2009年3月2日月曜日

3月1日 メッセージのポイント

 いのちを狙われるダビデ(ダビデの生涯と詩編③)
      Ⅰサムエル18:1~21:15


A ねたみは罪の王様
  ○サウルは千を打ち、ダビデは万を打った(Ⅰサムエル18:6~9)
  ○イエスはねたみによって十字架にかけられた(マルコ15;10)
  ○サウルの思考や行動のパターンは私たちの古い性質

B いのちを追われるダビデの心情
  ○私に立ち向かう者が届かぬほど・・・・・(詩編59:1)
  ○私を見守る神 神を見守る私・・・・・・(詩編59:9)
  ○私には咎がないのに・・・・・・・・・・(詩編59:4)
 
C ダビデの恐れ
  ○ダビデはアキシュを恐れた(Ⅰサムエル21:12)
  ○ダビデは狂人を装った(Ⅰサムエル21:12~15)
  ○聖書は「聖人」を描かない→「聖人」はキリスト教の創作
  ○「恐れのある日に」(詩編56:1~4)
  ○「私の涙をあなたの皮袋にたくわえてください」(詩編56:8)
  
D 主はともにおられる
  ○人生の中で味わう様々な理不尽の中で十字架の本質に触れる
  ○ダビデの苦しみは十字架への道行きの下見
    (Ⅰサムエル21:1~6)(マタイ12:2)
 
E それゆえダビデはつまずくことを恐れない
  ○「光のうちに」(詩編56:13)
  ○「光の方へ」(ヨハネ3:20~21)

3月1日 いのちを狙われるダビデ (ダビデの生涯と詩編 ③ )

 サムエルに油注がれ、ゴリヤテに勝利したダビデは、その後も連戦連勝の活躍をします。誰の目にも明らかな華々しい活躍によって、ダビデはたちまちのうちにイスラエルとユダの人々の心をとらえます。その勝利の秘密は、ダビデの武勇にあったのではありません。「主がともにおられた」からです。主はサウルのところから去られました。そして、ダビデとともにおられたのです。それで、サウルは衰え、ダビデは行くところ、どこにおいても勝利をおさめました。(Ⅰサムエル18:12,14)

サウルの態度がダビデに殺意を覚えるほどに豹変するのは、女たちのダビデを讃える歌を耳にしたからです。(Ⅰサムエル18:6~9)「妬み」は、人の醜い性質の中の最悪のものです。「妬み」は罪の王様です。イエスはユダヤの指導者たちの「妬み」よって十字架に架けられたことを思い出してください。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」誰が歌いだしたのかわかりませんが、シビアな評価です。当たっているだけによけい腹が立つ。まだ「サウルはろくでなしで、ダビデは最高」の方がダメージは少ないかも知れません。しかも、サウル自身が戦果を期待して、自分の命令でダビデを戦場に送ったわけですから話はよけい複雑です。サウルの予想を遙かに越えてダビデは勝ち過ぎてしまったのです。 

神の評価ではなく、人の評価が絶えず気になるサウルのことだから、心穏やかでないのはわかりますが、志を同じくして国のために戦った結果なんだから、「合わせて一万一千」と足し算して喜べばいいのです。ところが、それが出来ない。引いて九千の差が気になる。かけて十倍のダビデの強さと人気が妬ましい。嫉妬に狂ったサウルは、ダビデを疑いの目で見るようになり、悪い霊に悩まされてわめいていました。そんなサウルを慰めるべく琴を弾くのが、ダビデの仕事でした。サウルは自分のために演奏してくれているダビデを手に持っている槍で突き刺そうとします。ダビデは巧みに身をかわし、からくも難を逃れましたが、穏やかな状況ではありません。

自分の手でダビデを殺すことを断念したサウルは、娘と結婚させてさらに戦場へ駆り立て、ペリシテ人の手で殺そうとします。(Ⅰサムエル18:17)もし、その企てが成功したなら、イスラエル軍は偉大な戦士を失うことになるだけでなく、自分の娘も未亡人になってしまうのですが、そんなことさえおかまいなしです。人というのは、一体どこまで愚かになれるのでしょうか。これが、イスラエルの王様の姿です。そして、私たちの肉の正体です。

サウルの息子ヨナタンはダビデを愛していました。ヨナタンのとりなしによって、サウルも一度は思い直し(Ⅰサムエル19:6)、ダビデは再びサウルに仕えるようになります。ところが、ダビデが活躍すると、サウルはヨナタンとの誓いを破り、ダビデを殺そうと槍をふるうのでした。静かに琴を弾くダビデとそれを突き刺そうとするサウル。以前と全く同じ場面が繰り返されます。
主から送られた悪い霊が原因であるように読まれるかも知れませんが、悪霊に身を委ねる罪とかたくなな心の備えがサウルにはあったのです。主がサウルに悪い霊まで遣わしてダビデを追いつめるのは、ダビデにイエスが地上で経験される苦しみや悲しみの一端を体験させ、その苦しみと悲しみの中から、永遠のことばを残させるためです。ダビデとともにおられた霊は、イエスとともにおられた霊と同じ御方です。これらの経験を経た聖霊が、「今」私たちのうちにおられるということを、主は私たちにわからせたいのです。

今回のサウルは度重なる失敗に飽きたらず、ダビデの家を見張らせ、起き抜けに彼を殺そうとします。妻ミカルの機転で、ダビデは間一髪難を逃れて、サムエルのもとに身を避けます。(Ⅰサムエル19:8~17)このときのダビデの心情が、詩編59編に綴られています。勿論いのちの危険が迫っているわけですから、怖いはずです。ただの悪人や強盗団に狙われているだけでも恐ろしいですが、相手はイスラエルの王とその家来です。ペリシテ人相手ならダビデは戦ったでしょうが、主が油注がれた王ですから、逃げるしかありません。そして、自分の妻は自分のいのちを狙う王の娘です。しかも、政略結婚ではあるものの、妻ミカルはミカルなりにダビデを愛していました。ですから、この場面のダビデの心中は非常に複雑です。さまざまな思いがグルグルめぐっていたでしょう。身の危険が迫ってくる単純な恐怖ではありません。そんな気持ちをそのまま主にぶつけたのが、この詩編です。

「わが神、私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が手が届かぬほど、私を高く上げてください」(詩編59:1)という祈りには、戦うに戦えないダビデの苦しい気持ちがよく現れています。ダビデは正直に自分の思いを主に祈りつつ、最後には、喜びが高まり、恵みの神を賛美しています。最後の連に行くと、ダビデの祈りは非常に力強いものに変わっていきます。(詩編59:14~17)
ダビデはただいのちが惜しくて逃げているのではありません。ダビデが一番苦しいのは、自分に責められる咎がないにも関わらず、いのちを狙われ続けるという「理不尽な状況が理解できないこと」です。一方的に油注がれ、自分はみこころに従って歩んでいるはずなのに、状況は悪くなるばかり。「私には咎がないのに」(詩編59:4)とダビデは訴えます。このようなとき、人は初めて理屈を越えた十字架の本質に触れます。苦しみや痛みの意味なんてわからない、でも、そのあまりにも理不尽な苦しみや痛みを主はあらかじめ私の為に体験してくださっていたということがわかるのです。「あなたは私を見守る」(詩編59:9)という告白は非常に深いものです。すべてはキリストの十字架につながるのです。恵みの時代に生きる私たちには、ペテロのころばがあります。ペテロはキリストの苦しみにあずかる価値を具体的に伝えてくれています。(Ⅰペテロ4:12~19)

ダビデが対立や対決や避けて、逃げ続けたのは臆病だからではありません。自分に油を注いだ御方に自分の運命を委ねていたからです。自分の勇気と腕力で未来を切り開こう、状況を有利に展開させようとしないことが、信仰による選択だからです。私たちは今日ダビデのように、いのちの危険にさらされる場面はないかもしれませんが、似たような局面に立たされることはあるはずです。つまり、自分には咎がないのに、どんどん逆境になっていく。こういう時には、力があればあるほど、自分で策を講じ、さまざまな手を尽くして苦しい局面を打開しようとします。しかし、ダビデは無様に逃げました。これは信仰なのです。
ダビデが賞賛されるのは、この信仰のゆえです。ゴリヤテに勝利したのも、サウルから逃げ回ったのも、同じ信仰によるのです。ダビデは自分に勝利を与え救いに導いてくださる主に信頼していました。詩編の祈りをみればそれがわかります。主に対する無垢な信頼ほど強いものはありません。ダビデはそれを幼い頃から体験の中で培っていました。そしていのちを狙われる苦しみの中でそれをさらに強い確信へと変えていったのです。

サウルはなおしつこくダビデのいのちを狙います。ダビデはノブの祭司アビメレクのところに身を避け、さらに、ガテの王アキシュのところにも逃れます。アキシュのもとで正体がばれたときには、「ダビデは・・・・恐れた」と書いてあります。(Ⅰサムエル21:12)苦しい状況が長く続いたこと、安心できると思った場面で、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」という例の歌によって突然不安が襲ったのでしょう。このときは、恐らく、一瞬信仰が「とんだ」のでしょう。ダビデは機転をきかせて気違いを装いました。(Ⅰサムエル21:12~15)門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを流したりですから、かなり迫真の名演技です。自分がダビデ本人であるにしても、狂ってしまって戦闘能力がないということを示したわけです。

結論から言えば、ダビデが狂人のふりをしなかったとしても、ダビデが殺されることはなく、何らかの方法で主はダビデを救ったでしょう。ダビデは王を恐れて、とっさに狂人のふりをしたのです。それが良かったのか悪かったのかを問うなら、それは良くはなかったでしょう。信仰があったとしても、同じような厳しい状況が長く続けば、どうしてもマイナスの感情が表面に表れることもあります。
人間は弱いものです。ダビデは歴戦の勇士だから、いのちの危険をものともしないのではありません。いのちに危険が迫れば誰だって怖いのです。しかし、それを上回る信仰が明確なときには、内なる喜びが怖さに打ち勝っています。ペテロが水の上を歩いたのは、神の子イエスを見ていたからです。足元に迫る波を見た瞬間に、ペテロは沈みました。水の上を歩けるはずがない自分に気づいたら、物理の法則に従うまでです。

聖書はスーパーマンを描きません。キリスト教が好んで作り上げる「聖人」なんて誰もいないのです。みことばを信じるなら「義人」はひとりもいません。
聖書は人間ダビデを、人間ペテロを赤裸々に描きます。ふたりとも罪深いただの人です。大事なのは、アブラハムの信仰を継承していることです。
しかし、ダビデはみじめな演技をしながらも、決して信仰を失っていたわけではりません。一瞬怖くなって、自分なりの対策を講じたのです。そんな中で自分を責めながら、それでも、主の憐れみにすがるダビデを誰が軽蔑できでしょうか。主もそんなありのままの飾らないダビデを退けたりはなさいません。
ダビデは自分の惨めさを訴えていますが、それでも、その恐れの中で主を信頼するんだと自分にも言い聞かせるように、主に告白しています。(詩編56:1~3)
ダビデの祈りはさらに深いところに入っていきます。
「あなたは私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書にはないのでしょうか」(詩編56;8)
ダビデは、いのちを狙われ逃げ回るこの理不尽の連続を、「主にあって価値のあるもの」「意味は理解できないけど価値があるんだ」ととらえ始めています。「あなたは私のさすらいをしるしておられます」という告白を見てください。恐れと愚かさによって狂人に扮して難を逃れたことも、主はご覧になっていて慈しんでくださる。失敗する自分を見守っておられる。涙を流す心を知っておられる。ダビデは、サウルは愚かで自分は正しいから、勝利や救いを提供されるのではないことを知っていました。慈愛に満ちた取り扱いが「主にとってふさわしい」からこそ、そのように扱われるのだと理解していたのです。

「どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書にはないのでしょうか」とダビデは祈っています。はじめのことばはお願いです。次のことばは質問です。
自分がみこころに従っているのに経験する悲しみや痛みを覚えてほしい。そのために流す涙を忘れないで欲しいとダビデは訴えています。サウルはダビデよりも、もっと多くの涙を流したかもしれません。しかし、それは、嫉妬や後悔の涙です。自業自得の涙は「主の皮袋」には入りません。それに対してダビデの涙は、イエスが地上で流す涙の予表です。ダビデの質問の応えを私たちは今日味わっているわけです。
「皮袋」が作られるためには、動物の血が必要です。涙はその皮袋に集められるのです。

ダビデが信仰のゆえに流した涙を主は大切に皮袋に納めておいてくださいました。私たちが主にあって、信仰によって流す涙を主はお忘れになることは決してありません。それは、慈悲深い神が、雲の上からご覧になっていて些細なことも記憶してくださるというのとは違います。主は渡たちの涙が地に落ちるより早く、風に乾くより早く、御自身の贖いの皮袋の中に集めてくださいます。やがて人になられたイエスに宿られたときの、その十字架への道行きの下見をするかのように、主の霊はまさにその苦しみのただ中でダビデとともにおられるのです。主が私たちとともにおられるという場合も同じです。(Ⅰサムエル21:1~6,マタイ12:3)

ダビデはつまずきを恐れません。私たちは自分で歩めば必ずつまずくのです。主のくびきを追うならつまずきません。ときどき、主のくびきを置いて、既に解決されたはずの自分のくびきをひきずりながら、頑張って歩く私がいます。しかし、もしつまずいたなら、つまずいたその情けない姿を主に見ていただけばいいのです。ダビデはそういう人でした。つまずきの少ない人が偉いのではない。もし偉い罪人がいるとするなら、それはつまずいたときに主に立たせていただいた人です。何度つまずいてもその度に主によって立ち上がる人です。

「あなたは私のいのちを死から、まことに私の足をつまずきから救い出してくださいました。それは、私がいのちの光のうちに神の御前を歩むためでした」(詩編56:13)
「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが
明らかにされるためである」(ヨハネ3:20~21)