やもめと裁判官のたとえ(イエスのたとえ話29)
ルカ18:1~8
A 「祈り」は人の価値観や考え方よりも深いところに組み込まれてい る
○神のいのちから離れた霊的仮死状態では「本来の祈り」は機能しえ ない
○宗教は「祈りの名残り」を歪んだかたちで経験させる
B 「祈り」は新しいいのちの呼吸
○イエスはまことのぶどうの木であり私たちはその枝(ヨハネ15:5)
○絶えず祈ることとは・・・・祈りの質を変えていくこと
「喜ぶこと」「感謝すること」とともに(Ⅰテサロニケ5:16~18)
C 祈りは神とのつながりや関係性の証
○私たちはどう祈ればよいのかわからない(ローマ8:26~28)
○関係が深ければ奥の間へ向かっていく(マタイ6:6)
○同じことばを繰り返すのは関係が悪い証(マタイ6:7)
○すべてのことが「神より発し」「神によって成り」「神に至る」
(ローマ10:17)
○信仰は聞くことに始まる(ローマ11:36)
D アブラハムのとりなしの真実
○まず主がアブラハムに御自身の計画を示された(創世記18:17)
○アブラハムは主の前に立っていた(同22)
○アブラハムは主に近づいて申し上げた(同23)
○アブラハムは「親族助けて欲しい」とは祈らなかった(同25)
○アブラハムは自分がちり灰にすぎないことを知っていた(同27)
E なぜ不正な裁判官とやもめなのか
○神を恐れず人を人とも思わない裁判官
・・・・「人格は最低」しかし「法律を遵守する義務がある」
→失望しなくてよい十分な理由が神様の人格にある
○やもめ・・・・社会的地位が低く相手にする必要感が乏しい
→祈る側の資質や熱心さは祈りが聞かれることと無関係
F イエスの祈りの本質
○目に見える現実と関係のない感謝(ヨハネ6:11)
○祈りは祈る側ではなく祈りに答える側にかかっているという告白
(ヨハネ11:42)