ルカ15:11~32
「放蕩息子のたとえ」と言われるこの箇所は、聖書の中で最も有名な箇所です。おそらく皆さんも、自分で何度もこの箇所を読んだり、メッセージを聞いたりしておられるでしょう。私も何度もこの箇所からメッセージをしています。2006年の5月には、この放蕩息子の部分を、「放蕩息子」「兄息子の放蕩」「祝宴」と、3回に分けてかなり詳細にメッセージしていますが、今回は、ルカ15章の3つのたとえをそれぞれ毎週ひとつずつとりあげて話して来ました。「良い牧者」「失われた銀貨」というタイトルでお話させてもらいました。今日は、「父なる神」という主題で、この3つめのたとえからともに分かち合いましよう。当然、前回のシリーズと重なる部分もあるでのすが、タイトルどおり、「父の側から見た救い」を中心にお話します。
このたとえは、「ある人に息子が二人あった。」という設定で始まります。私たちは何気なく読み過ごすかも知れませんが、少しこだわって立ち止まってみましょう。ここで語られている「ある人」が「父なる神」であるなら、この方には息子はひとりしかおられないはずです。それは、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と言われたイエスだけです。元来私たち人間は「造られたもの」であって、「神のいのちから生まれた」のではありません。息子ではないのです。しかし、このたとえの中では、放蕩息子は「血を分けた実の息子」として描かれていますし、父に不満を持ち、弟を軽蔑している兄にも同様の立場が与えられています。これは驚くべきことではないでしょうか。神は私たちをご自分の子どもとして扱いたいと願っておられることは明らかです。しかし、私たちがどれだけ優れたものとして造られたとしても、その出来映えは、被造物から神の子どもへと格上げさせる条件にはなりません。私たちが神の子どもとされるためには、「贖われること」が必要です。神のひとり子イエスが完成された救いを受け入れ、その名を信じることが必要なのです。(ヨハネ1:12)したがって、本来は贖いを受けることによって、「子どもしての特権」を受けるのですが、このたとえの中では、父の元を離れた弟も、家に残っている兄も、初めから「子ども」として扱われています。この世の財産は、やがて与えられる目に見えない財産の型です。私たちはたとえに出てくる弟息子のように、父に財産を要求してはいませんが、「要求しなくても与えられている現状」を考えるとき、心ある者であれば、この息子たちと自分自身の姿を重ねて聞くことが出来ます。我に返ったとき、弟息子は財産を与えてくれた父の存在を思い出し、今はまだ与えられていない無尽蔵の目に見えない財産を思い起こしました。兄息子は、父が帰って来た弟息子をやさしく迎え入れたときに、「私には子山羊1匹くれなかった」と不平を言っていますが、父は「わたしのものは全部お前のものだ」と答えています。(ルカ15:29~31)父は兄にも同じように身代を分けていたのです。(12)さらに驚くべきは、父の養育態度です。弟が財産の分け前が欲しいと要求したときに、父は言われたとおりに、とがめもせずに与えています。財産の管理や暮らし方についての諸注意を与えるわけでもありません。家庭教育のあり方を考えるなら、父親として子どもが願うままに財産を分けてやるのはいかがなものかと思いますが、みなさんは、このお父さんをどう評価しますか。
当然のことながら、この父親は「天の父なる神」の姿を映しているのですから、父は子どもをただ甘やかすだけの馬鹿親父ではないはずです。父は無力なのではなく、強い主権と計画の中で、息子を黙って旅出させました。これには意味があるのです。父は息子の失敗を予見しつつ、それでもあえて財産を与えて自由にさせたわけです。なぜでしょうか。この「父と子のねじれた関係」こそ、私たち人間の置かれている立場や現状そのものなのです。弟も兄も、すばらしい父の愛を享受できる恵まれた立場にありながら、それを全く味わっていないという共通点があります。兄が行っているのは宗教です。弟はそれを嫌い、自分の欲望に素直になることを選びました。それが自由だとはき違えたのです。それはいずれも正しい選択ではありませんでした。弟も兄も父がどれほど自分たちを愛してくれているのかがわかりませんでしたが、それはやがて父が放蕩した弟を受け入れることによって明らかにされます。父はふたりをどれほど愛しているのかを、時をみてきちんと伝えようとしておられるのです。それは、はじめから計画されていたことです。それは、私たちが「律法」ではなく、「御霊」に導かれるものとなるためです。言い換えれば、道徳や生き方の問題として、何かに縛られて、不安や恐れから神を求めるのではなく、自然に父の人格を味わう者となるということです。兄も弟も父との人格的な交流がないままに育って来たことがわかります。親子の関係でありながら、親子の実質がないのです。それは、造物主と秘造物の関係であって、贖われていないからです。
御霊に導かれる人が、神の子どもなのです。御霊は「子としていただく御霊」であり、相続人なのです。財産の分け前をくださいと訴えなくても、私たちはすべてを相続するようになるのだと聖書は語っています。(ローマ8:14~21)「創造の前に贖いの計画があったことを知ること」は、私たちの信仰をいっそう強くします。(エペソ1:4~14)つまり、息子が放蕩してどうしようもなくなることは、父にとっては初めから想定の範囲内だということです。それに対して兄が反発することもわかっていました。むしろ、創造者と被造物が、力による「支配・被支配」の関係を突き抜けて、親子の「愛の関係」の中に入るためには、祝福をすべて失って窮することも、祝福のただ中で行き詰まることも、必要不可欠な経験だったとも言えるのです。
では、弟息子の放蕩の内容を少し見てみましょう。「幾日もたたぬうちに」という表現からは、父の支配や影響から離れたくて仕方がなかった心情が伺えます。「遠い国」という表現は、父から離れた距離を表しています。息子は、できるだけ父から遠く離れたかったのです。「放蕩して湯水のように財産を使う」という表現は、本来正しく管理するべく委ねられたものを、自分の欲望にまかせて一時的な快楽のために無駄に使ってしまったことを意味しています。与えられたものの価値がわからず、委ねられた仕事が見えないとき、人は短期間で、それらを無駄に費やしてしまいます。そのことによって、預かったものを失うばかりでなく、自分自身を深く傷つけます。そして、彼はついに何もかも失って、食べるものに困りはじめるのですが、それでもまだ彼は父のところに戻ろうとはせず、「ある人」のもとに身を寄せたと書かれています。ところが、その「ある人」は、豚の食べるいなご豆さえ与えてはくれませんでした。豚というのはユダヤ人にとっては汚れた動物であり、その汚れた動物のえさでもいいから口にしたいと思ったのに、それさえ与えてもらえませんでした。言ってみれば惨めさの極限状態を比喩したものです。遠い国で私たちが頼るもうひとりの「ある人」は誰でしょうか。それは、私たちを父から引き離そうとする力の源サタンです。神から独立して成功を収めたい、名を上げたいという欲望はサタンのものです。人間は、神の支配からの独立を目指しますが、それは、神ではなくサタンの欲望に忠実に応答しているだけなのです。しかし、サタンは決して私たちを救ってはくれず、よりいっそう惨めな思いをさせるだけです。サタンは自分の正体を明らかにはせず、あらゆるものに身をやつし、時には御使いにさえ化けて私たちを騙します。わたしたちが人生の窮地にすがりたくなる神以外のもの、イエス以外の御名は、すべてこの「ある人」サタンの化身なのです。それは、偶像と呼ぶべきものです。サタンは自分の運命を知っており、道連れを捜しています。サタンには、神が人間という被造物を贖う計画が我慢ならず、常にこれを妨害しようとしています。サタンはイエスが十字架につくことを妨げようとしました。人間に対しては、兄に対してしむけたように、虚しい心で父に仕えさせて消耗させようとします。また弟に対してしむけたように、神から独立することの自由さ、自分の力で名をあげさせようと挑発するのです。多くの人が、このサタンのわなにはまっています。
この放蕩息子のたとえの中では、羊飼いや銀貨の中では語られていない大きなポイントがあります。それは「罪」ということです。さまよえる羊についても、失われた銀貨についても、羊や銀貨の責任を追求するようなことばはありません。ところが、放蕩息子は、「私は罪を犯した」と言っています。財産を求めたこと、荷物をまとめて出て行ったこと、放蕩したこと、豚の世話をしたこと、何を指して彼は罪を犯したと告白したのでしょうか。皆さんはどう思われますか。答えを出す前にもうひとつ質問します。弟がしたあらゆることをしなかった兄息子は、父に対して罪がないのでしょうか。この3つのたとえは、初めからパリサイ人や律法学者に対して語られているのですから、今お話したふたつめの部分、「兄息子には罪がないと思うか」という問いかけが裏側に隠されているのです。このように考えてくると、罪は息子たちがしたこととは関係がないことがわかります。我に返ったときの弟息子の気づきはどういうものだったでしょう。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしそうだ」(ルカ15:17)罪の中にあるとき、悔い改めと言ってもせいぜいこの程度のことです。放蕩息子も、ボロボロになって戻って来た自分に、父が思いがけない愛情を注いでくれるのを味わう中で、少しずつ自分の本当の罪深さを知っていくことでしょう。罪とは「神に対して背を向けること」です。重要なことは、彼が「向きを変えて」「父を目指して」「帰ってきた」ことです。(イザヤ44:22)
本当の幸せのためには、神の祝福ではなく「神御自身との正常な関係」が必要だということです。それは、自由な交わりです。大切なのは、私たちが少しばかり正しいとか立派だとか言うことではなく、父の憐れみや優しさを深く感じているかどうかということです。それを兄弟たちと分かちあっているかどうかということです。このたとえの中では、帰って来た弟と兄との交わりはありません。誤解を恐れずに言いますが、「正しい信仰」とか「立派な教会」なんてどうでもいいのです。大事なのは純粋ないのちの交わりです。贖いが土台となった、イエスの血によってきよめられた交わりです。
神はみこころのままに、価値のない私たちを無償の愛によって贖ってくださいました。「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」(ルカ15:24)これが、父がここまで喜んで宴会を催す理由だと書いてあります。帰って来ただけの息子には思いがけない歓迎で、なぜここまで父が喜んでいるのかはわからないかも知れません。兄にとっては、さらに不愉快な宴会です。
「多くの招待客が何かと理由をつけて宴会に出席することを拒む」という別のたとえがありますが、贖いの価値がわからなければ、日々の予定の方が大切に感じられるのです。宴会に出席した人の中にも礼服を着て来なかった人がいます。この人は交わりの純度を損なったので、ひどい仕打ちを受けることになります。 「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ1:3)父との正常な関係が、兄弟姉妹との交わりのベースになります。キリストという贖いの礼服なしには参加できないのです。
2008年5月10日土曜日
4月27日 失われた銀貨 (イエスのたとえ話⑩)
ルカ15:8~10
ルカ15章には、よく知られた3つの美しいたとえがあります。その2つ目が、「失われた銀貨のたとえ」です。3つのたとえの共通するテーマは、「失われていたものが見つかった喜び」ですが、それぞれの違いが立体的に救いの意味と価値について伝えています。このうちどれが欠けても十分ではありません。「銀貨をさがす女のたとえ」は、「羊と羊飼いのたとえ」と「放蕩息の父のたとえ」の影に隠れて、この3つの中では最も地味なたとえに見えますが、この「銀貨をさがす女のたとえ」がなければ、どうしても伝えることの出来ない側面があるのです。それはいったいどのようなことでしょうか。今日は、銀貨のたとえを、前後のたとえとのつながりを考えながら、いろいろな角度から読んでいきたいと思っています。
はじめのたとえの主人公は「羊飼い」です。さいごの放蕩息子のたとえでは「父」です。そして、銀貨のたとえでは「女」です。いずれも自分にとって大切なものを失っているときは、その心には「悲しみ」や「憂い」、そして「痛み」があります。その失った大切なものが見つかってもう一度自分の手元に戻ってくるまで、その感情は絶え間なく続いています。3つのたとえは、それぞれにシチュエーションは違いますが、いずれも「大切なものを失った悲しみ」「それをもう一度取りもどそうとする熱心」「そして価値が回復したことの喜び」という流れで失った側から描かれているということを確認したいと思います。そして、この3つのたとえは、イエスが罪人たちを迎えて食事までいっしょにしていることに対するパリサイ人や律法学者たちの不平に対する答えとして語られたものだということも、押さえておきたいポイントのひとつです。(ルカ15:1~2)パリサイ人や律法学者が、「人間の視点」で、人間どうしを比較して差別しているのに対し、イエスは、これらのたとえをもって「神の視点」から人が失われて無価値になった状態であることを示されたのです。この3つのたとえは、「神が救いというものをどのように見ておられるか」ということの表現です。そして何より重要なことは、「一人の人が救われることによる神の喜びの大きさ」です。(ルカ15:6~7,9~10,32)救われた人の喜びではなく、救う側の神の喜びが表現されているのです。羊飼いも女も父も、その喜びを押さえきれず、みんなと分かち合おうとしています。パリサイ人や律法学者には、自分たちが失われた状態にいることさえわからず、しかめっ面をして、イエスの周りに集まる人たちを蔑視し、そんな自分たちの目から見て卑しいと感じる人々を愛情を持って受け入れるイエスにも腹を立てているのです。まさしく放蕩息子の兄の姿です。人は隣人の幸せにも不幸せにも無関心です。この大げさにも思えるような喜びようの中に、神の愛が表現されています。「愛の反対は無関心である」と言われます。愛そのものであられる神は、私たち一人ひとりに限りない関心をお持ちです。人は神が私たちに関心を持っておられることを忘れています。クリスチャンであっても、それを信じられない人が多いのは残念なことです。神が私たちの価値に比例して関心を深められるのだしたら絶望的かもしれません。しかし、神は私たちが「失われているがゆえ」に、また、「御自身が愛であるがゆえ」に、私たちに関心を持ち、捜し求め、また、待っていてくださるのです。このことを絶対に忘れてはいけません。
今度は、失われた側から考えてみましょう。失われた側から考えてみると、銀貨のたとえの特徴が際立ちます。「銀貨」だけが生きものではないからです。羊飼いから離れた「羊」も、お父さんから離れた「息子」も、追いつめられてとても不安な状況に陥っています。ところが、「銀貨」にはいのちも人格もありません。失われた状態にあったても、銀貨は自分の状態を自覚することは出来ません。銀貨が困ったり、持ち主を求めて、泣いたり叫んだりすることはありません。それは、ただ「客観的に価値を失っている」のです。いざという時には、羊ならメェーと鳴き声をあげたり、放蕩息子なら我に返って土下座したりするでしょうが、銀貨は自分から何も出来ません。また、羊は自分が群れから離れたことに気づき、羊飼いを見失ったことを自覚するまで、自分の置かれている立場や状況の悲惨さに気づきません。放蕩息子も父の財産を完全に使い果たすまでは、それなりに自由な生活を楽しんでいた期間があるのです。しかし、銀貨は女の手元になければ、その価値は失われています。女の手から離れた瞬間から、それは「存在しないのと同じ」なのです。銀貨は「失われて悲しい」とも、「早く持ち主のところへ戻りたい」とも言いません。勿論「見つけてくれて感謝します」と言うはずもないわけです。 つまり、「銀貨のたとえ」においては、必死になって失われた価値を取り戻そうとする「神の熱心だけがただ一方的に描かれている」のです。これは、非常に重要なポイントです。ですから、「失われた羊」や「放蕩する息子」は小説になっても、銀貨の話は小説になりません。自己憐憫による人間の側からの感情移入が出来ないからです。銀貨のたとえは、人の宗教性を閉め出すのです。人の迷いや悲しみではなく、神の愛が与える安らぎ、神の喜びが重要なのです。(ゼパニヤ3:17)神は喜ぶのは当然だと言って喜んでくださるのです。
女は1枚の銀貨を失いました。この銀貨はドラクマであると書かれています。ドラクマはギリシャの通貨で、ローマ通貨のデナリとほぼ同じ価値があります。1ドラクマ=1デナリで、当時の一日の賃銀にほぼ相当します。女はそれを10枚持っていました。一説によれば女が持っていたのは、銀貨10枚を鎖でつなぎ合わせた髪飾りではないかと言われています。当時女性はヴェールを被るときに、銀貨をつなぎ合わせて輪のようにしたものを被って固定していたそうです。また、10枚つないで首にかけていたこともあったそうです、もしそうだとしたら、10枚のうち1枚を失うと、残りの9枚も使えなくなってしまうので、さらにたとえの意味は広がります。1枚1枚の銀貨にも価値がありますが、10枚揃っていることにいっそうの価値があります。女は「教会」を表し、あかりは「聖霊」を表しています。聖霊がみことばのあかりによって闇を照らし、その中で銀貨は見出されます。「あかりをつけ、家をはいて、見つけるまで念入りに捜す」ことによって、価値は取り戻されます。
3つのたとえの中で、羊飼いは「御子イエス」を表し、ふたりの息子のお父さんは「天の父」の雛型ですから、それらを合わせると、救いのみわざは、父子聖霊の三位一体の働きであることが示されているのです。こうして見てくると、なぜたとえが3つ必要なのかがより明らかになりますね。贖いは失われた価値を回復するだけでなく、それ以上の関係性を新しく創造するためのものだと言えます。
なぜこのたとえの中で失われているのが、人格のない銀貨なのかということをもう少し考えてみましょう。お金は、その原材料を考えれば、その額面どおりの価値があるわけではありません。銘や刻印があるから、その通貨を発行する国の権威によって、その価値が保障されているだけです。イエスが「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)と言われたことや、パウロが「私はイエスの焼き印を受けている」(ガラテヤ6:17)と書いていることを考え合わせると、私たちは聖霊によって御国を受け継ぐことの保障を得たのであり、御子の権威において、神に捧げる特権を得ている。天に通用する価値を獲得していると言えます。さらに、地上においても、みこころの実現のためであるなら、必要はすべて満たされるのだと断言できるわけです。今回の学びにおいて、私自身が反省させられたのは、御国の権威において通用する通貨をこの世のレベルで無駄遣いしているのではないかということです。
世の中には貯金通帳を見ていれば幸せだという人も稀におられるようですが、本来、通帳の上の数字やお金そのものには、価値はありません。価値がある別の何かと交換してこそ意味があるのです。それを「どんな価値と交換するか」がポイントです。女はこれから何かを買おうとしていています。銀貨を眺めてニヤニヤするために、10枚そろえたかったわけではありません。10ドラクマの価値があるものは、9ドラクマでは買えません。失った1ドラクマを何と交換出来るかではなく、「すべて」を神の為に用いることが大切なのです。だから、どうしても失われていた1枚を見つけだす必要があったのではないでしょうか。女にとってはその「すべて」という条件を満たすことが大事なのであって、失った1枚がもったいないというのとは少し違うと思うのです。ベタニヤのマリヤは、300デナリの香油を、「つぼを割って」イエスに注いでいます。貧しいやもめは、生活費のすべてであった2枚のレプタを、「両方とも」宮に捧げました。捧げた額ではなく「つぼを割ったこと」「両方とも捧げたこと」が大事なのです。神は私たちがどれだけのものを持っているのかをご存じです。そして、神のものをいかに神に返すのかを見ておられます。このように考えてくると、10分の1献金というのは、純粋な信仰の動機を破壊するくだらない宗教の取り決めだと感じます。手元に残っている10分の9を不自然に容認するからです。
銀貨は単純に私たちの財布を指しているわけではありません。私たちの能力や時間、神様に委ねられているものすべてです。2レプタと300デナリは、その金額として比較するために書かれているのではありませんが、聖書はありのままを記録しています。大事なことはその額面ではなく、ふたりの女にとって、その行為はその状況下で出来る最上のことだったということです。神は私たちからお金を奪って身ぐるみはごうと思ってはおられません。礼拝とは捧げることです。アブラハムはお金ではなくイサクを捧げました。イサクを捧げなさいと言われたからです。礼拝者は常に捧げることを求められています。不妊の女ハンナは、最初は女の意地で「子どもを持ちたい」と主に祈りました。しかし、悩みと嘆きの中で「子どもを授かったなら、その子の一生を主に捧げる」(サムエル1:11)と言っています。不思議です。捧げてしまうのなら、子どもが無いのと同じか、無いより苦しいのではと思うかも知れません。しかし、そうではないのです。アブラハムがイサクを捧げたので、さらにその子ヤコブから12部族が生まれました。ハンナがサムエルを主に明け渡したので、サムエルはダビデに油を注ぐ者となったのです。これが神の方法です。もし、私たちがこれらのプロセスを経ずに、捧げることを経験しないで、無条件に恵みを受けるとすれば、それは意味のわからない祝福を受け続けるどうしようものない金持ちの馬鹿息子のようになってしまうのではないでしょうか。
授かったものを捧げることによって、私たちは互いに新創造の領域の中で関係性を構築するのです。そして、それは私たちの思いを遙かに越えて、何十倍、何百倍の御国における価値へと昇華されていくのです。私たちは、自分にとっての最高、最良のものを神に捧げることによって、それさえも神によって与えられたものであることを喜ぶのです。そして、私たちがそれらを捧げることが出来るのは、さらにすぐれた最高、最良のもの、すなわちひとり子イエスがすでに私たちに与えられたからです。そして、私たちが捧げたものはすべてこの方のよみがえりとともに、何十倍何百倍となって私たちの霊的な祝福として返って来るのです。
ルカ15章には、よく知られた3つの美しいたとえがあります。その2つ目が、「失われた銀貨のたとえ」です。3つのたとえの共通するテーマは、「失われていたものが見つかった喜び」ですが、それぞれの違いが立体的に救いの意味と価値について伝えています。このうちどれが欠けても十分ではありません。「銀貨をさがす女のたとえ」は、「羊と羊飼いのたとえ」と「放蕩息の父のたとえ」の影に隠れて、この3つの中では最も地味なたとえに見えますが、この「銀貨をさがす女のたとえ」がなければ、どうしても伝えることの出来ない側面があるのです。それはいったいどのようなことでしょうか。今日は、銀貨のたとえを、前後のたとえとのつながりを考えながら、いろいろな角度から読んでいきたいと思っています。
はじめのたとえの主人公は「羊飼い」です。さいごの放蕩息子のたとえでは「父」です。そして、銀貨のたとえでは「女」です。いずれも自分にとって大切なものを失っているときは、その心には「悲しみ」や「憂い」、そして「痛み」があります。その失った大切なものが見つかってもう一度自分の手元に戻ってくるまで、その感情は絶え間なく続いています。3つのたとえは、それぞれにシチュエーションは違いますが、いずれも「大切なものを失った悲しみ」「それをもう一度取りもどそうとする熱心」「そして価値が回復したことの喜び」という流れで失った側から描かれているということを確認したいと思います。そして、この3つのたとえは、イエスが罪人たちを迎えて食事までいっしょにしていることに対するパリサイ人や律法学者たちの不平に対する答えとして語られたものだということも、押さえておきたいポイントのひとつです。(ルカ15:1~2)パリサイ人や律法学者が、「人間の視点」で、人間どうしを比較して差別しているのに対し、イエスは、これらのたとえをもって「神の視点」から人が失われて無価値になった状態であることを示されたのです。この3つのたとえは、「神が救いというものをどのように見ておられるか」ということの表現です。そして何より重要なことは、「一人の人が救われることによる神の喜びの大きさ」です。(ルカ15:6~7,9~10,32)救われた人の喜びではなく、救う側の神の喜びが表現されているのです。羊飼いも女も父も、その喜びを押さえきれず、みんなと分かち合おうとしています。パリサイ人や律法学者には、自分たちが失われた状態にいることさえわからず、しかめっ面をして、イエスの周りに集まる人たちを蔑視し、そんな自分たちの目から見て卑しいと感じる人々を愛情を持って受け入れるイエスにも腹を立てているのです。まさしく放蕩息子の兄の姿です。人は隣人の幸せにも不幸せにも無関心です。この大げさにも思えるような喜びようの中に、神の愛が表現されています。「愛の反対は無関心である」と言われます。愛そのものであられる神は、私たち一人ひとりに限りない関心をお持ちです。人は神が私たちに関心を持っておられることを忘れています。クリスチャンであっても、それを信じられない人が多いのは残念なことです。神が私たちの価値に比例して関心を深められるのだしたら絶望的かもしれません。しかし、神は私たちが「失われているがゆえ」に、また、「御自身が愛であるがゆえ」に、私たちに関心を持ち、捜し求め、また、待っていてくださるのです。このことを絶対に忘れてはいけません。
今度は、失われた側から考えてみましょう。失われた側から考えてみると、銀貨のたとえの特徴が際立ちます。「銀貨」だけが生きものではないからです。羊飼いから離れた「羊」も、お父さんから離れた「息子」も、追いつめられてとても不安な状況に陥っています。ところが、「銀貨」にはいのちも人格もありません。失われた状態にあったても、銀貨は自分の状態を自覚することは出来ません。銀貨が困ったり、持ち主を求めて、泣いたり叫んだりすることはありません。それは、ただ「客観的に価値を失っている」のです。いざという時には、羊ならメェーと鳴き声をあげたり、放蕩息子なら我に返って土下座したりするでしょうが、銀貨は自分から何も出来ません。また、羊は自分が群れから離れたことに気づき、羊飼いを見失ったことを自覚するまで、自分の置かれている立場や状況の悲惨さに気づきません。放蕩息子も父の財産を完全に使い果たすまでは、それなりに自由な生活を楽しんでいた期間があるのです。しかし、銀貨は女の手元になければ、その価値は失われています。女の手から離れた瞬間から、それは「存在しないのと同じ」なのです。銀貨は「失われて悲しい」とも、「早く持ち主のところへ戻りたい」とも言いません。勿論「見つけてくれて感謝します」と言うはずもないわけです。 つまり、「銀貨のたとえ」においては、必死になって失われた価値を取り戻そうとする「神の熱心だけがただ一方的に描かれている」のです。これは、非常に重要なポイントです。ですから、「失われた羊」や「放蕩する息子」は小説になっても、銀貨の話は小説になりません。自己憐憫による人間の側からの感情移入が出来ないからです。銀貨のたとえは、人の宗教性を閉め出すのです。人の迷いや悲しみではなく、神の愛が与える安らぎ、神の喜びが重要なのです。(ゼパニヤ3:17)神は喜ぶのは当然だと言って喜んでくださるのです。
女は1枚の銀貨を失いました。この銀貨はドラクマであると書かれています。ドラクマはギリシャの通貨で、ローマ通貨のデナリとほぼ同じ価値があります。1ドラクマ=1デナリで、当時の一日の賃銀にほぼ相当します。女はそれを10枚持っていました。一説によれば女が持っていたのは、銀貨10枚を鎖でつなぎ合わせた髪飾りではないかと言われています。当時女性はヴェールを被るときに、銀貨をつなぎ合わせて輪のようにしたものを被って固定していたそうです。また、10枚つないで首にかけていたこともあったそうです、もしそうだとしたら、10枚のうち1枚を失うと、残りの9枚も使えなくなってしまうので、さらにたとえの意味は広がります。1枚1枚の銀貨にも価値がありますが、10枚揃っていることにいっそうの価値があります。女は「教会」を表し、あかりは「聖霊」を表しています。聖霊がみことばのあかりによって闇を照らし、その中で銀貨は見出されます。「あかりをつけ、家をはいて、見つけるまで念入りに捜す」ことによって、価値は取り戻されます。
3つのたとえの中で、羊飼いは「御子イエス」を表し、ふたりの息子のお父さんは「天の父」の雛型ですから、それらを合わせると、救いのみわざは、父子聖霊の三位一体の働きであることが示されているのです。こうして見てくると、なぜたとえが3つ必要なのかがより明らかになりますね。贖いは失われた価値を回復するだけでなく、それ以上の関係性を新しく創造するためのものだと言えます。
なぜこのたとえの中で失われているのが、人格のない銀貨なのかということをもう少し考えてみましょう。お金は、その原材料を考えれば、その額面どおりの価値があるわけではありません。銘や刻印があるから、その通貨を発行する国の権威によって、その価値が保障されているだけです。イエスが「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)と言われたことや、パウロが「私はイエスの焼き印を受けている」(ガラテヤ6:17)と書いていることを考え合わせると、私たちは聖霊によって御国を受け継ぐことの保障を得たのであり、御子の権威において、神に捧げる特権を得ている。天に通用する価値を獲得していると言えます。さらに、地上においても、みこころの実現のためであるなら、必要はすべて満たされるのだと断言できるわけです。今回の学びにおいて、私自身が反省させられたのは、御国の権威において通用する通貨をこの世のレベルで無駄遣いしているのではないかということです。
世の中には貯金通帳を見ていれば幸せだという人も稀におられるようですが、本来、通帳の上の数字やお金そのものには、価値はありません。価値がある別の何かと交換してこそ意味があるのです。それを「どんな価値と交換するか」がポイントです。女はこれから何かを買おうとしていています。銀貨を眺めてニヤニヤするために、10枚そろえたかったわけではありません。10ドラクマの価値があるものは、9ドラクマでは買えません。失った1ドラクマを何と交換出来るかではなく、「すべて」を神の為に用いることが大切なのです。だから、どうしても失われていた1枚を見つけだす必要があったのではないでしょうか。女にとってはその「すべて」という条件を満たすことが大事なのであって、失った1枚がもったいないというのとは少し違うと思うのです。ベタニヤのマリヤは、300デナリの香油を、「つぼを割って」イエスに注いでいます。貧しいやもめは、生活費のすべてであった2枚のレプタを、「両方とも」宮に捧げました。捧げた額ではなく「つぼを割ったこと」「両方とも捧げたこと」が大事なのです。神は私たちがどれだけのものを持っているのかをご存じです。そして、神のものをいかに神に返すのかを見ておられます。このように考えてくると、10分の1献金というのは、純粋な信仰の動機を破壊するくだらない宗教の取り決めだと感じます。手元に残っている10分の9を不自然に容認するからです。
銀貨は単純に私たちの財布を指しているわけではありません。私たちの能力や時間、神様に委ねられているものすべてです。2レプタと300デナリは、その金額として比較するために書かれているのではありませんが、聖書はありのままを記録しています。大事なことはその額面ではなく、ふたりの女にとって、その行為はその状況下で出来る最上のことだったということです。神は私たちからお金を奪って身ぐるみはごうと思ってはおられません。礼拝とは捧げることです。アブラハムはお金ではなくイサクを捧げました。イサクを捧げなさいと言われたからです。礼拝者は常に捧げることを求められています。不妊の女ハンナは、最初は女の意地で「子どもを持ちたい」と主に祈りました。しかし、悩みと嘆きの中で「子どもを授かったなら、その子の一生を主に捧げる」(サムエル1:11)と言っています。不思議です。捧げてしまうのなら、子どもが無いのと同じか、無いより苦しいのではと思うかも知れません。しかし、そうではないのです。アブラハムがイサクを捧げたので、さらにその子ヤコブから12部族が生まれました。ハンナがサムエルを主に明け渡したので、サムエルはダビデに油を注ぐ者となったのです。これが神の方法です。もし、私たちがこれらのプロセスを経ずに、捧げることを経験しないで、無条件に恵みを受けるとすれば、それは意味のわからない祝福を受け続けるどうしようものない金持ちの馬鹿息子のようになってしまうのではないでしょうか。
授かったものを捧げることによって、私たちは互いに新創造の領域の中で関係性を構築するのです。そして、それは私たちの思いを遙かに越えて、何十倍、何百倍の御国における価値へと昇華されていくのです。私たちは、自分にとっての最高、最良のものを神に捧げることによって、それさえも神によって与えられたものであることを喜ぶのです。そして、私たちがそれらを捧げることが出来るのは、さらにすぐれた最高、最良のもの、すなわちひとり子イエスがすでに私たちに与えられたからです。そして、私たちが捧げたものはすべてこの方のよみがえりとともに、何十倍何百倍となって私たちの霊的な祝福として返って来るのです。
2008年4月18日金曜日
4月13日 良い牧者 (イエスのたとえ話⑨)
ヨハネ10:1~21
今日はヨハネ10章から、「羊の囲いのたとえ」と「良い牧者のたとえ」について、ともに分かち合いましょう。全体の流れと構成をとらえるために、まず、鍵になるヨハネの説明に注目してみます。まず6節です。「イエスはこのたとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」(ヨハネ10:6)と書かれている箇所があります。続いて19節には、「このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。」(ヨハネ10:19)とあります。いずれも、短い文章ですが、たとえを聞いた人たちのリアルな反応を写し取っています。1~5節までの「羊の囲いのたとえ」を聞かされた「彼ら」とは、「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々」です。つまり、シロアムの池で目が開かれた生まれつきの盲人を会堂から追放した人々です。(ヨハネ9:40)「羊の囲いに門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者」とは、彼らのことです。 彼らは自分たちを「盗人」だの「強盗」だの言われていることにピンと来ていません。前半の1~5節までの「羊の囲いのたとえ」だけでは、彼らに意味がわからなかったのです。そこで、イエスはさらに詳しくかみ砕いて7~18節の「良い牧者のたとえ」をお話しになったというわけです。そのみことばが語られると、今度はユダヤ人の中に分裂が起こりました。生まれつきの盲人が見えるようになったことは事実であり、それは喜ぶべきことのはずですが、彼らの中の多くはそれを喜ばず、「イエスは悪霊につかれ気が狂っているのだ」と言いました。しかし、そうは思わない人たちもいたのです。イエスのみわざに心をとめる人々がいたからこそ、後半のたとえもあったわけです。
羊の群れを混乱させるのは、羊飼いのフリをしてやってくる「盗人」そして「強盗」です。彼らは門から入って来ないで、「ほかの所を乗り越えて来る」と言われています。これは重要なポイントです。門とはイエスです。つまり、「偽の牧者は、門であるイエスを通っていない」ことになります。この当時、ユダヤの宗教指導者たちは、聖書を託されキリストを待ち望むように民を指導することが期待された人たちでした。ところが、彼らは預かった神のことばを自分たちの言い伝えで覆ってしまい、歓迎すべき御方を拒絶したのです。今日のキリスト教会でも霊的に同じことが起こっています。本来は羊を養うべき羊飼いが羊を混乱させ、羊を食い物にしている。このふたつのたとえは。そのことに対する強い警告なのです。「わたしは、門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)とはっきり書かれています。どう読んでも、読み違えることなど出来ません。イエスが門です。イエスを通って入れば、だれでも救われるのです。そのように書いてあります。イエスから、その名を呼ばれ、イエスという門を通って来たのではない偽物、つまり、「牧者でなく、また羊の所有者でない雇い人」(ヨハネ10:12)は、「羊のことを心にかけていない」のです。(ヨハネ10:13) このような偽物が、教会という囲いを牛耳って、羊に牧草を与えず、自由を奪っています。「安らかに出入りすること」と、「牧草を見つけること」は、約束です。(ヨハネ10:9)イエスが来られたのは、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため」だと書かれています。(ヨハネ10:10)囲いはありますが、そこから出ないように閉じこめるものではなく、「勝手に迷いでないように」また「外敵が侵入しないように」と、羊の安全のために造られたものです。羊飼いの声が届く範囲であれば、囲いから「安らかに出入りできる」のです。他の教団、教派の教えに触れてはだめ、あの集会、この礼拝に参加してはいけないなどと縛るのは不自然です。良い羊飼いに導かれた羊は牧草を見つけるのです。牧草とはもちろんみことばであり、霊的な満たしのことです。「自由に出入りした結果、牧草を見つける」これが、良い羊飼いについて行く羊の標準的報酬です。羊は羊飼いによって養われ、いのちを満喫するのです。
イエスはご自分を「良い牧者である」と宣言されました。ユダヤ人なら誰もが詩編の23編を思い出したことでしょう。偉大なイスラエルの王ダビデが、わが羊飼いと呼んだ御方がイエスであるということです。さらに、イエスが語られたふたつのたとえは、エゼキエルの34章をさらに深く解説した内容になっています。エゼキエルは、「羊を養わないで自分だけが肥え太る牧者が主がさばかれること」「彼らの手から主が羊を救い出すこと」「主がお立てになったひとりの牧者が羊を養われること」を預言しました。これらのエゼキエルのことばは、アッシリアに滅ぼされる前のイスラエルに対してのものです。ですから、パリサイ人たちもみことばに関する知識はあっても、全く自分たちが責められているとは思わなかったのでしょう。今日、ヨハネの10章を読んで心の痛まない牧師も大勢いるわけですが、彼らはイエスが責めているのは、自分ではない別の人のことだと信じているわけです。良い牧者は「羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ10:11)とまで言われています。これは、限度を超えた極めて異常なことを語っています。家畜を飼うのは家畜に良い思いをさせるためではなく、毛皮をはいだり、肉を食べたりするためです。いくらパレスチナ地方の羊飼いと羊の結びつきが強いと言っても、牧者が羊のためにいのち捨てることなど現実にはあり得ない狂気の沙汰です。 ですから、パリサイ人の多くが、「気が狂っている」と言ったのは、ある意味当然のことなのです。「わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令を父から受けたのです」(ヨハネ10:18)イエスはさらにあり得ないことを語っています。これはヒューマニズムで理解できることばではありません。イエスを「偉大な道徳家」などと評している人はこのみことばをまともに読んだことがないのでしょう。「自分からいのちを捨てること」を一般的に自殺と言います。羊のために自殺する羊飼いがいるとしたら、その羊飼いは大馬鹿野郎です。いのちを粗末にしてはいけません。しかし、イエスは「羊を愛するあまりいのちを落とす」とは言っていません。「死ななければならない運命にあるのだ」とも言っていません。「自分から命を捨てる」と、間違いなくはっきりおっしゃっています。これは、「十字架に架けられた」のではなく、「こっちから架かってやるのだ」という意味です。ですから、十字架というのは、ある側面から見れば神の自殺なのです。人が神の子のいのちを奪ったのではありません。自殺がある意味、英雄的な魅力を秘めているのは、十字架の影だからです。しかし、人の自殺はあくまで自分のためです。イエスがいのちを捨てることは人の身勝手な自殺とは、全く意味も次元も違います。イエスの死は、「羊にいのちを得させ、それを豊かに持たせるため」のものです。羊のために良い牧者として死ぬのです。 それは、「世の罪を取り除く神の小羊」たればこそ実現できたことです。いのちを捨てるには「捨てる権威」が必要です。資格と言い換えてもいいでしょう。この御方には罪がありませんでした。だからこそ、「捨てる権威」があるのです。「権威」とは父の命令であり、それに服従することを意味しています。人にはいのちを捨てる権威はありません。わたしたちのいのちは借り物だからです。正しく管理する責任はあっても捨てる権威などあろうはずがないのです。「なぜ人をなぜ殺してはいけないか」「どうして自分のいのちなのに自殺してはいけないのか」今の大人達は、現実に絶望した子ども達に「なぜ」「どうして」と聞かれると、きちんと答えられないと言います。実は答えは簡単です。いのちは借り物です。借りたものはちゃんと管理して返さないと駄目です。
「権威」ということについて、イエスがピラトとことばを交わされた場面があります。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」とピラトは、恐れの中で語りました。(ヨハネ19:10)しかし、イエスは「もし、それが上から与えられているのでなかったら、あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです」(ヨハネ19:11)とお答えになっています。この瞬間、ピラトは迷える羊としてイエスという門の前に立っていたのですが、その門から中へ入ろうとはしませんでした。神の子イエスと向かい合ったピラトは、自分がさばくのではなく、自分がさばかれている感覚によって恐れたのです。しかし、ピラトはプライドのゆえに、こともあろうに最も権威ある御方に向かって、自分のこの世の権威を振りかざしたのです。ピラトに十字架につける権威があったのではなく、イエスにいのちを捨てる権威があったのです。それは、イエスが父の命令に服されたので、その権威がピラトを圧倒した場面でした。私たちもそれぞれにピラトの座についてイエスを評価します。ピラトはイエスを擁護し、釈放しようと努めますが、最後には「このさばきは自分とは関係ない」と宣言します。これはこの世の多くの人が取る態度と共通しています。
「盗人」とか、「強盗」と言われているのは、他人のものをこっそり盗んだり、無理に奪ったりするからです。単に「もの」だけでなく「他人の所有権」をも奪うのです。神の権威を盗み、栄光を奪う連中は最大のクズです。イエスさまも、パリサイ人や律法学者をどれぐらいひどく罵られたか見てみればわかります。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」(マタイ23:13)他にも「目の見えぬ手引きども」(24)「白く塗った墓」(27)「おまえたち蛇ども。まむしのすえども」(33)などときっと激しい口調、険しい表情で言われたはずです。悪口と言えば悪口とも言えるこのような手厳しい評価をしっかり見つめるべきです。「互いを裁きあってはいけません」などと言って、そんなところだけ、律儀にみことばを使うのは卑怯です。自分の立ち位置が曖昧な人は、自分が下手につっこまれたくないので、吟味する義務を怠って寛容なふりをするものです。神の栄光を盗もうとする者は最も悪魔的です。「自分から語る者は、自分の「栄光を求めます。しかし、自分を遣わした方を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(ヨハネ7:18)
良い牧者についていく羊の特徴は何でしょうか。それは「彼の声を知っている」とおいうことです。他の人について行かずに逃げ出すのはなぜでしょうか。「その人の声を知らないからだ」と書いてあります。良い牧者に導かれるのは、その声になじみがあるからで、自分の名をはっきり呼ばれたからです。(ヨハネ10:3~5)9章の終わりでイエスはこうおっしゃっています。「もし、あなたがたが盲目であったら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:41)この御方の声を聞くためには、私たちはまず「見えないこと」を告白する必要があります。羊が自分で牧草を見つけられるなら、羊飼いはいらないのです。私たちは見えません。光がないところでは視力が無意味なように、霊的なものは聖霊の光なしには見えません。それが「見える」と語る人々は嘘つきであり、盗人、強盗なのです。私たちには見えませんが、この御方が確かに私を呼んでおられること、その声が確かに自分の羊飼いである方の声だとわかるのです。羊飼いは私を私以上に、あなたをあなた以上に知っておられる方です。「わたしはわたしの者を知っています。また、わたしのものはわたしを知っています」(ヨハネ10:14)それはどれくらいの程度だと書かれていますか。「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。」(ヨハネ10:15)父と御子がひとつであるぐらい、私たちと牧者は一体なのだとみことばは語っています。
今日はヨハネ10章から、「羊の囲いのたとえ」と「良い牧者のたとえ」について、ともに分かち合いましょう。全体の流れと構成をとらえるために、まず、鍵になるヨハネの説明に注目してみます。まず6節です。「イエスはこのたとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」(ヨハネ10:6)と書かれている箇所があります。続いて19節には、「このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。」(ヨハネ10:19)とあります。いずれも、短い文章ですが、たとえを聞いた人たちのリアルな反応を写し取っています。1~5節までの「羊の囲いのたとえ」を聞かされた「彼ら」とは、「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々」です。つまり、シロアムの池で目が開かれた生まれつきの盲人を会堂から追放した人々です。(ヨハネ9:40)「羊の囲いに門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者」とは、彼らのことです。 彼らは自分たちを「盗人」だの「強盗」だの言われていることにピンと来ていません。前半の1~5節までの「羊の囲いのたとえ」だけでは、彼らに意味がわからなかったのです。そこで、イエスはさらに詳しくかみ砕いて7~18節の「良い牧者のたとえ」をお話しになったというわけです。そのみことばが語られると、今度はユダヤ人の中に分裂が起こりました。生まれつきの盲人が見えるようになったことは事実であり、それは喜ぶべきことのはずですが、彼らの中の多くはそれを喜ばず、「イエスは悪霊につかれ気が狂っているのだ」と言いました。しかし、そうは思わない人たちもいたのです。イエスのみわざに心をとめる人々がいたからこそ、後半のたとえもあったわけです。
羊の群れを混乱させるのは、羊飼いのフリをしてやってくる「盗人」そして「強盗」です。彼らは門から入って来ないで、「ほかの所を乗り越えて来る」と言われています。これは重要なポイントです。門とはイエスです。つまり、「偽の牧者は、門であるイエスを通っていない」ことになります。この当時、ユダヤの宗教指導者たちは、聖書を託されキリストを待ち望むように民を指導することが期待された人たちでした。ところが、彼らは預かった神のことばを自分たちの言い伝えで覆ってしまい、歓迎すべき御方を拒絶したのです。今日のキリスト教会でも霊的に同じことが起こっています。本来は羊を養うべき羊飼いが羊を混乱させ、羊を食い物にしている。このふたつのたとえは。そのことに対する強い警告なのです。「わたしは、門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)とはっきり書かれています。どう読んでも、読み違えることなど出来ません。イエスが門です。イエスを通って入れば、だれでも救われるのです。そのように書いてあります。イエスから、その名を呼ばれ、イエスという門を通って来たのではない偽物、つまり、「牧者でなく、また羊の所有者でない雇い人」(ヨハネ10:12)は、「羊のことを心にかけていない」のです。(ヨハネ10:13) このような偽物が、教会という囲いを牛耳って、羊に牧草を与えず、自由を奪っています。「安らかに出入りすること」と、「牧草を見つけること」は、約束です。(ヨハネ10:9)イエスが来られたのは、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため」だと書かれています。(ヨハネ10:10)囲いはありますが、そこから出ないように閉じこめるものではなく、「勝手に迷いでないように」また「外敵が侵入しないように」と、羊の安全のために造られたものです。羊飼いの声が届く範囲であれば、囲いから「安らかに出入りできる」のです。他の教団、教派の教えに触れてはだめ、あの集会、この礼拝に参加してはいけないなどと縛るのは不自然です。良い羊飼いに導かれた羊は牧草を見つけるのです。牧草とはもちろんみことばであり、霊的な満たしのことです。「自由に出入りした結果、牧草を見つける」これが、良い羊飼いについて行く羊の標準的報酬です。羊は羊飼いによって養われ、いのちを満喫するのです。
イエスはご自分を「良い牧者である」と宣言されました。ユダヤ人なら誰もが詩編の23編を思い出したことでしょう。偉大なイスラエルの王ダビデが、わが羊飼いと呼んだ御方がイエスであるということです。さらに、イエスが語られたふたつのたとえは、エゼキエルの34章をさらに深く解説した内容になっています。エゼキエルは、「羊を養わないで自分だけが肥え太る牧者が主がさばかれること」「彼らの手から主が羊を救い出すこと」「主がお立てになったひとりの牧者が羊を養われること」を預言しました。これらのエゼキエルのことばは、アッシリアに滅ぼされる前のイスラエルに対してのものです。ですから、パリサイ人たちもみことばに関する知識はあっても、全く自分たちが責められているとは思わなかったのでしょう。今日、ヨハネの10章を読んで心の痛まない牧師も大勢いるわけですが、彼らはイエスが責めているのは、自分ではない別の人のことだと信じているわけです。良い牧者は「羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ10:11)とまで言われています。これは、限度を超えた極めて異常なことを語っています。家畜を飼うのは家畜に良い思いをさせるためではなく、毛皮をはいだり、肉を食べたりするためです。いくらパレスチナ地方の羊飼いと羊の結びつきが強いと言っても、牧者が羊のためにいのち捨てることなど現実にはあり得ない狂気の沙汰です。 ですから、パリサイ人の多くが、「気が狂っている」と言ったのは、ある意味当然のことなのです。「わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令を父から受けたのです」(ヨハネ10:18)イエスはさらにあり得ないことを語っています。これはヒューマニズムで理解できることばではありません。イエスを「偉大な道徳家」などと評している人はこのみことばをまともに読んだことがないのでしょう。「自分からいのちを捨てること」を一般的に自殺と言います。羊のために自殺する羊飼いがいるとしたら、その羊飼いは大馬鹿野郎です。いのちを粗末にしてはいけません。しかし、イエスは「羊を愛するあまりいのちを落とす」とは言っていません。「死ななければならない運命にあるのだ」とも言っていません。「自分から命を捨てる」と、間違いなくはっきりおっしゃっています。これは、「十字架に架けられた」のではなく、「こっちから架かってやるのだ」という意味です。ですから、十字架というのは、ある側面から見れば神の自殺なのです。人が神の子のいのちを奪ったのではありません。自殺がある意味、英雄的な魅力を秘めているのは、十字架の影だからです。しかし、人の自殺はあくまで自分のためです。イエスがいのちを捨てることは人の身勝手な自殺とは、全く意味も次元も違います。イエスの死は、「羊にいのちを得させ、それを豊かに持たせるため」のものです。羊のために良い牧者として死ぬのです。 それは、「世の罪を取り除く神の小羊」たればこそ実現できたことです。いのちを捨てるには「捨てる権威」が必要です。資格と言い換えてもいいでしょう。この御方には罪がありませんでした。だからこそ、「捨てる権威」があるのです。「権威」とは父の命令であり、それに服従することを意味しています。人にはいのちを捨てる権威はありません。わたしたちのいのちは借り物だからです。正しく管理する責任はあっても捨てる権威などあろうはずがないのです。「なぜ人をなぜ殺してはいけないか」「どうして自分のいのちなのに自殺してはいけないのか」今の大人達は、現実に絶望した子ども達に「なぜ」「どうして」と聞かれると、きちんと答えられないと言います。実は答えは簡単です。いのちは借り物です。借りたものはちゃんと管理して返さないと駄目です。
「権威」ということについて、イエスがピラトとことばを交わされた場面があります。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」とピラトは、恐れの中で語りました。(ヨハネ19:10)しかし、イエスは「もし、それが上から与えられているのでなかったら、あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです」(ヨハネ19:11)とお答えになっています。この瞬間、ピラトは迷える羊としてイエスという門の前に立っていたのですが、その門から中へ入ろうとはしませんでした。神の子イエスと向かい合ったピラトは、自分がさばくのではなく、自分がさばかれている感覚によって恐れたのです。しかし、ピラトはプライドのゆえに、こともあろうに最も権威ある御方に向かって、自分のこの世の権威を振りかざしたのです。ピラトに十字架につける権威があったのではなく、イエスにいのちを捨てる権威があったのです。それは、イエスが父の命令に服されたので、その権威がピラトを圧倒した場面でした。私たちもそれぞれにピラトの座についてイエスを評価します。ピラトはイエスを擁護し、釈放しようと努めますが、最後には「このさばきは自分とは関係ない」と宣言します。これはこの世の多くの人が取る態度と共通しています。
「盗人」とか、「強盗」と言われているのは、他人のものをこっそり盗んだり、無理に奪ったりするからです。単に「もの」だけでなく「他人の所有権」をも奪うのです。神の権威を盗み、栄光を奪う連中は最大のクズです。イエスさまも、パリサイ人や律法学者をどれぐらいひどく罵られたか見てみればわかります。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」(マタイ23:13)他にも「目の見えぬ手引きども」(24)「白く塗った墓」(27)「おまえたち蛇ども。まむしのすえども」(33)などときっと激しい口調、険しい表情で言われたはずです。悪口と言えば悪口とも言えるこのような手厳しい評価をしっかり見つめるべきです。「互いを裁きあってはいけません」などと言って、そんなところだけ、律儀にみことばを使うのは卑怯です。自分の立ち位置が曖昧な人は、自分が下手につっこまれたくないので、吟味する義務を怠って寛容なふりをするものです。神の栄光を盗もうとする者は最も悪魔的です。「自分から語る者は、自分の「栄光を求めます。しかし、自分を遣わした方を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(ヨハネ7:18)
良い牧者についていく羊の特徴は何でしょうか。それは「彼の声を知っている」とおいうことです。他の人について行かずに逃げ出すのはなぜでしょうか。「その人の声を知らないからだ」と書いてあります。良い牧者に導かれるのは、その声になじみがあるからで、自分の名をはっきり呼ばれたからです。(ヨハネ10:3~5)9章の終わりでイエスはこうおっしゃっています。「もし、あなたがたが盲目であったら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:41)この御方の声を聞くためには、私たちはまず「見えないこと」を告白する必要があります。羊が自分で牧草を見つけられるなら、羊飼いはいらないのです。私たちは見えません。光がないところでは視力が無意味なように、霊的なものは聖霊の光なしには見えません。それが「見える」と語る人々は嘘つきであり、盗人、強盗なのです。私たちには見えませんが、この御方が確かに私を呼んでおられること、その声が確かに自分の羊飼いである方の声だとわかるのです。羊飼いは私を私以上に、あなたをあなた以上に知っておられる方です。「わたしはわたしの者を知っています。また、わたしのものはわたしを知っています」(ヨハネ10:14)それはどれくらいの程度だと書かれていますか。「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。」(ヨハネ10:15)父と御子がひとつであるぐらい、私たちと牧者は一体なのだとみことばは語っています。
4月6日 祈りについての本当の話 (中高生のために)
進級・進学おめでとうございます。まもなくそれぞれに学校も始まって新しいスタートを切るわけですが、そんな大きな節目に当たって、今日は中高生のみなさんを対象に特別にお話しようと思っています。もちろん、大人の兄弟姉妹たちにとっても、基本的なことですが、有益なメッセージになるでしょう。多分みなさんはこれまでに何らかの祈りをしたことがあるし、今も何かを祈り続けているかも知れません。でも、改めて、「これまでに何を祈り、その祈った項目一つ一つについてどんな結果や答えがあったか」と問われると、非常に曖昧であったり、とたんに自信がなくなったりということはないでしょうか。
私は、「祈りはクリスチャンにとって呼吸のようなものだ」とよく言っています。それくらい必要不可欠だということです。祈っていないクリスチャンは息をしていないのと同じ、また、聖書を読まないクリスチャンは、ご飯を食べていないのと同じ、そして、証をしないクリスチャンは運動不足で不健康だとたとえています。その中で、今日は祈りの本質にポイントをしぼってお話します。呼吸というのは、非常に奥の深いものです。無意識でも呼吸は出来ますが、あらゆるスポーツや武道、また、アートの達人の域に達する人は、呼吸というのを非常に意識的にコントロールしています。呼吸というのは、「吐いて吸うことの繰り返し」です。まず、きちんと出すことによって吸います。これをどのように意識づけるかが、しなやかなからだの動きや心の状態と深い関係があるわけです。無意識でも息をしているし、息をしているというのが生きていることであり、生きているということは息をしているということです。うまく呼吸できる人、人と呼吸を合わせることが出来る人は、自分の能力を最大限に引き出し、あらゆる状況に対応できます。齋藤孝という人が、「呼吸入門」という本の中で、呼吸が人間のあらゆる感覚や表現の基本であるということを述べていますから、興味のある人は読んでみると良いと思います。
聖書の原語で「息」というのは「霊」と同じ意味で使われています。はじめの人、アダムが造られたときのことを聖書は次のように書いています。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(創世記2:7)そして、ヨブ記の中には何度も「息」についての表現が出てきます。「私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり」(ヨブ27:3)「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える」(ヨブ32:8)「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える」(ヨブ33:4)これらのことばを見ると、ここで「息」と書かれているのは、人が普通に呼吸をするということ以上の内容を指しているのがわかりますね。「神様の霊と私の霊が循環している感じ」がわかりますか。神様が出発点となり、私の存在を存在たらしめ、そして神様に返っています。これは大切なイメージですから、心をしっかり働かせて想像してみましょう。パウロは偶像を拝んでいたアテネの人たちに言いました。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何か不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神はすべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです。」(使徒17:24~25)パウロが言いたかったのは、金や銀や大理石を見事に彫刻して形造った神々に祈っても、霊が循環するような感覚などないということです。いのちの交流はないのです。厳かな儀式や音楽や踊りで気分を高揚させるのではなくても、神さまの現れというのは、もっと自然でおだやかなものです。それは、「教え」に属するものではなく、「いのち」に属するものです。だから、とても簡単で子どもにでも「できる」ことなのです。いのちだから、たとえ意味がわからなくてもできるはずなのです。ニコデモは、教えを求めましたが、イエスは彼に新しく生まれる必要について語られました。「天の御国でだれが一番偉いのか」と弟子がたずねたとき、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、子どもたちのようにならなければ神の国に入れないと言われました。(マタイ18:3)人は、もともと「神と交流することの出来る霊的な存在」として造られています。しかし、人は罪を犯したので、親しく祈ることが出来ず、後ろめたい気持ちをひきずって生きているので、本当の神様ではない神様を造って「祈りたい気持ち」を慰めて来たのです。ユダヤ人は、偶像を拝んではいけないことを教えられ、みことばを守って来ました。でも、律法の教えの中にはいのちはなく、ますますアダムのいのちでは十分な祈りが出来ない、神様との交わりが出来ないことを思い知るだけでした。
アダムが吹きかけられた息で祈るいのりは、実は「宗教の祈り」です。この祈りをいくら積み重ねても、実は何の効果も価値もないのです。私たちが正しく祈るためには「別の息」「別の霊」を受ける必要があります。それは「復活の息」「復活の霊」です。(ヨハネ20:19~23)パウロのことばも見てみましょう。「『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45)はじめのアダムに属するのは人間的で地上的なものです。後から来る御霊のものは天に属するもの霊的なものであるとパウロは語っています。「最後のアダム」とはイエスのことです。祈るのはこの生かす御霊、つまり聖霊によって祈るのです。イエスもよく祈られました。勿論聖霊によって父に祈られるのです。祈りは交わりであり、祈ることによって三位一体というのが教えではなく、いのちの交わりであることがわかります。難しい神学を学ばなくても、いのちの交わりがあれば、子どもでも嘘を見破ることが出来ます。イエスが話されたことばこそが霊でありいのちです。(ヨハネ5:63)ですから、イエスが何を話されたのかをわかっていなければ、宗教の祈りは出来ても本当の祈りは出来ません。
祈るときにどのようなことに注意すればいいのかをイエス御自身が語れた箇所があるので、そこから大事なことを確認していきます。(マタイ6:5~15)イエスはこうでなければならないという具体的なことは言われませんでした。「こうであってはいけない」ということをふたつ示され、簡単な祈りのことばを教えてくださいました。それが「主の祈り」です。まず、「偽善者たちのようであってはいけない」と書かれています。偽善者たちは人前で祈りたがると言われています。祈ることによって信仰深さを誇る気持ちは、偽善者のものです。祈りは隠れてこっそり祈ればいいのです。決して「私は祈っています」と見せびらかすものではありません。(マタイ6:5~6)次に、「異邦人たちのようであってはならない」と書かれています。異邦人はたくさん繰り返し祈れば良いと思っていますが、それも間違いです。強く念じれば神さまに届くというのは、非常に幼稚な発想です。そんなものは祈りでも何でもなく、祈ることによる自己満足なのです。(マタイ5:7~8)彼らのまねをしてはいけません。勘違いしないようにしましょう。父に対して、こちらの必要をオーダーするのではありません。父は私たちにとって何が本当に必要なのかを知っておられるのですが、私たちはわからずに、あれもこれもと欲しがります。だから、自分にとって本当に必要なものは何なのか、神のみこころはどこにあるのかを悟るためにこそ祈るのです。私は、「私の願いを簡単に叶えるような神なら、信じるには値しないし、こちらから願い下げだ」とよく言っています。私がどのようの者で、神がどのような御方がわかってくれば、くだらない願い事などしなくなります。みこころがなるようにと祈るはずです。
では、10項目にわけて内容を整理してみます。1.誰が祈るのか。それはみなさん一人一人です。他の誰でもありません。祈りに資格はいりません。自分のことは自分で祈ります。誰か権威のある人に祈ってもらう必要は全くありません。神はみなさんの祈りを待っておられます。2.誰に祈るのか。父に祈ります。祈ることで一番大事なのは、「誰に祈るのか」という祈る対象です。自分がどれだけきよらかで敬虔な気持ちで祈るかではなく、どれだけ強い気持ちで長い時間祈るかではありません。誰に向かって祈るのかが大事なのです。父は御子イエスにとって父ですが、私たちにとってはもともと父ではありません。しかし、私たち罪人もイエスを信じることによって「親しくお父さんと呼ぶことの出来る子としての御霊」をいただいたので、自分のお父さんにいろんなことを相談するように、祈ることが出来るのです。3.どこで祈るのか。 これは隠れたところだと書いてあります。決して人前ではありません。勿論みんなの前で祈ることがありますが、本当の祈りは個人的なものです。他人を意識した祈りは神には決して届きません。4.いつ祈るのか。 いつでも構いません。本当は祈っていないときも祈りは続いていると言ってもいいほど、自然な交わりなのです。5.何を祈るのか。 「何でも祈ってよい」と書かれています。しかし、主の祈りを見れば、その優先順位に従って、内容は精選されてくるはずです。間違ったことや恥ずかしいことは祈れなくなります。6.どれくらい祈るのか。 同じことばを繰り返す必要がないので、単純なことがらを念じるような祈りを長い時間しても意味はありません。ただし、自分の心の中にある様々なものを神様の前に長い時間をかけて注ぎだしたりすることも時に必要だし、祈りの中で、神様が気づきを与えてくださったり、みことばを思い起こさせてくださったりするには、一定の時間は必要だとも言えます。7.どんなことばで祈るのか。 祈りは口に出すことばではなく、もっと深い霊のことばです。祈りが深くなればなるほど、どのように祈ってよいかわからなくなります。そんなときは、そのままの思いで主の前に出るのです。そうすると、自分では想像もしなかったようなことばが口から出てきたり、思いの中に広がったりするのを経験します。パウロはそのような経験を、「私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊御自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」(ローマ8:26)と書いています。大事なことはイエスの御名によって祈ることです。この名の権威があるからこそ、父は耳を傾けるのです。私たちが立派に熱心に祈るからではないということも覚えておきましょう。8.どんな姿勢で祈るのか。ひざまずいたり、手を上げたり、姿勢は自由です。歩きながら、お風呂に入りながらどんな体勢でも祈れます。私はベッドに横になったときや、車の運転中にもよく祈ります。駅での無駄に思える待ち時間や、くだらない会議中にも祈ります。そういうときは、祈っているとは外からはわからない姿勢ですよね。必ずひざまずたり、手を組んだり、十字を切ったりする必要はないのです。9.何のために祈るのか。私は、祈りというのは、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)というこの世界の正しい因果関係や法則を学ぶためにあると思っています。私たちは祈りを通して神を学ぶのです。10.祈った後どうするのか。祈ったきりで終わってしまうことが多いですが、祈りは必ず聞かれています。一つ一つの祈りに対し、主の答えを聞く、主が与えてくださる結果を待つことが大切です。そして、神の主権に感謝することです。 十代をいかにすごすかは、一生の豊かさを決定すると言っても過言ではありません。祈りをもって、日々主とともに過ごして欲しいと思います。
私は、「祈りはクリスチャンにとって呼吸のようなものだ」とよく言っています。それくらい必要不可欠だということです。祈っていないクリスチャンは息をしていないのと同じ、また、聖書を読まないクリスチャンは、ご飯を食べていないのと同じ、そして、証をしないクリスチャンは運動不足で不健康だとたとえています。その中で、今日は祈りの本質にポイントをしぼってお話します。呼吸というのは、非常に奥の深いものです。無意識でも呼吸は出来ますが、あらゆるスポーツや武道、また、アートの達人の域に達する人は、呼吸というのを非常に意識的にコントロールしています。呼吸というのは、「吐いて吸うことの繰り返し」です。まず、きちんと出すことによって吸います。これをどのように意識づけるかが、しなやかなからだの動きや心の状態と深い関係があるわけです。無意識でも息をしているし、息をしているというのが生きていることであり、生きているということは息をしているということです。うまく呼吸できる人、人と呼吸を合わせることが出来る人は、自分の能力を最大限に引き出し、あらゆる状況に対応できます。齋藤孝という人が、「呼吸入門」という本の中で、呼吸が人間のあらゆる感覚や表現の基本であるということを述べていますから、興味のある人は読んでみると良いと思います。
聖書の原語で「息」というのは「霊」と同じ意味で使われています。はじめの人、アダムが造られたときのことを聖書は次のように書いています。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(創世記2:7)そして、ヨブ記の中には何度も「息」についての表現が出てきます。「私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり」(ヨブ27:3)「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える」(ヨブ32:8)「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える」(ヨブ33:4)これらのことばを見ると、ここで「息」と書かれているのは、人が普通に呼吸をするということ以上の内容を指しているのがわかりますね。「神様の霊と私の霊が循環している感じ」がわかりますか。神様が出発点となり、私の存在を存在たらしめ、そして神様に返っています。これは大切なイメージですから、心をしっかり働かせて想像してみましょう。パウロは偶像を拝んでいたアテネの人たちに言いました。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何か不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神はすべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです。」(使徒17:24~25)パウロが言いたかったのは、金や銀や大理石を見事に彫刻して形造った神々に祈っても、霊が循環するような感覚などないということです。いのちの交流はないのです。厳かな儀式や音楽や踊りで気分を高揚させるのではなくても、神さまの現れというのは、もっと自然でおだやかなものです。それは、「教え」に属するものではなく、「いのち」に属するものです。だから、とても簡単で子どもにでも「できる」ことなのです。いのちだから、たとえ意味がわからなくてもできるはずなのです。ニコデモは、教えを求めましたが、イエスは彼に新しく生まれる必要について語られました。「天の御国でだれが一番偉いのか」と弟子がたずねたとき、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、子どもたちのようにならなければ神の国に入れないと言われました。(マタイ18:3)人は、もともと「神と交流することの出来る霊的な存在」として造られています。しかし、人は罪を犯したので、親しく祈ることが出来ず、後ろめたい気持ちをひきずって生きているので、本当の神様ではない神様を造って「祈りたい気持ち」を慰めて来たのです。ユダヤ人は、偶像を拝んではいけないことを教えられ、みことばを守って来ました。でも、律法の教えの中にはいのちはなく、ますますアダムのいのちでは十分な祈りが出来ない、神様との交わりが出来ないことを思い知るだけでした。
アダムが吹きかけられた息で祈るいのりは、実は「宗教の祈り」です。この祈りをいくら積み重ねても、実は何の効果も価値もないのです。私たちが正しく祈るためには「別の息」「別の霊」を受ける必要があります。それは「復活の息」「復活の霊」です。(ヨハネ20:19~23)パウロのことばも見てみましょう。「『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45)はじめのアダムに属するのは人間的で地上的なものです。後から来る御霊のものは天に属するもの霊的なものであるとパウロは語っています。「最後のアダム」とはイエスのことです。祈るのはこの生かす御霊、つまり聖霊によって祈るのです。イエスもよく祈られました。勿論聖霊によって父に祈られるのです。祈りは交わりであり、祈ることによって三位一体というのが教えではなく、いのちの交わりであることがわかります。難しい神学を学ばなくても、いのちの交わりがあれば、子どもでも嘘を見破ることが出来ます。イエスが話されたことばこそが霊でありいのちです。(ヨハネ5:63)ですから、イエスが何を話されたのかをわかっていなければ、宗教の祈りは出来ても本当の祈りは出来ません。
祈るときにどのようなことに注意すればいいのかをイエス御自身が語れた箇所があるので、そこから大事なことを確認していきます。(マタイ6:5~15)イエスはこうでなければならないという具体的なことは言われませんでした。「こうであってはいけない」ということをふたつ示され、簡単な祈りのことばを教えてくださいました。それが「主の祈り」です。まず、「偽善者たちのようであってはいけない」と書かれています。偽善者たちは人前で祈りたがると言われています。祈ることによって信仰深さを誇る気持ちは、偽善者のものです。祈りは隠れてこっそり祈ればいいのです。決して「私は祈っています」と見せびらかすものではありません。(マタイ6:5~6)次に、「異邦人たちのようであってはならない」と書かれています。異邦人はたくさん繰り返し祈れば良いと思っていますが、それも間違いです。強く念じれば神さまに届くというのは、非常に幼稚な発想です。そんなものは祈りでも何でもなく、祈ることによる自己満足なのです。(マタイ5:7~8)彼らのまねをしてはいけません。勘違いしないようにしましょう。父に対して、こちらの必要をオーダーするのではありません。父は私たちにとって何が本当に必要なのかを知っておられるのですが、私たちはわからずに、あれもこれもと欲しがります。だから、自分にとって本当に必要なものは何なのか、神のみこころはどこにあるのかを悟るためにこそ祈るのです。私は、「私の願いを簡単に叶えるような神なら、信じるには値しないし、こちらから願い下げだ」とよく言っています。私がどのようの者で、神がどのような御方がわかってくれば、くだらない願い事などしなくなります。みこころがなるようにと祈るはずです。
では、10項目にわけて内容を整理してみます。1.誰が祈るのか。それはみなさん一人一人です。他の誰でもありません。祈りに資格はいりません。自分のことは自分で祈ります。誰か権威のある人に祈ってもらう必要は全くありません。神はみなさんの祈りを待っておられます。2.誰に祈るのか。父に祈ります。祈ることで一番大事なのは、「誰に祈るのか」という祈る対象です。自分がどれだけきよらかで敬虔な気持ちで祈るかではなく、どれだけ強い気持ちで長い時間祈るかではありません。誰に向かって祈るのかが大事なのです。父は御子イエスにとって父ですが、私たちにとってはもともと父ではありません。しかし、私たち罪人もイエスを信じることによって「親しくお父さんと呼ぶことの出来る子としての御霊」をいただいたので、自分のお父さんにいろんなことを相談するように、祈ることが出来るのです。3.どこで祈るのか。 これは隠れたところだと書いてあります。決して人前ではありません。勿論みんなの前で祈ることがありますが、本当の祈りは個人的なものです。他人を意識した祈りは神には決して届きません。4.いつ祈るのか。 いつでも構いません。本当は祈っていないときも祈りは続いていると言ってもいいほど、自然な交わりなのです。5.何を祈るのか。 「何でも祈ってよい」と書かれています。しかし、主の祈りを見れば、その優先順位に従って、内容は精選されてくるはずです。間違ったことや恥ずかしいことは祈れなくなります。6.どれくらい祈るのか。 同じことばを繰り返す必要がないので、単純なことがらを念じるような祈りを長い時間しても意味はありません。ただし、自分の心の中にある様々なものを神様の前に長い時間をかけて注ぎだしたりすることも時に必要だし、祈りの中で、神様が気づきを与えてくださったり、みことばを思い起こさせてくださったりするには、一定の時間は必要だとも言えます。7.どんなことばで祈るのか。 祈りは口に出すことばではなく、もっと深い霊のことばです。祈りが深くなればなるほど、どのように祈ってよいかわからなくなります。そんなときは、そのままの思いで主の前に出るのです。そうすると、自分では想像もしなかったようなことばが口から出てきたり、思いの中に広がったりするのを経験します。パウロはそのような経験を、「私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊御自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」(ローマ8:26)と書いています。大事なことはイエスの御名によって祈ることです。この名の権威があるからこそ、父は耳を傾けるのです。私たちが立派に熱心に祈るからではないということも覚えておきましょう。8.どんな姿勢で祈るのか。ひざまずいたり、手を上げたり、姿勢は自由です。歩きながら、お風呂に入りながらどんな体勢でも祈れます。私はベッドに横になったときや、車の運転中にもよく祈ります。駅での無駄に思える待ち時間や、くだらない会議中にも祈ります。そういうときは、祈っているとは外からはわからない姿勢ですよね。必ずひざまずたり、手を組んだり、十字を切ったりする必要はないのです。9.何のために祈るのか。私は、祈りというのは、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)というこの世界の正しい因果関係や法則を学ぶためにあると思っています。私たちは祈りを通して神を学ぶのです。10.祈った後どうするのか。祈ったきりで終わってしまうことが多いですが、祈りは必ず聞かれています。一つ一つの祈りに対し、主の答えを聞く、主が与えてくださる結果を待つことが大切です。そして、神の主権に感謝することです。 十代をいかにすごすかは、一生の豊かさを決定すると言っても過言ではありません。祈りをもって、日々主とともに過ごして欲しいと思います。
2008年3月21日金曜日
3月16日 羊と羊飼い (イエスのたとえ話 ⑧)
「あなたがたは、どう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もしいたとなれば、まことにあなたがたに告げます。その人は迷わなかった九九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいます父のみこころではありません。」(マタイ18:12~13)
これはおそらく聖書のたとえ話の中で最も有名なものではないでしょうか。日本人の生活は羊とはあまり縁がないのですが、羊は聖書の中に最も頻繁に登場する動物です。アベルが捧げたのは、彼が飼っていた羊の中の最良のものであり、それが彼の信仰の義を表すものでした。義人アベルと言われていますが、その義という漢字は、「羊」に「我」と書きます。まるでこのアベルの記事をもとに作られたような漢字です。他にも「美」や「祥」や「善」という漢字も「羊」が部首として含まれています。羊は十二支のひとつにも入っているように、一説によると、中国では8000年以上前から飼育されているそうです。「眠れない夜のために」というヒルティの名著がありますが、眠れない夜には羊を数えると良いなどと言います。羊を意味する英語のsheepというのは睡眠のsleepを語源としています。またラテン語で財産を表すpecuniaということばは、羊(家畜)を意味するpecusに由来しています。これは、日本では石高で財力や権力を表すのに似ています。こうして、洋の東西を問わず、ことばの中に組み込まれるほどですから、ヨーロッパからアジアにわたる大陸の全域において、羊はもっとも人の暮らしと関わりの深い動物だったわけです。平らな広い牧場で放牧される場合もありますが、とりわけ山間で遊牧する人々にとっては、このたとえは非常に身近でよくわかるものだったでしょう。イエスに「どう思いますか」と問いかけられたときに、99匹を残して1匹を捜しに行く羊飼いの気持ちや、その1匹を見つけたときの喜びは、容易に自分の体験と結びついて理解できたのです。ですから、このたとえは、平均的な羊飼いの行動と心情について語っているのであって、例外的な特に善良な羊飼いの話ではないということを理解しておく必要があります。
このたとえにも見られるように、羊は最も「人間性」を象徴する動物ですが、羊と人との間にはいったいどのような共通点があるのでしょうか。ご承知のように、羊と言えば、まず、あたたかくて良質の毛がとれます。それから、肉やお乳もおいしいです。しかし、人間からは毛も肉もとれません。では、何が似ているのでしょうか。それは性質です。羊は非常に臆病で弱い動物です。他の動物のように、俊敏さもなければ戦うための条件を備えていません。攻撃性もなければ、身を守るすべもない。足は短く、鋭い角も牙も爪もありません。羊は敵に襲われると、斜面を上へ上へと進み風上に向かって移動する性質があり、帰巣本能が乏しいので、迷ってしまうと、まさしくこのたとえのように群れに自力で戻って来ることは出来ないのです。人というのは、神の目にそのようなものだと聖書は語るのです。そして、一番興味深いのは人間の「群衆心理」にも似た羊の性質です。羊の群れには決まったリーダーがいないので、群れの中の一頭が身に危険を感じてあらぬ方向へ走り出すと、群れ全体が一斉にあとに続いて走るというような行動をとるのです。羊にとっては単独で行動することは非常に不安で、一頭だけを群れから離すとパニック状態になり、捕まえるのも難しいのです。そのため「一頭の羊を捕まえるよりも、百頭の羊を捕まえるほうがたやすい」と言われたりします。このように考えてくると、一匹の羊と一人の人間の比較もさることながら、集団になるとさらに良く似ているなあと思うわけです。イエスさまは御父とともに造物主ですから、聖書のたとえ話は人間のように観察と経験にもとづいたものではなく、このたとえのために羊という生き物を作られたとも言えるわけです。
しかし、比較的わかりやすいこのたとえも、読み方の視点がずれると、全く本来のメッセージは届かないままに、違った意味にすり替えらえて、贖いとは切り離されたイメージだけが独立してしまうのです。「迷える小羊」という表現の中には、人間のこころの葛藤や孤独だけがあり、羊飼いの存在は忘れられています。一例をあげてみます。夏目漱石の「三四郎」という小説がありますが、三四郎と想いを通わせる美禰子という女性は、stray sheepということばを印象的に使いながら、三四郎への思いと自分の行動の矛盾や、時代や存在の不安の中でエゴイズムに引きずられていく悲しみを象徴しています。残念ながら、イエスさまのたとえ話は、こういう「迷える状態」に留まり、自分の迷いを文学的に描写して自己憐憫することが目的ではないわけです。たとえの中心は、「羊が迷っていること」ではなく、羊飼いに見つけられて、「羊飼いが喜んでいること」にあるわけです。ルカの福音書15章では、その当たりがいっそう明確になるように、「銀貨を見つける女性のたとえ」と、「放蕩して帰ってきた息子を迎えるお父さんのたとえ」が3つ連続して描かれています。私はあえて、「失われた銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」と言いませんでした。この3つのたとえはいずれも、失われていたものが見つかった喜びが共通する主題なのです。ルカ15章と、マタイ18章の違いは、このたとえが語られている状況です。ルカの場合は「この人は、罪人たちを受け入れて食事までいっしょにする」(ルカ15:2)というパリサイ人や律法学者のつぶやきに対する答えでした。マタイの場合は、「それでは、天の御国ではだれが一番偉いのでしょうか」(マタイ18:1)という弟子たちの質問に対する答えでした。何を中心にしてどこから光を当てるかで、話のポイントや解釈は大きく異なります。たとえが語られた具体的な状況や論理的な整合性をしっかり把握することなしに、イエスさまのみこころは読めません。 羊が弱くて迷いやすい人間性を表していることは既に見ましたが、もうひとつの重要な意味があります。羊は、「人間性」とともに、その「人間性をまとわれたイエス」を象徴しています。冒頭でお話ししたアベルの捧げた羊もそれです。過越しの生け贄として殺される小羊は、まさに十字架のイエスです。 ヘブル人への手紙にはこう記されています。 「そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。」(ヘブル2:14) 「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは、民の罪のためになだめがなされるためなのです。」(ヘブル2:17) さらに、預言者イザヤは、そのふたつの象徴を一つの預言の中で見事に書き分けています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かって道に向かって行った。しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:6~7) 「私たち」は罪人である人間。そして「彼」はイエスです。ともにその「人間性」を羊という動物は象徴しています。一方の羊はさまよっており、もう一方の羊は従順です。この御方は「神の小羊」として紹介され、徹底して無力でした。イエスさまはご自分で、自分からは何事も行うことは出来ないと繰り返して語られました。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことは出来ません。」(ヨハネ5:19、5:30,8:28)
羊飼いであるイエスは、「父のみこころのゆえに」羊の弱さを身にまとい、羊の不安や恐れを体験し、「父のみこころために」失われた一匹を見つけるまで捜し求め、自らを捧げ、羊を贖うのです。ただイエスだけが、父の愛と義と羊の弱さをともに知る唯一の仲介者なのです。神と人との唯一の仲介者はイエスです。信仰の創始者であり、完成者はイエスです。私たちはこの御方に十字架によってつながれているだけなのです。羊は羊飼いを求めません。人間の書く小説は「迷える小羊の葛藤」で終わります。みことばは、羊飼いが羊を見つけ出すのです。羊が羊飼いを発見するのではありません。これは、「隠された宝」や「良い真珠」を買うのは誰かという話と共通するでしょう。
ダビデは「主は私の羊飼い」と告白しました。ですから、その後には、「私は、乏しいことがありません」ということばが続きます。(詩編23:1)「私は迷える小羊です」というのも大事な告白ですが、「羊飼い」のもとへ行かなければ、その告白は泣き言であり、文学や哲学のレベルに留まります。羊飼いの愛が見えなければ、「乏しさ」からくる不安、恐れ、飢え、渇きから抜け出すことができません。「わたしは良い牧者です。良い牧者は、羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)とイエスさまは言われました。繰り返します。羊がどうするかではなくて、羊飼いがすることが大事なのです。それがすべてです。喜ぶのは羊ではなく羊飼いです。本当に救いの意味と価値を知っているのは、罪人ではなく救い主です。私たちの罪は、神が人となってあのような苦しみを受けなければならないほどどうしようもなかったのです。同時に神がそこまでしてでも成し遂げたいほどにこの贖いの計画は完璧だったのです。迷える羊はそんなことなど知らずにただ迷っていただけです。
では、迷っている羊の側からは、本当に何ひとつ出来ないのかという疑問が残ります。ひとつだけできることがあります。この一時によって羊飼いのもとへ帰れるかどうかが決まります。それは羊飼いの声を聞き分けることです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。また、わたしは彼らを知っています。そして、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)みことばを聞くこと。他のいろんな声から良い牧者の声を聞き分けることです。羊の所有者ではない雇い人に騙されてはいけません。人に惑わされてはいけません。聞く耳のある者はたとえを聞き分けることができます。最後に羊飼いが捜し求めるのは一匹です。大会衆ではありません。イエスさまはよみがえって弟子たちのグループに現れてくださったとき、よみがえりをともに喜んだ弟子たちとその喜びを共有されたでしょう。しかし、イエスさまがさらに心にかけたのは、そこにいなかったトマスのことでした。それが羊飼いの心です。イエスさまはトマスのためだけにもう一度現れてくださいました。トマスはイエスさまがラザロたちのためにもう一度ユダヤに行こうと提案されたときに「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言った血気盛んな人物です。しかし、彼に出来たことはイエスを見殺しにすることであり、よみがえったイエスを信じないことでした。彼が出来たのは、さまようことだけです。当然、彼の心は不安といらだちでいっぱいでした。彼は自分を捜し求めてくれた羊飼いである主とわきの傷を見て、イエスさまを「私の主。私の神」として受け入れます。キリストは全人類のための救い主ではなく、あなたの救い主です。十字架は全人類の罪の総計ではなく、あなたの罪のためです。羊飼いはそのように一匹、一匹の名を呼ぶのです。あなたは名を呼ばれましたか。そして、答えましたか。 私たちは小さくて弱いままでいいのです。呼びかけに答え、ただこの方についていくことです。
2008年3月17日月曜日
3月9日 隠された宝と良い真珠 (イエスのたとえ話⑦)
マタイ13:44~58
人間中心に、また自分勝手に、みことばを読んでいくと、イエスさまが語りたかったことではなくて、「自分の聞きたいこと」をたとえから無理に読み取ってしまう可能性があるということは何度もお伝えしてきました。 今日は「畑に隠された宝のたとえ」「良い真珠をさがしている商人のたとえ」「あらゆる種類の魚を集める地引網のたとえ」を取り上げますが、この3つのたとえに関しても、後に続くイエスのことばを含めて、その連続性をしっかりとらえないと、非常に表面的で浅薄な読み取りに終わってしまいます。 たとえばこの3つのたとえのうちの2つのたとえを組み合わせたり、あるいはそのいずれかを取り上げたりして教訓を語る場合、「隠された宝や良い真珠を買い取るために、見つけた人は持ち物を売り払っています。みなさんも天の御国を買い取るために、信仰によって自分の持っているものすべてを捧げましょう。」というようになるわけです。もしかしたら、みなさんも「このたとえはそういう意味だ」あるいは「それ以上それ意外の意味などない」と既に刷り込まれて、読み流して来られたかも知れません。しかし、このたとえがその程度の意味のものであれば、わざわざ日曜の朝に教会まで出かけて行って職業牧師に解き明かしてもらわなくても、家で聖書を読んでいれば小学生でもわかるでしょう。そんなことを伝えるためだけであれば、わざわざこんなたとえが2つも必要でしょうか。さらに3つめの地引網のたとえとのつながりはどう説明しますか。最初に引き出したい教訓があるので、3つのうちの前の2つか、あるいはその2つのうちのいずれか1つの話しかしないのです。イエスさまは毒麦のたとえの解説とこの3つのたとえのあとに、「あなたがたはこれらのことがみなわかりましたか」と弟子たちにたずねておられます。それは、「持ち物を売り払って天の御国を買いましょう」というような答えを確認するためなのでしょうか。イエスさまがこのマタイ13章の中でも繰り返しおっしゃっているように、たとえというのは、「見るべきものを見ていない、聞くべきことを聞いていないので、そのことが明らかになるため」であり、「奥義を知ることが許される者と許されない者が聞き方に振り分けられるため」なのです。(マタイ13:11~13)また、たとえは「世の初めから隠されていることどもを物語るためのもの」(マタイ13:35)であり、新しく付け加えられたものではないということも覚えておく必要があります。
たとえは、隠されているものを本気で求める気のない人間には、真実を秘めるために用いられているということを忘れないでください。たとえで語るのは、「本当に知りたい人だけに奥義を伝えるため」であり、本当のことを知りたくない人、知りたいふりをしているだけの人にはとんでもない誤解を生むようなからくりになっているのです。たとえは、地引き網のように海の中にいるものを集めます。そこには離れていく群衆もおり、弟子も混じっています。本物の弟子もいれば偽物の弟子もいます。それは「毒麦のたとえ」では収穫のときまで、「地引き網のたとえ」では、網を岸に上げるときまで混じり合っているわけです。たとえを理解できたかどうかは、知識の量ではなく、いのちの経験によって確実にふりわけられるのです。だから、イエスさまはたずねられるのです。「あなたがたはこれらのことが本当にわかったんですか?」と。
それでは、細かく見ていきます。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)日本でも、昔話で裏の何でもない畑に小判が埋まっているというものもあれば、戦国時代の埋蔵金などが話題になったりもします。舞台は1世紀のパレスチナです。争いで略奪が繰り返される中、資産家が地中に財産を埋めるということはけっこうあったようです。このたとえは、まだ自分の土地ではない財産を掘り出すと所有権の問題が出てくるので、発見者は宝を見つけたことを公表しないで畑ごと買うという話です。現代で言うなら株のインサイダー取引みたいなもので、よく考えてみると、何だか妙なたとえです。そこで、まず基本的な質問をひとつします。天の御国の宝を見つけて買い取るのは誰でしょう。それは、私たちではありません。誰がイエスの価値を認めましたか。イエスは宝とは見なされず、人にさげすまれ、捨てられ、十字架に架けられるのです。「私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)とイザヤが預言したとおりです。たとえ人が御国を買いたいと思っても、自分の罪を贖いたいと思っても、それにふさわしい代価を差し出せるものはいません。「人は自分の兄弟をも買い戻すことは出来ない。自分の身代金を神に払うことは出来ない。-たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。-」(詩編49:7~8)と書かれています。誰も神の賜物を買うことは出来ないのです。このたとえは、私たちが宝を買う話ではないのです。買い取ることが出来るのは主です。では買い取られる畑とは何ですか。それが私たちです。畑に宝を埋めたのは誰ですか。それも主です。主が畑である私たちを丸ごと買い取ってくださるのです。「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」(Ⅰコリント3:9)とパウロは書いています。畑には大した価値がありませんが、そこには、霊またいのちであるみことばがまかれ、それが信仰によって受け止められれば、聖霊が豊かに何十倍もの実を結びます。それが天の御国であり、神の宝です。持ち物を全部売り払うのは、私たちではなく主です。勿論、主のその愛を知って私たちも自分の持っているわずかなものも、そして自分自身もすべて主に捧げたいと思うでしょう。しかし、それはあくまでも結果であって、「さあ、持ち物を全部売り払って天の御国を買いましょう」という話ではないのです。実際に永遠のいのちを欲した金持ちの青年は、イエスさまのことばに従って持ち物を全部売り払うことができず、悲しんで去って行ったではありませんか。このたとえのとおりになるわけがないのです。人は自分から進んで地上の宝を捨てて天に宝を積むことなど出来ないのです。(マタイ19:21~22)それが罪人の現実です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)「なだめの供え物」の「なだめ」とはいったい何をなだめるのですか。私たち罪人の良心でしょうか。違います。父の義をなだめるのです。御子イエスの血だけが、父の義をなだめるのです。父がひとり子を世に与えること、これが愛であり福音です。私たちが宝を買うことなど愛などではなく、福音とは関係のない話なのです。人が何かの犠牲を払って御国のものを手に入れるというのは、まさしく宗教の発想です。
キリストという神の宝は私たちという見た目は価値のない畑の中に埋められています。神の知恵によって真の教会は隠されているのです。このように読めば、畑の宝をひとりじめにするために、宝を見つけたことを隠しておくおかしな人のたとえより、ずっとわかりやすいはずです。
次に真珠です。「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45)真珠が養殖できるようになったのは19世紀の後半のことです。真珠は今でも高価なものですが、この当時はさらに高価で、極めて貴重なものでした。真珠は貝の体内で生成される生体鉱物です。貝は自分の体内に入った異物を核として、カルシウム(炭酸カルシウムのアラゴナイト型結晶)とタンパク質(コンキオリン)が交互に同心円状に重なってできあがります。真珠を養殖する場合もこの性質を利用します。ドブ貝などの貝殻を丸く削った核に、アコヤ貝の細胞の一部を切り取ったピースと呼ばれる小さな細胞をひっつけてアコヤ貝に挿入し、その中で育てるのです。 この雛型は何ともすばらしいと思いませんか。 私たちは天の御国にとっては異物であり、どんなに丸く削ろうが所詮はドブ貝のようなものです。それをアコヤ貝が自分のからだを傷つけ、その体内で時間をかけて何層にもコーティングして、あのすばらしい輝きを産み出すのです。真珠を手に取った人がその美しさに感動するとき、その核になった異物のことを気にすることはありません。また、他の宝石は、原石をカッテイングする加工が必要ですが、真珠は貝の命のいとなみの中として、隠れたところですでに完成されています。良い真珠をさがしている商人、それは主です。真珠は贖われた私たち。良い真珠とは健全な教会です。そして、真珠そのものが産み出されるプロセスの中に、贖いのモデルがあります。すばらしい値打ちの真珠は一つしかありません。それはどの教団、どの先生につながる群れでもなく、イエスのいのちにつながる群れはただひとつしかないからです。イエスはそのひとつの価値ある真珠を産み出すために、ご自分の血で異物である私たちを包まれたのです。
最後に地引き網です。この「地引網のたとえ」は、隠された宝や良い真珠のたとえよりも、「毒麦のたとえ」に似ています。ともに、質の良いものと悪いものが混じっていて、それが後になってより分けられるという筋書きが共通しています。悪い者たちは、「火の燃える炉に投げ込まれ、泣いて歯ぎしりするのです」(マタイ13:42,50)毒麦のたとえの解説と地引き網のたとえが、隠された宝と良い真珠のたとえをはさんでいるのですから、そこにひとつの共通したテーマや流れがあると考えるのは当然であり、さらにそれは、前半の「種まきのたとえ」から始まって「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」という流れの中でそれぞれのたとえの個別の意味とつながりや整合性を見ていくべきなのです。イエスさまはおたずねになっています。「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか」(マタイ13:51)彼らは「はい」と言いました。そこで、イエスのことばです。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉の中から新しいものでも古いものでも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13:52)
弟子たちの中には、この世における学者はひとりもいませんでした。みな「無学な普通の人」でした。それなのになぜイエスは「学者」と言われたのでしょう。彼らはこの世の学者ではなく、御国の学者です。ニコデモはこの世の学者でした。ニコデモは学びましたが、新しく生まれていませんでした。御国の学者は御霊によってみことばを解き明かします。イエスさまもその知恵と不思議な力を、この世の学問によって得たものではありません。日常の普通の営みの中で、信仰によって奥義を見つけられたのです。新しいものとは、古いものの中に隠されていたものだからです。 新しいものとは、目に見えない御国と福音の奥義です。古いものとは、律法と目に見える被造物の世界です。それは、単に自然界だけでなく、経済や法律なども含むすべての人の営みです。たとえというのは、そのふたつの世界を行き来するための鍵なのです。
人間中心に、また自分勝手に、みことばを読んでいくと、イエスさまが語りたかったことではなくて、「自分の聞きたいこと」をたとえから無理に読み取ってしまう可能性があるということは何度もお伝えしてきました。 今日は「畑に隠された宝のたとえ」「良い真珠をさがしている商人のたとえ」「あらゆる種類の魚を集める地引網のたとえ」を取り上げますが、この3つのたとえに関しても、後に続くイエスのことばを含めて、その連続性をしっかりとらえないと、非常に表面的で浅薄な読み取りに終わってしまいます。 たとえばこの3つのたとえのうちの2つのたとえを組み合わせたり、あるいはそのいずれかを取り上げたりして教訓を語る場合、「隠された宝や良い真珠を買い取るために、見つけた人は持ち物を売り払っています。みなさんも天の御国を買い取るために、信仰によって自分の持っているものすべてを捧げましょう。」というようになるわけです。もしかしたら、みなさんも「このたとえはそういう意味だ」あるいは「それ以上それ意外の意味などない」と既に刷り込まれて、読み流して来られたかも知れません。しかし、このたとえがその程度の意味のものであれば、わざわざ日曜の朝に教会まで出かけて行って職業牧師に解き明かしてもらわなくても、家で聖書を読んでいれば小学生でもわかるでしょう。そんなことを伝えるためだけであれば、わざわざこんなたとえが2つも必要でしょうか。さらに3つめの地引網のたとえとのつながりはどう説明しますか。最初に引き出したい教訓があるので、3つのうちの前の2つか、あるいはその2つのうちのいずれか1つの話しかしないのです。イエスさまは毒麦のたとえの解説とこの3つのたとえのあとに、「あなたがたはこれらのことがみなわかりましたか」と弟子たちにたずねておられます。それは、「持ち物を売り払って天の御国を買いましょう」というような答えを確認するためなのでしょうか。イエスさまがこのマタイ13章の中でも繰り返しおっしゃっているように、たとえというのは、「見るべきものを見ていない、聞くべきことを聞いていないので、そのことが明らかになるため」であり、「奥義を知ることが許される者と許されない者が聞き方に振り分けられるため」なのです。(マタイ13:11~13)また、たとえは「世の初めから隠されていることどもを物語るためのもの」(マタイ13:35)であり、新しく付け加えられたものではないということも覚えておく必要があります。
たとえは、隠されているものを本気で求める気のない人間には、真実を秘めるために用いられているということを忘れないでください。たとえで語るのは、「本当に知りたい人だけに奥義を伝えるため」であり、本当のことを知りたくない人、知りたいふりをしているだけの人にはとんでもない誤解を生むようなからくりになっているのです。たとえは、地引き網のように海の中にいるものを集めます。そこには離れていく群衆もおり、弟子も混じっています。本物の弟子もいれば偽物の弟子もいます。それは「毒麦のたとえ」では収穫のときまで、「地引き網のたとえ」では、網を岸に上げるときまで混じり合っているわけです。たとえを理解できたかどうかは、知識の量ではなく、いのちの経験によって確実にふりわけられるのです。だから、イエスさまはたずねられるのです。「あなたがたはこれらのことが本当にわかったんですか?」と。
それでは、細かく見ていきます。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)日本でも、昔話で裏の何でもない畑に小判が埋まっているというものもあれば、戦国時代の埋蔵金などが話題になったりもします。舞台は1世紀のパレスチナです。争いで略奪が繰り返される中、資産家が地中に財産を埋めるということはけっこうあったようです。このたとえは、まだ自分の土地ではない財産を掘り出すと所有権の問題が出てくるので、発見者は宝を見つけたことを公表しないで畑ごと買うという話です。現代で言うなら株のインサイダー取引みたいなもので、よく考えてみると、何だか妙なたとえです。そこで、まず基本的な質問をひとつします。天の御国の宝を見つけて買い取るのは誰でしょう。それは、私たちではありません。誰がイエスの価値を認めましたか。イエスは宝とは見なされず、人にさげすまれ、捨てられ、十字架に架けられるのです。「私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)とイザヤが預言したとおりです。たとえ人が御国を買いたいと思っても、自分の罪を贖いたいと思っても、それにふさわしい代価を差し出せるものはいません。「人は自分の兄弟をも買い戻すことは出来ない。自分の身代金を神に払うことは出来ない。-たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。-」(詩編49:7~8)と書かれています。誰も神の賜物を買うことは出来ないのです。このたとえは、私たちが宝を買う話ではないのです。買い取ることが出来るのは主です。では買い取られる畑とは何ですか。それが私たちです。畑に宝を埋めたのは誰ですか。それも主です。主が畑である私たちを丸ごと買い取ってくださるのです。「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」(Ⅰコリント3:9)とパウロは書いています。畑には大した価値がありませんが、そこには、霊またいのちであるみことばがまかれ、それが信仰によって受け止められれば、聖霊が豊かに何十倍もの実を結びます。それが天の御国であり、神の宝です。持ち物を全部売り払うのは、私たちではなく主です。勿論、主のその愛を知って私たちも自分の持っているわずかなものも、そして自分自身もすべて主に捧げたいと思うでしょう。しかし、それはあくまでも結果であって、「さあ、持ち物を全部売り払って天の御国を買いましょう」という話ではないのです。実際に永遠のいのちを欲した金持ちの青年は、イエスさまのことばに従って持ち物を全部売り払うことができず、悲しんで去って行ったではありませんか。このたとえのとおりになるわけがないのです。人は自分から進んで地上の宝を捨てて天に宝を積むことなど出来ないのです。(マタイ19:21~22)それが罪人の現実です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)「なだめの供え物」の「なだめ」とはいったい何をなだめるのですか。私たち罪人の良心でしょうか。違います。父の義をなだめるのです。御子イエスの血だけが、父の義をなだめるのです。父がひとり子を世に与えること、これが愛であり福音です。私たちが宝を買うことなど愛などではなく、福音とは関係のない話なのです。人が何かの犠牲を払って御国のものを手に入れるというのは、まさしく宗教の発想です。
キリストという神の宝は私たちという見た目は価値のない畑の中に埋められています。神の知恵によって真の教会は隠されているのです。このように読めば、畑の宝をひとりじめにするために、宝を見つけたことを隠しておくおかしな人のたとえより、ずっとわかりやすいはずです。
次に真珠です。「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45)真珠が養殖できるようになったのは19世紀の後半のことです。真珠は今でも高価なものですが、この当時はさらに高価で、極めて貴重なものでした。真珠は貝の体内で生成される生体鉱物です。貝は自分の体内に入った異物を核として、カルシウム(炭酸カルシウムのアラゴナイト型結晶)とタンパク質(コンキオリン)が交互に同心円状に重なってできあがります。真珠を養殖する場合もこの性質を利用します。ドブ貝などの貝殻を丸く削った核に、アコヤ貝の細胞の一部を切り取ったピースと呼ばれる小さな細胞をひっつけてアコヤ貝に挿入し、その中で育てるのです。 この雛型は何ともすばらしいと思いませんか。 私たちは天の御国にとっては異物であり、どんなに丸く削ろうが所詮はドブ貝のようなものです。それをアコヤ貝が自分のからだを傷つけ、その体内で時間をかけて何層にもコーティングして、あのすばらしい輝きを産み出すのです。真珠を手に取った人がその美しさに感動するとき、その核になった異物のことを気にすることはありません。また、他の宝石は、原石をカッテイングする加工が必要ですが、真珠は貝の命のいとなみの中として、隠れたところですでに完成されています。良い真珠をさがしている商人、それは主です。真珠は贖われた私たち。良い真珠とは健全な教会です。そして、真珠そのものが産み出されるプロセスの中に、贖いのモデルがあります。すばらしい値打ちの真珠は一つしかありません。それはどの教団、どの先生につながる群れでもなく、イエスのいのちにつながる群れはただひとつしかないからです。イエスはそのひとつの価値ある真珠を産み出すために、ご自分の血で異物である私たちを包まれたのです。
最後に地引き網です。この「地引網のたとえ」は、隠された宝や良い真珠のたとえよりも、「毒麦のたとえ」に似ています。ともに、質の良いものと悪いものが混じっていて、それが後になってより分けられるという筋書きが共通しています。悪い者たちは、「火の燃える炉に投げ込まれ、泣いて歯ぎしりするのです」(マタイ13:42,50)毒麦のたとえの解説と地引き網のたとえが、隠された宝と良い真珠のたとえをはさんでいるのですから、そこにひとつの共通したテーマや流れがあると考えるのは当然であり、さらにそれは、前半の「種まきのたとえ」から始まって「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」という流れの中でそれぞれのたとえの個別の意味とつながりや整合性を見ていくべきなのです。イエスさまはおたずねになっています。「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか」(マタイ13:51)彼らは「はい」と言いました。そこで、イエスのことばです。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉の中から新しいものでも古いものでも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13:52)
弟子たちの中には、この世における学者はひとりもいませんでした。みな「無学な普通の人」でした。それなのになぜイエスは「学者」と言われたのでしょう。彼らはこの世の学者ではなく、御国の学者です。ニコデモはこの世の学者でした。ニコデモは学びましたが、新しく生まれていませんでした。御国の学者は御霊によってみことばを解き明かします。イエスさまもその知恵と不思議な力を、この世の学問によって得たものではありません。日常の普通の営みの中で、信仰によって奥義を見つけられたのです。新しいものとは、古いものの中に隠されていたものだからです。 新しいものとは、目に見えない御国と福音の奥義です。古いものとは、律法と目に見える被造物の世界です。それは、単に自然界だけでなく、経済や法律なども含むすべての人の営みです。たとえというのは、そのふたつの世界を行き来するための鍵なのです。
2008年3月5日水曜日
3月2日 パン種のたとえ (イエスのたとえ話⑥)
ルカ13:20
「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、3サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」(ルカ13:20)このパン種のたとえは、マタイとルカが記していますが、ともに前回取り上げた「からし種のたとえ」とセットになっています。マルコはからし種のたとえを単独で取り上げています。ルカはこのたとえの本題の前に、イエスさまが語られた重要な前置きのことばを書いています。「神の国は何に比べましょう。」(ルカ13:20)ということばです。この表現は「からし種のたとえ」の前にも見られますが、イエスさまがあえてこの短いたとえにこのような前置きをしておられるのは、「地上における神の国の状況というのは、非常にたとえることが難しいのだ」というニュアンスを伝えておられるのです。このふたつのたとえが、「小さなはじめが大きな終わりになる」というような、単純に信仰や教会の成長を表すものだとしたら、このような前置きは全く不必要に思えます。私たちがたとえ話から読みとるべきことは、私たちが聞きたいことではなく、イエスさまが伝えたかったことであるべきです。
「パン種のたとえ」は決して望ましい成長のたとえではなく、不自然で喜ばしくないことたとえなのです。聖書は一貫して、パン種は退けるべき忌むべきものであるとしています。「あなたがたは7日間種を入れてないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第7日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。」(出エジプト12:15)「あなたがたは、種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたってこの日を守りなさい」(出エジプト12:17)「七日間はあなたたがたの家にパン種があってはならない。誰でもパン種の入ったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。あなたがたは、パン種の入ったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所はどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」(出エジプト12:19~20「あなたがたは主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。」(レビ2:11)「主への火によるささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで食べなさい。これは最も聖なるものであるから」(レビ10:12)種を入れないパンは「悩みのパン」と呼ばれ、それを食べるのは、「急いでエジプトの国を出たから」で、「その日を一生の間覚えているため」と教えられています。(申命記16:3)旧約聖書の中で例外的に一ヵ所だけ、「パン種を入れたパンを焼け」と書かれている箇所がありますが、これはユダヤ人のそむきの罪を主が告発しておられるものです。(アモス4:4~5)このように見てくると、からし種やパン種のたとえを信仰や教会の成長に関する励ましだと受けと止めているのは、皮肉を言われているのに褒められているのだと勘違いして喜んでいるぐらい愚かだということです。勿論、ここまでしつこく書かれているわけですから、よほどの馬鹿でもない限りパン種が良いものだとは思えません。それでもなお「パン種のたとえ」はすばらしい成長のたとえだと主張したい学者たちは、「パン種は多くの場合、悪影響の代名詞のように使われているが、イエスがあえてそれを御国のたとえとして用いられたのは、人々の意表をついて印象づけるためだった」などと言っているのです。ここまで来ると、屁理屈も立派なものです。
福音書に戻りましょう。(マタイ16:1~12)パンの奇跡のあと、ガリラヤ湖を渡って対岸に移動した弟子たちは、パンを持って行くのを忘れてしまいました。そこで、イエスさまが「パリサイ人とサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われたときも、弟子たちは、パリサイ人とサドカイ人との問答のことではなく、パンを忘れて来たことを叱られているのだと勘違いしてしまったのです。イエスさまがおっしゃったのは、パンではなくパン種のことだったのです。パン種とは、「パリサイ人やサドカイ人の教え」のことです。(マタイ16:12)要するに神のことばを人間の言い伝えによって空文にしていること、神をあがめると言いながら、神を神としない態度を否定されたわけです。ちなみに、マルコの福音書では「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」(マルコ8:15)となっています。私はこの表面上の不一致については、どちらかが間違っていると言うのではなく、イエスさまは、不純物が入り込むことについて、しばしばこの「~のパン種」という表現を用いられたのです。そのことを証明する一例は、ルカの福音書に見られます。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです」(ルカ12:1)つまり、パン種の正体は、「人の教え」と「偽善」なのです。イエスさまがはっきりとそうおっしゃっているのであって、別の解釈など出来るはずがありません。パン種をとって粉に入れる「女」とは、もちろん「教会」のことです。 粉の量にも注目してみたいのですが、3サトンと書かれています。1サトンが13リットルですから、3サトンでは39リットルです。かなりの量です。一人の女性が家族のためにパンを焼くとしたら、パン種を入れて膨らまさなくても十分な量の粉があるのです。
パンは人間のいのちを支えるものです。パン種が取り除くべきものであることは少し置いておいて、食の話をします。最近は食の安全を脅かすニュースが連日報道されています。戦後日本の食文化は大きく変質しました。アメリカの余剰穀物を買わされ、パンを多く食べるようになりました。学校給食も未だに半分はパンです。米を食べなくなったので、米を作らなくなりました。米が不作のときにはタイ米などを輸入する事態にまで陥ったわけです。子どもの好きな食べ物は「カレー」「ハンバーグ」「スパゲティ―」です。日本の代表的なお総菜である「しらあえ」「ひじき」「おひたし」などは、給食でも不人気メニューであり、だいたいきちんと作れる母親も少なくなってきました。私たちが何を食べるかというのは、きわめて大事なことなのです。魚も昔ほど食べなくなりました。最近、骨なしの魚はよく売れているそうですが、もちろん骨なしで泳いでいる魚などいません。日本人が手軽に食べられるように、その骨は中国人が低賃金で働いて抜いているのです。肉も輸入が大半で、きちんと調べることもされず、病死牛肉や薬漬けの牛肉が、そのままあるいは加工食品として食卓に上ります。これは「いのち」を、さらに言えば、キリストの雛型である「生け贄としての血」を馬鹿にした報いです。食というのは単なる栄養源ではなく、キリストのいのちによって養われること、またその喜びをともに分かちあうことの象徴なのです。料理には感謝と愛情と手間をかけるべきです。そして、それをともに分かち合い喜ぶべきなのです。
日本は世界でも最高の豊かな食文化を持ちながら、それを捨てようとしています。今回の餃子事件を通して、「国内で簡単につくれるものを、殺虫剤をふりかけてもらうためにわざわざ外国でつくってもらうのはどこかおかしい」と誰もが気づいたはずです。日本人が食を見つめ直すきっかけになってくれたらと思います。仕事の帰りの遅いお父さんや、塾通いの子どもたちは、お母さんが作った手料理をともに分かち合うことが少なく、ひとりぼっちでジャンクフードをかき込むというような食事で、とりあえず飢えを満たすようなもので済ませてしまうことが多いようです。「私のからだはワインで出来ているの」と言った女優がいましたが、いまやコンビニ弁当や冷凍食品でできたからだの若者は多いでしょう。そういうものばかり食べていると、そういう人間になってしまうのです。
「わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べたが死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のための私の肉です」(ヨハネ6:48~51)このことばは、聞いた者たちに大きな混乱をもたらし、弟子たちの多くがつまずきました。(ヨハネ6:60)それほど本質的なメッセージだったのです。なぜ、パンにパン種を入れてはいけないのでしょうか。それは、パンはイエスのみからだを象徴しているからです。パンは一時的な地上のいのちとからだを支えるものです。しかし、まことの食べ物、いのちのパンとは、人のなられたイエスのいのちそのものを自分の中に受け入れることであり、イエスと永遠のいのちを共有します。
パウロもまた、人間の欲望を満たす教えが、キリストの受肉と贖いのみわざを台無しにしてしまうことについて、この「パン種のたとえ」を用いて注意を促しています。「あなたがたの高慢はよくないことです。あなたがたは、ほんのわずかなパン種が、粉の固まり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで祭りをしようではありませんか。」(Ⅰコリント5:6~8)
このように聖書全体から見れば、「パン種のたとえ」は、「からし種のたとえ」とともに、教会あるいはキリスト教が、人間の欲望や価値観と結びついて大きくなることは決して喜ばしいことではないというメッセージを伝えるものであることがおわかりいただけたと思います。キリスト者にとっては、組織や影響力が大きくなることではく、むしろ信仰の「純粋さ」や「真実さ」という質的なものこそ大事なのです。祭りの価値は、規模ではなくその内実です。イエスの臨在のないメガチャーチや大聖会はパン種で膨らんでいるだけです。大事なのは、教団の名や預言者の名にもとではなく、ただ主の御名のもとに集まることです。本当に主の御名のもとに信仰によって集まっているなら、そのただ中にいつも主はおられます。
「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、3サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」(ルカ13:20)このパン種のたとえは、マタイとルカが記していますが、ともに前回取り上げた「からし種のたとえ」とセットになっています。マルコはからし種のたとえを単独で取り上げています。ルカはこのたとえの本題の前に、イエスさまが語られた重要な前置きのことばを書いています。「神の国は何に比べましょう。」(ルカ13:20)ということばです。この表現は「からし種のたとえ」の前にも見られますが、イエスさまがあえてこの短いたとえにこのような前置きをしておられるのは、「地上における神の国の状況というのは、非常にたとえることが難しいのだ」というニュアンスを伝えておられるのです。このふたつのたとえが、「小さなはじめが大きな終わりになる」というような、単純に信仰や教会の成長を表すものだとしたら、このような前置きは全く不必要に思えます。私たちがたとえ話から読みとるべきことは、私たちが聞きたいことではなく、イエスさまが伝えたかったことであるべきです。
「パン種のたとえ」は決して望ましい成長のたとえではなく、不自然で喜ばしくないことたとえなのです。聖書は一貫して、パン種は退けるべき忌むべきものであるとしています。「あなたがたは7日間種を入れてないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第7日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。」(出エジプト12:15)「あなたがたは、種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたってこの日を守りなさい」(出エジプト12:17)「七日間はあなたたがたの家にパン種があってはならない。誰でもパン種の入ったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。あなたがたは、パン種の入ったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所はどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」(出エジプト12:19~20「あなたがたは主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。」(レビ2:11)「主への火によるささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで食べなさい。これは最も聖なるものであるから」(レビ10:12)種を入れないパンは「悩みのパン」と呼ばれ、それを食べるのは、「急いでエジプトの国を出たから」で、「その日を一生の間覚えているため」と教えられています。(申命記16:3)旧約聖書の中で例外的に一ヵ所だけ、「パン種を入れたパンを焼け」と書かれている箇所がありますが、これはユダヤ人のそむきの罪を主が告発しておられるものです。(アモス4:4~5)このように見てくると、からし種やパン種のたとえを信仰や教会の成長に関する励ましだと受けと止めているのは、皮肉を言われているのに褒められているのだと勘違いして喜んでいるぐらい愚かだということです。勿論、ここまでしつこく書かれているわけですから、よほどの馬鹿でもない限りパン種が良いものだとは思えません。それでもなお「パン種のたとえ」はすばらしい成長のたとえだと主張したい学者たちは、「パン種は多くの場合、悪影響の代名詞のように使われているが、イエスがあえてそれを御国のたとえとして用いられたのは、人々の意表をついて印象づけるためだった」などと言っているのです。ここまで来ると、屁理屈も立派なものです。
福音書に戻りましょう。(マタイ16:1~12)パンの奇跡のあと、ガリラヤ湖を渡って対岸に移動した弟子たちは、パンを持って行くのを忘れてしまいました。そこで、イエスさまが「パリサイ人とサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われたときも、弟子たちは、パリサイ人とサドカイ人との問答のことではなく、パンを忘れて来たことを叱られているのだと勘違いしてしまったのです。イエスさまがおっしゃったのは、パンではなくパン種のことだったのです。パン種とは、「パリサイ人やサドカイ人の教え」のことです。(マタイ16:12)要するに神のことばを人間の言い伝えによって空文にしていること、神をあがめると言いながら、神を神としない態度を否定されたわけです。ちなみに、マルコの福音書では「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」(マルコ8:15)となっています。私はこの表面上の不一致については、どちらかが間違っていると言うのではなく、イエスさまは、不純物が入り込むことについて、しばしばこの「~のパン種」という表現を用いられたのです。そのことを証明する一例は、ルカの福音書に見られます。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです」(ルカ12:1)つまり、パン種の正体は、「人の教え」と「偽善」なのです。イエスさまがはっきりとそうおっしゃっているのであって、別の解釈など出来るはずがありません。パン種をとって粉に入れる「女」とは、もちろん「教会」のことです。 粉の量にも注目してみたいのですが、3サトンと書かれています。1サトンが13リットルですから、3サトンでは39リットルです。かなりの量です。一人の女性が家族のためにパンを焼くとしたら、パン種を入れて膨らまさなくても十分な量の粉があるのです。
パンは人間のいのちを支えるものです。パン種が取り除くべきものであることは少し置いておいて、食の話をします。最近は食の安全を脅かすニュースが連日報道されています。戦後日本の食文化は大きく変質しました。アメリカの余剰穀物を買わされ、パンを多く食べるようになりました。学校給食も未だに半分はパンです。米を食べなくなったので、米を作らなくなりました。米が不作のときにはタイ米などを輸入する事態にまで陥ったわけです。子どもの好きな食べ物は「カレー」「ハンバーグ」「スパゲティ―」です。日本の代表的なお総菜である「しらあえ」「ひじき」「おひたし」などは、給食でも不人気メニューであり、だいたいきちんと作れる母親も少なくなってきました。私たちが何を食べるかというのは、きわめて大事なことなのです。魚も昔ほど食べなくなりました。最近、骨なしの魚はよく売れているそうですが、もちろん骨なしで泳いでいる魚などいません。日本人が手軽に食べられるように、その骨は中国人が低賃金で働いて抜いているのです。肉も輸入が大半で、きちんと調べることもされず、病死牛肉や薬漬けの牛肉が、そのままあるいは加工食品として食卓に上ります。これは「いのち」を、さらに言えば、キリストの雛型である「生け贄としての血」を馬鹿にした報いです。食というのは単なる栄養源ではなく、キリストのいのちによって養われること、またその喜びをともに分かちあうことの象徴なのです。料理には感謝と愛情と手間をかけるべきです。そして、それをともに分かち合い喜ぶべきなのです。
日本は世界でも最高の豊かな食文化を持ちながら、それを捨てようとしています。今回の餃子事件を通して、「国内で簡単につくれるものを、殺虫剤をふりかけてもらうためにわざわざ外国でつくってもらうのはどこかおかしい」と誰もが気づいたはずです。日本人が食を見つめ直すきっかけになってくれたらと思います。仕事の帰りの遅いお父さんや、塾通いの子どもたちは、お母さんが作った手料理をともに分かち合うことが少なく、ひとりぼっちでジャンクフードをかき込むというような食事で、とりあえず飢えを満たすようなもので済ませてしまうことが多いようです。「私のからだはワインで出来ているの」と言った女優がいましたが、いまやコンビニ弁当や冷凍食品でできたからだの若者は多いでしょう。そういうものばかり食べていると、そういう人間になってしまうのです。
「わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べたが死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のための私の肉です」(ヨハネ6:48~51)このことばは、聞いた者たちに大きな混乱をもたらし、弟子たちの多くがつまずきました。(ヨハネ6:60)それほど本質的なメッセージだったのです。なぜ、パンにパン種を入れてはいけないのでしょうか。それは、パンはイエスのみからだを象徴しているからです。パンは一時的な地上のいのちとからだを支えるものです。しかし、まことの食べ物、いのちのパンとは、人のなられたイエスのいのちそのものを自分の中に受け入れることであり、イエスと永遠のいのちを共有します。
パウロもまた、人間の欲望を満たす教えが、キリストの受肉と贖いのみわざを台無しにしてしまうことについて、この「パン種のたとえ」を用いて注意を促しています。「あなたがたの高慢はよくないことです。あなたがたは、ほんのわずかなパン種が、粉の固まり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで祭りをしようではありませんか。」(Ⅰコリント5:6~8)
このように聖書全体から見れば、「パン種のたとえ」は、「からし種のたとえ」とともに、教会あるいはキリスト教が、人間の欲望や価値観と結びついて大きくなることは決して喜ばしいことではないというメッセージを伝えるものであることがおわかりいただけたと思います。キリスト者にとっては、組織や影響力が大きくなることではく、むしろ信仰の「純粋さ」や「真実さ」という質的なものこそ大事なのです。祭りの価値は、規模ではなくその内実です。イエスの臨在のないメガチャーチや大聖会はパン種で膨らんでいるだけです。大事なのは、教団の名や預言者の名にもとではなく、ただ主の御名のもとに集まることです。本当に主の御名のもとに信仰によって集まっているなら、そのただ中にいつも主はおられます。
登録:
投稿 (Atom)