2009年1月22日木曜日

1月11日 油注がれるダビデ(ダビデの生涯と詩編 ① )

 新しい年は、ダビデの生涯を見ていきたいと思います。

 旧約聖書においては、神の筆は何人か特定の人物の一生にスポットを当てて描いています。アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデに関しては、とりわけ多くのページが費やされているのはご承知のとおりです。それはなぜでしょうか。ある人物を民族の英雄として誇らせるためでしょうか。たとえユダヤ人の現状がそうであったとしても、聖書本来のねらいは、そんなところにはありません。

昨年は「たとえ話」をひもといてきました。「たとえ」が被造物の世界に現されたさまざまな霊的な原則を解き明かしたものであるとするならば、旧約に登場する人物の一生は、「イエスの生涯をいろいろな角度から照らし出したモデル」だと言えます。そしてこのポイントこそが、旧約聖書の人物伝を読み解く唯一の正しい鍵なのです。霊的な何かを得るためにはそれ以外の読み方はありません。
今年取り上げるのはダビデです。ダビデの波瀾万丈の生涯は、それ自体読み物としても非常におもしろいものです。さらに、様々な出来事の折々に残した詩編を通して、彼の心情や信仰を伺い知ることが出来ます。その一生は、イエスの予表であると同時に、私たちがイエスの地上での歩みを追体験していくときの道しるべになっているのだということを覚えてください。
私たちは、目に見える世界を、目に見える通りにではなく、さまざまなたとえを通して神の視点で評価することを学びました。しかし、私たちの周辺におこる出来事をある程度正しく理解出来たとしても、私たちがその中で生き抜いていくときに、しみじみと神の深いお取り扱いを実感するのは、少し次元の違う事柄です。そんなわけで今年は、「ダビデの生涯」と、「ダビデに現されたイエスの生涯」の学びを通して、このふたつをひとつにされた神が、今日私たち一人ひとりを個別にどのように扱っていてくださっているかを深く味わいたいと思っています。
ダビデは私たちと同じ人間であり、教会時代に生きる私たちは既に旧約の時代のダビデよりも多くのものを受けているのです。ダビデの生涯を学びながら、私たちが既に賜っているものの大きさを実感しましょう。私たちがキリストのともに歩むこの一生の価値、一日一日の重み、喜びや悲しみの意味を、主が明らかにしてくださることを期待しています。

「ダビデはキリストを主と呼んでいるのに、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:41~45,詩編110:1)とイエスは問われました。信仰のない者は、昔も今もこの質問に答えることは出来ません。この質問に答えの中には、福音の奥義があるからです。ポイントは「人の子となられた神の子」です。そこにはキリストはダビデの主である永遠の御方でありながら、ダビデの子孫として生まれてくださるという真実が預言されています。神の正しいあり方とは、「神としてのあり方を捨てること」だったのです。神が人となられるということをダビデは、「天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして」(詩編18:9)と語っています。これは永遠の神が被造物の肉体に宿り、時間や空間の制約の中にその本性を留めるという意味を持っています。
今日はダビデが油注がれる場面を見ていきます。
ダビデはサウルに代わってイスラエルの2代目の王になります。しかし、イスラエルは神が直接治める国として召されていたわけですから、王位があること自体がそもそも間違っているのです。目に見えるリーダーを求める傾向というのは、大きな失敗を産み出す根底にあることを少し心にとめてください。
人はエデンの園で罪を犯して以来、その霊的な状態は日を追う毎に堕落していきました。いわゆる族長の時代までは、人々は直接神のことばを聞いていましたが、やがて預言者が立てられ、群衆に神のことばを伝達するメッセンジャーが生まれます。その最初の預言者がこのサムエルです。しかし、イスラエルの国民は他の国と同様に王を求めるようになります。王がみことばに従っているときは、国民も一定の恩恵を得ますが、そうでなければ、国民はみなその圧政に苦しみます。そのようなリスクをサムエルはきちんと説明したのですが、それでも、民は目に見えるリーダーを求め心のよりどころとしたのです。その結果は、王国の分裂や捕囚、その後の歴史を見ても明らかです。(Ⅰサムエル8:4~22)

ですから、「ダビデのようなすばらしいリーダーを求めよう」「ダビデのようになろう」ということが私のメッセージのねらいではあり得ません。私は「人間のリーダーなど本当はいらない」「神はダビデ以上に私を大切に導いてくださる」ということを最も強くお伝えしたいのです。「信仰の勇者」だの、「祈りの戦士」だのという表現はキリスト教書店には溢れていますが、聖書にはありませんし、私も使う気はありません。確かにダビデは信仰もありましたし、深い祈りの生活をしていました。勇者でもあり、戦士でもありましたが、それをごちゃ混ぜにして英雄視することは、断じて間違っています。ダビデだけでなく、誰に対してもそのような目で見ることは間違っているのです。ダビデは美人が好きで、功名心の強い私たちと同じどこにでもいる普通の男です。逆にだからこそ全ての人に望みがあり、いかなる人生も主の前に尊いものとなり得るのです。

ダビデが王に抜擢される背景として、サウルの罪と不従順がありました。ダビデの信仰の歩みを見ていくに当たっては、サウルの不信仰と比較しながら見ていくと、よりいっそうくっきりと、神が何を評価され、どのように人を導かれるかが見えてきます。
預言者サムエルは、サウルがみこころから離れ、リーダーとしての品格や信仰を失うことを嘆き悲しんでいました。サウルの在位中に次の王になるべき人物に会いに行くのは、サムエルにとっても命がけのことです。実際にその場面を見ていきます(Ⅰサムエル16:1~13)
ベツレヘムの町の長老たちは、ただならぬ覚悟でやってきたサムエルを恐れつつ迎えます。サウルの目をごまかすために、表向きはいけにえを捧げる儀式でしたが、その実は王になる人物に油を注ぐのがねらいでした。長老たちとともに、エッサイとその子どもたちも招かれていました。
サムエルは長男のエリアブを見たとき、「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし、エリアブは主が選んだ器ではありませんでした。
主はサムエルに言われました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようにはみないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:8)これは、見栄っ張りの指導者に言われたのでもなく、軽薄な群衆に言われたのでもありません。預言者サムエルをたしなめることばでした。
人はどこまでも、目に見える恰好の良さや能力に期待するものです。こうしたことにとらわれるべきではありません。ちなみに、サウルはすばらしい美貌の持ち主でした。(Ⅰサムエル9:2)

 サムエルは順番にエッサイの子どもたちを見ていきますが、いずれもが退けられます。サムエルは仕方なく、「子どもたちはこれで全部ですか」とエッサイにたずねました。すると、もう一人末っ子が残っていました。それがダビデでした。
エッサイは家族で招かれたのに、ダビデを数のうちにいれませんでした。誰かが羊の番をしなければならなかったのかもしれないにしても、最年少であることも含んでも、「ダビデは別にいなくても問題がない」と考えていたことは間違いなさそうです。それくらい軽く影の薄い存在だったということです。
そんな時、ダビデはサムエルの前に連れて来られ、突然油を注がれました。少年ダビデは親や兄弟からも、忘れ去られているようなただの「羊飼いの少年」です。そのダビデに対し、主は「その心を見て」選ばれたと聖書は言っています。「わたしのために王を見つけた」と主に言わしめたこのダビデは、一体どこがすばらしかったのでしょうか。

私たちも、ダビデも、ダビデの兄弟たちも、そして愚かな王サウルも、罪人であるという点では全く同じです。それらは、ダビデの生涯を追っていけば、少しずつ明らかになってくるでしょう。今日は、ダビデの実像を浮かび上がらせる反面教師としてのサウルの姿をもう少し詳しく見ておきたいと思います。

サウルはアマレク人を打った際に、聖絶すべき動物の最も良いものを惜しんで残して置きました。それは主へのいけにえにするためだったと言い訳していますが、それは明らかにみことばに背く行為でした。
主はサムエルを通してサウルにこう言われました。
「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼いけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、お羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」(Ⅰサムエル15:22~23)
サウルの罪の本質は、みことばを軽んじ、従いきれなかったことです。みことばの軽視と不従順こそが、占いと偶像礼拝の本質です。占い師にたずねなくても、みことばを聞かない人は占いをしているのです。神社仏閣に詣でなくても、従わない人は偶像を拝んでいるのです。
サムエルに託された主のことばを見れば、サウルの不安がわかります。
「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされました」(Ⅰサムエル15:17)
サウルは自惚れるのではなく、「自分は小さい者にすぎない」という、ある意味では自分の力量に対して客観的に正しい評価をしていましたが、そんな自分に油を注いでくださった主に信頼しませんでした。あらゆる点で王にふさわしい力をつけようと努力して、不安をかき消そうと頑張ります。
民が苦しんでいるときに、目の前にあるおいしい蜜があるのに、くだらない誓いをたててそれを守らせようとしたり、(Ⅰサムエル14:24~30)ペリシテ人であっても、勇気や力のある者を召し抱えたりと、(Ⅰサムエル14:52)ありとあらゆる人間的なわざで、実質の欠落を埋めようとするわけです。こういうリーダーに振り回される息子も国民もたまったものではない。しかし、これこそが、民が目に見えない神に信頼せず、目に見えるリーダーを欲した結果の刈り取りだったわけです。
「蜜をなめさせない」のは、みことばに触れさせないことや、本来味わうべき人生の楽しみを奪うことの象徴でしょうし、有能なペリシテ人の登用は、いのちや信仰のない人間を能力だけでリーダーにすることの見事なモデルです。こういうことは間違いなく主のみこころを損なっているのです。神を恐れない人は神以外のものを恐れます。神に頼らない人は神以外のものに頼ります。

一方ダビデは、その一生を通じて徹底してみことばを重んじた人でした。ダビデも、サウルと同じように、あるいはそれ以上に破廉恥で卑怯で傲慢な罪を犯します。しかし、ダビデは常に神の前にありのままの自分をさらけ出し、決して取り繕うことをしませんでした。すべてを神に委ねたのです。自分で自分の道を切り開こうとはしませんでした。
ここにこそ彼が生涯にわたって祝福された秘密があります。(詩編19:12~14)
また後に詳しく見ることになりますが、その最も大きな山場は、自分のいのちを狙うサウルを殺すことができるチャンスを信仰のゆえに2度も放棄したことです。これは、ゴリアテを倒すよりも、多くの軍勢を打ち負かすよりも難しいことだったでしょう。ダビデは、自分が殺されるかも知れないということ以上に、神が油注がれた器を殺めて自らの手を穢すことを恐れたのです。ダビデはいくつかの詩編の中で自分の義を主張していますが、それは、「私は小さな善行を積み重ねました」というのではなく、「神を恐れるがゆえに神が油注いだサウルを殺さなかったことを覚えて欲しい」と訴えているのでしょう。
姦淫の罪を犯した時も、預言者ナタンのことばを真摯に受け止め心から悔い改めました。何でも出来る王という立場にあって、これもなかなか出来ないことです。別の国の異邦人の王であれば、ナタンもバプテスマのヨハネのように首を切られていたでしょう。
人口調査を行って神の怒りをかった際も、その罰を選ぶことを迫られますが、神の御手に委ねると言っています。ダビデはどこまでも神のみこころと憐れみにすがる人でした。
主は少年ダビデのそのような心をご覧になったのです。
私たちは、その心が彼の羊飼いとしての日常の中で培われたのだということを覚えておきたいと思います。(詩編23編)人の心は時間の長さや経験の量と比例して練り上げられるというものではありません。適当なことばが見あたりませんが、もっと本質的な「構え」というか、「姿勢」というか、カタカナ語でいうと、「スタンス」とか、「ベクトル」とか、そういうイメージです。「何を見ているか」「何を求めているか」という根本的な動機が一番大切ということですね。