あとの者が先になる (イエスのたとえ話 16 )
マタイ20:1~16
A たとえとは何か
○地上にいる私たちに天の御国とはどのようなものなのか、その「本質的な意味や価
値」を「具体的な手応え」をもって伝えるため
○「霊的な目に見えない世界」を「物質的な目に見えて手で触ることの出来る世界」
へと置き換えてモデル化したもの
B 「門」を中心にした水平モデル
○門の向こう側の「よみがえりのいのちの世界」が、門の手前の「善悪の知識の世
界」に表現されたもの
○門を越えた反対側から「善悪の世界に表現された死とよみがえり」また、「目に見え
る事実に隠された目に見えない真実」を見つめなければ、たとえの本当の内容はわ
からない
○このふたつの世界の間に門があり垂れ幕がある実体は人の子イエスの十字架
C 「目に見えて手で触れることの出来る世界」とは・・・・
「模型」や「影」としての価値と
その役割の限界
・一時的なもの
・バーチャルなもの
・部分的(断片的)なもの
・コンパクトに凝縮されたもの
・ベールに覆われたぼんやりしたもの
◇ユダヤ人に特化された恩恵
・「模型」=「幕屋」(ヘブル9:24)
・「影」=「律法」(ヘブル10:1)
◇異邦人も含む全人類に示された恩恵
・広義では、目に見えて手で触ることができる世界のすべて」を指して「模型」あるい
は「影」という表現でよい(ヘブル11:2)
・「神の目に見えない本性は被造物によって明らかにされている」(ローマ1:20)
※ 目に見える世界から、「みことばの啓示」によらず、目に見えない世界を
想像すると「宗教」が生まれる
※「模型」や「型」に栄光を与えることが偶像礼拝の本質
D 「実物」(ヘブル10:1)「実体」(ヘブル11:1)とは・・・
すべての模型や型を終わらせたイエスの顕現
○ヨハネは、永遠のロゴスを「聞いて、見て、手でさわった」と表現した
(Ⅰヨハネ1:1)
○パウロは、御子は「見えない神のかたち」であり、「神の本質」なのだと説明した
(コロサイ1:15~20)
○天の御国の本質である「人格的な交わり」はすでに始まっている
○「地上にいながらにして天を味わう」ことのすばらしさ分かち合うこと
○立場と状態を矛盾なく結びつけるのが信仰
○失望に終わらない希望と言いようのない心のうめき
○喜びと葛藤は聖霊の内住の証拠
E 十字架が生むパラドックス(逆説的真理)
○可視的世界の体験のひとつひとつは十字架によって反転して霊的な世界へとつな
がる
○霊的な世界の常識を善悪の世界中に移すと逆説的に感じられることが多い
○十字架があるから「悲しむ者」や「迫害されている者」も幸い
F ぶどう園の主人と私
○ポイントは「ぶどう園で働くこと」でも「報酬を受けること」でもない
○「主人がどういう人格なのか」ということが最大のポイント
○「良いこと」じゃなくて大事なのは「良い方」(マタイ19:17)
○主人は一人ひとりに同じだけの愛や恵みを注ぎたい気前の良い方
○自分の苦労を語り出すなら要注意(マタイ20:12)
○「友よ」という語りかけの中に主人の農園経営に対する深い理念や哲学が反映され
ている
G 教会とは
○目に見える世界で目に見えない霊的な価値を生み出す農園
○「模型」や「影」がその役割を終えた世界で唯一永遠の価値を生み出すために機能
している存在