2007年3月29日木曜日

3月25日 復活の証人 

(使徒の働き1章)

「使徒の働き」は、ルカの福音書の続編として、異邦人の医者ルカによって書かれたものです。イエスさまの死後ちょうど30年ぐらい経った頃のことです。イエスさまの死によって全てが終わってしまったかのように見えたのですが、福音はわずかな時間で当時のローマ帝国を揺るがすほど、大きな力をもって広がってゆきます。その結果、クリスチャン達は皇帝ネロによる激しい迫害にあうのですが、ルカはそのことにはいっさい触れていません。このことから、使徒の働きのおおよその執筆年代を割り出すことができるわけです。
ルカはテオピロというローマ人に正しい情報を伝達するために、「ルカの福音書」と「使徒の働き」というふたつの書物を書きました。それぞれの冒頭の部分を見れば、ルカの執筆動機がはっきりと書かれています。(ルカ1:1~4,使徒1:1~2)福音書の続編でもある「使徒の働き:は、教会の誕生から始まり、初代教会の様子が生き生きと描かれています。前半はペテロ、後半はパウロの記事が多くを占めますが、それらはすべて聖霊の働きであり、地上でからだを失ったイエスが、「からだである教会」をコントロールして自由に働かれた記録です。福音書にはイエスさまがいますが、使徒の働きにはイエスさまは出てきません。しかしそれらは、かたちは違っても「イエスさまの記録」です。これは非常に重要な認識です。
ルカはそのことを印象づけるために、「使徒の働き」の冒頭できちんと断っています。「前の書」すなわち「ルカの福音書の記事」は、「イエスが行い始め、教え始められたこと」(使徒1:1)だと言っています。つまり、イエスの活動も教えも十字架と復活で終わったのではなく、継続しているのだと言っているのです。ルカの表現を素直に受け止めれば、「まだ続きがある」というより、「これからが本当の始まりなのだ」と言わんばかりの書き出しになっているのが確認できます。「使徒の働き」の一番終わりの部分を見ても、まるで終わったという印象を受けません。(使徒28:25~30)
この箇所を見れば、異邦人の医者であるルカが自分の使命をどのように考えていたかわかります。福音がユダヤ人だけでなく、異邦人へ、全世界へと広がってゆく過渡期に、律法の知識や唯一の造物主に対する知識が乏しい人たちに、客観的に読んで検証するに足る資料を提供する必要があるとルカは考えていたのです。福音書と使徒の働きの前半は綿密な取材をもとに、「使徒の働き」の後半は自らがパウロに同行して実際に見聞した内容をまとめたのです。繰り返しますが、ルカは医者です。人が死んだら生き返らないことは、誰よりもよく知っています。ルカは常識ではあり得ないことが起こったので、さまざまな噂や教えで混乱する中で、正確な情報を集めたのです。ルカがパウロの伝道旅行に同行したことがどうしてわかるかというと、パウロの書いた手紙のあいさつの中に何度かルカの名前が出てくるのです。パウロは愛する医者としてルカを紹介しています。さらに、「使徒の働き」では、前半は弟子たちのことを「彼ら」と表記していますが、途中から「私たち」に変化します。
具体的に働いたのが「彼ら」であろうが、「私たち」であろうが、それはイエスの働きです。同じ聖霊の力です。ルカはそのことをよく知っていたはずです。
教会を通してなされる聖霊によるイエスの働きは、そのいのちの流れを受け継いで、今日に至るまで脈々と続いているのです。
ですから、私たちが今再び、この「使徒の働き」を学ぶとき、「本来クリスチャンはこのようにあるべき」「このようであるはず」という外側からかせをはめるような読み方をするのではなく、同じいのちが私たちのうちにあるという事実を感じることができるように願うべきです。そしてそのことに驚き、大いに喜ぶことです。そして、私たちさえそのいのちに完全に委ねるなら、主は「今この終わりのときにしようとしておられることをされるのだ」と信じることです。私たちは主から離れて何ごともなすことは出来ません。ですから、主がしてくださることを、ただみことばの約束に期待してとどまるのです。

その点では、当時の弟子たちも私たちと全く同じです。ルカは、「イエスさまは、40日にもわたって繰り返し弟子達の前に現われ、ご自分が間違いなくよみがえって生きておられる証拠を示された」と書いています。(使徒1:3)つまり、「使徒の働き」はすべて、イエスさまの復活が前提になっています。復活が単なる希望を正当化するための教えにすぎないのなら、この後の記録はないはずなのです。復活の事実を確認できなければ、弟子たちのレベルで確信できなければ、ローマ帝国を相手にした福音伝道などできるはずがなかったのです。組織もなく、力もなく、学問もない、ないないづくしの集団です。使徒たちはそれこそ、「イエスの使徒である」という以外何にもない人たちでした。その使徒という資格さえも、世間的には全く通用しない、ユダヤ教ナザレ派とでも呼ばれていた小数の異端者の集まりです。ユダヤ人に対しても異邦人に対しても何の権威もありませんでした。そういう状況だったということをよく知っておくべきです。

 イエスさまの命令は、「エルサレムに留まって約束を待て」ということでした。その内容は、聖霊が臨まれると、力を受けるということ、そして、証人になるということです。逆に言えば、聖霊が臨まれない限り、私たちは証人ではないということです。(使徒1:7~8)
 さて、「証人」ということについて考えてみたいのですが、復活の場面でも、昇天の場面でも、主の側ではちゃんと御使いをふたり用意されています。御使いひとりでは能力不足ということではありません。「全てのことは、ふたりの証人によって確認されなければならない」からです。(ルカ24:2)(使徒1:10)証人となるということは、それほど大事なことなのです。間違いのない事実としてきちんと確認された事柄が、こうして伝えられてきたわけです。(マタイ26:60~61)(ヘブル10:28)
 クリスチャンは復活の証人でなければなりません。証とよく言いますが、私たちがちょっとラッキーだったことを神さまに関連づけて語ることを証だと思ってはいけません。証とは、キリストが復活したという証なのです。
 なぜ多くの教会にいのちがないのでしょうか。それは、そもそもそこに、イエスの復活に対する本当の信仰が欠落しているのです。ですから、そのような信仰の中では、どうあがいたところで、文化や道徳のお話にしかなりません。
 聖霊ということばやそれに伴う現象を強調したところで、それはキリストの復活とはかけ離れた超常現象に領域にはまってしまいます。
 さて、ペテロはイエスさまを裏切って自殺したユダに代わって、12人目の弟子を決めることを提案しています。このくだりを読むと、自分はもっと派手にイエスさまを裏切っておきながら、そのことは棚に上げてよく言うよと思うような激しい口調でユダを非難しています。このことを見て感じるのは、ペテロの明確な生まれ変わりです。ペテロはもう裏切った過去をひきずってはいません。この後もペテロは初代教会のリーダー的存在として活躍しますが、決して罪滅ぼしの為に頑張っているのではないということがわかります。ペテロは旧約聖書の約束にこだわり、みことばの具体的な根拠を元に論を展開していきます。「イエスの復活の証人」としての教会の基礎を築く十二弟子となる資格について、ペテロはこう言っています。それは、「ヨハネのバプテスマから、昇天までの間に、いつも行動をともにしていた人」です。もちろん、ルカもパウロもそれには当たりません。それほどこの使徒職のつとめと地位は特別なものでした。これは当たり前の条件のように思いますが、この世的には当たり前ではありません。この世が何事かを始めようと組織するときは、当然その中核をしめるのは、頭のいい、能力の高い人たちです。ペテロやヤコブは田舎の漁師なのです。生活の知恵はあっても、エリート達と論争できるような学問はありません。当時の指導者たちがどのように使徒を評価したかは、これまたルカが正確に記録しています。
 「彼ら(ユダヤの指導者たち)はペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスさまとともにいたのだ、ということがわかって来た」(使徒4:13)と書いてあるとおり、使徒たちが無学であったことが、いっそう証としては効果的に働いているのがわかります。実はこのことが重要なのです。
 安倍内閣は教育現場にも市場原理を持ち込んで、早くから競争させ、子どもたちをふるいにかけようとしています。考えてみてください。支配者層にしてもれば、国民の大半は使い捨ての労働力にすぎません。政府は学校に何を期待するでしょう。政府を転覆させるような反対勢力になりうる批判力や行動力を持った人材ではなく、従順な労働者になってくれれば事足りるわけです。百マス計算などが早く正確に出来ればそれでいいわけです。ほとんどの大学がレジャーランドであっても、一部の大学で官僚になる人たちを養えれば後はどうでもよいのです。
 神さまはそうではありません。神の国の力は、幼子たちの賛美によってもたらされるのです。私は単純な理由で教団教派を批判するのではありません。自民党内の派閥争いのような発想で私の発言を評価する人は、そもそも何一つわかっていないことを明らかにしています。私が問題にしているのは、みことばに根拠がないところに、この世的な価値観で力を担保し、資格を保障することが間違いだという点です。これらの人間的なやりくりは、証の力を決定的に弱めるのです。その発想は、安倍内閣に代表されるエリート主義と同じです。

 聖霊がくだることによって、「キリストがよみがえったのを見た」から、その証は「キリストが私の内側によみがえった」となります。この違いは明白です。このことを具体的に経験していない人は証などしようがないのです。
 パウロは「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリストを宣べ伝えるのだ」と言っています。(Ⅱコリント4:5)さらに、パウロは続けます。「私たちは、この宝を土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント4:7)これが本来の証の目的であり動機であるべきです。まさにルカが書き送ったように、「聖霊によって力を受ける」のです。決して私たちが力をつけるのではないのです。
 器である私たちは、所詮「土」なのです。私たちは、その中にあえて住んでくださる方の偉大さとその祝福を告げ知らせるのです。私たちが証に対して臆病になったり弱気になったりするときは、何か別の資格によって、違った何かを伝えようとしているのです。本当に信じているのなら、同じ主が住んでいるのです。外側の土の器が、丼だろうが、湯飲みだろうが、おちょこだろうが関係ありません。かけた茶碗だっていいのです。
 このように見てくると、「器」を強調することがいかに間違っているかおわかりだと思います。「無学な普通の人」こそ、力強い復活の証人となるべきです。

2007年3月22日木曜日

3月11日 まさしくわたしです

 (ルカ24:36~53)

クレオパたちが再びエルサレムに戻って、弟子たちに話をしていたところ、イエスさまご自身が現われたのです。イエスさまは弟子たちの「真ん中」に立たれました。「真ん中」はイエスさまに最もふさわしい場所です。私たちの交わりの真ん中には誰がおられますか。あなたの家庭の真ん中には誰がおられますか。あなたの心の真ん中には誰がおられますか。クリスチャンの集まり、クリスチャンの家庭、クリスチャンの心の真ん中におられるのは、イエスさまでなければなりません。黙示録の天の描写においても、教会を表す燭台の中央には、キリストが描かれています。(黙示録1:12)

私たちの交わりは、私たち同士の交わりではありません。御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1:1~4)
ヨハネは、福音書の冒頭で紹介した永遠のロゴスであり、いのちのことばである方を、手紙の中では、「聞いて、見て、手でさわった」と証言しました。この表現の中には、生前のイエスさまとの交わり、つまり十字架にかかられる前に行動をともにしてきたさまざまな場面での出来事も当然含まれていますが、それ以上に、復活されたイエスさまについて、「聞いて、見て、手でさわった」と言っているのです。だから、手紙の中でさらに続けて「交わりの本質」について語り、喜びについて語っているのです。十字架で終わってしまうなら、それは悲しみです。しかし、復活の事実が信じる者に大きな喜びをもたらします。(ルカ24:42,52)交わりの喜びは、イエスさまが救いを完了され、よみがえってくださったことにあります。

復活は事実であり、弟子たちが捏造した神話ではありません。彼ら自身もイエスがよみがえったのだとは信じなられないで、「霊を見ているのだ」と思ったのです。「復活」に対する反応は、古今東西を問わず共通のものだと言えます。人はみな復活に関しては、似たような態度をとります。「イエスは立派な御方だ」「イエスの教えはすばらしい」「イエスの生き方や言葉に学ぼう」というのは、ある意味で簡単です。そして、それは宗教であり、復活の事実からの逃避です。「死んだ人がよみがえった」というのは、全く違う次元の話です。「私もキリストとともに死んでよみがえる」となると、さらに違う次元の話です。死後にはこういう世界があるかもしれないという単なる想像や希望ではないのです。
パウロは復活について述べた箇所で、「私たちは、この世にあってキリストに単なる希望をおいているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(Ⅰコリント15:19)と語っています。
逆に言えば、単なる希望レベルの信仰しか持っていないといたら、それは、聖書が語る信仰ではありません。そしてそういう状態に留まっているとしたら、クリスチャンは、この世の人よりも哀れな状態であるとも言っているのです。一般に教会に不人気の原因は、勿論この世の無関心や不敬虔もありますが、この実質の欠落した教会の無力にあるのです。教会の喜びの源は、立派な行いでも、わかりやすいメッセージでもありません。それらも当然結果の現われとして重要なものですが、それ自体を追い求めるべきものではありません。イエスさまが真ん中に立たれ、そのよみがえった御方を中心にした兄弟姉妹の交わりがベースなのです。立派な行いや、わかりやすいメッセージは、そういう交わりに支えられ、イエスさまのよみがえりの力によって導かれるのです。イエスという死からよみがえった御方が重要なのです。

当時の先進的都市国家であるアテネの住民は、パウロの言うことにも熱心に耳を傾けましたが、話が復活のことに及ぶと、突然興味を失いました。それは、彼らの経験や感覚の中では、非現実的、不合理な話だからです。
また、復活のあるなしは、ユダヤ教徒であるサドカイ派とパリサイ派をふたつに分けました。「復活はない」と主張するサドカイ派は、あり得ない結婚の例を出して、イエスさまに論争をいどんだこともありました。そして、パウロも全議会の前で大祭司に質問をされたとき、そのことを意図的に利用して、内輪もめを起こさせています。それぐらい復活の問題は重要な分水嶺なのです。しかし、表面的には、所詮神学論争のネタとして取り扱われているにすぎません。 

パウロはよみがえった御方と実際に会い、語りかけを受けています。この違いは何と大きいことでしょう。(使徒23:6,11)
また、アグリッパとフェストの前でもパウロは誤解を恐れず、大胆に復活を語りました。(使徒26:23)このときのフェストのパウロのやりとりは実に面白いものです。
「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。」
(使徒26:34~35)復活の話など、無知蒙昧な庶民が信じているのならまだしも、地位も学問もあるパウロのような人物が語るにはふさわしくないとフェストは考えたわけです。勿論、パウロはそういうフェスとの反応は予想できたはずですが、私たちは聞き手に媚びて、受け入れやすいような話をするために証を立てるのではありません。パウロの証言はほれぼれするほど明快です。しかし、実際よみがえりの事実を知らなければ、フェストのように考えることのほうがむしろ普通なのです。
弟子たちでさえ、「墓が空になっていた」という女たちの報告を受けても、それをたわごとと聞き流し、なかなかイエスさまの復活の事実を受け止められませんでした。弟子たちは、イエスさまの生前にも、イエスさま御本人を幽霊だと言って、おびえて叫び声をあげています。彼らは暴風の中、湖の上を歩くイエスさまを見たからです。(マルコ6:45~52)
幽霊というのは、つかみどころのない存在です。それは、実体をともなわない一時的な現象のようでさえあります。よく言われるのは、自分の不安や恐怖を投影した幻や目の錯覚だということです。
そんな人間の考えることや、この世の常識を知っておられますから、イエスさまは、あえてこんなことをおっしゃっています。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(ルカ24:39)
墓は空になりました。体が残って霊だけが現れたのではなく、その墓に葬られた体が今目の前に来られているのです。「彼はハデスに捨て置かれず、その肉体は朽ち果てない」(使徒2:31)と語られているとおり、体が極めて重要な意味を持っています。具体的に手や足を示されたのは、そこに十字架のしるし、釘の跡を見せるためです。イエスさまは、「まさしくわたしです」とおっしゃっています。極めつけに、体の証拠として、焼き魚まで召し上がっています。このように、イエスさまのよみがえりを複数の弟子たちが具体的な事実をもってはっきり確認したのです。
このことから言えることは、「生前の姿かたちの同一性を一定以上保持している」ということと、「地上での主とともに歩んできた記憶が保存される」ということです。この「まさしくわたしです」というイエスさまおことばの中に私は少なくとも、そんな主の語りかけを感じます。

イエスさまはよみがえられる前から、信仰によって、「死は一時的な眠りである」と証言されています。(ルカ8:52,ヨハネ11:11)ヤイロの娘とラザロについて語られたことばです。イエスさまは、ただ死者をよみがえらせて、ご自分の力を誇示されたのではありません。それは、ご自身の十字架と復活の予告であり、確証でもありました。イエスさまは、「肉体が滅んでも霊は不滅だ」ということばで、気休めを与えられたのではありませんでした。本当に死者をよみがえらせてくださったのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)これは、ものすごいことばです。ここに私たちは、十字架に架かられる前に、すでにご自身を「よみがえり」として紹介されたイエスさまの信仰を見なければなりません。
最後に「主は予定を変更される」ということ、「主が心を開いてくださる」ということ、このふたつの点について触れておきましょう。
ガリラヤ湖の上を歩いておられるイエスさまの目的は、向こう岸のベツサイダに行くことでした。水上歩行は、証拠のための奇跡というよりは、舟代わりの交通手段だったと言えます。ですから、イエスさまは弟子たちのそばを通り過ぎるだけのおつもりだった(マルコ6:48)と書いてあります。それなのに、弟子たちの様子を見て、予定を変更して彼らの舟に乗り込んでおられます。
クレオパたちの家で交わりを持たれたのも、彼らがそれを強く望んだからです。イエスさまはまだ先へ行きそうなご様子だったのです。(ルカ24:28)もともとエレサレムへ戻るつもりだったのか、クレオパたちを追いかけて、さらに予定を変更されたのでしょうか。それはわかりません。
主のみこころ、主のみことばは、100パーセントの確率で確実に成就します。しかし、そこには人間の自由意思が大きく反映されます。主がなさることは、私たちが心から願うこと、望むことと、深く関連しているのです。主は愛と憐れみにあふれた御方です。ですから、私たちが恐れや不安にさいなまれながらも、少なくとも、イエスという御方を信頼し、この方に希望を託すとき、いつでも、必ず答えをくださる。折りにかなった助けをくださるのです。

もうひとつのおもしろいのは、イエスさまのよみがえり前の記事では、「弟子たちの心は閉じていた」と書いてあることです。ところが、よみがえられたイエスさまは、「聖書を悟らせるため」に、弟子たちの「心を開いてくださった」と書いてあります。人の願うこと、望むことが大切だと申しましたが、いのちは肉の欲求や人の意欲とは関係がありません。この方を受け入れることにかかっているのです。よみがえりのいのちの経験と交わりは、この御方を受け入れた結果与えられる特権です。これが聖書の言うところの「悟り」です。
深い思索や、純粋な心や、豊かな感受性の結果、信仰に至るのではありません。私たちの悟りは、主が私たちの心開いてくださった結果なのです。献身して神学校や聖書学校に行って、原語や神学を学んだところで、悟りは得られません。このバランスが極めて重要です。人の願いや努力で、救いに値する者であろうとがんばる人がします。逆に、救いは人の願いや努力ではないという頭の理解によって、無気力かつ他人まかせになって、単なる希望を告白するだけで、よみがえりのいのちを経験しない人がいます。
大切なことは、イエスさまの復活の証人として、約束のみことばに留まり続けることです。そうすれば大きな喜びが、私たちを包みます。私たちは何かにかき立てられずとも、いつもこの方をほめたたえずにはいられなくなります。
(ルカ24:50~53)

3月4日 エマオ途上にて

ルカ24:13~35

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえらえたこと、またケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」(Ⅰコリント15:2~5)
パウロは、十字架の死と三日目のよみがえりの事実こそが福音の中心であり、それらは、すべて「聖書の記述通りである」ということが大事なのだと強調しています。

イエスさまのよみがえりは、週のはじめの日のことでした。
その日の夕方、ふたりの弟子がエルサレムからエマオへ向かっていました。クレオパという弟子ともうひとりの人です。このクレオパという人物に関してですが、イエスさまの十字架の傍らにいた女たちの中にクロパの妻でマリヤという人がいた(ヨハネ19:25)とヨハネは記しています。このクロパがクレオパと同一人物だとすると、もうひとりは妻のマリヤだというこうことになり、いろんな点で辻褄はあってきます。いずれにしても、この記事は偉大な復活を遂げられたイエスさまが、エルサレムからの帰路に着くたったふたりの人のために現れてくださったことをルカが書き留めたものです。

彼らはふたりともイエスさまの弟子で、その道すがら十字架とよみがえりについて語り合っていたのです。ふたりは、「何の話をしているのか」というイエスさまの質問に対して暗い顔つきになっています。また、その後の受け答えを見ても、イエスさまの死を深く悲しんでいたことがわかります。
彼らは、「イエスは行いにもことばにも力のある預言者だと信じていたこと」そして、「イスラエルの解放者として望みをかけていた」ということ告白しています。しかしそれはもう過ぎ去ったことであり、むなしい期待であり、かなわぬ望みであったと報告しています。よみがえりのうわさについても、「・・・と言うのです。」(ルカ24:23,24)というように、どちらかと言えば、事実ではない誤った情報として聞き流している印象を受けます。ここでクレオパたちが語っている内容は、十字架と復活に関する一般的な理解です。復活という事実ではなく、「そういうふうに言われている」という事実です。
この世は福音を聞き流しています。復活などあり得ないと思っているからです。復活を信じている人たちがいることを了解はしていますが、自らそれを信じようとはしないのです。正しい人が十字架に架けられて殺されることは、ほとんどありませんがおこりうることです。しかし、完全に死んだ人が、葬られてから三日目によみがえるなどということは、絶対にあり得ないことです。だから、多くの人々は福音を聞き流すのであり、信仰を自称する人たちも、先に語った大事なことがすっぽり抜け落ちた道徳や文化として伝承してきたのです。
しかし、誰が信じようが信じまいが、復活は事実です。多くの人が信じたから嘘が本当になるわけでもないし、多くの人が信じなかったから本当が嘘になるわけでもありません。
イエスさまは復活され、信じる者も復活するのです。
半信半疑の弟子たちの前に、突如よみがえられた姿で現れることは、問答無用で圧倒的な力業です。しかし、イエスさまはそういう押しつけはされません。
まず、空の墓をお見せになり、御使いたちにメッセージを与えました。嘆き悲しむ女たちの前に静かに現われ、やさしくその名を呼ばれました。
今回も主は、前からお越しになるのでも、上からお越しになるのでもなく、ふたりの進むのと同じ向きに同じスピードで同じ歩幅で歩まれました。彼らが暗い顔つきになって立ち止まったとき、イエスさまもまた同じように立ち止まられたのです。そして、「歩きながら、ふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」(ルカ24:17)と控えめに質問されました。
主は、私たちにおたずねになります。もちろんイエスさまは、ふたりがご自分のことについて話し合っているのを知っておられました。知っていて、お尋ねになります。「何を見ているのか。」「何を話しているのか。」と。主は私たちの心の中にあるものを出させます。そして、私たちの信仰を問われます。私たちは何を信じ、何を疑っているのでしょう。

イエスさまは言われました。
「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24:25~26)
そこで、みことばです。みことばの預言、そしてその成就は、よみがえらえたイエスさまとお会いしたこと以上に重要なのです。イエスさまは、「ほら、私はよみがえってこうしてここにいるではありませんか」とは言われなかったのです。ご自身を示さず、聖書に注目させました。聖書はイエスさまについて書かれています。(ヨハネ5:39~40)

よみがえったイエスさまが、ご自身のよみがえりの事実以上にみことばの権威を重んじられたことは、どれほど強調しても足りないぐらいです。ここに書かれている聖書とは旧約聖書のことです。そして、その範囲はモーセの五書を含む、あらゆる預言者の書です。聖書の一部ではなく、聖書全体から解き明かされたのです。キーワードはイエスさまです。ご自分についてかいてある事柄を解き明かされたのです。旧約聖書からイエスを見つけ出すこと、これが正しい読み方、味わい方です。イエスさまを見出すことがいのちを見出すことなのです。

さらに、クレオパたちがよみがえったイエスさまを見ているときには、それがイエスさまだとわからず、それがイエスさまだとわかったときには、イエスさまのお姿は見えなくなったというのも、象徴的です。

これらのことを考えるとき、多くの人たちが語るふしぎな体験や幻は、その信憑性が怪しくなってきます。私は大まかに言って、その半分は本人の思いこみであり、もう半分は本当に見聞きしたのだと思います。しかし、本当に見聞きしたものの、その出所は怪しいと考えています。サタンも光の御使いを装うと書かれています。
そういう特別な経験をした人たちは、イエスさまが夢枕に現れて何やらを指示したとか、自分の行く道に黄金の十字架が見えて、人生の選択がわかったとか言います。こういうことを主張する人たちは、「みことばを見る限り、そういう導きはありそうもないですよ」と、誰かから正しい忠告を受けたとしても、まず、聞く耳を持ちません。
あるいは、聖書全体のバランスや調和を無視して、みことばが与えられたと強調します。こうなるとどうしようもないです。
ペテロはキリストの威光の目撃者であり、天からの声も直接聞いています。しかし、そのような体験にもましてみことばが大切だと言っています。みことばを重んじるに当たっては、私的解釈や曲解は禁物だと言っています。(Ⅱペテロ1:16~21)

このとき、イエスさまがクレオパたちにときあかされたメッセージが、ペテロ(使徒2:22~36)やピリポ(使徒8:26~35)メッセージの原型になっているはずです。いずれもメッセージのポイントはイエスさまです。

はじめ、ふたりの目はさえぎられていました。(ルカ24:16)後に、彼らの目は開かれました。(ルカ24:31)
彼らの目を開いたのは主です。そして、人は目が開かれなければ、主を見ることはありません。目を開かせた鍵は、みことばです。いのちのことばの中に人となられたイエスさまを発見したときに、目が開かれるのです。目が開かれたのは、イエスさまがパンを取って祝福し、裂いて彼らにわたした瞬間でした。イエスさまは私たちの外側には、もう見えません。よみがえらえた主は、私たちの内なる方として、私たち自身のただ中におられ、私たちを内側から満たしてくださるのです。
十字架に架かられたのは、パンが裂かれるためです。パンは裂かれることにより私たちの口に入る大きさになりました。それが、私たちの手に渡り、私たちはそれをいただくとき、私たちは生きるのです。パンはイエスさまの御体であり、みことばの中にあるイエスさまです。

イエスさまが見えなくなって後、ふたりはまた話し合います。
「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちは心のうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)
これこそ、最も顕著な聖霊の働きであり、神の臨在の証です。私たちは主の臨在の証をどこに求めるでしょうか。それは、私たちの心のうちの静かな喜びであるべきです。意思よりも感情よりも深いところにある、霊の安息です。状況の変化や、思い通りの結果を求めるとき、私たちは安息を見失います。
しかし、イエスご自身を求めるなら、イエスご自身がともにいて、私たちを内側から満たしてくださるのです。人間は肉にまかせれば、外側を快適にしようと働きかけることにあくせくするものです。しかし、私たちを取り巻く状況とは無関係に、主は常に私たちを内側から満たしてくださる方なのです。
クリスチャンが自分の外側に祝福のしるしや主ご自身以外の何かを求めるとき、それはその人だけの特別な誇りや奢りになる可能性があります。しかし、私のうちにおられ、私を満たす御方が兄弟姉妹ひとりひとりを満たすのです。真理はすぐれた兄弟の導きや預言の中にあるのではなく、誰もが手にすることができる聖書の中にのみあるのです。
「あなたがたはイエス・キリストを見てはいないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに踊っています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8~9)

パウロは次のように記しています。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな顔のおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによります。」(Ⅱコリント3:16~18)
 なぜ、私たちはみことばによって励まされ、慰めなれるのでしょうか。私たちが信仰をもってみことばを開くとき、このように主の御霊が語る者、聞く者に働きかけるからです。私たちのおおいを取り除いてくださるのです。

 クレオパたちは、エルサレムへまた戻ってこの喜びを弟子達に伝えています。
「すぐさま立って」(ルカ24:33)と書いてありますが、エルサレムからついさっき帰ってきたばかりで、日はもう傾いており、その距離は11キロもあります。それなのに、彼らはじっとしていられずにエリサレムに戻ったのです。なぜでしょう。心のうちが燃えていたからです。心が燃えていないのに、無理をするとすり切れてしまいます。しかし、御霊が燃えていたなら、私たちの新しいいのちは同じところに留まることができないのです。

2月25日 復活 

「人が死ぬ」ということは、万人にとって確実な共通の未来です。どのような偉人も天才も間違いなく死にます。それは変えることのできない「宇宙の法則なのだ」と思っています。言い換えれば「自然なこと」なのだと。
とすれば、なぜ人はこれほどに死ぬことを恐れ、死について考えることや口にすることさえ避けようとするのでしょうか。
それは、死ぬことが、決して「自然なこと」ではないからです。
「罪から来る報酬が死」(ローマ6:23)である以上、罪がなければ死もなかったのです。現在私たちの住む世界は、創造6日目の非常によかった状態(創世記1:31)とは大きく異なっています。
「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないと命じておいた木から食べたので、土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)とみことばは言っています。
つまり、花が枯れることも、人間以外の動物が死んでしまうことも、それは人の罪の影響なのです。さらに日々の苦しい労働も、私たちが自分探しだの生き甲斐探しだのに必死になるのも、すべては神から離れた結果なのです。
 今があまりにつらい為に、現実から逃避したい一心で死を望むこともあるでしょうし、実際に死を選ぶこともあるでしょう。しかし、それは死そのものの甘美さのゆえではなく、あくまでも生を拒否した結果としての死です。そういう間違った選択をする人たちは、「死後は無になる」と信じており、「自分の選択は責められないこと」を前提にしています。しかし、実際はそうではありません。
 今日はイエスさまのよみがえりについて分かち合いますが、「復活」を受け入れるかどうかは、歴史上の唯一の例外を認めることです。それは科学の常識ではとうてい考えられないことであり、理性的な判断によっては決して受け入れることが出来ません。従って、イエスさまの人格的な強い影響力がそのように錯覚させているのだとか、弟子達が見た幻や不思議な体験が伝承されたのだと考えられるようにわけです。
 
実際に福音書を見ていきますが、イエスさまを慕っていた女性たちも弟子たちも、誰ひとりイエスさまがよみがえるとは思いもしていなかったことがわかります。(ルカ24:1~12)
週の初めの明け方早く、女たちは準備しておいた香料を持って墓に着きました。日曜日の早朝のことです。イエスさまを最も慕っていた女性たちは、安息日が明けるのを待ちわびていました。恐らく十字架の直後から、お互いに申し合わせていたのでしょう。まだ暗いうちにそれぞれ家を出たに違いありません。彼女らは少しでも早く、自分たちに出来ることをしてあげたいと思ったのです。ここでも弟子たちは遅れをとることになります。
 墓に着いてみると、入り口を塞いでいた大きな石はわきにころがしてあって、入ってみるとイエスさまの亡骸はありませんでした。彼女らはどう思ったでしょう。イエスさまは約束どおりよみがえられたと喜んだでしょうか。当然、誰かが盗んでいったのだと思ったはずです。だから「途方にくれていた」と書いてあります。そこに、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちのところに着ました。御使いが人間のような姿で現れたのです。女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せました。すると、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここには、おられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思いだしなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」(ルカ24:5)とその御使いたちに言われて、ようやくみことばを思い出すのです。

 4つの福音書の復活の記事を読むならば、細部にわたっては一致しない点がいくつかあることに気づかれるはずです。そういうことをつついて、みことばの真実を曲げようとする主張も出来なくはありません。実際そのような批評や批判が数多くなされてきました。しかし、その不一致の中にある最も重要な真実を見落とすことは愚かです。
 即ち、弟子たちは本当に空っぽになった墓を見、そして、間違いなくよみがえったイエスさまにお会いしたのです。御使いが何人いたかとか、誰が先にイエスさまを目撃したのかとか、そんなことはどうだってよいことです。
4つの福音書は弟子たちが書いた記録です。それはマタイとマルコとルカとヨハネという私たちと同じ人間が書いたのです。そこには、4人の思い出や感情が入っています。経験や知性が色濃く反映されています。相談してねつ造したのでも、優れた教理を生み出そうとしたのでもない。彼らは単純に、「見たこと、聞いたことを伝えないわけにはいかない」と思って書いたのです。そこに聖霊が働きました。だからこそ「弟子」が必要だったのです。弟子は交換可能なアルバイトやエキストラではありません。イエスさまは弟子たちとの人格的なつながりや気持ちを非常に大事にされます。誤解を恐れず言いますが、聖霊は人の意思や能力を越えて働かれることはありません。
御使いはまばゆいばかりの衣を着ていましたが、よみがえられたイエスさまはごく普通でした。マグダラのマリヤは、御使いは恐れてひれ伏していますが、イエスさまを園の管理人だと思いこんで話かけています。(ヨハネ20:15)
イエスさまは、人の心に土足で上がり込むようなことはされないのです。このような奥ゆかしい御方が、スタジアムに人を集めてイリュージョンを行ったり、経営戦略よろしく、TVコマーシャルや無料冊子配布を喜ばれるでしょうか。
 マリヤはどうして、この園の管理人がよみがえられたイエスさまだとわかったのですか。「マリヤ」と自分の名前で呼ばれたからです。彼女はそのいつも聞いていた覚えのある声の主が誰であるのかすぐにわかりました。復活の証人となるために、教理の理解が必要ですか。聖書学校や神学校に行くべきですか。そんな必要はありません。マリヤは不器用でしたが、イエスさまを誰よりも愛し、そしてイエスさまを見たのです。個人的な絆、人格的なつながりが、イエスさまの復活を確信させたのです。

聖書はキリスト教ではありません。同時に多くのキリスト教は正しく聖書を伝えていません。聖書はさまざまな教団が要項をまとめるような方法では書かれていないのです。
神は何を真実とされ、完全とされるのか。「聖書は一言一句神のことばである」というときそれは何をもってそういうのかということを、しっかりとらえるべきです。多くの牧師は、人間の作り上げた体系や解釈の中にみことばを当てはめていき、権威ある人に習ったようにしか、みことばを読みません。その教団が重要とする聖句以外は目に入らず、同じ箇所からはほぼ同じような解説的、教訓的メッセージをするのです。なぜいのちのあるメッセージが出来ないのかは当然です。彼らは聖書を人間の色眼鏡で見ているからです。私は今日も、よみがえられたイエスさまがみことばを開いてその中にイエスさまの事実を見せてくださると信じています。そう信じて聞く人にのみ、主は働いてくださるのです。メッセージは有識者の解説ではありません。開かれるみことばにのみ生きて働く力があり、よみがえられた主が、その場で、聞く者、語る者の心を開いてくださってはじめて、書かれていることがわかるのです。
イエスさまがよみがえられたのは、私たちひとりひとりとともにおられるためです。イエスさまのよみがえりを、自分と直接関係のないお話としてとらえるのか、それとも、自分が復活することの保障としての事実ととらえるのかは全く別のことです。イエスさまの生涯のストーリーとして復活を何となく信じることと、自分自身の復活とイエスさまの復活を結びつけてとらえることとの間には大きな隔たりがあります。

 パウロはその点についてどう言っているでしょうか。
Ⅰコリント15:12~19
「ところで、キリストは死者の中から復活されたと宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」(Ⅰコリント15:12)というパウロのことばを見ると、「キリストはよみがえった」と宣べ伝えている人々の中に、「死者の復活はない」と言っていた人がいるわけです。
これは今日も同じで、本当にすべてのクリスチャンのよみがえりや自分の死後のいのちを信じていないけれども、何となくキリストはよみがえったと思っている人は多いのです。
パウロは続けて言います。「もし、死者の復活がないなら、キリストも復活されなかったでしょう。」(Ⅰコリント15:13)「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえられなかったでしょう。」(Ⅰコリント15:16)
これらのことばを見ると、死者の復活とキリストの復活は分かちがたいひとつのこととして語られているのがわかります。キリストが復活されたということは、私たちも復活するのだと言うのです。まさにキリストはすべての信者をご自分とともによみがえられせるために死なれたのです。
そして、「復活こそが宣教の実質である」とパウロは力説しています。これは、どういうことでしょうか。キリストは、たかだか数十年の生涯の生き甲斐やなどの生き様のためではなく、私たちの存在そのものを永遠に勝ち取り、ご自分の命の中に取り込むために、十字架に架かられたのです。キリストがもし死ぬためだけ死なれたのだとしたら、その死は無意味です。キリストはよみがえるためにこそ死なれたのであり、そのよみがえりは罪人を義人としてよみがえらせるための死です。
つまり、「イエスさまの復活は、私たちの復活である」という事実を受け入れていないなら、その信仰は空っぽだということになるのです。

クリスチャンは「復活の領域」で、すべてのことを考えるべきです。自分自身のよみがえりを信じているクリスチャンでさえ、多くの場合、復活の領域でいのちの喜びを生きることをせずに、すでに十字架に釘づけられた古い自分にこだわってもがいていることが多いのです。それは、明らかにサタンのわなです。「自分は駄目です。自分には無理です。こんな性格の弱さがあり、能力も十分ではありません」あるいは、「自分はこんなにつらい悲しい思いをしてきた。こんなにがまんして、頑張ってきた」人は自分がかわいくて仕方がないので、たいていこのような言い訳や思い出にくるまって生きています。
しかし、それらは初めから分かり切ったことで、だからこそ、イエスさまはそれらを終わらせるために、わざわざ十字架にまで架かってくださったわけです。そこで、私のすべてはその時、イエスさまとともに死んだのです。復活は、新しい創造の始まりです。過去の私ではなく、これから作られる私が大切です。
イエスさまはすべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために「私は渇く」と言われました。裁きの火に焼かれて渇ききってくださったのです。なぜジトジト、ジメジメするのでしょうか。
イエスさまは「完了した」と言われました。そこで「完了」です。なぜ、「いやまだです」「もう少し待ってください」と言うのでしょうか。

「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:5)
「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント4:10)
  私たちは、キリストの十字架とつなぎ合わされています。だから、すでに復活も事実なのです。