2008年11月27日木曜日

11月16日 メッセージのポイント

やもめと裁判官のたとえ(イエスのたとえ話29)

     ルカ18:1~8

A 「祈り」は人の価値観や考え方よりも深いところに組み込まれてい る
  ○神のいのちから離れた霊的仮死状態では「本来の祈り」は機能しえ   ない
  ○宗教は「祈りの名残り」を歪んだかたちで経験させる

B 「祈り」は新しいいのちの呼吸
  ○イエスはまことのぶどうの木であり私たちはその枝(ヨハネ15:5)
  ○絶えず祈ることとは・・・・祈りの質を変えていくこと
  「喜ぶこと」「感謝すること」とともに(Ⅰテサロニケ5:16~18) 

C 祈りは神とのつながりや関係性の証
  ○私たちはどう祈ればよいのかわからない(ローマ8:26~28)
  ○関係が深ければ奥の間へ向かっていく(マタイ6:6)
  ○同じことばを繰り返すのは関係が悪い証(マタイ6:7)
  ○すべてのことが「神より発し」「神によって成り」「神に至る」
   (ローマ10:17)
  ○信仰は聞くことに始まる(ローマ11:36)

D アブラハムのとりなしの真実
  ○まず主がアブラハムに御自身の計画を示された(創世記18:17)
  ○アブラハムは主の前に立っていた(同22)
  ○アブラハムは主に近づいて申し上げた(同23)
  ○アブラハムは「親族助けて欲しい」とは祈らなかった(同25) 
  ○アブラハムは自分がちり灰にすぎないことを知っていた(同27)

E なぜ不正な裁判官とやもめなのか
  ○神を恐れず人を人とも思わない裁判官
      ・・・・「人格は最低」しかし「法律を遵守する義務がある」
     →失望しなくてよい十分な理由が神様の人格にある
  ○やもめ・・・・社会的地位が低く相手にする必要感が乏しい
     →祈る側の資質や熱心さは祈りが聞かれることと無関係

F イエスの祈りの本質
  ○目に見える現実と関係のない感謝(ヨハネ6:11)
  ○祈りは祈る側ではなく祈りに答える側にかかっているという告白
   (ヨハネ11:42)