2008年7月18日金曜日

7月13日 悪い農夫のたとえ (イエスのたとえ話 17)

マタイ21:33~46  マルコ13:1~12  ルカ20:9~18

「イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話にならなかった。」(マタイ13:34)とマタイは書いています。しかも、そのような話し方をされることは預言の成就であるともつけ加えています。(マタイ13:35,詩編78:2)たとえ話だけが、「目に見える世界」と「目に見えない世界」を結びつけるのです。たとえ話は、「目に見えない真実」を「目に見える現実」の中に隠します。みことばは、目に見えない世界に入るための「隠された狭き門」です。「ナルニア国物語」で言えば、ナルニアへと続く洋服ダンスです。ルイスも当然それを意識して書いています。私たちはコートをかきわけて入るのではなく、引き裂かれたイエスの肉体の垂れ幕を通るのです。それがしるしです。たとえを学ぶとき、イエスのからだを意識することはとても重要なことです。洋服ダンスの中で子どもたちがコートに包まれている感じをイメージしてください。私たちは信仰によってイエスのからだに包まれているからこそ、目に見えない世界を見ることができるのです。みことばをことばの上だけで論じているだけなら、それは洋服ダンスで戯れる猫のような楽しみで終わりです。洋服ダンスを突き抜けて向こう側の世界へ行く必要があります。たとえはすべて「十字架のことば」であり、「十字架につけられたキリスト」です。それは、「人の強さ」を砕く「神の弱さ」であり、「人の知恵」に勝る「神の愚かさ」なのです。「しるし」を求めるユダヤ人も、「知恵」を求めるギリシャ人にとっても、十字架は大きなつまずきとなりました。十字架がわからなければたとえは目に見える世界のお人好しの道徳に過ぎません。(Ⅰコリント1:18~25)
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)とヨハネは言っています。これは、世の知者を自負する人たちとっては、実におもしろくない受け入れがたい事実なのです。人は自分の知恵と力で神のわざを解き明かしたいという欲望を持っています。目に見える世界が素晴らしい法則に貫かれ、さまざまな恩恵を与えてくれるのは、神がそのようにお造りになったからで、人が発見したり、産み出したりしたわけではありません。それなのに、人は本来へ栄光を受けるべき神を崇めず、自らの知恵と力を誇り、感謝することなくただ恩恵を受けています。今日のキーワードは、「横取り」(ヨハネ7:16~18)あるいは、すり替え(ローマ1:21~23)です。
 それでは、「悪い農夫のたとえ」を見ていきます。(ルカ20:9~18)いつも申し上げているように、たとえ話を正しく理解するためには、「どういう状況で」「誰に対して」「何のために」語られたのかを知らねばなりません。この「悪い農夫のたとえ」は、イエスが、祭司長、律法学者、長老たちと「権威について」の問答をされた後、「民衆に対して」語られたものです。さらに、そのたとえを聴き終えた後の様子について、ルカは直接語られた民衆の反応については触れずに、横で聴いていた律法学者や祭司長たちのことを記しています。イエスはたとえを語りっぱなしで終わるわけではありません。イエスは常に相手の「聞く力に応じて」(マルコ4:33)語られています。それは必ずしも「100%理解して受け入れることが出来ることばだけを語る」という意味ではありません。イエスは、聞く者の霊を見極めて語られ、その聞き方を評価されるということです。「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた。」(ルカ20:19)たとえ自体の中にも、「あれは、あと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」(ルカ20:14)という農夫たちの発言があります。つまり、律法学者やパリサイ人は、イエスさまが誰なのかをわかっていて拒んだのです。無知と愚かさのゆえに扇動にのせられて「十字架につけろ」と叫んでいた群衆よりも、指導者たちの罪は遙かに重いのだということがわかります。そして、悪い農夫たちは息子をぶどう園の外で殺してしまいます。それは、予め指導者たちの反応を知っておられた主が、それさえもたとえ話の中に組み込んでおられるのです。ひとしきりたとえを語られた後に、「こうなると、ぶどう園の主人はどうするでしょう。」と主はたとえを聞いていた民衆に問われました。「彼は、戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」と答えます。ルカの福音書では、イエス御自身がたとえ話の結末として、その中でひと続きに語っておられるような書き方をしていますが、マタイの福音書を見ると、この部分は聞き手である民衆が答えています。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」(マタイ21:41) これは、面白い部分です。民衆はたとえを受け入れて、きちんと筋通りに答えています。悪党とはだれでしょう。それは勿論律法学者であり、祭司長を指しているわけですが、民衆がそれを意識して答えたとは思えません。しかし、律法学者やパリサイ人にはそれが自分たちを指していることがわかります。 つまり、このたとえの意味を受け入れた人たちは理解できず、理解できた人たちは受け入れなかったのです。今日新約聖書の3つの福音書に記されたこのたとえを教会時代の私たちはどう読んでいるでしょうか。たとえを自分との関わりの中で読むことがなければ、話のアウトラインを理解できたとしても、何の意味もありません。「本当に悪い農夫だなあ」でおしまいです。また、自分のことを言われているのではないかと、たとえを適用できたとしても、それを語ったイエスに対する憎しみを燃やしているようでは、さらに不幸なことです。 このように、たとえ話はどんな風にでも読むことが可能です。たとえ話は、それを聞いた人の心を映すために仕掛けられているのです。イエスは、こうも言われています。 「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちにはすべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るが見えず、聞くには聞くが悟らず悔い改めて赦されることのないため』です。」(マルコ4:11)つまり、「聞き方」や「動機」が悪ければ、決してたとえの本当の意味は解けない仕掛けなのです。さらにイエスは、次のようなことばをつけ加えておられます。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。」(マルコ4:13)ここで言う「このたとえ」とは、「種まきのたとえ」のことです。イエスは、この「種まきのたとえ」には、特別に詳しい解き明かしを加え、「なぜ自分はたとえで語るのか」を話しておられます。それは、「種まきのたとえ」が、あらゆるたとえのベースになるからです。簡単に言えば、「良い地に落ちる種しか実を結ばない」ということなのです。さて、今日の「悪い農夫のたとえ」に戻りますが、それはみなさんの心の「良い地」に落ちるでしょうか。すべてを聞き終わった群衆は、「そんなことがあってはなりません。」(ルカ20:16)と言っていますが、それは祝福が取り去られることを思ってのことばでしょうか。それとも、主人の無念に共感してのことばでしょうか。多分後者が優位でしょうが、いずれにせよ、あってはならないような悲劇が語られています。このたとえが浮き彫りにするのは、寛容すぎる主人と不忠実で残虐な小作人のすれ違いです。
この畑はぶどう園です。ぶどうは神の祝福を表します。もともとフルーツはすべて神の祝福を表しています。特に、イスラエルは「ぶどう」や「いちじく」や「オリーブ」などにたとえられてきました。この3種類の植物はそれぞれに重要な意味を持っていますが、その中でも一番重要なのはぶどうです。ぶどうという植物の持っている特徴は、非常に具体的に神の思いを反映させています。ぶどうは、1個の大きな実ではなく、小さな実が集まってひとつの房を形成しています。これは教会を意味します。縦に大きく伸びずに横へ横へと広がっていきます。ぶどうの木自体はそれを家具や建物の材として用いることはありません。実を結ぶことが大事なのです。そして何より、ぶどうはワインの原料です。勿論それはイエスの贖いの血を象徴するものです。まことのぶどうの木とは何でしょうか。それはイエス御自身です。まことの農夫とはだれでしょうか。それは父なる神です。そして、枝は教会です。実も教会です。枝も実もふくめてぶどうの木です。教会とイエスはひとつなのです。これがこの世にぶどうの木が存在する意味です。ヨハネ15章は、ぶどうについて語られた最も重要な箇所です。もともとぶどう園とはイスラエルを指していますが、それは、教会へと移行します。置き換えられるのではなく、本質と祝福が移行するのです。もちろんイスラエルも完全に祝福を失うわけではありません。「実を結ばぬいちじく」や、「接ぎ木されるオリーブ」の話を思い出してください。ですから、イスラエルをすべて教会に読み替えるという神学は、厳密には聖書的ではありません。ザアカイが救いに導かれたとき、イエスさまはこう言われました。「この人もアブラハムの子なのですから。」(ルカ19:9)これは、血統としてのアブラハムの子孫という意味ではなく、アブラハムと同じ信仰による義を受け継ぐ者という意味です。血統的にもアブラハムの子であったザアカイにあえて信仰による子孫であることを確認されたわけです。これも聞き方によっては意味の取り違いがおこります。農夫とは、欄外脚注にもあるように「小作人(tenant farmer)」です。小作人が主人を無視しテナント料を滞納し、さらに取り立てに来た者に反抗して傷つけ、その挙げ句に息子を殺害したりすれば、これはいつの時代、どこの国であれ、大変な犯罪です。小作人であるイスラエルが、歪んだ選民意識のプライドを持ち、異邦人を見下し土地の貸し主である神を認めず、預言者による再三にわたる警告を無視し、イエスを十字架につけることによって、彼らの選んだように、その血の責任を負います。イエスの十字架は、このように小作人の無能と貸し主である神の愛の深さを象徴するものとして、神が直接管理するまことのぶどう畑である教会を誕生させます。そのことによって、祝福の本質は異邦人世界へ移行するわけです。アブラハムの子は血統ではなく、信仰を受け継ぐ子を意味するようになります。サマリヤの女に語れたように、まことの礼拝者を異邦人からも募集されるようになったわけです。
このたとえ話の主人は常識はずれのお人好しです。どうして、ここまでひどい小作人に対して寛容でいられるのか不思議になります。ところが、律法学者や祭司長たちは、この信じられないような神の寛容さにも心を動されることなく、自分たちが皮肉られているととって、怒り出すわけです。変な話です。このストーリーのぎこちなさは何なのでしょう。  それは、主人である神は初めから小作人を見捨てる計画を立てられたのではないからだと思います。小作人の意志や選択が織りなした結果生まれたスト-―リーであるがゆえに「歪み」や「ねじれ」のようなものが生じ、聞く者に一種の不自然さを感じさせるのではないでしょうか。歴史には、人の意思やその決定による選択が反映しています。簡単に言えば、神がしたいようにしているわけではないということです。そんな神のみこころを知ることが出来るみことばを開きましょう。
「わたしはあなたをことごとく、純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうして、あなたは質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。」(エレミヤ2:21)「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうがなるのを待ち望んでいた。ところが酸いぶどうができてしまった。」(イザヤ5:1~2)このように、多くの預言者たちを通して、主人のぶどう園への思いを語られますが、イスラエルの反応はイエスさまのたとえどおり、エレミヤやイザヤを迫害します。今日においても、このイスラエルへの警告や、パリサイ人への叱責を教会に当てはめて真摯に受け止めるというような読み方も大切です。悔い改めて教会の享受している恩恵をもう一度見つめ直すべきでしょう。人に与えれてている自由の範囲と、良心の確かさ、そして、本当の知恵というものについて、いろいろと考えさせられます。