「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。」(使徒4:32)ルカは、初代教会の麗しい様子を、このように記録しました。しかしそれは、当時の教会が特別善良な人々の集まりだったわけではありません。また、ルカがクリスチャンのあり方を示すために事実を誇張して書いたのでもありません。聖霊の働きが顕著であった使徒たちの時代の教会にも、今日と同様に、すばらしい交わりの中に、とんでもない過ちが混じっていました・アナニヤとサッピラのエピソードは、そんな初代教会の様子をリアルに伝えてくれているばかりでなく、教会の中に常に起こりうる問題の可能性について豊かな示唆を与えています。アナニヤとサッピラは夫婦で信仰を持っていました。彼らは間違いなく救われた人たちでした。夫婦や家族でそろって教会に集えることは素晴らしい恵みです。これは、家族の誰かを家に残してひとりで交わりに加わっているのとは全然違います。しかしながら、この夫婦は聖霊をあざむいたがゆえに地上でのいのちを失ってしまいました。この記事の前にはバルナバが畑を売ってその代金を使徒たちの足もとに置いたという記録があり、「自分の持ち物を捧げて教会の入り用に用いるのが当然」という空気が支配していたのかも知れません。しかし、それは誰かに強いられてではなく、一人ひとりが喜んで自ら捧げた結果が積み重なったものでした。決してとなりの兄弟姉妹や使徒たちの顔色を伺いながら捧げたものではなかったのです。ところが、アナニヤとサッピラは、決して「喜んで捧げた」のではなく、肉によって計算して捧げたのです。そこにごまかしや偽りが入り込みました。
当たり前のことですが、同じように畑や土地などを売ったとしても、その場所や面積によって不動産としての価値は違います。また、親や子どもを養わなければならないという家庭的事情を抱えている人たちは、自由になるお金を持っている人たちと同じようにはいかないでしょう。アナニヤとサッピラの売った土地にどれほどの価値があり、彼らの生活の入り用が具体的にどうようなもので、どれほど深刻であったかは書かれていません。彼らにどんな事情があったのかはわかりませんが、何かの必要を考えてお金を残しておくのは何も間違ったことではないはずです。彼らは捧げることを拒んだわけではありません。一部を残しておいたことが悪いわけでもないのです。交わりに加わる条件として、不動産を売り払って全額差し出さないといけないという掟があったわけではないのです。では、彼らの罪はどこにあったのでしょうか。教会に捧げたお金が地所の代金の一部であるにも関わらず、それが全部であると偽ったことにあるのです。なぜ、愛する兄弟姉妹にそのように偽る必要があったのでしょうか。ペテロが言っているように、「それはもともと自分たちのものだったし、売ってからでも自由になった」はずなのです。 ここに、人間の宗教の偽りがあります。「聖霊が支配するいのちの群れ」と、「人間性が支配する宗教の群れ」との根本的相違があります。そして、それはどこの教団、教派であろうと、いかなる群れであろうと、人間が集まるところには絶えず混在しうるものだということをこの箇所は教えています。使徒たちが生きており、しるしや不思議があり、集まった場所が震い動くほどの聖霊の満たしがあろうと、クリスチャンの群れには、常に偽りが入り込む予知があるのです。鍵はその交わりに自由があり、喜びがあるかどうかです。
当時、多くの兄弟姉妹が惜しみなく捧げたのはなぜでしょうか。それは、当時のたくさんの兄弟姉妹の中に、「私たちは父と御子を持っている」という感覚がリアルにあったからです。「神に所有され、神を所有する民」それがクリスチャンです。そのような事実を日々経験している者は、自分がこの地上で一時的に持つことを許されたものをいつまでもかたくなに握りしめていることのほうが、むしろ困難なのです。彼らが、持ち物をはじめ、すべてを共有できたのは、それらのいっさいのものの前に、まず御子イエスを共有していたからです。この共有感覚のない者に、「何かを捧げるべき」などと教えても無駄だし、無理なのです。兄弟たちには喜びがあり、捧げたいから捧げたのです。自分たちが既に得ている者の価値がわかれば、お金にしろ、時間にしろ、能力にせよ、すべて主のために使いたいと思って当然なのです。そういういのちの喜びにあふれた群れで自然に行われていた行為を、理想化し、約束ごとや集団の規律に代えていくところにわながあります。新約聖書には勧めはあっても規定はありません。使徒たちが、捧げもののあり方について、一定のルールや何かの約束を設けたわけでもないのに、アナニヤとサッピラは、勝手に自分で自分の心をしばって窮屈にしたのです。
このように人が勝手に作り出した宗教は、不自由で窮屈です。それは、自己を中心にした引き替え条件の中で成り立っているのです。「捧げれば何倍もの祝福がある」という考え方は、本来の価値を逆転させています。「捧げれば何倍の祝福がある」とは言わなくても、高価な香油を注いだベタニヤのマリヤを例にとって、「見返りがなくとも高価なものをたくさん捧げることが立派な行為だ」となります。 マリヤが香油を捧げたとき、弟子たちにはその価値が理解できませんでした。マリヤは自分の行為も捧げる香油の価値も計算しませんでした。マリヤが一番リアルに感じられたのは、主が与えようとしておられるもの価値と主の限りない愛であって、自分が注ぐ香油でも、注ぐという行為でもありませんでした。 同様に、すべてのものを共有していた兄弟たちが意識していたものは、主御自身であって、自分たちの捧げものではありませんでした。しかし、アナニヤとサッピラが見ていたものは、自分たちの捧げものであり、多くのものを捧げていた周りの兄弟姉妹の姿でした。 もうお気づきでしょうか。「ベタニヤのマリヤは高価な香油を捧げた。これは素晴らしいことだ。さあ、みなさんもこのようにすべてを捧げることです」というような勧めは、良いことを勧めているようで、根本的に違うのです。マリヤが見たものをはっきり見なければ、マリヤの聞いたみことばを深く味わうことがなければ、主に対する感動もありません。主の愛に突き動かされることなしに、マリヤの行為をまねることは不可能です。何かのムードに扇動されたり、薄っぺらな義務感で強いられるような礼拝や奉仕や献金は、主の前には受け入れられることはないのです。アナニヤとサッピラは多分そろばんづくで祝福を求めたのではないと思います。他の兄弟姉妹達の手前、とりあえずそうしたのでしょう。しかし、それは彼らが考えた以上に大きな罪でした。彼らがあざむいたのは兄弟姉妹ではなく、主御自身だったのです。
私たちが神に何かを捧げるとしたら、そのたびに是非思い出したいのは、このダビデのことばです。(Ⅰ歴代誌29:10~19)「まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んで捧げる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたに捧げたにすぎません。」(Ⅰ歴代誌29:14) ダビデが人間的には失敗だらけの人でしたが、彼がどれほど主の前にへりくだって歩み、主に喜ばれていたかは明らかです。まずどれだけを受けたか知らない者が捧げることは出来ないのです。自分の犠牲と引き替えに神さまと取引しようなどいう考えは、悪魔を契約を結ぶときの方法です。
大事なことは、人ではなく神を見ることであり、人にではなく神に従うことです。人を恐れる者は神を恐れません。反対に神を恐れる者は、人を恐れることはありません。実際、神を恐れつつ証を続ける使徒たちの大胆さは目を見張るばかりです。 その大胆さと力強い証の根底には、主に対する深い恐れがありました。「教会全体とこれを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた」(使徒5:11)と書いてあります。実は、この箇所は、「教会」という表現が使徒の働きの中で初めて出てくるところです。この「恐れ」の感覚というのはとても大切です。教会に「非常な恐れが生じた」ことは、アナニヤの死の箇所にも、サッピラの死の箇所にも書いてあります。(使徒5:5)その恐れには、「突然人が超自然的な死に方をした」という恐怖の恐れも含まれてはいますが、本質は「神のきよさと権威に対する恐れ」です。そのことはこの恐れに関して、誰も人が死んでいない場面に書いてあることからもわかります。「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇跡が行われた。信者になった者はみないっしょにいて、いっさいの者を共有にしていた。」(使徒2:43) このような神が臨在される厳粛さがもたらす「恐れ」だけが、人を執着や欲望から解放し、本当の自由をもたらすのです。 ペテロは手紙の中で次のように言っています。 「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが。あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」(Ⅰペテロ3:16) 証において大切なのは、人に対する優しさと、神に対する恐れです。
「人に従うのではなく、神に従うべきだ」という使徒たちの証のスタンスは、今日の私たちにとっても一番大事なものです。4章のサンヘドリンでの証の場面でも、ペテロとヨハネは同じようなことを言っていました。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは自分の見たこと、また聞いたことを話さないわけにはいきません。」(使徒4:19~20) そして、聖霊は神に従う者たちに与えられるのです。(使徒5:32)人に従うことと神に従うことは相反することとして書かれています。つまり、人に従いつつ神に従うということは出来ないということです。さらに言えば、神に従っていないのなら、人に従っているということです。誰かの間違った意見に誘導されているわけではなくても、みことばから離れ、自分の考えや判断だけで選択し、行動することは、「神ではなく人に従っているのだ」とも言えます。
主の命令とは、「宮の中に立ち、人々にいのちのことばをことごとく語る」ことです。(使徒5:20)そして、いのちのことばとは、「イエスがキリストであること」を宣べ伝えることに他なりません。(使徒5:42)それを拒もうとする力は常に働いています。心と思いを一つに出来るのは、主が中心におられるからです。健全な交わりは、イエスを中心にした同心円状にしかありません。中心が少しでもずれれば一致は不可能です。パウロもペテロも、どのような力ある人も交わりの中心ではあり得ません。人間を中心にして教えや約束などで引っ張ろうとすると、異なる中心、異なる半径の円や楕円がいくつも出来るわけです。しかし、最も美しい円は主だけが知っておられ、この世での繁栄や栄光はないものと考えてよいでしょう。御名の中に保たれることは、やがてイエスが勝ちとられた栄光を相続することを意味します。同時に、この世にあっては、その御名のゆえにはずかしめを受けることも覚悟しなければなりません。(使徒5:41)
最後に当時の教会の様子をもう一度確認しましょう。「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとはしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。」(使徒5:13)本当の交わりには、喜びや楽しさ同時に、この描写に見られるような清浄で凛とした空気が漂っているものなのです。