2007年5月23日水曜日

5月13日 御霊と知恵とに満ちた評判の良い人

 新約聖書の中には、教会の本質について語られているところは数多くあっても、実は教会の組織についての教えは全くありません。教会には、これこれこういう役職を置いてその役割は何だとか、どのような会議を持ち重要なことを決定するときにはこういう条件を満たすべきとか、会計についてどうとか、そういうどんな組織にでも最低決まっていそうな具体的なことが何一つ書かれていません。ですから、いわゆる現存するキリスト教会がとっているあらゆるスタイルが聖書の記述どおりであるかどうかというのは、明確な基準がないため非常に曖昧なのです。 教会はひとつの霊的ないのちの共同体であって、はじめから人間の組織ではないし、人間の組織的統制や関与を受けるべきものではありません。ですから、人間が自らの知恵や権威によってコントロールした結果、今日見られるような混沌とした状況を生み出すのは当然なのです。 そのような意味においても、使徒6章は非常に興味深い箇所です。教会の組織についての教えはありませんが、当時の教会運営のひとつのあり方の例を示しています。 人数が増えてくると、当然そこにはいろんな背景を持った人たちが集まって来るでしょう。いろんな背景を持った人たちが集まると当然トラブルも起こります。ヘブル語を使うユダヤ人がギリシャ語を使うユダヤ人を毎日の配給においてなおざりにしたのです。これは、それほど簡単な問題ではありませんでした。このような記述を見ると、初代教会は完璧であったということが幻想であることがわかります。
 この異なる背景を持った2つのタイプのユダヤ人について、少し説明します。旧約聖書の一番新しい部分と新約聖書の一番古い部分の間には約400年間の隔たりがあります。その間に有名なアンティオコス・エピファネスというシリアの暴君が登場します。この男は、ユダヤ人に神殿で礼拝することを禁じ、聖なる場所に偶像を持ち込みます。民族意識に目覚めたユダヤ人は独立のために戦います。これがマカベヤの乱です。パリサイ派やサドカイ派などもこの時期に生まれたと言われています。そのような時代に、ギリシャ語を使うユダヤ人の群れがありました。彼らはヘレニストと呼ばれ、ギリシャ的な価値観を持ち、ギリシャ的な生活をしていました。当然ユダヤ的ユダヤ人から見れば、ヘレニストは軟弱に見え、ヘレニストたちからすれば、ユダヤ的ユダヤ人は頭の固い融通の利かない連中とうつるわけです。そういうわけですから、たとえイエスさまを信じたとしても、ヘレニストとガチガチのユダヤ人との間には、簡単に埋めがたい溝があるわけです。放蕩息子の兄が弟を受け入れられないような感覚があったわけです。こうした類のことは、いつの時代にもどんな教会にもあったことです。
 問題が起こったとき、使徒たちが決定したスタイルではなく、彼らが何を重要だと考えたのかを見るべきです。 使徒たちは何と言っているでしょうか。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、あなた方の中から御霊と知恵とに満ちた評判の良い人たち7人を選びなさい。私たちはその人たちをその仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(使徒6:5) 使徒たちの苦情処理の方法は、とても変わっています。具体的な問題の解決を示したのではなく、別の人たちに丸投げしたからです。一番問題にしている事柄について、その問題を解決もせず、それは二の次だ宣言したのです。 では、何が大事だと言ったのでしょう。「神のことば」です。さまざまな背景を持ったさまざまな生き方をしてきた人たちが集まったときに、一致できるのは「みことばの中」だけです。お互いの言い分を聞いて、なだめたりすかしたり条件をすりあわせたりするのは、決して良い方法ではありません。それは全く無駄なのです。専門家でもないのに、出来損ないのカウンセリングをして、共依存の末に信者と共倒れする牧師がいますが、そんなことは少し知恵があれば容易に想像できる未来です。勿論困っている人の痛みに共感することは大事です。しかし、一緒にその問題を見つめ続けて何が解決するでしょうか。解決などしないのです。たったひとつの大事なことは、「みことばに聞くこと」です。 食卓のことも大切です。しかし、神のことばはもっと大切です。使徒たちはそのことを知っていました。イエスさまは2匹の魚と5つのパンで男だけで5千人もの人を養われる力をお持ちです。弟子たちはそれを経験しました。ほしいだけ分けた末、なお余ったパン切れで12のかこがいっぱいになったのです。(ヨハネ6:11~13) それは、食料がないという事実を確認した結果ではありません。イエスさまが天を見つめ、感謝して祈られた結果でした。食料がないという事実をどれだけつきつめても、いつまでたっても食料がないだけです。
 使徒たちは、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専念すると宣言しました。そして、食卓のことに当たらせる人の選抜の基準について語りました。それには、3つの評価ポイントがありました。1つめは御霊に満ちていること、2つめは知恵に満ちていること、3つめは評判が良いということです。食卓のことなのだから、誰かを教えたり導いたりするわけではないので、その方面の能力や忠実さがあれば十分だと思われるかもしれませんが、そうではなかったのです。食卓のことであっても、これは教会の仕事です。すべてはキリストの奉仕なのです。「御霊に満たされた人」でなければ教会の奉仕は出来ないのです。教会の中で問題がおこるのは、本来は奉仕をさせるべきではない人に奉仕をさせるからです。2つ目は知恵に満ちていることです。「鳩のような素直さと同時に蛇のようにさとくあることが必要だ」とイエスさまは言われました。この世にも通用する知恵が必要です。状況を適切に判断し、臨機応変に対応できる知恵が必要です。これは純粋な主に対する信頼とは別に、この世の様々な場面に具体的にみことばを適用する力と言ってもいいでしょう。教会の中での奉仕には、そのようなスキルが求められるのです。食卓のことと言っても、食事の準備や配給といった台所仕事だけではなく、みことばのご用に当たる以外の全般的な実務を指しているのでしょう。いくらみことばを文字通りたくさん記憶していたところで、使えなければ、宝の持ち腐れです。こういう状況をさして「豚に真珠」と言います。豚では駄目なのです。3つめは評判がよいことでした。これは、その人物に対する一定以上の社会的評価です。それは地位や職業と言うより、人格に対する信頼感です。教会の中でも外でも、確かに間違いのない評価を得ているということです。世の中での居場所を失ったり、野心を砕かれた人たちが、キリスト教の世界で自己実現しようと思っている場合があります。こういう人たちは○○派に多いのです。逆に世の中で一定以上の地位や評価を得ている人たちが、さらに、謙遜であったり清らかであったりすることで、プラスアルファの評価を得ることによって自己実現をはかりたい。こういう人たちは××派に多いのです。しかし、周囲の評価など求めてはいないのに、結果として評判が良いということは必須条件です。ここは大事です。この世の仕事さえ満足に出来ない者には教会の奉仕など出来ないし、させてはいけないのです。教会の奉仕で家庭や仕事がおろそかになることなどあってはならないことです。 この世で役に立たなかった者も、いったん主の御手にかかれば役に立つ者に代えられます。ピレモンへの手紙に出てくるオネシモなどはその良い例です。(ピレモン11)オネシモはピレモンの奴隷であって、もともと法律上は彼の財産でした。その奴隷であったオネシモが主人であるピレモンの財産を盗んだのですが、ピレモンはオネシモを兄弟として迎えることができるように、パウロがこの手紙を書いたのです。オネシモというのは、「役に立つ者」という意味です。 過去がどうであっても、イエスさまに救われ、健全な信仰を持つ者が、「役に立たない者」とか、「実を結ばない者」になることはないということです。(Ⅰペテロ1:5~11) つまり、救われる前に世の中で役に立っていたかどうかではなく、「救われてからの世との関わり方がどうかということ」がポイントになります。教会の中でだけ役に立つ人などいません。教会の中で堅実に奉仕が出来る人は、この世でも影響力を持っています。そのことは、6章の後半に登場するステパノという人物を見ても明らかです。 使徒たちの方法が間違っていなかったことは、結果として表れました。「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」(使徒6:7)
 6章の前半は当時の教会の様子をスケッチしたような内容ですが、後半はひとりの人ステパノにスポットが当たります。ステパノは食卓に奉仕する7人のうちの1人でしたが、彼の賜物はさらに豊かに現れ始めました。 ステパノの特徴は「恵みと力」に満ちていることでした。そのすばらしい不思議なわざとしるしがどのようなものであったかはわかりませんが、いろいろな人たちがステパノと議論しても勝つことが出来なかったことが記されています。(使徒6:8~10) まともに戦って勝てないとみると、敵はさまざまな言いがかりや悪巧みによってステパノを陥れようとします。これがこの世の手法です。周辺がどす黒くよどめばよどむほど、主のしもべは輝きを増すのです。 「ステパノの顔は御使いの顔のように見えた」(使徒6:15)と書いてあります。御使いがどんな顔だか見たこともないのでよくわかりませんが、それは顔立ちではなく、その顔が放つ輝きのようなものでしょう。それは主の栄光を反映した光であり熱なのです。私たちもまた主を見つめながら、この世に対して微笑みかける者でありたいものです。 教会は完全分業制でもなく、役割や賜物もいのちの成長やそのときの必要などさまざまな条件によって、移り変わるのです。ステパノの役割や奉仕の広がりを見れば、それは明らかです。 みこころをとらえ、賜物の必要を感じれば、積極的に祈りましょう。ヤコブは知恵について次のように勧めています。 「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげもなく、とがめることもなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1:5)