2007年5月23日水曜日

5月20日 ステパノのメッセージ

使徒7章はステパノのメッセージです。みなさんは、このメッセージをどのようにお読みになったでしょうか。ステパノは、ユダヤの歴史をアブラハムから今日に至るまで振り返りながら、ダイジェストで語りました。そのアウトラインはユダヤ人なら誰もが知っている先祖の歴史です。しかしながら、その解釈は誰も聞いたことのない独特のものでした。選民としての強い民族意識に燃えるユダヤ人の宗教指導者たちにとって、「あなたがたは、その父祖アブラハムから今日に至るまで、一貫して神に逆らい続けて来たではないか」という辛辣な内容は、絶対に受け入れることができないものでした。ステパノのことばは、誤解する余地がないほど明確でした。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が誰かあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もってのべた人たちを殺したが、今は、あなたがたが、このあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」(使徒7:51~52)ステパノは、ユダヤ人の全ての歴史と誇りを完全に否定しました。人々は、これを聞いて心を刺され、悔い改めはしませんでした。逆にはらわたが煮えかえるほど怒り、全員でステパノに石を投げつけて殺しました。果たして、ステパノのメッセージは失敗だったのでしょうか。もっと別のことを違った方法やことばで伝えるべきだったのでしょうか。どう思われますか。私たちはステパノの死から約2000年のときを経た今日、この問いに誠実に答えるべきです。
ステパノのメッセージの結果は、大喝采や賞賛ではなく、怒号と暴力でした。語ったがために殺されたのです。私は、このステパノのメッセージを読みながら、深く反省させられました。語ったがゆえに殺されるほどのメッセージは、まさに力あるものです。
このメッセージのもたらした悲惨な結末と同時に、その力強さの秘密を、ルカは殺されてゆくステパノの表情の中にとらえています。ステパノは御使いのような顔で、聖霊に満たされながら語り、そして喜びの中で死んでいったのです。ステパノに死に様は、まさに十字架のイエスさまと重なります。(使徒7:54~60)彼は主に霊をゆだね、自分に石を投げた人々をとりなす祈りをします。語る相手を伺い、顔色を気にしていては、このようなメッセージは絶対出来ません。ステパノの死は、「教会の歴史の中で初の殉教者の記述である」と言われます。しかし、私はこの種の言い回しも「殉教」という表現も好きにはなれません。日本語では、エクレシアは教える会の「教会」であり、それに合わせて教えに殉ずる「殉教」なのでしょうが、ステパノは信念のために自ら死を選んだわけではありません。みことばを語ったがゆえに怒り狂った人たちが彼を石で打っただけの話なのです。ステパノが見つめていたのは、メッセージを伝えているユダヤ人ではなくイエスさまでした。ステパノの心を支配していたのは、イエスさまであって、決して「教え」ではありませんでした。殉教者の内面が小説の題材になることは多いですが、これは極めて人間的で、実に非聖書的です。教会の中にも「殉教」を頂点として、信仰を徳目としてとらえる弱さが常に働いています。「御使いのような顔をした人になろう」という発想は全く逆さまの発想であって、ステパノ自身は「自分の表情がどのようであったか」ということになど、何の関心もなかったでしょう。ステパノの顔がそのように輝いて見えたのは、彼の全存在がイエスさまの栄光を真正面から受け止めた結果なのです。
このステパノのメッセージを受けた私たちは、今この時代に対していったい何を語るべきなのでしょう。ステパノのメッセージのポイントを整理してみます。まず第1に、ステパノのメッセージは、どの文章もすべて神が中心です。「神が現れた」「神が言われた」「神が約束された」「神がお与えになった」「神がともにおられた」と、神を主語として語られている内容が、大半を占めています。それに対して人間がどのように応え行動したかというまとめ方になっています。今日の証やメッセージは、ほとんどが「私」を主語とした問題や祝福の話です。ステパノのメッセージと比べてみれば違いは明確です。ステパノが神を主語にして語るとき、神は常に変わらず、憐れみ深く働きかけ、恵みを注ぎ続けておられます。しかし、人はそれを拒み続け、逆らい続けるという内容です。
そして第2に、そんなどうしようもないユダヤ人の歴史のポイント、ポイントに、神が選ばれた憐れみの器をお立てなったことを語っています。アブラハムに始まり、イサク、ヤコブ、12人の族長の中からヨセフ、そして、モーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモンです。彼らは預言者として神のことばを預かり、民に語りましたが、彼らは必ずしも受け入れられず、常に孤独でした。迫害や苦しみの中でみことばの約束に握って歩み、それぞれの時代に神に従った結果、彼らの人生そのものが来たるべきキリストの雛型となりました。例えば、ヨセフが兄弟たちにねたまれエジプトに売られるが、その後エジプトに大臣となって、ききんで苦しむ兄弟達を救って再会を果たすことは、イエスさまを十字架につけて殺したユダヤ人がやがて、その罪に気づくときに和解することの雛型です。いくら年寄り子のヨセフが可愛いからといっても、ひとりだけ特別扱いして上等な服を着せたりしたヤコブの愛情表現はどう考えても偏っており、賢い子育てではありません。その結果、兄弟がヨセフをねたんでエジプトに売るわけですが、神の手によれば、そのような愚かさも許容されています。また、モーセが同胞を救うために立ち上がるが、民から理解を得られず、逃れたミデアンの地で異邦人の女性と結婚して子どもを設けることは、ユダヤ人の手によって十字架につけられたイエスさまの福音が異邦人に受け入れられ花嫁としての教会が異邦人から迎えられることの雛型です。また、ダビデは羊飼いから王になるに至るそのドラマチックな人生そのものが、ソロモンはその類を見ないほどの知恵と繁栄ぶりが、イエスさまの苦難と栄光を映しています。そして、彼らの信仰のあゆみがひとつにつながって、イエスさまを生み出す系図を作り出しているのです。神の主権と選び、そして人の失敗と信仰による選択が、見事に織りなされてキリストの救いの計画を実現に至らせ、教会を誕生させるのです。
ステパノは、アブラハムからイエスさまの時代までのユダヤ人の歴史について語りましたが、選ばれた器たちの歩みは、さらに先の教会時代をも含む歴史を先取りしたかたちで予表しています。それらを今日に当てはめて、ペンテコステから再臨に至るまでの教会の歴史について語るなら、その反抗や不信仰ぶりも、同じかもっとひどいものになるはずです。教会もまた主に逆らいどおしで、同じ愚かさをさらに拡大して繰り返しているのです。 神の偉大さも、人の愚かさも、変わることはありません。
 第3番目に、ステパノは神の臨在の本質について語りました。移動可能だった荒野での「あかしの幕屋」から、約束の地で王国を確立した後の固定した「神殿」に至る歴史を振り返りながら、初めから手で造った家になど住まないのだという根本的なことを思い出させます。(使徒7:48~50)このあたりが、「聖なるところを壊し、慣例を変えてしまう」といった批判につながるのでしょう。(使徒6:14) しかし、これはもともと、神殿を造ることを計画したダビデに伝えるために、主が預言者ナタンに語られたことばにあるとおりです。(Ⅱサムエル7:7)ダビデは、神の家を造りたいと願ったのですが、逆に神がダビデに「あなたの家を造る」と繰り返し言っておられるのです。(Ⅱサムエル7,11~13)勿論、「あなたのために造られる一つの家」とは、「あなたの身から出る世継ぎの子の王国」とは教会のことです。先に引用されていたイザヤのことばでも、主のいこいの場所は、特別に人が造った場所ではなく、「へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者」であることが語られています。(イザヤ66:2)主は、常にそのような者とともにおられ、今日では、私たちの内側にその霊とともに住んでくださるのです。
最後に、ステパノがあげた選びの器のことばから、その信仰の態度を検証したいと思います。逆らい続けた民と、名を上げられた人物にはどのような違いがあるのでしょう。ヨセフの場合を例に見てみます。
「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(創世記45:5)「だから、今、私をここに遣わしたのは神なのです。」(創世記45:8) これは、兄弟と再会したヨセフが語ったことばですが、自分の歩んできた道のりを恐れと感謝をもって、神の摂理の中できちんととらえています。 ヨセフはのその生涯の大半をエジプトで過ごしました。そこで大臣になりました。一方カナンには飢えた兄弟たちがいたのです。 しかし、ヨセフの心はエジプトの富や地位にはなく、約束の地にありました。その彼の信仰の証として、骨についての指図をしたのです。(使徒7:16)(ヘブル11:22)(創世記50:24~25) このように、いつの時代にも、心砕かれへりだって神のことばにおののく人たちを通してもたらされる恵みと、神に逆らい続ける人たちの抵抗する力がせめぎ合っているのです。 

5月13日 御霊と知恵とに満ちた評判の良い人

 新約聖書の中には、教会の本質について語られているところは数多くあっても、実は教会の組織についての教えは全くありません。教会には、これこれこういう役職を置いてその役割は何だとか、どのような会議を持ち重要なことを決定するときにはこういう条件を満たすべきとか、会計についてどうとか、そういうどんな組織にでも最低決まっていそうな具体的なことが何一つ書かれていません。ですから、いわゆる現存するキリスト教会がとっているあらゆるスタイルが聖書の記述どおりであるかどうかというのは、明確な基準がないため非常に曖昧なのです。 教会はひとつの霊的ないのちの共同体であって、はじめから人間の組織ではないし、人間の組織的統制や関与を受けるべきものではありません。ですから、人間が自らの知恵や権威によってコントロールした結果、今日見られるような混沌とした状況を生み出すのは当然なのです。 そのような意味においても、使徒6章は非常に興味深い箇所です。教会の組織についての教えはありませんが、当時の教会運営のひとつのあり方の例を示しています。 人数が増えてくると、当然そこにはいろんな背景を持った人たちが集まって来るでしょう。いろんな背景を持った人たちが集まると当然トラブルも起こります。ヘブル語を使うユダヤ人がギリシャ語を使うユダヤ人を毎日の配給においてなおざりにしたのです。これは、それほど簡単な問題ではありませんでした。このような記述を見ると、初代教会は完璧であったということが幻想であることがわかります。
 この異なる背景を持った2つのタイプのユダヤ人について、少し説明します。旧約聖書の一番新しい部分と新約聖書の一番古い部分の間には約400年間の隔たりがあります。その間に有名なアンティオコス・エピファネスというシリアの暴君が登場します。この男は、ユダヤ人に神殿で礼拝することを禁じ、聖なる場所に偶像を持ち込みます。民族意識に目覚めたユダヤ人は独立のために戦います。これがマカベヤの乱です。パリサイ派やサドカイ派などもこの時期に生まれたと言われています。そのような時代に、ギリシャ語を使うユダヤ人の群れがありました。彼らはヘレニストと呼ばれ、ギリシャ的な価値観を持ち、ギリシャ的な生活をしていました。当然ユダヤ的ユダヤ人から見れば、ヘレニストは軟弱に見え、ヘレニストたちからすれば、ユダヤ的ユダヤ人は頭の固い融通の利かない連中とうつるわけです。そういうわけですから、たとえイエスさまを信じたとしても、ヘレニストとガチガチのユダヤ人との間には、簡単に埋めがたい溝があるわけです。放蕩息子の兄が弟を受け入れられないような感覚があったわけです。こうした類のことは、いつの時代にもどんな教会にもあったことです。
 問題が起こったとき、使徒たちが決定したスタイルではなく、彼らが何を重要だと考えたのかを見るべきです。 使徒たちは何と言っているでしょうか。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、あなた方の中から御霊と知恵とに満ちた評判の良い人たち7人を選びなさい。私たちはその人たちをその仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(使徒6:5) 使徒たちの苦情処理の方法は、とても変わっています。具体的な問題の解決を示したのではなく、別の人たちに丸投げしたからです。一番問題にしている事柄について、その問題を解決もせず、それは二の次だ宣言したのです。 では、何が大事だと言ったのでしょう。「神のことば」です。さまざまな背景を持ったさまざまな生き方をしてきた人たちが集まったときに、一致できるのは「みことばの中」だけです。お互いの言い分を聞いて、なだめたりすかしたり条件をすりあわせたりするのは、決して良い方法ではありません。それは全く無駄なのです。専門家でもないのに、出来損ないのカウンセリングをして、共依存の末に信者と共倒れする牧師がいますが、そんなことは少し知恵があれば容易に想像できる未来です。勿論困っている人の痛みに共感することは大事です。しかし、一緒にその問題を見つめ続けて何が解決するでしょうか。解決などしないのです。たったひとつの大事なことは、「みことばに聞くこと」です。 食卓のことも大切です。しかし、神のことばはもっと大切です。使徒たちはそのことを知っていました。イエスさまは2匹の魚と5つのパンで男だけで5千人もの人を養われる力をお持ちです。弟子たちはそれを経験しました。ほしいだけ分けた末、なお余ったパン切れで12のかこがいっぱいになったのです。(ヨハネ6:11~13) それは、食料がないという事実を確認した結果ではありません。イエスさまが天を見つめ、感謝して祈られた結果でした。食料がないという事実をどれだけつきつめても、いつまでたっても食料がないだけです。
 使徒たちは、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専念すると宣言しました。そして、食卓のことに当たらせる人の選抜の基準について語りました。それには、3つの評価ポイントがありました。1つめは御霊に満ちていること、2つめは知恵に満ちていること、3つめは評判が良いということです。食卓のことなのだから、誰かを教えたり導いたりするわけではないので、その方面の能力や忠実さがあれば十分だと思われるかもしれませんが、そうではなかったのです。食卓のことであっても、これは教会の仕事です。すべてはキリストの奉仕なのです。「御霊に満たされた人」でなければ教会の奉仕は出来ないのです。教会の中で問題がおこるのは、本来は奉仕をさせるべきではない人に奉仕をさせるからです。2つ目は知恵に満ちていることです。「鳩のような素直さと同時に蛇のようにさとくあることが必要だ」とイエスさまは言われました。この世にも通用する知恵が必要です。状況を適切に判断し、臨機応変に対応できる知恵が必要です。これは純粋な主に対する信頼とは別に、この世の様々な場面に具体的にみことばを適用する力と言ってもいいでしょう。教会の中での奉仕には、そのようなスキルが求められるのです。食卓のことと言っても、食事の準備や配給といった台所仕事だけではなく、みことばのご用に当たる以外の全般的な実務を指しているのでしょう。いくらみことばを文字通りたくさん記憶していたところで、使えなければ、宝の持ち腐れです。こういう状況をさして「豚に真珠」と言います。豚では駄目なのです。3つめは評判がよいことでした。これは、その人物に対する一定以上の社会的評価です。それは地位や職業と言うより、人格に対する信頼感です。教会の中でも外でも、確かに間違いのない評価を得ているということです。世の中での居場所を失ったり、野心を砕かれた人たちが、キリスト教の世界で自己実現しようと思っている場合があります。こういう人たちは○○派に多いのです。逆に世の中で一定以上の地位や評価を得ている人たちが、さらに、謙遜であったり清らかであったりすることで、プラスアルファの評価を得ることによって自己実現をはかりたい。こういう人たちは××派に多いのです。しかし、周囲の評価など求めてはいないのに、結果として評判が良いということは必須条件です。ここは大事です。この世の仕事さえ満足に出来ない者には教会の奉仕など出来ないし、させてはいけないのです。教会の奉仕で家庭や仕事がおろそかになることなどあってはならないことです。 この世で役に立たなかった者も、いったん主の御手にかかれば役に立つ者に代えられます。ピレモンへの手紙に出てくるオネシモなどはその良い例です。(ピレモン11)オネシモはピレモンの奴隷であって、もともと法律上は彼の財産でした。その奴隷であったオネシモが主人であるピレモンの財産を盗んだのですが、ピレモンはオネシモを兄弟として迎えることができるように、パウロがこの手紙を書いたのです。オネシモというのは、「役に立つ者」という意味です。 過去がどうであっても、イエスさまに救われ、健全な信仰を持つ者が、「役に立たない者」とか、「実を結ばない者」になることはないということです。(Ⅰペテロ1:5~11) つまり、救われる前に世の中で役に立っていたかどうかではなく、「救われてからの世との関わり方がどうかということ」がポイントになります。教会の中でだけ役に立つ人などいません。教会の中で堅実に奉仕が出来る人は、この世でも影響力を持っています。そのことは、6章の後半に登場するステパノという人物を見ても明らかです。 使徒たちの方法が間違っていなかったことは、結果として表れました。「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」(使徒6:7)
 6章の前半は当時の教会の様子をスケッチしたような内容ですが、後半はひとりの人ステパノにスポットが当たります。ステパノは食卓に奉仕する7人のうちの1人でしたが、彼の賜物はさらに豊かに現れ始めました。 ステパノの特徴は「恵みと力」に満ちていることでした。そのすばらしい不思議なわざとしるしがどのようなものであったかはわかりませんが、いろいろな人たちがステパノと議論しても勝つことが出来なかったことが記されています。(使徒6:8~10) まともに戦って勝てないとみると、敵はさまざまな言いがかりや悪巧みによってステパノを陥れようとします。これがこの世の手法です。周辺がどす黒くよどめばよどむほど、主のしもべは輝きを増すのです。 「ステパノの顔は御使いの顔のように見えた」(使徒6:15)と書いてあります。御使いがどんな顔だか見たこともないのでよくわかりませんが、それは顔立ちではなく、その顔が放つ輝きのようなものでしょう。それは主の栄光を反映した光であり熱なのです。私たちもまた主を見つめながら、この世に対して微笑みかける者でありたいものです。 教会は完全分業制でもなく、役割や賜物もいのちの成長やそのときの必要などさまざまな条件によって、移り変わるのです。ステパノの役割や奉仕の広がりを見れば、それは明らかです。 みこころをとらえ、賜物の必要を感じれば、積極的に祈りましょう。ヤコブは知恵について次のように勧めています。 「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげもなく、とがめることもなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1:5)

2007年5月10日木曜日

5月6日 人に従うより神に従うべきです

「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。」(使徒4:32)ルカは、初代教会の麗しい様子を、このように記録しました。しかしそれは、当時の教会が特別善良な人々の集まりだったわけではありません。また、ルカがクリスチャンのあり方を示すために事実を誇張して書いたのでもありません。聖霊の働きが顕著であった使徒たちの時代の教会にも、今日と同様に、すばらしい交わりの中に、とんでもない過ちが混じっていました・アナニヤとサッピラのエピソードは、そんな初代教会の様子をリアルに伝えてくれているばかりでなく、教会の中に常に起こりうる問題の可能性について豊かな示唆を与えています。アナニヤとサッピラは夫婦で信仰を持っていました。彼らは間違いなく救われた人たちでした。夫婦や家族でそろって教会に集えることは素晴らしい恵みです。これは、家族の誰かを家に残してひとりで交わりに加わっているのとは全然違います。しかしながら、この夫婦は聖霊をあざむいたがゆえに地上でのいのちを失ってしまいました。この記事の前にはバルナバが畑を売ってその代金を使徒たちの足もとに置いたという記録があり、「自分の持ち物を捧げて教会の入り用に用いるのが当然」という空気が支配していたのかも知れません。しかし、それは誰かに強いられてではなく、一人ひとりが喜んで自ら捧げた結果が積み重なったものでした。決してとなりの兄弟姉妹や使徒たちの顔色を伺いながら捧げたものではなかったのです。ところが、アナニヤとサッピラは、決して「喜んで捧げた」のではなく、肉によって計算して捧げたのです。そこにごまかしや偽りが入り込みました。
当たり前のことですが、同じように畑や土地などを売ったとしても、その場所や面積によって不動産としての価値は違います。また、親や子どもを養わなければならないという家庭的事情を抱えている人たちは、自由になるお金を持っている人たちと同じようにはいかないでしょう。アナニヤとサッピラの売った土地にどれほどの価値があり、彼らの生活の入り用が具体的にどうようなもので、どれほど深刻であったかは書かれていません。彼らにどんな事情があったのかはわかりませんが、何かの必要を考えてお金を残しておくのは何も間違ったことではないはずです。彼らは捧げることを拒んだわけではありません。一部を残しておいたことが悪いわけでもないのです。交わりに加わる条件として、不動産を売り払って全額差し出さないといけないという掟があったわけではないのです。では、彼らの罪はどこにあったのでしょうか。教会に捧げたお金が地所の代金の一部であるにも関わらず、それが全部であると偽ったことにあるのです。なぜ、愛する兄弟姉妹にそのように偽る必要があったのでしょうか。ペテロが言っているように、「それはもともと自分たちのものだったし、売ってからでも自由になった」はずなのです。 ここに、人間の宗教の偽りがあります。「聖霊が支配するいのちの群れ」と、「人間性が支配する宗教の群れ」との根本的相違があります。そして、それはどこの教団、教派であろうと、いかなる群れであろうと、人間が集まるところには絶えず混在しうるものだということをこの箇所は教えています。使徒たちが生きており、しるしや不思議があり、集まった場所が震い動くほどの聖霊の満たしがあろうと、クリスチャンの群れには、常に偽りが入り込む予知があるのです。鍵はその交わりに自由があり、喜びがあるかどうかです。
当時、多くの兄弟姉妹が惜しみなく捧げたのはなぜでしょうか。それは、当時のたくさんの兄弟姉妹の中に、「私たちは父と御子を持っている」という感覚がリアルにあったからです。「神に所有され、神を所有する民」それがクリスチャンです。そのような事実を日々経験している者は、自分がこの地上で一時的に持つことを許されたものをいつまでもかたくなに握りしめていることのほうが、むしろ困難なのです。彼らが、持ち物をはじめ、すべてを共有できたのは、それらのいっさいのものの前に、まず御子イエスを共有していたからです。この共有感覚のない者に、「何かを捧げるべき」などと教えても無駄だし、無理なのです。兄弟たちには喜びがあり、捧げたいから捧げたのです。自分たちが既に得ている者の価値がわかれば、お金にしろ、時間にしろ、能力にせよ、すべて主のために使いたいと思って当然なのです。そういういのちの喜びにあふれた群れで自然に行われていた行為を、理想化し、約束ごとや集団の規律に代えていくところにわながあります。新約聖書には勧めはあっても規定はありません。使徒たちが、捧げもののあり方について、一定のルールや何かの約束を設けたわけでもないのに、アナニヤとサッピラは、勝手に自分で自分の心をしばって窮屈にしたのです。
 このように人が勝手に作り出した宗教は、不自由で窮屈です。それは、自己を中心にした引き替え条件の中で成り立っているのです。「捧げれば何倍もの祝福がある」という考え方は、本来の価値を逆転させています。「捧げれば何倍の祝福がある」とは言わなくても、高価な香油を注いだベタニヤのマリヤを例にとって、「見返りがなくとも高価なものをたくさん捧げることが立派な行為だ」となります。 マリヤが香油を捧げたとき、弟子たちにはその価値が理解できませんでした。マリヤは自分の行為も捧げる香油の価値も計算しませんでした。マリヤが一番リアルに感じられたのは、主が与えようとしておられるもの価値と主の限りない愛であって、自分が注ぐ香油でも、注ぐという行為でもありませんでした。 同様に、すべてのものを共有していた兄弟たちが意識していたものは、主御自身であって、自分たちの捧げものではありませんでした。しかし、アナニヤとサッピラが見ていたものは、自分たちの捧げものであり、多くのものを捧げていた周りの兄弟姉妹の姿でした。 もうお気づきでしょうか。「ベタニヤのマリヤは高価な香油を捧げた。これは素晴らしいことだ。さあ、みなさんもこのようにすべてを捧げることです」というような勧めは、良いことを勧めているようで、根本的に違うのです。マリヤが見たものをはっきり見なければ、マリヤの聞いたみことばを深く味わうことがなければ、主に対する感動もありません。主の愛に突き動かされることなしに、マリヤの行為をまねることは不可能です。何かのムードに扇動されたり、薄っぺらな義務感で強いられるような礼拝や奉仕や献金は、主の前には受け入れられることはないのです。アナニヤとサッピラは多分そろばんづくで祝福を求めたのではないと思います。他の兄弟姉妹達の手前、とりあえずそうしたのでしょう。しかし、それは彼らが考えた以上に大きな罪でした。彼らがあざむいたのは兄弟姉妹ではなく、主御自身だったのです。
 私たちが神に何かを捧げるとしたら、そのたびに是非思い出したいのは、このダビデのことばです。(Ⅰ歴代誌29:10~19)「まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んで捧げる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたに捧げたにすぎません。」(Ⅰ歴代誌29:14) ダビデが人間的には失敗だらけの人でしたが、彼がどれほど主の前にへりくだって歩み、主に喜ばれていたかは明らかです。まずどれだけを受けたか知らない者が捧げることは出来ないのです。自分の犠牲と引き替えに神さまと取引しようなどいう考えは、悪魔を契約を結ぶときの方法です。
 大事なことは、人ではなく神を見ることであり、人にではなく神に従うことです。人を恐れる者は神を恐れません。反対に神を恐れる者は、人を恐れることはありません。実際、神を恐れつつ証を続ける使徒たちの大胆さは目を見張るばかりです。 その大胆さと力強い証の根底には、主に対する深い恐れがありました。「教会全体とこれを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた」(使徒5:11)と書いてあります。実は、この箇所は、「教会」という表現が使徒の働きの中で初めて出てくるところです。この「恐れ」の感覚というのはとても大切です。教会に「非常な恐れが生じた」ことは、アナニヤの死の箇所にも、サッピラの死の箇所にも書いてあります。(使徒5:5)その恐れには、「突然人が超自然的な死に方をした」という恐怖の恐れも含まれてはいますが、本質は「神のきよさと権威に対する恐れ」です。そのことはこの恐れに関して、誰も人が死んでいない場面に書いてあることからもわかります。「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇跡が行われた。信者になった者はみないっしょにいて、いっさいの者を共有にしていた。」(使徒2:43) このような神が臨在される厳粛さがもたらす「恐れ」だけが、人を執着や欲望から解放し、本当の自由をもたらすのです。 ペテロは手紙の中で次のように言っています。 「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが。あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」(Ⅰペテロ3:16) 証において大切なのは、人に対する優しさと、神に対する恐れです。
 「人に従うのではなく、神に従うべきだ」という使徒たちの証のスタンスは、今日の私たちにとっても一番大事なものです。4章のサンヘドリンでの証の場面でも、ペテロとヨハネは同じようなことを言っていました。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは自分の見たこと、また聞いたことを話さないわけにはいきません。」(使徒4:19~20) そして、聖霊は神に従う者たちに与えられるのです。(使徒5:32)人に従うことと神に従うことは相反することとして書かれています。つまり、人に従いつつ神に従うということは出来ないということです。さらに言えば、神に従っていないのなら、人に従っているということです。誰かの間違った意見に誘導されているわけではなくても、みことばから離れ、自分の考えや判断だけで選択し、行動することは、「神ではなく人に従っているのだ」とも言えます。
 主の命令とは、「宮の中に立ち、人々にいのちのことばをことごとく語る」ことです。(使徒5:20)そして、いのちのことばとは、「イエスがキリストであること」を宣べ伝えることに他なりません。(使徒5:42)それを拒もうとする力は常に働いています。心と思いを一つに出来るのは、主が中心におられるからです。健全な交わりは、イエスを中心にした同心円状にしかありません。中心が少しでもずれれば一致は不可能です。パウロもペテロも、どのような力ある人も交わりの中心ではあり得ません。人間を中心にして教えや約束などで引っ張ろうとすると、異なる中心、異なる半径の円や楕円がいくつも出来るわけです。しかし、最も美しい円は主だけが知っておられ、この世での繁栄や栄光はないものと考えてよいでしょう。御名の中に保たれることは、やがてイエスが勝ちとられた栄光を相続することを意味します。同時に、この世にあっては、その御名のゆえにはずかしめを受けることも覚悟しなければなりません。(使徒5:41)
 最後に当時の教会の様子をもう一度確認しましょう。「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとはしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。」(使徒5:13)本当の交わりには、喜びや楽しさ同時に、この描写に見られるような清浄で凛とした空気が漂っているものなのです。