足利事件の再審が決まりましたね。検察が先に謝罪するという異例の展開となっていたわけですが、その決め手は、無実の人を犯人にしたDNA鑑定の最新の結果だというから皮肉なものです。「最新」の結果が「再審」を決定させたのです。
無罪放免が決まったとしても、誰がどんなかたちで管家さんの失われた日々を贖うのでしょうか?「無罪でした。ごめんなさい」で名誉回復というわけにはいきません。この過ちをつぐなうことなど誰にも出来ないことです。管家さんの前に当時の責任者や関係者が涙を流して土下座して謝ったなら、多少は気が晴れるでしょうが、それだけのことです。そのことによって、どれだけの悔しさや苦しみや悲しみを埋め合わせることができるでしょうか。
私の願うところは、こうした冤罪事件を通して、当人や関係者はもちろん、この事件に興味をもった方々が「究極の冤罪事件」であるイエスの十字架に触れてくださることです。
イエス・キリストほど不当な手続きによって、何の罪状もないのに極刑にされた人はいません。彼の罪状は、「人でありながら自分を神だと主張した」というものです。これが、ユダヤの指導者たちを不愉快にさせたわけですが、死刑の最終決定を出すことのできるローマ総督のピラトは、それはユダヤ人の宗教上の問題なので私はさばけない。さばきたくない。イエスには罪はないと言って、何とかイエスを釈放しようとしますが、ユダヤ人の指導者たちに扇動された群衆が暴動を起こす勢いだったので、ついに最終決定をくだしてしまうのです。
「人でありながら自分を神だと主張したイエス」の、その主張が嘘なら、荒唐無稽な嘘をついたために不当な手続きで殺されたかわいそうな人だということになりますが、もしその主張が本当なら、つまりイエスが本当に神なら、人は不当な手続きによって神を殺したのです。
聖書は、それが神の予めの計画であり、イエスが冤罪で死ぬことが人の罪の贖いになるのだと言っているのです。これは信じられないような驚くべきメッセージです。つまりイエスは十字架にかかるために生まれ、十字架にかかることによって、この世の罪を示すと同時にこの世を贖ったのです。人は、善悪の基準では神を正しくさばけませんでした。イエスも人の罪の世界を善悪ではさばきません。十字架によってさばかれるのです。
もし、管家さんがイエスと出会い、この御方を自分の救い主として受け入れることがあれば、彼が負った傷は「全く違う意味」を持って輝きを放ち、ものすごく高い価値と意味を持つことになるでしょう。
管家さんのようなひどい目に逢う人はめったにいません。こういう人がたくさんおられたら大変です。しかし、少しでも彼の身になって考えてみれば、人が人を裁く手続きの難しさや罪と罰についていろいろと考えさせられるはずです。今日は「罪と罰」という主題で、ひねくれたお話を進めていきたいと思っています。
管家さんと同じ目に会うことはなくても、自分は何もしていないのに人からマイナスの評価を受けたり、自分の正当な主張を受け入れてもらえなかったり、人間としての尊厳をふみにじられるようにして居場所や時間を奪われたりといった擬似的な体験は、私たちの廻りに意外とたくさんあるのではないかと思います。
勿論、逆の立場で人を責めたり追い立てたりすることもあるでしょうが、私たちの置かれた立場や受ける仕打ちが理不尽で不当なものであればあるほど、「正義」について、また正義を取り繕う「偽善」について、また「罪と罰」について多少なりとも考えるものです。
管家さんも、「警察や検察にはきちんと謝ってもらいたい」と厳しい口調で訴えておられましたが、やはり悪いことをした人にはきちんと「謝ってもらいたい」し、かたちだけの謝罪ではなく、「心から反省して欲しい」と思うのは当然のことでしょう。
一方では、「管家さん自身がもともと周囲の人に合わせてしまうきちんと自己主張のしにくい人だった」というような報道や言説がなされています。まるで冤罪を生んだ背景として、管家さんにもその責任の一部があったかのような言い分ですが、これは全く本質から離れた意見です。世の中には気の弱い人やしっかり自分の言い分を伝えられない人がたくさんいます。そういう人たちの権利を十分に守れなかった手続きの問題なのです。冤罪被害者にもそのした間違いを生んだ要因があるなどというのは、本末転倒のとんでもない言いがかりです。
裁判員制度も本格的に導入され、私たちも好むと好まざるとに関わらず、裁きの場に立ち会わなくてはならぬようになりました。「罪と罰」が他人ごとではなくなってきたのです。
聖書の中にも、人の心の中にある「罪と罰」の意識と具体的な法手続きとが絡み合う場面が出て来ます。
ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女が出て来る比較的有名な箇所です。(ヨハネ8:1~11)
「自分たちの社会にあるふしだらな行為は許せない」というのではなく、イエスを陥れるための罠として彼女の罪を利用した特殊な場面設定ですが、私がいつもこの箇所を呼んで思うのは、「どうして相手の男が一緒にいないのか」ということです。普通に考えれば、この策を練ったグループと相手の男は何らかのかたちでつながっていたのではないかと想像されます。あるいは、女を差し出すことで男だけが免罪されるという条件を飲まされたかどちらかでしょう。
今日の日本社会では、「浮気は甲斐性」「不倫は文化」だとなどと言って、ちょっと眉をひそめられる程度になっていますが、当時のユダヤ社会での、こうした淫らな行為は死罪に当たるものでした。しかし、当時のユダヤはローマ帝国の統治下にありましたから、実際の死刑執行権はローマが握っていました。ですから、もし、律法に従って、「女を石で打て」と言えば、ローマの権威を侮ったことになるし、ローマに権威に服して、「女を石で打つな」と言えば、律法を無視したことになります。ユダヤの指導者たちは、このような巧妙な罠を仕掛けられたことにと得意になっていたことでしょう。
人々の注目と尊敬を集め始めていたイエスをこの現場に立ち会わせることで、どちらを選択してもどちらかを否定しまうことになるという問題を突き付けたわけです。
さて、イエスの反応はどうだったでしょうか。
イエスは反論することなく、身を低くして地面に何かを書いておられました。人々の目には、答えることに窮して追いつめられた姿と見えたでしょう。「してやったり・・・・」と自分たちの作戦の成功を確信して問い続ける指導者たちの顔は、イエスにとっては、直視するに耐え難いものだったのかも知れません。
イエスが地面に何かを書いておられたのかは、あきらかにはされていません。しかし、このような場面でイエスの秘められた心のうちを知りたい。イエスはどんな思いでいらっしゃったのか、何を伝えたかったのかを思いめぐらすことには意味があるでしょう。
彼らが問い続けてやめないので、イエスは言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)
罪には楽しみや快楽も伴うものです。ときにそれは甘い誘惑となります。人はそれがいけないとわかっていても道をふみはずし、罪を犯してしまいます。罪は相手を傷つけ、自分をも傷つけ、家族や周囲の人たちをみな傷つけます。
ですから、罪を憎む気持ち、悔やむ気持ち、またその罪に対して罰を求める気持ちは誰にでもあるのです.。そこで、社会が被害者に変わって罰や制裁を加えることで、秩序を保とうと様々な約束事を作ってきたのです。
しかし、実際の罪をさばく手続きやその執行のかたちは、一度犯されてしまった罪のダメージを完全に回復させることなど出来ないし、事件に関わるすべての人を決して満足させるものではないことも知っています。これは、いつの世の中でも同じです。この場面ではどうでしょう。ユダヤの社会には律法がありました。しかし、その律法よりも、ローマの法が事実上権威をもっていたのです。そこに横たわる矛盾を神に問い、逆に神に問かえされたのがこの場面です。この箇所には「罪と罰」の問題の本質が凝縮されています。
イエスのことばを聞いた人々はみなその場から立ち去りました。年長者から順にひとりひとり出て行ったと書かれています。(ヨハネ8:7)
誰も女に石を投げられなかったし、誰かが投げるのを見るのも辛かったのでしょう。今日、裁判員になって、重大事件に関わって判断したくない。凶悪犯にでも死刑判決などを出したくないという心理と非常によく似ています。
しかも、年長者からひとりずつ立ち去って行ったのです。
年を重ねるごとに、人は罪を重ねます。日頃は無自覚であって自分のことは棚上げしていたとしても、条件が揃えば、人の心には必ず自分の罪と向き合うように出来ているのです。自分の罪を知っているのも、それと向き合うことが出来るのも自分だけです。
人が女を罪に定めないのと、イエスがこの女を罪に定めないのは違います。人がこの女に石を投げられないのは、罪の本質においてこの女と五十歩百歩の同罪だからです。ところが、イエスには全く罪というものがありませんでした。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)とイエスが言われた意味は、「罪がないのなら、石を投げることが出来ます」という意味ではなく、「誰も彼女に石を投げることなんか出来ないでしょう」という意味です。「義人はいない」つまり「神の前に完全に正しい罪の無い人など誰もいないんですよ」という意味です。義人はイエスおひとりだというのです。ですから、イエスだけがこの女を石で打つ権威をもっておられます。しかし、イエスはあえてそのあり方を捨ててこの女の汚らわしい罪をご自身の身に負われるのです。その覚悟のことばです。さらに言えば、イエスは、罪の当人以上にその罪の本質を知っておられ、そして憎んでおられるのだということを忘れてはなりません。
この御方が関わってくださることを信じ、この御方の光の中で明らかにされる自分の罪を正直に認めるなら、私たちはその信仰のゆえに罰を免れます。そうでなければ、自分の罪の自分で負い、自分の罪の中で死ぬだけです。(ヨハネ8:23~24)イエスのことばを聞いて心の罪を責められ、自分の家にそれぞれ帰っていった人たちは、自分の罪の中で死ぬだけです。しかし、一番罪深いと思われたこの女は、イエスのもとに留まり、イエスのことばを受け入れ、イエスの救いを受け入れたので救われるのです。「女はそのままそこにいた」(ヨハネ8:9)イエスは語るべきひとことを語られた後は、再び身をかがめたと書いてあります。誰がここから立ち去り、誰が残るのかを腕組みして見守っておられたのではありません。
この女もその時群衆に紛れてその場を立ち去ること出来たはずです。しかし、女は自分意思でそこにいたのです。イエスのひとことは、この女の心にも届きました。四方八方から石つぶてが飛んできて殺されるイメージが襲ったでしょう。言い訳しようのない現行犯としてとらえられ、自分の罪を否応なく意識していたその中で、自分を責めたてる人たちを追い払ってくれたのです。
女はこの予期しなかった時間の中で、イエスにさばきを託し、自分自身をゆだねようと覚悟を決めたのでしょう。このとき、この女の心の中でおこったことが、彼女の永遠を変えました。この女は何かイエスに問いかけたり、言い訳したりしたでしょうか。女は自分の罪と向き合いながら、黙って聞いていたのです。イエスが身をおこして、「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と問われたとき、女は「だれもいません」と答えています。欄外脚注を見れば、原文には「主よ」という呼びかけがあると書いてあります。彼女はイエスを主として受け入れたことがわかります。
イエスをためして問い続けてやめなかった指導者たちは、イエスからことばを聞いたとき、そこに留まることを嫌って立ち去りました。帰っていく「自分の領域」というか「自分の居場所」があるという思い込みがあるからです。女にはもう逃げる場所がなかった。こう感じることが出来たことは、実は感謝なのです。多くの人はイエスに従わない領域、ニュートラルな場所があるのだと思っていますが、実はイエスに従わないでいることは闇の中にいることなのです。
「神がいるなら」と神を試すことをやめましょう。神に己の罪を隠すのもやめましょう。聖書は私たちの罪を指摘して、ちょっとでも罪を犯すことがないように正しい生活を送りなさいと教えているのではありません。神は人を罪の中に誕生させた責任をとって、自らを罰したのです。それが十字架です。この世のご自身の血で贖って、この世界のいっさいの不合理、矛盾にけりをつけられたのです。このことを知っているか、知らないか、受け入れるか、受け入れないかでは全く人生が変わります。このことは、最も価値のある情報だと私は信じています。
2009年6月30日火曜日
6月14日 メッセージのポイント
ダビデ王の誕生とその周辺(ダビデの生涯と詩編⑥)
Ⅱサムエル1~4章
A 登場人物
○サウル・・・・・・・・イスラエルの初代王。
ペリシテとの闘いで悲惨な最期をとげる。
○イシュ・ボシェテ・・・サウルの息子。
サウル亡き後王位を継承するが、アブネルの傀儡。
○アブネル・・・・・・・サウルの将軍。
ヨアブの弟アサエルを殺し、ダビデとの講和を求めるが、
交渉半ばでヨアブに殺される。
○ヨアブ・・・・・・・・ダビデの将軍。
弟アサエルを殺されたことに恨みを持ちアブネルを殺す。
○アサエル・・・・・・・足の速いヨアブの弟。
内戦においてアブネルを執拗に追い、返り討ちにあって戦死。
○ミカル・・・・・・・・サウルの娘でダビデの元妻。
イスラエルとの和平の条件として取り戻す。
B ダビデとその周辺人物の違い
1 ダビデは羊・・・・・・自分の力で獲物を追う
2 獅子や狼ではない。
主の養いによって保たれ、羊飼いを求めていた。
○ダビデの遺言・・・・・ヨアブを殺せ(Ⅰ列王2:1~6)
C ふたつの詩編に綴られたダビデの心
1 詩編37編・・・・・・あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。(5
主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対
して、腹を立てるな。(6)
2 詩編145編・・・・・すべての道 すべてのみわざ (17)
Ⅱサムエル1~4章
A 登場人物
○サウル・・・・・・・・イスラエルの初代王。
ペリシテとの闘いで悲惨な最期をとげる。
○イシュ・ボシェテ・・・サウルの息子。
サウル亡き後王位を継承するが、アブネルの傀儡。
○アブネル・・・・・・・サウルの将軍。
ヨアブの弟アサエルを殺し、ダビデとの講和を求めるが、
交渉半ばでヨアブに殺される。
○ヨアブ・・・・・・・・ダビデの将軍。
弟アサエルを殺されたことに恨みを持ちアブネルを殺す。
○アサエル・・・・・・・足の速いヨアブの弟。
内戦においてアブネルを執拗に追い、返り討ちにあって戦死。
○ミカル・・・・・・・・サウルの娘でダビデの元妻。
イスラエルとの和平の条件として取り戻す。
B ダビデとその周辺人物の違い
1 ダビデは羊・・・・・・自分の力で獲物を追う
2 獅子や狼ではない。
主の養いによって保たれ、羊飼いを求めていた。
○ダビデの遺言・・・・・ヨアブを殺せ(Ⅰ列王2:1~6)
C ふたつの詩編に綴られたダビデの心
1 詩編37編・・・・・・あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。(5
主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対
して、腹を立てるな。(6)
2 詩編145編・・・・・すべての道 すべてのみわざ (17)
6月14日 ダビデ王の誕生とその周辺 (ダビデの生涯と詩篇 6 )
今日はサウルの死後、ダビデがまずユダの王となり、それからイスラエル全土の王になるまでの7年半の間に、ダビデとその周辺でおこった出来事や、人物にスポットを当ててお話します。このあたりの出来事や登場人物について、よくご存じの方も、あまり馴染みのない方も、よく聴いてそれぞれのキャラクターや関係性を整理してください。
まず、イスラエルの初代王サウル、そしてサウルの死後王位につく息子のイシュ・ボシェテ、将軍アブネル、そして、ダビデと将軍ヨアブ、その弟でアブネルに殺されるアサエル、ダビデが取り返すサウルの娘ミカルなどが主な登場人物です。
サウル王の死は、いよいよ王位に着くときが近づいたことを意味していました。しかし、サウル王が死んだことを聞いても、ダビデは単純に喜びませんでした。自分のいのちを狙い、苦しめ続けてきた人間がいなくなったのですから、ほっとした気持ちが全くなかったとしたら、それは嘘になるかも知れませんが、サムエル記の中には、ダビデが喜んで「いよいよ王位が近づいた」と息巻いている姿は出て来ません。
どうしてもダビデの引き立て役のような役回りを演じてしまうサウルですが、その最期も非常に惨めなものでした。絶望の中で自害するのですが、死にきれませんでした。激しいけいれんに襲われ、苦しみながら、最終的には異邦人に介錯を求めました。これはユダヤの王、軍人である者にとっては、最大の恥辱だったでしょう。その悔しい心のうちを察することが出来ます。
サウルの最期を見取ったその男は、良き知らせを届けたつもりでしたが、ダビデは逆に怒って彼を殺しました。ダビデはこう言っています。
「主に油注がれた方に、手を下して殺すのを恐れなかったとはどうしたことか。」(Ⅰサムエル1:14)
このことばはダビデの一貫した姿勢を表している重要なことばです。
ダビデはサウルの手を逃れて国中を逃げ回り、結果的には国外にまで落ち延びますが、サウルの力に怯えたことなどありません。ガチンコ対決したらいつだって負けることなどなかったでしょう。ダビデが恐れたのは、サウルに油注がれた主です。王としては不適格で、自分のいのちをねらい続けるサウルをあえてそのまま王として扱っておられた主の摂理に服していたのです。ダビデは、理不尽な仕打ちや、理解できない展開に疲れ、傷つくことはあってもサウルに対しておじけずいていたわけではないのです。
ダビデには勝てないのに、力ずくで殺そうとしたサウルと、勝とうと思えばいつで勝てるのに、あえてそうしなかったダビデ。ふたりが見つめているものは全く違っていました。
ダビデの心にあったのは、主のみこころが実現することでした。単にサウルが死ぬことや、自分が王位につくことをのぞんでいたわけではありません。ダビデがサウルとヨナタンの死を悼む哀歌を読むと、不思議な気持ちになります。有能な戦士であり、竪琴奏者でもあったダビデの心意気と、彼の経験や人格を通して聖霊が豊かに語ってくださっているのを感じます。(Ⅱサムエル1:19~27)
サウル亡き後、ダビデもアクションをおこします。しかし、軽はずみに自分から王位を宣言したりしません。その時カナンの南端に近いツィケラグに居たダビデは、これからどうしたらいいかを主にたずねました。「ユダの一つの町に上っていくべきでしょうか」主の答えは「上って行け」です。ダビデはどこへ上って行くべきかをたずねます。「ヘブロンに上って行け」と主から答えがありました。
もしヘブロンではなく、当時の首都であったギブアに上るなら、それは彼が王になりたがっている野心だと人々は理解したはずです。ダビデは、当然そういう可能性も考慮に入れて、「ユダの一つの町に上っていくべきでしょうか」と主に伺いを立てたのでしょう。主の答えは「ギブアへ」ではなく「ヘブロンへ」だったのです。この主のことばによって、ダビデは「王になるべき自分の時はまだ来ていないという」主からのメッセージを受け止めたはずです。
ヘブロンはエルサレムから南西32㎞に位置しており、エルサレム、ガザ、ベエルシェバ、紅海の方面にのびる四大交通路の分岐点にあたる交通の要所であり、古くから栄えたユダの中心部でした。その地でとれるブドウは優良種として有名です。
そして、ヘブロンはイスラエルの父であるアブラハムが亡くなった妻サラを葬るためにヘテ人エブロンから買い取った地所です。かつてアブラハムはここに天幕を張り、祭壇を築きました。アブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長とその妻たちであるサラ、リベカ、レアの墓もあります。そして、何よりこの町はユダ族に属し、あやまって大罪を犯した人たちをかくまう「逃れの町」でもありました。
そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油を注いでユダの家の王としました。ユダの人々は主のみこころはよそに、ただ単純に、サウル亡き後はダビデしかないと思って集まって来たのです。
一方、首都ギブアでは、サウルの息子イシュ・ボシェテがサウルの後継者として、王位を継いでおりました。イシュ・ボシェテとは、「恥(ボシェト)の人(イシュ)」(恥さらし、面汚し)という意味です。本名はエシュ・バアルといいます。欄外に書かれているのが本名で、歴代誌にはちゃんとその名で記されています。(Ⅰ歴代8:33)ちなみに本名のエシュ・バアルは「神の子」の意味です。(Ⅱサムエル2:8~9)
ギルボア山での決戦でペリシテ軍に大敗を喫したイスラエルですが、その後、ユダ族はヘブロンに戻ったダビデの許に集まり、彼に油を注いで「ユダの家の王」としました(Ⅱサムエル:1~4)残りの部族は、ヨルダン川東岸マハナイムへと拠点を移した将軍アブネルのもとで、サウルの子イシュ・ボシェテを「全イスラエルの王」とするのでした。ギルボアでの敗北以後、イスラエルはペリシテの属領となったため、サウルに続くイシュ・ボシェテ政権は、ペリシテの実質的な力が及ばないヨルダン川東岸のマハナイムで言わば、亡命政権のようなかたちで樹立されることになります。
しかし、サウルの子イシュ・ボシェテはあくまでもお飾りであって、将軍アブネルが実権を握っていました。傀儡政権というやつです。これに対し、ヘブロンでユダの王になったと言っても、ダビデは敵国ペリシテの家臣にすぎませんでした。
この時点では、まだイスラエル全体はペリシテの占領下にあり、独立した王国ではありません。そんなイスラエルの一部族にすぎないユダの王になったといっても、敵にとっても大した驚異ではなく、むしろ、ペリシテによる支配の延長と見なされていたようです。
とは言え、イスラエルにしてみれば、ひとつの国に二人の王が擁立されたことになりそれはそれで大問題です。その結果、サウルの家とダビデの家の間に内戦が起こり、激しい闘いが続きますが、ダビデの軍が優勢だった様子が書かれています。(Ⅱサムエル2:17)
この内戦においてダビデ軍の将軍ヨアブの弟である韋駄天のアサエルが、敗走するアブネルを執拗に追いかけた末に、逆にアブネルの返り討ちにあって戦死します。ダビデの将軍ヨアブはそのことを深く恨んでいました。(Ⅱサムエル2:18~23)
一方、サウルの亡命政権の実権を握っていたアブネルですが、サウルの側女リツパと通じていました。それを王であり、サウルの子であるイシュ・ボシェトが非難したのは当然です。もちろんそれはふしだらなことですが、イシュボシェテは別に、道義的責任を追求する気はあまりないのです。むしろ、実質的に王権を奪おうという企みが見えたからでしょう。日本の摂関政治と同じですが、王の嫁や娘をめとるという行為の背景には、王位継承者であることの主張があります。(Ⅱサムエル3:6~11)ダビデは後にサウルの娘ミカルを取り戻しますが、それも、愛情というよりはおそらく戦略上の判断でしょう。
イシュ・ボシェテは、アブネルに頭が上がりませんでしたが、対ペリシテ戦略を考えると、ダビデと敵対するよりは、取り入った方が有利だと判断したようです。やがてアブネルは、やがてイシュ・ボシェテを見限ってダビデと良い関係をもって操ろうと考えたのです。そんなアブネルの魂胆と行状を見切っていたダビデは、かつて娶っていたミカルを返すことを交換条件として提示します。これを交渉に来たアブネルだけでなく、王であるイシュ・ボシェテに使いを送って言わせました。(Ⅱサムエル3:12~16)この当たりの交渉術を見ると、ダビデは戦士としてはもちろん、政治家としても一流であったことがわかります。
アブネルよりも一枚上手だったダビデは、別に策を弄したわけでもなく。寛大な気持ちでアブネルを歓迎しますが、ダビデの将軍ヨアブはそれが気にいりません。「ネルの子アブネルが、あなたを惑わし、あなたの動静を探り、あなたのなさることを残らず知るために来たのに、お気づきにならなかったのですか」(Ⅱサムエル3:25)と言っています。ヨアブはダビデには断らずに自分の判断でアブネルを殺します。ヨアブは忠臣を装っていますが、本音は将軍の地位を脅かすであろうライバルの芽を断つことそして、何より兄弟アサエルの恨みをはらすためでした。(Ⅱサムエル3:26~27)
今日は、ダビデとダビデの周辺の人たちとの「信仰の違い」と「主のお取り扱いの違い」をしっかり見て欲しいのです。サムエル記を単なる「国盗り物語」や「軍記物」のように表面を追う読み方も出来るでしょうが、それだけでは十分ではありません。ダビデの信仰やサウルの不信仰だけでなく、「主のお取り扱い」に注目しながら注意深く読みたいものです。そのような視点で、もう一度整理してみましょう。
まず、内戦でアブネルに殺されたヨアブの弟アサエルを思い出してください。アサエルは足が速く、そのことに物凄い自信を持っていたことがわかります。アブネルはアサエルを殺すことを嫌い、忠告を与えますが、アサエルは執拗に追い続けたのでした。ダビデの王アブシャロムも、自慢の髪の毛が木に引っかかって、それが殺されるきっかけとなりました。自分の美しさや力や富に頼る者は、それに裏切られます。
ダビデの将軍だったヨアブと、サウルの将軍であり、サウル王家の実権を握るアブネルは、このアサエルを巡って遺恨を深めるわけですが、このふたりの確執からも、ダビデは一歩退いたところにいます。
アブネルは野心家であり、策士でもあり、頭もキレました。イシュ・ボシェテを立てたものの、このままサウル家に仕えても、ダビデに勝ち目のないことを悟っていたからです。そこで、和解を申し出るわけですが、ダビデについておいて、少しでも自分の影響力を保とうという策略です。
ダビデの将軍ヨアブは有能な軍人です。異邦人との戦いに数々の輝かしい戦績をあげ、ダビデ王朝の基盤を築き上げた功労者であることには間違いありません。しかしヨアブの心はダビデとは違っていました。主に頼るよりも、何でも自分の力でやりくりするタイプでした。敵を滅ぼすためには、勇猛果敢に、時には卑怯な手を使っても、容赦なく立ち向かいました。
ダビデは歴戦の勇士ではありますが、彼が見ていたものは、ふたりの将軍とは全然違います。アブネルやヨアブが狼や獅子なら、ダビデは羊です。ダビデは少年時代から、いつも羊飼いである主の姿を追い続けてきました。
サウルを殺す機会がありながら、ダビデはあえて手をくだすことをしませんでした。サウルが死んでも、それを喜ばず、ひたすら主の時を待ちます。自分の力で無理やり幸運を引き寄せようとするのではなく、神が実現してくださるのを待ち続けてきました。その結果、サウルの将軍アブネルも、サウルの後をとったイシュ・ボシェテも、ダビデが直接手をくださずに死んでしまいます。そして、サウルの死から7年後6ヶ月後に、ダビデは全イスラエルの王となるのです。
ダビデはこう言っています。「ツェルヤの子(ヨアブ)らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。」(Ⅱサムエル3:39) 信仰によらずに、ことを推し進めようとするヨアブは、たとえ力強い味方であっても、ダビデの心からの信頼を得ていなかったことがわかります。
そして、極めつけはこのことばです。(Ⅰ列王2:5~6)
「ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように言いつけた。」その中でヨアブについて指示します。『あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルのふたりの将軍、ネルの子アブネルとエテルの子アマサとにしたことを知っている。彼は彼らを虐殺し、平和な時に、戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけたのだ。・・・彼のしらが頭を安らかによみに下らせてはならない。』」ビデはソロモンへの遺言の中で、自分に仕え続けたヨアブを殺せと命じたのです。
このダビデの遺言の中にあるヨアブへの評価は、極めて公正なものとして注目に値します。ダビデはヨアブがアサエルのことで憎しみを燃え上がらせたように、ヨアブを恨んでいたわけではありません。ダビデは息子アブシャロムの件については触れず、アブネルアマサの件についての罪を指摘しているからです。
いわゆるキリスト教の理解では、「アブネルは悪者、ヨアブは良い者、その心はダビデの味方だから」みたいなメッセージもあるようですが、このことばを見る限り、それは間違いであることがはっきりわかります。
ヨアブは、アブネルとは似た者同士。お互いの腹は容易に読めるし、それだけに赦しがたい相手なのでしょう。エルサレムを攻めたとき、真っ先にエブス人を撃ったのも、ダビデの命令に従って、その意味を問うこともなく、ウリヤを殺したのも、自分に代わって将軍となったアマサを殺したのも、ダビデの息子アブシャロムにとどめを刺したのもヨアブでした。
行動の動機が全く信仰と関係ないなら、かたちだけダビデに仕えても駄目です。たとえ、結果を出したように見えても、それは主がヨアブを使ってご自身のみことばを成就させただけであって、それは、ヨアブの信仰の結果ではないのです。
自分で自分の未来を有利に切り開いていこうとせず、自分の思いを十字架につけ、みことばの成就を待ち続けるとで、主への絶対的な信頼を明らかにしたダビデの思いが、詩編の中に綴られています。
悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
主の前に静まり、耐え忍んで主を待て
おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
悪を行う者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。
(詩編37:1-9)
主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。
主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。
また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。
すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。
私の口が主の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。
(詩篇145:17-21)
自分の力に頼り、策をめぐらし、有利な展開を切り開こうとすることは、主の最善の計画が実現されることを阻みます。
現実生活の中で単純にみことばの約束の実現を待つことは、実はそれほど簡単ではありません。多くの人が力を持てあまし、己を過信し、神のいのちによらず、神のことばによらず、勝手に計画を立て、巨大なプロジェクトを実現するために、多くの汗や血を流し、崩壊と破滅に向かっていくのです。
ダビデにならって、みことばの約束をしっかりにぎり、主を愛し、主を求め、主の御手にゆだねることが大切です。
まず、イスラエルの初代王サウル、そしてサウルの死後王位につく息子のイシュ・ボシェテ、将軍アブネル、そして、ダビデと将軍ヨアブ、その弟でアブネルに殺されるアサエル、ダビデが取り返すサウルの娘ミカルなどが主な登場人物です。
サウル王の死は、いよいよ王位に着くときが近づいたことを意味していました。しかし、サウル王が死んだことを聞いても、ダビデは単純に喜びませんでした。自分のいのちを狙い、苦しめ続けてきた人間がいなくなったのですから、ほっとした気持ちが全くなかったとしたら、それは嘘になるかも知れませんが、サムエル記の中には、ダビデが喜んで「いよいよ王位が近づいた」と息巻いている姿は出て来ません。
どうしてもダビデの引き立て役のような役回りを演じてしまうサウルですが、その最期も非常に惨めなものでした。絶望の中で自害するのですが、死にきれませんでした。激しいけいれんに襲われ、苦しみながら、最終的には異邦人に介錯を求めました。これはユダヤの王、軍人である者にとっては、最大の恥辱だったでしょう。その悔しい心のうちを察することが出来ます。
サウルの最期を見取ったその男は、良き知らせを届けたつもりでしたが、ダビデは逆に怒って彼を殺しました。ダビデはこう言っています。
「主に油注がれた方に、手を下して殺すのを恐れなかったとはどうしたことか。」(Ⅰサムエル1:14)
このことばはダビデの一貫した姿勢を表している重要なことばです。
ダビデはサウルの手を逃れて国中を逃げ回り、結果的には国外にまで落ち延びますが、サウルの力に怯えたことなどありません。ガチンコ対決したらいつだって負けることなどなかったでしょう。ダビデが恐れたのは、サウルに油注がれた主です。王としては不適格で、自分のいのちをねらい続けるサウルをあえてそのまま王として扱っておられた主の摂理に服していたのです。ダビデは、理不尽な仕打ちや、理解できない展開に疲れ、傷つくことはあってもサウルに対しておじけずいていたわけではないのです。
ダビデには勝てないのに、力ずくで殺そうとしたサウルと、勝とうと思えばいつで勝てるのに、あえてそうしなかったダビデ。ふたりが見つめているものは全く違っていました。
ダビデの心にあったのは、主のみこころが実現することでした。単にサウルが死ぬことや、自分が王位につくことをのぞんでいたわけではありません。ダビデがサウルとヨナタンの死を悼む哀歌を読むと、不思議な気持ちになります。有能な戦士であり、竪琴奏者でもあったダビデの心意気と、彼の経験や人格を通して聖霊が豊かに語ってくださっているのを感じます。(Ⅱサムエル1:19~27)
サウル亡き後、ダビデもアクションをおこします。しかし、軽はずみに自分から王位を宣言したりしません。その時カナンの南端に近いツィケラグに居たダビデは、これからどうしたらいいかを主にたずねました。「ユダの一つの町に上っていくべきでしょうか」主の答えは「上って行け」です。ダビデはどこへ上って行くべきかをたずねます。「ヘブロンに上って行け」と主から答えがありました。
もしヘブロンではなく、当時の首都であったギブアに上るなら、それは彼が王になりたがっている野心だと人々は理解したはずです。ダビデは、当然そういう可能性も考慮に入れて、「ユダの一つの町に上っていくべきでしょうか」と主に伺いを立てたのでしょう。主の答えは「ギブアへ」ではなく「ヘブロンへ」だったのです。この主のことばによって、ダビデは「王になるべき自分の時はまだ来ていないという」主からのメッセージを受け止めたはずです。
ヘブロンはエルサレムから南西32㎞に位置しており、エルサレム、ガザ、ベエルシェバ、紅海の方面にのびる四大交通路の分岐点にあたる交通の要所であり、古くから栄えたユダの中心部でした。その地でとれるブドウは優良種として有名です。
そして、ヘブロンはイスラエルの父であるアブラハムが亡くなった妻サラを葬るためにヘテ人エブロンから買い取った地所です。かつてアブラハムはここに天幕を張り、祭壇を築きました。アブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長とその妻たちであるサラ、リベカ、レアの墓もあります。そして、何よりこの町はユダ族に属し、あやまって大罪を犯した人たちをかくまう「逃れの町」でもありました。
そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油を注いでユダの家の王としました。ユダの人々は主のみこころはよそに、ただ単純に、サウル亡き後はダビデしかないと思って集まって来たのです。
一方、首都ギブアでは、サウルの息子イシュ・ボシェテがサウルの後継者として、王位を継いでおりました。イシュ・ボシェテとは、「恥(ボシェト)の人(イシュ)」(恥さらし、面汚し)という意味です。本名はエシュ・バアルといいます。欄外に書かれているのが本名で、歴代誌にはちゃんとその名で記されています。(Ⅰ歴代8:33)ちなみに本名のエシュ・バアルは「神の子」の意味です。(Ⅱサムエル2:8~9)
ギルボア山での決戦でペリシテ軍に大敗を喫したイスラエルですが、その後、ユダ族はヘブロンに戻ったダビデの許に集まり、彼に油を注いで「ユダの家の王」としました(Ⅱサムエル:1~4)残りの部族は、ヨルダン川東岸マハナイムへと拠点を移した将軍アブネルのもとで、サウルの子イシュ・ボシェテを「全イスラエルの王」とするのでした。ギルボアでの敗北以後、イスラエルはペリシテの属領となったため、サウルに続くイシュ・ボシェテ政権は、ペリシテの実質的な力が及ばないヨルダン川東岸のマハナイムで言わば、亡命政権のようなかたちで樹立されることになります。
しかし、サウルの子イシュ・ボシェテはあくまでもお飾りであって、将軍アブネルが実権を握っていました。傀儡政権というやつです。これに対し、ヘブロンでユダの王になったと言っても、ダビデは敵国ペリシテの家臣にすぎませんでした。
この時点では、まだイスラエル全体はペリシテの占領下にあり、独立した王国ではありません。そんなイスラエルの一部族にすぎないユダの王になったといっても、敵にとっても大した驚異ではなく、むしろ、ペリシテによる支配の延長と見なされていたようです。
とは言え、イスラエルにしてみれば、ひとつの国に二人の王が擁立されたことになりそれはそれで大問題です。その結果、サウルの家とダビデの家の間に内戦が起こり、激しい闘いが続きますが、ダビデの軍が優勢だった様子が書かれています。(Ⅱサムエル2:17)
この内戦においてダビデ軍の将軍ヨアブの弟である韋駄天のアサエルが、敗走するアブネルを執拗に追いかけた末に、逆にアブネルの返り討ちにあって戦死します。ダビデの将軍ヨアブはそのことを深く恨んでいました。(Ⅱサムエル2:18~23)
一方、サウルの亡命政権の実権を握っていたアブネルですが、サウルの側女リツパと通じていました。それを王であり、サウルの子であるイシュ・ボシェトが非難したのは当然です。もちろんそれはふしだらなことですが、イシュボシェテは別に、道義的責任を追求する気はあまりないのです。むしろ、実質的に王権を奪おうという企みが見えたからでしょう。日本の摂関政治と同じですが、王の嫁や娘をめとるという行為の背景には、王位継承者であることの主張があります。(Ⅱサムエル3:6~11)ダビデは後にサウルの娘ミカルを取り戻しますが、それも、愛情というよりはおそらく戦略上の判断でしょう。
イシュ・ボシェテは、アブネルに頭が上がりませんでしたが、対ペリシテ戦略を考えると、ダビデと敵対するよりは、取り入った方が有利だと判断したようです。やがてアブネルは、やがてイシュ・ボシェテを見限ってダビデと良い関係をもって操ろうと考えたのです。そんなアブネルの魂胆と行状を見切っていたダビデは、かつて娶っていたミカルを返すことを交換条件として提示します。これを交渉に来たアブネルだけでなく、王であるイシュ・ボシェテに使いを送って言わせました。(Ⅱサムエル3:12~16)この当たりの交渉術を見ると、ダビデは戦士としてはもちろん、政治家としても一流であったことがわかります。
アブネルよりも一枚上手だったダビデは、別に策を弄したわけでもなく。寛大な気持ちでアブネルを歓迎しますが、ダビデの将軍ヨアブはそれが気にいりません。「ネルの子アブネルが、あなたを惑わし、あなたの動静を探り、あなたのなさることを残らず知るために来たのに、お気づきにならなかったのですか」(Ⅱサムエル3:25)と言っています。ヨアブはダビデには断らずに自分の判断でアブネルを殺します。ヨアブは忠臣を装っていますが、本音は将軍の地位を脅かすであろうライバルの芽を断つことそして、何より兄弟アサエルの恨みをはらすためでした。(Ⅱサムエル3:26~27)
今日は、ダビデとダビデの周辺の人たちとの「信仰の違い」と「主のお取り扱いの違い」をしっかり見て欲しいのです。サムエル記を単なる「国盗り物語」や「軍記物」のように表面を追う読み方も出来るでしょうが、それだけでは十分ではありません。ダビデの信仰やサウルの不信仰だけでなく、「主のお取り扱い」に注目しながら注意深く読みたいものです。そのような視点で、もう一度整理してみましょう。
まず、内戦でアブネルに殺されたヨアブの弟アサエルを思い出してください。アサエルは足が速く、そのことに物凄い自信を持っていたことがわかります。アブネルはアサエルを殺すことを嫌い、忠告を与えますが、アサエルは執拗に追い続けたのでした。ダビデの王アブシャロムも、自慢の髪の毛が木に引っかかって、それが殺されるきっかけとなりました。自分の美しさや力や富に頼る者は、それに裏切られます。
ダビデの将軍だったヨアブと、サウルの将軍であり、サウル王家の実権を握るアブネルは、このアサエルを巡って遺恨を深めるわけですが、このふたりの確執からも、ダビデは一歩退いたところにいます。
アブネルは野心家であり、策士でもあり、頭もキレました。イシュ・ボシェテを立てたものの、このままサウル家に仕えても、ダビデに勝ち目のないことを悟っていたからです。そこで、和解を申し出るわけですが、ダビデについておいて、少しでも自分の影響力を保とうという策略です。
ダビデの将軍ヨアブは有能な軍人です。異邦人との戦いに数々の輝かしい戦績をあげ、ダビデ王朝の基盤を築き上げた功労者であることには間違いありません。しかしヨアブの心はダビデとは違っていました。主に頼るよりも、何でも自分の力でやりくりするタイプでした。敵を滅ぼすためには、勇猛果敢に、時には卑怯な手を使っても、容赦なく立ち向かいました。
ダビデは歴戦の勇士ではありますが、彼が見ていたものは、ふたりの将軍とは全然違います。アブネルやヨアブが狼や獅子なら、ダビデは羊です。ダビデは少年時代から、いつも羊飼いである主の姿を追い続けてきました。
サウルを殺す機会がありながら、ダビデはあえて手をくだすことをしませんでした。サウルが死んでも、それを喜ばず、ひたすら主の時を待ちます。自分の力で無理やり幸運を引き寄せようとするのではなく、神が実現してくださるのを待ち続けてきました。その結果、サウルの将軍アブネルも、サウルの後をとったイシュ・ボシェテも、ダビデが直接手をくださずに死んでしまいます。そして、サウルの死から7年後6ヶ月後に、ダビデは全イスラエルの王となるのです。
ダビデはこう言っています。「ツェルヤの子(ヨアブ)らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。」(Ⅱサムエル3:39) 信仰によらずに、ことを推し進めようとするヨアブは、たとえ力強い味方であっても、ダビデの心からの信頼を得ていなかったことがわかります。
そして、極めつけはこのことばです。(Ⅰ列王2:5~6)
「ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように言いつけた。」その中でヨアブについて指示します。『あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルのふたりの将軍、ネルの子アブネルとエテルの子アマサとにしたことを知っている。彼は彼らを虐殺し、平和な時に、戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけたのだ。・・・彼のしらが頭を安らかによみに下らせてはならない。』」ビデはソロモンへの遺言の中で、自分に仕え続けたヨアブを殺せと命じたのです。
このダビデの遺言の中にあるヨアブへの評価は、極めて公正なものとして注目に値します。ダビデはヨアブがアサエルのことで憎しみを燃え上がらせたように、ヨアブを恨んでいたわけではありません。ダビデは息子アブシャロムの件については触れず、アブネルアマサの件についての罪を指摘しているからです。
いわゆるキリスト教の理解では、「アブネルは悪者、ヨアブは良い者、その心はダビデの味方だから」みたいなメッセージもあるようですが、このことばを見る限り、それは間違いであることがはっきりわかります。
ヨアブは、アブネルとは似た者同士。お互いの腹は容易に読めるし、それだけに赦しがたい相手なのでしょう。エルサレムを攻めたとき、真っ先にエブス人を撃ったのも、ダビデの命令に従って、その意味を問うこともなく、ウリヤを殺したのも、自分に代わって将軍となったアマサを殺したのも、ダビデの息子アブシャロムにとどめを刺したのもヨアブでした。
行動の動機が全く信仰と関係ないなら、かたちだけダビデに仕えても駄目です。たとえ、結果を出したように見えても、それは主がヨアブを使ってご自身のみことばを成就させただけであって、それは、ヨアブの信仰の結果ではないのです。
自分で自分の未来を有利に切り開いていこうとせず、自分の思いを十字架につけ、みことばの成就を待ち続けるとで、主への絶対的な信頼を明らかにしたダビデの思いが、詩編の中に綴られています。
悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
主の前に静まり、耐え忍んで主を待て
おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
悪を行う者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。
(詩編37:1-9)
主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。
主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。
また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。
すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。
私の口が主の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。
(詩篇145:17-21)
自分の力に頼り、策をめぐらし、有利な展開を切り開こうとすることは、主の最善の計画が実現されることを阻みます。
現実生活の中で単純にみことばの約束の実現を待つことは、実はそれほど簡単ではありません。多くの人が力を持てあまし、己を過信し、神のいのちによらず、神のことばによらず、勝手に計画を立て、巨大なプロジェクトを実現するために、多くの汗や血を流し、崩壊と破滅に向かっていくのです。
ダビデにならって、みことばの約束をしっかりにぎり、主を愛し、主を求め、主の御手にゆだねることが大切です。
2009年5月26日火曜日
5月24日 罪について (ひねくれ者のための聖書講座 ④ )
「これが聖書の教えだ」と言われて面食らうことのひとつに、「人は生まれながらに罪人だ」というのがあります。いわゆる「原罪」と言われるものです。今日の講座では、この「原罪」について少しばかり考えてみたいと思います。キリスト教のイメージというと、別に犯罪を犯したわけでもないのに、罪人だの何だの言ってウジウジ懺悔したり、ジメジメ祈ったりしている感じがしませんか。(ちなみに私は今でもそう思っていますが・・・)実際の聖書のメッセージはもっとクールでドライです。ハッキリ、スッキリしています。しかし、この「ウジウジ」「ジメジメ」といった感覚も、ある意味では、犯罪でない罪に対する反応としては、一時的には当然のものです。今日のメッセージでは、できれば、そのあたりの感覚をうまく伝えられたら・・・・と願っています。
他人様の迷惑になるようなことをせず、自分のことは後回しにして家族を愛し、日々勤勉に仕事をし、慎ましく生きてきた善男善女に、いきなり「あなたは罪人ですよ」と言ってもなかなかピンとこないどころか、反発を買うのが関の山です。黒地に白で、「悔い改めよ」などという広報をしても、世間の感覚ではドン引きです。確かに神の前に悔い改めることは必須事項ではありますが、脈絡もなくみことばの断片を突き付けても、何の意味もありません。
聖書は、「何かやましいことや隠れた罪があるでしょう」「はたけば埃も出てくるんじゃないの?」みたいなことを言っているわけではないのです。神はそんなイヤミな御方ではありません。
また、神父さまに懺悔したり、牧師さまに悩みを相談したりなどというキリスト教的な光景も、信仰とは何の関係もないものです。そんなものはセキュラーなカウンセリングや占いやと同じです。私たちがいちいち申告しなければ、私たちの犯した罪や隠れた罪がわからないような神なら、そんなものが存在したとしても、別に役にも立たねば、恐ろしくもないでしょう。また、全知全能の神を紹介しながら、神に何か不自由でもあるかのように、神と人の間に割って入る存在とはいったい何なのでしょうか。このように、多くの場合、キリスト教のやっていることが、罪のイメージを歪め、聖書の教えを曲げて伝えているわけです。
法に触れる犯罪を犯した人は、裁判にかけられ、有罪となれば、社会から隔離され、処罰されます。しかし、神様など存在していない世界でも、罪を十把一絡げにまとめて断罪したりはしません。例えば、同じ殺人でも、殺意があったのかなかったのか、計画的だったのか、責任を負える能力があるのか、動機に情状酌量の余地があるのかないのかなど、様々な段階をもうけて判断する柔軟な姿勢と慎重さがあります。先週始まった裁判員制度も、さまざまな意見や批判はあるものの、そうしたより公正で合理的な手続きを目指して取り入れられたものです。犯罪に対する社会の対応は決して十分とは言えませんが、法が適応される範囲においては、かなり繊細なものだと言えましょう。そして、罪に対して罰を与える最大の目的は、法によって社会の秩序が可能な限り守られるためです。
あらゆる種類の法律は、共同体や共同作業が円滑に機能するために作り上げた約束事がベースになっているのですが、裁かれない「罪の意識」や「被害者の感情」というものに対しては、当然のことながら応えきれません。先程申し上げた「犯罪ではない罪の問題」に社会は無力なのです。私たちが深い悩みを抱えたり、時に心を病んだりするのは、法の逸脱にはあたらない、社会的には裁かれない罪が原因です。つまりそれが原罪です。
するべきことがわかっていて、したいと思っていることがあるのにそれが出来ず、その気がないのに、嘘をついたり、傷つけたりしてしまうのが人間です。そういう人間が抱えている本質的な罪については、法は無力です。宗教は、こうした良心の呵責につけこんで、さまざまな教えを最もらしく語ります。宗教は、犯罪ではなく、原罪を勘定に入れた事業また商売だと言えます。
では、聖書はこの点について何と言っているのでしょうか?
「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし、私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。」(ローマ7:19~21)
これはすごいことばです。私はやりたくて悪を選んでいるわけではない。つまり罪が「原理として」罪を犯していると言っているのです。原理というのは、そうなるべくしてなるという因果関係のことです。つまり人は罪を犯さざるを得ないわけです。
これは、極めてストイックな生活を自らに強いて生きてきたパウロの告白です。デタラメに欲望に任せて放蕩してきた人の述懐ではありません。理想が高い人は現実がその基準に満たないことをよく知っています。プロ野球楽天の野村監督は、「理想と現実のギャップがボヤキ」なんだと言っています。思い描く理想に現実は遠く及ばないことを大抵の人は知っているはずです。しかし、だからといって、そのことで罪人として生き方を転換するほどの深い悔い改めを強いられることには、抵抗があるはずです。
なぜなら、私たちには「罪を犯した」という自覚症状がないからです。「基準に届かない」という認識は「私は罪を犯した」という感覚とは違います。しかし、聖書が私たちの罪を指摘するのは、「私は罪を犯したという感覚」ではなく、「基準に届かないという認識」を持てということなのです。これだと少しわかりやすくないですか。この基準を聖書では「法律」ではなく、「律法」と呼んでいますが、律法を持たない異邦人にも、神がインプットされた「良心」という機能において共有しうる感覚です。
野球が好きなので、野球の例ばかりで恐縮ですが、4割にも届きそうな驚異的な打率を誇るイチロー選手でも、逆に表現すれば6割以上は凡打だということです。神の基準を言えば全打席ヒットを打たないと失格」つまり罪人というようなものなのです。人間の身体能力と野球というスポーツのルールを考えると、イチローは天才打者であって、人間としての身体機能を野球というスポーツにあわせて鍛え抜き、その可能性を限界まで突き詰めた人だと評してもいいでしょう。
ですから、私たちの世界で「あの人は立派な人だ」「高僧だ」「聖人だ」などと言っても、所詮は3割打者のレベルだということです。勿論打率が2割台の平均的なプレイヤーと3割バッターは格が違うし、イチローともなれば、さらにその上です。
しかし、聖書が「義人はいない。ひとりもいない」と言うとき、本当に一人もいないわけだから、神様の眼鏡にかなう「いい人」「立派な人」になってやろうという試みは、全く無駄だとわかります。神の要求する基準を満たすことは、100%不可能だからです。
私たちは、この世に生を受けたと同時に自動的に罪人となりました。私が男であることも、日本人であることも、20世紀に生まれたことも、私は一切選択していません。それは私ではない何者か・・・私の存在を保障する主権者である神が、ある時代、ある地域に、ある家族の中に、私を男として、私を置いたのです。従って、私には責任がないし、なぜお前は男なんだ。どうして日本人なんだと責められる必要などないのです。
同様に、罪人が罪を犯してしまうのは当然です。それは、「犬がワンとなくようなもの」です。これをパウロは「原理」だと表現したのです。ですから、神は私たちが罪人として生まれることを許しながら、私たちが罪人であるという理由で罰することは絶対ありません。
では、神は私たちの何を責められるのでしょう。神は「私たちが罪人であること」を責められるのではなく、私たちがその罪のゆえに「神の存在を否定し、神の呼びかけを無視し、神の救いを受け入れないこと」を責められるのです。
人間社会の中における法の逸脱行為やそれに対しての懲罰の経験は、罪の赦しの問題とは関係ありません。私たちは犯罪者を指さして、「私はあのような罪人ではない」と言いますが、そのような意識は、自分の罪を神の前に棚上げしているに過ぎません。それは、私たちの中にある原罪が顕在化しただけです。具体的に犯罪を犯していることも、犯していないことも罪人の「ある状態」を示しているに過ぎません。
こんな譬えはどうでしょう。コップに水と泥が入っています。安定したテーブルの上に一定時間置いておけば、泥は沈殿し、上澄みの水はきれいに見えます。しかし、コップを手に持って揺らせば、とたんに水は濁るでしょう。澄んでいる水も、濁った水も、コップの状態にともなった視覚的な情報であって、コップの中に泥が入っているという事実そのものは変わらないのです。私たちのコップの中の状態はテーブルの安定度によって左右されているだけなのです。
イエスが肉体をもってこの地上におられたとき、救いを受けた人たちの多くは、売春婦や取税人など、当時の社会からはみ出していた人たちでした。彼らは一般の人たちよりも、罪を意識しやすかった、つまりコップの泥がはっきりわかる人たちだったわけです。しかし、安定したテーブルを得ている人たちは、自分のコップの水は、泥水ではないと言い張ったのです。しかし、彼らのコップの中身が泥水にすぎないことは、イエスというどこまでもきよい御方を憎み、拒み、十字架につけることによって明らかになりました。
「イエスの十字架を信じる」すなわち、キリストを受け入れるということは、私たちが、「もうひとつ別のコップを持つ」ということです。「コップを洗って中身を入れ替える」というよりは、コップそのものを破棄するイメージです。私のたとえでは、検尿に使った紙コップを水洗いして、おしいくビールを飲める人という感覚の人を聖人と言います。聖人と呼ばれる人の怪しさは、この拭いきれない小便臭さにあるわけです。
人は罪それ自体を責められませんが、「罪は赦しがたいものであること」を認めなければなりません。
「義人はひとりもいない」と主張する聖書はイエスにこう語らせています。
「あなたがたのうちにだれか、私に罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか」(ヨハネ8:46)
イエスは自分の罪に鈍感、無感覚なのでしょうか?
姦淫の現場で捕らえられた女を責め立てる群衆に向かって「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:10)と静かに一喝された御方です。
イエスが私たちと同じような罪を持った「ただの罪人」であったなら、全く聞くに値しません。しかし、イエスがこの証言どおり「罪のない人」なら、すべての問題がほどけるように解けていきます。
人間の罪深さは、正しい人イエスと、その正しい人が受けた身代わりの罰を見ることによってわかります。
イエスの正しさは、すべての生まれながらの罪人の罪を肩代わりするための資格を表すものです。
聖書はこう言っています。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、-それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
「もしひとりの人の違犯により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物を豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違犯によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」(ローマ5:17~18)
誰も神の前に真実であることは出来ません。そして、そのことは神がよく知っておられるし、それを理由に人を責めたり、裁いたりなさいません。何度も言うように、私たちは生まれながらに罪人だからです。しかし、私たちの誰もが出来ることがあります。それは、「神が真実であること」を告白することです。つまり、イエスは私たちと全く同じ人としてのからだを持ちながら、私たち誰もがもっている原罪がなく、そのゆえに、私たちの身代わりとなり得たこと、私たちの身代わりとなって死に、よみがえらたこと。その事実を信じ受け入れる者は、すべての罪を赦され、神の子としての特権を得て、永遠のいのちを得るということです。その約束が実現するのは、確かなことで、私たちの信じる力や誠実さではなく、神のことばであるがゆえに、キリストの贖いの完全さのゆえに、間違いなくそうなると聖書は告げるのです。このように見てくると、私たちが罪をもって誕生したことは、神との深い絆を結ぶための布石であったことがわかります。神を拒むことも、神を信じながらウジウジ、ジメジメすることも、的を外しているわけです。
こんなところで、第4講座、「罪について」を終わります。
他人様の迷惑になるようなことをせず、自分のことは後回しにして家族を愛し、日々勤勉に仕事をし、慎ましく生きてきた善男善女に、いきなり「あなたは罪人ですよ」と言ってもなかなかピンとこないどころか、反発を買うのが関の山です。黒地に白で、「悔い改めよ」などという広報をしても、世間の感覚ではドン引きです。確かに神の前に悔い改めることは必須事項ではありますが、脈絡もなくみことばの断片を突き付けても、何の意味もありません。
聖書は、「何かやましいことや隠れた罪があるでしょう」「はたけば埃も出てくるんじゃないの?」みたいなことを言っているわけではないのです。神はそんなイヤミな御方ではありません。
また、神父さまに懺悔したり、牧師さまに悩みを相談したりなどというキリスト教的な光景も、信仰とは何の関係もないものです。そんなものはセキュラーなカウンセリングや占いやと同じです。私たちがいちいち申告しなければ、私たちの犯した罪や隠れた罪がわからないような神なら、そんなものが存在したとしても、別に役にも立たねば、恐ろしくもないでしょう。また、全知全能の神を紹介しながら、神に何か不自由でもあるかのように、神と人の間に割って入る存在とはいったい何なのでしょうか。このように、多くの場合、キリスト教のやっていることが、罪のイメージを歪め、聖書の教えを曲げて伝えているわけです。
法に触れる犯罪を犯した人は、裁判にかけられ、有罪となれば、社会から隔離され、処罰されます。しかし、神様など存在していない世界でも、罪を十把一絡げにまとめて断罪したりはしません。例えば、同じ殺人でも、殺意があったのかなかったのか、計画的だったのか、責任を負える能力があるのか、動機に情状酌量の余地があるのかないのかなど、様々な段階をもうけて判断する柔軟な姿勢と慎重さがあります。先週始まった裁判員制度も、さまざまな意見や批判はあるものの、そうしたより公正で合理的な手続きを目指して取り入れられたものです。犯罪に対する社会の対応は決して十分とは言えませんが、法が適応される範囲においては、かなり繊細なものだと言えましょう。そして、罪に対して罰を与える最大の目的は、法によって社会の秩序が可能な限り守られるためです。
あらゆる種類の法律は、共同体や共同作業が円滑に機能するために作り上げた約束事がベースになっているのですが、裁かれない「罪の意識」や「被害者の感情」というものに対しては、当然のことながら応えきれません。先程申し上げた「犯罪ではない罪の問題」に社会は無力なのです。私たちが深い悩みを抱えたり、時に心を病んだりするのは、法の逸脱にはあたらない、社会的には裁かれない罪が原因です。つまりそれが原罪です。
するべきことがわかっていて、したいと思っていることがあるのにそれが出来ず、その気がないのに、嘘をついたり、傷つけたりしてしまうのが人間です。そういう人間が抱えている本質的な罪については、法は無力です。宗教は、こうした良心の呵責につけこんで、さまざまな教えを最もらしく語ります。宗教は、犯罪ではなく、原罪を勘定に入れた事業また商売だと言えます。
では、聖書はこの点について何と言っているのでしょうか?
「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし、私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。」(ローマ7:19~21)
これはすごいことばです。私はやりたくて悪を選んでいるわけではない。つまり罪が「原理として」罪を犯していると言っているのです。原理というのは、そうなるべくしてなるという因果関係のことです。つまり人は罪を犯さざるを得ないわけです。
これは、極めてストイックな生活を自らに強いて生きてきたパウロの告白です。デタラメに欲望に任せて放蕩してきた人の述懐ではありません。理想が高い人は現実がその基準に満たないことをよく知っています。プロ野球楽天の野村監督は、「理想と現実のギャップがボヤキ」なんだと言っています。思い描く理想に現実は遠く及ばないことを大抵の人は知っているはずです。しかし、だからといって、そのことで罪人として生き方を転換するほどの深い悔い改めを強いられることには、抵抗があるはずです。
なぜなら、私たちには「罪を犯した」という自覚症状がないからです。「基準に届かない」という認識は「私は罪を犯した」という感覚とは違います。しかし、聖書が私たちの罪を指摘するのは、「私は罪を犯したという感覚」ではなく、「基準に届かないという認識」を持てということなのです。これだと少しわかりやすくないですか。この基準を聖書では「法律」ではなく、「律法」と呼んでいますが、律法を持たない異邦人にも、神がインプットされた「良心」という機能において共有しうる感覚です。
野球が好きなので、野球の例ばかりで恐縮ですが、4割にも届きそうな驚異的な打率を誇るイチロー選手でも、逆に表現すれば6割以上は凡打だということです。神の基準を言えば全打席ヒットを打たないと失格」つまり罪人というようなものなのです。人間の身体能力と野球というスポーツのルールを考えると、イチローは天才打者であって、人間としての身体機能を野球というスポーツにあわせて鍛え抜き、その可能性を限界まで突き詰めた人だと評してもいいでしょう。
ですから、私たちの世界で「あの人は立派な人だ」「高僧だ」「聖人だ」などと言っても、所詮は3割打者のレベルだということです。勿論打率が2割台の平均的なプレイヤーと3割バッターは格が違うし、イチローともなれば、さらにその上です。
しかし、聖書が「義人はいない。ひとりもいない」と言うとき、本当に一人もいないわけだから、神様の眼鏡にかなう「いい人」「立派な人」になってやろうという試みは、全く無駄だとわかります。神の要求する基準を満たすことは、100%不可能だからです。
私たちは、この世に生を受けたと同時に自動的に罪人となりました。私が男であることも、日本人であることも、20世紀に生まれたことも、私は一切選択していません。それは私ではない何者か・・・私の存在を保障する主権者である神が、ある時代、ある地域に、ある家族の中に、私を男として、私を置いたのです。従って、私には責任がないし、なぜお前は男なんだ。どうして日本人なんだと責められる必要などないのです。
同様に、罪人が罪を犯してしまうのは当然です。それは、「犬がワンとなくようなもの」です。これをパウロは「原理」だと表現したのです。ですから、神は私たちが罪人として生まれることを許しながら、私たちが罪人であるという理由で罰することは絶対ありません。
では、神は私たちの何を責められるのでしょう。神は「私たちが罪人であること」を責められるのではなく、私たちがその罪のゆえに「神の存在を否定し、神の呼びかけを無視し、神の救いを受け入れないこと」を責められるのです。
人間社会の中における法の逸脱行為やそれに対しての懲罰の経験は、罪の赦しの問題とは関係ありません。私たちは犯罪者を指さして、「私はあのような罪人ではない」と言いますが、そのような意識は、自分の罪を神の前に棚上げしているに過ぎません。それは、私たちの中にある原罪が顕在化しただけです。具体的に犯罪を犯していることも、犯していないことも罪人の「ある状態」を示しているに過ぎません。
こんな譬えはどうでしょう。コップに水と泥が入っています。安定したテーブルの上に一定時間置いておけば、泥は沈殿し、上澄みの水はきれいに見えます。しかし、コップを手に持って揺らせば、とたんに水は濁るでしょう。澄んでいる水も、濁った水も、コップの状態にともなった視覚的な情報であって、コップの中に泥が入っているという事実そのものは変わらないのです。私たちのコップの中の状態はテーブルの安定度によって左右されているだけなのです。
イエスが肉体をもってこの地上におられたとき、救いを受けた人たちの多くは、売春婦や取税人など、当時の社会からはみ出していた人たちでした。彼らは一般の人たちよりも、罪を意識しやすかった、つまりコップの泥がはっきりわかる人たちだったわけです。しかし、安定したテーブルを得ている人たちは、自分のコップの水は、泥水ではないと言い張ったのです。しかし、彼らのコップの中身が泥水にすぎないことは、イエスというどこまでもきよい御方を憎み、拒み、十字架につけることによって明らかになりました。
「イエスの十字架を信じる」すなわち、キリストを受け入れるということは、私たちが、「もうひとつ別のコップを持つ」ということです。「コップを洗って中身を入れ替える」というよりは、コップそのものを破棄するイメージです。私のたとえでは、検尿に使った紙コップを水洗いして、おしいくビールを飲める人という感覚の人を聖人と言います。聖人と呼ばれる人の怪しさは、この拭いきれない小便臭さにあるわけです。
人は罪それ自体を責められませんが、「罪は赦しがたいものであること」を認めなければなりません。
「義人はひとりもいない」と主張する聖書はイエスにこう語らせています。
「あなたがたのうちにだれか、私に罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか」(ヨハネ8:46)
イエスは自分の罪に鈍感、無感覚なのでしょうか?
姦淫の現場で捕らえられた女を責め立てる群衆に向かって「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:10)と静かに一喝された御方です。
イエスが私たちと同じような罪を持った「ただの罪人」であったなら、全く聞くに値しません。しかし、イエスがこの証言どおり「罪のない人」なら、すべての問題がほどけるように解けていきます。
人間の罪深さは、正しい人イエスと、その正しい人が受けた身代わりの罰を見ることによってわかります。
イエスの正しさは、すべての生まれながらの罪人の罪を肩代わりするための資格を表すものです。
聖書はこう言っています。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、-それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
「もしひとりの人の違犯により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物を豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違犯によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」(ローマ5:17~18)
誰も神の前に真実であることは出来ません。そして、そのことは神がよく知っておられるし、それを理由に人を責めたり、裁いたりなさいません。何度も言うように、私たちは生まれながらに罪人だからです。しかし、私たちの誰もが出来ることがあります。それは、「神が真実であること」を告白することです。つまり、イエスは私たちと全く同じ人としてのからだを持ちながら、私たち誰もがもっている原罪がなく、そのゆえに、私たちの身代わりとなり得たこと、私たちの身代わりとなって死に、よみがえらたこと。その事実を信じ受け入れる者は、すべての罪を赦され、神の子としての特権を得て、永遠のいのちを得るということです。その約束が実現するのは、確かなことで、私たちの信じる力や誠実さではなく、神のことばであるがゆえに、キリストの贖いの完全さのゆえに、間違いなくそうなると聖書は告げるのです。このように見てくると、私たちが罪をもって誕生したことは、神との深い絆を結ぶための布石であったことがわかります。神を拒むことも、神を信じながらウジウジ、ジメジメすることも、的を外しているわけです。
こんなところで、第4講座、「罪について」を終わります。
2009年5月11日月曜日
5月10日 メッセージのポイント
主によって奮い立つダビデ(ダビデの生涯と詩編⑤)
Ⅰサムエル27~30章
A サウルは神秘体験が豊か
○預言者の一団と出会って激しく預言の霊を受ける
(Ⅰサムエル10:10~12)
○ダビデの出現によって悪い霊の影響を受ける
(Ⅰサムエル18:10~11,19:8~10)
○預言の霊を受け、裸で倒れる(Ⅰサムエル28:3~20)
B ダビデは霊の人・サウルは肉の人
○黙っていても心が違う(Ⅰサムエル10:25~27)
(詩編37:7,39:7~9)
○御霊の実はイエスの人格の表面化(ガラテヤ5:16~25)
The fruit of the Spirit【KJV】
○ダビデとサウルの対立は必然
C 主の不思議な配剤①
(Ⅰサムエル29章)
○ダビデに押し迫った厳しい状況
○ペリシテ首長たちの反対によって救われる
D 主の不思議な配剤②
(Ⅰサムエル30章)
○町を焼き払われ女たちを奪われる
○味方からもいのちを狙われる
○主によって奮い立つ
○案内役のエジプト人
E イエスの苦しみ
○サウルの苦しみとダビデの苦しみ
○ダビデの苦しみとイエスの苦しみ(詩編31:9~22)
Ⅰサムエル27~30章
A サウルは神秘体験が豊か
○預言者の一団と出会って激しく預言の霊を受ける
(Ⅰサムエル10:10~12)
○ダビデの出現によって悪い霊の影響を受ける
(Ⅰサムエル18:10~11,19:8~10)
○預言の霊を受け、裸で倒れる(Ⅰサムエル28:3~20)
B ダビデは霊の人・サウルは肉の人
○黙っていても心が違う(Ⅰサムエル10:25~27)
(詩編37:7,39:7~9)
○御霊の実はイエスの人格の表面化(ガラテヤ5:16~25)
The fruit of the Spirit【KJV】
○ダビデとサウルの対立は必然
C 主の不思議な配剤①
(Ⅰサムエル29章)
○ダビデに押し迫った厳しい状況
○ペリシテ首長たちの反対によって救われる
D 主の不思議な配剤②
(Ⅰサムエル30章)
○町を焼き払われ女たちを奪われる
○味方からもいのちを狙われる
○主によって奮い立つ
○案内役のエジプト人
E イエスの苦しみ
○サウルの苦しみとダビデの苦しみ
○ダビデの苦しみとイエスの苦しみ(詩編31:9~22)
5月10日 主によって奮い立つダビデ (ダビデの生涯と詩編 ⑤ )
このギョウカイ、「癒しだ」「預言だ」「しるしだ」「不思議だ」と盛んですが、そんな占いや手品やイリュージョン、もしくは、自己啓発や三流のカウンセリングをやって人集めをしているうちに、ついに膿が出て、ご承知のようにとんでもない醜態をさらしています。教会は、「世の光」どころか「夜明けの行燈」、「地の塩」どころか「幼児向けの砂糖菓子」となっています。しかし、一方では人手によらないまことのエクレシアがあります。これは、誰かが狼煙を上げたり旗を振ったりして組織したり、同じ価値観を浸透させたりというようなムーブメントではありません。
こうした、ふたつの流れは、アベルとカイン、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウというように、霊と肉、あるいは、信仰と宗教というふたつの道のモデルとして描かれてきました。
さて、簡単なクイズです。ずっと見てきているサムエル記の中で、大きく取り扱われているイスラエルの初代の王サウルとダビデですが、いわゆる神秘体験、言い換えれば、キリスト教的な「しるし」「不思議」を多く経験したのはどっち?
答えは、サウルです。
サウルは神秘体験の豊かな人でありました。サムエルに油注がれた後、サムエルのことばどおり、サウルは預言者の一団と出会い、激しく預言の霊を受けました(Ⅰサムエル10:10~12)
ダビデの出現によって、主からの悪い霊にも度々悩まされます。(Ⅰサムエル18:10~11)(Ⅰサムエル19:8~10)
ダビデを追って、サウルはラマのナヨテという町に行く道中で再び、預言の霊を受け、一昼夜裸のままで倒れていました(Ⅰサムエル19:19~24)
サムエルが死んだ後は、心のよりどころを失ってさらに混乱し、霊媒師によって死んだサムエルの霊を呼び起こし、その霊と話をしています。(Ⅰサムエル28:3~20)
主から新しい人に変えられる約束をいただきながら、自分の価値観にとどまり、感情に振り回され、その結果、悪い霊を受け、挙げ句に悪いとわかっていて自分で追い出した霊媒や口寄せに悩まされるサウルの姿は本当に哀れですが、残念ながらすべて自業自得です。
一方、ダビデですが、彼にはサウルが経験したような種類の神秘体験は全くありません。このことは、しっかり記憶しておくべきことです。ダビデこそが「霊の人」、サムエルは「肉の人」です。
サウルが求めたもの、経験したことは、基本的に自分の感情を刺激し、高ぶらせるものです。約束された御方に対する人格的な信頼を置いていたダビデとは、求めているものが、本質的に異なっています。
サウルは、終始主を見なかった人です。沈黙していても、主を仰ぎつつ黙したダビデとは違う印象を受けます。(Ⅰサムエル10:25~27)(詩編37:7)(詩編39:7~9)
こうして、サウルとダビデを比べれてみれば、神秘的な体験をした人が必ずしも霊的な人ではないということがはっきりわかります。勿論、不思議やしるしは決して否定すべきもではありません。しかし、神の人格を信頼せず、みことばを無視して、しるしや不思議を求めるのは、本末転倒というものです。重要なことは、しるしや不思議ではなく、御霊の実を結ぶことなのです。(ガラテヤ5:16~25)
ここに記されている御霊の実(ガラテヤ6:22)は、複数形ではなくて、単数形です。そして霊は大文字です。the fruit of the Spiritつまり、個々バラバラの徳ではなく、ひとりの人、イエスという御方の人格の現れだということです。ですから、これらの徳目が、私たち個々の人格を高める要素にはなり得ないということです。努力していい人になるための目当てが書いてあるわけではありません。
しるしや不思議があったとしても、それが、イエスという御方の人格にふさわしいものかどうかということが判断の基準になるでしょう。冒頭にお話した、キリスト教会があげてきた滑稽なアドバルーンや、バラまいてきたクーポンつきの下品な広告は、いずれもイエスという御方のセンスや品性に全く似つかわしくないということが、「イエスという御方と本当に交わったことがあれば」すぐにわかるはずだと、私は思うのです。
サウルがダビデに対立したのは必然といえます。同じように、サウルの道に追従する者はダビデの道を進む者に敵対するのです。それは、今日までずっと続いています。サウルは自分の満足を求めましたが、いつも不満を持ち、不安でいっぱいでした。ダビデは、自分の満足を求めませんでしたが、いつも満たされており、平安でした。この箇所を読みながら、肉の欲望を満足させるために生きたサウルと、御霊によって歩こうとしたダビデとを思い描いて当てはめてみてください。
聖霊の満たしや、神の臨在というのは、いわゆる感覚的な神秘体験を意味しません。これは、クレオパたちが復活したイエスご自身と直接会話しながら、それと気づかず、気づいた時にはイエスは消えていたという場面を取り上げたときにもお話したとおりです。大事なのは、みことばです。みことばこそが、霊でありいのちです。逆説的な言い方をするなら、「みことばほど不思議なしるしはない」と私は思います。
後半は、ペリシテ人の領地に逃れて、言わば、落ち延びて暮らしていたダビデの姿を追っていきましょう。ダビデは自国内で逃げ場を失ってペリシテ人の王の下で亡命生活をしていました。(Ⅰサムエル27;1~7)
しかし、やがてペリシテ人がイスラエル人の間の緊張が高まると、ダビデもその部下たちと共にペリシテ軍の後軍として参戦せざるを得ない状空気になってきました。(Ⅰサムエル29:1~7)
これは当然ダビデの本意ではありませんが、心ならずも同族を攻撃しなければならない局面を迎えます。ところが、ここで何が起こったでしょうか。ペリシテ人の首長たちがダビデの参戦に反対したのです。前にはイスラエルが、後ろにはダビデが後軍としているのだから、もし、ダビデが裏切ったなら、ペリシテはイスラエルにはさみ撃ちにされてしまいます。彼らの立場や考え方からすれば全うな主張です。ダビデが仕えていた王アキシュは、ダビデの平素の態度を見て深く信頼していたので、「ダビデが裏切るはずがない」と弁明しましたが、首長たちは納得しませんでした。
人間的は首長たちの強い不信感が、王の信頼に勝ってしまったのですが、結果的には、このことによってダビデはイスラエルと戦わずにすんだのです。主はぺリシテ人の首長たちの判断や意見を通して、ダビデを窮地から救われました。このように、私たちは、大きな大きな主の御手とみこころなの中にいます。私が何も企てなくとも、「私の計画よりも主の導きが遥かにまさる」と心から信じて自らの人生を委ねているなら、このように敵の判断や、さまざまな状況を有利に展開してくださるのです。
私も、大きなことではありませんが、いつもこの種のことは体験させてもらっています。理屈ではなかなか納得しない私の性格を主はよくご存じなので、その配剤の妙というか、あり得ない要素を組み合わせて、明らかにはじめから意図された絵を鮮やかに描いて見せることによって、いつも圧倒してくださっています。
ただし、それはいわゆるラッキーなことの連続したり、無意味な単なる御利益があるというのとは違います。それは、この後のダビデの経験したことを見ればわかります。これで何もかもうまく行ったわけではありませんでした。ダビデがツィケラグに帰ると、とんでもないことが起こっていました。ダビデがいない間に、アマレク人がツィケラグを攻撃し、火で焼き払い、女たちをとりこにして、連れ去っていたのです。その中にはダビデの妻もたちもいました。ここで、皆が女たちを取り戻すために一致団結したのならいいのですが、そうはなりませんでした。民は悲しみのあまり、ダビデを石で打ち殺そうとしたのです。ダビデは非常に悩みました。なす術もなく、勝機を見出すこともありません。
しかし、ダビデはこの絶望的な状況の中で、ただ彼の神、主によって奮い立ちました。(Ⅰサムエル30:6)
この緊迫した状況の中でも、ダビデは決して焦りませんでした。冷静に主のみちびきを伺い、みことばを求めました。主はダビデに「アマレク人の略奪隊を追いついて勝てる」という約束を与えました。そればかりではありません。主は一人のアマレク軍の奴隷だったエジプト人に会うようセッティングしておられました。このエジプト人のおかげでダビデは首尾良く、抜群のタイミングでアマレク軍を討ち取ることが出来たのです。(Ⅰサムエル30:11~20)このエジプト人奴隷をちょうど3日前に病気にしたのは誰ですか。主人に置き去りにされたのは誰ですか。すべては主の配剤の中にあります。
個々の出来事をバラバラに見てみると、ものすごく辛かったり、悲しかったりすることもあるでしょう。そして、それらは何の関連もなく、ただバラバラに起こっているように感じられるかも知れません。しかし、この世界にある全てのものは、主の御手の中にあります。そしてこの御方は、聖なる方、義なる方、愛なる方です。この世界をお造りになった方を信じるなら、この世界を贖ってくださる御方に委ねるなら、絶対に失望させられることはないのです。
「ダビデは、彼の神、主によって奮い立った」(Ⅰサムエル30:6)これは、人間的には望みを持てる材料が何一つないときに、主と言う御方に人格的に信頼したことを意味しています。物凄く励まされることばです。クリスチャンのあゆみの中には、人間的に非常に厳しい場面もあります。そんなときこそ、私たちは主によって奮い立つべきときなのです。
サウルには神秘体験はありましたが、「サウルは、彼の神、主によって奮い立った」という類のみことばは全く見あたりません。このことからも、サウルとダビデ、それぞれの主との関係がわかります。サウルもダビデも苦しみましたが、主に信頼したかどうかによって、その苦しみの質や価値は全く違うものとなりました。サウルは身から出た錆、自業自得の苦しみです。ダビデの場合は、人の子イエスのすばらしさを味わう喜びにつながる苦しみです。
主に信頼する人としない人は何と大きく違っていることでしょうか。この後、サウルはその子どもたちや一族まで巻き込んで本当に悲惨な最期をむかえます。
最後に詩編31編9~22を見てみましょう。ここには、敵ばかりか身内からも責められ、命を狙われるダビデの苦しみが描かれています。
理由なく苦しみを受けるダビデの悩みは、イエスの十字架に至るそれを思わせる描写となっています。ダビデは主によって奮い立ちました。その結果、何の害も受けることなく救われました。
ところが、イエスはダビデよりも遥かに厳しい苦しみや痛みの中で、最後の最後まで100%の信仰を告白しながら、父なる神に見捨てられました。
イエスは十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この世の人はそれを敗北や不信のことばと評価しています。しかし、そうではありません。神の完全な義を前にして、「どうして私を捨てるのか」と言いうるあゆみをされたのは、この御方だけです。
私たちは、この御方のなだめのゆえに、贖いの血のゆえに、祝福を受けるのです。この御方の支払われた犠牲があまりに大きいので、わたしたちは大いに祝福されて当たり前、その恵みを存分に味わうことがなければ申し訳が立たないのです。
その恵みは、誰かが独り占めすべきものでも、この世の価値観で配当すべきものでもありません。ダビデが行ったように皆でともに分かち合うべきものです。なぜですか、それは恵みだからです。(Ⅰサムエル30:21~25)
こうした、ふたつの流れは、アベルとカイン、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウというように、霊と肉、あるいは、信仰と宗教というふたつの道のモデルとして描かれてきました。
さて、簡単なクイズです。ずっと見てきているサムエル記の中で、大きく取り扱われているイスラエルの初代の王サウルとダビデですが、いわゆる神秘体験、言い換えれば、キリスト教的な「しるし」「不思議」を多く経験したのはどっち?
答えは、サウルです。
サウルは神秘体験の豊かな人でありました。サムエルに油注がれた後、サムエルのことばどおり、サウルは預言者の一団と出会い、激しく預言の霊を受けました(Ⅰサムエル10:10~12)
ダビデの出現によって、主からの悪い霊にも度々悩まされます。(Ⅰサムエル18:10~11)(Ⅰサムエル19:8~10)
ダビデを追って、サウルはラマのナヨテという町に行く道中で再び、預言の霊を受け、一昼夜裸のままで倒れていました(Ⅰサムエル19:19~24)
サムエルが死んだ後は、心のよりどころを失ってさらに混乱し、霊媒師によって死んだサムエルの霊を呼び起こし、その霊と話をしています。(Ⅰサムエル28:3~20)
主から新しい人に変えられる約束をいただきながら、自分の価値観にとどまり、感情に振り回され、その結果、悪い霊を受け、挙げ句に悪いとわかっていて自分で追い出した霊媒や口寄せに悩まされるサウルの姿は本当に哀れですが、残念ながらすべて自業自得です。
一方、ダビデですが、彼にはサウルが経験したような種類の神秘体験は全くありません。このことは、しっかり記憶しておくべきことです。ダビデこそが「霊の人」、サムエルは「肉の人」です。
サウルが求めたもの、経験したことは、基本的に自分の感情を刺激し、高ぶらせるものです。約束された御方に対する人格的な信頼を置いていたダビデとは、求めているものが、本質的に異なっています。
サウルは、終始主を見なかった人です。沈黙していても、主を仰ぎつつ黙したダビデとは違う印象を受けます。(Ⅰサムエル10:25~27)(詩編37:7)(詩編39:7~9)
こうして、サウルとダビデを比べれてみれば、神秘的な体験をした人が必ずしも霊的な人ではないということがはっきりわかります。勿論、不思議やしるしは決して否定すべきもではありません。しかし、神の人格を信頼せず、みことばを無視して、しるしや不思議を求めるのは、本末転倒というものです。重要なことは、しるしや不思議ではなく、御霊の実を結ぶことなのです。(ガラテヤ5:16~25)
ここに記されている御霊の実(ガラテヤ6:22)は、複数形ではなくて、単数形です。そして霊は大文字です。the fruit of the Spiritつまり、個々バラバラの徳ではなく、ひとりの人、イエスという御方の人格の現れだということです。ですから、これらの徳目が、私たち個々の人格を高める要素にはなり得ないということです。努力していい人になるための目当てが書いてあるわけではありません。
しるしや不思議があったとしても、それが、イエスという御方の人格にふさわしいものかどうかということが判断の基準になるでしょう。冒頭にお話した、キリスト教会があげてきた滑稽なアドバルーンや、バラまいてきたクーポンつきの下品な広告は、いずれもイエスという御方のセンスや品性に全く似つかわしくないということが、「イエスという御方と本当に交わったことがあれば」すぐにわかるはずだと、私は思うのです。
サウルがダビデに対立したのは必然といえます。同じように、サウルの道に追従する者はダビデの道を進む者に敵対するのです。それは、今日までずっと続いています。サウルは自分の満足を求めましたが、いつも不満を持ち、不安でいっぱいでした。ダビデは、自分の満足を求めませんでしたが、いつも満たされており、平安でした。この箇所を読みながら、肉の欲望を満足させるために生きたサウルと、御霊によって歩こうとしたダビデとを思い描いて当てはめてみてください。
聖霊の満たしや、神の臨在というのは、いわゆる感覚的な神秘体験を意味しません。これは、クレオパたちが復活したイエスご自身と直接会話しながら、それと気づかず、気づいた時にはイエスは消えていたという場面を取り上げたときにもお話したとおりです。大事なのは、みことばです。みことばこそが、霊でありいのちです。逆説的な言い方をするなら、「みことばほど不思議なしるしはない」と私は思います。
後半は、ペリシテ人の領地に逃れて、言わば、落ち延びて暮らしていたダビデの姿を追っていきましょう。ダビデは自国内で逃げ場を失ってペリシテ人の王の下で亡命生活をしていました。(Ⅰサムエル27;1~7)
しかし、やがてペリシテ人がイスラエル人の間の緊張が高まると、ダビデもその部下たちと共にペリシテ軍の後軍として参戦せざるを得ない状空気になってきました。(Ⅰサムエル29:1~7)
これは当然ダビデの本意ではありませんが、心ならずも同族を攻撃しなければならない局面を迎えます。ところが、ここで何が起こったでしょうか。ペリシテ人の首長たちがダビデの参戦に反対したのです。前にはイスラエルが、後ろにはダビデが後軍としているのだから、もし、ダビデが裏切ったなら、ペリシテはイスラエルにはさみ撃ちにされてしまいます。彼らの立場や考え方からすれば全うな主張です。ダビデが仕えていた王アキシュは、ダビデの平素の態度を見て深く信頼していたので、「ダビデが裏切るはずがない」と弁明しましたが、首長たちは納得しませんでした。
人間的は首長たちの強い不信感が、王の信頼に勝ってしまったのですが、結果的には、このことによってダビデはイスラエルと戦わずにすんだのです。主はぺリシテ人の首長たちの判断や意見を通して、ダビデを窮地から救われました。このように、私たちは、大きな大きな主の御手とみこころなの中にいます。私が何も企てなくとも、「私の計画よりも主の導きが遥かにまさる」と心から信じて自らの人生を委ねているなら、このように敵の判断や、さまざまな状況を有利に展開してくださるのです。
私も、大きなことではありませんが、いつもこの種のことは体験させてもらっています。理屈ではなかなか納得しない私の性格を主はよくご存じなので、その配剤の妙というか、あり得ない要素を組み合わせて、明らかにはじめから意図された絵を鮮やかに描いて見せることによって、いつも圧倒してくださっています。
ただし、それはいわゆるラッキーなことの連続したり、無意味な単なる御利益があるというのとは違います。それは、この後のダビデの経験したことを見ればわかります。これで何もかもうまく行ったわけではありませんでした。ダビデがツィケラグに帰ると、とんでもないことが起こっていました。ダビデがいない間に、アマレク人がツィケラグを攻撃し、火で焼き払い、女たちをとりこにして、連れ去っていたのです。その中にはダビデの妻もたちもいました。ここで、皆が女たちを取り戻すために一致団結したのならいいのですが、そうはなりませんでした。民は悲しみのあまり、ダビデを石で打ち殺そうとしたのです。ダビデは非常に悩みました。なす術もなく、勝機を見出すこともありません。
しかし、ダビデはこの絶望的な状況の中で、ただ彼の神、主によって奮い立ちました。(Ⅰサムエル30:6)
この緊迫した状況の中でも、ダビデは決して焦りませんでした。冷静に主のみちびきを伺い、みことばを求めました。主はダビデに「アマレク人の略奪隊を追いついて勝てる」という約束を与えました。そればかりではありません。主は一人のアマレク軍の奴隷だったエジプト人に会うようセッティングしておられました。このエジプト人のおかげでダビデは首尾良く、抜群のタイミングでアマレク軍を討ち取ることが出来たのです。(Ⅰサムエル30:11~20)このエジプト人奴隷をちょうど3日前に病気にしたのは誰ですか。主人に置き去りにされたのは誰ですか。すべては主の配剤の中にあります。
個々の出来事をバラバラに見てみると、ものすごく辛かったり、悲しかったりすることもあるでしょう。そして、それらは何の関連もなく、ただバラバラに起こっているように感じられるかも知れません。しかし、この世界にある全てのものは、主の御手の中にあります。そしてこの御方は、聖なる方、義なる方、愛なる方です。この世界をお造りになった方を信じるなら、この世界を贖ってくださる御方に委ねるなら、絶対に失望させられることはないのです。
「ダビデは、彼の神、主によって奮い立った」(Ⅰサムエル30:6)これは、人間的には望みを持てる材料が何一つないときに、主と言う御方に人格的に信頼したことを意味しています。物凄く励まされることばです。クリスチャンのあゆみの中には、人間的に非常に厳しい場面もあります。そんなときこそ、私たちは主によって奮い立つべきときなのです。
サウルには神秘体験はありましたが、「サウルは、彼の神、主によって奮い立った」という類のみことばは全く見あたりません。このことからも、サウルとダビデ、それぞれの主との関係がわかります。サウルもダビデも苦しみましたが、主に信頼したかどうかによって、その苦しみの質や価値は全く違うものとなりました。サウルは身から出た錆、自業自得の苦しみです。ダビデの場合は、人の子イエスのすばらしさを味わう喜びにつながる苦しみです。
主に信頼する人としない人は何と大きく違っていることでしょうか。この後、サウルはその子どもたちや一族まで巻き込んで本当に悲惨な最期をむかえます。
最後に詩編31編9~22を見てみましょう。ここには、敵ばかりか身内からも責められ、命を狙われるダビデの苦しみが描かれています。
理由なく苦しみを受けるダビデの悩みは、イエスの十字架に至るそれを思わせる描写となっています。ダビデは主によって奮い立ちました。その結果、何の害も受けることなく救われました。
ところが、イエスはダビデよりも遥かに厳しい苦しみや痛みの中で、最後の最後まで100%の信仰を告白しながら、父なる神に見捨てられました。
イエスは十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この世の人はそれを敗北や不信のことばと評価しています。しかし、そうではありません。神の完全な義を前にして、「どうして私を捨てるのか」と言いうるあゆみをされたのは、この御方だけです。
私たちは、この御方のなだめのゆえに、贖いの血のゆえに、祝福を受けるのです。この御方の支払われた犠牲があまりに大きいので、わたしたちは大いに祝福されて当たり前、その恵みを存分に味わうことがなければ申し訳が立たないのです。
その恵みは、誰かが独り占めすべきものでも、この世の価値観で配当すべきものでもありません。ダビデが行ったように皆でともに分かち合うべきものです。なぜですか、それは恵みだからです。(Ⅰサムエル30:21~25)
2009年3月2日月曜日
3月1日 メッセージのポイント
いのちを狙われるダビデ(ダビデの生涯と詩編③)
Ⅰサムエル18:1~21:15
A ねたみは罪の王様
○サウルは千を打ち、ダビデは万を打った(Ⅰサムエル18:6~9)
○イエスはねたみによって十字架にかけられた(マルコ15;10)
○サウルの思考や行動のパターンは私たちの古い性質
B いのちを追われるダビデの心情
○私に立ち向かう者が届かぬほど・・・・・(詩編59:1)
○私を見守る神 神を見守る私・・・・・・(詩編59:9)
○私には咎がないのに・・・・・・・・・・(詩編59:4)
C ダビデの恐れ
○ダビデはアキシュを恐れた(Ⅰサムエル21:12)
○ダビデは狂人を装った(Ⅰサムエル21:12~15)
○聖書は「聖人」を描かない→「聖人」はキリスト教の創作
○「恐れのある日に」(詩編56:1~4)
○「私の涙をあなたの皮袋にたくわえてください」(詩編56:8)
D 主はともにおられる
○人生の中で味わう様々な理不尽の中で十字架の本質に触れる
○ダビデの苦しみは十字架への道行きの下見
(Ⅰサムエル21:1~6)(マタイ12:2)
E それゆえダビデはつまずくことを恐れない
○「光のうちに」(詩編56:13)
○「光の方へ」(ヨハネ3:20~21)
Ⅰサムエル18:1~21:15
A ねたみは罪の王様
○サウルは千を打ち、ダビデは万を打った(Ⅰサムエル18:6~9)
○イエスはねたみによって十字架にかけられた(マルコ15;10)
○サウルの思考や行動のパターンは私たちの古い性質
B いのちを追われるダビデの心情
○私に立ち向かう者が届かぬほど・・・・・(詩編59:1)
○私を見守る神 神を見守る私・・・・・・(詩編59:9)
○私には咎がないのに・・・・・・・・・・(詩編59:4)
C ダビデの恐れ
○ダビデはアキシュを恐れた(Ⅰサムエル21:12)
○ダビデは狂人を装った(Ⅰサムエル21:12~15)
○聖書は「聖人」を描かない→「聖人」はキリスト教の創作
○「恐れのある日に」(詩編56:1~4)
○「私の涙をあなたの皮袋にたくわえてください」(詩編56:8)
D 主はともにおられる
○人生の中で味わう様々な理不尽の中で十字架の本質に触れる
○ダビデの苦しみは十字架への道行きの下見
(Ⅰサムエル21:1~6)(マタイ12:2)
E それゆえダビデはつまずくことを恐れない
○「光のうちに」(詩編56:13)
○「光の方へ」(ヨハネ3:20~21)
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