2008年4月18日金曜日

4月13日 良い牧者 (イエスのたとえ話⑨)

  ヨハネ10:1~21

今日はヨハネ10章から、「羊の囲いのたとえ」と「良い牧者のたとえ」について、ともに分かち合いましょう。全体の流れと構成をとらえるために、まず、鍵になるヨハネの説明に注目してみます。まず6節です。「イエスはこのたとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」(ヨハネ10:6)と書かれている箇所があります。続いて19節には、「このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。」(ヨハネ10:19)とあります。いずれも、短い文章ですが、たとえを聞いた人たちのリアルな反応を写し取っています。1~5節までの「羊の囲いのたとえ」を聞かされた「彼ら」とは、「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々」です。つまり、シロアムの池で目が開かれた生まれつきの盲人を会堂から追放した人々です。(ヨハネ9:40)「羊の囲いに門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者」とは、彼らのことです。  彼らは自分たちを「盗人」だの「強盗」だの言われていることにピンと来ていません。前半の1~5節までの「羊の囲いのたとえ」だけでは、彼らに意味がわからなかったのです。そこで、イエスはさらに詳しくかみ砕いて7~18節の「良い牧者のたとえ」をお話しになったというわけです。そのみことばが語られると、今度はユダヤ人の中に分裂が起こりました。生まれつきの盲人が見えるようになったことは事実であり、それは喜ぶべきことのはずですが、彼らの中の多くはそれを喜ばず、「イエスは悪霊につかれ気が狂っているのだ」と言いました。しかし、そうは思わない人たちもいたのです。イエスのみわざに心をとめる人々がいたからこそ、後半のたとえもあったわけです。
羊の群れを混乱させるのは、羊飼いのフリをしてやってくる「盗人」そして「強盗」です。彼らは門から入って来ないで、「ほかの所を乗り越えて来る」と言われています。これは重要なポイントです。門とはイエスです。つまり、「偽の牧者は、門であるイエスを通っていない」ことになります。この当時、ユダヤの宗教指導者たちは、聖書を託されキリストを待ち望むように民を指導することが期待された人たちでした。ところが、彼らは預かった神のことばを自分たちの言い伝えで覆ってしまい、歓迎すべき御方を拒絶したのです。今日のキリスト教会でも霊的に同じことが起こっています。本来は羊を養うべき羊飼いが羊を混乱させ、羊を食い物にしている。このふたつのたとえは。そのことに対する強い警告なのです。「わたしは、門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)とはっきり書かれています。どう読んでも、読み違えることなど出来ません。イエスが門です。イエスを通って入れば、だれでも救われるのです。そのように書いてあります。イエスから、その名を呼ばれ、イエスという門を通って来たのではない偽物、つまり、「牧者でなく、また羊の所有者でない雇い人」(ヨハネ10:12)は、「羊のことを心にかけていない」のです。(ヨハネ10:13) このような偽物が、教会という囲いを牛耳って、羊に牧草を与えず、自由を奪っています。「安らかに出入りすること」と、「牧草を見つけること」は、約束です。(ヨハネ10:9)イエスが来られたのは、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため」だと書かれています。(ヨハネ10:10)囲いはありますが、そこから出ないように閉じこめるものではなく、「勝手に迷いでないように」また「外敵が侵入しないように」と、羊の安全のために造られたものです。羊飼いの声が届く範囲であれば、囲いから「安らかに出入りできる」のです。他の教団、教派の教えに触れてはだめ、あの集会、この礼拝に参加してはいけないなどと縛るのは不自然です。良い羊飼いに導かれた羊は牧草を見つけるのです。牧草とはもちろんみことばであり、霊的な満たしのことです。「自由に出入りした結果、牧草を見つける」これが、良い羊飼いについて行く羊の標準的報酬です。羊は羊飼いによって養われ、いのちを満喫するのです。
イエスはご自分を「良い牧者である」と宣言されました。ユダヤ人なら誰もが詩編の23編を思い出したことでしょう。偉大なイスラエルの王ダビデが、わが羊飼いと呼んだ御方がイエスであるということです。さらに、イエスが語られたふたつのたとえは、エゼキエルの34章をさらに深く解説した内容になっています。エゼキエルは、「羊を養わないで自分だけが肥え太る牧者が主がさばかれること」「彼らの手から主が羊を救い出すこと」「主がお立てになったひとりの牧者が羊を養われること」を預言しました。これらのエゼキエルのことばは、アッシリアに滅ぼされる前のイスラエルに対してのものです。ですから、パリサイ人たちもみことばに関する知識はあっても、全く自分たちが責められているとは思わなかったのでしょう。今日、ヨハネの10章を読んで心の痛まない牧師も大勢いるわけですが、彼らはイエスが責めているのは、自分ではない別の人のことだと信じているわけです。良い牧者は「羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ10:11)とまで言われています。これは、限度を超えた極めて異常なことを語っています。家畜を飼うのは家畜に良い思いをさせるためではなく、毛皮をはいだり、肉を食べたりするためです。いくらパレスチナ地方の羊飼いと羊の結びつきが強いと言っても、牧者が羊のためにいのち捨てることなど現実にはあり得ない狂気の沙汰です。 ですから、パリサイ人の多くが、「気が狂っている」と言ったのは、ある意味当然のことなのです。「わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令を父から受けたのです」(ヨハネ10:18)イエスはさらにあり得ないことを語っています。これはヒューマニズムで理解できることばではありません。イエスを「偉大な道徳家」などと評している人はこのみことばをまともに読んだことがないのでしょう。「自分からいのちを捨てること」を一般的に自殺と言います。羊のために自殺する羊飼いがいるとしたら、その羊飼いは大馬鹿野郎です。いのちを粗末にしてはいけません。しかし、イエスは「羊を愛するあまりいのちを落とす」とは言っていません。「死ななければならない運命にあるのだ」とも言っていません。「自分から命を捨てる」と、間違いなくはっきりおっしゃっています。これは、「十字架に架けられた」のではなく、「こっちから架かってやるのだ」という意味です。ですから、十字架というのは、ある側面から見れば神の自殺なのです。人が神の子のいのちを奪ったのではありません。自殺がある意味、英雄的な魅力を秘めているのは、十字架の影だからです。しかし、人の自殺はあくまで自分のためです。イエスがいのちを捨てることは人の身勝手な自殺とは、全く意味も次元も違います。イエスの死は、「羊にいのちを得させ、それを豊かに持たせるため」のものです。羊のために良い牧者として死ぬのです。 それは、「世の罪を取り除く神の小羊」たればこそ実現できたことです。いのちを捨てるには「捨てる権威」が必要です。資格と言い換えてもいいでしょう。この御方には罪がありませんでした。だからこそ、「捨てる権威」があるのです。「権威」とは父の命令であり、それに服従することを意味しています。人にはいのちを捨てる権威はありません。わたしたちのいのちは借り物だからです。正しく管理する責任はあっても捨てる権威などあろうはずがないのです。「なぜ人をなぜ殺してはいけないか」「どうして自分のいのちなのに自殺してはいけないのか」今の大人達は、現実に絶望した子ども達に「なぜ」「どうして」と聞かれると、きちんと答えられないと言います。実は答えは簡単です。いのちは借り物です。借りたものはちゃんと管理して返さないと駄目です。
「権威」ということについて、イエスがピラトとことばを交わされた場面があります。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」とピラトは、恐れの中で語りました。(ヨハネ19:10)しかし、イエスは「もし、それが上から与えられているのでなかったら、あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです」(ヨハネ19:11)とお答えになっています。この瞬間、ピラトは迷える羊としてイエスという門の前に立っていたのですが、その門から中へ入ろうとはしませんでした。神の子イエスと向かい合ったピラトは、自分がさばくのではなく、自分がさばかれている感覚によって恐れたのです。しかし、ピラトはプライドのゆえに、こともあろうに最も権威ある御方に向かって、自分のこの世の権威を振りかざしたのです。ピラトに十字架につける権威があったのではなく、イエスにいのちを捨てる権威があったのです。それは、イエスが父の命令に服されたので、その権威がピラトを圧倒した場面でした。私たちもそれぞれにピラトの座についてイエスを評価します。ピラトはイエスを擁護し、釈放しようと努めますが、最後には「このさばきは自分とは関係ない」と宣言します。これはこの世の多くの人が取る態度と共通しています。
 「盗人」とか、「強盗」と言われているのは、他人のものをこっそり盗んだり、無理に奪ったりするからです。単に「もの」だけでなく「他人の所有権」をも奪うのです。神の権威を盗み、栄光を奪う連中は最大のクズです。イエスさまも、パリサイ人や律法学者をどれぐらいひどく罵られたか見てみればわかります。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」(マタイ23:13)他にも「目の見えぬ手引きども」(24)「白く塗った墓」(27)「おまえたち蛇ども。まむしのすえども」(33)などときっと激しい口調、険しい表情で言われたはずです。悪口と言えば悪口とも言えるこのような手厳しい評価をしっかり見つめるべきです。「互いを裁きあってはいけません」などと言って、そんなところだけ、律儀にみことばを使うのは卑怯です。自分の立ち位置が曖昧な人は、自分が下手につっこまれたくないので、吟味する義務を怠って寛容なふりをするものです。神の栄光を盗もうとする者は最も悪魔的です。「自分から語る者は、自分の「栄光を求めます。しかし、自分を遣わした方を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(ヨハネ7:18)
良い牧者についていく羊の特徴は何でしょうか。それは「彼の声を知っている」とおいうことです。他の人について行かずに逃げ出すのはなぜでしょうか。「その人の声を知らないからだ」と書いてあります。良い牧者に導かれるのは、その声になじみがあるからで、自分の名をはっきり呼ばれたからです。(ヨハネ10:3~5)9章の終わりでイエスはこうおっしゃっています。「もし、あなたがたが盲目であったら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:41)この御方の声を聞くためには、私たちはまず「見えないこと」を告白する必要があります。羊が自分で牧草を見つけられるなら、羊飼いはいらないのです。私たちは見えません。光がないところでは視力が無意味なように、霊的なものは聖霊の光なしには見えません。それが「見える」と語る人々は嘘つきであり、盗人、強盗なのです。私たちには見えませんが、この御方が確かに私を呼んでおられること、その声が確かに自分の羊飼いである方の声だとわかるのです。羊飼いは私を私以上に、あなたをあなた以上に知っておられる方です。「わたしはわたしの者を知っています。また、わたしのものはわたしを知っています」(ヨハネ10:14)それはどれくらいの程度だと書かれていますか。「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。」(ヨハネ10:15)父と御子がひとつであるぐらい、私たちと牧者は一体なのだとみことばは語っています。

4月6日 祈りについての本当の話 (中高生のために)

進級・進学おめでとうございます。まもなくそれぞれに学校も始まって新しいスタートを切るわけですが、そんな大きな節目に当たって、今日は中高生のみなさんを対象に特別にお話しようと思っています。もちろん、大人の兄弟姉妹たちにとっても、基本的なことですが、有益なメッセージになるでしょう。多分みなさんはこれまでに何らかの祈りをしたことがあるし、今も何かを祈り続けているかも知れません。でも、改めて、「これまでに何を祈り、その祈った項目一つ一つについてどんな結果や答えがあったか」と問われると、非常に曖昧であったり、とたんに自信がなくなったりということはないでしょうか。
私は、「祈りはクリスチャンにとって呼吸のようなものだ」とよく言っています。それくらい必要不可欠だということです。祈っていないクリスチャンは息をしていないのと同じ、また、聖書を読まないクリスチャンは、ご飯を食べていないのと同じ、そして、証をしないクリスチャンは運動不足で不健康だとたとえています。その中で、今日は祈りの本質にポイントをしぼってお話します。呼吸というのは、非常に奥の深いものです。無意識でも呼吸は出来ますが、あらゆるスポーツや武道、また、アートの達人の域に達する人は、呼吸というのを非常に意識的にコントロールしています。呼吸というのは、「吐いて吸うことの繰り返し」です。まず、きちんと出すことによって吸います。これをどのように意識づけるかが、しなやかなからだの動きや心の状態と深い関係があるわけです。無意識でも息をしているし、息をしているというのが生きていることであり、生きているということは息をしているということです。うまく呼吸できる人、人と呼吸を合わせることが出来る人は、自分の能力を最大限に引き出し、あらゆる状況に対応できます。齋藤孝という人が、「呼吸入門」という本の中で、呼吸が人間のあらゆる感覚や表現の基本であるということを述べていますから、興味のある人は読んでみると良いと思います。
聖書の原語で「息」というのは「霊」と同じ意味で使われています。はじめの人、アダムが造られたときのことを聖書は次のように書いています。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(創世記2:7)そして、ヨブ記の中には何度も「息」についての表現が出てきます。「私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり」(ヨブ27:3)「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える」(ヨブ32:8)「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える」(ヨブ33:4)これらのことばを見ると、ここで「息」と書かれているのは、人が普通に呼吸をするということ以上の内容を指しているのがわかりますね。「神様の霊と私の霊が循環している感じ」がわかりますか。神様が出発点となり、私の存在を存在たらしめ、そして神様に返っています。これは大切なイメージですから、心をしっかり働かせて想像してみましょう。パウロは偶像を拝んでいたアテネの人たちに言いました。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何か不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神はすべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです。」(使徒17:24~25)パウロが言いたかったのは、金や銀や大理石を見事に彫刻して形造った神々に祈っても、霊が循環するような感覚などないということです。いのちの交流はないのです。厳かな儀式や音楽や踊りで気分を高揚させるのではなくても、神さまの現れというのは、もっと自然でおだやかなものです。それは、「教え」に属するものではなく、「いのち」に属するものです。だから、とても簡単で子どもにでも「できる」ことなのです。いのちだから、たとえ意味がわからなくてもできるはずなのです。ニコデモは、教えを求めましたが、イエスは彼に新しく生まれる必要について語られました。「天の御国でだれが一番偉いのか」と弟子がたずねたとき、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、子どもたちのようにならなければ神の国に入れないと言われました。(マタイ18:3)人は、もともと「神と交流することの出来る霊的な存在」として造られています。しかし、人は罪を犯したので、親しく祈ることが出来ず、後ろめたい気持ちをひきずって生きているので、本当の神様ではない神様を造って「祈りたい気持ち」を慰めて来たのです。ユダヤ人は、偶像を拝んではいけないことを教えられ、みことばを守って来ました。でも、律法の教えの中にはいのちはなく、ますますアダムのいのちでは十分な祈りが出来ない、神様との交わりが出来ないことを思い知るだけでした。
アダムが吹きかけられた息で祈るいのりは、実は「宗教の祈り」です。この祈りをいくら積み重ねても、実は何の効果も価値もないのです。私たちが正しく祈るためには「別の息」「別の霊」を受ける必要があります。それは「復活の息」「復活の霊」です。(ヨハネ20:19~23)パウロのことばも見てみましょう。「『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45)はじめのアダムに属するのは人間的で地上的なものです。後から来る御霊のものは天に属するもの霊的なものであるとパウロは語っています。「最後のアダム」とはイエスのことです。祈るのはこの生かす御霊、つまり聖霊によって祈るのです。イエスもよく祈られました。勿論聖霊によって父に祈られるのです。祈りは交わりであり、祈ることによって三位一体というのが教えではなく、いのちの交わりであることがわかります。難しい神学を学ばなくても、いのちの交わりがあれば、子どもでも嘘を見破ることが出来ます。イエスが話されたことばこそが霊でありいのちです。(ヨハネ5:63)ですから、イエスが何を話されたのかをわかっていなければ、宗教の祈りは出来ても本当の祈りは出来ません。
祈るときにどのようなことに注意すればいいのかをイエス御自身が語れた箇所があるので、そこから大事なことを確認していきます。(マタイ6:5~15)イエスはこうでなければならないという具体的なことは言われませんでした。「こうであってはいけない」ということをふたつ示され、簡単な祈りのことばを教えてくださいました。それが「主の祈り」です。まず、「偽善者たちのようであってはいけない」と書かれています。偽善者たちは人前で祈りたがると言われています。祈ることによって信仰深さを誇る気持ちは、偽善者のものです。祈りは隠れてこっそり祈ればいいのです。決して「私は祈っています」と見せびらかすものではありません。(マタイ6:5~6)次に、「異邦人たちのようであってはならない」と書かれています。異邦人はたくさん繰り返し祈れば良いと思っていますが、それも間違いです。強く念じれば神さまに届くというのは、非常に幼稚な発想です。そんなものは祈りでも何でもなく、祈ることによる自己満足なのです。(マタイ5:7~8)彼らのまねをしてはいけません。勘違いしないようにしましょう。父に対して、こちらの必要をオーダーするのではありません。父は私たちにとって何が本当に必要なのかを知っておられるのですが、私たちはわからずに、あれもこれもと欲しがります。だから、自分にとって本当に必要なものは何なのか、神のみこころはどこにあるのかを悟るためにこそ祈るのです。私は、「私の願いを簡単に叶えるような神なら、信じるには値しないし、こちらから願い下げだ」とよく言っています。私がどのようの者で、神がどのような御方がわかってくれば、くだらない願い事などしなくなります。みこころがなるようにと祈るはずです。
では、10項目にわけて内容を整理してみます。1.誰が祈るのか。それはみなさん一人一人です。他の誰でもありません。祈りに資格はいりません。自分のことは自分で祈ります。誰か権威のある人に祈ってもらう必要は全くありません。神はみなさんの祈りを待っておられます。2.誰に祈るのか。父に祈ります。祈ることで一番大事なのは、「誰に祈るのか」という祈る対象です。自分がどれだけきよらかで敬虔な気持ちで祈るかではなく、どれだけ強い気持ちで長い時間祈るかではありません。誰に向かって祈るのかが大事なのです。父は御子イエスにとって父ですが、私たちにとってはもともと父ではありません。しかし、私たち罪人もイエスを信じることによって「親しくお父さんと呼ぶことの出来る子としての御霊」をいただいたので、自分のお父さんにいろんなことを相談するように、祈ることが出来るのです。3.どこで祈るのか。 これは隠れたところだと書いてあります。決して人前ではありません。勿論みんなの前で祈ることがありますが、本当の祈りは個人的なものです。他人を意識した祈りは神には決して届きません。4.いつ祈るのか。 いつでも構いません。本当は祈っていないときも祈りは続いていると言ってもいいほど、自然な交わりなのです。5.何を祈るのか。 「何でも祈ってよい」と書かれています。しかし、主の祈りを見れば、その優先順位に従って、内容は精選されてくるはずです。間違ったことや恥ずかしいことは祈れなくなります。6.どれくらい祈るのか。 同じことばを繰り返す必要がないので、単純なことがらを念じるような祈りを長い時間しても意味はありません。ただし、自分の心の中にある様々なものを神様の前に長い時間をかけて注ぎだしたりすることも時に必要だし、祈りの中で、神様が気づきを与えてくださったり、みことばを思い起こさせてくださったりするには、一定の時間は必要だとも言えます。7.どんなことばで祈るのか。 祈りは口に出すことばではなく、もっと深い霊のことばです。祈りが深くなればなるほど、どのように祈ってよいかわからなくなります。そんなときは、そのままの思いで主の前に出るのです。そうすると、自分では想像もしなかったようなことばが口から出てきたり、思いの中に広がったりするのを経験します。パウロはそのような経験を、「私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊御自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」(ローマ8:26)と書いています。大事なことはイエスの御名によって祈ることです。この名の権威があるからこそ、父は耳を傾けるのです。私たちが立派に熱心に祈るからではないということも覚えておきましょう。8.どんな姿勢で祈るのか。ひざまずいたり、手を上げたり、姿勢は自由です。歩きながら、お風呂に入りながらどんな体勢でも祈れます。私はベッドに横になったときや、車の運転中にもよく祈ります。駅での無駄に思える待ち時間や、くだらない会議中にも祈ります。そういうときは、祈っているとは外からはわからない姿勢ですよね。必ずひざまずたり、手を組んだり、十字を切ったりする必要はないのです。9.何のために祈るのか。私は、祈りというのは、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)というこの世界の正しい因果関係や法則を学ぶためにあると思っています。私たちは祈りを通して神を学ぶのです。10.祈った後どうするのか。祈ったきりで終わってしまうことが多いですが、祈りは必ず聞かれています。一つ一つの祈りに対し、主の答えを聞く、主が与えてくださる結果を待つことが大切です。そして、神の主権に感謝することです。 十代をいかにすごすかは、一生の豊かさを決定すると言っても過言ではありません。祈りをもって、日々主とともに過ごして欲しいと思います。