2009年3月2日月曜日

3月1日 メッセージのポイント

 いのちを狙われるダビデ(ダビデの生涯と詩編③)
      Ⅰサムエル18:1~21:15


A ねたみは罪の王様
  ○サウルは千を打ち、ダビデは万を打った(Ⅰサムエル18:6~9)
  ○イエスはねたみによって十字架にかけられた(マルコ15;10)
  ○サウルの思考や行動のパターンは私たちの古い性質

B いのちを追われるダビデの心情
  ○私に立ち向かう者が届かぬほど・・・・・(詩編59:1)
  ○私を見守る神 神を見守る私・・・・・・(詩編59:9)
  ○私には咎がないのに・・・・・・・・・・(詩編59:4)
 
C ダビデの恐れ
  ○ダビデはアキシュを恐れた(Ⅰサムエル21:12)
  ○ダビデは狂人を装った(Ⅰサムエル21:12~15)
  ○聖書は「聖人」を描かない→「聖人」はキリスト教の創作
  ○「恐れのある日に」(詩編56:1~4)
  ○「私の涙をあなたの皮袋にたくわえてください」(詩編56:8)
  
D 主はともにおられる
  ○人生の中で味わう様々な理不尽の中で十字架の本質に触れる
  ○ダビデの苦しみは十字架への道行きの下見
    (Ⅰサムエル21:1~6)(マタイ12:2)
 
E それゆえダビデはつまずくことを恐れない
  ○「光のうちに」(詩編56:13)
  ○「光の方へ」(ヨハネ3:20~21)

3月1日 いのちを狙われるダビデ (ダビデの生涯と詩編 ③ )

 サムエルに油注がれ、ゴリヤテに勝利したダビデは、その後も連戦連勝の活躍をします。誰の目にも明らかな華々しい活躍によって、ダビデはたちまちのうちにイスラエルとユダの人々の心をとらえます。その勝利の秘密は、ダビデの武勇にあったのではありません。「主がともにおられた」からです。主はサウルのところから去られました。そして、ダビデとともにおられたのです。それで、サウルは衰え、ダビデは行くところ、どこにおいても勝利をおさめました。(Ⅰサムエル18:12,14)

サウルの態度がダビデに殺意を覚えるほどに豹変するのは、女たちのダビデを讃える歌を耳にしたからです。(Ⅰサムエル18:6~9)「妬み」は、人の醜い性質の中の最悪のものです。「妬み」は罪の王様です。イエスはユダヤの指導者たちの「妬み」よって十字架に架けられたことを思い出してください。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」誰が歌いだしたのかわかりませんが、シビアな評価です。当たっているだけによけい腹が立つ。まだ「サウルはろくでなしで、ダビデは最高」の方がダメージは少ないかも知れません。しかも、サウル自身が戦果を期待して、自分の命令でダビデを戦場に送ったわけですから話はよけい複雑です。サウルの予想を遙かに越えてダビデは勝ち過ぎてしまったのです。 

神の評価ではなく、人の評価が絶えず気になるサウルのことだから、心穏やかでないのはわかりますが、志を同じくして国のために戦った結果なんだから、「合わせて一万一千」と足し算して喜べばいいのです。ところが、それが出来ない。引いて九千の差が気になる。かけて十倍のダビデの強さと人気が妬ましい。嫉妬に狂ったサウルは、ダビデを疑いの目で見るようになり、悪い霊に悩まされてわめいていました。そんなサウルを慰めるべく琴を弾くのが、ダビデの仕事でした。サウルは自分のために演奏してくれているダビデを手に持っている槍で突き刺そうとします。ダビデは巧みに身をかわし、からくも難を逃れましたが、穏やかな状況ではありません。

自分の手でダビデを殺すことを断念したサウルは、娘と結婚させてさらに戦場へ駆り立て、ペリシテ人の手で殺そうとします。(Ⅰサムエル18:17)もし、その企てが成功したなら、イスラエル軍は偉大な戦士を失うことになるだけでなく、自分の娘も未亡人になってしまうのですが、そんなことさえおかまいなしです。人というのは、一体どこまで愚かになれるのでしょうか。これが、イスラエルの王様の姿です。そして、私たちの肉の正体です。

サウルの息子ヨナタンはダビデを愛していました。ヨナタンのとりなしによって、サウルも一度は思い直し(Ⅰサムエル19:6)、ダビデは再びサウルに仕えるようになります。ところが、ダビデが活躍すると、サウルはヨナタンとの誓いを破り、ダビデを殺そうと槍をふるうのでした。静かに琴を弾くダビデとそれを突き刺そうとするサウル。以前と全く同じ場面が繰り返されます。
主から送られた悪い霊が原因であるように読まれるかも知れませんが、悪霊に身を委ねる罪とかたくなな心の備えがサウルにはあったのです。主がサウルに悪い霊まで遣わしてダビデを追いつめるのは、ダビデにイエスが地上で経験される苦しみや悲しみの一端を体験させ、その苦しみと悲しみの中から、永遠のことばを残させるためです。ダビデとともにおられた霊は、イエスとともにおられた霊と同じ御方です。これらの経験を経た聖霊が、「今」私たちのうちにおられるということを、主は私たちにわからせたいのです。

今回のサウルは度重なる失敗に飽きたらず、ダビデの家を見張らせ、起き抜けに彼を殺そうとします。妻ミカルの機転で、ダビデは間一髪難を逃れて、サムエルのもとに身を避けます。(Ⅰサムエル19:8~17)このときのダビデの心情が、詩編59編に綴られています。勿論いのちの危険が迫っているわけですから、怖いはずです。ただの悪人や強盗団に狙われているだけでも恐ろしいですが、相手はイスラエルの王とその家来です。ペリシテ人相手ならダビデは戦ったでしょうが、主が油注がれた王ですから、逃げるしかありません。そして、自分の妻は自分のいのちを狙う王の娘です。しかも、政略結婚ではあるものの、妻ミカルはミカルなりにダビデを愛していました。ですから、この場面のダビデの心中は非常に複雑です。さまざまな思いがグルグルめぐっていたでしょう。身の危険が迫ってくる単純な恐怖ではありません。そんな気持ちをそのまま主にぶつけたのが、この詩編です。

「わが神、私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が手が届かぬほど、私を高く上げてください」(詩編59:1)という祈りには、戦うに戦えないダビデの苦しい気持ちがよく現れています。ダビデは正直に自分の思いを主に祈りつつ、最後には、喜びが高まり、恵みの神を賛美しています。最後の連に行くと、ダビデの祈りは非常に力強いものに変わっていきます。(詩編59:14~17)
ダビデはただいのちが惜しくて逃げているのではありません。ダビデが一番苦しいのは、自分に責められる咎がないにも関わらず、いのちを狙われ続けるという「理不尽な状況が理解できないこと」です。一方的に油注がれ、自分はみこころに従って歩んでいるはずなのに、状況は悪くなるばかり。「私には咎がないのに」(詩編59:4)とダビデは訴えます。このようなとき、人は初めて理屈を越えた十字架の本質に触れます。苦しみや痛みの意味なんてわからない、でも、そのあまりにも理不尽な苦しみや痛みを主はあらかじめ私の為に体験してくださっていたということがわかるのです。「あなたは私を見守る」(詩編59:9)という告白は非常に深いものです。すべてはキリストの十字架につながるのです。恵みの時代に生きる私たちには、ペテロのころばがあります。ペテロはキリストの苦しみにあずかる価値を具体的に伝えてくれています。(Ⅰペテロ4:12~19)

ダビデが対立や対決や避けて、逃げ続けたのは臆病だからではありません。自分に油を注いだ御方に自分の運命を委ねていたからです。自分の勇気と腕力で未来を切り開こう、状況を有利に展開させようとしないことが、信仰による選択だからです。私たちは今日ダビデのように、いのちの危険にさらされる場面はないかもしれませんが、似たような局面に立たされることはあるはずです。つまり、自分には咎がないのに、どんどん逆境になっていく。こういう時には、力があればあるほど、自分で策を講じ、さまざまな手を尽くして苦しい局面を打開しようとします。しかし、ダビデは無様に逃げました。これは信仰なのです。
ダビデが賞賛されるのは、この信仰のゆえです。ゴリヤテに勝利したのも、サウルから逃げ回ったのも、同じ信仰によるのです。ダビデは自分に勝利を与え救いに導いてくださる主に信頼していました。詩編の祈りをみればそれがわかります。主に対する無垢な信頼ほど強いものはありません。ダビデはそれを幼い頃から体験の中で培っていました。そしていのちを狙われる苦しみの中でそれをさらに強い確信へと変えていったのです。

サウルはなおしつこくダビデのいのちを狙います。ダビデはノブの祭司アビメレクのところに身を避け、さらに、ガテの王アキシュのところにも逃れます。アキシュのもとで正体がばれたときには、「ダビデは・・・・恐れた」と書いてあります。(Ⅰサムエル21:12)苦しい状況が長く続いたこと、安心できると思った場面で、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」という例の歌によって突然不安が襲ったのでしょう。このときは、恐らく、一瞬信仰が「とんだ」のでしょう。ダビデは機転をきかせて気違いを装いました。(Ⅰサムエル21:12~15)門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを流したりですから、かなり迫真の名演技です。自分がダビデ本人であるにしても、狂ってしまって戦闘能力がないということを示したわけです。

結論から言えば、ダビデが狂人のふりをしなかったとしても、ダビデが殺されることはなく、何らかの方法で主はダビデを救ったでしょう。ダビデは王を恐れて、とっさに狂人のふりをしたのです。それが良かったのか悪かったのかを問うなら、それは良くはなかったでしょう。信仰があったとしても、同じような厳しい状況が長く続けば、どうしてもマイナスの感情が表面に表れることもあります。
人間は弱いものです。ダビデは歴戦の勇士だから、いのちの危険をものともしないのではありません。いのちに危険が迫れば誰だって怖いのです。しかし、それを上回る信仰が明確なときには、内なる喜びが怖さに打ち勝っています。ペテロが水の上を歩いたのは、神の子イエスを見ていたからです。足元に迫る波を見た瞬間に、ペテロは沈みました。水の上を歩けるはずがない自分に気づいたら、物理の法則に従うまでです。

聖書はスーパーマンを描きません。キリスト教が好んで作り上げる「聖人」なんて誰もいないのです。みことばを信じるなら「義人」はひとりもいません。
聖書は人間ダビデを、人間ペテロを赤裸々に描きます。ふたりとも罪深いただの人です。大事なのは、アブラハムの信仰を継承していることです。
しかし、ダビデはみじめな演技をしながらも、決して信仰を失っていたわけではりません。一瞬怖くなって、自分なりの対策を講じたのです。そんな中で自分を責めながら、それでも、主の憐れみにすがるダビデを誰が軽蔑できでしょうか。主もそんなありのままの飾らないダビデを退けたりはなさいません。
ダビデは自分の惨めさを訴えていますが、それでも、その恐れの中で主を信頼するんだと自分にも言い聞かせるように、主に告白しています。(詩編56:1~3)
ダビデの祈りはさらに深いところに入っていきます。
「あなたは私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書にはないのでしょうか」(詩編56;8)
ダビデは、いのちを狙われ逃げ回るこの理不尽の連続を、「主にあって価値のあるもの」「意味は理解できないけど価値があるんだ」ととらえ始めています。「あなたは私のさすらいをしるしておられます」という告白を見てください。恐れと愚かさによって狂人に扮して難を逃れたことも、主はご覧になっていて慈しんでくださる。失敗する自分を見守っておられる。涙を流す心を知っておられる。ダビデは、サウルは愚かで自分は正しいから、勝利や救いを提供されるのではないことを知っていました。慈愛に満ちた取り扱いが「主にとってふさわしい」からこそ、そのように扱われるのだと理解していたのです。

「どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書にはないのでしょうか」とダビデは祈っています。はじめのことばはお願いです。次のことばは質問です。
自分がみこころに従っているのに経験する悲しみや痛みを覚えてほしい。そのために流す涙を忘れないで欲しいとダビデは訴えています。サウルはダビデよりも、もっと多くの涙を流したかもしれません。しかし、それは、嫉妬や後悔の涙です。自業自得の涙は「主の皮袋」には入りません。それに対してダビデの涙は、イエスが地上で流す涙の予表です。ダビデの質問の応えを私たちは今日味わっているわけです。
「皮袋」が作られるためには、動物の血が必要です。涙はその皮袋に集められるのです。

ダビデが信仰のゆえに流した涙を主は大切に皮袋に納めておいてくださいました。私たちが主にあって、信仰によって流す涙を主はお忘れになることは決してありません。それは、慈悲深い神が、雲の上からご覧になっていて些細なことも記憶してくださるというのとは違います。主は渡たちの涙が地に落ちるより早く、風に乾くより早く、御自身の贖いの皮袋の中に集めてくださいます。やがて人になられたイエスに宿られたときの、その十字架への道行きの下見をするかのように、主の霊はまさにその苦しみのただ中でダビデとともにおられるのです。主が私たちとともにおられるという場合も同じです。(Ⅰサムエル21:1~6,マタイ12:3)

ダビデはつまずきを恐れません。私たちは自分で歩めば必ずつまずくのです。主のくびきを追うならつまずきません。ときどき、主のくびきを置いて、既に解決されたはずの自分のくびきをひきずりながら、頑張って歩く私がいます。しかし、もしつまずいたなら、つまずいたその情けない姿を主に見ていただけばいいのです。ダビデはそういう人でした。つまずきの少ない人が偉いのではない。もし偉い罪人がいるとするなら、それはつまずいたときに主に立たせていただいた人です。何度つまずいてもその度に主によって立ち上がる人です。

「あなたは私のいのちを死から、まことに私の足をつまずきから救い出してくださいました。それは、私がいのちの光のうちに神の御前を歩むためでした」(詩編56:13)
「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが
明らかにされるためである」(ヨハネ3:20~21)

2009年2月9日月曜日

2月8日 メッセージのポイント

 ゴリヤテに勝利するダビデ(ダビデの生涯と詩編②)
           Ⅰサムエル16:14~17:50


A サウルとダビデの関係から見えるもの
  ○霊的な人と肉に属する人の対立(ローマ8:5)
  ○一人の信者の中にある霊的な葛藤(ローマ7:22~23)

B 立琴を弾くダビデ
  ○世界で最も古い音楽療法の記録(Ⅰサムエル16:16~17,23)
  ○音楽の効用と罠
    →ダビデはゴリヤテやサウルではなく、ただ主を見つめていた

C サウルの宗教的葛藤
  ○主の栄光よりも自分のメンツ
  ○正しいことがわかっているのに受け入れられない
  ○ダビデを深く愛して激しく憎む繰り返し
  ○何でもいいから助けて欲しい
  ○神を恐れず感謝もせずただ体裁を整えるためだけの儀式
      (Ⅰサムエル13:5~14)

D ダビデ対ゴリヤテ
  ○ゴリアテの脅威と当時のイスラエルの霊的事情(Ⅰサムエル13:19~23)
    この世の力にこの世の力の借り物で勝てるはずがない
    ゴリヤテの完全な装備「ゴリヤテにすね当て」
  ○ダビデの信仰と備え
    信仰告白と宣言(Ⅰサムエル17:34~37)(45~47)
    川の中の五つの石(詩編1編 ダニエル2:34)
  ○ダビデの勝利は私たちの勝利・・・・普通の信仰がもたらした一般的な出来事
    敵が強くて大きいほど主の栄光は大きい
    私たちは日常の中で闘いに備えられる
  ○詩編33編
    前半は賛美、後半は戦いについて
    主を待ち望み主を喜ぶ者が、救いと恵みを得る(13~22)

2月8日  ゴリヤテに勝利するダビデ (ダビデの生涯と詩編 ② )

 油注がれたことまさに神のみこころであったことを証明するかのごとく、ダビデはペリシテ人の勇者ゴリヤテを倒しますが、その功績にもかかわらず、すぐに王に即位したわけではありません。主の霊が去ったとはいえ、王であるサウルがなお健在だったからです。このとき、ダビデは恐らく10代半ばだったと思われますが、ちょうど30歳になるまで、いのちを追われ常に危険と隣り合わせの不安定な生活を続けます。この間、ダビデは王であるサウルと非常に微妙な緊張関係の中で苦しみます。これもまた自分の意思にはよらないのですが、ダビデは、主からの悪い霊に悩むサウルを慰める立琴の弾き手として召し出され、寵愛を受けます。しかし、戦闘においてもダビデの活躍がめざましくなってサウルを凌ぐようになると、今度は嫉妬に狂ったサウルにいのちを狙われます。
 このサウルとダビデの関係は、「霊的な人と肉的な人の対立」の雛型であると同時に、「ひとりのクリスチャンの生活の中にある葛藤」のモデルと見ることもできます。いずれにせよ、肉なるものは滅び、キリストにつながる霊的なものだけが後に残るわけです。

 今日は「ゴリヤテとの戦いの場面」を見ていきますが、その前にダビデが竪琴の弾き手として召し出されている記事があります。 主からの悪い霊に悩むようになったサウルをダビデの弾く立琴の音色で癒そうというのです。実はこの記事は、世界で最も古い音楽療法の記録だと言われています。音楽が心の癒しのために意図的に用いられ、効果を現したと書いてあるからです。確かに「ダビデが竪琴を弾くと悪霊は去った」と書いてあります。しかし、「音楽を使って悪量を退散させよう」と勧めているわけではありません。音楽がそれ自体の力で直接霊的な勝利に結びつくことはありません。
 人となられた神イエスについてほとんど語らない代わりに、サタンや悪霊について驚くほど多くを語り、信者を怯えさえ、教会という組織につなぎとめ、信仰を魔除けのパワーか何かだと信じこませようとする、そんなとんでもないメッセンジャーもたくさんおられるようですが、サタンや悪霊に真っ向勝負しても、まず勝ち目はありません。光の御使いさえも装う狡猾巧妙な知的生命体に打ち勝つ術を、生身の人間は持っていません。彼らの策に打ち勝てるのは、みことばのみです。ただしみことばに類するものなら何でもいいのではありません。相手もみことばを使ってきます。うろ覚えの中途半端な知識で、サタンの軍勢と神学論争をやれば論破されます。「イエスの御名とその人格に対する信頼」を明らかにする告白が大切です。その上で、自分が直面している状況に適合するみことばを正確に引用することです。

ダビデの立琴の有効性は、立琴という楽器の音色の特性、彼が演奏した楽曲の種類や水準、演奏技術など、いろいろな条件が整っていたことは勿論であり、その分野の事柄について深く追求するのが音楽療法の仕事です。しかし、もっと大きなことは、ダビデが演奏した音楽は、「信仰によって捧げられた霊的な神への賛美」だったからです。音楽の質や内容ではなく、信仰の姿勢がポイントです。
これは、ダビデがゴリヤテとの戦闘において、たったひとつの石で勝利することにもつながります。
ダビデは羊を飼いながら、神という「まことの羊飼いに牧される私」を感じていました。その霊的な安息が彼を優秀な羊飼いにし、勇敢な戦士にし、優れた音楽家にもしたのです。全ては信仰がベースです。
ゴリヤテを前にしても、サウルを前にしても、ダビデは、ゴリヤテやサウルではなく、主を見つめていたのです。

新生したクリスチャンであっても、サウルのように自分のメンツに固執すると、情緒が不安定になり、ありとあらゆる愚かな失敗を重ねるようになります。本当は何が正しいのかわかっているのに、事実を受け入れられません。だからよけい苦しくなるのです。サウルそっくりの人たちはどこの教団、教会にもたくさんいます。こんなにわかりやすいモデルがあるのだから、そこから脱却すればいいのですが、なかなかそれが出来ません。サウルも目の前にダビデがいたのに、ダビデのようにはなれませんでした。主を見ないで、ダビデを見ては自分を見、自分を見てはまたダビデを見るからです。だから、ダビデを深く愛して、激しく憎んで、分裂します。結局深い悔い改めには至りません。あくまでも自分の殻から外に出られなかったのです。サウルにも罪の自覚はあり、それなりの後悔もしたし、反省もしました。しかし、神の人格に対する信頼がなかったのです。信仰というのは、まさに主はどういう御方かということを理解して、その上で信頼することに他なりません。「何でもいいから助けて欲しいなどという神頼み」や「自分が嫌いで何とかしたい」「この罪から解放されたい」というあがきは信仰とは何の関係もないことがわかります。
ダビデにあって、サウルにないもの、それが信仰です。私たちはサウルやダビデのように、自分の人生においては王のごとき決定権をもって自由にふるまっています。私たちはダビデの道を選ぶべきです。決してサウルの後を辿るべきではありません。
前回はサウルの失敗として、わけのわからない誓いを立てさせて目の前にある蜜を食べさせなかったことや、能力のある人たちをペリシテ人の中から登用していたことを見ましたが、その前にもさらに決定的な大失敗をしていました。サウルはペリシテ人に圧迫された民の士気を高めるために、サムエルを待たずに、勝手にいけにえを捧げてしまったのです。「神を恐れ」「神に感謝して」捧げるのではない、体裁を整えるための儀式を行いました。(Ⅰサムエル13:5~14)このような礼拝をするとしたら、集まらないほうがずっと良いのです。

さて、いよいよダビデ対ゴリヤテの対決場面を見ていきましょう。(Ⅰサムエル17:1~58)
ダビデと戦ったゴリヤテは、身長が約2.9メートルの大巨人でしたが、からだが大きいというだけではなく、青銅のうろことじのよろいを着て、すね当てまでつけて、手には強力な投げやりを持っていました。ものすごい装備です。まさに「鬼に金棒」という状態です。「ゴリヤテにすね当て」ですね。こういう人並み外れた戦闘能力をもった相手が、一騎打ちを申し出たのですから、尻込みしてしまうのは当然です。「サウルとイスラエルのすべてはこのペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた」(Ⅰサムエル17:11)と書かれています。ゴリヤテは40日間、朝夕にその姿を現してイスラエル軍を威嚇しました。当時戦場に赴いていたのはダビデの兄弟の上の3人だけで、ダビデはそこにはいませんでした。ダビデは羊飼いを続けながら、ときどきサウルのところで竪琴を弾くという仕え方をしていたのです。当初ダビデは戦場にさえいなかったのです。油注がれてもなお、お呼びではないダビデでした。そんなダビデは、父エッサイに言われた品物を自陣まで届けた際に、はじめてゴリヤテを見、そのことばを聞きました。ダビデにも当然恐れる気持ちはあったでしょうが、それ以上に「生ける神の陣がなぶられたこと」に憤りました。しかし、ダビデが人々と話しているのを聞いた兄のエリアブたちは、ダビデの心がわかりません。それは自惚れと悪い心から出たことばとしか思わなかったのです。雛型としては家族に理解されないイエスの姿と重ねて読むことが出来る箇所です。
しかし、ダビデのことばはサウルに伝わり、今度はサウルが直々にダビデを呼び寄せました。威勢のいいダビデのことばは嬉しくはあっても、実際に百戦錬磨の怪物ゴリヤテと一騎打ちは無理だと判断し、そのことを告げますが、ダビデの心は折れませんでした。ダビデは言います。
「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから」(Ⅰサムエル17:34~36)さらにダビデは付け加えています。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主はあのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます」(Ⅰサムエル17:37)

ゴリヤテの完璧な装備に対抗するために、サウルはダビデに自分のよろいとかぶとを着させ、剣を与えます。ダビデは「こんなものいらない」と言って脱いでしまうわけですが、王がわざわざよろいを脱いで、新米の兵士であるダビデに貸さなければならなかった背景として、当時イスラエルには鍛冶屋がいなかったという事実があります。ペリシテ人が金属の鋳造権を押さえていたからです。イスラエルの自国の必要は、金を払って満たしてもらっていたのです。ダビデとゴリヤテの戦いを見る際に、ふたりの体格差だけでなく、こうした当時の国力の差も覚えておきたいものです。さらに、付け加えたいのはキャリアの差です。ゴリアテは若い頃からの戦士で歴戦の強者です。片やダビデは弁当を届けに来て、にわかに参戦した現場経験ゼロの羊飼いです。サウルが戦わせることを躊躇したのも(Ⅰサムエル17:33)、ゴリアテがダビデを侮ったのも当然です。(Ⅰサムエル17:42~43)

結局ダビデが手にしたものは杖と石でした。ゴリヤテの装備と比較してみてください。あり得ない戦闘準備です。石は川で拾ってきた五つのなめらかな石です。しかし、適当に拾ったのではなくダビデは念入りに選びました。この石は何を象徴するものなのでしょうか。水の流れは詩編の1編を見ると、神の豊かな養いを現しています。巨人を破壊する石はダニエルの預言のモデルを見れば、「人手によらずに切り出されたもの」(ダニエル2:34)です。はじめからなめらかな石はありません。水の中を流れるうちに長い時間をかけて研磨されるのです。人手によらずに切り出され、人手によらずなめらかさを得た石です。
ダビデはサウルのよろいかぶとを「慣れていない」と言って拒んでいます。ダビデが選んだものは、逆に「慣れ親しんだもの」であることがわかります。ダビデはいつも神の豊かな養いの中にあったことがわかります。自分のやりくりで虚勢を張ったサウルと、主の養いの中で潤っていたダビデの差は歴然としています。まさに、ダビデは水路のそばに植わった木のように、折々に豊かな実を結んでいくのです。(詩編1編)ダビデは自分がゴリヤテに勝てる根拠として挙げたのは、獅子や熊から守ってくださる主がともにおられるからだと宣言しています。神の保護の中にあるということは、決して獅子や熊が出て来ないことではなく、出て来ても襲われないことではありません。獅子や熊に象徴されるさまざまな敵や問題が私たちには常に襲いかかって来るのです。そのような困難の中でも、ゆとりと安息を与え、信仰には確実に応えて、勝利に導いてくださるということを体験的に知っていれば、私たちは自分よりも強い敵に対してもおじけづくことはないのです。

敗北感や挫折感を味わうのは、自分が主から切り離されているからです。主から切り離された自分のわざを行っているからです。ダビデはスタンドプレーを行ったのではありません。自分の名を挙げる為ではなく、主の御名の栄光のために立ち上がったのでした。ダビデは石を投げる前に、高らかに勝利を宣言しています。「私はおまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ」(Ⅰサムエル17:45)と言っています。また、「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(Ⅰサムエル17:46~47)とも言っています。これは、もの凄い宣言です。
ダビデの生まれながらの性質としての素直さや勇敢さもあるでしょう。身体能力の高さ、とりわけ、秀でた投てきの技術もあるでしょう。しかし、このドラマチックな勝利は、あくまでもダビデならではのものではありません。ダビデだからこそ出来た特別なことではないのです。それは、普通の信仰がもたらした、一般的な出来事のひとつと見なすべきです。私たちも同じ信仰によって、さらに大きな問題や難敵に勝利出来ないでしょうか。出来ます。必ず出来るのです。私たちを助け、私たちを救い、私たちを勝利に導くのは主だからです。問題が大きければ大きいほど、敵が強ければ強いほど、その勝利によって主の栄光は輝きます。また、私たちが弱ければ弱いほど、私たちを勝利に導く主の御名は高められます。

詩編33編をお開きください。前半は「賛美」、後半は「戦い」について歌われています。今日の箇所にぴったりです。賛美は、「音楽としての巧みさ」(詩編33:3)もさることながら、大事なことは主にある「喜び」であり、心が真っ直ぐであることです。二心のない、主の真実に対する信頼の告白です。ですから、信仰のない人が、自分の楽しみとして、あるいは人に聞かせるために、上手にゴスペル歌ってもそれは本来的な意味では「賛美」とは言いません。そして、歌は絶えず「新しい歌」であるべきでしょう。古びた歌ではダメなのです。 主はあらゆる人の心を読み取りながら、みこころのままに、その存在と力を明らかにしてくださると宣言しているのです。主は心をご覧になるのです。(詩編33:13~15)そして、主を恐れる者に注目し、御自身を豊かに現されます。(詩編33:18) 私たちがただ主を待ち望むとき、恵みは豊かにあります。(詩編33:22)
サウルも恵みを待ち望みました。恵みは主と関係があることも知っていましたが、主は待ち望みませんでした。ダビデは主を待ち望みました。そして、主によらない恵みを受け取とろうとはしませんでした。
「恵みを求めること」と「主を求めること」は違います。私たちの心は恵みを喜んでいるのでしょうか。それとも、主を喜んでいるのでしょうか。恵みを待ち望んでいるのでしょうか。主を待ち望んでいるのでしょうか。静かに自問自答しつつ、主の前に出ましょう。

2009年1月22日木曜日

1月11日 メッセージのポイント

 油注がれるダビデ(ダビデの生涯と詩編①)
   Ⅰサムエル16:1~5


A ダビデの生涯に現されているのは何か
  ○イエスの生涯の型
    ダビデの生涯は、やがて来るべきキリストの歩みを予表している
  ○私たちの霊的追体験の型
    私たちの地上での歩みは、すでにダビデが歩みイエスが歩んだ道である
  ○ダビデを導き、イエスを導いた霊が、私たちのただ中におられる
    ダビデの生涯とダビデに現されたイエスの生涯をひとつにされた霊が、
    私たちを個別に取り扱って導いてくださる
  ○人となられた神イエスの時空を越えた表現(詩編18:9)
    ダビデはキリストを主と呼んでいるのに、どうして彼はダビデの子なのか  
                (マタイ22:41~45, 詩編110:1)

B 王位
  ○人間のリーダーは本来不要
    人による暫定的統治の問題点
  ○うわべによる判断
    ダビデ登場の背景としてのサウル(Ⅰサムエル9:2)
    預言者サムエルでさえ(Ⅰサムエル16:8)
  
C サウルの失敗(肉のしわざ)
  ○自身による低い自己評価(Ⅰサムエル15:17)
  ○空虚な誓いと努力(Ⅰサムエル14:24~30)
  ○自前の力を蓄えようとするやりくり(Ⅰサムエル14:52)
  ○占いと偶像礼拝の本質はみことばの軽視(Ⅰサムエル15:22~23)

D ダビデの心(聖霊のみちびき)
  ○ダビデはサウルに劣らず破廉恥で卑怯で傲慢
      →ありのままの自分をさらけだし、決して取り繕わない
                    (詩編19:12~14)
  ○ダビデの心は羊飼いの日常で養われた
      →私たちは日々何を見つめ、何を求めているのか
                    (詩編23)

1月11日 油注がれるダビデ(ダビデの生涯と詩編 ① )

 新しい年は、ダビデの生涯を見ていきたいと思います。

 旧約聖書においては、神の筆は何人か特定の人物の一生にスポットを当てて描いています。アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデに関しては、とりわけ多くのページが費やされているのはご承知のとおりです。それはなぜでしょうか。ある人物を民族の英雄として誇らせるためでしょうか。たとえユダヤ人の現状がそうであったとしても、聖書本来のねらいは、そんなところにはありません。

昨年は「たとえ話」をひもといてきました。「たとえ」が被造物の世界に現されたさまざまな霊的な原則を解き明かしたものであるとするならば、旧約に登場する人物の一生は、「イエスの生涯をいろいろな角度から照らし出したモデル」だと言えます。そしてこのポイントこそが、旧約聖書の人物伝を読み解く唯一の正しい鍵なのです。霊的な何かを得るためにはそれ以外の読み方はありません。
今年取り上げるのはダビデです。ダビデの波瀾万丈の生涯は、それ自体読み物としても非常におもしろいものです。さらに、様々な出来事の折々に残した詩編を通して、彼の心情や信仰を伺い知ることが出来ます。その一生は、イエスの予表であると同時に、私たちがイエスの地上での歩みを追体験していくときの道しるべになっているのだということを覚えてください。
私たちは、目に見える世界を、目に見える通りにではなく、さまざまなたとえを通して神の視点で評価することを学びました。しかし、私たちの周辺におこる出来事をある程度正しく理解出来たとしても、私たちがその中で生き抜いていくときに、しみじみと神の深いお取り扱いを実感するのは、少し次元の違う事柄です。そんなわけで今年は、「ダビデの生涯」と、「ダビデに現されたイエスの生涯」の学びを通して、このふたつをひとつにされた神が、今日私たち一人ひとりを個別にどのように扱っていてくださっているかを深く味わいたいと思っています。
ダビデは私たちと同じ人間であり、教会時代に生きる私たちは既に旧約の時代のダビデよりも多くのものを受けているのです。ダビデの生涯を学びながら、私たちが既に賜っているものの大きさを実感しましょう。私たちがキリストのともに歩むこの一生の価値、一日一日の重み、喜びや悲しみの意味を、主が明らかにしてくださることを期待しています。

「ダビデはキリストを主と呼んでいるのに、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:41~45,詩編110:1)とイエスは問われました。信仰のない者は、昔も今もこの質問に答えることは出来ません。この質問に答えの中には、福音の奥義があるからです。ポイントは「人の子となられた神の子」です。そこにはキリストはダビデの主である永遠の御方でありながら、ダビデの子孫として生まれてくださるという真実が預言されています。神の正しいあり方とは、「神としてのあり方を捨てること」だったのです。神が人となられるということをダビデは、「天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして」(詩編18:9)と語っています。これは永遠の神が被造物の肉体に宿り、時間や空間の制約の中にその本性を留めるという意味を持っています。
今日はダビデが油注がれる場面を見ていきます。
ダビデはサウルに代わってイスラエルの2代目の王になります。しかし、イスラエルは神が直接治める国として召されていたわけですから、王位があること自体がそもそも間違っているのです。目に見えるリーダーを求める傾向というのは、大きな失敗を産み出す根底にあることを少し心にとめてください。
人はエデンの園で罪を犯して以来、その霊的な状態は日を追う毎に堕落していきました。いわゆる族長の時代までは、人々は直接神のことばを聞いていましたが、やがて預言者が立てられ、群衆に神のことばを伝達するメッセンジャーが生まれます。その最初の預言者がこのサムエルです。しかし、イスラエルの国民は他の国と同様に王を求めるようになります。王がみことばに従っているときは、国民も一定の恩恵を得ますが、そうでなければ、国民はみなその圧政に苦しみます。そのようなリスクをサムエルはきちんと説明したのですが、それでも、民は目に見えるリーダーを求め心のよりどころとしたのです。その結果は、王国の分裂や捕囚、その後の歴史を見ても明らかです。(Ⅰサムエル8:4~22)

ですから、「ダビデのようなすばらしいリーダーを求めよう」「ダビデのようになろう」ということが私のメッセージのねらいではあり得ません。私は「人間のリーダーなど本当はいらない」「神はダビデ以上に私を大切に導いてくださる」ということを最も強くお伝えしたいのです。「信仰の勇者」だの、「祈りの戦士」だのという表現はキリスト教書店には溢れていますが、聖書にはありませんし、私も使う気はありません。確かにダビデは信仰もありましたし、深い祈りの生活をしていました。勇者でもあり、戦士でもありましたが、それをごちゃ混ぜにして英雄視することは、断じて間違っています。ダビデだけでなく、誰に対してもそのような目で見ることは間違っているのです。ダビデは美人が好きで、功名心の強い私たちと同じどこにでもいる普通の男です。逆にだからこそ全ての人に望みがあり、いかなる人生も主の前に尊いものとなり得るのです。

ダビデが王に抜擢される背景として、サウルの罪と不従順がありました。ダビデの信仰の歩みを見ていくに当たっては、サウルの不信仰と比較しながら見ていくと、よりいっそうくっきりと、神が何を評価され、どのように人を導かれるかが見えてきます。
預言者サムエルは、サウルがみこころから離れ、リーダーとしての品格や信仰を失うことを嘆き悲しんでいました。サウルの在位中に次の王になるべき人物に会いに行くのは、サムエルにとっても命がけのことです。実際にその場面を見ていきます(Ⅰサムエル16:1~13)
ベツレヘムの町の長老たちは、ただならぬ覚悟でやってきたサムエルを恐れつつ迎えます。サウルの目をごまかすために、表向きはいけにえを捧げる儀式でしたが、その実は王になる人物に油を注ぐのがねらいでした。長老たちとともに、エッサイとその子どもたちも招かれていました。
サムエルは長男のエリアブを見たとき、「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし、エリアブは主が選んだ器ではありませんでした。
主はサムエルに言われました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようにはみないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:8)これは、見栄っ張りの指導者に言われたのでもなく、軽薄な群衆に言われたのでもありません。預言者サムエルをたしなめることばでした。
人はどこまでも、目に見える恰好の良さや能力に期待するものです。こうしたことにとらわれるべきではありません。ちなみに、サウルはすばらしい美貌の持ち主でした。(Ⅰサムエル9:2)

 サムエルは順番にエッサイの子どもたちを見ていきますが、いずれもが退けられます。サムエルは仕方なく、「子どもたちはこれで全部ですか」とエッサイにたずねました。すると、もう一人末っ子が残っていました。それがダビデでした。
エッサイは家族で招かれたのに、ダビデを数のうちにいれませんでした。誰かが羊の番をしなければならなかったのかもしれないにしても、最年少であることも含んでも、「ダビデは別にいなくても問題がない」と考えていたことは間違いなさそうです。それくらい軽く影の薄い存在だったということです。
そんな時、ダビデはサムエルの前に連れて来られ、突然油を注がれました。少年ダビデは親や兄弟からも、忘れ去られているようなただの「羊飼いの少年」です。そのダビデに対し、主は「その心を見て」選ばれたと聖書は言っています。「わたしのために王を見つけた」と主に言わしめたこのダビデは、一体どこがすばらしかったのでしょうか。

私たちも、ダビデも、ダビデの兄弟たちも、そして愚かな王サウルも、罪人であるという点では全く同じです。それらは、ダビデの生涯を追っていけば、少しずつ明らかになってくるでしょう。今日は、ダビデの実像を浮かび上がらせる反面教師としてのサウルの姿をもう少し詳しく見ておきたいと思います。

サウルはアマレク人を打った際に、聖絶すべき動物の最も良いものを惜しんで残して置きました。それは主へのいけにえにするためだったと言い訳していますが、それは明らかにみことばに背く行為でした。
主はサムエルを通してサウルにこう言われました。
「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼いけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、お羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」(Ⅰサムエル15:22~23)
サウルの罪の本質は、みことばを軽んじ、従いきれなかったことです。みことばの軽視と不従順こそが、占いと偶像礼拝の本質です。占い師にたずねなくても、みことばを聞かない人は占いをしているのです。神社仏閣に詣でなくても、従わない人は偶像を拝んでいるのです。
サムエルに託された主のことばを見れば、サウルの不安がわかります。
「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされました」(Ⅰサムエル15:17)
サウルは自惚れるのではなく、「自分は小さい者にすぎない」という、ある意味では自分の力量に対して客観的に正しい評価をしていましたが、そんな自分に油を注いでくださった主に信頼しませんでした。あらゆる点で王にふさわしい力をつけようと努力して、不安をかき消そうと頑張ります。
民が苦しんでいるときに、目の前にあるおいしい蜜があるのに、くだらない誓いをたててそれを守らせようとしたり、(Ⅰサムエル14:24~30)ペリシテ人であっても、勇気や力のある者を召し抱えたりと、(Ⅰサムエル14:52)ありとあらゆる人間的なわざで、実質の欠落を埋めようとするわけです。こういうリーダーに振り回される息子も国民もたまったものではない。しかし、これこそが、民が目に見えない神に信頼せず、目に見えるリーダーを欲した結果の刈り取りだったわけです。
「蜜をなめさせない」のは、みことばに触れさせないことや、本来味わうべき人生の楽しみを奪うことの象徴でしょうし、有能なペリシテ人の登用は、いのちや信仰のない人間を能力だけでリーダーにすることの見事なモデルです。こういうことは間違いなく主のみこころを損なっているのです。神を恐れない人は神以外のものを恐れます。神に頼らない人は神以外のものに頼ります。

一方ダビデは、その一生を通じて徹底してみことばを重んじた人でした。ダビデも、サウルと同じように、あるいはそれ以上に破廉恥で卑怯で傲慢な罪を犯します。しかし、ダビデは常に神の前にありのままの自分をさらけ出し、決して取り繕うことをしませんでした。すべてを神に委ねたのです。自分で自分の道を切り開こうとはしませんでした。
ここにこそ彼が生涯にわたって祝福された秘密があります。(詩編19:12~14)
また後に詳しく見ることになりますが、その最も大きな山場は、自分のいのちを狙うサウルを殺すことができるチャンスを信仰のゆえに2度も放棄したことです。これは、ゴリアテを倒すよりも、多くの軍勢を打ち負かすよりも難しいことだったでしょう。ダビデは、自分が殺されるかも知れないということ以上に、神が油注がれた器を殺めて自らの手を穢すことを恐れたのです。ダビデはいくつかの詩編の中で自分の義を主張していますが、それは、「私は小さな善行を積み重ねました」というのではなく、「神を恐れるがゆえに神が油注いだサウルを殺さなかったことを覚えて欲しい」と訴えているのでしょう。
姦淫の罪を犯した時も、預言者ナタンのことばを真摯に受け止め心から悔い改めました。何でも出来る王という立場にあって、これもなかなか出来ないことです。別の国の異邦人の王であれば、ナタンもバプテスマのヨハネのように首を切られていたでしょう。
人口調査を行って神の怒りをかった際も、その罰を選ぶことを迫られますが、神の御手に委ねると言っています。ダビデはどこまでも神のみこころと憐れみにすがる人でした。
主は少年ダビデのそのような心をご覧になったのです。
私たちは、その心が彼の羊飼いとしての日常の中で培われたのだということを覚えておきたいと思います。(詩編23編)人の心は時間の長さや経験の量と比例して練り上げられるというものではありません。適当なことばが見あたりませんが、もっと本質的な「構え」というか、「姿勢」というか、カタカナ語でいうと、「スタンス」とか、「ベクトル」とか、そういうイメージです。「何を見ているか」「何を求めているか」という根本的な動機が一番大切ということですね。                       
       

2009年1月2日金曜日

12月21日 メッセージのポイント

くすぶる燈心(イエスのたとえ話31)  
   イザヤ42:3

A 光・あかり・ともしび
  ○太陽・・・それ自体が発光体 
  ○月・・・・表面はデコボコ 温度差 反射光
  ○灯心・・・「あかり」はみことば 「油」は聖霊 「灯心」は人間性

B あかりのたとえ
  ○マタイ5:15~16 枡の下
     →燭台の上に(箴言11:1 20:10, 23)家にいる人々全部を照らす
  ○マルコ4:21~23 枡の下・寝台の下
     →燭台の上に(Ⅱテモテ3:16~17)隠れているものは現れる
  ○ルカ8:16:17  器で隠す・寝台の下→燭台の上に(ヨハネ5:38,43)          
            入ってくる人に光が見える
            隠れているものは露わになる

     ・明らかになるものはみことば(レビ24:1~4)
     ・燭台は1タラントの純金を打って作る(出エジプト25:31~40)
     ・試練を経て練り上げられたイエスの人格の栄光そして、キリストと教会の
      一体(民数記8:2~4)

C くすぶる燈心
  ○光を委ねられた人間性の弱さ 小ささ はかなさ 頼りなさ
  ○いたんだ葦と対の表現
  ○主はどんな方か・・・わたしの支える わたしのしもべの描写(イザヤ42:1)
           「主は、~折ることなく、消すことがない」
           cf 「人間は考える葦である」   

D 聞く耳のある者は聞きなさい
  ○たとえは聞き手を選別する(Ⅰペテロ4:17)
  ○みことばの有効性を決定するのは語り手ではなく聞き手
  ○あかりの話なのに「見る」のではなく「聞く」ことが強調されている