2009年1月22日木曜日

1月11日 メッセージのポイント

 油注がれるダビデ(ダビデの生涯と詩編①)
   Ⅰサムエル16:1~5


A ダビデの生涯に現されているのは何か
  ○イエスの生涯の型
    ダビデの生涯は、やがて来るべきキリストの歩みを予表している
  ○私たちの霊的追体験の型
    私たちの地上での歩みは、すでにダビデが歩みイエスが歩んだ道である
  ○ダビデを導き、イエスを導いた霊が、私たちのただ中におられる
    ダビデの生涯とダビデに現されたイエスの生涯をひとつにされた霊が、
    私たちを個別に取り扱って導いてくださる
  ○人となられた神イエスの時空を越えた表現(詩編18:9)
    ダビデはキリストを主と呼んでいるのに、どうして彼はダビデの子なのか  
                (マタイ22:41~45, 詩編110:1)

B 王位
  ○人間のリーダーは本来不要
    人による暫定的統治の問題点
  ○うわべによる判断
    ダビデ登場の背景としてのサウル(Ⅰサムエル9:2)
    預言者サムエルでさえ(Ⅰサムエル16:8)
  
C サウルの失敗(肉のしわざ)
  ○自身による低い自己評価(Ⅰサムエル15:17)
  ○空虚な誓いと努力(Ⅰサムエル14:24~30)
  ○自前の力を蓄えようとするやりくり(Ⅰサムエル14:52)
  ○占いと偶像礼拝の本質はみことばの軽視(Ⅰサムエル15:22~23)

D ダビデの心(聖霊のみちびき)
  ○ダビデはサウルに劣らず破廉恥で卑怯で傲慢
      →ありのままの自分をさらけだし、決して取り繕わない
                    (詩編19:12~14)
  ○ダビデの心は羊飼いの日常で養われた
      →私たちは日々何を見つめ、何を求めているのか
                    (詩編23)

1月11日 油注がれるダビデ(ダビデの生涯と詩編 ① )

 新しい年は、ダビデの生涯を見ていきたいと思います。

 旧約聖書においては、神の筆は何人か特定の人物の一生にスポットを当てて描いています。アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデに関しては、とりわけ多くのページが費やされているのはご承知のとおりです。それはなぜでしょうか。ある人物を民族の英雄として誇らせるためでしょうか。たとえユダヤ人の現状がそうであったとしても、聖書本来のねらいは、そんなところにはありません。

昨年は「たとえ話」をひもといてきました。「たとえ」が被造物の世界に現されたさまざまな霊的な原則を解き明かしたものであるとするならば、旧約に登場する人物の一生は、「イエスの生涯をいろいろな角度から照らし出したモデル」だと言えます。そしてこのポイントこそが、旧約聖書の人物伝を読み解く唯一の正しい鍵なのです。霊的な何かを得るためにはそれ以外の読み方はありません。
今年取り上げるのはダビデです。ダビデの波瀾万丈の生涯は、それ自体読み物としても非常におもしろいものです。さらに、様々な出来事の折々に残した詩編を通して、彼の心情や信仰を伺い知ることが出来ます。その一生は、イエスの予表であると同時に、私たちがイエスの地上での歩みを追体験していくときの道しるべになっているのだということを覚えてください。
私たちは、目に見える世界を、目に見える通りにではなく、さまざまなたとえを通して神の視点で評価することを学びました。しかし、私たちの周辺におこる出来事をある程度正しく理解出来たとしても、私たちがその中で生き抜いていくときに、しみじみと神の深いお取り扱いを実感するのは、少し次元の違う事柄です。そんなわけで今年は、「ダビデの生涯」と、「ダビデに現されたイエスの生涯」の学びを通して、このふたつをひとつにされた神が、今日私たち一人ひとりを個別にどのように扱っていてくださっているかを深く味わいたいと思っています。
ダビデは私たちと同じ人間であり、教会時代に生きる私たちは既に旧約の時代のダビデよりも多くのものを受けているのです。ダビデの生涯を学びながら、私たちが既に賜っているものの大きさを実感しましょう。私たちがキリストのともに歩むこの一生の価値、一日一日の重み、喜びや悲しみの意味を、主が明らかにしてくださることを期待しています。

「ダビデはキリストを主と呼んでいるのに、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:41~45,詩編110:1)とイエスは問われました。信仰のない者は、昔も今もこの質問に答えることは出来ません。この質問に答えの中には、福音の奥義があるからです。ポイントは「人の子となられた神の子」です。そこにはキリストはダビデの主である永遠の御方でありながら、ダビデの子孫として生まれてくださるという真実が預言されています。神の正しいあり方とは、「神としてのあり方を捨てること」だったのです。神が人となられるということをダビデは、「天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして」(詩編18:9)と語っています。これは永遠の神が被造物の肉体に宿り、時間や空間の制約の中にその本性を留めるという意味を持っています。
今日はダビデが油注がれる場面を見ていきます。
ダビデはサウルに代わってイスラエルの2代目の王になります。しかし、イスラエルは神が直接治める国として召されていたわけですから、王位があること自体がそもそも間違っているのです。目に見えるリーダーを求める傾向というのは、大きな失敗を産み出す根底にあることを少し心にとめてください。
人はエデンの園で罪を犯して以来、その霊的な状態は日を追う毎に堕落していきました。いわゆる族長の時代までは、人々は直接神のことばを聞いていましたが、やがて預言者が立てられ、群衆に神のことばを伝達するメッセンジャーが生まれます。その最初の預言者がこのサムエルです。しかし、イスラエルの国民は他の国と同様に王を求めるようになります。王がみことばに従っているときは、国民も一定の恩恵を得ますが、そうでなければ、国民はみなその圧政に苦しみます。そのようなリスクをサムエルはきちんと説明したのですが、それでも、民は目に見えるリーダーを求め心のよりどころとしたのです。その結果は、王国の分裂や捕囚、その後の歴史を見ても明らかです。(Ⅰサムエル8:4~22)

ですから、「ダビデのようなすばらしいリーダーを求めよう」「ダビデのようになろう」ということが私のメッセージのねらいではあり得ません。私は「人間のリーダーなど本当はいらない」「神はダビデ以上に私を大切に導いてくださる」ということを最も強くお伝えしたいのです。「信仰の勇者」だの、「祈りの戦士」だのという表現はキリスト教書店には溢れていますが、聖書にはありませんし、私も使う気はありません。確かにダビデは信仰もありましたし、深い祈りの生活をしていました。勇者でもあり、戦士でもありましたが、それをごちゃ混ぜにして英雄視することは、断じて間違っています。ダビデだけでなく、誰に対してもそのような目で見ることは間違っているのです。ダビデは美人が好きで、功名心の強い私たちと同じどこにでもいる普通の男です。逆にだからこそ全ての人に望みがあり、いかなる人生も主の前に尊いものとなり得るのです。

ダビデが王に抜擢される背景として、サウルの罪と不従順がありました。ダビデの信仰の歩みを見ていくに当たっては、サウルの不信仰と比較しながら見ていくと、よりいっそうくっきりと、神が何を評価され、どのように人を導かれるかが見えてきます。
預言者サムエルは、サウルがみこころから離れ、リーダーとしての品格や信仰を失うことを嘆き悲しんでいました。サウルの在位中に次の王になるべき人物に会いに行くのは、サムエルにとっても命がけのことです。実際にその場面を見ていきます(Ⅰサムエル16:1~13)
ベツレヘムの町の長老たちは、ただならぬ覚悟でやってきたサムエルを恐れつつ迎えます。サウルの目をごまかすために、表向きはいけにえを捧げる儀式でしたが、その実は王になる人物に油を注ぐのがねらいでした。長老たちとともに、エッサイとその子どもたちも招かれていました。
サムエルは長男のエリアブを見たとき、「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし、エリアブは主が選んだ器ではありませんでした。
主はサムエルに言われました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようにはみないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:8)これは、見栄っ張りの指導者に言われたのでもなく、軽薄な群衆に言われたのでもありません。預言者サムエルをたしなめることばでした。
人はどこまでも、目に見える恰好の良さや能力に期待するものです。こうしたことにとらわれるべきではありません。ちなみに、サウルはすばらしい美貌の持ち主でした。(Ⅰサムエル9:2)

 サムエルは順番にエッサイの子どもたちを見ていきますが、いずれもが退けられます。サムエルは仕方なく、「子どもたちはこれで全部ですか」とエッサイにたずねました。すると、もう一人末っ子が残っていました。それがダビデでした。
エッサイは家族で招かれたのに、ダビデを数のうちにいれませんでした。誰かが羊の番をしなければならなかったのかもしれないにしても、最年少であることも含んでも、「ダビデは別にいなくても問題がない」と考えていたことは間違いなさそうです。それくらい軽く影の薄い存在だったということです。
そんな時、ダビデはサムエルの前に連れて来られ、突然油を注がれました。少年ダビデは親や兄弟からも、忘れ去られているようなただの「羊飼いの少年」です。そのダビデに対し、主は「その心を見て」選ばれたと聖書は言っています。「わたしのために王を見つけた」と主に言わしめたこのダビデは、一体どこがすばらしかったのでしょうか。

私たちも、ダビデも、ダビデの兄弟たちも、そして愚かな王サウルも、罪人であるという点では全く同じです。それらは、ダビデの生涯を追っていけば、少しずつ明らかになってくるでしょう。今日は、ダビデの実像を浮かび上がらせる反面教師としてのサウルの姿をもう少し詳しく見ておきたいと思います。

サウルはアマレク人を打った際に、聖絶すべき動物の最も良いものを惜しんで残して置きました。それは主へのいけにえにするためだったと言い訳していますが、それは明らかにみことばに背く行為でした。
主はサムエルを通してサウルにこう言われました。
「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼いけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、お羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」(Ⅰサムエル15:22~23)
サウルの罪の本質は、みことばを軽んじ、従いきれなかったことです。みことばの軽視と不従順こそが、占いと偶像礼拝の本質です。占い師にたずねなくても、みことばを聞かない人は占いをしているのです。神社仏閣に詣でなくても、従わない人は偶像を拝んでいるのです。
サムエルに託された主のことばを見れば、サウルの不安がわかります。
「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされました」(Ⅰサムエル15:17)
サウルは自惚れるのではなく、「自分は小さい者にすぎない」という、ある意味では自分の力量に対して客観的に正しい評価をしていましたが、そんな自分に油を注いでくださった主に信頼しませんでした。あらゆる点で王にふさわしい力をつけようと努力して、不安をかき消そうと頑張ります。
民が苦しんでいるときに、目の前にあるおいしい蜜があるのに、くだらない誓いをたててそれを守らせようとしたり、(Ⅰサムエル14:24~30)ペリシテ人であっても、勇気や力のある者を召し抱えたりと、(Ⅰサムエル14:52)ありとあらゆる人間的なわざで、実質の欠落を埋めようとするわけです。こういうリーダーに振り回される息子も国民もたまったものではない。しかし、これこそが、民が目に見えない神に信頼せず、目に見えるリーダーを欲した結果の刈り取りだったわけです。
「蜜をなめさせない」のは、みことばに触れさせないことや、本来味わうべき人生の楽しみを奪うことの象徴でしょうし、有能なペリシテ人の登用は、いのちや信仰のない人間を能力だけでリーダーにすることの見事なモデルです。こういうことは間違いなく主のみこころを損なっているのです。神を恐れない人は神以外のものを恐れます。神に頼らない人は神以外のものに頼ります。

一方ダビデは、その一生を通じて徹底してみことばを重んじた人でした。ダビデも、サウルと同じように、あるいはそれ以上に破廉恥で卑怯で傲慢な罪を犯します。しかし、ダビデは常に神の前にありのままの自分をさらけ出し、決して取り繕うことをしませんでした。すべてを神に委ねたのです。自分で自分の道を切り開こうとはしませんでした。
ここにこそ彼が生涯にわたって祝福された秘密があります。(詩編19:12~14)
また後に詳しく見ることになりますが、その最も大きな山場は、自分のいのちを狙うサウルを殺すことができるチャンスを信仰のゆえに2度も放棄したことです。これは、ゴリアテを倒すよりも、多くの軍勢を打ち負かすよりも難しいことだったでしょう。ダビデは、自分が殺されるかも知れないということ以上に、神が油注がれた器を殺めて自らの手を穢すことを恐れたのです。ダビデはいくつかの詩編の中で自分の義を主張していますが、それは、「私は小さな善行を積み重ねました」というのではなく、「神を恐れるがゆえに神が油注いだサウルを殺さなかったことを覚えて欲しい」と訴えているのでしょう。
姦淫の罪を犯した時も、預言者ナタンのことばを真摯に受け止め心から悔い改めました。何でも出来る王という立場にあって、これもなかなか出来ないことです。別の国の異邦人の王であれば、ナタンもバプテスマのヨハネのように首を切られていたでしょう。
人口調査を行って神の怒りをかった際も、その罰を選ぶことを迫られますが、神の御手に委ねると言っています。ダビデはどこまでも神のみこころと憐れみにすがる人でした。
主は少年ダビデのそのような心をご覧になったのです。
私たちは、その心が彼の羊飼いとしての日常の中で培われたのだということを覚えておきたいと思います。(詩編23編)人の心は時間の長さや経験の量と比例して練り上げられるというものではありません。適当なことばが見あたりませんが、もっと本質的な「構え」というか、「姿勢」というか、カタカナ語でいうと、「スタンス」とか、「ベクトル」とか、そういうイメージです。「何を見ているか」「何を求めているか」という根本的な動機が一番大切ということですね。                       
       

2009年1月2日金曜日

12月21日 メッセージのポイント

くすぶる燈心(イエスのたとえ話31)  
   イザヤ42:3

A 光・あかり・ともしび
  ○太陽・・・それ自体が発光体 
  ○月・・・・表面はデコボコ 温度差 反射光
  ○灯心・・・「あかり」はみことば 「油」は聖霊 「灯心」は人間性

B あかりのたとえ
  ○マタイ5:15~16 枡の下
     →燭台の上に(箴言11:1 20:10, 23)家にいる人々全部を照らす
  ○マルコ4:21~23 枡の下・寝台の下
     →燭台の上に(Ⅱテモテ3:16~17)隠れているものは現れる
  ○ルカ8:16:17  器で隠す・寝台の下→燭台の上に(ヨハネ5:38,43)          
            入ってくる人に光が見える
            隠れているものは露わになる

     ・明らかになるものはみことば(レビ24:1~4)
     ・燭台は1タラントの純金を打って作る(出エジプト25:31~40)
     ・試練を経て練り上げられたイエスの人格の栄光そして、キリストと教会の
      一体(民数記8:2~4)

C くすぶる燈心
  ○光を委ねられた人間性の弱さ 小ささ はかなさ 頼りなさ
  ○いたんだ葦と対の表現
  ○主はどんな方か・・・わたしの支える わたしのしもべの描写(イザヤ42:1)
           「主は、~折ることなく、消すことがない」
           cf 「人間は考える葦である」   

D 聞く耳のある者は聞きなさい
  ○たとえは聞き手を選別する(Ⅰペテロ4:17)
  ○みことばの有効性を決定するのは語り手ではなく聞き手
  ○あかりの話なのに「見る」のではなく「聞く」ことが強調されている

12月21日 くすぶる燈心 (イエスのたとえ話 31 )

 今年は一年を通して「イエスのたとえ話」をひとつひとつ出来るだけ丁寧にひもといて分かち合ってきました。本シリーズでは、「イエスがたとえをもって話された」というような明らかなひとくくりのたとえ話は勿論のこと、さらに広い範囲で、「神が創造された目に見える世界は、すべて目に見えない霊的な世界を反映した大きなたとえなのだ」という視点でお話してきました。
 それはいつまでも続く「実体」や「本質」を映した一時的な「影」や「型」であり、その永遠の世界は、十字架という神御自身が引き受けてくださった究極の不条理を通して、ねじれ、反転した世界であるというメッセージをお伝えしてきたわけです。それは、「悲しむ者が幸いであったり、後の者が先になったり、苦しんでいたものが慰めを受けたり・・・」という世界です。イエスが約束された世界は、この世界の拡大や延長ではありません。またこの世界の発展や改良ではありません。キリスト御自身を共有する新しいいのちの世界です。それこそが福音の実際なのです。福音とは、「個人的な悩みが解決する」とか、「私が成功して幸福になれる」とかいうこととは全く異質のメッセージです。文明や国家のあり方とも別の次元の事柄です。その奥義は、ただイエスという「人となられた神」の人格とみわざに対する単純な信仰によってのみ知り、味わうことができます。シリーズの終わりにあたって、もう一度そのことを確認しておきたいと思います。

 シリーズ最後のメッセージは何をテーマにするべきか悩んでいましたが、「光」についてお話しようと思います。自然界の中には、神の「本性」あるいは「属性」を、また「神と人の関係性」「キリストと教会の絆」を現した雛型が溢れています。その中でも「光」は、神御自身の本質を現した非常に重要なたとえであり、「光よあれ」というみことばは、神が発したことばとして、聖書の中で一番はじめのものです。(創世記1:1)
 神は太陽です。太陽の光は色を作り出し、熱を与え生きものや作物を養います。光はわけへだてなくすべてのものを照らし、闇の中にあるものを明らかにします。そんな太陽を、それ自体「神」として崇める国民や宗教もありますが、みことばはそれを禁じています。造られた雛型のひとつを神としてはいけません。太陽も月も星も単なる「指のわざ」にすぎません。雛型によって解説すれば、偶像礼拝は姦淫であり、性的倒錯なのです。
 神は大きな光るもの、そして小さい方の光るものをお造りになりました。夜を照らすのは、「小さいほうの光るもの」である月です。(創世記1:15)月は教会です。ご承知のように月はそれ自体は輝かず、表面はクレーターでデコボコです。それは「罪人である人間が主の栄光を反射して夜の世界を照らす」ということを映した非常に美しい雛型です。聖書はアポロが月にいくより先に、月がそれ自体何の魅力もない場所であることを暗に語っていたわけです。

さて、聖書の中には、光に関する記事はかなりたくさんありますが、今日は、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に出てくる「あかりのたとえ」を見ていきます。

「また、あかりをつけて、枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがた光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:15~16)

「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:21~23)

「あかりをつけてから、それをで隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。」(ルカ8:16~17)

 神は光であり、ここに書かれているあかりとは、神のことばです。神のことばはイエス御自身です。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)というみことばを思い出してください。さて、この当時のともしびやあかりはどのようにつけたのしょうか。スイッチを入れたら電気がつくのは現代の話です。あかりは油に火をつけてもやします。油は燃えますが、油に直接火をつけるのではなく、燈心に火をともすのです。燈心にしみ込んだ油が少しずつ燃えて、光を放ち、あたり暗がりを照らすわけです。あかりはみことば、油は聖霊、そして、燈心は私たちの人間性です。

 今日は光のことをお話していますが、このたとえでは、光を反映した擬似的な光である「あかり」について話しています。当時の「あかり」は、それほど明るいものではありません。しかし、それは明らかに夜を照らすための光だったのです。今日のメッセージのタイトルは「くすぶる燈心」としました。非常に詩的で繊細な表現ですが、それは、光を委ねられた私たち人間の弱さ、小ささ、はかなさ、頼りなさを現すことばです。主は私たちが自分の罪や愚かさや醜さや無力を告白しなくても、そのようなものであることを十分ご存じです。油の切れた灯心に火をつけたらどうなりますか、一瞬火はつくでしょうが、黒こげになっておしまいです。イザヤのみことばを思い出してください。
「主はいたんだ葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すこともない」(イザヤ42:3)これは、私たちがどんなに弱い存在であるかを伝えると同時に、それをどこまでも、何としても守ってくださる御方のすばらしさについて伝えています。それは、わたしを支えるわたしのしもべであるイエスの描写として書かれているのであって、人の弱さや弱さの中にある可能性を強調しているのではありません。主が私たちの証を守られるのです。私自身は燃えても一瞬で燃え尽きます。私たちに必要なのは、「主が夜を照らす役割を私たちに託してくださり、主が私たちを通してあかりを灯し続けてくださるのだ」と、ただ信じることではないでしょうか。その意味では、信仰は小さなからし種でよく、あかりはくすぶっていてもよいのです。こうしたことをふまえて今日のたとえを見ていきましょう。

 どういうわけか、あかりを枡の下に隠す人がいます。たとえで語られると、それが愚かで無意味であることは誰にでもわかるのですが、実際にはこういう人が多いのです。これは、自分の経験や理性で、あるいは、知性や感性でみことばを量ることを言っているようです。不遜にも、神のことばを人間が吟味するのです。本当は、神のことばが人間を吟味し、その人の隠された真実を暴くのです。ユダヤの指導者たちは、イエスを「試そうとして質問した」と書いてあります。はじめから、「わからないから」「知りたいから」教えを受ける姿勢ではないのです。
 指導者たちは勿論のこと、信じた者でさえ、「みことばはそう言っているけれど、現実的にはこの程度の意味ではないか」「このみことばは、その時代のその教会の人のためにだけ語られたもので自分には直接関係がない。」というような反応はまさに、枡の下にあかりを隠すことです。そんなことをすれば、当然あかりは消えます。
 実は、わたしたちがみことばをはかったように思えても、実はみことばにはかりかえされているのです。みことばを枡の下に隠すことによって、私たちはみことばの祝福を放棄しているのです。みことばをあなどることは、神をあなどることです。みことばを軽んじる者を、主は軽んじられます。
「欺きのはかりは主に忌み嫌われる。正しいおもりは主に喜ばれる。」(箴言11:1)
「異なる2種類のおもり、異なる2種類の枡、そのどちらも主に忌み嫌われる。」(箴言20:10および23) しかも、この枡ははかった後に隠しているところから考えると、どうやら底が上を向いています。はかる道具としては機能せず、隠す道具として用いているのです。つまり、人はみことばをはかっているつもりでも、あかりを隠しているだけなのだと言えます。


 次に、寝台の下です。寝台は眠りと病をイメージさせます。また、暮らし全体を象徴する表現です。特に教会の指導者が病気だったり怠慢だったりすると、みことばによる訓練がおろそかになり、光は消えてしまうどころか、家全体を焼く火事の原因にもなります。また、「人の子には枕するところもない」とおっしゃったイエスのことばを思い起こせば、自分の生活を最優先する姿勢への戒めともとれます。これは、指導者のみならず、すべてのクリスチャンにとっても言えることです。いわゆるキリスト教の中では、献身者、すなわちキリスト教を生業とする人たちと、他の仕事を生業としつつ、献身者の暮らしを支える一般信者を区別して無意味な段差をつけていますが、聖書の中には賜物や役割の違いはあっても、すべての信者は兄弟姉妹、また家族であって、礼拝者、祭司として等しい立場が与えられています。「聖書はすべて、神の霊感によるものであって、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Ⅱテモテ3:16~17)「教えと戒めと矯正と義の訓練」です。どれも厳しそうなイメージです。しかし、これがない教会は、寝台の下にあかりを隠していることになります。みことばがすべての兄弟姉妹を訓練するのです。教会指導者が信者を訓練するのではありません。

 3つ目は器です。器は、みことばに関わる人間を象徴しています。
 あかりを器で隠すというのは、ひとつは、みことばを取りつぐ者が、自分の栄光を求めたり、みことばをまぜものにすることへの警告です。もうひとつの側面は、みことばを聞く者が、それを取りつぐ器の装飾、すなわち、肩書きや人間性に心を奪われ、あかりではなく、器に期待することへの警告です。あかりは、燭台の上にあるべきです。燭台とは教会をさします。あかりを支えるために燭台があるのです。その逆ではありません。その人自身の名前でやってくるものには要注意です。(ヨハネ5:38~43)
 あかりがあれば、その周辺は明るくなり、温かくなり、はっきり真実が見えます。それは、誰の力でも知恵でもなく、あかりのおかげ、光そのものである神の証なのです。
 仮に私がたとえをわかりやすく解き明かしているとしても、あかりがあるから見えるだけのことで、私が特別だから私だけに見えるのではないです。私が見ているものは、みなさんにもはっきりと同じものが見えて、ともに味わえるのです。ところが、サタンのわざは違います。スピリチュアルブームとかで、「霊が見える」などという人は、「その人だけ」しか見えないでしょう。だから、その人が見えているものが嘘か本当かなんて確かめようがないわけです。ところが、私が話していることは、聖書に書いてあります。書かれていることだけをそのまま話しているわけだから、間違ったことを言っていれば、その気になって調べれば誰でも指摘できます。当然間違いあれば、心から謝罪します。私が話していることは、話しているとおりのことを私がそう信じているというだけのことであって、それ以上の主張をするつもりはありません。みことば相互の論理的な整合性を越えた超霊解が、もし万一あるのだとしたら、私には関係のない世界なので、とっと土俵から退散します。私の知っている主イエスはそういうものを徹底的に嫌われると思いますが。
 正しい場所にあかりがあるとき、まず、家の中を照らします。マタイには、「家にいる人々全部を照らす。」と書いてあります。そして、それは確かに行いとも関係があります。あかりが力強く光るのは、そのみことばを語るだけ、聞くだけではなく、行わなければなりません。行いをともなう信仰が父の栄光になります。「みことばは大切」と言いながら、何がどこに書いてあるのかわからないで説得力があるでしょうか。また、「愛が大切」と言いながら、困っている人に具体的な親切や助けを示さないとしたらどうでしょう。
 律法の中にも、教会はともしびを絶やさぬようにと命じられています。(レビ24:1~4)そこには、すでに1タラントの金の燭台から打ち出され燭台によって、キリストの試練によって練られた人格の栄光とキリストと教会の一体性が見事に表現されています。(出エジプト25:31~40)(民数記8:2~4)

 ルカを見るならば、家の中にいる人々だけではなく、「入ってくる人々に、その光が見える」ことが必要だと書いてあります。教会に来る人々に、こびて、おもねって、気をつかって、結局みことばを伝えないということがあります。違う光に寄ってくる虫は、かえってあとから必ず分裂や混乱をもたらします。家に入ってくる人には、「みことばの光が見える」ことこそが大切なのです。みことばの光はみことばの意味ではなく、私やあなたや、この世界のすべてを照らすのです。最後にすべて隠されていることが明らかになるのだとマルコとルカは言っています。このことを聞くとき、それはありがたいと思いますか、それとも、それは困ったと思いますか。みことばの本当の意味と力が明らかにされ、私たちがいかに信じ、いかに行ったかがすべて明らかになります。「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」(Ⅰペテロ4:17)そして、マルコのテキストは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と結んでいます。あかりの話なのに、「目を見開きなさい」ではなく、「耳」のことに触れ、「聞きなさい」と念を押しています。あかりはみことばなのです。みことばを聞かない人は、何も見えず、やがて間違いなく穴に落ち込むのです。

12月7日 メッセージのポイント

良きサマリヤ人のたとえ(イエスのたとえ話30)  
  ルカ10:25~37

A 律法の専門家の質問
  ○どうしたら永遠のいのちを得られるか
  ○わたしの隣人とは誰か

B イエスの答え
  ○行って同じようにしなさい
  ○誰が隣人になったのか

C ちがいはどこに
  ○私中心で私を満たすために「隣人」を手段とみなす
  ○ある人を目的としてある人を満たすために私が「隣人」となる

D 真実の隣人はイエスおひとり
  ○罪人は罪人の隣人にはなれない
  ○義人イエスだけが隣人になりうる
  ○本当は「私」こそ通りすがりではなく傷ついて死にかけた人

E 家族という隣人
  ○夫婦さえ隣人にはなれない(アダムとエバの場合)
  ○親子さえ隣人にはなれない(アブラハムとイサクの場合)
  ○神抜きの人間関係は成立しない

F 隣人愛から兄弟愛へ
  ○私はあなたを愛せませんという告白から始まる
  ○兄弟姉妹とは相互の中におられる主によって仕え合うことができる人たち

12月7日 良きサマリヤ人のたとえ (イエスのたとえ話 30 )

ルカ10:25~37

「隣人になる」というのは、どういう意味や内容を指しているのでしょうか。当然、「ただその場に居合わせる」というだけでは足りないし、「必要な助けの手を差し伸べる」ことが出来たとしても、それだけではまだ十分ではなさそうです。では、いったいどの程度に条件を満たせば人は人の「隣人になった」と言えるのでしょう。ゴッホの絵画などでも有名な「良きサマリヤ人のたとえ」と呼ばれる記事からともに考えたいと思います。

いつものようにたとえが語られた背景を見ていきましょう。まず、律法の専門家がイエスを試そうとしてやってきたところから始まります。「先生、何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と律法の専門家はイエスに問いかけました。イエスはその問いには即答せずに、逆に質問を切り替えされました。「律法には何と書いてありますか」「あなたはそれをどう読んでいますか」彼は答えます。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛せよ。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよとあります」それは正解でした。ですから、「それを実行しなさい」とイエスは言われたのでした。しかし、そこで終わらずに、この律法の専門家は、自分を正当化しようとして、「わたしの隣人とは、だれのことですか」とイエスに質問しています。「自分を正しさを示そうとして」ということは、「自分を愛するように隣人を愛するべきだ」という正しい答えを知っている人が、その答えを知っているだけでなく、そのことを心がけて生活しているということを認められてもいいという強い自負心があったということです。しかし、この慇懃無礼でプライドの高い律法学者のしつこい質問がなければ、「良きサマリア人のたとえ」が語られなかったかも知れません。そう思うと、この人に御礼を言いたいような気分にもなります。主は常に人の愚かさを覆って余りある恵みをもって満たされる御方です。

しかし、イエスはこの律法学者の質問に直接答えてはおられません。「わたしの隣人はだれですか」という内容に対して、このたとえを語られたのです。 それは、エルサレムからエリコへくだる道で、追いはぎに襲われ傷ついたある人と三人の旅人が出会うという具体的な場面を提示して、「誰がその人の隣人になったのか」と三択で迫るという内容でした。
つまり、隣人を永遠のいのちを得るため、近づくための手段としてとらえていた律法学者に対して、イエスは「ある人」を目的として、自分がその隣人になるのだというものの見方の転換を迫られたのです。
このたとえのように、傷ついている人や困っている人を無償の愛で看護するのは、それ自体素晴らしいことです。その行為を否定しようがありません。しかし、この世のボランティアでも、教会内でのあらゆる奉仕でもそうですが、まず「中心は何か」ということです。自分が中心で自分が満たされたり、祝福されたりするためにそれを追求するのか、助ける相手やイエスと御方を中心に、物事を考え組み立てているかによって全くその意味や価値は変わってきます。
しかし、問題はその先です。イエスは「行って同じようにしなさい」と語られました。このイエスのチャレンジに文字通り答えようとすることが、実は大きな混乱を生んでいます。この読み違いの結果、世間一般のキリスト教に関するイメージのひとつとして、「キリスト教は良き隣人になろうと努力する宗教」というようなものがある気がします。この間違いを100%払拭しない限り、このたとえのみならず、みことばの全体を正しく理解できません。

そもそもこのたとえは、「どうすれば永遠のいのちが得られるか」という問いに対してなされたものです。傷ついた人を見すごした人たちは、祭司とレビ人です。当時の社会では、永遠のいのちに近そうな、庶民には難しい要求にも応えられそうな人たちです。その人たちが傷ついて死にそうな人を置き去りにしたのです。ところが、彼らが出来なかったことをやってのけた人がいました。それがサマリヤ人です。当時のユダヤ人にとっては、永遠のいのちには最も遠いと思われる軽蔑の対象でした。ですから彼らは、イエスの質問に対して「サマリヤ人です」とさえ口に出すことを嫌って、「その人に憐れみをかけてやった人」と言っています。(ルカ10:37)
傷ついた人を助けるどころか、傷ついた人を助けた人を認めることさえ出来ないのが彼らの現状だったわけで、その心の本質的な問題をつきつけられたわけです。

要するに、このたとえは決して「良きサマリヤ人にならって善行を積むことのすすめ」ではありません。「厳密な意味において人の隣人となれるのは、義人イエスだけであり、罪人は罪人の隣人にはなれないのだ」とその不可能を悟らせるためのものなのです。
あたかも善行を勧めているかのように正反対のメッセージを聴き取ってしまっている人が多いのも事実ですし、正しく読み取っているクリスチャン自身も永遠のいのちを得るためではなくても、「良きサマリヤ人のようでありたい」と願って生活しているのでよけいややこしくなっているのです。それは決して悪いことではなく、みなが隣人に対する無償の愛を心がければ世の中少しはましになるでしょう。

こうしたことをふまえた上で、「人は決して人の隣人になれない」ということを肝に銘じたいと思います。もう少し丁寧に言えば、「エデンの東においては、人は、神の贖いなしに、誰かの隣人になることはできない」ということです。同じ質問をした金持ちの役人も、「財産を貧しい人に与えよ」というチャレンジを与えられました。イエスは「欠けていることがひとつある」という言い方をされていますが、当然その「ひとつ」の意味は、文字通り「それさえ満たせば完璧」ということではありません。客観的に説明すれば、「自分は99出来ていて後の1つと思っているかも知れないが、実際には、神の基準を満たすようなことはほとんど何も出来ていない。仮にひとつぐらいは出来ているにしても、残っている99のうちの1つを教えてあげようか」ということなのです。イエスはこのような言い回しで、私たちの聞き方や心の動機を探ります。聞く側の誤解は、聞き方の悪さを暴露しているわけです。
結論は「人には出来ないが神には出来ないことはない」ということです。「頑張れば出来るから頑張ろう」ではなく、「頑張っても人には出来ないから神を信じなさい」ということなのです。このたとえの中で学ぶべきことは、サマリヤ人のように善いことをすべきだとか、祭司やレビ人たちのように悪い奴は駄目なんだということではありません。私たちは、良いことも悪いこともできずに、傷ついて死にかけている人だからです。

私は、新約聖書のたとえの中から罪や贖いについて考えるとき、しばしば、旧約聖書、とりわけ創世記に立ち戻ってその整合性についてお話しています。今回もアダムとエバ、そして、アブラハムとイサクの関係を思い出してもらえると、理解の助けになるでしょう。
神は最初の人アダムのふさわしい助け手として、言わば、理想的隣人としてエバを与えました。しかし、エバは神の戒めを破り、善悪の知識の実をとって食べ、さらにそれをアダムにも与えてしまいます。内助の功どころか、助け手としては最悪の選択をするわけです。その結果、アダムは神との契約を破ることになり、挙げ句の果てに、それを「肉からの肉、骨からの骨」と喜んだエバの責任にします。男と女の関係はたった一世代でボロボロになってしまったのです。アダムの意識の中でおこったことは、決定的なものでした。自分とエバとの切り離しです。アダムは罪を指摘された瞬間、エバとともにそれをともに負い克服しようとは考えませんでした。自分もとって食べたのに「エバが悪い」と言ったのです。これが神から離れた人間の姿です。エバはアダムの隣人とはなりえず、アダムもまたエバの隣人とはなり得ませんでした。つまり、あらゆる人間関係の中で、最も親密で深い間柄である夫婦でさえ、このように互いに隣人となることができないのです。これが罪人の現実だと聖書は教えています。まして、赤の他人どうしではどうでしょうか。理想的な隣人との関係を求めてもそれが歪んで崩れていくのは当然なのです。

ある人たちは、「親子の絆は夫婦より深い」とおっしゃるかもしれませんが、どのような親であっても子の隣人になれません。アブラハムにイサクが与えられたのは、夫婦が自力で子どもをつくる可能性を失ってからです。自分の愛情深さや、子育てのスキルに信頼を置いているなら、必ず子どもの現実に裏切られます。親として間違いなくつまずきます。大事なのは肉の力ではなく、神の約束なのです。
そして、紆余曲折を経て与えられ、愛情と信頼を育んできたイサクを捧げよというのが、究極の神の命令であり、それに従うことが礼拝でした。
イサクは自分の力や自分の何かで得たのではないことを、アブラハムは嫌というほど知り抜いていました。当然、神はアブラハムがそれを知っていることを知っておられます。しかし、それでもなお、「イサクを捧げなさい」と言われたのですから、その意味は極めて深いのです。私たちが本当に味わうべきものは、「神の祝福」でもなく、「神の約束の真実」でもなく、また「神の力」でもありません。ただ「神御自身」です。神がどのような御方なのかという御人格、神そのものに触れさせるために、私たちは訓練されます。その訓練の中で、「神こそすべてのすべてです」という告白をすることが、地上の礼拝の本質であるように思います。アブラハムがイサクを捧げて学んだことはそれです。
隣人としての子どもを愛する前に必要なことは、神を愛すること。親子の絆ではなく、神との絆が大事です。親子の絆がどうでもいいというのではありません。イサクを捧げたアブラハムから神はイサクを奪いませんでした。神とはそういう御方です。神が伝えたかったことは、「私はアブラハム以上にアブラハムを愛し、アブラハム以上にイサクを愛しているよ」という熱烈なメッセージだと思うのです。「私以上に君を大切に思う男なんて他にはいない」というミキハウスのCMがありますが、神がおられるわけです。
私は娘が大事です。もちろん、ふたりの息子も同じく大事です。彼らのことを常に気にかけ心配しています。しかし、神はそれ以上です。神は私たちに「私はそれ以上だ」と知らせたいのです。
それは、相手に一番大事だとわかっている子どもを差し出させることによってしか伝えられないほどの愛です。実に神はそのひとり子をお与えになったでしょう。本当にひとり子を十字架につけて裁かれたわけです。そのような愛です。

夫婦や親子や兄弟や親しい友人たちとは、「神抜きの関係」が成立するかのような錯覚を持ってしまいます。しかし、それは大きな間違いです。私たちは、最も親しい人たちを、実は最も愛せていないことが多いのです。たとえ、自分の都合のよいように愛せても、神が望んでおられるように愛してはいません。ここに大きな問題があります。ですから、信仰があるかのように見える人たち、教会の中で熱心に奉仕しているような人たちの家庭も、必ずしも幸せではないといったことが起こってしまうのです。

私たちが互いに隣人となるには、ただ救われるだけでは不十分です。キリストのよみがえりを得て、互いが仕え合う信仰が必要です。私の中におられるイエスにその人の隣人になっていただくこと、また兄弟姉妹の中で働かれるイエスに仕えていただくことです。ここにこそ真実な兄弟姉妹の交わりがあるのでしょう。これは口で言うほど簡単なことではありませんが、聖書を見る限り、少なくとも「私はあなたを愛します」ではなく、「あなたを愛せません」という告白から始まるはずです。自分はその人に何も出来ない、してあげられない。でも、主が私を通して、その人のために祈り、その人のために何かをなしてくださるとすれば、自分には出来そうもないことが出来るかも知れないというような、そんな感じではないでしょうか。そういうことが分かっている人の人間関係はきっと祝福され、豊かなつながりが自然に広がり深まっていくはずです。
みこころを行うものが、イエスの兄弟姉妹でありまた家族です。キリストにある兄弟姉妹だけが、本来的な意味で互いに隣人であり得るのです。クリスチャンだけが、相互の中に住んでおられる主によって仕え合うことができるからです。教会の中にそのような交わりがあるなら、地の塩、世の光としての役割はいっそう明瞭になることでしょう。