2008年3月21日金曜日

3月16日 羊と羊飼い (イエスのたとえ話 ⑧)


「あなたがたは、どう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もしいたとなれば、まことにあなたがたに告げます。その人は迷わなかった九九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいます父のみこころではありません。」(マタイ18:12~13)
これはおそらく聖書のたとえ話の中で最も有名なものではないでしょうか。日本人の生活は羊とはあまり縁がないのですが、羊は聖書の中に最も頻繁に登場する動物です。アベルが捧げたのは、彼が飼っていた羊の中の最良のものであり、それが彼の信仰の義を表すものでした。義人アベルと言われていますが、その義という漢字は、「羊」に「我」と書きます。まるでこのアベルの記事をもとに作られたような漢字です。他にも「美」や「祥」や「善」という漢字も「羊」が部首として含まれています。羊は十二支のひとつにも入っているように、一説によると、中国では8000年以上前から飼育されているそうです。「眠れない夜のために」というヒルティの名著がありますが、眠れない夜には羊を数えると良いなどと言います。羊を意味する英語のsheepというのは睡眠のsleepを語源としています。またラテン語で財産を表すpecuniaということばは、羊(家畜)を意味するpecusに由来しています。これは、日本では石高で財力や権力を表すのに似ています。こうして、洋の東西を問わず、ことばの中に組み込まれるほどですから、ヨーロッパからアジアにわたる大陸の全域において、羊はもっとも人の暮らしと関わりの深い動物だったわけです。平らな広い牧場で放牧される場合もありますが、とりわけ山間で遊牧する人々にとっては、このたとえは非常に身近でよくわかるものだったでしょう。イエスに「どう思いますか」と問いかけられたときに、99匹を残して1匹を捜しに行く羊飼いの気持ちや、その1匹を見つけたときの喜びは、容易に自分の体験と結びついて理解できたのです。ですから、このたとえは、平均的な羊飼いの行動と心情について語っているのであって、例外的な特に善良な羊飼いの話ではないということを理解しておく必要があります。
このたとえにも見られるように、羊は最も「人間性」を象徴する動物ですが、羊と人との間にはいったいどのような共通点があるのでしょうか。ご承知のように、羊と言えば、まず、あたたかくて良質の毛がとれます。それから、肉やお乳もおいしいです。しかし、人間からは毛も肉もとれません。では、何が似ているのでしょうか。それは性質です。羊は非常に臆病で弱い動物です。他の動物のように、俊敏さもなければ戦うための条件を備えていません。攻撃性もなければ、身を守るすべもない。足は短く、鋭い角も牙も爪もありません。羊は敵に襲われると、斜面を上へ上へと進み風上に向かって移動する性質があり、帰巣本能が乏しいので、迷ってしまうと、まさしくこのたとえのように群れに自力で戻って来ることは出来ないのです。人というのは、神の目にそのようなものだと聖書は語るのです。そして、一番興味深いのは人間の「群衆心理」にも似た羊の性質です。羊の群れには決まったリーダーがいないので、群れの中の一頭が身に危険を感じてあらぬ方向へ走り出すと、群れ全体が一斉にあとに続いて走るというような行動をとるのです。羊にとっては単独で行動することは非常に不安で、一頭だけを群れから離すとパニック状態になり、捕まえるのも難しいのです。そのため「一頭の羊を捕まえるよりも、百頭の羊を捕まえるほうがたやすい」と言われたりします。このように考えてくると、一匹の羊と一人の人間の比較もさることながら、集団になるとさらに良く似ているなあと思うわけです。イエスさまは御父とともに造物主ですから、聖書のたとえ話は人間のように観察と経験にもとづいたものではなく、このたとえのために羊という生き物を作られたとも言えるわけです。
しかし、比較的わかりやすいこのたとえも、読み方の視点がずれると、全く本来のメッセージは届かないままに、違った意味にすり替えらえて、贖いとは切り離されたイメージだけが独立してしまうのです。「迷える小羊」という表現の中には、人間のこころの葛藤や孤独だけがあり、羊飼いの存在は忘れられています。一例をあげてみます。夏目漱石の「三四郎」という小説がありますが、三四郎と想いを通わせる美禰子という女性は、stray sheepということばを印象的に使いながら、三四郎への思いと自分の行動の矛盾や、時代や存在の不安の中でエゴイズムに引きずられていく悲しみを象徴しています。残念ながら、イエスさまのたとえ話は、こういう「迷える状態」に留まり、自分の迷いを文学的に描写して自己憐憫することが目的ではないわけです。たとえの中心は、「羊が迷っていること」ではなく、羊飼いに見つけられて、「羊飼いが喜んでいること」にあるわけです。ルカの福音書15章では、その当たりがいっそう明確になるように、「銀貨を見つける女性のたとえ」と、「放蕩して帰ってきた息子を迎えるお父さんのたとえ」が3つ連続して描かれています。私はあえて、「失われた銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」と言いませんでした。この3つのたとえはいずれも、失われていたものが見つかった喜びが共通する主題なのです。ルカ15章と、マタイ18章の違いは、このたとえが語られている状況です。ルカの場合は「この人は、罪人たちを受け入れて食事までいっしょにする」(ルカ15:2)というパリサイ人や律法学者のつぶやきに対する答えでした。マタイの場合は、「それでは、天の御国ではだれが一番偉いのでしょうか」(マタイ18:1)という弟子たちの質問に対する答えでした。何を中心にしてどこから光を当てるかで、話のポイントや解釈は大きく異なります。たとえが語られた具体的な状況や論理的な整合性をしっかり把握することなしに、イエスさまのみこころは読めません。 羊が弱くて迷いやすい人間性を表していることは既に見ましたが、もうひとつの重要な意味があります。羊は、「人間性」とともに、その「人間性をまとわれたイエス」を象徴しています。冒頭でお話ししたアベルの捧げた羊もそれです。過越しの生け贄として殺される小羊は、まさに十字架のイエスです。 ヘブル人への手紙にはこう記されています。 「そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。」(ヘブル2:14) 「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは、民の罪のためになだめがなされるためなのです。」(ヘブル2:17) さらに、預言者イザヤは、そのふたつの象徴を一つの預言の中で見事に書き分けています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かって道に向かって行った。しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:6~7) 「私たち」は罪人である人間。そして「彼」はイエスです。ともにその「人間性」を羊という動物は象徴しています。一方の羊はさまよっており、もう一方の羊は従順です。この御方は「神の小羊」として紹介され、徹底して無力でした。イエスさまはご自分で、自分からは何事も行うことは出来ないと繰り返して語られました。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことは出来ません。」(ヨハネ5:19、5:30,8:28)
羊飼いであるイエスは、「父のみこころのゆえに」羊の弱さを身にまとい、羊の不安や恐れを体験し、「父のみこころために」失われた一匹を見つけるまで捜し求め、自らを捧げ、羊を贖うのです。ただイエスだけが、父の愛と義と羊の弱さをともに知る唯一の仲介者なのです。神と人との唯一の仲介者はイエスです。信仰の創始者であり、完成者はイエスです。私たちはこの御方に十字架によってつながれているだけなのです。羊は羊飼いを求めません。人間の書く小説は「迷える小羊の葛藤」で終わります。みことばは、羊飼いが羊を見つけ出すのです。羊が羊飼いを発見するのではありません。これは、「隠された宝」や「良い真珠」を買うのは誰かという話と共通するでしょう。
ダビデは「主は私の羊飼い」と告白しました。ですから、その後には、「私は、乏しいことがありません」ということばが続きます。(詩編23:1)「私は迷える小羊です」というのも大事な告白ですが、「羊飼い」のもとへ行かなければ、その告白は泣き言であり、文学や哲学のレベルに留まります。羊飼いの愛が見えなければ、「乏しさ」からくる不安、恐れ、飢え、渇きから抜け出すことができません。「わたしは良い牧者です。良い牧者は、羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)とイエスさまは言われました。繰り返します。羊がどうするかではなくて、羊飼いがすることが大事なのです。それがすべてです。喜ぶのは羊ではなく羊飼いです。本当に救いの意味と価値を知っているのは、罪人ではなく救い主です。私たちの罪は、神が人となってあのような苦しみを受けなければならないほどどうしようもなかったのです。同時に神がそこまでしてでも成し遂げたいほどにこの贖いの計画は完璧だったのです。迷える羊はそんなことなど知らずにただ迷っていただけです。
では、迷っている羊の側からは、本当に何ひとつ出来ないのかという疑問が残ります。ひとつだけできることがあります。この一時によって羊飼いのもとへ帰れるかどうかが決まります。それは羊飼いの声を聞き分けることです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。また、わたしは彼らを知っています。そして、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)みことばを聞くこと。他のいろんな声から良い牧者の声を聞き分けることです。羊の所有者ではない雇い人に騙されてはいけません。人に惑わされてはいけません。聞く耳のある者はたとえを聞き分けることができます。最後に羊飼いが捜し求めるのは一匹です。大会衆ではありません。イエスさまはよみがえって弟子たちのグループに現れてくださったとき、よみがえりをともに喜んだ弟子たちとその喜びを共有されたでしょう。しかし、イエスさまがさらに心にかけたのは、そこにいなかったトマスのことでした。それが羊飼いの心です。イエスさまはトマスのためだけにもう一度現れてくださいました。トマスはイエスさまがラザロたちのためにもう一度ユダヤに行こうと提案されたときに「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言った血気盛んな人物です。しかし、彼に出来たことはイエスを見殺しにすることであり、よみがえったイエスを信じないことでした。彼が出来たのは、さまようことだけです。当然、彼の心は不安といらだちでいっぱいでした。彼は自分を捜し求めてくれた羊飼いである主とわきの傷を見て、イエスさまを「私の主。私の神」として受け入れます。キリストは全人類のための救い主ではなく、あなたの救い主です。十字架は全人類の罪の総計ではなく、あなたの罪のためです。羊飼いはそのように一匹、一匹の名を呼ぶのです。あなたは名を呼ばれましたか。そして、答えましたか。  私たちは小さくて弱いままでいいのです。呼びかけに答え、ただこの方についていくことです。

2008年3月17日月曜日

3月9日 隠された宝と良い真珠 (イエスのたとえ話⑦)

 マタイ13:44~58

 人間中心に、また自分勝手に、みことばを読んでいくと、イエスさまが語りたかったことではなくて、「自分の聞きたいこと」をたとえから無理に読み取ってしまう可能性があるということは何度もお伝えしてきました。 今日は「畑に隠された宝のたとえ」「良い真珠をさがしている商人のたとえ」「あらゆる種類の魚を集める地引網のたとえ」を取り上げますが、この3つのたとえに関しても、後に続くイエスのことばを含めて、その連続性をしっかりとらえないと、非常に表面的で浅薄な読み取りに終わってしまいます。 たとえばこの3つのたとえのうちの2つのたとえを組み合わせたり、あるいはそのいずれかを取り上げたりして教訓を語る場合、「隠された宝や良い真珠を買い取るために、見つけた人は持ち物を売り払っています。みなさんも天の御国を買い取るために、信仰によって自分の持っているものすべてを捧げましょう。」というようになるわけです。もしかしたら、みなさんも「このたとえはそういう意味だ」あるいは「それ以上それ意外の意味などない」と既に刷り込まれて、読み流して来られたかも知れません。しかし、このたとえがその程度の意味のものであれば、わざわざ日曜の朝に教会まで出かけて行って職業牧師に解き明かしてもらわなくても、家で聖書を読んでいれば小学生でもわかるでしょう。そんなことを伝えるためだけであれば、わざわざこんなたとえが2つも必要でしょうか。さらに3つめの地引網のたとえとのつながりはどう説明しますか。最初に引き出したい教訓があるので、3つのうちの前の2つか、あるいはその2つのうちのいずれか1つの話しかしないのです。イエスさまは毒麦のたとえの解説とこの3つのたとえのあとに、「あなたがたはこれらのことがみなわかりましたか」と弟子たちにたずねておられます。それは、「持ち物を売り払って天の御国を買いましょう」というような答えを確認するためなのでしょうか。イエスさまがこのマタイ13章の中でも繰り返しおっしゃっているように、たとえというのは、「見るべきものを見ていない、聞くべきことを聞いていないので、そのことが明らかになるため」であり、「奥義を知ることが許される者と許されない者が聞き方に振り分けられるため」なのです。(マタイ13:11~13)また、たとえは「世の初めから隠されていることどもを物語るためのもの」(マタイ13:35)であり、新しく付け加えられたものではないということも覚えておく必要があります。
 たとえは、隠されているものを本気で求める気のない人間には、真実を秘めるために用いられているということを忘れないでください。たとえで語るのは、「本当に知りたい人だけに奥義を伝えるため」であり、本当のことを知りたくない人、知りたいふりをしているだけの人にはとんでもない誤解を生むようなからくりになっているのです。たとえは、地引き網のように海の中にいるものを集めます。そこには離れていく群衆もおり、弟子も混じっています。本物の弟子もいれば偽物の弟子もいます。それは「毒麦のたとえ」では収穫のときまで、「地引き網のたとえ」では、網を岸に上げるときまで混じり合っているわけです。たとえを理解できたかどうかは、知識の量ではなく、いのちの経験によって確実にふりわけられるのです。だから、イエスさまはたずねられるのです。「あなたがたはこれらのことが本当にわかったんですか?」と。
それでは、細かく見ていきます。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)日本でも、昔話で裏の何でもない畑に小判が埋まっているというものもあれば、戦国時代の埋蔵金などが話題になったりもします。舞台は1世紀のパレスチナです。争いで略奪が繰り返される中、資産家が地中に財産を埋めるということはけっこうあったようです。このたとえは、まだ自分の土地ではない財産を掘り出すと所有権の問題が出てくるので、発見者は宝を見つけたことを公表しないで畑ごと買うという話です。現代で言うなら株のインサイダー取引みたいなもので、よく考えてみると、何だか妙なたとえです。そこで、まず基本的な質問をひとつします。天の御国の宝を見つけて買い取るのは誰でしょう。それは、私たちではありません。誰がイエスの価値を認めましたか。イエスは宝とは見なされず、人にさげすまれ、捨てられ、十字架に架けられるのです。「私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)とイザヤが預言したとおりです。たとえ人が御国を買いたいと思っても、自分の罪を贖いたいと思っても、それにふさわしい代価を差し出せるものはいません。「人は自分の兄弟をも買い戻すことは出来ない。自分の身代金を神に払うことは出来ない。-たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。-」(詩編49:7~8)と書かれています。誰も神の賜物を買うことは出来ないのです。このたとえは、私たちが宝を買う話ではないのです。買い取ることが出来るのは主です。では買い取られる畑とは何ですか。それが私たちです。畑に宝を埋めたのは誰ですか。それも主です。主が畑である私たちを丸ごと買い取ってくださるのです。「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」(Ⅰコリント3:9)とパウロは書いています。畑には大した価値がありませんが、そこには、霊またいのちであるみことばがまかれ、それが信仰によって受け止められれば、聖霊が豊かに何十倍もの実を結びます。それが天の御国であり、神の宝です。持ち物を全部売り払うのは、私たちではなく主です。勿論、主のその愛を知って私たちも自分の持っているわずかなものも、そして自分自身もすべて主に捧げたいと思うでしょう。しかし、それはあくまでも結果であって、「さあ、持ち物を全部売り払って天の御国を買いましょう」という話ではないのです。実際に永遠のいのちを欲した金持ちの青年は、イエスさまのことばに従って持ち物を全部売り払うことができず、悲しんで去って行ったではありませんか。このたとえのとおりになるわけがないのです。人は自分から進んで地上の宝を捨てて天に宝を積むことなど出来ないのです。(マタイ19:21~22)それが罪人の現実です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)「なだめの供え物」の「なだめ」とはいったい何をなだめるのですか。私たち罪人の良心でしょうか。違います。父の義をなだめるのです。御子イエスの血だけが、父の義をなだめるのです。父がひとり子を世に与えること、これが愛であり福音です。私たちが宝を買うことなど愛などではなく、福音とは関係のない話なのです。人が何かの犠牲を払って御国のものを手に入れるというのは、まさしく宗教の発想です。
 キリストという神の宝は私たちという見た目は価値のない畑の中に埋められています。神の知恵によって真の教会は隠されているのです。このように読めば、畑の宝をひとりじめにするために、宝を見つけたことを隠しておくおかしな人のたとえより、ずっとわかりやすいはずです。
 次に真珠です。「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45)真珠が養殖できるようになったのは19世紀の後半のことです。真珠は今でも高価なものですが、この当時はさらに高価で、極めて貴重なものでした。真珠は貝の体内で生成される生体鉱物です。貝は自分の体内に入った異物を核として、カルシウム(炭酸カルシウムのアラゴナイト型結晶)とタンパク質(コンキオリン)が交互に同心円状に重なってできあがります。真珠を養殖する場合もこの性質を利用します。ドブ貝などの貝殻を丸く削った核に、アコヤ貝の細胞の一部を切り取ったピースと呼ばれる小さな細胞をひっつけてアコヤ貝に挿入し、その中で育てるのです。 この雛型は何ともすばらしいと思いませんか。 私たちは天の御国にとっては異物であり、どんなに丸く削ろうが所詮はドブ貝のようなものです。それをアコヤ貝が自分のからだを傷つけ、その体内で時間をかけて何層にもコーティングして、あのすばらしい輝きを産み出すのです。真珠を手に取った人がその美しさに感動するとき、その核になった異物のことを気にすることはありません。また、他の宝石は、原石をカッテイングする加工が必要ですが、真珠は貝の命のいとなみの中として、隠れたところですでに完成されています。良い真珠をさがしている商人、それは主です。真珠は贖われた私たち。良い真珠とは健全な教会です。そして、真珠そのものが産み出されるプロセスの中に、贖いのモデルがあります。すばらしい値打ちの真珠は一つしかありません。それはどの教団、どの先生につながる群れでもなく、イエスのいのちにつながる群れはただひとつしかないからです。イエスはそのひとつの価値ある真珠を産み出すために、ご自分の血で異物である私たちを包まれたのです。
最後に地引き網です。この「地引網のたとえ」は、隠された宝や良い真珠のたとえよりも、「毒麦のたとえ」に似ています。ともに、質の良いものと悪いものが混じっていて、それが後になってより分けられるという筋書きが共通しています。悪い者たちは、「火の燃える炉に投げ込まれ、泣いて歯ぎしりするのです」(マタイ13:42,50)毒麦のたとえの解説と地引き網のたとえが、隠された宝と良い真珠のたとえをはさんでいるのですから、そこにひとつの共通したテーマや流れがあると考えるのは当然であり、さらにそれは、前半の「種まきのたとえ」から始まって「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」という流れの中でそれぞれのたとえの個別の意味とつながりや整合性を見ていくべきなのです。イエスさまはおたずねになっています。「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか」(マタイ13:51)彼らは「はい」と言いました。そこで、イエスのことばです。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉の中から新しいものでも古いものでも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13:52)
弟子たちの中には、この世における学者はひとりもいませんでした。みな「無学な普通の人」でした。それなのになぜイエスは「学者」と言われたのでしょう。彼らはこの世の学者ではなく、御国の学者です。ニコデモはこの世の学者でした。ニコデモは学びましたが、新しく生まれていませんでした。御国の学者は御霊によってみことばを解き明かします。イエスさまもその知恵と不思議な力を、この世の学問によって得たものではありません。日常の普通の営みの中で、信仰によって奥義を見つけられたのです。新しいものとは、古いものの中に隠されていたものだからです。 新しいものとは、目に見えない御国と福音の奥義です。古いものとは、律法と目に見える被造物の世界です。それは、単に自然界だけでなく、経済や法律なども含むすべての人の営みです。たとえというのは、そのふたつの世界を行き来するための鍵なのです。

2008年3月5日水曜日

3月2日 パン種のたとえ (イエスのたとえ話⑥)

    ルカ13:20

「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、3サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」(ルカ13:20)このパン種のたとえは、マタイとルカが記していますが、ともに前回取り上げた「からし種のたとえ」とセットになっています。マルコはからし種のたとえを単独で取り上げています。ルカはこのたとえの本題の前に、イエスさまが語られた重要な前置きのことばを書いています。「神の国は何に比べましょう。」(ルカ13:20)ということばです。この表現は「からし種のたとえ」の前にも見られますが、イエスさまがあえてこの短いたとえにこのような前置きをしておられるのは、「地上における神の国の状況というのは、非常にたとえることが難しいのだ」というニュアンスを伝えておられるのです。このふたつのたとえが、「小さなはじめが大きな終わりになる」というような、単純に信仰や教会の成長を表すものだとしたら、このような前置きは全く不必要に思えます。私たちがたとえ話から読みとるべきことは、私たちが聞きたいことではなく、イエスさまが伝えたかったことであるべきです。
「パン種のたとえ」は決して望ましい成長のたとえではなく、不自然で喜ばしくないことたとえなのです。聖書は一貫して、パン種は退けるべき忌むべきものであるとしています。「あなたがたは7日間種を入れてないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第7日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。」(出エジプト12:15)「あなたがたは、種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたってこの日を守りなさい」(出エジプト12:17)「七日間はあなたたがたの家にパン種があってはならない。誰でもパン種の入ったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。あなたがたは、パン種の入ったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所はどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」(出エジプト12:19~20「あなたがたは主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。」(レビ2:11)「主への火によるささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで食べなさい。これは最も聖なるものであるから」(レビ10:12)種を入れないパンは「悩みのパン」と呼ばれ、それを食べるのは、「急いでエジプトの国を出たから」で、「その日を一生の間覚えているため」と教えられています。(申命記16:3)旧約聖書の中で例外的に一ヵ所だけ、「パン種を入れたパンを焼け」と書かれている箇所がありますが、これはユダヤ人のそむきの罪を主が告発しておられるものです。(アモス4:4~5)このように見てくると、からし種やパン種のたとえを信仰や教会の成長に関する励ましだと受けと止めているのは、皮肉を言われているのに褒められているのだと勘違いして喜んでいるぐらい愚かだということです。勿論、ここまでしつこく書かれているわけですから、よほどの馬鹿でもない限りパン種が良いものだとは思えません。それでもなお「パン種のたとえ」はすばらしい成長のたとえだと主張したい学者たちは、「パン種は多くの場合、悪影響の代名詞のように使われているが、イエスがあえてそれを御国のたとえとして用いられたのは、人々の意表をついて印象づけるためだった」などと言っているのです。ここまで来ると、屁理屈も立派なものです。
福音書に戻りましょう。(マタイ16:1~12)パンの奇跡のあと、ガリラヤ湖を渡って対岸に移動した弟子たちは、パンを持って行くのを忘れてしまいました。そこで、イエスさまが「パリサイ人とサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われたときも、弟子たちは、パリサイ人とサドカイ人との問答のことではなく、パンを忘れて来たことを叱られているのだと勘違いしてしまったのです。イエスさまがおっしゃったのは、パンではなくパン種のことだったのです。パン種とは、「パリサイ人やサドカイ人の教え」のことです。(マタイ16:12)要するに神のことばを人間の言い伝えによって空文にしていること、神をあがめると言いながら、神を神としない態度を否定されたわけです。ちなみに、マルコの福音書では「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」(マルコ8:15)となっています。私はこの表面上の不一致については、どちらかが間違っていると言うのではなく、イエスさまは、不純物が入り込むことについて、しばしばこの「~のパン種」という表現を用いられたのです。そのことを証明する一例は、ルカの福音書に見られます。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです」(ルカ12:1)つまり、パン種の正体は、「人の教え」と「偽善」なのです。イエスさまがはっきりとそうおっしゃっているのであって、別の解釈など出来るはずがありません。パン種をとって粉に入れる「女」とは、もちろん「教会」のことです。  粉の量にも注目してみたいのですが、3サトンと書かれています。1サトンが13リットルですから、3サトンでは39リットルです。かなりの量です。一人の女性が家族のためにパンを焼くとしたら、パン種を入れて膨らまさなくても十分な量の粉があるのです。
パンは人間のいのちを支えるものです。パン種が取り除くべきものであることは少し置いておいて、食の話をします。最近は食の安全を脅かすニュースが連日報道されています。戦後日本の食文化は大きく変質しました。アメリカの余剰穀物を買わされ、パンを多く食べるようになりました。学校給食も未だに半分はパンです。米を食べなくなったので、米を作らなくなりました。米が不作のときにはタイ米などを輸入する事態にまで陥ったわけです。子どもの好きな食べ物は「カレー」「ハンバーグ」「スパゲティ―」です。日本の代表的なお総菜である「しらあえ」「ひじき」「おひたし」などは、給食でも不人気メニューであり、だいたいきちんと作れる母親も少なくなってきました。私たちが何を食べるかというのは、きわめて大事なことなのです。魚も昔ほど食べなくなりました。最近、骨なしの魚はよく売れているそうですが、もちろん骨なしで泳いでいる魚などいません。日本人が手軽に食べられるように、その骨は中国人が低賃金で働いて抜いているのです。肉も輸入が大半で、きちんと調べることもされず、病死牛肉や薬漬けの牛肉が、そのままあるいは加工食品として食卓に上ります。これは「いのち」を、さらに言えば、キリストの雛型である「生け贄としての血」を馬鹿にした報いです。食というのは単なる栄養源ではなく、キリストのいのちによって養われること、またその喜びをともに分かちあうことの象徴なのです。料理には感謝と愛情と手間をかけるべきです。そして、それをともに分かち合い喜ぶべきなのです。
日本は世界でも最高の豊かな食文化を持ちながら、それを捨てようとしています。今回の餃子事件を通して、「国内で簡単につくれるものを、殺虫剤をふりかけてもらうためにわざわざ外国でつくってもらうのはどこかおかしい」と誰もが気づいたはずです。日本人が食を見つめ直すきっかけになってくれたらと思います。仕事の帰りの遅いお父さんや、塾通いの子どもたちは、お母さんが作った手料理をともに分かち合うことが少なく、ひとりぼっちでジャンクフードをかき込むというような食事で、とりあえず飢えを満たすようなもので済ませてしまうことが多いようです。「私のからだはワインで出来ているの」と言った女優がいましたが、いまやコンビニ弁当や冷凍食品でできたからだの若者は多いでしょう。そういうものばかり食べていると、そういう人間になってしまうのです。
「わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べたが死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のための私の肉です」(ヨハネ6:48~51)このことばは、聞いた者たちに大きな混乱をもたらし、弟子たちの多くがつまずきました。(ヨハネ6:60)それほど本質的なメッセージだったのです。なぜ、パンにパン種を入れてはいけないのでしょうか。それは、パンはイエスのみからだを象徴しているからです。パンは一時的な地上のいのちとからだを支えるものです。しかし、まことの食べ物、いのちのパンとは、人のなられたイエスのいのちそのものを自分の中に受け入れることであり、イエスと永遠のいのちを共有します。
パウロもまた、人間の欲望を満たす教えが、キリストの受肉と贖いのみわざを台無しにしてしまうことについて、この「パン種のたとえ」を用いて注意を促しています。「あなたがたの高慢はよくないことです。あなたがたは、ほんのわずかなパン種が、粉の固まり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで祭りをしようではありませんか。」(Ⅰコリント5:6~8)
このように聖書全体から見れば、「パン種のたとえ」は、「からし種のたとえ」とともに、教会あるいはキリスト教が、人間の欲望や価値観と結びついて大きくなることは決して喜ばしいことではないというメッセージを伝えるものであることがおわかりいただけたと思います。キリスト者にとっては、組織や影響力が大きくなることではく、むしろ信仰の「純粋さ」や「真実さ」という質的なものこそ大事なのです。祭りの価値は、規模ではなくその内実です。イエスの臨在のないメガチャーチや大聖会はパン種で膨らんでいるだけです。大事なのは、教団の名や預言者の名にもとではなく、ただ主の御名のもとに集まることです。本当に主の御名のもとに信仰によって集まっているなら、そのただ中にいつも主はおられます。

2008年2月22日金曜日

2月17日 からし種のたとえ(イエスのたとえ話⑤)

マタイ13:31~32

種はどのような種でも小さなものですが、からし種は当時知られていたあらゆる植物の中でも最も小さな種です。パレスチナでは、からし種は香辛料としてだけではなく、防腐剤や医療用にも用いられたようです。黒からしの種は0.95~1.6mmで重さは1mg。しかし、生長するとどの野菜よりも大きくなると書かれています。ガリラヤ湖畔においては、2.5~3mほどにもなったと言われています。たとえの中心は「小さなものが大きくなる」ということです。「小さなはじめが、大きな終わりをもたらす」という事実をわかりやすく対照しています。ただし、ポイントは野菜でありながら木のように生長したその大きさではなく、「はじめの種の小ささ」にあります。生長したからし種より大きな木は他にもありますが、からし種より小さな種はありません。
からしというのは正確には野菜であって木ではありませんが、「木が生長するたとえ」は旧約聖書の中にもいくつか見られます。このような関連の聖句をしっかり調べて、聖書全体が伝えるメッセージのバランスを考えるのは大切なことです。エゼキエル書やダニエル書には、木の生長が「王や帝国の繁栄」の象徴として預言されているので、簡単に見てみましょう。エゼキエルは、バビロンに捕囚されるイスラエルの姿と、キリストによる救いの未来を、二羽の大鷲と木のたとえで見事に表しています。(エゼキエル17:1~10, 22~24)最初に出てくる大鷲(3)はバビロンの王ネブカデネザルであり、若枝の先(4)はエホヤキン、地の種(5)はゼデキヤ、もう一羽の大鷲(7)はエジプトの王です。ゼデキヤは、大鷲バビロンに反逆するため、もう一羽の大鷲エジプトに頼るが裏切られ、ネブカデネザルの手によって、目をえぐり出され、足かせをつながれえてバビロンに連れて行かれます。一方では、ダニエルがイスラエルを捕囚したバビロンの王ネブカデネザルの盛衰について、王自身が見た大きな木にまつわる夢を解き明かしています。(ダニエル4:10~27)これらのたとえの中では、木の生長自体は良いことでも悪いことでもなく、主の主権によって、人は栄えもすれば滅びもすることを教訓として語っているにすぎません。たとえの中では、木は確かに繁栄の証として生長していますが、大事なのは「神の主権」に服することだと教えています。しかし、このような旧約のモデルがあるので、「からし種のたとえ」は、多くの場合、上っ面だけをとらえた「御国の拡大のたとえ」としてとらえられてきたのも事実です。しかし、「からし種のたとえ」ただそれだけの単純なものではありません。マタイの福音書を見れば、それはさらに明らかです。「種まきのたとえ」に続いて「種まきのたとえの解説」があり、「毒麦のたとえ」があって、次に「毒麦のたとえの解説」が続くのではなく、その間に「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」が挿入されているのがわかります。従って、これらのたとえはそれぞれに深い関連を持っており、まさに文脈の中で解釈していく必要があるわけです。つまり、この順番は、「からし種のたとえ」は、「種まきのたとえ」の続編であり、「毒麦のたとえの解説」の前提であるという読み方が必要で、そのように意図された編集になっています。では、そのように読んでいきましょう。「種まきのたとえ」では、4つのうち3つの土地の状態は悪いのであり、まかれた種の総量に対して仮に4分の1ずつがそれぞれの条件の土地に落ちたとすれば、4分の3、つまり75パーセントの土地は実を結ばないのです。さらに、「毒麦のたとえ」では、畑には良い麦と見分けのつきにくい毒麦が根を絡ませて広がっています。この文脈から考えても、「からし種のたとえ」だけが、全体の文脈から無視した「小さな信仰がすばらしい教会成長につながる」というような単純なモデルであるわけがありません。さらに次回詳しく見ることになる「パン種のたとえ」でも明らかですが、パン種を入れてパンを大きくすることは決して喜ばしいことではなくむしろよくないことなのです。粉の中にパン種を入れる女とはもちろん教会のことです。つまり、教会は一見非常に大きくなりますが、それは「必ずしも好ましい生長ではない」と読み解くことが出来るのです。ですから、みすぼらしい小さな集まりがやがて世界的な影響力を持つようになり、今は日本人口の1パーセントにすぎないクリスチャンだが、やがて大リバイバルが起こると多くの人が救われるのだというたとえではないのです。
生長したからし種の木の姿の描写に注目すると、「空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になる」(マタイ13:32)と書かれています。この表現にも少しこだわってみます。マルコでは、「大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどなります」(マルコ4:32)ルカでは、「生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作り増した」(ルカ13:19)となっています。共通するのは、いずれも「空の鳥が」「枝に」「巣を」作っているということです。空の鳥とは、種まきのたとえの解説によれば人の心にまかれたみことばの種を取り去る悪い者(サタン)です。(マタイ13:19)「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」(エペソ2:2)という表現も思い起こされます。「枝に」「巣」が張られるとは、まさにキリスト教の分裂・分派を指し、党派心による自己主張が、悪いものに巣を張られるための枝を提供しているという見事な描写だと言えます。黙示録に目を転じても、ペルガモの教会にはサタンの王座があると書かれています。「わたしはあなたの住んでいるところを知っている」(黙示録2:13)目に見えて明らかになっているものを「わたしは・・・・知っている」となどという言い方はしません。影に隠れているもの、隠そうとしている真実を見通しているという警告です。「大きな枝の影の部分さえも神の光が照らし出している」と告げているように感じます。黙示録の中には、さらに、「憎むべき鳥どもの巣くつ」(黙示18:2)というおぞましい表現も見られます。これもまたこの世ではなく、教会の霊的堕落を指していることは明白です。
種まきのたとえにおける種は「みことば」でした。毒麦のたとえにおける良い種は「御国のこどもたち」でした。では、小さなからし種とは何を指しているのでしょうか。その秘密を解くみことばはルカの福音書にあります。「もしあなたがたにからし種のほどの信仰があったなら、この桑の木に『ねこそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(ルカ17:6)このみことばから、からし種は「信仰」を指していることがわかります。この不思議なみことばは、「私たちの信仰を増してください」という使徒たちの願いに対しての答えです。信仰は小さな目に見えないほどのからし種程度で十分。つまり、信仰は量的なものではなく、質的なものなのだと主はお答えになったわけです。
では、なぜからし種ほどの信仰に出来る大きなことの例として、桑の木が出て来るのでしょうか。そもそも桑の木を海に植えかえる必要があるのでしょうか。また、そんなくだらないことを願う人がどこにいるのでしょう。サタンがイエスさまを誘惑したように、「腹ぺこの人が石をパンに変える」という話なら意味がわかりますが、「陸に生えている桑の木を海に植え替えること」にいったい何の意味があるのでしょうか。私は長い間そのことを疑問に思っていました。しかし、最近になって、陸はユダヤ人を海は異邦人の世界を表しているのではないかと考えるようになりました。つまり、祝福が律法を守ることによってではなく、信仰によって異邦人に移っていくことを意味しているのです。イスラエルの選びは恵みですが、本当の救いは信仰によって教会にもたらされます。(ガラテヤ3:14)ちなみに桑の実は最も貧しい人々の食べ物でした。求められる信仰の質とは何でしょうか。それは、イエスを信じるということです。十字架を信じるということです。よみがえりを信じるということです。私たちがキリストのものであれば、約束による相続人なのです。私たちは、何かを築き上げるのではなく、何もしないで、イエスの信仰、イエスの勝利を相続するのです。(ガラテヤ3:29)信仰の創始者はあくまでもイエスです。(ヘブル12:2)毒麦のたとえにおける良い麦の収穫も、実ははじめの「地に落ちて死ぬ一粒の麦」にかかっています。(ヨハネ12:24)はじめの一粒が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままなのです。毒麦はおろか、たった一粒の良い麦の収穫も期待できません。すべてはイエスさまの「人の子として」の父に対する信仰にかかっているわけです。ですから、からし種の信仰も、「ささやかな私の信仰」を出発点に考えては間違いです。出発点は「イエスの信仰」です。神が人として、信仰者として生まれ、歩み、死んでゆくということ、これがからし種です。あらゆる栄光をお受けになるにふさわしい御方がそのあり方を捨て、ご自分を無にすること、仕える者の姿をとられたこと(ピリピ2:5~8)が、からし種の無に等しい小ささの根底にある意味です。「キリストが神の御姿であられる方なので、神のあり方を捨てることが出来ないと考えられた」としたら、私たちも大きな信仰も、小さな信仰もなければ、信仰の対象そのものを失うわけです。
先日私はこの一月に生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて、祝福の祈りをさせてもらう機会がありました。私は力を入れたらこわれてしまいそうな小さな赤ちゃんを胸に抱き、そのやわらかい手触りとぬくもりを胸に感じながら、イエスさまが人の子として、全能の神が、全く無力な人間の赤ちゃんとして生まれてくださった事実に対して、改めて厳粛な気持ちになりました。そして、神の子イエスを人の子としてわが胸に抱いた母マリヤの驚きや信仰の実際はどうだっただろうと思いをはせたのです。マリヤは最初からすんなり御使いのことばを信じたわけではありません。「どうしてそのようなことになりえましょう」(ルカ1:34)と言っています。当然です。妊娠があり得ないことはマリヤが一番良く知っています。しかしそのやりとりの中で、「神にとって不可能なことは一つもない」(37)と御使いに言われ、そのとおりだと受け入れます。そこではじめて「ほんとうに主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばのとおりこの身になりますように」(38)と言っています。私たちがアーメンと言うとき、実はこのマリヤ告白と同様の告白をしているのです。また、こういう告白でないと軽々しくみことばに対してアーメンなどと言ってはいけないのです。このマリヤの一言が人の子イエスの誕生を実現させたのです。マリヤの子宮に着床した人の子イエスは、まさにからし種のような小さな細胞にすぎませんでした。そしてマリヤのこの一言も、言わばからし種のような極めて小さな信仰でした。そこには神学も理論的体系も教理も律法もありません。マリヤは、神の全能とみことばの約束の真実と、そしていのちそのものを受け入れたのです。

2008年2月8日金曜日

1月27日  毒麦のたとえ(イエスのたとえ話④)

          マタイ13:24~30 36~43

毒麦という種類の植物があることはよく知られています。毒麦というくらいですから、その特徴は、まず麦によく似ていているということ、そして毒性があるということです。それは区別がつきにくいほどよく似ていて根が絡み合うので、毒麦を抜こうとすると良い麦をも傷つけてしまう危険があります。これをもしあやまって食べた場合は、吐き気やめまいや嘔吐やしびれを引き起こす危険があると言われています。こうした特徴を逆手にとって、「麦をまいたばかりの敵の畑に毒麦をまく」ということは、復讐の方法のひとつとして行われていたようです。 毒麦は麦という名がついていますが、麦角(ばっかく)という麦に寄生する菌が正体です。麦角に寄生された穂は、まるで黒い角のような穂があちこちに顔を出す。これを食べてしまった麦角病はペスト・コレラとともに恐れられた病気でした。毒麦被害の記録は、BC7世紀のアッシリアに始まり、17世紀になってようやく菌の正体がわかって次第に被害は減りましたが、20世紀になっても、まだ大被害の記録が残っています。日本は米が主食であったため、あまりなじみがないのですが、麦を作る地域で毒麦は長年にわたって大きな被害をもたら続けています。
良い麦と毒麦はそれぞれに何を指していて、誰が蒔いたのでしょうか。イエスさま御自身の解説によれば、良い種は「御国の子どもたち」で、毒麦は「悪い者の子どもたち」です。 良い種をまくのは人の子すなわちイエスさまであり、毒麦をまくのは悪魔です。こうしてイエスさまと悪魔によって正反対の目的で別々にまかれたものが、ひとつの畑の中で混じり合っている。これがキリスト教界の現状です。良い種が単に「みことば」ではなく、「御国の子どもたち」と書かれていることに注目してください。イエスさまが語られたことばは、霊でありいのちです。いのちのことばであるイエスさま自身が、一粒の麦として地に落ちて死なれたことによって、イエスの霊が私たちのうちに宿り、ひとつひとつのみことばの約束を聖霊がよみがえり力によって成就させるそれが本当の御霊の実だからです。
良い種が途中から毒麦になるということはありません。毒麦は初めから毒麦であり、サタンが悪意をもってまいたので、良い種と混じり合って成長し、根を絡ませては混乱させます。また、毒麦としてまかれたものが途中から変質して良い実を実らせるということはありません。これは絶対にないことなので、毒麦を良い麦に変えようという努力は無駄だということです。当然、異質なものが混じり合って収穫を損なうかも知れないことを知った者は、心を痛めて、「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」(マタイ13:28)と言うでしょう。しかし、主は「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えておられます。その理由は「毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかも知れない」ということです。つまり、麦と毒麦はそれくらい判別が難しく、麦と毒麦をより分けることは、「収穫の麦」である私たち自身の仕事ではないのです。実際には穂が実ると本物の麦よりもひげが長かったり、色が黒っぽかったりして区別がつくそうですが、まさに収穫寸前までは区別がつきにくいのだそうです。さらにここで配慮されているのは、良い麦を誤って抜いて傷つけてはいけないということで、毒麦に対する憐れみではないということも覚えてください。毒麦はあくまでも最後に焼かれるために成長するのです。正しい者と悪い者を分けるのは、クリスチャンの本来的な役割ではなく、そのことに責任もありません。終わりなき神学上の論争や異端審問や正当派争いには意味がないのです。
悪魔が毒麦の種をまくのは、「人々が眠っている間」と書かれています。これは、怠惰というよりは、「人の関知できないところで」という意味でしょう。毒麦の毒性というのは、極めて霊的な悪意に満ちた、人よりも上位の者のしわざだということです。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)たとえが私たちを選ぶと申しました。私たちの聞き方が私たちを選別するのです。イエスさまが、「あなたがたは悪魔から出た者だ」と言われたのは、彼らがイエスさまが語られたことばに耳を傾けられなかったからです。「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」(ヨハネ8:43)植物であるならば、神様は麦は麦、毒麦は毒麦に造られたわけで、麦や毒麦に選択の余地はありません。しかし、人は無抵抗にサタンに任命され操られるわけではありません。自分の意思でみことばを受け入れたり、また、拒んだりうして、自分のあり方を選択するのです。ヨハネ8章にあるやりとりの前半でも、イエスさまは、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とおっしゃっています。初めから拒まれているわけではなく、彼らがみことばを拒んだのです。それなのに、ユダヤ人たちはイエスさまが与える自由を求めず、すでに自由だと言い、逆にイエスさまを殺そうとします。さらに、「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります」と言っているのです。このように今日にもこの類のキリスト教徒は毒麦として混在しています。真理の霊と偽りの霊をより分け束ねることは命じられていませんが、見分けることは出来ます。霊だからといってみな信じてはいけないのです。見分けるポイントはひとつです。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって、神からの霊を知りなさい。」(Ⅰヨハネ4:2)と書かれています。イエスの受肉をどうとらえているかというのが鍵です。先ほどのユダヤ人たちもひとりの父である神を強調し、神の子であるイエスさまの人の子としての受肉を真っ向から否定しています。イエスを告白する霊です。「聖霊さま」ではありません。「唯一の神」でもないのです。(Ⅰヨハネ4:3)
「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして、世に勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:4)これもまた慰めに満ちたことばです。私たちは弱くていい。これから勝つのではなくすでに勝っている。勝利の理由は、私たちが成長するからでも、がんばるからでもなく、私たちのうちにおられる方が悪魔よりも強いからです。
「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。」(Ⅰヨハネ4:5)この世の神の入れ知恵によって語られる、自己啓発や道徳やお涙ちょうだいのエピソードや御利益話は大いにこの世に受け入れられるでしょう。みことばをみことばのまま語ることは、非常に分が悪いように思われます。しかし、その中で、淡々とみことばを語り続けることによって、それに耳を傾け、反応する人たちが起こされます。私たちはすでにそのことを見ています。私たちのような田舎の小さな教会を通して発信されるメッセージに応答される兄弟姉妹が各地におられ、事実交わりが広がり、祈りがつながっている。いのちが流れている。これはすごい奇跡を見ているようです。
「私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊を見分けます。」(Ⅰヨハネ4:6)このヨハネの言葉は、見方によれば非常に独善的なものとうつるでしょうが、それほど、まっすぐにみことばを語っているという強い核心に基づいた宣言だと言えます。私たちもこのヨハネのように、私たちの言うことに耳を傾けない者は偽りなんだと言いきれるほどのメッセージを携えていたいものです。収穫はすぐにはありません。収穫はこの世の終わりだからです。借り手は御使いです。やがて、麦と毒麦の違いが明瞭になります。御国の子どもたちとは誰なのかはっきりします。それは、「あの教団は駄目」「この教会はすばらしい」というようなものではありません。このたとえのように、根が絡み合っていて、人目にはなかなか見分けがつきにくいのです。
毒麦にあたる人たちは、「そこで泣いて歯ぎしりする」と書かれていますが、この表現はマタイの福音書に6回出てきます。これほど頻繁に出てくるこということはとても大事なことで、出来ればそうならないようにというイエスさまの思いがこめられているようです。この機会にすべての箇所をチェックしてみてください。1. 百人隊長の場面(8.12)2. 毒麦のたとえ(13:42)3. 地引網のたとえ(13:50)4. 王の披露宴のたとえ(22:13)5. 悪いしもべのたとえ(24:51)6. タラントのたとえ(25:30)
なぜ彼らは「泣いて歯ぎしり」するのでしょうか。それは激しい悲しみと悔しさの表現です。それは自分たちの受けた報いが当然であることがはっきりわかり、選択を誤ったことを思い知るからでしょう。彼らには選択を迫られた機会がありました。みことばに触れるチャンスがあったのに生かさなかった、みことばを軽んじた、みことばよりも自分の考えを選んだ人たちです。いっさいの言い訳を取り去られた世界で、正しい神の前で自分の愚かさや罪深さと向き合わされるというのは恐ろしいことです。中には確信犯もいるでしょうが、多くの人は、神に従っていると思って、この世の神であるサタンに従い、サタンの為に準備された罰をともに受けるわけですから、たまったものではないでしょう。

2008年1月24日木曜日

1月20日 種まきのたとえ (イエスのたとえ話 ③) マルコ 4:1-20

イエスさまはいろいろな場面でさまざまな人を対象にして多くのたとえをお話になりましたが、それそれのたとえが「誰に対して」「どのような状況で」語られたのかということを確認することも、たとえを正しく理解する上で大切な条件のひとつです。「種まきのたとえ」は、弟子たちにでもなく、パリサイ人や律法学者に対してではなく、特定の誰かを対象に語られたものではありません。種々雑多なおびただしい数の群衆に対して語られたメッセージです。ルカによれば、方々の町からやって来たと書かれています。場所は湖のほとり、群衆は岸辺の陸地にいましたが、イエスさまは舟の上におられました。みもとに集まってきた群衆に話をするために舟に移られたのでした。ちょっと不思議な光景ですね。
また、当時の種まきの方法についても知っておいたほうが良いでしょう。当時のユダヤの種まきには大きく2種類の方法があって、ひとつは種の入った袋に穴を開け、それをろばに背負わせて歩かせながらまくという方法です。もうひとつは、ミレーやゴッホの絵で見られるように、手でばらまく方法です。いずれにしてもいい加減なやり方なので、作業が楽な分、効率はあまり良くないわけです。日本人の感覚では「どうして道ばたに種がまかれるのか」と不思議に思うのですが、休耕地にこういうアバウトな方法で種をまいた後で耕すという方法が一般的だったようです。
種まきのたとえは非常にわかりやすいたとえだし、イエスさま自身の解説がそのままみことばの中にありますから、あえて補う必要がないほど、そのメッセージの意図は明確です。要するに「みことばの聞き方に注意するように」ということです。そして、最大のポイントは「心の良い地にみことばを落とせば多くの実を結ぶことができる」という朗報にあります。国語的な意味での理解は容易です。しかしながら多くの場合、このたとえのとおり、みことばを聞いて理解はするのは易しいけれど信じて実を結ぶということが少ないのです。私たちのみことばの受け止め方が、このたとえの分類にはめ込まれてしまっています。種まきのたとえは、このたとえだけでなく、他のすべてのたとえを含むイエスさまが語られるみことばのすべてを聞く姿勢について語っておられる点で、その重要性とわかりやすさは際立っています。では、この後の解説を心の良い地に落とせるように、十分に注意を払って起き聞ください。読み方のポイントを何点か明らかにしておきましょう。あまり重要視されない最大のポイントを初めにおさえておきます。それは、種まく人が「まく土地を選んではいない」ということです。種をまく人は、ただ「それが種だからまいているだけ」なのです。どこに落ちるかはある意味知ったことではない。種はそこに「落ちた」のです。意図して「落とした」のではない。だから種まく人の責任はそこまでです。大事なことは種まく人が「本物の種をまいているかどうか」ということです。種であれば、落ちた地が良ければ実を結びます。しかし、それが種のかたちによく似た何かの粉や粒をまいているだけなら、それは落ちても決して実を結ぶことはありません。みことばではなない道徳や教えを語っていても、そこからは何も生まれはしません。いのちがないからです。種は「そうこうしているあいだに目を出して育ち」「人手によらずに実をならせるのです」(マルコ4:26~29)これは、すごいことばです。誰も主から栄光を横取りして、私はこんな苦労したと言える者はありません。本当の働き人は誰でもそのことを普通に知っているのです。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」(Ⅰコリント3:6~7)とパウロは書いています。
教会の最大のつとめは「種をまくこと」です。要するにみことばをそのまま伝えることです。実はこの最も単純で当然のつとめを教会が怠っている。ここに問題があります。そもそもまいているものがみことばでなければ、何の芽も出ないし、仮にわずかなみことばが芽を出しても、いのちの成長にまかせず、害虫駆除のための農薬散布をし、栄養促進のための肥料をまいて奇妙な果実を作り出しているわけです。あるいは、みことばをまいていはいるが、それをわけのわからない木の箱やアルミホイルか何かで包み込んで土に埋めているのです。埋められた地表には、「誰がそれをまいたのか」という札がかかげられる。これでは立て札は残りますが、芽は出ません。きちんと種をまけば、後は夜寝て朝起きていれば、「そうこうしているうちに」実るものは実るのです。みことばはそう言っています。そうやって出来るものが「神の国」であって、栄光は神にのみあります。人が苦労して築き上げるものは所詮「人の国」です。だから栄光は人が取り合うのです。そこには恨みがあり、妬みがあり、分裂や争いがあります。
細かく、4種類の土地の様子を見ていきましょう。種は4種類の土地に落ちて、それぞれの結果をもたらしています。落ちた種は同じです。まず道ばたに落ちた種です。道ばたに落ちた種は、すぐに鳥が来て食べています。種を食べてしまう鳥はサタンです。サタンは私たちがみことばに触れることをいやがります。サタンは私たちのあらゆる力にまさっています。サタンが唯一私たちにおじけづく場合は、私たちがみことばを握っているときです。サタンが全力を出し切ってもみことばには勝てないのです。ですから、サタンは「すぐに」みことばを食べにやってきます。私たちがそれを悟って行動に移すより前に、心から取り去ってしまうのです。次に土の薄い岩地です。この地に落ちると、みことばを喜んで受け入れると書かれています。経験や考えの浅い人は、わりと抵抗なくみことばを聞き、好意的な反応を示すことが多いものです。みことばの本質的な意味が理解できないからです。しかし、みことばを受け入れることが暮らしの中で具体的なリスクを負うことがわかると直ちに離れていくのです。人間には暗い土の中に根をはるような深い経験が必要です。人間としてのそうした基礎的な経験がない者の心に種がまかれても、種の本当の価値はわからないので、ちょっとした困難に出会っただけで簡単に手放してしまうわけです。「土が薄い」ことと「根がない」ことには深い関連があります。豊かな土の中でゆっくり根をはるような期間を軽んじてはいけません。イエスさまのナザレでの30年間は、まさにそうしたことの重要性を証しておられるわけです。この根に関するお話はクリスマスのメッセージの中で詳しくお話しましたね。
続いての種はいばらの中に落ちた場合です。彼らはみことばを聞いてはいるが、世の心遣い、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので実を結ばないと言われています。私たちがイエスさまから離れる気はないのに、実を結べていないという場合は、このいばらのパターンにはまっているのだと考えてよさそうです。いばらが生えてきたのは、人が神のみことばを軽んじて善悪の知識の木の実を食べたからです。(創世記3:18)はっきり宣言しておきます。いのちによらなければ、いばらは駆除できません。善悪のモードでみことばとこの世の様々な条件をてんびんにかけて比べているなら、最終的にみことばは必ず後回しにされます。「みことばはこう言っているけど・・・・・」という、後に続く自分の見立てや見解の部分を捨てられないでいると、みことばではなく、自分にとって少しでも納得のいく現実的な選択をしているはずです。事実、そのような選択を積み重ねて多くの失敗をしてきたのではないでしょうか。ですから、何か問題がおこったとき、「どうしようか」とあれこれくよくよ悩んだり、誰かに相談したりするのは実は無駄なのです。答えはいつだってはっきりみことばの中にあるし、そこにしか本当の解決はありません。私たちは薄々そのことがわかっていながら、「みことばに従う以外の方法」で問題を解決しようとしてしまうものです。しかし、そういうことがないように、イエスさまも同じ種類の誘惑を受けてくださって、神の子としてではなく、人の子としてサタンに勝利する方法を示してくださいました。イエスさまの勝利の方程式は単純です。それは「みことばにこう書いてある」とサタンにむかって宣言することでした。ただし、みことばに何と書いてあるか知らなければ、「みことばにこう書いてある」とは言えません。アダムとエバの失敗には、善悪の知識の木を食べる以前にその原因はありました。それはみことばは軽視していたことでした。みことばを軽んじることは、自分自身を損なうことになることをしっかり肝に銘じるべきです。私たちの心の最も良い地にみことばの種が落ちていることが大事なのです。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は本当に言われたのですか」(創世記3:1)というサタンの誘導的な問いに、エバはまんまとひっかかってしまいました。エバは神がおっしゃっていないことばを付け加えました。「それに触れてはいけない」という一語です。神は「触れてはいけない」とはおっしゃっていません。そして「必ず死ぬ」が「死ぬといけない」に変わっています。(創世記2:17,3:3)何となしのいい加減な記憶では、みことばの専門家であるサタンの誘導にひっかかるのは当然です。まさにサタンの思うツボです。
最後に良い地です。私はイエスさまを受け入れ、毎週教会に来てメッセージを聞いているのだから、私は「良い地におちた」グループに入ると思って読み流しているとしたら、この箇所から学ぶ意味はありません。私たちに落ちたみことばが果たして良い地に落ちたかどうかは、結ぶ実によってわかります。勿論その規模はそれぞれ違いますが、少なくとも30倍、場合によっては100倍の実を結ぶと書かれています。みことばの聞き方の基本は、繰り返してお伝えしているように、ベタニヤのマリヤと母マリヤの中にあります。鍵は、「足元で聞く」「思いめぐらす」の2つです。
4種類の土地は必ずしも4種類の人を表しているわけではありません。ひとりの人の心がある時は道ばたのように、ある時は岩地のように、ある時はいばらに覆われたようになるでしょう。しかし、どのような土地も良い地として耕される可能性があります。私の仕事は小学校の教員です。教師の仕事は「子どもの心を耕す仕事」だと思っています。効果をすぐに期待して、やたら子どもを厳しく管理し、自分の価値観で振り回す先生もいますが、これでは良い結果はまず出ません。種を蒔いても収穫はすぐには期待出来ません。そのように神様が種をプログラムされたからです。「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。」(ヤコブ5:7)自分の3人の子どもたちにも、教会の子どもたちにも、みことばを受け止める良い地を作るほうが、狭くて浅い土を種だらけにするより大切だと信じています。しかし、芽が出て実を結んでこその種です。私たちの教育の結果は、10年後20年後に明らかになります。
最後に種まきに関するみことばをもうひとつ。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束を抱え、叫びながら帰って来る。」(詩編126:5~6)なぜ、簡単な種まきなのに種蒔く人は涙を流し、泣きながら出て行くのでしょうか。今日、みことばをそのまま蒔くことがあまりにも無駄で効果がないように思われるからです。みことばを重んじていますか。「みことばは大事です」と正解を言うことが重んじていることではないですよ。残念ながら、まだまだみことばがはそれにふさわしく重んじてられているとは言えません。

2008年1月17日木曜日

1月13日 地の塩 (イエスのたとえ話 ②)

 
「あなたがたがは地の塩です。もし、塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

今回もたとえ話というよりは比喩表現なのですが、「地の塩」ということばを取り上げ学んでいきます。私はSaltと名乗らせてもらっているので、とりわけこの言い回しには強いこだわりがあります。
マタイの福音書の中では、「地の塩」は明らかに「世の光」と対になって表されています。ひとつのたとえだけでは表現しきれないことを、もうひとつのたとえによって別の側面から語るという方法は、イエスさまのたとえにもよく見られます。「世の光」との関連については後にお話しするとして、別の箇所と対応させながら、まず「地の塩」という表現を掘り下げていきます。3つの福音書の記事には共通するところと、微妙に違っているところがあります。そういう部分を丁寧に見ていくことが大切です。

マルコの福音書にはこう書かれています。
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩はききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコ9:49~50)

ルカはこう書いています。
「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょう。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」(ルカ14:34~35」

塩は塩けをつけるものです。3つの福音書に共通して「塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけられるのでしょう」と書かれています。甘みの代用品はあっても、塩の代用品はないのです。
塩は世界中のあらゆる料理の味のベースです。肉でも野菜でも、すべての食材の素材自体の旨みを引き出すのが加えられた塩の役割です。それは辛みだけでなく、素材自体の旨みや甘みさえも引き出し、防腐、保存の効果もあります。穀物の捧げものには塩を添えて捧げなければなりませんでした。(レビ2:13)さらに、旧約聖書の中には主の契約の永遠性を語る場面で、「塩の契約」(民数記18:19)(Ⅱ歴代誌13:5)という表現も見られます。

では、塩が塩けをなくすということはどういうことでしょうか。それは、いのちのないクリスチャンを表す表現だと考えられます。全体の流れを見れば、信仰やあかしの姿勢と関係があることがわかります。「無味乾燥」ということばがありますが、知識があってもいのちがなければ、味わいがないおいしくない福音しか伝えられないのです。

マルコの福音書の塩の記事は、38節からの流れの中で読めば、クリスチャンのつまずきについて書かれています。マタイにはなくマルコで語られているのは、塩けは火によってつけられるということと、自分自身に塩気を保つべきことです。
「塩けは火によってつけられる」というのは、試練の中で磨かれるという意味でしょう。「火は試練である」というのはペテロの手紙にも見られる表現です。マルコの福音書はペテロの口述によると考えられているのでぴったりきます。期待される塩味は、主の訓練の中で磨かれます。
さらに、「自分自身に塩気を保つ」というのは、つまずきの原因は厳格に排除しなければならないけれども、その厳格さとしての塩けは「他者に対して辛口に」というよりは、自分自身の中に保つべきで、弟子たちの特権意識を戒め、むしろ人々と和合することを説かれています。もちろんそれは、いい加減なことも受け入れて妥協し、みことばを否定する人々とも取りあえずなかよくしなさいということではありません。ゲヘナの火というのは、神のさばきに耐えられないものは容赦なく焼き尽くしてしまいます。イエスさまは、不具であろうが、片足であろうが、いのちの領域にないものは焼かれるんだとおっしゃっているのです。自分はいのちの領域に安んじていれば、他の人が多少正しかろうが間違っていようが、そんなことにいちいち目くじらたてて怒ったりしません。

ルカの福音書の塩の記事は、14章全体のまとめとして書かれています。14章はイエスさまに従う者の心がまえが中心主題です。
ここでの一連のお話は、ある安息日にパリサイ派の指導者の家で語られたもので、その家に招かれた客たちが上座を選んでいるのに気づかれたイエスさまが3種類のたとえをお話になり、25節からはその3つのたとえを受けるかたちで語られ、その結びが塩の話になっていることがわかります。
パリサイ人の家での安息日の食事が、神の国での食事と重なるたとえとなっています。そこでイエスの食事を味わうというのは、どういうことなのかを語っておられるわけです。
まず、1つ目のたとえでは、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という原則が語れています。2つ目のたとえでは、「お返しを期待して招き合わなければ、その志は報われる」ということが語られています。そして、3つ目のたとえでは「、自分を高くすることしか考えず、この世での見返りばかりを期待している彼らの現状では、だれひとりイエスさまの食卓にはつくことができない」と語られています。この3つの話を受けて、神の国を目指してイエスさまに従いたいと思うのなら、見通しを持ち、しっかり覚悟を決めてでなければ不可能なことだとおっしゃっています。つまり、イエスさまが期待される塩けを保つためには、自分の財産全部を捨てて弟子になる必要があるわけです。

いかがでしょう。いくら聖書を詳しく学んで意味がわかっても、みことばを信じ、約束を握って実際に生活するのでなければ、何の意味もありません。
皆さんはキリストの弟子ですか。皆さんの中には、イエスさまが期待される塩けがあるでしょうか。もし、「はい」と即答できなければ、あなたはまだ弟子ではなく、みことばを聞いている群衆のひとりです。厳しい言い方かも知れませんが、たとえは人を選び、毎回新たな決断を迫ります。たとえをどう受けとめるかは、「あなたが弟子なのか、群衆のひとりにすぎないのか」をふるい分けるのです。塩けのないクリスチャンは、土地にも肥やしにも役に立たず、外に投げ捨てられます。つまりこの世でも教会でも無用のものとなるということです。これは脅しではなく本当のことです。すでに教会に通っていても捨てられたような人々は、あちこちにたくさんいます。
ですから、この章の締めくくりでもイエスさまはこう結んでおられます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ14:35)

さて、保留しておいた「世の光」の話に戻ります。(マタイ5:14~16)
クリスチャンは世界の光であると書かれています。それは、あたかも山の上にある町のように、人の目に隠れることができないのです。おかしな意味ではなく、私たちはこの世にあって「目立つ存在」でなければなりません。それは、「私たちがキリストを信じていることが知られている」という意味です。あかりをつければ、それは「升の下」でも、「ベッドの下」でもなく、「燭台の上」に置くべきです。あかりとはみことばのことです。「みことばはわが足のともしび、また光」と書かれています。
みことばがみことばどおり、本来のあるべき場所に掲げられていれば、家すなわち教会は明るいのです。家にいる人々全部を照らすと書かれています。
さらにそのみことばを世の人々の前で輝かせるべきで、みことばの約束を握った生き方、行動が人々の心を天におられる父に向けさせると書かれています。ここの「良い行い」とは、単なる道徳的な善行ではありません。

私たちは夜になれば、太陽が沈んで月が出ることを知っています。太陽は主を表し、月は教会を表しています。この2つの星の動きが人々に暦を教えます。
太陽はそれ自体が輝いており、光と熱を提供しています。月はそれ自体が光を放つことはありませんが、太陽の光を反射して地球の夜を照らしています。月の表面はデコボコのクレーターですが、光を受けて光っている部分が様々な形になって、人の目に映ります。

イエスさまが十字架に架かられたとき、12時から3時まであたりは真っ暗な闇に包まれました。人々は光なる方を憎み闇を愛したことの表現でした。よみがえられたイエスさまは、私たちのうちに聖霊というかたちで内住され、世の光となられました。
私たちの内におられる光が、その本来の明るさで輝くこと、これが証です。それが本当の塩けです。何をどう語るかとか、どういう風に辛口にこの世を批評するかではありません。みことばが私たちの内側に常に豊かにあり、イエスさまの内住に委ねていれば、自ずと証の機会は訪れます。

「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で塩味の聞いたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります」(コロサイ4:6)