2008年7月17日木曜日

7月6日 あとの者が先になる (イエスのたとえ話⑯)

 マタイ20:1~16

イエスは天の御国を実にいろいろなものにたとえてくださっています。その中には、とても不思議な内容のものがたくさんあります。それは、地上にいる私たちに天の御国とはどのようなものなのか、その「本質的な意味や価値」を「具体的な手応え」をもって伝えるためです。今日のメッセージの前半は、もう一度「たとえとは何なのか」ということを整理してみたいと思います。後半は、「ぶどう園のたとえ」を具体的に学んでいきます。たとえは、「霊的な目に見えない世界」を「物質的な目に見えて手で触ることの出来る世界」へと置き換えてモデル化したものです。「羊の門」や「狭き門」との関連で説明すると、門の向こう側の「よみがえりのいのちの世界」を門の手前の「善悪の知識の世界」に表現したことになるわけです。ですから、門を越えた反対側から「善悪の世界に表現された死とよみがえり」また、「目に見える事実に隠された目に見えない真実」を見つめなければ、たとえの本当の内容は正しく理解できないのです。目に見える現実が目に見えない真実を覆い隠していますが、信仰の目は、現実の中に埋もれた真実を見極めることができます。
「目に見えて手で触れることの出来る世界」は、誰にとっても疑いようのないほどリアルなものでしょうが、みことばは、それは「一時的」であり、どんなにすばらしく思えても、逆に辛く感じても、「やがて過ぎ去り終わってしまうのだ」と教えています。ですから、いくらリアルに見えても実際にはバーチャルなものだと言っているのです。その辛い感じ、「痛み」や「悲しみ」という歓迎したくないものも、ふたつの世界がつながっている者にとっては、大切な「教訓」「訓練」としての意味を持っていますが、ふたつの世界が切り離されたままでは、「痛み」や「悲しみ」は「ただの不幸せ」でしかないということになります。(ヘブル12:11)(Ⅰペテロ1:6~7)「目に見えて手で触れることの出来る世界」で味わうことができるのは、すべて部分的なものであり、コンパクトに凝縮されたものです。そして、ベールに覆われたぼんやりしたものです。それは決して無意味で無価値なものではありませんが、先ほども申し上げたように、それ自体の中で完結してしまうとしたら、極めて残念なことだと言わねばなりません。それは、ハリウッド映画を観たことのない子どもがUSJで遊んでいるようなものです。映画を観てからならUSJのアトラクションの価値や意味が具体的にわかります。逆に、キャラクターのデザインやアトラクションだけを手がかりにして映画を想像するのは、けっこう難しいはずです。歪んだ神様像や天国のイメージはそのような空想から生まれるわけです。
「目に見えて手で触れることのできる世界」、それは「模型」や「影」のようなもので、その「実物」(ヘブル10:1)「実体」(ヘブル11:1)は目に見えない霊的な世界にあります。その世界の中心は人の子イエスであり、その世界は「いつまでも変わることなく続く」ものです。天地を造られた神御自身が「人となって」私たちの間に住まわれた。その永遠のロゴスをヨハネは、「聞いて、見て、手でさわった」と表現したのです。(Ⅰヨハネ1:1)イエスは「模型」でも「影」でもありません。神の「実物」であり、「実体」そのものが目に見える世界に顕現したものです。パウロは、御子は「見えない神のかたち」であり、「満ち満ちた神の本質」なのだと説明しています。(コロサイ1:15~20)例えば家を建てる場合、建築士は設計図に基づいて模型を造り依頼主に見せます。依頼主は模型を見て、これから建つ家に対するイメージに持つことが出来、そこで家族とともに幸せに暮らすことを思いめぐらすでしょう。模型がいかに良くできていようと、それが実際の建設や、そこで住むことにつながらなければ、その模型は意味を果たしたとは言えません。(ヘブル11:1)
模型を作るのは、実物をイメージさせるためであり、家を建てるのは、そこに住んで家族と幸せに暮らすためです。間のプロセスとばせば、模型を作るのは幸せに暮らすためです。いつの間にか、目的を離れてこれらがすべてバラバラになってしまったのです。掟の中に縛られることや罪の意識に苦しむことは幸せではありません。人は模型の中にも、イメージの中に住むことは出来ないのです。「わたしの家には住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2)とイエスはおっしゃっています。居場所があるという確約は素晴らしいものですが、その価値と本質はイエス御自身との人格的な交わりにあります。そしてさらに重要なことは、それは天においてやがて実現するのではなくすでに始まっているということです。実際に家が建ってみればわかるように、すべては天の御国へ行けば明らかになるわけですが、主は、「地上にいながらにして天を味わう」ことのすばらしさを何とか分かち合いたいとお考えなのです。それは可能なのでしょうか。「二人でも三人でも私の名において集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)「見よ。私は、世の終わりまでいつも、あなたがたとともにイル」(マタイ28:20)これは将来の天における約束ではなく、今まさにこの「世」において、「地上」において主はともにいてくださるという約束です。ですから、この世が「模型」や「影」であると言っても、決して私たちの日常の営みはどうでもよいという意味ではありません。「すべては死後の来たるべき世界、目に見えぬ別次元の世界のことだから、そのことを強く思ったり念じたりしなさい」という意味でもありません。私たちの意識や感覚が実際の生活を軽視し、専ら祈りや瞑想の世界へ導かれるとしたら、それはどこか違っています。それは人の宗教であり。善悪の知識の中で、神様のイメージを歪めているだけです。1タラントを地に埋めて、勝手に厳しい主人の影におびえているだけなのです。
「模型」や「影」のたとえをもう少し厳密に追求しましょう。「目に見えて手で触ることができる世界」は信仰を持ってもずっと続いていますが、同時にそれはもう既に終わっているのです。既に終わっているのですが、それは続いています。主は言われました。「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)主はよみがえりであり、いのちですが、私たちはよみがえりでも、いのちでもありません。主を信じる場合において、主のいのちは私のいのちとなり、私の中で主はよみがえります。しかし、私たちは死を免れることは出来ません。私たちは信仰によってよみがりを得ていますが、確実に死ぬのです。この立場と状態を矛盾なく結びつけるのが信仰であり、その信仰を可能にするのは、善悪ではなくていのちです。いのちの結果、私たちには誰にも奪われることのない失望に終わらない希望と言いようのない心のうめきがあるはずです。それらの喜びと葛藤は聖霊の内住の証拠です。(Ⅰペテロ1:8~9)(ローマ8:21~25)正確に言えば、聖書が「模型」と呼んでいるのは「幕屋」のことで、(ヘブル9:24)「影」と呼んでいるのは「律法」のことです。(ヘブル10:1)私は、もっと広い意味で「目に見えて手で触ることができる世界のすべて」を指して「模型」あるいは「影」という表現をよく使います。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを知り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」(ヘブル11:2)と書かれているからです。クリスチャンはこの「模型」や「影」の世界に身をおきながら、もう一つ異なる次元の喜びやリアリティ―を常に経験することが許されています。幕屋や律法に限らず、この世界はイエスの模型やキリストの影で満ちています。幕屋や律法はユダヤ人に特化された恩恵ですが、異邦人にとっても「神の目に見えない本性は被造物によって明らかにされている」とパウロは語っています。(ローマ1:20)しかし、「模型」や「影」は実物と出会い、実体を味わえば、意味や価値は大きく目減りします。ユダヤのしきたりや律法も、大自然のすばらしさも、それ自体をイエスの本質に変えて、あるいは付け加えて、ことさらに尊重すべきではありません。「模型」や「影」に栄光を与えることが偶像礼拝につながるのです。
さらに、クリスチャンにとっては、可視的世界の体験のひとつひとつは十字架によって反転して霊的な世界へとつながります。そのような感覚で十字架を通して日常を受け止めることによって、「悲しむ者」や「迫害されている者」が時として幸いであるとわかるのです。今日のメッセージの主題にもあるように、「あとの者が先になる」ということもおこります。霊的な世界の常識を善悪の中に移すと、それが逆説的に感じられることが多いのです。しかし、門の手前の善悪や道徳の世界の中だけでは、「悲しむ者や迫害されている者がどうして幸いなのか」を説明することなどできません。イエスは、ある金持ち全身おできの貧乏人ラザロと話をなさいましが、これはたとえではなく、黄泉の世界のひとつの実例を出されたわけです。(ルカ16:19~31)死を境に、金持ちとラザロの立場は逆転しています。私たちは生きているときも、死んでからも、自分の力で「獲得する」のではなく、一方的に神から「受ける」のです。(ルカ16:25)そのことをしっかり心に刻む必要があります。      今日見る箇所では、天の御国は「ぶどう園の主人」にたとえられています。(マタイ20:1~16)このたとえは、普通に読むと非常に不思議なところにポイントがおかれています。天の御国は「ぶどう園で働くこと」でも、「報酬を受けること」でもありません。中心は労働にも報酬にもありません。中心は労働者ではなく、主人なのです。「主人がどういう人格なのか」ということが最大のポイントなのです。宗教は、私たちの信仰の姿勢や私たちが差し出すもの問うのですが、聖書は一貫してそんなことは言っていません。以前にもお話しましたが、「放蕩息子のたとえ」の主人公は放蕩息子ではありません。「お父さん」です。お父さんがどういう人格かということがポイントでした。このたとえも、よく目にする「ぶどう園の労務者のたとえ」という表現は適当ではありません。むしろ、「ぶどう園の主人のたとえ」なのです。「結婚の披露宴のたとえ」でも、ポイントは花婿でも花嫁でもなく、披露宴そのものでもなく、「披露宴を設けた王」の思いや言動にあります。「天の御国に入るため、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたらよいのか」という問いにイエスが答えられたのは、「良いこと」じゃなくて大事なのは「良い方」つまり、その「良い御方の人格」であって、それは父おひとりを指しているのでした。(マタイ19:17)これも鍵になるみことばです。 それでは、このたとえに出てくるぶどう園主人の人格をとらえるために、細かく読んでいきましょう。主人ははじめから労務者たちと1日1デナリの約束をしました。主人は夕方になって約束通り1デナリ支払いました。ですから何の問題もないはずなのですが、ここで問題が発生しました。同じ報酬をもらった各人の働きぶりが違っていたからです。仕事終了時刻は同じですが、働き始めた時間はバラバラでした。それぞれ、朝早く、9時頃、12時頃、3時頃、5時頃です。報酬はどの人も一律に1デナリですから、時給に換算してみるとなるほど確かにずいぶん差が出ます。1時間働いた人と1日働いた人が同じ報酬と言うのは、1日は働いた人にとっては納得がいかないわけです。表面的には、主人が過剰に支払い、後から来た人は得をしたことになります。しかし、早くから働いている人が損をしたわけではありません。主人の常識はずれの気前よさのせいで、相対的に見ると「損をしたような気分」になっているだけです。
スーパーでも値札が半額になるのを狙って、定休日の前の夕方に買い物に行く人がいますが、天の御国もそれと同じで、「死ぬ間際に告白したり、せいぜい放蕩三昧した後に救われるのが御お得ですよ」というようなたとえなのでしょうか。しかし、スーパーでシールが貼られる前に買い物をしたところで、それが欲しいから買うのであって、法外な値段で押し売りされたわけでもないし、損をしたわけでもありません。欲しくなければ買わなければいいのです。本当はそれほど欲しくもないのに、人につられたりして買ってしまうから、他の人が気になって「得した」「損した」と騒ぐのです。文句を言う人、信仰のない人は、必ず人と比べてどうこう言います。アベルをねたんで殺したカイン、ヨセフを売った兄弟たち、モーセに腹を立てるミリアム、マリヤを引き合いに出すマルタ、取税人を見下して自分を義人だとするパリサイ人、みんな同じです。そして、受けた恩恵ではなく、自分の苦労を語り出すのです。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」(マタイ20:12)このような訴えに対し、主人は「友よ」と語りかけています。主人と日雇い労働者は当然、友達ではありません。従って、雇用者に対する「友よ」という呼びかけは非常に奇妙で不自然なものです。しかし、この「友よ」という語りかけの中に、この主人の農園経営に対する深い理念や哲学が反映されています。つまり、神はこの世界の中に、霊的な価値を生み出すひとつの農園を作られました。それが「教会」です。そこに加わることの価値、意味を理解し、そのために労することは、それ自体が「喜び」であり「報酬」なのです。もちろん、それは「労苦」や「暑さ」を伴うつらさもありますが、そのひとつひとつの中に発見があるはずです。ポイントは、私たちが何をするかではなく、「主人が一人ひとりに同じだけの愛や恵みを注ぎたい気前の良い方だ」ということです。その方がいつも私たちの中心におられるのです。誰よりも早く農園に来て、誰よりも汗を流し、働いておられる御方のことを知ることです。私たちが農園のためにどれだけ労したかではなく、少しでも農園のプロジェクト、つまり教会の奉仕に関わっていること自体が極めて大きな恵みなのです。さらに言うなら、「教会」こそが、模型や影がその役割を終えた世界で唯一永遠の価値を生み出すために機能している存在なのです。