2007年4月5日木曜日

4月1日 ペンテコステ

(使徒の働き2章)

五旬節は、「仮庵の祭」「過越の祭」とともに三つの大きな祭りのひとつです。 この五旬節は、「七週の祭り」(出エジプト34:22)とも、「初穂の日」よも呼ばれていますが、過越から50日目ということで、50日目の祭りを意味するギリシャ語によってペンテコステと呼ばれて、よく知られています。 「五旬節の日」(使徒2:1)と書いてあるように、「仮庵の祭」や「過越の祭」が1週間続いたのに対して、ペンコステは1日限りのお祝いでした。 そこで起こった出来事は、「エルサレムをはなれないで、父の約束を待っていた」ことの結果でした。それはイエスさまが語られたとおり、水によるバプテスマではなく、聖霊によるバプテスマを受けたのです。(使徒1:4~5)
 この聖霊のバプテスマがどのようなかたちで成就したのかを確かめておきましよう。 まず、それはみなが一つところに集まっていたときに起こりました。つまり、それは個人的体験であると同時に、集団的体験であったということです。そして、多くの人が同時に、風による大きな響きを聞き、振動を感じ、炎のような舌を見たのです。それは、周辺にいたすべての人が感じるような不思議な自然現象を伴っていました。 さらに、何より大きな意味を持っているのは、ガリラヤ出身者の無学な普通の人たちが、習得したことのない世界各地のことばで、神の大きなみわざを語ったということです。聖霊のバプテスマや異言について考えるとき、この3点のポイントをきちんとおさえておくことが、非常に重要な意味を持ちます。
 ペンテコステは教会の誕生日であると言われます。ユダの抜けた使徒の欠員を補充し、弟子たちはイエスさまの約束を待ちました。そして、改めて復活の証人としての召しを受けたわけです。パウロはその召しについてエペソ人への手紙の中で次のように語っています。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ4:5)それは、かしらであるキリストとからだなる教会が目に見えて合体した瞬間でもあったわけです。聖霊のバプテスマは、個人的な体験である前に集団的な体験であり、私という個人の心の満たしである前に、キリストの証人としての働きのために受けた力の現れなのです。聖霊降臨は、奉仕につくための機能的な満たしです。「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:12~13)それぞれ働きの違いは、「キリストの賜物の量りに従って与えられた恵み」(エペソ4:7)のさじ加減であり、教会の中に優劣や階層を生み出すためのものではありません。 私たちにとってのまことの大祭司はイエスさまです。この御方が私たちのかしらであり、この方に油が注がれました。メシアとは「油そそがれた者」の意味でしたね。 詩編133編でダビデはこう歌っています。 「見よ。兄弟たちがひとつになって住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて、その衣のえりにまで流れしたたる。それがシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩編133編) 私たちの中の誰か特別な人の頭に油が注がれるのではありません。かしらなるキリストに注がれた油が、ひとつのからだにバプテスマされた兄弟姉妹に流れしたたるのです。 この比喩は素晴らしいと思います。 私は昨年の暮れに、仕事で愛媛県に行きました。松山市が研修の拠点だったのでしたが、初日の夜に関連行事のある西条市に足を伸ばしました。西条市は日本でも有数のおいしい水が流れる町です。「うちぬき」と呼ばれるわき水を町のあちこちで飲むことができるのです。どうしてそういうおいしい水が出るかというと、四国最高峰の石鎚山の雪溶け水が豊かにあるからだそうです。 この詩編133編にもヘルモン山が出てきます。私はかつてヘルモン山のふもとの町ピリポ・カイザリヤにも行きましたが、同じように水の豊かなところでした。死海のほとりとは全く違う水と緑が豊かなところでした。その町は、ペテロが初めて信仰告白をした町であり、ここでイエスさまは教会について言及されたのでした。 南アルプスの天然水のCMでも、「山の神さまがくれた水」というコピーがありますね。雪溶け水の清らかさは、信仰のない人たちにとって特別なものなのですね。クリスチャンは、その被造物に込められた神さまの思いをさらに深く感じることが出来ます。生ける水の川にたとえられる聖霊は、罪を覆うようにして降った真っ白な雪がとけた美しい水だと思うと、本当に素晴らしいですね。求める者は誰でもそれをただで飲むことができます。「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37~39) こうして見てみると、イエスさまはかなり早い時期から、このことを預言してくださっていたことがわかります。  次に、ペンテコステの日は、すべての人が感じることができる自然現象が伴っていたことについて見ましょう。イエスさまの誕生の場合、母マリヤは聖霊によってみごもられたのですが、聖霊が目に見えて宿るところは誰も見ていません。ヨセフが聖霊が鳩のように降りてきてマリアのからだの中に入っていくのを見ていたとしたら、どれだけ気が楽だったことでしょう。しかし、そんなしるしはありませんでした。マリヤもヨセフもしるしを伴わないみことばを信じる以外、方法はなかったのです。さらに、もうひとつ。イエスさまは常に聖霊に満たされておられ、聖霊のみちびきの中で生きておられました。そうであるにもかかわらず、公の生涯に入られる前に聖霊を受けられました。 このように、内なるいのちとしての聖霊と、召しのために注がれる聖霊との区別があることに気づかれるはずです。 バプテスマのヨハネの証言です。 「御霊が鳩のように、天から下ってこの方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるために私を遣わした方が私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:32~34)「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という天からの声も聞こえました。イエスさまの場合も、任職の際には、視覚と聴覚によって聖霊の降臨を確認できたわけです。弟子たちの場合は、内住の聖霊を得たのは、よみがえりの後、イエスさまに息を吹きかけられて、「聖霊を受けなさい」と言われた場面です。(ヨハネ20:22)そして、五旬節において、召しのために注がれる聖霊を受けるのです。
最後に、聖霊のバプテスマを受けた結果ですが、弟子たちがみな異言で語り出したということです。それは、意味のわからないことばではなく、はっきりの意味のある異言でした。そして、その内容は、神のみわざについてでした。バベルの呪いによって、人々のことばの混乱し、国や遣うことばが変われば、意味や内容が通じなくなりました。しかし、いのちのことばであるイエス・キリストによって、その呪いが解かれた瞬間でもあったわけです。
さて、この使徒2章全体の中で、聖霊を表すことばと、イエスさまを表すことばがそれぞれどれだけ出てきたかを確認してみても良いでしょう。聖霊、御霊、わたしの霊という表現もたくさんありますが、同時にイエスさまを表す「この方」「あなたの聖者」「彼の子孫のひとり」「主ともキリストともされたこのイエス」などの表現も、それ以上にたくさんあります。聖霊は、イエスを証する霊であって、その人格は控えめな助け主です。聖霊を人格のないパワーのように考えているのはとんでもない間違いです。異言についての教えは、コリント人への手紙にあるだけです。しかし、その中で、パウロがこれだけ詳細にわたって注意を促しているということは、当時、コリントの教会だけでなく、多くの初代教会の中に、異言の賜物は豊かに存在したということを意味しています。異言を語る様子は、周囲から見ると「酒に酔っている」かのように思えるほどでした。それは異言を語る個人にとっても「感情の満たし」に関して強い効果を持っていました。そのようなわけで、コリントの人たちはコントロールを失ったわけです。今日もこの異言をめぐってはさまざまなことが語られ、誤った教理が大きく伝えられています。パウロはこの箇所で、非常にすっきりと異言とはどのようなもので、いかに取り扱うべきかを語っています。異言には人の異言と御使いの異言があります。(Ⅰコリント13:1)異言とは霊によって奥義を話すことです。さらに異言を語ることと解き明かすことは別の賜物として語られています。(Ⅰコリント14:13)異言は、解き明かしをしなければ、自分の徳は高められても、教会の徳は高められません。(Ⅰコリント14:4~6)パウロは誰よりも異言を語ったし、異言そのものを禁じるべきではありません。(Ⅰコリント14:18,39)ただし、集会の場面では、解き明かす人がいる場合に限り、3人以内の人が順番に話すべきです。解き明かせない場合は個人的な祈りに用いるべきです。(Ⅰコリント14:27~28)教会の中では異言で1万語話すより、ほかの人を教える5つのことばの方が高い価値を持っているというのを、相対的な基準として考えてください。簡単な算数です。異言は知性による預言の2000分の1しか価値がないということです。(Ⅰコリント14:19)異言は不信者のためのしるしです。(Ⅰコリント14:21~22)「人々はみな驚き惑って互いに、『いったいこれはどうしたことか』と言った。」(使徒2:12)と書いてあります。天下のあらゆる国から、里帰りしていたユダヤ人たちが、それぞれ自分の国ことばで神のみわざについて聞きました。そして、やがてユダヤ人が拒んだ救いが異邦人に及んでいきます。(イザヤ28:11~12)
後半の記事を見ると、救われた人たちは、自然にひとつの共同体を作っているのがわかります。(使徒2:43~47)それが自然ないのちの流れでした。大事なことは、民に好意を持たれ、毎日人が救われていたということです。その集まりは信者だけがこの世界から隔離されたようなものではありませんでした。常に周囲の世界と接触を持ち、生き生きと活動していたのです。今日、同じようなライフスタイルを求めても混乱しかおこりません。自然ないのちの流れの中で主に委ねた結果であれば、どのようなかたちであっても安心です。喜びと真心を持って交わること活動のベースです。