメリカのキリスト教の価値観に根ざした対イスラエル政策や、日本の親ユダヤ的な教会のあり方の偏りは見えるわけです。
ローマ2章では、パウロは裁きについて語っていますが、要点は、「お互いを裁く必要はない。神が公正に裁かれるから」ということです。かなり繊細な内容ですが、この部分を読むと、神はえこひいきはなく、きちんと正しく裁いてくださるのだということが印象深く伝わって来ます。だから、私は神様の正しい裁定に期待して先走って誰とも無意味に争う気はありませんが、「正しく聖書を読みましょう」という発進は静かに続けていきます。
このように、一人ひとりが構造的に、論理的に聖書を読んでいくことは、何にもまさって大事だと思っています。「知ってるつもりの人」も「知らない人」もです。むしろ既に信仰がある方々こそ、このような視点でみことば全体を鳥瞰する力をつけることが必要です。信じている人が信じていない人に語るとき、「ある断片を自分が信じているから正しいはず」という類の情報にはほとんど説得力はありません。
一人ひとりが自分の責任で神のみことばを扱うとき、愚かなリーダーのミスリードを受けるリスクは軽減されますが、みことばのいいとこ取りをして、勝手気ままな「信仰ならぬ思いこみ」を増長させる危険も大いにあるからです。みことばのどの部分に何が書いてあって、それは他の箇所とどのような論理的な整合性があるのかをきちんと理解していることが大事です。
そして、イエスという御方としっかり出会うことです。この御方を知っていれば、身勝手な読み方の間違いはわかります。この御方にふさわしくない断片は本質からずれているのです。そういうものには、本当にイエスと出会った方なら「何か違うぞ」と、内におられる聖霊は「アーメン」しないはずです。そういう違和感を、大切にしていただきたいと思います。
私が伝えたいことは、「聖書にはこう書いてあるでしょう。ほらね」ということです。そのことを通して、聖書が紹介する「イエスという御方」を明らかにすることです。「人の状態」や「正しい生き方」の話ではないのです。勿論そういう部分も含まれはするでしょうが、中心はイエスという御方です。ですから、「私だけがこういうことを読み取ったのだ」というような特別なことはひとつもありません。イエスという御方を紹介して、それぞれに甦られたイエスに出会っていただくからです。それで私の役割のほとんどはおしまいです。この御方はその個別の出会いによって信じる者にいのちを与えるのです。伝える者は、誰であれ特別な秘儀を語るのではありません。そんな秘められた教えなんてありません。さまざまなキリスト教がバラバラなことを語っていても、聖書は2千年以上変わらず、同じひとつのことを語っています。それは、「イエスはどういう御方で何をなさったか」ということです。「福音の奥義」という言い方もありますが、それはその気になれば誰もが味わうことの出来るところにあります。門を狭くしているのは、聴く者の態度の頑なさなのであって、初めから天国の定員が決まっていたり、偏差値が高かったりするわけではありません。もってまわった妙な手続きを加えたのは、人の好き勝手な言い伝えです。
もう一度繰り返します。ポイントは、「イエスがどういう御方で、何をなさったか」ということです。それをそのまま書かれているとおりに素直に読むことを進めています。そのように読めば、各自が主イエスと出会えます。
誰でも心の中に神の声を聞くチューナーを持っています。それを聖書は「霊」と呼んでいます。この「霊」を吹き込まれたので、「人」は「人」となったのです。ホモサピエンスとしての「人」は「ヒト」と片仮名表記されたりしますが、そのヒトは、遺伝子レベルでは確かに猿とほとんど変わりません。ヒトとチンパンジーの違いは、ウマとシマウマ程度の違いだと言います。しかし、人は神と永遠を思い、神と交わり、永遠に生きる可能性を持っています。ここに、人の特別な存在価値があるのです。
猿が道具を使うことはあっても、猿が何かを奉ったり拝んだりすることはありません。なぜでしょうか。人だけが神と交流するための「霊的な存在」だからです。しかし、その人の霊は不完全にしか機能していません。聖書が描写するのは、善悪の知識の実を取って食べ、神の園エデンを追放され、神との交流が断たれた人の姿です。それで人は、神や神ならぬ大いなるものとの交流を持とうとしてあがき苦しんでいるのです。そのような理由で、人は無数の宗教を生み、それらを拒否する進化論という宗教を生み、さらに聖書の教えさえ宗教に貶めてしまったのです。
「進化論と言えば、宗教ではなく科学じゃないか」と思われるかも知れませんが、私に言わせれば、最も悪質な宗教です。
簡単なひとつの例を思い浮かべて考えてみましょう。昆虫の世界です。蜂や蟻などの小さな虫でさえ、圧倒的な組織力をもって見事な役割分担で自分の任務を遂行しますが、そんな虫たちよりも遥かに優秀なはずの人間が産み出した世の中のシステムには、さまざまな人間関係の確執や権力の闘争があります。妬みや憎しみから巣の秩序が崩壊することはありません。蜂や蟻のようにはうまくいかないわけです。人が罪に墜ちたことによって非贓物全体が虚無に服したと書いてあるので、昆虫の世界もエデンの園の状態とは違うでしょう。しかし、人間以外の動植物の間には、人間のような「神との関係の歪み」は見られません。だから、イエスは「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われるのです。自然の動植物には人のような霊はありません。しかし、「ただ神に養われている」だけで、神との霊的な交流がなくても、それらは喜びに満ちて己のいのちを奏でているではないかというのが、イエスのメッセージです。さらに進化したものが、進化の劣位にあるものに学ぶことなどないはずです。ポイントは、「神との関係の歪み」です。この歪みが、自らを猿の末裔に貶めるのです。
神の園エデンを追放され、神なしでやりくりしてきた私たちですが、その神の第一としない勝手気ままなやりくりに問題があるのだと聖書は指摘します。
霊の機能不全を回復へと導くのは神のことばです。「わたしのことばは霊でありいのちである」とイエスは語られました。聖書のことばは、ただの道徳やイデオロギーではないのです。
さて、今日の講座では、神のことばである聖書の構造的な読み方のヒントについてお話したいと思います。言ってみれば、チューナーの使い方、ダイアルの合わせ方についての手引きです。妨害電波や、偽りの情報があまりにも多いですから、こういうメッセージもあってもいいのかなと思っています。
各自がしっかり調べ、よく吟味することが大事です。丸かじり、丸呑みはいけません。私の話も簡単に信じてはいけません。ちゃんと疑って、自分で調べてください。罪や救いなんてそう簡単にわかるはずのないことです。
みことばを読むことは、食べ物をよく咀嚼していただくことに喩えられています。食材にはそれにふさわしい食べ方があるということです。
動物は肉も野菜も丸かじりです。味付けも何もありません。しかし、人間はさまざまに工夫を凝らして調理します。どこの国でも、おいしい料理とは、素材の持ち味を十二分に生かしたものです。神は予め人が知恵と工夫によってさまざまな調理方法で食材を楽しめるようにすべてのものをお作りになったのです。これは物凄いことだと思いませんか。
聖書は、さまざまな文学の形式にのっとって書かれています。あるものは歴史、あるものは詩として書かれています。ひとつのことばの原語の意味にこだわることも大事ですが、全体の流れやつながりを見ることも大事です。
特にある部分を文脈に関係なく切り取って、自分の願いや主張を練り込んで語ったり、読んだりすることは、キリスト信仰の大いなる歪みの原因になっていると思います。こういう読み方によって膨れあがったものがキリスト教という宗教なのです。
魚や野菜にだって、そのさばき方や切り方には、その種類に従ったルールがあります。聖書の読み方もデタラメでは駄目で、理にかなった方法があるのです。つまり、それぞれの聖書記者の編集意図をとらえるということです。それぞれ独立した意図をもって、また別々の様式で書かれています。手紙は手紙、系図は系図、歴史は歴史、詩は詩として表現されています。そして同時に、聖書の他の箇所との整合性、全体を貫く、構造物の真柱である「イエスとはどのような御方で、何をなさったか」というテーマとの関連から読み解く必要があります。例えば、手紙であれば「いつ」「誰が」「誰に」「どこで」「何のために」書いたのかということです。それが、個人にあてたものか、教会にあてたものかによっても違います。5枚の便せんに書かれた手紙を3枚目の途中から読み始めたり、ある数行だけ書き写して残りは何を書いてあるか知らないというような読み方はしません。自分あての手紙を、自分が読むより先に誰かに読んでもらい、その意味を解説してもらうというような愚かなことはしません。そういうことは、実際あり得ないことだし、そんなことをしたら、差し出し人を馬鹿にしているとしか思えません。しかし、聖書に限れば、そういうことが平然と行われているのです。
今日特に取り上げるのは、文学的手法としてのひとつの定型についてですが、これは手紙の中にも詩の中にも物語の中にも見られるものなので、知っていると参考になると思います。
定型詩や定型文のスタイルのひとつとして、交差配列法(chiasmusカイアズマス)というのがあります。ギリシア語でキアスマスと言います。
たとえば、「茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる」というような一文があったとします。これは漱石の「三四郎」の一節ですが、このように、文節や文章などをABBAのように反転させる方法をキアスマス(カイアズマス・交差並行法)と言います。この漱石の一文は最小単位の例ですが、このように言葉を反転させて繰り返しながら、読者に状況を効果的にイメージさせることに成功しています。さらにABCCBAというように、いくらでも複雑になります。
さらに、真ん中に中心点になるXを置いてABCXCBAというかたちで定型をなす場合もあります。
二つめの例をご紹介します。シェイクスピアの芝居の一節に「Fair is foul and foul is fair」(いいは悪いで、悪いはいい)というのがあります。これは「マクベス」の中の魔女の台詞ですが、andを中心にしてパラレル部が反転して、不思議な調子を作り出しています。
これが、詩の中で複数の行数で行われる時はどうなるでしょうか。例えば4行の詩があるとすると、1行と4行が、2行と3行がそれぞれ一対になります。反転したパラレルになるわけです。このカイアズマスがもたらす反転パラレルは短文だけでなく、行や幾つかのまとまった段落の対置関係にも使われたりします。奇数行や奇数のまとまりになって、一番真ん中の行やまとまりが、折り返し点になるような構成になるのです。このような文章の構造は、日本人にとってはなじみの薄いものですが、実は聖書を理解する上で非常に重要な鍵のひとつです。
創世記7章の「ノアの箱船」の記事を見てみましょう。(創世記7:4~8:10)
1.7日間洪水を待つ(7:4)
2.動物とともに箱船に入る(7:7~15)
3.箱船の扉を閉める(7:16)
4.40日の洪水(7:17)
5.箱船浮かび上がる(7:18)
6.山々まで覆う(7:19)
7.150日間増え続ける(7:24)
X.神はノアたちを心に留めておられた(8:1)
7.150日の終わりに減り始め(8:3)
6.山々の頂が現われ(8:5)
5.箱船アララテ山頂へ(8:7)
4.40日が過ぎ(8:6)
3.ノアは扉を開いた(8:6)
2.カラスと鳩を放った(8:7~8)
1.さらに7日間水が退くのを待つ(8:10)
中心は、折り返し点のXにあたる8章1節では、神がノアを心に留めていたことを印象づけています。そして、災いも救済もともに、神が計画し、神が執行されることを厳粛に物語って印象づけています。
続いて、バプテスマのヨハネの受胎告知の場面を取り上げてみましょう。(ルカ1:6~25)
1.ふたりは神の前に正しく戒めと定めを落ち度無く行っていた(6)
2.エリザベツは子が無く、ふたりとも年をとっていた(7)
3.ザカリヤは、当番で祭司の務めをしていた(8)
4.くじを引いたところ、神殿にはいって香をたくことになった(9)
5.香をたく間、大勢の民は、外で祈っていた(10)
6.主の使いが現われ香壇の右に立った(11)
7.ザカリヤは不安を覚え恐怖に襲われた(12)
X.御使いの受胎告知(13~17)
7.ザカリヤは御使いを疑った(18)
6.ガブリエルが、主の命だと告げ、
信じないから、誕生まで話せなくすると言われる(19 ~20)
5.香ををたくザカリヤが暇取るので、人々は外で不思議がっ た(21)
4.聖所から出たザカリヤは、口がきけなくなった(22)
3.ザカリヤは、祭司の勤めの期間を終え、家に帰った(23)
2.エリザベツは身ごもり、5ヶ月引きこもっていた(24)
1.エリザベツは、主が自分に心をかけて下さったことを述べた(25)
この箇所では、中心のXは御使いガブリエルのことばになっています。ガブリエルのことばはちょうど13~17節まで5つあって、その真ん中の15節が、意味的にも核を成すようになっています。面白いでしょう。
聖書は長い間、現代のように、ひとりひとりが手にとれる紙の本ではなく、羊の皮に書かれて巻物にされていた時代がありました。章や節といったものが便宜的につけられるようになるのも、ずっと後のことです。また、紙の本になってからも、民衆が自分のことばで自分の聖書を手に持って読めるようになるには、長い時間を待たねばなりませんでした。ですから、こうした神の知恵と配慮によって、話のまとまりや内容が分かりやすいように効果的に書かれていたことを知ることは、とても大事なことだと思えるのです。
多くの教会の中では、好きなことばを適当にぶつ切りにして使用しています。しかし、聖書は本来文脈の中で読むものです。ディデイルにこだわりすぎてもいけません。このキアスマスという構造は、人が勝手に中心点や焦点がぼけさせることのないようにされた神の配慮です。何が大事かは明らかなのです。聖書が語っている以上のこと、聖書が語っている以外のことを、読み取ったり、語ったりするのは大きな罪です。
10月は「刈り取り」にまつわるお話をしました。ヤコブとダビデを例にあげましたね。そんな刈り取りに関するパウロのことばからキアスマスの例を確かめましよう。(ローマ2:6~11)
1神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになり ます(6)
2忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者に は、永遠のいのちを与え、(7)
×党派心(自己中心)を持ち、真理に従わないで不義に従う者に は、怒りと憤りを下されるのです。(8)
×患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行な うすべての者の上に下り、(9)
2栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行な うすべての者の上にあります(10)
1神にはえこひいきなどはないからだ(11)
6節の「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになる」と11節の「神にはえこひいきなどはないからだ」は対になっています。この部分は神の公正さが語られています。
7節の「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え」と、10節の「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にある」は対になっています。忍耐をもって善を行うことと、不滅の価値を希求することの関連が語られています。
そして、8節の「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下される」と9節の「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下る」も対になっています。この部分が核であり、真理に従わない悪を行なう者について語られています。
この箇所を読むだけでも、アメリカのキリスト教の価値観に根ざした対イスラエル政策や、日本の親ユダヤ的な教会のあり方の偏りは見えるわけです。
ローマ2章では、パウロは裁きについて語っていますが、要点は、「お互いを裁く必要はない。神が公正に裁かれるから」ということです。かなり繊細な内容ですが、この部分を読むと、神はえこひいきはなく、きちんと正しく裁いてくださるのだということが印象深く伝わって来ます。だから、私は神様の正しい裁定に期待して先走って誰とも無意味に争う気はありませんが、「正しく聖書を読みましょう」という発進は静かに続けていきます。
このように、一人ひとりが構造的に、論理的に聖書を読んでいくことは、何にもまさって大事だと思っています。「知ってるつもりの人」も「知らない人」もです。むしろ既に信仰がある方々こそ、このような視点でみことば全体を鳥瞰する力をつけることが必要です。信じている人が信じていない人に語るとき、「ある断片を自分が信じているから正しいはず」という類の情報にはほとんど説得力はありません。
一人ひとりが自分の責任で神のみことばを扱うとき、愚かなリーダーのミスリードを受けるリスクは軽減されますが、みことばのいいとこ取りをして、勝手気ままな「信仰ならぬ思いこみ」を増長させる危険も大いにあるからです。みことばのどの部分に何が書いてあって、それは他の箇所とどのような論理的な整合性があるのかをきちんと理解していることが大事です。
そして、イエスという御方としっかり出会うことです。この御方を知っていれば、身勝手な読み方の間違いはわかります。この御方にふさわしくない断片は本質からずれているのです。そういうものには、本当にイエスと出会った方なら「何か違うぞ」と、内におられる聖霊は「アーメン」しないはずです。そういう違和感を、大切にしていただきたいと思います。
2009年10月19日月曜日
10月18日 メッセージのポイント
罪を刈り取るダビデ(ダビデの生涯と詩編⑩)
Ⅱサムエル13~15章
A 神の祝福を受けるということ
○祝福は御利益ではない(ラッキーなことの連続や順風満帆の歩みではない)
○神の祝福は繊細で奥深い→私たちの願いではなく神の人格にふさわしい
○神の祝福は教育的、建設的、系統的、具体的(エレミヤ29:11)
○刈り取りと訓練を理解すること(箴言19:3)
○苦しみからの学び(詩編119:67.71.74)
B ダビデの失敗
○複数の妻は「信仰によって」ではなく「当時の習慣によって」得 たもの
○男女の関係は単なる道徳ではない→キリストと教会のモデル
○目に見えない神への信仰は目に見える人間関係に表れる
C バテ・シェバをめぐる三角関係とその結果
○第1子の死と第2子の祝福(Ⅱサムエル12:15~23)
○アムノンのタマル陵辱(Ⅱサムエル13:1~21)
○アブシャロムによるアムノン殺害(Ⅱサムエル13:23~27)
○アブシャロムの謀反(Ⅱサムエル15:1~12)
D 苦しみの中でダビデが学んだこと
○主が中心であるということ→神の箱は何処に
○主のみこころがなるということ→自分の願いや力や計画ではない
○主の御人格の深さ→そのいつくしみときびしさと・・・(Ⅱサムエル15:25~26)
E 詩編にみるダビデの信仰と霊的モデル
○詩編31:9~13
○詩編55:12~15
○詩編88:13~18
○詩編3編
Ⅱサムエル13~15章
A 神の祝福を受けるということ
○祝福は御利益ではない(ラッキーなことの連続や順風満帆の歩みではない)
○神の祝福は繊細で奥深い→私たちの願いではなく神の人格にふさわしい
○神の祝福は教育的、建設的、系統的、具体的(エレミヤ29:11)
○刈り取りと訓練を理解すること(箴言19:3)
○苦しみからの学び(詩編119:67.71.74)
B ダビデの失敗
○複数の妻は「信仰によって」ではなく「当時の習慣によって」得 たもの
○男女の関係は単なる道徳ではない→キリストと教会のモデル
○目に見えない神への信仰は目に見える人間関係に表れる
C バテ・シェバをめぐる三角関係とその結果
○第1子の死と第2子の祝福(Ⅱサムエル12:15~23)
○アムノンのタマル陵辱(Ⅱサムエル13:1~21)
○アブシャロムによるアムノン殺害(Ⅱサムエル13:23~27)
○アブシャロムの謀反(Ⅱサムエル15:1~12)
D 苦しみの中でダビデが学んだこと
○主が中心であるということ→神の箱は何処に
○主のみこころがなるということ→自分の願いや力や計画ではない
○主の御人格の深さ→そのいつくしみときびしさと・・・(Ⅱサムエル15:25~26)
E 詩編にみるダビデの信仰と霊的モデル
○詩編31:9~13
○詩編55:12~15
○詩編88:13~18
○詩編3編
10月18日 罪を刈り取るダビデ(ダビデの生涯と詩編 ⑩ )
ダビデがバテ・シェバとその夫であるウリヤに対して犯した罪は、ダビデが預言者ナタンのメッセージを受け入れて、神の前にはっきり悔い改めたことによって完全な赦しを得ました。こうして、主の前にその罪は覆われ、ダビデはその後もさらに祝福を受け続けます。みなさんは、ダビデとバテ・シェバとウリヤの三角関係の中に起こった一連の出来事の顛末をご覧になってどんな印象を持たれるでしょうか。妻を寝取られたことも知らずに、ダビデを信じ切ったまま戦場に散ったウリヤとダビデを比べると、その扱いはまるで違うように見えます。私たちは、人の一生をどのように見つめて如何に評価するでしょう。神のお取り扱いは、非常に繊細で奥深いものです。一見不公平に思えることであっても、神は御自身にふさわしいやり方で、すべてのことを公正に取り扱われているのだということを、私は固く信じています。神の祝福の計画はよきものです。教育的で建設的です。系統的で具体的です。私たちは自分の将来、明日のことさえわかりません。しかし、神は私たちのために、すばらしい計画を持っていてくださり、それをよくご存じなのです。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)
「神の祝福を受ける」ということは、決して人間的に見てラッキーな出来事が連続することではありません。順風満帆の日々を送るということでもありません。もっと複雑です。望まぬ出来事に直面し、悲しみや苦しみの道を通ることもあります。私たちが出会うさまざまな出来事には、すべてを見通しておられる御方からの具体的なメッセージが含まれているのです。もちろん、蛇口をひねれば水が出るし、不養生をすれば風邪を引いたりするでしょう。そのような物事の当然の因果関係の法則の中で起こることに、いちいち神様の意図を深読みするのは行き過ぎですが、私たちが、神を信じ、具体的にみこころを求めて生きているにも関わらず、大きな人生の選択において、自分が強く願っていることや深く思い込んでいることと異なる展開になっていったとしたら、そこには、まず間違いなく、神様からのメッセージや訓練の意味合いがあるはずです。
主は罪を完全に赦されるのですから、ダビデが家庭生活で味わった様々な悲しみや苦しみは、主が与えた罰というわけではありません。自分が選んだことの結果を見せられているのです。これは似ているようですが、全然違います。ダビデにせよ、私たちにせよ、誰であれ、自分が語ったこと、為したことの結果を見せられます。私たちは、自分の蒔いた種を刈り取ることを通して、「神がどのような御方であるか」を学ぶのです。すなわち、「神は決して侮られる御方ではないということ」、そして、「神は義であり、そして愛である」ということです。自分の蒔いた種の刈り取りをしながら、重要な神の学課を学んでいるのです。
単にエゴを積み重ねて、健やかに富み栄えることは、祝福とは呼べません。本当の祝福とは「神を知ること」です。つまり、私たちが間違った選択をすれば、それがそのままうまくいくことはありません。神が「恵みによって」つまずかせてくださり、信仰によらない選択の結果を、きちんと見せてくださいます。私たちは愚かであやまった意志で突き進んでうまくいかないのは感謝すべきことなのです。ですから、うまくいかないとき、神に向かって憤ってはいけません。箴言にはそれを警告することばもあります。
「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る」(箴言19:3)
失敗すること、挫折することは出来れば避けたいことですし、とても辛いことです。しかし、それは恵みです。その中でこそ、人ははじめて学ぶべきことを学ぶのです。神がお与えになる苦しみと神のおきてを学ぶこととの関連を詩編の作者は歌っています。(詩編119:67,71,75)
妙な言い回しかも知れませんが、私たちは自分に裏切られる必要があります。そして、裏切らない御方はイエスただおひとりであると知る必要があるのです。ペテロやパウロが、いのちの信仰のスタートラインに立つまで失敗を思い返してみてください。私が語った「自分に裏切られる経験」がちゃんとあるでしょう。それは、刈り取りであると同時に重要な神の学課なのです。
ダビデに話を元に戻しましょう。ダビデが複数の妻をもったことは、「信仰によって」ではなく、「当時の習慣」によってです。それを今の価値観で簡単に責めることは出来ませんが、神の原則は時代の価値観によって揺らぐものではありません。結婚の基準に限らず、時代とともに知らずに犯している罪はたくさんあると思います。知らずに悪に荷担しているのです。
最初の男と女が作られたときから、神のみこころは一夫一妻です。これは「道徳」ではなく、それ以上の霊的な「価値」と「意味」があります。男女の関係は最もすばらしいキリストと教会のモデルだからです。ですから、複数の妻をもった場合は、必ず弊害が生まれます。当然妻どうしの確執、異母兄弟のねたみや争いという問題が発生するのです。人間の本質は、古今東西どこでも一緒です。こういう関係のもつれや感情の行き違いが、いつの時代、どこの国でも、あらゆる芝居や映画のモチーフになるわけです。人の興味は、専ら自分を中心にした人間関係に尽きるのです。
信仰によって約束の祝福を受け継ぐ人々にとっても、目に見えない神に対する信仰の本質は目に見える人間関係の中に現れるわけです。ですから、神との「縦の関係」が全くデタラメなのに、人との「横の関係」を避けたがる人たちは、既に自分のあり方によって、自分の愚かさや恥を表現していると言えます。神を信じる人たちが、「神を信じる他の人たち」や「異なる神々を信じる人たち」また「神も仏も信じない人たち」との多様な人間関係の中で、ともに生きるというのは、それほど簡単なことではないのです。
アブラハムもイサクもヤコブも、そしてダビデも、信仰の人はみな「旅人」「寄留者」です。「旅人」「寄留者」は、旅先、寄留先でいろんな人と上手に関わる必要があるわけです。ですから、同じような経験をして苦しみました。ダビデの場合はまた特別です。羊飼いから王になり、その大いなる成功とともに、その影にはウリヤの妻であるバテ・シェバとの不倫とそのもみ消しのための嘘や殺人がありました。ですから、ダビデの苦しみと刈り取りがアブラハムやヤコブのそれとは、比較にならないほど大きなもの深いものだったことが容易に想像されます。
まず、バテ・シェバとの間に生まれた最初の子どもは死んでしまいました。これが、ダビデにとっては最初の具体的な罪の刈り取りでした。ところが、次の子どもは大いに祝福されます。その次の子どもこそ後の王であるソロモンです。このふたりの子どもの何が違うのでしょうか。神は最初の子どもを憐れむことは出来なかったのでしょうか。それは無理でした。確かにふたりとも、ダビデとバテ・シェバとの関係から生まれた子どもですが、最初の子はダビデが無理矢理犯して孕ませた子です。しかし、次の子どもはウリヤが死んで、正式に娶ってから合意の上で結ばれて与えられた子どもです。これは、大いに違います。最近は「出来ちゃった婚」などということばが市民権を得て、お腹が大きい新婦さんがウエディグドレスを着ている姿も珍しくなくなりました。おそらく、さげすまれることもなくないでしょう。しかしそれは、世の中が多様性を認める寛容さを持ったからではなく、感覚が麻痺してきているのです。このようなダビデのふたりの子どもに対する主の扱いを見ても、人が刈り取るべきことと、神の祝福そのものとの違いがわかるのではないでしょうか。単に御利益を求めて命乞いをしても聞き届けられることはないのです。
この後、ダビデにはさらにつらい出来事がありました。息子アムノンが、娘タマルに恋して辱めるというとんでもない事件です。(Ⅱサムエル13:1~21)メフィボシェテのお話のときに、「キリストにある王の食卓」のすばらしさを語りましたが、雛形である「ダビデの王の食卓」連なっていた子どもたちの実際はこういう側面もあったのだという事実を正視する必要があるでしょう。
この事件がダビデに与えたダメージは相当なものだったでしょう。加害者も被害者もともに大事な自分の子どもです。しかも、父であるダビデはアムノンの仮病を見破れなかったばかりか、彼の願いをそのまま聞き入れ、自分の命令でタマルを世話につかせたのです。ずる賢いヨナダブという友人でさえ、アムノンの様子がおかしいことに気がついたのです。ところが、ダビデは気づきませんでした。ダビデの家族には、親密な交わりがなかったということです。ここに大きな問題の根があります。
欲望にかられて身勝手な思いを遂げる。これは、かつてダビデがバテ・シェバにしたことと同じです。しかも被害者はよその娘ではなく、可愛いわが子です。娘タマルは辱めを受け激しく傷つきましたが、娘の傷は、ダビデの心をも同じようにえぐりました。それは、まさに自分がウリヤに対してしたことの報いでした。
次にダビデを襲った不幸は、子どもたちどうしの兄弟での殺し合いです。(Ⅱサムエル13:23~37)
先の事件の被害者タマルの兄であるアブシャロムが加害者アムノンを殺すというものでした。アブシャロムは同じ母から生まれた妹タマルへの思いの深さ故にアムノンを許すことができませんでした。アブシャロムは機会をうかがいつつ2年間は沈黙し、ついにアムノンを殺しました。その際、アブシャロムはダビデも招待していましたが、ダビデは行きたがらず、アムノンの参加にも多少問題を感じながら、認めてしまいます。
これらの一連の出来事に対してのダビデの態度は、全く煮え切らないものでした。自分の犯した罪を痛烈に思い知らされていただけに、子どもたちに対して毅然とした態度を保つ事が出来ず、適切な戒めや指導が出来なかったのです。(Ⅱサムエル13:20~22)(23~27)
もしダビデが、アムノンやタマルに対して、きちんと納得のいく裁定をくだしていたなら、またアブシャロムの働きかけに対して、きちんと出向いて思いを伝えていたなら、いくつかの不幸は回避できたかも知れません。ところが、ダビデは心を痛めるだけで全く何も出来ませんでした。(Ⅱサムエル13:37~39)逆に言えば、それが出来ないほどダビデのダメージは深かったとも言えます。
やがてアブシャロムは反旗を翻しました。ダビデはアブシャロムとの直接対決を避けて、逃げて行きます。息子を討つ気力はダビデにはありませんでした。それは勝てるとか、勝てないとかの力関係ではありません。それは愛ゆえ葛藤です。ダビデはアブシャロムを愛していたのです。
3年間ゲシュルに逃げていたアブシャロムをエルサレムに連れ戻しはしますが、決して彼の顔を見ようとはしませんでした。アブシャロムの気持ちは、次第に父ダビデから離れ、屈折していったことに違いありません。ダビデの心情ばかりにスポットがあたりますが、アブシャロムも相当辛かったでしょう。この苦しみの中で、彼の心はどんどん屈折していくのです。ある日、アブシャロムは自分の親衛隊を作ります。さらに、不満があって、王に訴えようとする人々をつかまえて、門前でつかまえて「あなたの言い分はわかる。私が王ならあなたを弁護する……」と味方をするのです。 アブシャロムは、このようにことば巧みに「心を盗んで」いきます。アブシャロムがダビデに反旗を翻したのはヘブロンです。かつてダビデがユダの王として君臨していた町。アブシャロムはこのヘブロンの生まれたのです。ダビデはヘブロンを捨ててエルサレムに移ったので、ヘブロンの人々にしてみれば、ダビデ王に見捨てられたという思いもあったかも知れません。そのような心理を利用したとしたのかも知れません。アブシャロムは、蜂起するに当ってイスラエル全部族に使いを送り、「アブシャロムがヘブロンで王となった」と言わせました。ろくな通信手段のない時代です。この蜂起を全国に一斉に知らしめ、全イスラエルの人々を動かそうとした方法は実に効果的でした。全イスラエルの心が、アブシャロムに移り始めます。さらに、ダビデの参謀であったアヒトフェルという人を自分のもとに迎え入れました。このアヒトフェルの裏切りは、ダビデのダメージを決定的にします。その発言力はものすごい影響力があったようです。(Ⅱサムエル16:23)このアフィトフェルという人物、実はバテシェバの祖父にあたるのです。これも皮肉です。孫娘を手込めにしたダビデに対する複雑な感情がアブシャロムと共鳴したに違いありません。アフィトフェルによる裏切りはイエスとユダとの関係と重なります。
さて、ダビデはどうしたでしょう。(Ⅱサムエル15:13~18)まさか、 息子が反旗を翻し、父である自分に刃を向くなどとは思いもしなかったでしょう。さらに。すでに多くの人々の心がアブシャロムに傾くなんて想像もしていなかったでしょう。いろいろな思いがダビデの心を去来したに違いありません。
ダビデは、「直ちに逃げる」という決断をしました。それは、身の安全のためだけではありませんでした。そうしなければ、アブシャロムは間違いなくエルサレムを討つでしょう。エルサレムは特別な場所です。神の箱を迎え入れて、主なる神様の都としたのです。エルサレムを息子との闘いで破壊することは出来ないと考えました。ほとんどダビデはいいとこなしですが、流石にポイントは押さえています。ダビデがこの苦しみの中で学んだ信仰告白が輝いています。
「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は私を連れ戻してくださる。もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうかこの私に主が良いと思われることをしてください」」(Ⅱサムエル15:25~26)すべての決定は主の御手にある。あらゆることは主の御心次第だというのです。事を決するのは、アブシャロムの武力でも、アヒトフェルのはかりごとでもなく、自分の力でも、そして信仰でさえない。ただ主の御心がなるというのです。これは、諦めから来る投げやりなことばではありません。主は最善のことをされる。その恵みに自分が預かることが出来たなら・・・という追い詰められたダビデにとってギリギリの告白です。レビ人たちは神の箱を逃げるダビデを追うように移動させて来ましたが、ダビデは途中でそれを改め、エルサレムに戻すように命じています。王座に復権できなくても、エルサレムに帰れなくてもそれもまた良し。主がそのように導かれたのだからということです。「ただそれでも、主の憐れみにあずかることができますように・・・・」と、神の御人格に寄りかかっているのです。
これから紹介するいくつかの詩編は、ダビデがまさにこの苦しみのただ中で記したものでしょう。ダビデの苦しみの中での心の叫びは、神の御前で昇華され、イエスの地上での苦しみと重なって眩しく輝いているのがわかります。(詩編31:9~13)(詩編55:12~15)(詩編88:13~18)(詩編3編)
これを読むと、主がただいたずらに人に苦しみを与える御方ではないことがよくわかります。罪の刈り取りというのは、単なる罰ゲームではありません。神は私たちの愚かさや失敗さえも、さらに質の高いものに変えてくださるのです。
「神の祝福を受ける」ということは、決して人間的に見てラッキーな出来事が連続することではありません。順風満帆の日々を送るということでもありません。もっと複雑です。望まぬ出来事に直面し、悲しみや苦しみの道を通ることもあります。私たちが出会うさまざまな出来事には、すべてを見通しておられる御方からの具体的なメッセージが含まれているのです。もちろん、蛇口をひねれば水が出るし、不養生をすれば風邪を引いたりするでしょう。そのような物事の当然の因果関係の法則の中で起こることに、いちいち神様の意図を深読みするのは行き過ぎですが、私たちが、神を信じ、具体的にみこころを求めて生きているにも関わらず、大きな人生の選択において、自分が強く願っていることや深く思い込んでいることと異なる展開になっていったとしたら、そこには、まず間違いなく、神様からのメッセージや訓練の意味合いがあるはずです。
主は罪を完全に赦されるのですから、ダビデが家庭生活で味わった様々な悲しみや苦しみは、主が与えた罰というわけではありません。自分が選んだことの結果を見せられているのです。これは似ているようですが、全然違います。ダビデにせよ、私たちにせよ、誰であれ、自分が語ったこと、為したことの結果を見せられます。私たちは、自分の蒔いた種を刈り取ることを通して、「神がどのような御方であるか」を学ぶのです。すなわち、「神は決して侮られる御方ではないということ」、そして、「神は義であり、そして愛である」ということです。自分の蒔いた種の刈り取りをしながら、重要な神の学課を学んでいるのです。
単にエゴを積み重ねて、健やかに富み栄えることは、祝福とは呼べません。本当の祝福とは「神を知ること」です。つまり、私たちが間違った選択をすれば、それがそのままうまくいくことはありません。神が「恵みによって」つまずかせてくださり、信仰によらない選択の結果を、きちんと見せてくださいます。私たちは愚かであやまった意志で突き進んでうまくいかないのは感謝すべきことなのです。ですから、うまくいかないとき、神に向かって憤ってはいけません。箴言にはそれを警告することばもあります。
「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る」(箴言19:3)
失敗すること、挫折することは出来れば避けたいことですし、とても辛いことです。しかし、それは恵みです。その中でこそ、人ははじめて学ぶべきことを学ぶのです。神がお与えになる苦しみと神のおきてを学ぶこととの関連を詩編の作者は歌っています。(詩編119:67,71,75)
妙な言い回しかも知れませんが、私たちは自分に裏切られる必要があります。そして、裏切らない御方はイエスただおひとりであると知る必要があるのです。ペテロやパウロが、いのちの信仰のスタートラインに立つまで失敗を思い返してみてください。私が語った「自分に裏切られる経験」がちゃんとあるでしょう。それは、刈り取りであると同時に重要な神の学課なのです。
ダビデに話を元に戻しましょう。ダビデが複数の妻をもったことは、「信仰によって」ではなく、「当時の習慣」によってです。それを今の価値観で簡単に責めることは出来ませんが、神の原則は時代の価値観によって揺らぐものではありません。結婚の基準に限らず、時代とともに知らずに犯している罪はたくさんあると思います。知らずに悪に荷担しているのです。
最初の男と女が作られたときから、神のみこころは一夫一妻です。これは「道徳」ではなく、それ以上の霊的な「価値」と「意味」があります。男女の関係は最もすばらしいキリストと教会のモデルだからです。ですから、複数の妻をもった場合は、必ず弊害が生まれます。当然妻どうしの確執、異母兄弟のねたみや争いという問題が発生するのです。人間の本質は、古今東西どこでも一緒です。こういう関係のもつれや感情の行き違いが、いつの時代、どこの国でも、あらゆる芝居や映画のモチーフになるわけです。人の興味は、専ら自分を中心にした人間関係に尽きるのです。
信仰によって約束の祝福を受け継ぐ人々にとっても、目に見えない神に対する信仰の本質は目に見える人間関係の中に現れるわけです。ですから、神との「縦の関係」が全くデタラメなのに、人との「横の関係」を避けたがる人たちは、既に自分のあり方によって、自分の愚かさや恥を表現していると言えます。神を信じる人たちが、「神を信じる他の人たち」や「異なる神々を信じる人たち」また「神も仏も信じない人たち」との多様な人間関係の中で、ともに生きるというのは、それほど簡単なことではないのです。
アブラハムもイサクもヤコブも、そしてダビデも、信仰の人はみな「旅人」「寄留者」です。「旅人」「寄留者」は、旅先、寄留先でいろんな人と上手に関わる必要があるわけです。ですから、同じような経験をして苦しみました。ダビデの場合はまた特別です。羊飼いから王になり、その大いなる成功とともに、その影にはウリヤの妻であるバテ・シェバとの不倫とそのもみ消しのための嘘や殺人がありました。ですから、ダビデの苦しみと刈り取りがアブラハムやヤコブのそれとは、比較にならないほど大きなもの深いものだったことが容易に想像されます。
まず、バテ・シェバとの間に生まれた最初の子どもは死んでしまいました。これが、ダビデにとっては最初の具体的な罪の刈り取りでした。ところが、次の子どもは大いに祝福されます。その次の子どもこそ後の王であるソロモンです。このふたりの子どもの何が違うのでしょうか。神は最初の子どもを憐れむことは出来なかったのでしょうか。それは無理でした。確かにふたりとも、ダビデとバテ・シェバとの関係から生まれた子どもですが、最初の子はダビデが無理矢理犯して孕ませた子です。しかし、次の子どもはウリヤが死んで、正式に娶ってから合意の上で結ばれて与えられた子どもです。これは、大いに違います。最近は「出来ちゃった婚」などということばが市民権を得て、お腹が大きい新婦さんがウエディグドレスを着ている姿も珍しくなくなりました。おそらく、さげすまれることもなくないでしょう。しかしそれは、世の中が多様性を認める寛容さを持ったからではなく、感覚が麻痺してきているのです。このようなダビデのふたりの子どもに対する主の扱いを見ても、人が刈り取るべきことと、神の祝福そのものとの違いがわかるのではないでしょうか。単に御利益を求めて命乞いをしても聞き届けられることはないのです。
この後、ダビデにはさらにつらい出来事がありました。息子アムノンが、娘タマルに恋して辱めるというとんでもない事件です。(Ⅱサムエル13:1~21)メフィボシェテのお話のときに、「キリストにある王の食卓」のすばらしさを語りましたが、雛形である「ダビデの王の食卓」連なっていた子どもたちの実際はこういう側面もあったのだという事実を正視する必要があるでしょう。
この事件がダビデに与えたダメージは相当なものだったでしょう。加害者も被害者もともに大事な自分の子どもです。しかも、父であるダビデはアムノンの仮病を見破れなかったばかりか、彼の願いをそのまま聞き入れ、自分の命令でタマルを世話につかせたのです。ずる賢いヨナダブという友人でさえ、アムノンの様子がおかしいことに気がついたのです。ところが、ダビデは気づきませんでした。ダビデの家族には、親密な交わりがなかったということです。ここに大きな問題の根があります。
欲望にかられて身勝手な思いを遂げる。これは、かつてダビデがバテ・シェバにしたことと同じです。しかも被害者はよその娘ではなく、可愛いわが子です。娘タマルは辱めを受け激しく傷つきましたが、娘の傷は、ダビデの心をも同じようにえぐりました。それは、まさに自分がウリヤに対してしたことの報いでした。
次にダビデを襲った不幸は、子どもたちどうしの兄弟での殺し合いです。(Ⅱサムエル13:23~37)
先の事件の被害者タマルの兄であるアブシャロムが加害者アムノンを殺すというものでした。アブシャロムは同じ母から生まれた妹タマルへの思いの深さ故にアムノンを許すことができませんでした。アブシャロムは機会をうかがいつつ2年間は沈黙し、ついにアムノンを殺しました。その際、アブシャロムはダビデも招待していましたが、ダビデは行きたがらず、アムノンの参加にも多少問題を感じながら、認めてしまいます。
これらの一連の出来事に対してのダビデの態度は、全く煮え切らないものでした。自分の犯した罪を痛烈に思い知らされていただけに、子どもたちに対して毅然とした態度を保つ事が出来ず、適切な戒めや指導が出来なかったのです。(Ⅱサムエル13:20~22)(23~27)
もしダビデが、アムノンやタマルに対して、きちんと納得のいく裁定をくだしていたなら、またアブシャロムの働きかけに対して、きちんと出向いて思いを伝えていたなら、いくつかの不幸は回避できたかも知れません。ところが、ダビデは心を痛めるだけで全く何も出来ませんでした。(Ⅱサムエル13:37~39)逆に言えば、それが出来ないほどダビデのダメージは深かったとも言えます。
やがてアブシャロムは反旗を翻しました。ダビデはアブシャロムとの直接対決を避けて、逃げて行きます。息子を討つ気力はダビデにはありませんでした。それは勝てるとか、勝てないとかの力関係ではありません。それは愛ゆえ葛藤です。ダビデはアブシャロムを愛していたのです。
3年間ゲシュルに逃げていたアブシャロムをエルサレムに連れ戻しはしますが、決して彼の顔を見ようとはしませんでした。アブシャロムの気持ちは、次第に父ダビデから離れ、屈折していったことに違いありません。ダビデの心情ばかりにスポットがあたりますが、アブシャロムも相当辛かったでしょう。この苦しみの中で、彼の心はどんどん屈折していくのです。ある日、アブシャロムは自分の親衛隊を作ります。さらに、不満があって、王に訴えようとする人々をつかまえて、門前でつかまえて「あなたの言い分はわかる。私が王ならあなたを弁護する……」と味方をするのです。 アブシャロムは、このようにことば巧みに「心を盗んで」いきます。アブシャロムがダビデに反旗を翻したのはヘブロンです。かつてダビデがユダの王として君臨していた町。アブシャロムはこのヘブロンの生まれたのです。ダビデはヘブロンを捨ててエルサレムに移ったので、ヘブロンの人々にしてみれば、ダビデ王に見捨てられたという思いもあったかも知れません。そのような心理を利用したとしたのかも知れません。アブシャロムは、蜂起するに当ってイスラエル全部族に使いを送り、「アブシャロムがヘブロンで王となった」と言わせました。ろくな通信手段のない時代です。この蜂起を全国に一斉に知らしめ、全イスラエルの人々を動かそうとした方法は実に効果的でした。全イスラエルの心が、アブシャロムに移り始めます。さらに、ダビデの参謀であったアヒトフェルという人を自分のもとに迎え入れました。このアヒトフェルの裏切りは、ダビデのダメージを決定的にします。その発言力はものすごい影響力があったようです。(Ⅱサムエル16:23)このアフィトフェルという人物、実はバテシェバの祖父にあたるのです。これも皮肉です。孫娘を手込めにしたダビデに対する複雑な感情がアブシャロムと共鳴したに違いありません。アフィトフェルによる裏切りはイエスとユダとの関係と重なります。
さて、ダビデはどうしたでしょう。(Ⅱサムエル15:13~18)まさか、 息子が反旗を翻し、父である自分に刃を向くなどとは思いもしなかったでしょう。さらに。すでに多くの人々の心がアブシャロムに傾くなんて想像もしていなかったでしょう。いろいろな思いがダビデの心を去来したに違いありません。
ダビデは、「直ちに逃げる」という決断をしました。それは、身の安全のためだけではありませんでした。そうしなければ、アブシャロムは間違いなくエルサレムを討つでしょう。エルサレムは特別な場所です。神の箱を迎え入れて、主なる神様の都としたのです。エルサレムを息子との闘いで破壊することは出来ないと考えました。ほとんどダビデはいいとこなしですが、流石にポイントは押さえています。ダビデがこの苦しみの中で学んだ信仰告白が輝いています。
「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は私を連れ戻してくださる。もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうかこの私に主が良いと思われることをしてください」」(Ⅱサムエル15:25~26)すべての決定は主の御手にある。あらゆることは主の御心次第だというのです。事を決するのは、アブシャロムの武力でも、アヒトフェルのはかりごとでもなく、自分の力でも、そして信仰でさえない。ただ主の御心がなるというのです。これは、諦めから来る投げやりなことばではありません。主は最善のことをされる。その恵みに自分が預かることが出来たなら・・・という追い詰められたダビデにとってギリギリの告白です。レビ人たちは神の箱を逃げるダビデを追うように移動させて来ましたが、ダビデは途中でそれを改め、エルサレムに戻すように命じています。王座に復権できなくても、エルサレムに帰れなくてもそれもまた良し。主がそのように導かれたのだからということです。「ただそれでも、主の憐れみにあずかることができますように・・・・」と、神の御人格に寄りかかっているのです。
これから紹介するいくつかの詩編は、ダビデがまさにこの苦しみのただ中で記したものでしょう。ダビデの苦しみの中での心の叫びは、神の御前で昇華され、イエスの地上での苦しみと重なって眩しく輝いているのがわかります。(詩編31:9~13)(詩編55:12~15)(詩編88:13~18)(詩編3編)
これを読むと、主がただいたずらに人に苦しみを与える御方ではないことがよくわかります。罪の刈り取りというのは、単なる罰ゲームではありません。神は私たちの愚かさや失敗さえも、さらに質の高いものに変えてくださるのです。
2009年10月11日日曜日
10月11日 御利益と祝福 (ひねくれ者のための聖書講座 ⑦ )
私は聖書を信じているので、どんなに努力しても、妥協しても、信じていないような話は出来ません。しかし、元から聖書を信じていたわけではないし、喜んで信じたわけでもないので、信じていない人の気持ちやあり方についても、自分の経験の範囲ではありますが、ある程度は理解できるわけです。
そして、何度かお話してきているように、「自分は聖書を信じていると信じている」さまざまなタイプの人たちが、「信じていない人たちを信じさせようとして」、さまざまな善意の押し付けや、神の名において行ってきたことをどうにも許容することができないという強い気持ちもあります。
キリスト教の歴史は、言わば、闘争と文化侵略の歴史です。破壊や強奪、挙句の果てに殺戮まで行い、それが「信仰の結果」であり、「神のみこころである」と宣言する特に最近のアメリカの現状を見るに至っては、「本当の信仰」と「そうではないもの」をきちんと区別してお伝えする必要を強く感じるようになりました。この講座もそうした私なりのこだわりのひとつです。
もちろん、「私だけ」が、また、「私の関連するグループだけが」正しい信仰を継承しているのだと、旗を掲げ、何かを主張したいと思っているのではありません。あるのは、「主の側」であって、そちらに誰がつくかという話なのです。分裂、分派の中で甲乙を競うことは全く無意味です。
つまり、私が問いかけたいことは簡単に言うと、ふたつだけです。とてもシンプルです。そのひとつは、「聖書に何と書いてありますか」ということ。それは、特別な資格や資質を持った人でなくてもわかります。誰であっても誠実に検証すればわかることなのです。むしろおかしな知識や、妙な経験なんてない方がむしろいいのです。真理というのは、誰の目にも明らかなものです。いつまでたってもある一握りの人にしかわからないような秘密は真理とは言えません。そしてもうひとつは、「あなたは個人的に神の問いかけにどう答えるのですか」ということです。信仰は個人的なものです。集団で醸し出す雰囲気や形式、ともに遵守する約束事の中にあるのがキリスト教であるなら、聖書を自分の判断で読み、個人的に応答するのがキリスト者のあり方です。私はこれを「神の前のひとり」という言い方で、何度かHPでも発信して、かなりの反響を頂いています。
さて、今日は、「御利益と祝福」というテーマで考えていきます。
イエスを信じたらどんな御利益があるのでしょう。「神の子どもとされる特権」とか、「永遠のいのち」とか言われても、それがどれほど大きな祝福なのか、いかに確かなものなのか、すぐにはわかりません。
福音書の中で、中風の人が癒される場面がありますが、その際にイエスは、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのとどちらがやさしいか」という問いかけをされます。これは、直接は「罪を赦す」という発言に敏感に反応した律法学者に対してのことばなのですが、同時に、今まさに「中風が癒されること」しか頭にない病気の人やその周辺の人々に対することばでもあります。「罪という概念」にとらわれていては、病気がもたらす人の痛みが見えなくなります。逆に目の前の「病気の痛み」にとらわれていては、神の前の罪が見えません。
このイエスの問いかけが意味することは何でしょうか。
それは、「目に見える奇跡」がもたらす「御利益」ではなく、それがいったい何の「しるし」であり、目に見えないどのような「価値」を暗示しているかを信仰によってとらえるべきであるというメッセージです。すなわち、神の与えようとしている「本当の祝福とは何か」ということです。
しかし、この中風の人に限らず、借金を返せたとか、悪い習慣から解放されたとか、病気が治った、友だちができたとかいうような極めて自己中心で手前勝手な願いがかなうことが、本質的な罪の問題や神との関係に優先する価値に見えてしまうのが、人間の弱さというものです。
そうした欲望を満たしてくれる力があるなら、何でもすがるし、何でも拝む。多少の無理も承知で、時間や財産も投資します・・・というのが宗教の本質です。宗教というのは、そのような「人の御利益願望」を満たす組織や体系」なのです。もちろん神は私たちが健やかに問題なく人生を楽しむことを望んでおられます。そのようなレベルでも人を祝福することは神の喜びではありません。それは神にとって難しいことではありませんが、神にふさわしいことではないのです。ですから、この世には目に見える一時的な不幸や災いは存在します。
誰もが自分の子どもに対して無償ですべてを与えてやりたいと思う気持ちをもっていますが、賢明な親は、いくら裕福であっても、やたらめったら、物やら金やら与えたりはしません。子どもの発達や能力や特性に応じて、その必要に応じて順次与えていくものです。
神の祝福というのは計画的で教育的なものです。そして、何よりその祝福を通して伝えたいのは祝福そのものではなく、御自身の「愛」であり「人格」なのです。
そのような意味における宗教が与える「御利益」と、神がお与えになる「祝福」の違いについてお話しましょう。「御利益」がすべて悪いというわけではありません。私もまず普通に願うことは、御利益的なものです。それは人間であれば当然です。
私のことばの定義でも、祝福の中には御利益が含まれています。しかし、「本当の祝福や祝福の中心は御利益ではない」ということです。神の愛、神の御人格という、祝福の中心を失うと祝福の周辺も失われます。そのとき失われる周辺の祝福を、私は御利益と定義してお話しています。
このあたりをよくわかっていたくために、ユダヤ人の偉大な先祖であるヤコブという人について考えていきましょう。
ヤコブというのは、「押しのける者」という意味です。ヤコブは、その名の通り兄をも押しのけて祝福を奪おうという貪欲さと、それを実現するための狡猾さを併せ持った男です。
猟から帰って来た疲れ切った兄をだまして、長子の権利を強引に奪い取ったその手口には、やさしさも品格の欠片さえありません。どう読んでも褒められたものじゃないです。(創世記25:27~34)
この記事からわかることは、ヤコブは日頃から弟である自分の立場を悲観し、兄エサウを妬んでいたことがわかります。それは父イサクが明らかにエサウを偏愛していたことにも原因があると思いますが、イサクがアブラハムから受け継いだ祝福がすべて兄に持って行かれることに怒りを感じていたようです。そうでなければ、疲れて帰って来た空腹の兄に「たった一杯のあつものと引き換えに長子の権利を売れ」などということばはとっさに出てきません。たまたま煮物が出来上がったタイミングでエサウが帰って来たのか、エサウが帰ってくるタイミングを見計らって、ヤコブが調理をしていたのかは定かではありませんが、おそらく計算ずくでしょう。本来、兄弟は苦しみや悲しみを分かちあったり、互いの弱さを補いあったりするものでしょうが、ヤコブはエサウの弱点を知り抜いて、この場面を設定したように思えます。このように解説すると、ますますヤコブは最低な人物に思えてきます。
ヤコブの人格形成には、両親の養育態度も大きく影響していました。父イサクはエサウをひいきしていましたが、母リベカはヤコブをひいきしていました。これは家庭教育のあり方としていただけません。信仰なんか関係なく、紛れもまく馬鹿親の態度です。親子の関係が夫婦の絆に優先するのは、危険信号です。日本の家庭の場合はたいていこうなっています。昔から「子はかすがい」と言いますよね。かすがいとは、2つの材木をつなぎとめるためのコの字型の大きな釘のことです。聖書は、夫婦は一体、つまり一本の木だと言っているのです。死に瀕した夫をだます妻に、そうした麗しいものを感じることは出来ません。母リベカは大事なヤコブに入れ知恵して、死ぬ間際の夫イサクをだまします。イサクはその策略を見抜けず、ヤコブをエサウだと思って祝福してしまうのです。(創世記27章)愚かなストーリーです。
しかし、これは決してリベカとヤコブの策略がすぐれていたからではなく、エサウが長子の権利を軽蔑した結果、こういう展開になったと見るのが聖書的な見解です。(創世記25:34)「一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がいないようにしなさい。」(ヘブル12:16)と聖書は言っています。
人間の側のあれこれでヤコブが祝福を引き継ぐのですが、こうした一連の意地汚い不正行為の手口を使った結果、彼は祝福とともにその巻いた種を刈り取る経験をすることになります。
一杯の食物と引き換えに長子の権利を奪った取引も姑息なら、父イサクの死に際してのこの嘘も、負けず劣らずとんでもないものです。年老いて目が見えにくくなった家長の弱点につけこんだこの卑劣で子どもじみたトリックをもう一度確認しましょう。
「それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。」(創27:15,16)
弟ヤコブは、母リベカと一緒になって策略をめぐらし、「兄の晴れ着と子やぎの毛皮」を使って兄エサウになりすましてイサクの枕辺に近づきました。年と共に視覚と聴覚は衰えても、臭覚と触覚はまだ大丈夫でした。残された自分の感覚を信じたイサクもまた愚かとしか言いようがありません。
「ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。『声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。』ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。・・・イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。『ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。・・・』」(創27:22~27)
このだました方法をよく覚えておいてください。
弟ヤコブは兄エサウの憎しみと仕返しを恐れ、その後、おじラバンの家に潜伏します。母リベカは、ラバンが「自分の兄だから、可愛がっているヤコブを大事にしてくれる」と考えたのでしょうが、それは都合の良すぎる甘い考えというものです。ヤコブは死に際の父をだまし、兄の祝福を奪い取ったのです。より近い身内である親兄弟に進んで恥を追わせるような人間を、より関係の薄い親戚が親切に献身的に迎えるはずもありません。
ヤコブは羊飼いとして働きますが、おじのラバンは幾度もヤコブの報酬を変えます。ヤコブはラバンの下の娘ラケルを愛し、彼女をめとるために7年間仕えますが、ラバンはヤコブをだまして姉のレアを与えます。そして、ラバンの下でさらに7年仕えることになります。(創世記29:25~27)当然、こうしてめとったふたりの妻はうまくいくわけがなく、嫌われているレアの方が先に子どもを産むので話はますますややこしくなります。(創世記30:1~8)おそらくヤコブは自分の卑劣な方法を思い返し、神の前に恥じたことでしょう。そんな中でもヤコブは不思議な方法で神に祝福を受けて豊かになっていきます。(創世記31:5~9)
やがてイスラエル12部族の祖となる12人の子どもたちに恵まれ、安泰に老後を向かえると思えたときです
またも、ヤコブは、過去の愚かさを思い起こされる出来事に遭遇します。リベカが自分を偏愛したように、ヤコブはヨセフを偏愛します。これに特別な服を着せるのです。この感覚も普通に考えればどうかしています。兄弟はヨセフを妬んで、彼をエジプトに売りとばし、さらに父ヤコブにはヨセフの長服に獣の血をつけて、自分たちの仕業ではなく死んだように見せかけます。
「彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、『これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。』と言った。父は、それを調べて、言った。『これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。』ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、『私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。』と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」(創世記37:31~35)
ヤコブは子どもたちからまんまとだまされました。しかもそれは、自分が兄をだましたのとそっくり同じ方法でした。たとえ、求めるものが正しかったとしても間違った方法で、それを求めたことを、主は見逃してはおられなかったのです。
ヤコブの子であるユダも、家族である嫁のタマルからだまされています。それは彼女がやもめの服を脱ぎ、「ベールをかぶって遊女のふりをしていた」ので判別できなかったのです。これも情けない事件です。(創世記38:12~26)
この自分の嫁を娼婦だと思いこんで床をともにして身ごもらせた事実が、マタイの福音書のあるキリストの系図に出てくるのです。(マタイ1:3)
まだあります。ヨセフは実際に生きていてエジプトで大切にされます。エジプトのポティファルの妻に誘惑された場面でも、ヨセフは罪を犯さず逃れますが、「寝室に残された彼の上着」が物的証拠となってしまいます。
「ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。それで彼女はヨセフの上着をつかんで、『私と寝ておくれ。』と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。 『ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。』彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。」(創39:11~16)
ここまで来ると、横溝正史的な「ヤコブ家の一族、衣の呪い」とでも名付けたくなります。
蒔いた種の種類に応じて、収穫を刈り取るように、その育て方が収穫を左右すりように、人は必ず蒔いたように育てたように、その実を刈る取ることになります。これは神の法則です。
「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」(オバデヤ1:15)
旧約聖書のみならず、新約の恵みの下でも、その法則は同じです。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7,8)
罪は信じた瞬間にすべて贖われています。ヤコブが受けたのは、決して罪が赦されなかったための罰ではありません。祝福とは、神の法則から、神の御性質を学ぶことです。神の御性質がわからなければ、交わりはできません。神の御性質とは何でしょうか。
それは「人としてのイエス」です。私たちが、人生の歩みにおいて「十字架と復活を経験すること」これが祝福の中心なのです。ヤコブが兄を押しのけて求めた財産は、単なる「御利益」です。放蕩息子が父からもらった身代も「御利益」です。これらは、逆に苦しみや悲しみをもたらし、また、湯水のように無くなるものです。
そのような中で、自分のあさましさや醜さが浮き彫りにされ、己の人格や力量の底を見せられること、これが十字架であり、そこから復活したいのちによって、永遠につながる祝福が始まるわけです。「死を越えたよみがえりのいのち」、これは宗教のもたらす御利益とは全く別の次元のものです。
そして、何度かお話してきているように、「自分は聖書を信じていると信じている」さまざまなタイプの人たちが、「信じていない人たちを信じさせようとして」、さまざまな善意の押し付けや、神の名において行ってきたことをどうにも許容することができないという強い気持ちもあります。
キリスト教の歴史は、言わば、闘争と文化侵略の歴史です。破壊や強奪、挙句の果てに殺戮まで行い、それが「信仰の結果」であり、「神のみこころである」と宣言する特に最近のアメリカの現状を見るに至っては、「本当の信仰」と「そうではないもの」をきちんと区別してお伝えする必要を強く感じるようになりました。この講座もそうした私なりのこだわりのひとつです。
もちろん、「私だけ」が、また、「私の関連するグループだけが」正しい信仰を継承しているのだと、旗を掲げ、何かを主張したいと思っているのではありません。あるのは、「主の側」であって、そちらに誰がつくかという話なのです。分裂、分派の中で甲乙を競うことは全く無意味です。
つまり、私が問いかけたいことは簡単に言うと、ふたつだけです。とてもシンプルです。そのひとつは、「聖書に何と書いてありますか」ということ。それは、特別な資格や資質を持った人でなくてもわかります。誰であっても誠実に検証すればわかることなのです。むしろおかしな知識や、妙な経験なんてない方がむしろいいのです。真理というのは、誰の目にも明らかなものです。いつまでたってもある一握りの人にしかわからないような秘密は真理とは言えません。そしてもうひとつは、「あなたは個人的に神の問いかけにどう答えるのですか」ということです。信仰は個人的なものです。集団で醸し出す雰囲気や形式、ともに遵守する約束事の中にあるのがキリスト教であるなら、聖書を自分の判断で読み、個人的に応答するのがキリスト者のあり方です。私はこれを「神の前のひとり」という言い方で、何度かHPでも発信して、かなりの反響を頂いています。
さて、今日は、「御利益と祝福」というテーマで考えていきます。
イエスを信じたらどんな御利益があるのでしょう。「神の子どもとされる特権」とか、「永遠のいのち」とか言われても、それがどれほど大きな祝福なのか、いかに確かなものなのか、すぐにはわかりません。
福音書の中で、中風の人が癒される場面がありますが、その際にイエスは、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのとどちらがやさしいか」という問いかけをされます。これは、直接は「罪を赦す」という発言に敏感に反応した律法学者に対してのことばなのですが、同時に、今まさに「中風が癒されること」しか頭にない病気の人やその周辺の人々に対することばでもあります。「罪という概念」にとらわれていては、病気がもたらす人の痛みが見えなくなります。逆に目の前の「病気の痛み」にとらわれていては、神の前の罪が見えません。
このイエスの問いかけが意味することは何でしょうか。
それは、「目に見える奇跡」がもたらす「御利益」ではなく、それがいったい何の「しるし」であり、目に見えないどのような「価値」を暗示しているかを信仰によってとらえるべきであるというメッセージです。すなわち、神の与えようとしている「本当の祝福とは何か」ということです。
しかし、この中風の人に限らず、借金を返せたとか、悪い習慣から解放されたとか、病気が治った、友だちができたとかいうような極めて自己中心で手前勝手な願いがかなうことが、本質的な罪の問題や神との関係に優先する価値に見えてしまうのが、人間の弱さというものです。
そうした欲望を満たしてくれる力があるなら、何でもすがるし、何でも拝む。多少の無理も承知で、時間や財産も投資します・・・というのが宗教の本質です。宗教というのは、そのような「人の御利益願望」を満たす組織や体系」なのです。もちろん神は私たちが健やかに問題なく人生を楽しむことを望んでおられます。そのようなレベルでも人を祝福することは神の喜びではありません。それは神にとって難しいことではありませんが、神にふさわしいことではないのです。ですから、この世には目に見える一時的な不幸や災いは存在します。
誰もが自分の子どもに対して無償ですべてを与えてやりたいと思う気持ちをもっていますが、賢明な親は、いくら裕福であっても、やたらめったら、物やら金やら与えたりはしません。子どもの発達や能力や特性に応じて、その必要に応じて順次与えていくものです。
神の祝福というのは計画的で教育的なものです。そして、何よりその祝福を通して伝えたいのは祝福そのものではなく、御自身の「愛」であり「人格」なのです。
そのような意味における宗教が与える「御利益」と、神がお与えになる「祝福」の違いについてお話しましょう。「御利益」がすべて悪いというわけではありません。私もまず普通に願うことは、御利益的なものです。それは人間であれば当然です。
私のことばの定義でも、祝福の中には御利益が含まれています。しかし、「本当の祝福や祝福の中心は御利益ではない」ということです。神の愛、神の御人格という、祝福の中心を失うと祝福の周辺も失われます。そのとき失われる周辺の祝福を、私は御利益と定義してお話しています。
このあたりをよくわかっていたくために、ユダヤ人の偉大な先祖であるヤコブという人について考えていきましょう。
ヤコブというのは、「押しのける者」という意味です。ヤコブは、その名の通り兄をも押しのけて祝福を奪おうという貪欲さと、それを実現するための狡猾さを併せ持った男です。
猟から帰って来た疲れ切った兄をだまして、長子の権利を強引に奪い取ったその手口には、やさしさも品格の欠片さえありません。どう読んでも褒められたものじゃないです。(創世記25:27~34)
この記事からわかることは、ヤコブは日頃から弟である自分の立場を悲観し、兄エサウを妬んでいたことがわかります。それは父イサクが明らかにエサウを偏愛していたことにも原因があると思いますが、イサクがアブラハムから受け継いだ祝福がすべて兄に持って行かれることに怒りを感じていたようです。そうでなければ、疲れて帰って来た空腹の兄に「たった一杯のあつものと引き換えに長子の権利を売れ」などということばはとっさに出てきません。たまたま煮物が出来上がったタイミングでエサウが帰って来たのか、エサウが帰ってくるタイミングを見計らって、ヤコブが調理をしていたのかは定かではありませんが、おそらく計算ずくでしょう。本来、兄弟は苦しみや悲しみを分かちあったり、互いの弱さを補いあったりするものでしょうが、ヤコブはエサウの弱点を知り抜いて、この場面を設定したように思えます。このように解説すると、ますますヤコブは最低な人物に思えてきます。
ヤコブの人格形成には、両親の養育態度も大きく影響していました。父イサクはエサウをひいきしていましたが、母リベカはヤコブをひいきしていました。これは家庭教育のあり方としていただけません。信仰なんか関係なく、紛れもまく馬鹿親の態度です。親子の関係が夫婦の絆に優先するのは、危険信号です。日本の家庭の場合はたいていこうなっています。昔から「子はかすがい」と言いますよね。かすがいとは、2つの材木をつなぎとめるためのコの字型の大きな釘のことです。聖書は、夫婦は一体、つまり一本の木だと言っているのです。死に瀕した夫をだます妻に、そうした麗しいものを感じることは出来ません。母リベカは大事なヤコブに入れ知恵して、死ぬ間際の夫イサクをだまします。イサクはその策略を見抜けず、ヤコブをエサウだと思って祝福してしまうのです。(創世記27章)愚かなストーリーです。
しかし、これは決してリベカとヤコブの策略がすぐれていたからではなく、エサウが長子の権利を軽蔑した結果、こういう展開になったと見るのが聖書的な見解です。(創世記25:34)「一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がいないようにしなさい。」(ヘブル12:16)と聖書は言っています。
人間の側のあれこれでヤコブが祝福を引き継ぐのですが、こうした一連の意地汚い不正行為の手口を使った結果、彼は祝福とともにその巻いた種を刈り取る経験をすることになります。
一杯の食物と引き換えに長子の権利を奪った取引も姑息なら、父イサクの死に際してのこの嘘も、負けず劣らずとんでもないものです。年老いて目が見えにくくなった家長の弱点につけこんだこの卑劣で子どもじみたトリックをもう一度確認しましょう。
「それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。」(創27:15,16)
弟ヤコブは、母リベカと一緒になって策略をめぐらし、「兄の晴れ着と子やぎの毛皮」を使って兄エサウになりすましてイサクの枕辺に近づきました。年と共に視覚と聴覚は衰えても、臭覚と触覚はまだ大丈夫でした。残された自分の感覚を信じたイサクもまた愚かとしか言いようがありません。
「ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。『声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。』ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。・・・イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。『ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。・・・』」(創27:22~27)
このだました方法をよく覚えておいてください。
弟ヤコブは兄エサウの憎しみと仕返しを恐れ、その後、おじラバンの家に潜伏します。母リベカは、ラバンが「自分の兄だから、可愛がっているヤコブを大事にしてくれる」と考えたのでしょうが、それは都合の良すぎる甘い考えというものです。ヤコブは死に際の父をだまし、兄の祝福を奪い取ったのです。より近い身内である親兄弟に進んで恥を追わせるような人間を、より関係の薄い親戚が親切に献身的に迎えるはずもありません。
ヤコブは羊飼いとして働きますが、おじのラバンは幾度もヤコブの報酬を変えます。ヤコブはラバンの下の娘ラケルを愛し、彼女をめとるために7年間仕えますが、ラバンはヤコブをだまして姉のレアを与えます。そして、ラバンの下でさらに7年仕えることになります。(創世記29:25~27)当然、こうしてめとったふたりの妻はうまくいくわけがなく、嫌われているレアの方が先に子どもを産むので話はますますややこしくなります。(創世記30:1~8)おそらくヤコブは自分の卑劣な方法を思い返し、神の前に恥じたことでしょう。そんな中でもヤコブは不思議な方法で神に祝福を受けて豊かになっていきます。(創世記31:5~9)
やがてイスラエル12部族の祖となる12人の子どもたちに恵まれ、安泰に老後を向かえると思えたときです
またも、ヤコブは、過去の愚かさを思い起こされる出来事に遭遇します。リベカが自分を偏愛したように、ヤコブはヨセフを偏愛します。これに特別な服を着せるのです。この感覚も普通に考えればどうかしています。兄弟はヨセフを妬んで、彼をエジプトに売りとばし、さらに父ヤコブにはヨセフの長服に獣の血をつけて、自分たちの仕業ではなく死んだように見せかけます。
「彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、『これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。』と言った。父は、それを調べて、言った。『これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。』ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、『私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。』と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」(創世記37:31~35)
ヤコブは子どもたちからまんまとだまされました。しかもそれは、自分が兄をだましたのとそっくり同じ方法でした。たとえ、求めるものが正しかったとしても間違った方法で、それを求めたことを、主は見逃してはおられなかったのです。
ヤコブの子であるユダも、家族である嫁のタマルからだまされています。それは彼女がやもめの服を脱ぎ、「ベールをかぶって遊女のふりをしていた」ので判別できなかったのです。これも情けない事件です。(創世記38:12~26)
この自分の嫁を娼婦だと思いこんで床をともにして身ごもらせた事実が、マタイの福音書のあるキリストの系図に出てくるのです。(マタイ1:3)
まだあります。ヨセフは実際に生きていてエジプトで大切にされます。エジプトのポティファルの妻に誘惑された場面でも、ヨセフは罪を犯さず逃れますが、「寝室に残された彼の上着」が物的証拠となってしまいます。
「ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。それで彼女はヨセフの上着をつかんで、『私と寝ておくれ。』と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。 『ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。』彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。」(創39:11~16)
ここまで来ると、横溝正史的な「ヤコブ家の一族、衣の呪い」とでも名付けたくなります。
蒔いた種の種類に応じて、収穫を刈り取るように、その育て方が収穫を左右すりように、人は必ず蒔いたように育てたように、その実を刈る取ることになります。これは神の法則です。
「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」(オバデヤ1:15)
旧約聖書のみならず、新約の恵みの下でも、その法則は同じです。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7,8)
罪は信じた瞬間にすべて贖われています。ヤコブが受けたのは、決して罪が赦されなかったための罰ではありません。祝福とは、神の法則から、神の御性質を学ぶことです。神の御性質がわからなければ、交わりはできません。神の御性質とは何でしょうか。
それは「人としてのイエス」です。私たちが、人生の歩みにおいて「十字架と復活を経験すること」これが祝福の中心なのです。ヤコブが兄を押しのけて求めた財産は、単なる「御利益」です。放蕩息子が父からもらった身代も「御利益」です。これらは、逆に苦しみや悲しみをもたらし、また、湯水のように無くなるものです。
そのような中で、自分のあさましさや醜さが浮き彫りにされ、己の人格や力量の底を見せられること、これが十字架であり、そこから復活したいのちによって、永遠につながる祝福が始まるわけです。「死を越えたよみがえりのいのち」、これは宗教のもたらす御利益とは全く別の次元のものです。
登録:
投稿 (Atom)