2008年7月18日金曜日

7月13日 メッセージのポイント

悪い農夫のたとえ (イエスのたとえ話 17 )

  マタイ 21:33~46 
  マルコ 13:1~12 
  ル カ 20:9~18   

A 十字架は神の弱さ・神の愚かさ(Ⅰコリント18~25)
    ○ユダヤ人は「しるし」を、ギリシャ人は「知恵」を求めるが、最大のしるし、最高の
     知恵である十字架が、人の目には弱く愚かにしか見えない
    ○引き裂かれた肉体の垂れ幕を通る一体感をイメージすること

B 人の知恵や力では神を解き明かすことはできない。(ヨハネ1:18)
    ○「すり替え」(ローマ1:23)
    ○「横取り」(ヨハネ7:18)

C たとえは聞く力に応じて語られている(マルコ4:33)
    ○聞き方や動機が悪ければ理解できない
    ○「理解すること」「受け入れること」「豊かに実を結ぶこと」は別
    ○聞いた責任と理解できたのに行動しない罪

D ぶどう園の意味(ヨハネ15章)  
    ○多くの実が集まってひとつの房になる 
    ○実を結ぶことがすべて
    ○まことのぶどうの木とその枝はつながっている

E たとえ話の「歪み」と「ねじれ」の原因
    ○あまりにも残虐な農夫と信じられないほど寛容な主人
    ○「そんなことがあってはなりません」→人はこの歪みやねじれを罪の問題として
     意識出来る
    ○人に与えられた自由と良心と知恵
    ○神の期待と人の裏切り(エレミヤ2:21)
    ○ぶどう園に絶えず向けられる主人の関心と愛(イザヤ5:1~2)

7月13日 悪い農夫のたとえ (イエスのたとえ話 17)

マタイ21:33~46  マルコ13:1~12  ルカ20:9~18

「イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話にならなかった。」(マタイ13:34)とマタイは書いています。しかも、そのような話し方をされることは預言の成就であるともつけ加えています。(マタイ13:35,詩編78:2)たとえ話だけが、「目に見える世界」と「目に見えない世界」を結びつけるのです。たとえ話は、「目に見えない真実」を「目に見える現実」の中に隠します。みことばは、目に見えない世界に入るための「隠された狭き門」です。「ナルニア国物語」で言えば、ナルニアへと続く洋服ダンスです。ルイスも当然それを意識して書いています。私たちはコートをかきわけて入るのではなく、引き裂かれたイエスの肉体の垂れ幕を通るのです。それがしるしです。たとえを学ぶとき、イエスのからだを意識することはとても重要なことです。洋服ダンスの中で子どもたちがコートに包まれている感じをイメージしてください。私たちは信仰によってイエスのからだに包まれているからこそ、目に見えない世界を見ることができるのです。みことばをことばの上だけで論じているだけなら、それは洋服ダンスで戯れる猫のような楽しみで終わりです。洋服ダンスを突き抜けて向こう側の世界へ行く必要があります。たとえはすべて「十字架のことば」であり、「十字架につけられたキリスト」です。それは、「人の強さ」を砕く「神の弱さ」であり、「人の知恵」に勝る「神の愚かさ」なのです。「しるし」を求めるユダヤ人も、「知恵」を求めるギリシャ人にとっても、十字架は大きなつまずきとなりました。十字架がわからなければたとえは目に見える世界のお人好しの道徳に過ぎません。(Ⅰコリント1:18~25)
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)とヨハネは言っています。これは、世の知者を自負する人たちとっては、実におもしろくない受け入れがたい事実なのです。人は自分の知恵と力で神のわざを解き明かしたいという欲望を持っています。目に見える世界が素晴らしい法則に貫かれ、さまざまな恩恵を与えてくれるのは、神がそのようにお造りになったからで、人が発見したり、産み出したりしたわけではありません。それなのに、人は本来へ栄光を受けるべき神を崇めず、自らの知恵と力を誇り、感謝することなくただ恩恵を受けています。今日のキーワードは、「横取り」(ヨハネ7:16~18)あるいは、すり替え(ローマ1:21~23)です。
 それでは、「悪い農夫のたとえ」を見ていきます。(ルカ20:9~18)いつも申し上げているように、たとえ話を正しく理解するためには、「どういう状況で」「誰に対して」「何のために」語られたのかを知らねばなりません。この「悪い農夫のたとえ」は、イエスが、祭司長、律法学者、長老たちと「権威について」の問答をされた後、「民衆に対して」語られたものです。さらに、そのたとえを聴き終えた後の様子について、ルカは直接語られた民衆の反応については触れずに、横で聴いていた律法学者や祭司長たちのことを記しています。イエスはたとえを語りっぱなしで終わるわけではありません。イエスは常に相手の「聞く力に応じて」(マルコ4:33)語られています。それは必ずしも「100%理解して受け入れることが出来ることばだけを語る」という意味ではありません。イエスは、聞く者の霊を見極めて語られ、その聞き方を評価されるということです。「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた。」(ルカ20:19)たとえ自体の中にも、「あれは、あと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」(ルカ20:14)という農夫たちの発言があります。つまり、律法学者やパリサイ人は、イエスさまが誰なのかをわかっていて拒んだのです。無知と愚かさのゆえに扇動にのせられて「十字架につけろ」と叫んでいた群衆よりも、指導者たちの罪は遙かに重いのだということがわかります。そして、悪い農夫たちは息子をぶどう園の外で殺してしまいます。それは、予め指導者たちの反応を知っておられた主が、それさえもたとえ話の中に組み込んでおられるのです。ひとしきりたとえを語られた後に、「こうなると、ぶどう園の主人はどうするでしょう。」と主はたとえを聞いていた民衆に問われました。「彼は、戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」と答えます。ルカの福音書では、イエス御自身がたとえ話の結末として、その中でひと続きに語っておられるような書き方をしていますが、マタイの福音書を見ると、この部分は聞き手である民衆が答えています。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」(マタイ21:41) これは、面白い部分です。民衆はたとえを受け入れて、きちんと筋通りに答えています。悪党とはだれでしょう。それは勿論律法学者であり、祭司長を指しているわけですが、民衆がそれを意識して答えたとは思えません。しかし、律法学者やパリサイ人にはそれが自分たちを指していることがわかります。 つまり、このたとえの意味を受け入れた人たちは理解できず、理解できた人たちは受け入れなかったのです。今日新約聖書の3つの福音書に記されたこのたとえを教会時代の私たちはどう読んでいるでしょうか。たとえを自分との関わりの中で読むことがなければ、話のアウトラインを理解できたとしても、何の意味もありません。「本当に悪い農夫だなあ」でおしまいです。また、自分のことを言われているのではないかと、たとえを適用できたとしても、それを語ったイエスに対する憎しみを燃やしているようでは、さらに不幸なことです。 このように、たとえ話はどんな風にでも読むことが可能です。たとえ話は、それを聞いた人の心を映すために仕掛けられているのです。イエスは、こうも言われています。 「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちにはすべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るが見えず、聞くには聞くが悟らず悔い改めて赦されることのないため』です。」(マルコ4:11)つまり、「聞き方」や「動機」が悪ければ、決してたとえの本当の意味は解けない仕掛けなのです。さらにイエスは、次のようなことばをつけ加えておられます。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。」(マルコ4:13)ここで言う「このたとえ」とは、「種まきのたとえ」のことです。イエスは、この「種まきのたとえ」には、特別に詳しい解き明かしを加え、「なぜ自分はたとえで語るのか」を話しておられます。それは、「種まきのたとえ」が、あらゆるたとえのベースになるからです。簡単に言えば、「良い地に落ちる種しか実を結ばない」ということなのです。さて、今日の「悪い農夫のたとえ」に戻りますが、それはみなさんの心の「良い地」に落ちるでしょうか。すべてを聞き終わった群衆は、「そんなことがあってはなりません。」(ルカ20:16)と言っていますが、それは祝福が取り去られることを思ってのことばでしょうか。それとも、主人の無念に共感してのことばでしょうか。多分後者が優位でしょうが、いずれにせよ、あってはならないような悲劇が語られています。このたとえが浮き彫りにするのは、寛容すぎる主人と不忠実で残虐な小作人のすれ違いです。
この畑はぶどう園です。ぶどうは神の祝福を表します。もともとフルーツはすべて神の祝福を表しています。特に、イスラエルは「ぶどう」や「いちじく」や「オリーブ」などにたとえられてきました。この3種類の植物はそれぞれに重要な意味を持っていますが、その中でも一番重要なのはぶどうです。ぶどうという植物の持っている特徴は、非常に具体的に神の思いを反映させています。ぶどうは、1個の大きな実ではなく、小さな実が集まってひとつの房を形成しています。これは教会を意味します。縦に大きく伸びずに横へ横へと広がっていきます。ぶどうの木自体はそれを家具や建物の材として用いることはありません。実を結ぶことが大事なのです。そして何より、ぶどうはワインの原料です。勿論それはイエスの贖いの血を象徴するものです。まことのぶどうの木とは何でしょうか。それはイエス御自身です。まことの農夫とはだれでしょうか。それは父なる神です。そして、枝は教会です。実も教会です。枝も実もふくめてぶどうの木です。教会とイエスはひとつなのです。これがこの世にぶどうの木が存在する意味です。ヨハネ15章は、ぶどうについて語られた最も重要な箇所です。もともとぶどう園とはイスラエルを指していますが、それは、教会へと移行します。置き換えられるのではなく、本質と祝福が移行するのです。もちろんイスラエルも完全に祝福を失うわけではありません。「実を結ばぬいちじく」や、「接ぎ木されるオリーブ」の話を思い出してください。ですから、イスラエルをすべて教会に読み替えるという神学は、厳密には聖書的ではありません。ザアカイが救いに導かれたとき、イエスさまはこう言われました。「この人もアブラハムの子なのですから。」(ルカ19:9)これは、血統としてのアブラハムの子孫という意味ではなく、アブラハムと同じ信仰による義を受け継ぐ者という意味です。血統的にもアブラハムの子であったザアカイにあえて信仰による子孫であることを確認されたわけです。これも聞き方によっては意味の取り違いがおこります。農夫とは、欄外脚注にもあるように「小作人(tenant farmer)」です。小作人が主人を無視しテナント料を滞納し、さらに取り立てに来た者に反抗して傷つけ、その挙げ句に息子を殺害したりすれば、これはいつの時代、どこの国であれ、大変な犯罪です。小作人であるイスラエルが、歪んだ選民意識のプライドを持ち、異邦人を見下し土地の貸し主である神を認めず、預言者による再三にわたる警告を無視し、イエスを十字架につけることによって、彼らの選んだように、その血の責任を負います。イエスの十字架は、このように小作人の無能と貸し主である神の愛の深さを象徴するものとして、神が直接管理するまことのぶどう畑である教会を誕生させます。そのことによって、祝福の本質は異邦人世界へ移行するわけです。アブラハムの子は血統ではなく、信仰を受け継ぐ子を意味するようになります。サマリヤの女に語れたように、まことの礼拝者を異邦人からも募集されるようになったわけです。
このたとえ話の主人は常識はずれのお人好しです。どうして、ここまでひどい小作人に対して寛容でいられるのか不思議になります。ところが、律法学者や祭司長たちは、この信じられないような神の寛容さにも心を動されることなく、自分たちが皮肉られているととって、怒り出すわけです。変な話です。このストーリーのぎこちなさは何なのでしょう。  それは、主人である神は初めから小作人を見捨てる計画を立てられたのではないからだと思います。小作人の意志や選択が織りなした結果生まれたスト-―リーであるがゆえに「歪み」や「ねじれ」のようなものが生じ、聞く者に一種の不自然さを感じさせるのではないでしょうか。歴史には、人の意思やその決定による選択が反映しています。簡単に言えば、神がしたいようにしているわけではないということです。そんな神のみこころを知ることが出来るみことばを開きましょう。
「わたしはあなたをことごとく、純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうして、あなたは質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。」(エレミヤ2:21)「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうがなるのを待ち望んでいた。ところが酸いぶどうができてしまった。」(イザヤ5:1~2)このように、多くの預言者たちを通して、主人のぶどう園への思いを語られますが、イスラエルの反応はイエスさまのたとえどおり、エレミヤやイザヤを迫害します。今日においても、このイスラエルへの警告や、パリサイ人への叱責を教会に当てはめて真摯に受け止めるというような読み方も大切です。悔い改めて教会の享受している恩恵をもう一度見つめ直すべきでしょう。人に与えれてている自由の範囲と、良心の確かさ、そして、本当の知恵というものについて、いろいろと考えさせられます。

2008年7月17日木曜日

7月6日 メッセージのポイント

あとの者が先になる (イエスのたとえ話 16 )           
  マタイ20:1~16

A たとえとは何か
 ○地上にいる私たちに天の御国とはどのようなものなのか、その「本質的な意味や価
  値」を「具体的な手応え」をもって伝えるため
 ○「霊的な目に見えない世界」を「物質的な目に見えて手で触ることの出来る世界」
  へと置き換えてモデル化したもの

B 「門」を中心にした水平モデル
 ○門の向こう側の「よみがえりのいのちの世界」が、門の手前の「善悪の知識の世
  界」に表現されたもの
 ○門を越えた反対側から「善悪の世界に表現された死とよみがえり」また、「目に見え
  る事実に隠された目に見えない真実」を見つめなければ、たとえの本当の内容はわ
  からない
 ○このふたつの世界の間に門があり垂れ幕がある実体は人の子イエスの十字架

C 「目に見えて手で触れることの出来る世界」とは・・・・
  「模型」や「影」としての価値と
  その役割の限界

  ・一時的なもの
  ・バーチャルなもの
  ・部分的(断片的)なもの
  ・コンパクトに凝縮されたもの
  ・ベールに覆われたぼんやりしたもの

 ◇ユダヤ人に特化された恩恵
  ・「模型」=「幕屋」(ヘブル9:24) 
  ・「影」=「律法」(ヘブル10:1)

 ◇異邦人も含む全人類に示された恩恵 
  ・広義では、目に見えて手で触ることができる世界のすべて」を指して「模型」あるい
   は「影」という表現でよい(ヘブル11:2)
  ・「神の目に見えない本性は被造物によって明らかにされている」(ローマ1:20)
       ※ 目に見える世界から、「みことばの啓示」によらず、目に見えない世界を
         想像すると「宗教」が生まれる
       ※「模型」や「型」に栄光を与えることが偶像礼拝の本質

D 「実物」(ヘブル10:1)「実体」(ヘブル11:1)とは・・・ 
  すべての模型や型を終わらせたイエスの顕現 
 ○ヨハネは、永遠のロゴスを「聞いて、見て、手でさわった」と表現した
  (Ⅰヨハネ1:1)
 ○パウロは、御子は「見えない神のかたち」であり、「神の本質」なのだと説明した
  (コロサイ1:15~20)
 ○天の御国の本質である「人格的な交わり」はすでに始まっている
 ○「地上にいながらにして天を味わう」ことのすばらしさ分かち合うこと
 ○立場と状態を矛盾なく結びつけるのが信仰
 ○失望に終わらない希望と言いようのない心のうめき
 ○喜びと葛藤は聖霊の内住の証拠

E 十字架が生むパラドックス(逆説的真理)
 ○可視的世界の体験のひとつひとつは十字架によって反転して霊的な世界へとつな
  がる
 ○霊的な世界の常識を善悪の世界中に移すと逆説的に感じられることが多い
 ○十字架があるから「悲しむ者」や「迫害されている者」も幸い

F ぶどう園の主人と私
 ○ポイントは「ぶどう園で働くこと」でも「報酬を受けること」でもない
 ○「主人がどういう人格なのか」ということが最大のポイント
 ○「良いこと」じゃなくて大事なのは「良い方」(マタイ19:17)
 ○主人は一人ひとりに同じだけの愛や恵みを注ぎたい気前の良い方
 ○自分の苦労を語り出すなら要注意(マタイ20:12)
 ○「友よ」という語りかけの中に主人の農園経営に対する深い理念や哲学が反映され
  ている

G 教会とは
 ○目に見える世界で目に見えない霊的な価値を生み出す農園
 ○「模型」や「影」がその役割を終えた世界で唯一永遠の価値を生み出すために機能
  している存在

7月6日 あとの者が先になる (イエスのたとえ話⑯)

 マタイ20:1~16

イエスは天の御国を実にいろいろなものにたとえてくださっています。その中には、とても不思議な内容のものがたくさんあります。それは、地上にいる私たちに天の御国とはどのようなものなのか、その「本質的な意味や価値」を「具体的な手応え」をもって伝えるためです。今日のメッセージの前半は、もう一度「たとえとは何なのか」ということを整理してみたいと思います。後半は、「ぶどう園のたとえ」を具体的に学んでいきます。たとえは、「霊的な目に見えない世界」を「物質的な目に見えて手で触ることの出来る世界」へと置き換えてモデル化したものです。「羊の門」や「狭き門」との関連で説明すると、門の向こう側の「よみがえりのいのちの世界」を門の手前の「善悪の知識の世界」に表現したことになるわけです。ですから、門を越えた反対側から「善悪の世界に表現された死とよみがえり」また、「目に見える事実に隠された目に見えない真実」を見つめなければ、たとえの本当の内容は正しく理解できないのです。目に見える現実が目に見えない真実を覆い隠していますが、信仰の目は、現実の中に埋もれた真実を見極めることができます。
「目に見えて手で触れることの出来る世界」は、誰にとっても疑いようのないほどリアルなものでしょうが、みことばは、それは「一時的」であり、どんなにすばらしく思えても、逆に辛く感じても、「やがて過ぎ去り終わってしまうのだ」と教えています。ですから、いくらリアルに見えても実際にはバーチャルなものだと言っているのです。その辛い感じ、「痛み」や「悲しみ」という歓迎したくないものも、ふたつの世界がつながっている者にとっては、大切な「教訓」「訓練」としての意味を持っていますが、ふたつの世界が切り離されたままでは、「痛み」や「悲しみ」は「ただの不幸せ」でしかないということになります。(ヘブル12:11)(Ⅰペテロ1:6~7)「目に見えて手で触れることの出来る世界」で味わうことができるのは、すべて部分的なものであり、コンパクトに凝縮されたものです。そして、ベールに覆われたぼんやりしたものです。それは決して無意味で無価値なものではありませんが、先ほども申し上げたように、それ自体の中で完結してしまうとしたら、極めて残念なことだと言わねばなりません。それは、ハリウッド映画を観たことのない子どもがUSJで遊んでいるようなものです。映画を観てからならUSJのアトラクションの価値や意味が具体的にわかります。逆に、キャラクターのデザインやアトラクションだけを手がかりにして映画を想像するのは、けっこう難しいはずです。歪んだ神様像や天国のイメージはそのような空想から生まれるわけです。
「目に見えて手で触れることのできる世界」、それは「模型」や「影」のようなもので、その「実物」(ヘブル10:1)「実体」(ヘブル11:1)は目に見えない霊的な世界にあります。その世界の中心は人の子イエスであり、その世界は「いつまでも変わることなく続く」ものです。天地を造られた神御自身が「人となって」私たちの間に住まわれた。その永遠のロゴスをヨハネは、「聞いて、見て、手でさわった」と表現したのです。(Ⅰヨハネ1:1)イエスは「模型」でも「影」でもありません。神の「実物」であり、「実体」そのものが目に見える世界に顕現したものです。パウロは、御子は「見えない神のかたち」であり、「満ち満ちた神の本質」なのだと説明しています。(コロサイ1:15~20)例えば家を建てる場合、建築士は設計図に基づいて模型を造り依頼主に見せます。依頼主は模型を見て、これから建つ家に対するイメージに持つことが出来、そこで家族とともに幸せに暮らすことを思いめぐらすでしょう。模型がいかに良くできていようと、それが実際の建設や、そこで住むことにつながらなければ、その模型は意味を果たしたとは言えません。(ヘブル11:1)
模型を作るのは、実物をイメージさせるためであり、家を建てるのは、そこに住んで家族と幸せに暮らすためです。間のプロセスとばせば、模型を作るのは幸せに暮らすためです。いつの間にか、目的を離れてこれらがすべてバラバラになってしまったのです。掟の中に縛られることや罪の意識に苦しむことは幸せではありません。人は模型の中にも、イメージの中に住むことは出来ないのです。「わたしの家には住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2)とイエスはおっしゃっています。居場所があるという確約は素晴らしいものですが、その価値と本質はイエス御自身との人格的な交わりにあります。そしてさらに重要なことは、それは天においてやがて実現するのではなくすでに始まっているということです。実際に家が建ってみればわかるように、すべては天の御国へ行けば明らかになるわけですが、主は、「地上にいながらにして天を味わう」ことのすばらしさを何とか分かち合いたいとお考えなのです。それは可能なのでしょうか。「二人でも三人でも私の名において集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)「見よ。私は、世の終わりまでいつも、あなたがたとともにイル」(マタイ28:20)これは将来の天における約束ではなく、今まさにこの「世」において、「地上」において主はともにいてくださるという約束です。ですから、この世が「模型」や「影」であると言っても、決して私たちの日常の営みはどうでもよいという意味ではありません。「すべては死後の来たるべき世界、目に見えぬ別次元の世界のことだから、そのことを強く思ったり念じたりしなさい」という意味でもありません。私たちの意識や感覚が実際の生活を軽視し、専ら祈りや瞑想の世界へ導かれるとしたら、それはどこか違っています。それは人の宗教であり。善悪の知識の中で、神様のイメージを歪めているだけです。1タラントを地に埋めて、勝手に厳しい主人の影におびえているだけなのです。
「模型」や「影」のたとえをもう少し厳密に追求しましょう。「目に見えて手で触ることができる世界」は信仰を持ってもずっと続いていますが、同時にそれはもう既に終わっているのです。既に終わっているのですが、それは続いています。主は言われました。「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)主はよみがえりであり、いのちですが、私たちはよみがえりでも、いのちでもありません。主を信じる場合において、主のいのちは私のいのちとなり、私の中で主はよみがえります。しかし、私たちは死を免れることは出来ません。私たちは信仰によってよみがりを得ていますが、確実に死ぬのです。この立場と状態を矛盾なく結びつけるのが信仰であり、その信仰を可能にするのは、善悪ではなくていのちです。いのちの結果、私たちには誰にも奪われることのない失望に終わらない希望と言いようのない心のうめきがあるはずです。それらの喜びと葛藤は聖霊の内住の証拠です。(Ⅰペテロ1:8~9)(ローマ8:21~25)正確に言えば、聖書が「模型」と呼んでいるのは「幕屋」のことで、(ヘブル9:24)「影」と呼んでいるのは「律法」のことです。(ヘブル10:1)私は、もっと広い意味で「目に見えて手で触ることができる世界のすべて」を指して「模型」あるいは「影」という表現をよく使います。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを知り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」(ヘブル11:2)と書かれているからです。クリスチャンはこの「模型」や「影」の世界に身をおきながら、もう一つ異なる次元の喜びやリアリティ―を常に経験することが許されています。幕屋や律法に限らず、この世界はイエスの模型やキリストの影で満ちています。幕屋や律法はユダヤ人に特化された恩恵ですが、異邦人にとっても「神の目に見えない本性は被造物によって明らかにされている」とパウロは語っています。(ローマ1:20)しかし、「模型」や「影」は実物と出会い、実体を味わえば、意味や価値は大きく目減りします。ユダヤのしきたりや律法も、大自然のすばらしさも、それ自体をイエスの本質に変えて、あるいは付け加えて、ことさらに尊重すべきではありません。「模型」や「影」に栄光を与えることが偶像礼拝につながるのです。
さらに、クリスチャンにとっては、可視的世界の体験のひとつひとつは十字架によって反転して霊的な世界へとつながります。そのような感覚で十字架を通して日常を受け止めることによって、「悲しむ者」や「迫害されている者」が時として幸いであるとわかるのです。今日のメッセージの主題にもあるように、「あとの者が先になる」ということもおこります。霊的な世界の常識を善悪の中に移すと、それが逆説的に感じられることが多いのです。しかし、門の手前の善悪や道徳の世界の中だけでは、「悲しむ者や迫害されている者がどうして幸いなのか」を説明することなどできません。イエスは、ある金持ち全身おできの貧乏人ラザロと話をなさいましが、これはたとえではなく、黄泉の世界のひとつの実例を出されたわけです。(ルカ16:19~31)死を境に、金持ちとラザロの立場は逆転しています。私たちは生きているときも、死んでからも、自分の力で「獲得する」のではなく、一方的に神から「受ける」のです。(ルカ16:25)そのことをしっかり心に刻む必要があります。      今日見る箇所では、天の御国は「ぶどう園の主人」にたとえられています。(マタイ20:1~16)このたとえは、普通に読むと非常に不思議なところにポイントがおかれています。天の御国は「ぶどう園で働くこと」でも、「報酬を受けること」でもありません。中心は労働にも報酬にもありません。中心は労働者ではなく、主人なのです。「主人がどういう人格なのか」ということが最大のポイントなのです。宗教は、私たちの信仰の姿勢や私たちが差し出すもの問うのですが、聖書は一貫してそんなことは言っていません。以前にもお話しましたが、「放蕩息子のたとえ」の主人公は放蕩息子ではありません。「お父さん」です。お父さんがどういう人格かということがポイントでした。このたとえも、よく目にする「ぶどう園の労務者のたとえ」という表現は適当ではありません。むしろ、「ぶどう園の主人のたとえ」なのです。「結婚の披露宴のたとえ」でも、ポイントは花婿でも花嫁でもなく、披露宴そのものでもなく、「披露宴を設けた王」の思いや言動にあります。「天の御国に入るため、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたらよいのか」という問いにイエスが答えられたのは、「良いこと」じゃなくて大事なのは「良い方」つまり、その「良い御方の人格」であって、それは父おひとりを指しているのでした。(マタイ19:17)これも鍵になるみことばです。 それでは、このたとえに出てくるぶどう園主人の人格をとらえるために、細かく読んでいきましょう。主人ははじめから労務者たちと1日1デナリの約束をしました。主人は夕方になって約束通り1デナリ支払いました。ですから何の問題もないはずなのですが、ここで問題が発生しました。同じ報酬をもらった各人の働きぶりが違っていたからです。仕事終了時刻は同じですが、働き始めた時間はバラバラでした。それぞれ、朝早く、9時頃、12時頃、3時頃、5時頃です。報酬はどの人も一律に1デナリですから、時給に換算してみるとなるほど確かにずいぶん差が出ます。1時間働いた人と1日働いた人が同じ報酬と言うのは、1日は働いた人にとっては納得がいかないわけです。表面的には、主人が過剰に支払い、後から来た人は得をしたことになります。しかし、早くから働いている人が損をしたわけではありません。主人の常識はずれの気前よさのせいで、相対的に見ると「損をしたような気分」になっているだけです。
スーパーでも値札が半額になるのを狙って、定休日の前の夕方に買い物に行く人がいますが、天の御国もそれと同じで、「死ぬ間際に告白したり、せいぜい放蕩三昧した後に救われるのが御お得ですよ」というようなたとえなのでしょうか。しかし、スーパーでシールが貼られる前に買い物をしたところで、それが欲しいから買うのであって、法外な値段で押し売りされたわけでもないし、損をしたわけでもありません。欲しくなければ買わなければいいのです。本当はそれほど欲しくもないのに、人につられたりして買ってしまうから、他の人が気になって「得した」「損した」と騒ぐのです。文句を言う人、信仰のない人は、必ず人と比べてどうこう言います。アベルをねたんで殺したカイン、ヨセフを売った兄弟たち、モーセに腹を立てるミリアム、マリヤを引き合いに出すマルタ、取税人を見下して自分を義人だとするパリサイ人、みんな同じです。そして、受けた恩恵ではなく、自分の苦労を語り出すのです。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」(マタイ20:12)このような訴えに対し、主人は「友よ」と語りかけています。主人と日雇い労働者は当然、友達ではありません。従って、雇用者に対する「友よ」という呼びかけは非常に奇妙で不自然なものです。しかし、この「友よ」という語りかけの中に、この主人の農園経営に対する深い理念や哲学が反映されています。つまり、神はこの世界の中に、霊的な価値を生み出すひとつの農園を作られました。それが「教会」です。そこに加わることの価値、意味を理解し、そのために労することは、それ自体が「喜び」であり「報酬」なのです。もちろん、それは「労苦」や「暑さ」を伴うつらさもありますが、そのひとつひとつの中に発見があるはずです。ポイントは、私たちが何をするかではなく、「主人が一人ひとりに同じだけの愛や恵みを注ぎたい気前の良い方だ」ということです。その方がいつも私たちの中心におられるのです。誰よりも早く農園に来て、誰よりも汗を流し、働いておられる御方のことを知ることです。私たちが農園のためにどれだけ労したかではなく、少しでも農園のプロジェクト、つまり教会の奉仕に関わっていること自体が極めて大きな恵みなのです。さらに言うなら、「教会」こそが、模型や影がその役割を終えた世界で唯一永遠の価値を生み出すために機能している存在なのです。