2007年8月27日月曜日

サマーキャンプ 子どもたちへのメッセージ 「あなたはどこにいるのか」

「あなたはどこにいるのか」
教会の子どもたちもずいぶん成長しました。今日集まったメンバーの中には、身長も親を追い越した子もいます。そして、電車に乗っても大人料金を払わないといけない子がほとんどですね。社会的にも「大人」になりつつあるわけです。
もっと小さい頃は、男の子と女の子が一緒でも裸で走り回っていましたが、今はそういうわけにはいきません。今日はこの後、宿泊しますが、たとえみんなが「気にしないよ」と言っても、夜、男の子と女の子を同じ部屋に寝かせるわけにはいかなくなってきました。
3歳くらいの子どもでも、良いこと悪いことはだいたいわかります。でも、10歳をこえ、12歳、15歳、17歳と進むに従って、「自分の裸」が見えてきます。「裸」というのは、ただ服を脱いだ状態という意味ではありません。自分のありのままの姿や能力という意味です。そういう裸の自分が客観的に測れるようになってきます。
勿論一定の年齢に達しても、幼児的万能感の強い人や、自己中心のナルシストはいます。幼児的万能感というのは、小さい頃、まわりの大人が負けてくれているのに、「本当は自分のほうが強いんだ」と思い込んだりするような性質を色濃く残していることを言います。ナルシストというのは、自分は恥ずかしくて罪深い存在だと思うのではなく、「自分はなんてきれいで、すばらしいんだろう。」と錯覚する傾向の強い人のことを指します。たいていの人は、大人になるとそんなふうには思わず、「自分はどこか足りない、不安定で、汚れた存在であること」に気づきます。そして、これはとても大切な認識です。
「アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べて人類に罪が入ったのだ」と本気で信じている人は、残念ながらあまり多くはありません。しかし、聖書はそう言っていますし、事実そのとおりです。創世記の3章を読みましょう。(創世記3:1~13)神様のみことばを軽んじ、契約を破ったふたりは、「善と悪」を知りました。「自分が裸であること」を知ったのです。これが、先ほどから繰り返している大人になることの最も本質的な部分です。だいたいこの地球上を見渡しても、服を着ている生き物なんて、人間以外にはいません。人間だけが万物の霊長だと言いながら、なぜか「服を着ている」のです。動物は裸ですが、「自分が裸であること」を知りません。人間は「自分が裸であること」を知っているので、「服を着ている」のです。「動物は裸だ」という言い方も、人間を中心に考えた比較から生まれて来た表現であって、動物にとっては迷惑な話です。動物から見れば、「どうしてそんな窮屈で不便なものを身にまとっているのだ」となります。
大人になると、今まで見えなかったいろんなものが少しずつ見えてみます。今までは絶対だと思っていた大人、例えば親にしても先生にしても、とんでもなく馬鹿で嫌な奴に思えたりします。自分の裸だけでなく、相手の裸も見えてきます。大人になると、誘惑も増えてきます。してはならないこと、やめておいたほうがよいことにもどんどん引っ張られていきます。神様を知らない人たちにとっては、それが「ばれるか、ばれないか。」「損か得か」ということが判断や行動の基準になるので、一緒に行動すると、ついていけない場面もたくさん出てきます。
今日、大人への入り口にさしかかっている君たちに伝えたいことは、神様の前の君たちの態度についてです。教会の子どもたちだから、悪いこと、恥ずかしいことをしちゃいけないよというような話はしません。もちろん悪いこと、恥ずかしいことはしてはいけません。でも、そう言われて正しく生きられるくらいだったら、わざわざイエスさまは十字架にかかる必要はないのです。
Ⅰサムエル2:26 3:18サムエルという預言者がいました。彼はダビデに油を注いだすばらしい預言者で、生まれたときから神さまに捧げられた子です。幼い頃から福音を聞いてきた君たちには、サムエルのように生きてもらえればと思いますが、みんなの母親は、多分サムエルの母ハンナほど、完全な子離れが出来ていません。勿論、父親にはもっと重い責任があります。親たちもさらに成長することが必要です。決して子どもたちだけに重い荷物を背負わせる気はありません。
サムエルの置かれていた状況には、君たちの現状と似ている点があります。それは、とんでもない大人の権威のもとにいたということです。サムエルが仕えていた祭司エリはろくでもない人で、その子どももめちゃくちゃでした。このエリのもとで仕えたサムエルの様子は大変参考になるので、しっかり学んでください。みんなのまわりにも信用できない大人たちがたくさんいて、みんなを嫌な気分にしたりするでしょう。でも、そんな君は誰に仕え、何を大事にして生きていますか。いつも神様の声を聞いて、恥ずかしくない選択をしていますか。サムエルは、いつも主が何を自分に語ってくださるのかを聞こうとする姿勢を持っていたということです。この姿勢を見習って欲しいのです。それは、素直に従う心から生まれます。主の呼びかけに対して、「はい、ここにおります」とすぐに返事をして近づいていく、素直さです。「あなたはどこにいるのか」というのを、今日のお話のテーマにしました。あなたはどこにいるのか。「はい、この部屋にいますよ。」という物理的なことではありません。神様の問いかけです。神様は私たちがどこに隠れようが、何を隠そうがすべてをご存じです。そのことを喜んで、「神様ありがとうございます。」「私はここにいますよ。」いつも良いお返事が出来ますかという意味です。人は罪を犯すと、「あなたはどこにいるのか。」という神様の問いかけが聞こえにくくなります。仮に聞こえても、「はい。ここにおります。」と答えられなくなっているのです。創世記3章1~13節をテキストに学んでいきます。
この機会に、この箇所からわかる罪の特徴について、整理してみます。ひとつめは「取り繕うこと、ごまかすこと」です。腰のまわりの覆いは、いちじくの葉で造ったのです。これは、神様の声を聞くより先に、目が開かれてすぐにとった行動です。つまり、「裸である」という意識は、「正しく覆われていない」ということです。
2つめは、「神様ではなく自分を見ること」です。いいですか。善悪の知識の実を食べたから、衣服をはがれたのではありませんよ。人間は造られてからずっと裸だったわけです。善悪を知り目が開かれたので、自分たちが裸であること気づいたのです。3つめは、「恐れること」です。罪が入った結果、人はいろんなものを恐れるようになりました。4つめは、「隠れること」です。罪が入った結果、きよい神様のまなざしに耐えられなくなった人間は、隠れても隠れきれないのに、とにかく、神様から逃れようとする性質を持つようになりました。5つめは、「責任転嫁」です。男は女のせいにして、女は蛇のせいにして、「ごめんなさい」とはすぐに言えなくなっています。罪の結果、多くの夫婦はバラバラになってしまいました。 創世記4章に入ると、壮絶な兄弟げんかが起こります。(創世記4:1~8節)実は、人類最初の殺人は兄弟どうしによるものでした。人類ではじめて死んだ人は、老衰でも事故でも病死でもなかったわけです。カインにはアベルを殺すつもりはなかったでしょう。そもそも人が死ぬと言うこと自体どういうことだかわからなかったのです。カインは神様へのいけにえのことで、弟が神様に受け入れられて、自分が拒まれたことに腹がたったのです。カインの間違いは、神様と自分の関係のまずさを兄弟との関係に置き換えたことです。これは罪の5つめの特徴である責任転嫁ですね。カインもアベルもアダムとエバの子どもです。自分たちの失敗と神様の贖いの方法をふたりは幼いころから聞かされていたはずです。(創世記3:21)だから、アベルは信仰によって正しい捧げものを捧げることができたのです。しかし、カインは失敗しました。ふたりが聞いていたのは、いちじくの葉ではなく、皮の衣で造られた着物の話でした。裸を覆うためには、罪のない動物の血が流されなければならないことを、ふたりは子どもたちに伝えていたのです。
人間にとって一番大事なことは、神様との縦の関係です。人との横の関係は、縦の関係がうまくいかなければうまくいかないのです。「横」という漢字を含むことばにも、「横着」「横暴」「横やり」「横流し」「横取り」など、あまり良い意味のものがありませんね。
イエスさまは言われました。「昔の人々に『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって、『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21~22)
幸いみんなは一人っ子ではなく、兄弟姉妹がいるので、その関係の中で、「自分がいかに罪深いか」というのを毎日感じることができるはずです。いいですか。これが兄弟げんかでどちらが言い分があるかという話ではないですよ。私たちの心の中をご覧になるイエスさまがお話になったことばが基準です。
神様が問われるのは、私たちの心の思いや動機であって、「結果」ではありません。思いや動機が正しければ、結果は神様が変えることがおできになります。私たちが足りない部分も祝福して補ってくださることができます。一番大事な神様との縦の関係をしっかり保ち、その上で、横の関係についても大事にしていってください。縦の問題は簡単ですが、横の問題は複雑です。しかし、簡単な縦の問題が解決できれば、難しい横の問題は考えなくても、自然に流れていくのです。
今日は「あなたはどこにいるのか」というテーマでお話しました。毎日、神様はみんなのことを呼んでいます。子は親をさがし、親も子をさがします。そこにいてくれること、笑顔でいてくれることに安心します。たとえ笑顔でも、それが間違った行為からもたらされているなら、そんな姿を発見したときは悲しくなるでしょう。神様の問いかけを聞き取り、素直に答えられるみなさんでいてください。

8月19日 この町にはわたしの民がたくさんいるから

アテネを後にしたパウロは、いよいよコリントにやってきました。コリントという都市は、南ギリシヤの政治・経済の中心でした。ローマ帝国の行政区としては、アカヤ州の首府で、そこには、ローマから派遣された総督がいました。(使徒18:12)ユダヤ人もたくさん住んでいて、会堂管理者クリスポのように一家をあげて信じる者もいましたが、反対する者たちもいました。ルカは結構スペースを割いて、アカヤ州の地方総督であったガリオの決定について触れていますが、これは当時のクリスチャンたちにとってはかなり重要なものでした。福音に反対するユダヤ人は、ローマの権威にすがり、「ローマに認められているユダヤ教の教えとは違うから取り締まってほしい」(使徒18:13)と訴えたのですが、異邦人で信仰のないガリオにとっては、それは全く関心のないことで、「おまえたちの宗教上の問題など勝手に始末をつけろ」という意味のことを言っています。要するに、アカヤ州においては、暗に福音の伝道についても、ユダヤ教と同じレベルで、容認してしまったわけです。
コリントの町は、いろんな人種が入り混じり、貧富の差が激しく、その生活ぶりは軽薄で不道徳だったと言われています。神殿にはたくさんの売春婦がおり、性的な堕落が当たり前に受け入れられていました。こうしたモラルの低さや生活のでたらめさは、みことばの基準によってその間違いを照らし出し、御霊の導きに委ねて矯正されなければ、どうにもなりません。教会の中でもその生活の腐敗ぶりは、すさまじいものでした。この世の価値観がみことばを超えて大きな影響力を持っていました。「コリント式」や「コリント風」と言えば、不節制と性の放縦を意味したそうです。これは、今日の自由主義の先進諸国でも同じことで、みことばを大切にしない信者の暮らしぶりは、とてもクリスチャンとは思えないいい加減なものになるのです。
そんなレベルでありながら、「何が正しいのか」とか、「誰が知恵や権威があるのか」とかという最もらしいテーマでは激しく争って分裂し、それ以外の些細なことでも、兄弟どうしで訴えあっていました。性的な乱れも半端ではなく、普通に遊女と交わり、近親相姦までありました。挙げ句の果てには聖餐式で酔っぱらって大騒ぎする者も大勢したようです。クリスチャンになった人たちがそういう暮らしにどっぷりつかっているような町だったのです。そんな様子は、パウロが書いたコリント人への手紙を読めばよくわかります。(Ⅰコリント1:10,3:3,5:1,6:1,6:15、11:21)
私は、この町に出来た教会に当てられた2通のパウロの手紙は、先ほども少し触れたように、今日の自由主義の先進諸国のキリスト教会にとって、とても重要なものだと思っています。いったい教会とは何であり、その中で何を大切にするべきなのかを丁寧に読む必要があります。それは、「暮らしを清く正しく」とかいういわゆる宗教的なことではありません。神のみことば全体が言わんとするところを無視して、自分たちの組織の教理に都合の良い断片に切り刻むのではなく、この当時のコリントという町に働くサタンとそれを矯正しようとする聖霊の働き丁寧に見ていくべきでしょう。当時コリントの教会に語られたメッセージをきちんと読み取って、その上で、今日の私たちの現状に正しく当てはめる必要があります。コリント人への手紙に限ったことではありませんが、背景や文脈を無視して、耳障りの良いみことばの断片だけを切り取るのは、大きな間違いのもとです。それを相田みつをのカレンダーみたいに、ぺたぺたと教会や自宅に貼るのはどうかと思うし、一部分を教会の中の式典の次第として読むのも、逆にみことばの権威を損なう結果になっていると思います。勿論、本当に必要があって個別に与えられた約束のみことばであるなら別です。でも、すりきれそうな甘ったるいことばとして、みことばを十字架のペンダントのように扱うのは許し難いという思いが、私には常にあるのです。
話は使徒行伝に戻ります。パウロが生まれてから一度も拝んだことのないような無数の偶像に溢れた町アテネの次は、口にするに汚らわしいふしだらな町コリントです。このような町から町へと遣わされたパウロはどんな思いだったでしょうか。100人教会や1000人教会を目指すような牧師や伝道師の暑苦しい使命感に燃えていたと思いますか。
主は、そんなパウロの心を一番よく知っておられ、幻によって励まされました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町にはわたしの民がたくさんいるから。」(使徒18:10)パウロはこの主の励ましのことばを握りしめながら、1年半に及んでこの地に腰を据えて神のことばを教え続けたのです。その町に主の計画があり、主の用意された民がいるかどうかがパウロの関心事でした。ただ単に少しでも大きな成果をあげるために伝道旅行をしていたわけでは決してないことがわかります。目に見える現状は、私たちを恐れさせます。それは人間の弱さの常であって、パウロであっても同じです。パウロの偉大な足跡は、パウロの知恵や力がもたらしたものではありません。イエスさまがパウロとともにおられた結果です。パウロが励ましを受けたように、私たちも神様に遣わされてここにいるのなら、私たちが遣わされている町には、私たちがまだ出会っていないだけで、神の民となるべき人たちがたくさん住んでいるのです。だから、私たちは語り続けなければなりません。黙ってはいけないのです。コリントを離れたパウロたちは、続いてエペソへ向かいます。しかし、そこには長く留まらず、カイザリヤに上陸し、エルサレム、そしてアンテオケへと移動します。アンテオケにはしばらくいましたが、また出発し、ガラテヤやフルギヤを次々に巡って、弟子たちを力づけました。(使徒18:22~23)
この一連のパウロの行動は、ケンクレヤで髪をそって立てた誓願と何か関係があるのかも知れません。具体的な誓願の内容はわかりませんが、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」と言うことばから察すると、これからの具体的な導きに関して、自分の願うところと神のご計画との葛藤の中で、心に整理をつけるために髪をそったのでしょう。当然、パウロの心の中心を占めていたのは、みこころは何かということです。みこころの中で自分は何をすべきなのかということです。神のみこころを実現していくのは、当然パウロひとりではありません。パウロの働きを補うかのように、パウロが去ったエペソにはアポロという有能な弟子がやって来ます。そして、そのアポロをさらに深い真理へと導くのはプリスキラとアクラという夫婦でした。アポロは雄弁で聖書に通じていた人物です。そ雄弁さも、ただ口がうまいというのではなく、深い学識に基づいたものだったようです。知識においてだけでなく、霊に燃え、イエスのことも正確に語っていました。(使徒18:24)彼が通じていた主の道とは、イザヤの預言にもあったバプテスマのヨハネのメッセージに要約されるものでした。(マタイ3:1~3)アポロのメッセージは間違ってはいませんでしたが、それは福音のほんの入り口にしか過ぎないものでした。それは、罪を悔い改めてキリストを待つという単純なものだったと思われます。
プリスキラとアクラは、そんなアポロのメッセージを吟味し、彼が聖書に通じていること、また、まっすぐにイエスさまを証していることに一定の評価をしましたが、まだ福音の本質や奥義に通じていないことを見て取って、彼を招いてさらに正確に神の道を伝えます。(使徒18:26)これは、非常に麗しい光景です。ここでは、人が人に屈したり、誰かが誰かを師として仰ぐのではなく、そこによみがえられたイエスさまがおられ、ただ偉大な神の道があり、みことばだけが権威を持っています。
いのちに甲乙はなく、兄弟姉妹に優劣はありません。プリスキラとアクラは、有能な働き人を教える勇気と力を持っていました。それは日々よみがえりの主を経験しているところからくる自然な流れでした。アポロもまたさらに正確な道について耳を傾ける謙虚さと真理に対する渇きや主への愛を持っていました。このような兄弟姉妹の交わりは、何と素晴らしいことでしょうか。このような交わりには、組織や派閥や肩書きが入り込む余地はどこにもありません。もし、プリスキラとアクラが、アポロを大センセイとして家に迎えていたら、こんな交わりはあり得なかったでしょう。アポロはさらにアカヤへ渡ろうという願いを持っていましたが、兄弟たちは紹介状を書いて送り出し、アポロはその期待に応え、ますます賜物を豊かに発揮する姿があります。(使徒18:27~28)
最後にもう少しだけ、プリスキラとアクラという夫婦について触れておきましょう。この夫婦は天幕づくりを職業としていました。はじめは同業者ということで、仕事をする都合で一緒に住んでいたようですが、やがてふたりは、パウロの信頼のおける信仰の友、また同労者となりました。パウロは、この夫婦を高く評価し、感謝のことばをのべています。(ローマ16:3~4)彼らの拠点として、家の教会がありました。(Ⅰコリント16:19)家の教会ですから、自宅を開放したのでしょう。家族を中心としたそれほど大人数の集まりではないでしょう。その小さな集まりを持ちながら、周辺の教会を励ましたり、助けたりしていたのだと思われます。
プリスキラとアクラがアポロに対して、さらに正確に説明した神の道とは何だったのでしょうか。大聖会を持ち、大リバイバルを導く秘策でしょうか。そうではないはずです。それは淡々としたいのちの歩みです。主がしてくださったことの大きさと深さを伝え、それぞれに恵みの測りにしたがって、みこころの中を歩むことに他なりません。パウロにはパウロの、アポロにはアポロの、そして、この夫婦にはこの夫婦のみちびきや働き、役割がありました。すべてがアーメンです。それがみこころなら、自由と喜びがあり、他の兄弟たちとも調和や交わりがあるはずです。まさに、プリスキラとアクラは、継承すべきクリスチャン夫婦のモデルです。もちろんかたちだけ真似したって意味がありませんが、同様の働きをするカップルが今日もたくさんあっていいのです。使徒18章以外は、プリスキラという名前が先に出てきますが、アクラが夫です。その理由はよくわかりませんが、信仰を持つ夫婦の間で妻が果たす役割の大きさというのを感じさせられます。
「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」(Ⅰコリント3:5~8)

7月29日 知られない神に

 「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」(使徒17:21) このアテネ人の暮らしぶりの描写は、簡潔にして本質をついています。これは当時のアテネのみならず、古今東西のあらゆる神無き文明の虚しい奢りを表すものだと言えるでしょう。今日の日本にもぴったり当てはまりそうです。彼らは、退屈をしのぐ刺激の強いものや流行のものを追い求めたのです。
 アテネには、人が欲するあらゆるものが溢れていました。アテネは古くから、古代世界における科学、芸術、哲学、スポーツの中心地です。オリンピック発祥の地として知られていますし、現在もギリシャの首都であり、初めてギリシャを旅して、アテネに立ち寄らない人は殆どいないでしょう。BC404年、ペロポネソス戦争でスパルタに降服し、BC86年にはローマの支配下にありましたが、それでも、アテネの住民はその高い文化を持っていました。パウロと論じたエピクロス派やストア派というグループの人々が出て来ますが、これらの著名な学派から学ぶために、ローマをはじめ周辺の町から多くの人々が集まっていたようです。ですから、外国人もただ何となくそこに住んでいるだけでなく、情報発信基地であるアテネに憧れて住んでいる人たちなのです。
人は都会を求めます。自分たちの欲望をかなえるシステムをこしらえます。言ってみれば、都市は「巨大な遊園地」です。そんな遊園地のアトラクションよろしく、飛び入りのパウロの話も聞いてやろうと、アテネの有識者たちは最初は余裕を見せたのでした。彼らがパウロの話を聞きたがった動機は、その「新しさ」「珍しさ」でした。
 アテネには、偶像があふれていました。偶像は神の属性を分解して、神以外のものに結びつけることによって誕生します。パウロは心に憤りを感じたのです。このような霊的な憤りを持つことは大事な感性だと思います。これは、聖書以外の教えやそれを奉じる人々を敵視して目くじらをたてることとは違います。イエスさまの栄光が忘れ去られ、横取りされ、踏みにじられていることに対する悲しみ、祝福と恩恵をただ取りしながら、その愛に気づくことなく、その良いことがこれからも続くように、災いを避けられるようにと、別の権威を祭り上げていることへの痛み、そして、そのシステムを利用して、利益を得ようとする人たちへの怒り、またそこにはめ込まれて疑問を感じない多くの群衆への憂い、そういう思いがこの憤りの中にはあると思います。
しかし、パウロは冷静に、アテネの人たちのプライドを傷つけずに福音を聞いてもらおうと、さらに優れた知恵でメッセージを組み立てました。まず、彼らの宗教心を褒め、話の糸口を見つけようとしています。そして彼らの拝むものの中にあった「知られない神に」と刻まれた祭壇に注意を引きつけます。アテネの人々は考え得る限りの神を作りだし、自分たちの拝みたいものを拝んでいました。しかし、自分たちが拝み忘れた神もあるいはあるかも知れないという一種の洒落のような感覚で「知られない神に」という祭壇を設けていたのでした。おそらく、それはまともな信仰の対象ではなく、誰もが顧みることのない祭壇だったでしょう。そういうものがあることを知らない人、忘れている人もいたと思われます。しかし、パウロはアテネに評価できるものがあるとしたら、この祭壇しかないと見たのです。「あなたがたが生み出した神以外のまだ知らぬ神こそが真の神であり、唯一の神である」とパウロは、逆手にとって論じるのです。パウロはギリシャで尊敬されている詩人のことばも引用しつつ、語るべきことを語り終えます。語るべきこととは、「お立てになったひとりの人イエス」のことであり、「死者のよみがえり」のことです。逆に言えば、これ以外のことはそれほど重要ではありません。私たちも福音を伝える際に、どうでもいいような枝葉のことを語っていることが多いことに気づかされます。パウロは、アテネの人々に媚びたのではありません。きちんと語るべきことをまっすぐに語っています。
「しかし」と言うべきか、「だから」と言うべきか、アテネの人たちは、死者の復活をあざ笑いました。(使徒17:32)この世の宗教は、いのちの福音とは全く異質なものです。多くの人が似ているところを論じたりしますが、似ているところを論じても始まらないのです。本質的な違いを語ることができなければ、よく似ているのであれば、「別にイエスさまでなくてもいいじゃないか」ということで落ち着いてしまいます。
何度も繰り返してお話していますが、宗教というのは人間の発明品です。それは、「下から上への上昇のベクトル」です。人間が神のように、よりすぐれた者になり、名をあげるための教えや救いです。ここで常に問題になるのは、善と悪の葛藤とそこから生じる努力です。「アダムとエバの食べた実とその隠蔽のためのいちじくの葉」、そして、「カインのささげもの」さらに、「バベルの塔」が、人間の宗教のモデルです。一方、福音は「天から地への下降のベクトル」です。人は神になることができないので、神が人となりました。人は自分で罪を贖えないので、神が罪を贖ってくださった。これが福音です。そこには人が準備するものは何もなく、善悪の葛藤もなく、ただ神による贖いといのちと祝福があります。「アダムとエバの腰を覆った皮の衣」「アベルのささげもの」そして、「天から地にむかってかけられたヤコブのはしご」が福音のモデルです。
アダムとエバは神の園エデンに住んでいました。彼らは善悪を知りませんでした。善悪を知らない人間が、「自分は何者であるのか」「どう生きればいいのか」そうした意味や善悪を問うことなしに生きていたのです。これは、とても不思議なことです。行為の意味を問うことのない世界、善悪の葛藤のない世界には、悩みなどないでしょう。まさにそういう世界がエデンでした。ところが、人は罪を犯し、善悪を知り、己を知ったのです。「裸であることを知った」と書かれています。善悪を知るということは、自分を客観的に見ることです。悪を知っただけでなく善も知るからです。神を知らずに己を知ることは不幸です。宗教は、こうした葛藤のひび割れから生まれてくるのです。
ですから、宗教から解放されるためには、「善悪の葛藤」から解放される必要があります。エデンにいたアダムとエバのように善悪を問うことなく、神の恩恵に浸っていることが大事なのです。しかしながら、神は贖いによって、ただ単にエデンの状態を回復しようとしておられるのではありません。十字架がエデンを回復するためだけのものなら、人間が罪を犯したことは「単なる失敗」であり、十字架は人間の失敗を帳消しにするための「本来必要ではなかった行為」言わば、「後から付け足した計画」になってしまいます。聖書を見る限り、十字架というのは、そんな安っぽい救済の手段ではありません。福音は、もっともっと壮大な計画なのです。神は世界の基の置かれる前から、つまり、エデンの園などどこにもなく、そこに、まだアダムもエバもいないときから、ご自分の助け手として、神の理解者としての存在を産み出そうとされた計画なのです。善悪を知り、己の裸の恥を思い知った上で贖われた者の喜び、神がしてくださったことの意味とその価値を知った者の喜び、感謝、礼拝は、エデンにいたときのアダムやエバとは比較にならないほど深いものです。これが福音の大きさです。
自分の悩みの解決や地上での生き甲斐に心が集中している者には、そうしたスケールでの福音は心に届かないでしょう。「このことについては、またいつか聞くことにしよう」(使徒17:32)となるでしょう。
 ギリシャ人の価値感は、現代の先進諸国の価値観へとつながっています。そこで崇められるのは、美しいもの、強いもの、能力のあるものです。それら中の特に優れたものが賞賛を受けます。知・真・善・美・そして、力といった本来神の属性であるものをバラバラにして、造られた者に貼り付ける勲章にするわけです。イエスさまは、そうした神の属性をあえて封印して、人の前に現れ、そして死なれました。すべては十字架に何を見るか。果たして、イエスはよみがえり、そのよみがえりは、あらゆる死者の復活の魁となりうるか。パウロは言いました。「なぜなら、神はお立てになったひとりの人により義を持ってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒17:31)これが福音の方法であり、しかけです。それは、相対的な比較の中でいわゆる偏差値的指標として、神であることを承認される存在として来られ、みなが理性的に納得させられて、有無を言わさずこの方に服したとして何の意味があるでしょうか。福音は、世界の基が置かれる前からの永遠の計画なのです。罪を犯した人間が、傷ついた良心を癒すために発明したその場しのぎの教えと決して同列におかれるものではないのです。ですから、最も腹立たしく情けないのは、教会が宗教化することです。福音がいのちに基づいて活動するのではなく、教えになり、道徳になり、形式になることです。私たちの集まりにも、こうした危険は常に隣り合わせにあると思っています。私はみなさんの平素の暮らしぶりや心の中のことまで知りませんから、責任も持てないし、安っぽい保障もしません。宗教の出発点は何かご存じですか。先にも少し触れましたが、いちじくの葉です。その本質は、ごまかし、取り繕いです。
この世界に関するどんなに広くて深い知識を持っていようが、神がお立てになったひとりの人イエスを知らないなら、それは無知なのです。逆にこの御方を知っているなら、あらゆる知識に勝る知識、知恵にまさる知恵をもっているわけです。胸を張って証しましょう。