2009年1月2日金曜日

12月7日 良きサマリヤ人のたとえ (イエスのたとえ話 30 )

ルカ10:25~37

「隣人になる」というのは、どういう意味や内容を指しているのでしょうか。当然、「ただその場に居合わせる」というだけでは足りないし、「必要な助けの手を差し伸べる」ことが出来たとしても、それだけではまだ十分ではなさそうです。では、いったいどの程度に条件を満たせば人は人の「隣人になった」と言えるのでしょう。ゴッホの絵画などでも有名な「良きサマリヤ人のたとえ」と呼ばれる記事からともに考えたいと思います。

いつものようにたとえが語られた背景を見ていきましょう。まず、律法の専門家がイエスを試そうとしてやってきたところから始まります。「先生、何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と律法の専門家はイエスに問いかけました。イエスはその問いには即答せずに、逆に質問を切り替えされました。「律法には何と書いてありますか」「あなたはそれをどう読んでいますか」彼は答えます。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛せよ。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよとあります」それは正解でした。ですから、「それを実行しなさい」とイエスは言われたのでした。しかし、そこで終わらずに、この律法の専門家は、自分を正当化しようとして、「わたしの隣人とは、だれのことですか」とイエスに質問しています。「自分を正しさを示そうとして」ということは、「自分を愛するように隣人を愛するべきだ」という正しい答えを知っている人が、その答えを知っているだけでなく、そのことを心がけて生活しているということを認められてもいいという強い自負心があったということです。しかし、この慇懃無礼でプライドの高い律法学者のしつこい質問がなければ、「良きサマリア人のたとえ」が語られなかったかも知れません。そう思うと、この人に御礼を言いたいような気分にもなります。主は常に人の愚かさを覆って余りある恵みをもって満たされる御方です。

しかし、イエスはこの律法学者の質問に直接答えてはおられません。「わたしの隣人はだれですか」という内容に対して、このたとえを語られたのです。 それは、エルサレムからエリコへくだる道で、追いはぎに襲われ傷ついたある人と三人の旅人が出会うという具体的な場面を提示して、「誰がその人の隣人になったのか」と三択で迫るという内容でした。
つまり、隣人を永遠のいのちを得るため、近づくための手段としてとらえていた律法学者に対して、イエスは「ある人」を目的として、自分がその隣人になるのだというものの見方の転換を迫られたのです。
このたとえのように、傷ついている人や困っている人を無償の愛で看護するのは、それ自体素晴らしいことです。その行為を否定しようがありません。しかし、この世のボランティアでも、教会内でのあらゆる奉仕でもそうですが、まず「中心は何か」ということです。自分が中心で自分が満たされたり、祝福されたりするためにそれを追求するのか、助ける相手やイエスと御方を中心に、物事を考え組み立てているかによって全くその意味や価値は変わってきます。
しかし、問題はその先です。イエスは「行って同じようにしなさい」と語られました。このイエスのチャレンジに文字通り答えようとすることが、実は大きな混乱を生んでいます。この読み違いの結果、世間一般のキリスト教に関するイメージのひとつとして、「キリスト教は良き隣人になろうと努力する宗教」というようなものがある気がします。この間違いを100%払拭しない限り、このたとえのみならず、みことばの全体を正しく理解できません。

そもそもこのたとえは、「どうすれば永遠のいのちが得られるか」という問いに対してなされたものです。傷ついた人を見すごした人たちは、祭司とレビ人です。当時の社会では、永遠のいのちに近そうな、庶民には難しい要求にも応えられそうな人たちです。その人たちが傷ついて死にそうな人を置き去りにしたのです。ところが、彼らが出来なかったことをやってのけた人がいました。それがサマリヤ人です。当時のユダヤ人にとっては、永遠のいのちには最も遠いと思われる軽蔑の対象でした。ですから彼らは、イエスの質問に対して「サマリヤ人です」とさえ口に出すことを嫌って、「その人に憐れみをかけてやった人」と言っています。(ルカ10:37)
傷ついた人を助けるどころか、傷ついた人を助けた人を認めることさえ出来ないのが彼らの現状だったわけで、その心の本質的な問題をつきつけられたわけです。

要するに、このたとえは決して「良きサマリヤ人にならって善行を積むことのすすめ」ではありません。「厳密な意味において人の隣人となれるのは、義人イエスだけであり、罪人は罪人の隣人にはなれないのだ」とその不可能を悟らせるためのものなのです。
あたかも善行を勧めているかのように正反対のメッセージを聴き取ってしまっている人が多いのも事実ですし、正しく読み取っているクリスチャン自身も永遠のいのちを得るためではなくても、「良きサマリヤ人のようでありたい」と願って生活しているのでよけいややこしくなっているのです。それは決して悪いことではなく、みなが隣人に対する無償の愛を心がければ世の中少しはましになるでしょう。

こうしたことをふまえた上で、「人は決して人の隣人になれない」ということを肝に銘じたいと思います。もう少し丁寧に言えば、「エデンの東においては、人は、神の贖いなしに、誰かの隣人になることはできない」ということです。同じ質問をした金持ちの役人も、「財産を貧しい人に与えよ」というチャレンジを与えられました。イエスは「欠けていることがひとつある」という言い方をされていますが、当然その「ひとつ」の意味は、文字通り「それさえ満たせば完璧」ということではありません。客観的に説明すれば、「自分は99出来ていて後の1つと思っているかも知れないが、実際には、神の基準を満たすようなことはほとんど何も出来ていない。仮にひとつぐらいは出来ているにしても、残っている99のうちの1つを教えてあげようか」ということなのです。イエスはこのような言い回しで、私たちの聞き方や心の動機を探ります。聞く側の誤解は、聞き方の悪さを暴露しているわけです。
結論は「人には出来ないが神には出来ないことはない」ということです。「頑張れば出来るから頑張ろう」ではなく、「頑張っても人には出来ないから神を信じなさい」ということなのです。このたとえの中で学ぶべきことは、サマリヤ人のように善いことをすべきだとか、祭司やレビ人たちのように悪い奴は駄目なんだということではありません。私たちは、良いことも悪いこともできずに、傷ついて死にかけている人だからです。

私は、新約聖書のたとえの中から罪や贖いについて考えるとき、しばしば、旧約聖書、とりわけ創世記に立ち戻ってその整合性についてお話しています。今回もアダムとエバ、そして、アブラハムとイサクの関係を思い出してもらえると、理解の助けになるでしょう。
神は最初の人アダムのふさわしい助け手として、言わば、理想的隣人としてエバを与えました。しかし、エバは神の戒めを破り、善悪の知識の実をとって食べ、さらにそれをアダムにも与えてしまいます。内助の功どころか、助け手としては最悪の選択をするわけです。その結果、アダムは神との契約を破ることになり、挙げ句の果てに、それを「肉からの肉、骨からの骨」と喜んだエバの責任にします。男と女の関係はたった一世代でボロボロになってしまったのです。アダムの意識の中でおこったことは、決定的なものでした。自分とエバとの切り離しです。アダムは罪を指摘された瞬間、エバとともにそれをともに負い克服しようとは考えませんでした。自分もとって食べたのに「エバが悪い」と言ったのです。これが神から離れた人間の姿です。エバはアダムの隣人とはなりえず、アダムもまたエバの隣人とはなり得ませんでした。つまり、あらゆる人間関係の中で、最も親密で深い間柄である夫婦でさえ、このように互いに隣人となることができないのです。これが罪人の現実だと聖書は教えています。まして、赤の他人どうしではどうでしょうか。理想的な隣人との関係を求めてもそれが歪んで崩れていくのは当然なのです。

ある人たちは、「親子の絆は夫婦より深い」とおっしゃるかもしれませんが、どのような親であっても子の隣人になれません。アブラハムにイサクが与えられたのは、夫婦が自力で子どもをつくる可能性を失ってからです。自分の愛情深さや、子育てのスキルに信頼を置いているなら、必ず子どもの現実に裏切られます。親として間違いなくつまずきます。大事なのは肉の力ではなく、神の約束なのです。
そして、紆余曲折を経て与えられ、愛情と信頼を育んできたイサクを捧げよというのが、究極の神の命令であり、それに従うことが礼拝でした。
イサクは自分の力や自分の何かで得たのではないことを、アブラハムは嫌というほど知り抜いていました。当然、神はアブラハムがそれを知っていることを知っておられます。しかし、それでもなお、「イサクを捧げなさい」と言われたのですから、その意味は極めて深いのです。私たちが本当に味わうべきものは、「神の祝福」でもなく、「神の約束の真実」でもなく、また「神の力」でもありません。ただ「神御自身」です。神がどのような御方なのかという御人格、神そのものに触れさせるために、私たちは訓練されます。その訓練の中で、「神こそすべてのすべてです」という告白をすることが、地上の礼拝の本質であるように思います。アブラハムがイサクを捧げて学んだことはそれです。
隣人としての子どもを愛する前に必要なことは、神を愛すること。親子の絆ではなく、神との絆が大事です。親子の絆がどうでもいいというのではありません。イサクを捧げたアブラハムから神はイサクを奪いませんでした。神とはそういう御方です。神が伝えたかったことは、「私はアブラハム以上にアブラハムを愛し、アブラハム以上にイサクを愛しているよ」という熱烈なメッセージだと思うのです。「私以上に君を大切に思う男なんて他にはいない」というミキハウスのCMがありますが、神がおられるわけです。
私は娘が大事です。もちろん、ふたりの息子も同じく大事です。彼らのことを常に気にかけ心配しています。しかし、神はそれ以上です。神は私たちに「私はそれ以上だ」と知らせたいのです。
それは、相手に一番大事だとわかっている子どもを差し出させることによってしか伝えられないほどの愛です。実に神はそのひとり子をお与えになったでしょう。本当にひとり子を十字架につけて裁かれたわけです。そのような愛です。

夫婦や親子や兄弟や親しい友人たちとは、「神抜きの関係」が成立するかのような錯覚を持ってしまいます。しかし、それは大きな間違いです。私たちは、最も親しい人たちを、実は最も愛せていないことが多いのです。たとえ、自分の都合のよいように愛せても、神が望んでおられるように愛してはいません。ここに大きな問題があります。ですから、信仰があるかのように見える人たち、教会の中で熱心に奉仕しているような人たちの家庭も、必ずしも幸せではないといったことが起こってしまうのです。

私たちが互いに隣人となるには、ただ救われるだけでは不十分です。キリストのよみがえりを得て、互いが仕え合う信仰が必要です。私の中におられるイエスにその人の隣人になっていただくこと、また兄弟姉妹の中で働かれるイエスに仕えていただくことです。ここにこそ真実な兄弟姉妹の交わりがあるのでしょう。これは口で言うほど簡単なことではありませんが、聖書を見る限り、少なくとも「私はあなたを愛します」ではなく、「あなたを愛せません」という告白から始まるはずです。自分はその人に何も出来ない、してあげられない。でも、主が私を通して、その人のために祈り、その人のために何かをなしてくださるとすれば、自分には出来そうもないことが出来るかも知れないというような、そんな感じではないでしょうか。そういうことが分かっている人の人間関係はきっと祝福され、豊かなつながりが自然に広がり深まっていくはずです。
みこころを行うものが、イエスの兄弟姉妹でありまた家族です。キリストにある兄弟姉妹だけが、本来的な意味で互いに隣人であり得るのです。クリスチャンだけが、相互の中に住んでおられる主によって仕え合うことができるからです。教会の中にそのような交わりがあるなら、地の塩、世の光としての役割はいっそう明瞭になることでしょう。