2009年9月14日月曜日

9月13日 メッセージのポイント

 ダビデとバテ・シェバ(ダビデの生涯と詩編⑨)
Ⅱサムエル11章 
           
A いちじくの葉から皮の衣へ
  ○腰をおおう
  ○いちじくの葉・・・一時的 人の努力や取り繕い(創世記3:7)
  ○皮の衣・・・・・・永遠 神の恩寵と血の贖い(創世記3:21)

B 汚された結婚
  ○壊れた結婚のかたち→罪に墜ちたのは結婚の後
  ○夫と妻はキリストと教会のモデル(エペソ5:31~32)
  ○「模型」(ヘブル9:24)「型」(ヘブル11:9)と「実体」
  ○「影」(ヘブル10:1)と「実物」

C 夫と妻の関係はキリストと教会の関係を反映する
  ○からだの権利は相手にある→一対一対応(Ⅰコリント7:4)
  ○離れている場合も合意が必要→ともにいるのが原則(Ⅰコリント7:5)
  ○夫や妻が第一ならそれは世のこと→神が第一

D 偶像礼拝は一対多対応
  ○対象ではなく、欲望中心→愛は交換不可能 
  ○放蕩の裏表→ダビデの失敗もペテロの裏切りと同様のひとつのモデル
(ルカ15:29)
  
E ダビデの罪
  ○怠惰(Ⅱサムエル11:1~2)
  ○姦淫(3~5)
  ○ごまかし(6~11)
  ○人殺し(14~21)
  ○すべてはキリストから目を離した結果・・・すべてのポイントから引き返せた

F 葛藤と贖いそして赦しと刈り取り
  ○詩編51編
  ○アブシャロム(Ⅱサムエル15:1~5)
  ○第一の子どもの死、第二の子どもソロモン
  ○すべてを覆う神の摂理

9月13日 ダビデとバテ・シェバ (ダビデの生涯と詩編 9 )

 今日は「ダビデとバテ・シェバの物語」を見ていきます。(Ⅱサムエル11章)
 ダビデの数々の栄光の軌跡が書き綴られたサムエル記に、このような内容のエピソードが詳細に記されていることは本当に驚くべきことです。まさしく聖書は神のことばであると再認識させられます。
 これを単に「腰から下の物語」として、ワイドショー的な視点で評価し、「ダビデと言えども、ただの男なんだ」という程度の学びで終わってはいけません。結婚や男女の間の事柄というのは、目に見えない霊的な事実とダイレクトに結びついているのです。人間は罪を犯した次の瞬間には腰のまわりを覆いました。確かに私たちは、腰のまわりを覆われなければなりません。それは、自分たちでつづり合わせた「いちじくの葉」ではなく、主が着せてくださる「皮の衣」によってです。いちじくは一時的でよけいに罪を意識させます。皮の衣は血による贖いであり、永遠の祝福と恩寵を表しています。

 結婚というのは聖なるものです。一人の男と一人の女が、苦楽をともにして歩み、添い遂げるということは、極めて大切なことなのです。男と女は地上で一番大切なキリストと教会のモデルです。
 「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私はキリストと教会をさして言っているのです」(エペソ5:31~32)という有名な聖句のとおりです。
 そもそも模型というのは、実物をイメージするために作られます。ですから、このモデルを滅茶苦茶に破壊すること、あるいは微妙に歪めることは、サタンの有効な戦略だと考えられます。「モデルなんだから、実物が現れたらもういらない」というわけではありません。
 私は、今「模型」あるいは「モデル」という表現を使いましたが、それは、「キリストは、本物の模型にすぎない、手で作った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです」(ヘブル9:24)「それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」(ヘブル11:19)という表現が根拠です。しかし、もうひとつ忘れてはならない大事な表現があります。それは「実物と影」という言い方です。これは、「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はない」(ヘブル10:1)というみことばに基づいています。つまり、光が実物にあたって影をつくるわけですから、キリストと私の目に見えない関係が、夫や妻との関係に投影されるわけです。聖書は、この比喩によって、「実物を得れば模型は不要」という考え方の間違いがないように補っているのです。

 ですから、「キリストと熱心に交わるが、夫や妻との会話も交流もほとんどない」などということは実はあり得ないことです。神を第一にし、信仰によって生きるということとは別次元の話です。「そもそも結婚した時点で自分のからだに関する権利は相手が所有するのだ」(Ⅰコリント7:4)とパウロは言っています。これは、愛の関係においては一対一対応が原則だということです。「祈りに専心するために離れている場合でも、合意が必要だ」(Ⅰコリント7:5)と書いています。これは、ともに住む、一緒に時間や空間を共有することが原則だということです。お互いの態度にどちらかが、あるいは、両方が強い不満を持っているということは、あってはならないのです。これは、夫婦のいずれもが信者である場合も、いずれかが信者でない場合も同じことが言えます。
 また、「夫や妻を喜ばせることが、神に優先するならそれは世のことである」とも書かれています。(Ⅰコリント7:32~33)それらのみことばの論理的な整合を見るなら、語られていることは明らかです。キリストとの関係が実体であって、その逆ではない。しかし、キリストとの良好な関係は必ず夫婦関係に反映されるということです。大事なことは、神における前の夫婦の一体性であり、その交わりの実質です。
神を第一にしていれば、夫や妻を二の次、三の次にはしないということです。夫婦の危機は霊的危機です。

 偶像礼拝というのは、神ならぬものを第一とするということです。神の栄光を他のものに置き換え、移し替えて、それを拝むということです。夫や妻も偶像に成り得るし、また、夫以外の男や妻以外の女に心が動くということは、霊的にも偶像を求めている現れです。
 ダビデの時代、王が複数の妻を持っていることはごく普通のことでした。キリストのモデルであるダビデもその例外ではありませんでした。このように、時代の価値観や文化の中で、私たちの行動が不自然に制限されたり、過度に許容されることは確かにあるでしょう。しかし、神の律法が定める基準は天地が滅びても一点一画変えられることのない不易な価値を示しています。それは、決して時代の流行に左右されるものではない極めて厳格なものです。
 わかりやすい例をあげれば、ある「ことば」や「画像」、「映像」あるいは「行為」を見て、「破廉恥、あるいは、ふしだらである」また、「許せない」と感じる基準は、日本においても世代間の感覚的なズレはかなり大きいと思います。特にこのわずか数10年の間に、相当なソドム化が進行しているようにも感じます。私たちは目に見える現実ではなく、みことばに照らして判断すべきです。
 とは言うものの、昔の人のモラルが現代よりも高かったのかというと、決してそういうわけではありません。その時々の国や時代の空気というものがあるだけです。古今東西、力を持った男は必ずと言っていいほど美女をはべらせてきました。女の子もイケメンや金持ちが大好きです。「自分の遺伝子を受け継ぐ優秀で美しい子孫を残したいという本能がそうさせるのだ」という説明は、「なるほど」と納得したいところですが、それは主のみこころではありません。しかし、これは男にとっても女にとっても強い誘惑です。
 怪しげな宗教の指導者は、その他の手段で力をもった男と同様に、不健全な金と外見の美しい女を集めます。あるいは、その逆にストイックに金や女を遠ざけます。優越感と劣等感がひとつの感情の裏表であるように、いずれも、ものすごく金や女を意識しているわけです。
 「放蕩息子のたとえ」の中では、父の下で勤勉に過ごしていた兄息子は、弟の放蕩ぶりを評して「遊女におぼれて身代を食いつぶした」(ルカ15:29)と言っていますが、それは、裏返してみれば、自分のやってみたかったことを告白しているようなものです。
 もし、私たちがダビデの立場におり、彼の力を持っているならば、同じことをしなかったとは言い切れないし、そうした自由のきかないところにいて、手の届かないバテ・シェバの美貌に憧れてつつ、ダビデの不徳を責めているだけなら、放蕩息子の兄貴と似たようなものです。

 こうしたことを頭においた上でダビデの記事をもう一度丁寧に読んでいきましょう。
 ダビデは夕暮れ時になって起きて来ました。まず、このあたりに問題の根があります。ダビデは、罪を犯して神から目を離したのではなく、この時点で既に神から目を離していたので、簡単に誘惑に負けたのだと言えます。戦いではいつも最前線にいたダビデですが、このときは、イスラエル軍が戦っている最中であるにも関わらず、ダビデは寝ていました。いのちを狙われていたときにはあり得なかったことです。
 人は空腹に耐えられても満腹には耐えられないものです。逆風のときには、負けじと足をふんばりますが、風が凪ぐとよろけてしまうものなのです。ノアも箱舟を造っているときは忠実でした。しかし、洪水後に酔っぱらって裸になっています。長い極度の緊張から解放されたダビデの姿を単純に批判することは出来ないということは承知しています。しかし、罪は罪です。

 先程も申し上げましたが、王にとって、気に入った美女を召し抱えることはごく一般的なことでした。人妻であるバテ・シェバを招くことも、異邦人の王の基準なら何とか許容の範囲でしょうが、ユダヤ人であるダビデにとっては許されないことです。ダビデはユダヤの王であり、キリストのモデルなのです。
 その後はさらに問題です。バテ・シェバは月のさわりの汚れをきよめていたのですから、律法によれば、ダビデは彼女に触れてはいけません。しかし、ダビデはバテ・シェバと関係をもっただけでなく、そのことを誤魔化すために、詭弁を弄して何とかウリヤを家へ帰らせようとします。ところが生真面目なウリヤは王の許しを得たにも関わらず、自分を甘やかすことなく、家に戻ろうとしません。そんな忠実な家来をダビデはためらうことなく殺してしまったのです。男として、戦士として、王として、最低の行為です。彼の前半生の栄光を地に落とすような大きな罪です。

 さて、ダビデの物語を中心にウリヤを見れば、彼はただの不幸な脇役です。ダビデに召し出され、後にソロモンの母となる美しい女性バテ・シェバの殺された夫という役回りです。しかし、ウリヤの人生を中心に考えれば、そんな役回りを簡単に納得することなどできません。ウリヤは有能で忠実な兵士です。だからこそ、王が欲しがるような美しい妻を娶ることも出来たのでしょう。ウリヤには何の落ち度も問題もありません。原因はすべてダビデのわがままな欲望です。ウリヤはいのちがけで仕事をこなしているのに、暇を持て余した王に突然妻を奪われ、その王に信頼しきって戦っている戦場で罠にかけられて殺されるのです。
 神はなぜこのようなひどいことをお許しになるのでしょう。ダビデが罪の結果主に討たれるのならまだしも、後から悔い改めて許されるのですから、ウリヤや遺族の被害者の心情を考えれば全くうかばれません。世の中にはこうした不公平・不平等・不合理が山ほどあります。義なる神がいらっしゃるなら、なぜ、どうしてこんなことにと天に向かって叫びたくなるのは当然です。

 かつてアブラハムは、「全世界をさばく御方は、公義を行うべきではありませんか」(創世記18:25)と祈りました。私たちがある事実を目の当たりにしたときに、それは「不公平・不平等・不合理」だと感じる基準は神が与えてくださった物差しです。その物差しで私たちは自分を測り、キリストを測るように求められているわけです。しかし、預言者ナタンがダビデに語ったことばを丁寧に見れば、少しすっきりします。(Ⅱサムエル12:1~15)
 この譬えの中で、ウリヤは「貧しい人」になぞらえられ、彼が一緒に暮らしていた小さな雌の小羊をどれほど大事にしていたかを伝えています。神はウリヤがどれほどバテ・シェバを愛していたかをよくご存じでした。バテ・シェバもまたウリヤを愛していました。ウリヤの死を知らされ、「彼女は悼み悲しんだ」と記されています。(Ⅱサムエル11:26)
 ダビデはナタンが語った譬え話の中の卑劣な人物が自分自身であることに気づかされました。この気づきと明確な悔い改めこそが、私たちにとってもっとも大事なものだと思います。ダビデの罪はこの瞬間に完全に許されました。ダビデの心の葛藤は詩編51編に記されています。
 しかし、ダビデは罪の後始末をしなければなりませんでした。神の前に罪が赦されることと、人が自分の蒔いた種の刈り取りをすることは別のことです。ですから、ダビデは夫婦関係や家庭の中に常に安息を見出していたとは言えないのです。様々な思い煩いや心配事をかかえ、苦悩しています。これについては、時を改めて詳しく話します。

 繰り返しますが、結婚というのは、キリストと教会のモデルです。ダビデはキリストのモデルですから、ダビデの花嫁は教会のモデルです。一般の夫婦関係以上に際立った雛型です。そのダビデには、たくさんの妻がいました。それは時代の許容でしたが、みこころではありません。このたくさんの妻がそれぞれに子どもをもうけ、子どもどうしが互いに対立する様は、まるでキリストの看板を掲げる多くの教会が分裂分派を繰り返す歴史を予表しているようです。中でもアブシャロムがダビデを押しのけて王位と狙い、名誉を求める姿は、キリストを追い出した教会の姿そのままに写ります。アブシャロムは、ダビデとイスラエル人との間に入って群衆の心を操ります。「アブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ」と書いてあります。(Ⅱサムエル15:1~5)どこかで見聞きしたような光景です。

 「姦淫」「ごまかし」「人殺し」という罪のオンパレード。これが、あの勇敢で、憐れみ深い、信仰の人ダビデなのでしょうか。しかし、聖書は包み隠さず、英雄の汚点を書き残しています。ダビデは私たちと全く同じ罪人です。ダビデ自身がそのことをよく知っています。私たちもそれを知ることが大事です。偉大な王や預言者や聖人などと呼ばれる人は、人の言い伝えが産み出すものです。人類はみな生まれながらにアダムの罪を継承しており、「御怒りを受けるべき存在」なのです。聖書が語るのは、ただの贖われた罪人が信仰によって勝利する姿です。その秘密が「ただ信仰にある」ことを見失うと、単にその子孫であることを誇りとしたり、特別視して崇め奉ったり、そういう姿を努力して目指そうというようになったりします。これらはいずれも間違いです。
 ダビデの妻たちは、それぞれの理由、さまざまなタイミングでダビデの元にやってきました。サウルの子であったミカルはダビデとの間に子をもうけることが出来ませんでした。聖書はダビデをあざ笑ったことが原因であるかのように記述をしています。ダビデの信仰を評価しなかったミカルは神の祝福としての子宝を与えられませんでした。ところが、バテ・シェバの場合は、たった一度の交わりで、子どもが与えられてしまったわけです。その子は死にます。そしてこの次に出来る子が、かのソロモン王です。要するに、私たちの欲から生まれて来る者は死ななければならず、その死を越えて神がお与えになる第2の者にこそ、栄光があるのです。カインではなくアベル、イシュマエルではなくイサク、エサウではなくヤコブ、サウルではなくダビデ。アダムではなくイエスです。

 ダビデの生涯には、神の計画とダビデの信仰による選択が織りなされています。それは必ずしも、すべてが栄光の軌跡ではありません。しかし、ダビデも失敗や愚かささえも、神の恵みの御手がそれを受け止め、深い摂理のもとに、その上にさらにすばらしいキリストが描き出されることには、本当に驚くばかりです。ダビデの失敗を観て、女性たちが男性の愚かさを軽蔑してほしくはありません。既婚者は夫を遠ざけたり、未婚者は男を避けたりすることはみこころではありません。それは、サタンの思うつぼです。男たちはダビデの落ちた失敗へと同じように導かれる可能性が高くなるでしょうし、それは女性にとっても不幸なことなのです。預言者ナタンが話したウリヤとバテ・シェバのようなつながりがいい関係なのです。「貧しい人には、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子供たちと暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした」(Ⅱサムエル12:3)夫婦はいつまでも、このようであるべきです。このような関係の中にこそ、本物の神の祝福があるのです。

2009年8月31日月曜日

8月30日 メッセージのポイント

ダビデとメフィボシェテ (ダビデの生涯と詩編 ⑧ )
              Ⅱサムエル9章 
           
A メフィボシェテという人物
  ○サウルの孫・・・・・呪いを受けている
  ○ヨナタンの息子・・・祝福の約束がある
  ○5歳のとき、乳母の不注意で両足が不自由になる(Ⅱサムエル4:4)
  ○本来殺されるべきところを、命を助けられたばかりか、ダビデの息子のひとりの
   ように扱われ、食卓に連なる。(士師1:6~7)

B ダビデの誓い
  ○サウルとの誓い(Ⅰサムエル24:21~22)
  ○ヨナタンとの誓い(Ⅰサムエル20:12~17)
  ○誓いを果たすダビデ(Ⅱサムエル9:1)

C ダビデとヨナタンとメフィボシェテ
  ○サウルはアダムのモデル
  ○ヨナタンはイエスのモデル
  ○ダビデは父なる神のモデル
  ○「ヨナタンのために」恵みは施される(Ⅱサムエル9:1)

D 死んだ犬のような私を
  ○罪過と罪の中に死んでいた者(エペソ2:1)
  ○生まれながら御怒りをうけるべき子ら(エペソ2:3)
  ○天のところに座らせてくださった(エペソ2:6)
  ○行いではない(エペソ2:9)
  ○メフィボシェテの壁
  ○アモン人ハヌン(Ⅱサムエル10章)
  
E 神の前のダビデの思い
  ○自分が神にどう取り扱われたかを知っていたダビデ(Ⅱサムエル7:18~29)
  ○メフィボシェテを惜しむ(Ⅱサムエル21:1~9)

F リッパの母の愛に見る神の痛み
  ○愛は痛む(Ⅱサムエル21:10~14)
  ○ご褒美のない陣痛(ヨハネ16:21)

8月30日 ダビデとメフィボシェテ (ダビデの生涯と詩編 8 )

 ダビデは傑出した戦士であり、優秀な王でした。しかし、古今東西の歴史をひもとけば、ダビデと同じように、運動能力や戦略に長けた戦の天才や、偉大な戦績を持つ英雄は他にも何人かいるでしょう。ところが、今回取り上げるエピソードを持っているような人物は極めて稀です。どのような記録を引っ張り出しても、このような例は他に見つからないのではないかと思います。ちょっと勿体ぶった前振りをしましたが、それは何かと言いますと、敵であったサウルの家の者に施した恵みについてのエピソードです。(Ⅱサムエル9章)

 王権を勝ち取った者が、自分の命や地位を狙う可能性のある血筋の者を生かしておいたり、親切に扱ったりすることは、まずあり得ないことです。当時のパレスチナでも、戦いに敗れた国の王たちは殺してさえもらえず、手足の親指を切り取られて、奴隷以下の扱いを受けることも珍しくはなかったようです。(士師1:6~7)

 ダビデのはからいで特別な恩恵を受けるのは、メフィボシェテという人物です。メフィボシェテは、サウルの孫にあたります。あのヨナタンの息子です。ぺリシテ人との激しい戦いの中で、サウル王とヨナタンら3人の息子は戦死したとき、メフィボシェテはまだ5歳でした。サウル王とヨナタンら3人の息子の悲報を聞いて、乳母はメフィボシェテを抱きかかえて逃げたのですが、あまりに急いでいたため、乳母はメフィボシェテを落としてしまいました。そのせいで、メフィボシェテは、両足ともなってしまったのです。(Ⅱサムエル4:4)

 以前に詳しくお話しましたが、サウル王が死んだ後、サウル家とダビデ家の間には争いが続きました。サウルの将軍アブネルは、サウル家の王位継承権を持つイシュ・ボシェテによる傀儡政権を立て、ダビデに対抗しようとしますが、イシュ・ボシェテがサウルのそばめのこと疑いをかけたことをきっかけに、アブネルはイシュ・ボシェテを見限って、ダビデの側につこうと交渉に出ます。アブネルに見放されたイシュ・ボシェテは拠り所を失います。そのアブネルがダビデの将軍ヨアブの手にかかって殺され、ますます気力を失います。そんな失意の中、昼寝をしているときに、しもべに下腹を突かれて暗殺されてしまいました。

 イシュ・ボシェテが死んでしまえば、次の王にはヨナタンの息子メフィボシェテがしかいないわけですが、彼は足なえだったので、はじめから候補者にさえなりません。それでも、サウルの直系ですから、ダビデ王権のもとではいのちの危険がついてまわります。メフィボシェテがエルサレムから離れたところに移り住んだのは、エルサレムに近いところにいたのではダビデの陣営の者に殺されるかもしれないと恐れていたからです。
 
 このように、サウル家とダビデ家の間には長年にわたって争いがあり、大きな遺恨を残していましたが、ダビデにはメフィボシェテが知らない2つの誓いがあったのです。それは、「サウルの子孫を絶たず、サウルの名を根絶やしにしない」(Ⅰサムエル24::21~22)という誓いと、「たとい、ヨナタンが死ぬようなことがあっても、恵みをとこしえにヨナタンの家から絶たない」(Ⅰサムエル20:12~14)というものです。

 ダビデはこの2つの誓いを決して忘れてはいませんでした。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」(Ⅱサムエル記9:1)とダビデは言っています。そして、そのことば通り、ダビデ王は実際に使いを送り、メフィボシェテを王宮に呼び寄せました。メフィボシェテは、ダビデ王の前に出るとき、死を覚悟してひれ伏しました。「あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい」という王の言葉を聞いたとき、耳を疑ったことでしょう。

 この時の「恐れ」は、罪人が神の前に引き出されるときの心情に似ています。人が神を意識するとき、感じるのは「恐れ」です。なぜなら、私たちは生まれながらにアダムの罪を受け継いで神に敵対しているからです。私たちは一人の人アダムのせいで神に敵対する者として生まれましたが、一人の義人イエスの契約のゆえに罰を免れ、神との和解を受け継ぐ者となれるのです。ダビデとメフィボシェテの関係は、「神と人との関係」の美しいモデルとなっていることがわかります。確かにメフィボシェテは生まれながらに、怒りや呪いを引き継ぐサウルの孫でしたが、同時にダビデとの契約によって祝福を獲得したヨナタンの子でもあったのです。ですから、このメフィボシェテに対する恩寵は、ダビデの特別な慈悲深さを示すエピソードでを越えて、私たちが受けている救いや恩寵の一側面を見事に映した雛型となっています。したがって、この箇所から私たちが受け取るべき霊的なメッセージは、「神の取り扱い」ということです。ダビデの慈悲深さから道徳を抽出することではありません。

 メフィボシェテは「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」とダビデ王に感謝ししています。「死んだ犬」とは自分の身体の障害を強く意識した表現です。当時、障害者は宮にさえ入ることが許されていなかったので、メフィボシェテはよりいっそう強く自分の無価値を思い知らされていたはずです。(Ⅱサムエル5:8) 

 言い換えれば、「ダビデの恩恵を受けても何かをお返し出来る可能性がまるでない」とう告白でもあります。この神に対する「敵対」そして神の前における「無価値」は、私たちが救われる前の霊的な姿です。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・・・生まれながらに御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:1~3)とパウロは言っています。さらに、「・・・あなたがたが救われたのはただ恵みによる・・・天のところに座らせてくださった・・・・行いによるのではありません・・・・」(エペソ2:5~9) これらのことばは、まるでメフィボシェテのエピソードを解説しているようです。

 ダビデがメフィボシェテに恵みを施したのは、勿論ヨナタンとの契約があったからです。しかし、ダビデの施した恵みは、その誓い以上のものでした。社会的には無価値であるどころか、お荷物であるとみなされていた者、しかも敵の血筋の者を「王の息子のひとりのように」扱い、王の食卓につかせ、まるで息子のひとりであるかのように扱ったのです。しかも、サウルの地所をすべてメフィボシェテに返したのだから、本当に驚くばかりです。血筋を絶やさないようにいのちを守るのと、「王の息子のひとりのように扱う」のとでは全く次元が違います。ダビデはメフィボシェテを、自分の子どものように受け入れたのです。

 キリストの救いとは、本来殺されるべき私たちが、神の子どもとされることですが、そんな私たちが神に対して何かお返しすることが出来るでしょうか。何も出来ません。私たちは全く受ける資格のない祝福を一方的に受けているのです。これを「恵み」と言うのです。メフィボシェテの受けている祝福は、メフィボシェテの資質や経験には一切関係のない「恵み」です。彼の過去を評価したわけでもなければ、未来に期待しているわけでもありません。何しろ「死んだ犬」ですから。死んだ犬はペットにさえする者はいません。繰り返し言いますが、血統書付きの訓練された犬ではありません。死んだ犬です。それをペットではなく、子どもにしようというのですから、神様は変わり者です。しかし、それが神の愛であり、神の方法なのです。

 ダビデは、自分自身が神からどのように扱われ、自分が何者であるかをよくわきまえていました。ダビデは、人の前に王であり勇士であっても、神の前には自分も「死んだ犬のような者」であることを知っていました。ダビデは、神がやがて登場するキリストの故に自分を特別に取り扱われるのだということを知っていました。それと同じように、ヨナタンの故にメフィボシェテを最大限の恵みによって取り扱ったのです。ダビデの祈りを見ればそれが感じられます(Ⅱサムエル7:18~29)

 このように、原則はけっこう単純ですが、人を取り巻く背景や感情は複雑です。よく考えてみてください。メフィボシェテは世が世なら王になっている血筋に生まれました。サウルの直系ですから、顔も二枚目だったでしょう。ところが、たまたま親が戦いに敗れたためにいのちは危険にさらされ、さらにたまたま乳母の不注意によって障害者となってしまったのです。王家の血筋に生まれたことがよけい彼の心情をかき乱すわけです。このような経歴を持つ人は、屈折したプライドを持ち、不遇を嘆くことが多いのですが、メフィボシェテはそうではなく、自分の現実を真っ直ぐに見つめ、ダビデの恩寵も素直に受け入れています。この姿勢は大事です。「信仰」というのは、実は特別なことがらではなく、「神が示された事実をそのまま受け入れること」なのです。

 この後に、同じような申し出を無効にしてしまうアモン人ハヌンの例があるので、比較してみるとよくわかります。(Ⅱサムエル10)メフィボシェテは王の子どもとして扱われたのです。「メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした」(Ⅱサムエル9:13)です。食事は毎日のことです。日々、王の食卓に預かること。メフィボシェテはそれを味わったのです。交わりを楽しんだのです。決して卑屈な気持ちで食卓についていたわけではないと思います。

 そんなメフィボシェテにいのちの危機が訪れます。祖父サウルの罪のために、ギブオン人へのサウルの子どもたちが引き渡されることとなったからです。しかし、「ダビデは、メフィボシェテを差し出すことを惜しんだ」と書いてあります。(Ⅱサムエル21:7)ダビデはメフィボシェテを引き渡しませんでした。ダビデは最後まで、ヨナタンとの誓いを守ったのです。

 このように考えてくると、「恵み」を施すダビデにも、「恵み」を受けるメフィボシェテにも、それぞれに乗り越えねばならない「壁」があることがわかります。ふたりが織りなした美しいキリストの絵は、ともに信仰によってそれぞれの「壁」を乗り越えたからこそのものであると私は感じています。「恵み」を施す立場にあったダビデも、「恵み」を受ける側にあったメフィボシェテも、さらに大きな「神の恵み」に抱かれています。この世における社会的地位や能力の違いは、ある意味歴然としていて、その立場によるすれ違いもあれば、力の差による評価にも段階があるでしょう。しかし、ダビデとメフィボシェテの父ヨナタンが敵対する立場にありながら、信仰によって結ばれていたように、そのような困難な状況の中で生き続ける契約と、それを受け入れる信仰が、最終的には勝利につながるのです。「それぞれの立ち位置から見えるキリスト」を仰ぐことが大事だと言えます。

 メフィボシェテが、ダビデ由来の祝福とサウル由来の苦しみの間を往き来したように、私たちもまたキリストに贖われ、子どもとされていても、アダム由来の罪に苦しみ、老いや病や怪我や障害や、さまざまな葛藤の中で苦しみながら死を迎えます。このからだが完全な死を通して贖われる日まで、その戦いは続きます。変わることのない圧倒的な勝利は得ていますが、劣勢に見えることもしばしばです。

 神は、私たちをいたずらに苦しめたり、死に至る悩みを経験させようとはされません。激しい愛と痛みをもって見守ってくださっています。その愛なる神の張り裂けんばかりの胸の内は、狂気のような母の愛として表現されています。(Ⅱサムエル21:10~14)。彼女は自分の息子たちのために、その亡骸が骨になるまで、鳥や獣に近寄らせないように、岩の上に荒布を敷いて座り続けたと書いてあります。(Ⅱサムエル21:10)聖書は感情表現や細かい描写を殺して、事実を淡々と書いています。しかし、この母の愛の迫力は、ものすごいものがあります。このリッパの愛は誰が与えるのですか。神です。神はこのリッパ以上の愛で、敗者や罪人の最期をご覧になっているのだと理解してください。

 さらに、メフィボシェテにはミカという息子がおり、ヨナタンの家はこの後も長く続いたことが系図として残っています。(Ⅰ歴代誌8:34~40)これも、また素晴らしい記録です。メフィボシェテという名前は「恥を一掃する者」という意味です。ダビデは、その名前のとおり、ヨナタンのゆえに、メフィボシェテによって、サウル家の「恥を一掃」しようとしたのです。

 神はご自身の愛によっても、決して義を曲げることは出来ません。ここに痛みがあり、苦しみがあり、悲しみがあり、死があり、十字架があります。しかし、すべての痛み、苦しみ、悲しみは、新しいいのちが産み出される大きな喜びに変わります。イエスはそれらすべてを打ち破ってよみがえられたからです。

2009年8月5日水曜日

8月1日 メッセージのポイント

バプテスマについて(特別メッセージ Live in 北見)

 今回は3人の姉妹たちの洗礼式のために私がわざわざやって来たかと言うと、私はそこに大きな意義を感じているからです。

 私も3人の姉妹たちのことを第三者に詳しく紹介できるほど知っているわけではありません。しかし、前回お会いした印象や証の内容からはっきりわかることは、「イエスに対する信仰があるということ」、そして「洗礼を受けたいと願っておられるということ」です。
 「現地のどこかの教会に任せておく」という方法もあるでしょうし、一番良さそうな集まりとつながりを作ることの方が大事ではないかとお考えの方もきっとおられると思いますが、私は全くそうは思いませんでした。
 今後3人の方にどのようなかたちの導きがあるにせよ、そこに私が干渉する気は全くありません。しかし、現時点において、既存のキリスト教会に通う人たちが度肝を抜かれるような救いやいのちの成長があるのだということを発信することに大きな意義を感じています。
 まさに、使徒の働きの時代のように、通りがかりのクリスチャンが「イエスについて」解き明かし、水のあるところで、信仰をもった人の希望に従って洗礼を施すというこのシンプルで原初的な救いの事実を作るようにと導かれていると私は感じています。そのためにやって来ました。

 明日の洗礼に先立って、聖書の中から洗礼、即ち、バプテスマについてともに学びましょう。
 まず使徒時代のバプテスマの記事を見てみましょう。
 約2000年前、ピリポはエチオピヤ人の宦官に洗礼を授けるために、主の命を受けました。彼は「立って南へ行け」と言われたのですが、私の場合は「北へ行け」という感じです。(使徒8:26~40)

 このエチオピヤ人の宦官とピリポとのやりとりからバプテスマに関する非常に大事な教訓をいくつも読み取ることが出来ます。導かれる側と導く側の作法を学びたいと思います。まず、宦官はみことばを知りたいと願っていました。しかも、その霊的なポイントは非常に良かった。見事に的を射た興味と疑問を持っています。(使徒8:32~33)そして、ピリポにはみことばに基づいてイエスのことを正確に解き明かす力があるということです。(使徒8:35)

 宦官はピリポにみことばの解き明かしと洗礼を求めています。それは、「道を進んでいくうちに」ということですから、短時間での即断即決です。その間、ピリポが勧めたり押しつけたりした形跡はいっさいありません。勿論、このバプテスマは、何かの制度や形式に則ったわけではなく、ただ双方の信仰による確信に基づいて、一切のこの世の権威や組織と関係なく行われています。
 「ピリポも宦官も水の中へ降りて行き」(使徒8:38)と書いてあるので、ここで行われたバプテスマは、その意味から考えても水を頭にかける「滴礼」ではなく、体全体を水に沈める「浸礼」だったと考えられます。洗礼を意味するギリシャ語は、「浸す」という意味だし、バプテスマ後から見る雛型としての霊的意味から考えても、水の中に完全に没することには意味があります。

 このような劇的な主のお取り扱いを経験するふたりですが、ふたりの間に人間的な強い依存関係は見受けられません、宦官がそれ以降もピリポに頼ることも、ピリポが自分の影響力を行使することもありません。もちろん、愛着や信頼はあったはずです。しかし、べったり粘着した湿った人間関係はありません。(使徒8:39~40)互いにみことばを仲立ちとし主を見つめて、相互の信頼以上に主への強い信頼の中でことを行っているのが伺えます。

 さらに、重要なポイントについて確認します。ここでのピリポのメッセージの中心は何でしょうか。「イエスのこと」です、(使徒8:35)
 聖書を読むこと、祈ること、礼拝に出席すること、献金や奉仕をすることについてですか。違いますね。洗礼準備会などと称して、くだらない教理を確認していますか。答えは勿論NOです。ピリポが語ったのは、あくまでも「イエスのこと」です。イザヤ53章からイエスの苦難と人格、その人としてのみわざに着いて語り、そこからはじめてはらに「イエスのこと」を語ったのだと書いてあります。「イエスのこと」をまるで語らない、ほとんど語れない教会が何と多いことでしょう。

 あらゆる点において、このピリポと宦官の記事は理想的な洗礼を受けるモデルケースだと私は思っています。本来こうでないといけないのです。
 バプテスマが、教会という組織の仲間入りの儀式であったり、その組織における宗教的奉仕のための資格であったりすることが実際には多いのに驚きます。さらに、導いたり、洗礼を施したりした人が、いつまでも施された人の信仰や人生に口を挟んだりすることも普通に行われていると思いますが、人を操る権利は誰にもないし、操られることを良しとする義務もありません。キリストの奴隷となっても、組織の奴隷や人の奴隷になってはいけません。

 一般的にバプテスマという表現はポピュラーではありませんが、「洗礼」ということばは、比喩として誰でも普通に使います。たいていは、「生涯に一度だけの儀式であること」から転じて、初体験、とりわけ「人生において一度だけ経験せねばならぬ、ほぼ一方的に他者からもたらされる、大きな体験」などの場合にととえて使われます。特に「ワンランク高いところの厳しさを味わうことによって、結果的にステップアップする」というような意味でよく使われています。「○○選手も、初登板でホームランを打たれ、メジャーの洗礼を受けました」など。
 信仰においても、「洗礼」という通過儀礼を経て、ステップアップしていくようなイメージを持っている人がおられますが、それは全く間違っています。
 もうひとつ面白いのは、教会に通い始めた家族を見つめるまなざしです。「別に教会に通うぐらいかまわないが、洗礼は受けてはいかん」というのを結構聞きます。これは、洗礼を通過すると、一線を越えてしまう。得体の知れないものとひとつになってしまうという感覚でしょうね。これは、ある意味当たってます。
 ローマ6章の前半はバプテスマについてパウロが語った箇所です。(ローマ6:1~10)、パウロが言っていることを整理してみると、まず、バプテスマは、「キリストにつく」という意味があり、それは「キリストの死にあずかる」ということです。
 水に完全に没することは、「私たちがキリストとともに葬られたこと」であり、水からあがったということは「新しい歩みがそこから始まるのだ」ということです。ここで注目すべきことは、「もし私たちがキリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら」(ローマ6:5)また、「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば」(ローマ6:8)というふたつの条件節です。

 もう少し丁寧に解説するとこういうことになります。
 神は私たちがみことばに従い水に没したことによって、「キリストとともに死んだものと見なした」のです。しかし、私たちが水に没したことをそのように見なさないなら、神が見なしたことは無効になってしまうということです。
 死んだ者は、罪や誘惑に関して一切の反応を失います。しかし、実際の私たちは罪を犯したくなくても罪を犯してしまう弱さを持っています。水から上がっても罪を犯します。だから、たとえ現実がどうであったとしても、「もう死んでいるはずの私のしたことは幽霊の屁みたいなものだから気になどするな」と書かれているのです。このあたりの葛藤と苦悩は、7章に詳しく書かれているとおりです。(ローマ7:7~25)

 パウロは、正確にはこういう表現を使っています。「このように、あなたがたも、自分は罪に対して、死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい」(ローマ6:11)
 パウロの言い回しを読めば誰でもすぐにわかりますが、これらのメッセージはバプテスマをこれから受ける人たちに対してではなく、すでに受けた人たちへのメッセージです。(ローマ6:3)つまり、バプテスマを受けたのに、その意味を正しく理解していない信者が多かったということです。
 ですから、再度確認します。水に没したことは、罪TO

 ペテロによれば、「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」(Ⅰペテロ3:21)と語られています。 言い換えれば、バプテスマを受けても肉体は汚れたままだと言っているわけです。「正しい良心」の反意語として「邪悪な良心」ということばがあります。(ヘブル10:22)「邪悪な良心」とは、簡単に言えば、「自分は駄目だ」「ふさわしくない」と自分にこだわって神から遠ざかり、自分の内側をのぞき込むことです。そうではなく血の注ぎかけを受け、きよめられた心で、約束された方の真実にすがって近づく姿勢こそが、正しい良心に基づいた信仰姿勢です。(ヘブル10:19~23)

 さらに、使徒たちによるこれらのメッセージは、バプテスマの教理に関する知識理解を正すものだとは思わないでください。知識理解ではなく、「生き方」です。ペテロは「生き方」にこだわっています。(Ⅰペテロ3:2,16)「正しい良心」と「正しい生き方」には関連があるのです。もちろんこの正しさは人間から来るものではないのです。知識ではありません。信仰の基本的スタンスです。
 バプテスマの意味さえちゃんとわからずに、信じたつもり、従っているつもりでいる人たちは、自分がすでに死んだことがわかっていないので、未だに自分の性格の弱さや、罪の問題に悩んでいる。だから、約束の安息にも預かることができす、復活の力も味わえないでいると指摘しているのです。
 ですから、これからバプテスマを受ける方も、すでに受けた方も、その意味や価値を今一度かみしめて、ともに味わいたいのです。

 イエスがご自身の公生涯のはじめに受けられたバプテスマを、みなさんはどのように評価していらっしゃいますか。(マタイ3:13~17)
 ヨハネは、自分がイエスにバプテスマを授けるのは変だと感じたのです。だから、そうさせまいとしたと書いてあります。でも、あえてそうさせてくれと願われたイエスのことばに従ったのです。このことにはどのような意味があるのでしょう。

 神が私たちのバプテスマをイエスの十字架上の死と同一視することは、それ自体不可能なことです。それを可能ならしめるのは、「イエスが」罪人の代表者としての資格を得るために、「イエスが」罪人が悔い改める際に受けるバプテスマを受けてくださったからです。泥水の中で溺れている人を助けるためには、自らも泥水に飛ぶ込む必要があります。悔い改める罪を持たない聖なる御方が、悔い改めのバプテスマを受けに来られたとき、ヨハネがとまどったのは当然です。しかし、イエスの覚悟と思いに触れて、ヨハネは受け入れました。ヨハネはどれほど厳粛な気持ちでイエスにバプテスマを授けたことでしょう。

 バプテスマが私とイエスをひとつに繋いでいるのがおわかりでしょうか。それはイエスが十字架によって、アダムがもたらした罪と死を終わらせてくださり、よみがえりによって新しい聖霊のあゆみを始めてくださるということなのです。私の信仰によって受けるバプテスマが、このイエスとの一体化をもたらすものであるということを知ることほど大切なことはありません。ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」とあります。キリストとの一体性を、「キリストの義の衣を着ている」「贖いに包まれている」と考えるとイメージしやすいのではないでしょうか。

 イエスが水から上がられると、聖霊が目に見えるかたちでくだり、父の承認の声が聞く者の耳に聞こえました。父が喜ばれるのは、御子です。父を満足させるのは、常に御子です。御霊によって歩む御子なので。バプテスマを受けている私ではありません。従う決意をした私ではありません。そのことが分かれば、この呼びかけや承認は、神の子としての特権を得た私に対する主の呼びかけとなります。よろしいでしょうか。なぜなら、私とキリストはひとつになるからです。これは似ているようで全く違います。

 バプテスマを、父・子・聖霊の名によって授ける意味を今一度考えてみて欲しいのです。(マタイ28:18~20)

2009年7月25日土曜日

7月5日 メッセージのポイント

ひねくれ者のための聖書講座 ⑥ 悪魔

「通り魔みたいに出来るだけ多くの人を傷つけ殺したかった。」
此花区での放火殺人の犯人である高見素直という容疑者は、逃げ隠れようともせず、自ら出頭して、そのような動機を語ったと報道されています。こういう男の歪んだ欲求を満たすために、死ななければならなかったのかと思うと、お亡くなりになった方々や御遺族の方々もいたたまれないでしょう。
実は、「誰もいいから傷つけたい」という衝動や、「自分に明るい未来が期待できないので、多くの人を道連れに堕ちていこう」という破滅的な思考パターンは非常に「悪魔」的です。勿論「火をつける」という行為は、犯人自身が選んだ道ですが、「魔がさした」という表現もあるように、そこには「悪魔」が働いているのです。

「悪魔」などというと、この科学の時代に何の戯言かと思われるかもしれません。私も最初は「悪魔」の話なんて馬鹿げていると思いました。漫画のイメージが先行して、架空の存在であるという思い込みが支配していたからです。しかし、「悪魔」は実在します。それは、まさかと思うような生きものがジャングルの奥地や深海に存在するように存在するのです。人間が納得するとか、理解するとかではなく、「いるからいる」のです。創世記を読めば、「悪魔」よりも先に神が登場します。哲学者が試みるような神の存在証明など全くなく、いきなり神が世界を創造しています。しかもそれは科学者が納得のいくような記述ではありません。神話は人が作ったものですが、聖書は「神が人を作った」と言っています。「神が人を作った」という話を人が作ったのなら、神を作ったのは人です。
しかし、実際には「神が人を作ったのか、人が神を作ったのか」というのは埒の明かない議論です。論じても答えは出ないので、結局のところ、「信じるか信じないか」の話になります。私は、聖書は人が作った神話ではなく、神が与えた啓示であると信じています。「人が書いた最も真理に近い本」だとは思っていません。「神が人に与えたメッセージであり真理そのものである」と思っています。私がそれをどう感じるかより、聖書そのものが何を言っているかが大事です。理解できないところも、退屈なところも等しく大切なのです。
人は聖書と向き合うとき、個々の事実の検証を積み上げようとします。つまり、それが信じるに値するかどうかを試すのです。納得し、理解しようとするのです。それは、決して間違った態度とは言えません。ただし、その態度を貫いていると、最終的に「信じる」という結論に至ることありません。なぜかというと、神や神の言葉である聖書は、初めから「信じるべきもの」であり、そのすべてについて、納得したり、理解したりすることは出来ないのです。別に対象が神であろうとなかろうと、大事な心の問題は証明出来ません。しかし、ある段階までの納得や理解は絶対に必要です。だから、このようなもってまわった言い方で時間をさいて話しているわけです。

この問題をさらにややこしくしているのは、キリストについて教えていると思われるキリスト教がキリストについての事実を語っていないということです。これが、前にも取り上げたキリストとキリスト教の問題です。共産主義者のキリスト教解釈を支えたフォイエルバッハという哲学者は、「神学というのは人間学」だと言いました。その通りだと思います。キリスト教は人の創作であって、信じるべきものではありません。信じるべきはキリストそのものなのです。神はキリストをこの世に送りました。キリストはいのちの木へと導く門です。しかし、悪魔はキリスト教を創作しました。これは善悪の知識の木のまわりをグルグまわらせ、荒野で死なせます。

さて、創世記によれば、最初の人類であるアダムとエバのふたりは、エデンの園からは次の世代を待つことなく追放されます。その原因を作ったのが「悪魔」です。「悪魔」は蛇に化身して現れ、人間に語りかけ、ことば巧みに誘惑し、人間に「善悪」を教えます。そして、神と人との間に溝を作り、人を「自立の道」へと誘うのです。私たちは神なきエデンの東で、どこから来てどこへ行くのかを知らずに、自分が何者で何をするべきかもわからずに、さまよっているというわけです。
人は「悪」とともに「善」が何であるかを知り、神なき世界で自主独立の道を歩み、自前の能力で文明を築きあげてきたところに、すべての不幸の原因があります。人は「悪魔」のそそのかしによって、神との交わりを失ったばかりでなく、私たちをそのような不幸へと導いた超本人である悪魔への憎しみを忘れてしまいました。「悪魔」は地上の神として、私たちの肉体の世界を、この時間と空間における権限を一時的な神から委託されています。これが聖書の教えるところです。この「誘惑のくだり」は、今日のメッセージの最後にもう一度触れたいと思っています。

しかし、科学という名の近代宗教が優位を占める世界観では、神や「悪魔」を意識の中から閉め出して物事を考えます。つまり、神や「悪魔」を追い出してしまうと、残るのは宇宙や自然ということばに象徴されるエネルギー、現象、法則、そして五感でとらえられるあらゆる物体としての宇宙や自然の断片です。こうして、宇宙や自然はほとんど神と同義語になり、「悪魔」や悪魔的要素もその中にごちゃ混ぜにして織り込まれています。こうして「悪魔」は神々の一部として、善の中にもぐりこんでしまうわけです。
さらに、感覚的な一体感や恍惚感を感じれば、「人は宇宙や自然の一部である」と主張し始めます。さらに、「神々が宇宙の隅々に満ちているなら、人は神々のようになれるのではないか」という錯覚に陥るのです。汎神論をベースにした人の生み出す宗教はおおむねこうした考え方の上に成り立っています。
また、善と悪がごちゃ混ぜに織り込また世界では、完全に善である神などは元から存在しないのだから、善も悪ととも同様に価値を失い、あらゆる存在は無意味だというもうひとつの極端な考えも生まれたりします。これが無神論の世界観です。

ナルニア国物語の作者として知られるC.Sルイスは無神論について、こう述べています。「もし、全宇宙が無意味だとするなら、それが無意味であることをわれわれは絶対知り得なかったはずである。それはちょうど、宇宙に光がなかったら、したがって、目を持つ生物が一つもいなかったら、われわれはそれが暗いということを知る由もなかったであろう。と言いうるのと同じである。その場合、暗いという言葉は全く意味のない言葉となるだろう。」だから、無神論は単純だとルイスは言うのです。かく言うルイス自身はガチガチの無神論者でした。彼は宇宙を無意味だと強く感じていた、人生に光を見いだせない暗い人でした。しかし、その無意味さ、暗さを強く感じるのは、まことの意味と光があるからだとわかったのです。
文学者であるルイスは、子どもたちのための優れたファンタジーを残しました。それを、あんなクズみたいな映画にしてしまうとどうしようもありませんが、彼の残した作品はすべて聖書がベースになっているので、彼が寓話の中で意味づけしたことをきちんと聖書と照らし合わせれば、その本来の意図やメッセージを理解できます。彼の作ったお話は、信仰のある人の子どもたちや、大人になって信仰をもったかつての子どもたちのための、かなり手の込んだ贈り物なのです。
ルイスが感じたように、エデンの記憶は善悪の葛藤となって人の心を責め立てています。その葛藤から逃げずに、考えることは、信じることと対立しません。「考えないで、信じなさい」というのは、頭の悪い牧師のことばです。聖書は言います。「よく考えないので信じたのでないなら・・・」つまり「よく考えて、それから信じろ」ということです。馬鹿は何でもすぐ信じます。でも、何かあるとすぐ捨ててしまう。それは信じたことにはなりません。それは、「土の薄い岩地に落ちた種」と同じです。種まきのたとえの中で語れています。詐欺まがいのくだらない教えに騙される人は、騙されていたことに気づいて被害者面をすると、いっそう馬鹿に見えます。しっかり考えないから信じてしまうのです。簡単に信じたりしないでよく考えてください。よく考えて「信じるしかない」と思えば、信じたものを失ったりしません。

神と悪魔に関する考えた方はいろいろありますが、悪は善の対立概念ではあり得ません。なぜなら、善はそれ自体が善であるがゆえに希求できるが、悪はそれがどこまでも悪であるという理由だけでは悪ではありえないのです。悪は単独で悪ではありえず、悪の本質は、善なるものを間違った方法で獲得しようとするところにあります。つまり悪とは動機や手続き上の問題であり、要するに「歪んだ善」「腐った善」とでも言うべきものだからです。実は、私はあるとき、そのことにはっきり気づかされました。この点についても、ルイスが物凄く面白い表現を使っています。「悪は寄生虫であって、原初的なものではない。悪が活動を継続できるのは、善から与えられた力のおかげである。悪人が効果的に悪を発揮することを可能ならしめているのはすべて、-たとえば、決断力、聡明さ、美貌、存在そのものといったように-それ自体は、善きものなのである」

 私が「ひねくれ者のための聖書講座」をやろうと思った理由は、まず私自身が相当ひねくれていたからです。正式なタイトルは「ひねくれ者によるひねくれ者のための聖書講座」です。キャッチコピーは、「ひねくれていない人は聴かないでください」です。今日はルイスのことばを引用しましたが、私はルイスの著作には本当に慰められたのです。ルイスは私に負けず劣らずひねくれ者だったからです。そのもってまわった言い回しや見事な比喩がかなりフィットしました。他にもパスカルやピカートやヒルティがお気に入りでした。私は昔も今も感情を鼓舞するような信仰書は大嫌いです。もう少し、私自身の話をさせてください。私は、はじめから信じたくてキリストを信じたわけではありません。神になんぞ救ってもらいなんて思ったことはないし、世界が神の救いによってフラットになるなんて、考えただけでもゾッとしたくらいです。十字架にかかって愛を示すなんて、自虐的で狂気じみた手段だと思いました。また、自分が十字架にかかる演出のために弟子の誰かが裏切るようなシナリオはセンスが悪いというかタチが悪いというか、どうにも馴染めませんでした。 しかし、一方で「神は不正かも知れない」という疑念をいだくほどの、かなりレベルの高い公正さをはかる物差しが私自身の心の中にあることを知っていました。しかも、そのような公正さを実現する力は自分にはありません。しかし、神なら公正たれという思いは強くありました。「世界を創った、治める、さばく」というのなら、きちんとやってくれ、やるべきだろうと強く思っていたわけです。
はじめて旧約聖書を読んだとき、そのシンプルすぎる記述の内容の重みに圧倒されました。特に、創世記の冒頭の数章の乱暴さには絶句しましたが、読み進んでアブラハムのあたりまで来ると、少しずつ印象が変わってきました。先程言った「神は公正であるべきだ」という訴えに関して、私よりすでに何千年も前に、アブラハムがきちんと神に直談判する場面が、かなり詳細に描かれていたからです。そのくだりを読んだときに、私の心の霧がすっと晴れたのを感じました。それは本当に驚くような内容です。(創世記18:16~23)神がソドムとゴモラを滅ぼす前に、アブラハムにそのことを知らせます。すると、アブラハム身内のロトとその家族を救うため、神にとりなします。「世界をさばく御方は公儀を行うべきではありませんか」という言い分です。つまり、良い人と悪い人の住んでいる町を丸ごと滅ぼすような乱暴なやり方は神にふさわしくないと意見したわけです。では、その町に正しい人が何人いるだろうとアブラハムは考え、具体的な数の交渉に入っていくのです。
ここで、アブラハムの持っている正義感は公正さの基準はどこからやってきたのだろうと思ったわけです。神はアブラハムにとりなさせることによって、義と愛を教えたかったのではないかと悟ったのです。そして、この記事を読んだ者にも、アブラハムのようであることを願っておられるのだとわかりました。私たちに残されている良心のもっともピュアな部分は、非常に神の思いに近いものです。逆にだからこそ、私たちは、その良心がきよめられなければ、善悪の葛藤に苦しみ続けるのだということも見えたのです。

最後に誘惑の場面に戻ります。(創世記3:1~7)結局、悪魔のまどわしのパターンは決まっています。まず、悪魔は神のことばを語るということです。神のことばをそのまま繰り返して、それは本当かと考えさせるのです。(1)第2に、人間の欲望や願いをくみ取って、そこに彼自身の思いを混ぜます。(2~3)神の人格に対する信頼を揺るがせ、神のことばの正反対の結果に導きます。(4~5)
人は、私たちの五感に訴えかけてくるものを神のことば以上にリアルに感じてしまいます。それは神がそのようなバランスで私たちに感覚をお与えになったからです。神のことばそのものが、神への人格への信頼抜きにして、それ自体が官能的であったり、拒絶するすべを持たずに暴力的にコントロールするものであるとすれば、人間ははじめから神の奴隷かロボットです。神と交わり、神の人格を味わい、神に信頼していきていくものとして与えられた神のかたちに対して、あなたも善悪を知って目を開かれれば神のようになれるとそそのかすのです。「悪魔」は、蛇に化身して語りかけ、自分の本来の姿を示しません。使っているのは神のことばです。鍵は神のことばをどう解釈するかというよびかけなのです。キーワードは、「目が開かれる」「神のようになる」「善悪を知る」です。確かに人は目が開かれ、善とともに悪を知りました。自分の中にある明らかな悪と、果たし得ない遠いところにある善を知ったのです。そこで、腰におおいを作り、神から隠れました。神のようにはなれませんでした。

「悪魔」は、今日も同じやり方で、人をいざないます。イエスは「悪魔」を「偽りの父」と呼びました。「・・・・なぜなら、彼は偽り者であり、偽りの父であるからです・・・・」(ヨハネ8:43~47)

2009年7月5日日曜日

7月5日 メッセージのポイント

神の箱とダビデ(ダビデの生涯と詩編⑦)
         Ⅱサムエル6章 Ⅰ歴代誌13~16章
           
A 神の箱とは
   神の臨在にポイントが置かれた表現(ヨシュア記以降)
    「契約の箱」・「あかしの箱」・「主の箱」
  ○ モーセの時代に作られ、至聖所におかれた
  ○ アカシヤ材に金をかぶせて作られている(ちょうど日本の御輿のようなかたち)
  ○ 中には十戒の石板 アロンの杖 マナのつぼ
  
B ダビデの思惑
  ○ エルサレムを統一イスラエルの首都として、政治と礼拝の拠点にしたい
  ○ 神の箱の運搬で祝福を手中にしたい。(自分はサウルとは違う)
  ○ 代表者たち、会衆の同意を得て、劇的に演出したい
  ○ 神にも認めていただける みこころに違いない

C ウザの割り込み
  ○ 神の箱はずっとウザの家にあった
  ○ ウザが物理的に触ったことが問題ではない
  ○ どうして牛はよろめいたのか
  ○ ウザの割り込みは地名になって事件は語りつがれた
  ○ 神の怒りの対象

D ダビデの悔い改め
  ○ 私はどうして私のところに神の箱をお運びできましょうか(Ⅰ歴代誌13:12)
  ○ レビ人のケハテ族しか運搬にたずさわる事は出来ない(民数記4:15)
  ○ 肩に担がねばならない(民数記7:9)
  ○ 私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったから(Ⅰ歴代誌15:13)
  ○ あなたのみわざを静かに考えよう(詩編77:4~12)
      
E 踊るダビデ
  ○ 力の限り踊ったダビデ・・・かたちにとらわれない自由な礼拝
  ○ 6歩進んだときに生贄・・・不完全な歩みを赦す贖い
  ○ 亜麻布のエポデ・・・王としてではなく、一礼拝者としての賛美