「人が死ぬ」ということは、万人にとって確実な共通の未来です。どのような偉人も天才も間違いなく死にます。それは変えることのできない「宇宙の法則なのだ」と思っています。言い換えれば「自然なこと」なのだと。
とすれば、なぜ人はこれほどに死ぬことを恐れ、死について考えることや口にすることさえ避けようとするのでしょうか。
それは、死ぬことが、決して「自然なこと」ではないからです。
「罪から来る報酬が死」(ローマ6:23)である以上、罪がなければ死もなかったのです。現在私たちの住む世界は、創造6日目の非常によかった状態(創世記1:31)とは大きく異なっています。
「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないと命じておいた木から食べたので、土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)とみことばは言っています。
つまり、花が枯れることも、人間以外の動物が死んでしまうことも、それは人の罪の影響なのです。さらに日々の苦しい労働も、私たちが自分探しだの生き甲斐探しだのに必死になるのも、すべては神から離れた結果なのです。
今があまりにつらい為に、現実から逃避したい一心で死を望むこともあるでしょうし、実際に死を選ぶこともあるでしょう。しかし、それは死そのものの甘美さのゆえではなく、あくまでも生を拒否した結果としての死です。そういう間違った選択をする人たちは、「死後は無になる」と信じており、「自分の選択は責められないこと」を前提にしています。しかし、実際はそうではありません。
今日はイエスさまのよみがえりについて分かち合いますが、「復活」を受け入れるかどうかは、歴史上の唯一の例外を認めることです。それは科学の常識ではとうてい考えられないことであり、理性的な判断によっては決して受け入れることが出来ません。従って、イエスさまの人格的な強い影響力がそのように錯覚させているのだとか、弟子達が見た幻や不思議な体験が伝承されたのだと考えられるようにわけです。
実際に福音書を見ていきますが、イエスさまを慕っていた女性たちも弟子たちも、誰ひとりイエスさまがよみがえるとは思いもしていなかったことがわかります。(ルカ24:1~12)
週の初めの明け方早く、女たちは準備しておいた香料を持って墓に着きました。日曜日の早朝のことです。イエスさまを最も慕っていた女性たちは、安息日が明けるのを待ちわびていました。恐らく十字架の直後から、お互いに申し合わせていたのでしょう。まだ暗いうちにそれぞれ家を出たに違いありません。彼女らは少しでも早く、自分たちに出来ることをしてあげたいと思ったのです。ここでも弟子たちは遅れをとることになります。
墓に着いてみると、入り口を塞いでいた大きな石はわきにころがしてあって、入ってみるとイエスさまの亡骸はありませんでした。彼女らはどう思ったでしょう。イエスさまは約束どおりよみがえられたと喜んだでしょうか。当然、誰かが盗んでいったのだと思ったはずです。だから「途方にくれていた」と書いてあります。そこに、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちのところに着ました。御使いが人間のような姿で現れたのです。女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せました。すると、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここには、おられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思いだしなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」(ルカ24:5)とその御使いたちに言われて、ようやくみことばを思い出すのです。
4つの福音書の復活の記事を読むならば、細部にわたっては一致しない点がいくつかあることに気づかれるはずです。そういうことをつついて、みことばの真実を曲げようとする主張も出来なくはありません。実際そのような批評や批判が数多くなされてきました。しかし、その不一致の中にある最も重要な真実を見落とすことは愚かです。
即ち、弟子たちは本当に空っぽになった墓を見、そして、間違いなくよみがえったイエスさまにお会いしたのです。御使いが何人いたかとか、誰が先にイエスさまを目撃したのかとか、そんなことはどうだってよいことです。
4つの福音書は弟子たちが書いた記録です。それはマタイとマルコとルカとヨハネという私たちと同じ人間が書いたのです。そこには、4人の思い出や感情が入っています。経験や知性が色濃く反映されています。相談してねつ造したのでも、優れた教理を生み出そうとしたのでもない。彼らは単純に、「見たこと、聞いたことを伝えないわけにはいかない」と思って書いたのです。そこに聖霊が働きました。だからこそ「弟子」が必要だったのです。弟子は交換可能なアルバイトやエキストラではありません。イエスさまは弟子たちとの人格的なつながりや気持ちを非常に大事にされます。誤解を恐れず言いますが、聖霊は人の意思や能力を越えて働かれることはありません。
御使いはまばゆいばかりの衣を着ていましたが、よみがえられたイエスさまはごく普通でした。マグダラのマリヤは、御使いは恐れてひれ伏していますが、イエスさまを園の管理人だと思いこんで話かけています。(ヨハネ20:15)
イエスさまは、人の心に土足で上がり込むようなことはされないのです。このような奥ゆかしい御方が、スタジアムに人を集めてイリュージョンを行ったり、経営戦略よろしく、TVコマーシャルや無料冊子配布を喜ばれるでしょうか。
マリヤはどうして、この園の管理人がよみがえられたイエスさまだとわかったのですか。「マリヤ」と自分の名前で呼ばれたからです。彼女はそのいつも聞いていた覚えのある声の主が誰であるのかすぐにわかりました。復活の証人となるために、教理の理解が必要ですか。聖書学校や神学校に行くべきですか。そんな必要はありません。マリヤは不器用でしたが、イエスさまを誰よりも愛し、そしてイエスさまを見たのです。個人的な絆、人格的なつながりが、イエスさまの復活を確信させたのです。
聖書はキリスト教ではありません。同時に多くのキリスト教は正しく聖書を伝えていません。聖書はさまざまな教団が要項をまとめるような方法では書かれていないのです。
神は何を真実とされ、完全とされるのか。「聖書は一言一句神のことばである」というときそれは何をもってそういうのかということを、しっかりとらえるべきです。多くの牧師は、人間の作り上げた体系や解釈の中にみことばを当てはめていき、権威ある人に習ったようにしか、みことばを読みません。その教団が重要とする聖句以外は目に入らず、同じ箇所からはほぼ同じような解説的、教訓的メッセージをするのです。なぜいのちのあるメッセージが出来ないのかは当然です。彼らは聖書を人間の色眼鏡で見ているからです。私は今日も、よみがえられたイエスさまがみことばを開いてその中にイエスさまの事実を見せてくださると信じています。そう信じて聞く人にのみ、主は働いてくださるのです。メッセージは有識者の解説ではありません。開かれるみことばにのみ生きて働く力があり、よみがえられた主が、その場で、聞く者、語る者の心を開いてくださってはじめて、書かれていることがわかるのです。
イエスさまがよみがえられたのは、私たちひとりひとりとともにおられるためです。イエスさまのよみがえりを、自分と直接関係のないお話としてとらえるのか、それとも、自分が復活することの保障としての事実ととらえるのかは全く別のことです。イエスさまの生涯のストーリーとして復活を何となく信じることと、自分自身の復活とイエスさまの復活を結びつけてとらえることとの間には大きな隔たりがあります。
パウロはその点についてどう言っているでしょうか。
Ⅰコリント15:12~19
「ところで、キリストは死者の中から復活されたと宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」(Ⅰコリント15:12)というパウロのことばを見ると、「キリストはよみがえった」と宣べ伝えている人々の中に、「死者の復活はない」と言っていた人がいるわけです。
これは今日も同じで、本当にすべてのクリスチャンのよみがえりや自分の死後のいのちを信じていないけれども、何となくキリストはよみがえったと思っている人は多いのです。
パウロは続けて言います。「もし、死者の復活がないなら、キリストも復活されなかったでしょう。」(Ⅰコリント15:13)「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえられなかったでしょう。」(Ⅰコリント15:16)
これらのことばを見ると、死者の復活とキリストの復活は分かちがたいひとつのこととして語られているのがわかります。キリストが復活されたということは、私たちも復活するのだと言うのです。まさにキリストはすべての信者をご自分とともによみがえられせるために死なれたのです。
そして、「復活こそが宣教の実質である」とパウロは力説しています。これは、どういうことでしょうか。キリストは、たかだか数十年の生涯の生き甲斐やなどの生き様のためではなく、私たちの存在そのものを永遠に勝ち取り、ご自分の命の中に取り込むために、十字架に架かられたのです。キリストがもし死ぬためだけ死なれたのだとしたら、その死は無意味です。キリストはよみがえるためにこそ死なれたのであり、そのよみがえりは罪人を義人としてよみがえらせるための死です。
つまり、「イエスさまの復活は、私たちの復活である」という事実を受け入れていないなら、その信仰は空っぽだということになるのです。
クリスチャンは「復活の領域」で、すべてのことを考えるべきです。自分自身のよみがえりを信じているクリスチャンでさえ、多くの場合、復活の領域でいのちの喜びを生きることをせずに、すでに十字架に釘づけられた古い自分にこだわってもがいていることが多いのです。それは、明らかにサタンのわなです。「自分は駄目です。自分には無理です。こんな性格の弱さがあり、能力も十分ではありません」あるいは、「自分はこんなにつらい悲しい思いをしてきた。こんなにがまんして、頑張ってきた」人は自分がかわいくて仕方がないので、たいていこのような言い訳や思い出にくるまって生きています。
しかし、それらは初めから分かり切ったことで、だからこそ、イエスさまはそれらを終わらせるために、わざわざ十字架にまで架かってくださったわけです。そこで、私のすべてはその時、イエスさまとともに死んだのです。復活は、新しい創造の始まりです。過去の私ではなく、これから作られる私が大切です。
イエスさまはすべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために「私は渇く」と言われました。裁きの火に焼かれて渇ききってくださったのです。なぜジトジト、ジメジメするのでしょうか。
イエスさまは「完了した」と言われました。そこで「完了」です。なぜ、「いやまだです」「もう少し待ってください」と言うのでしょうか。
「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:5)
「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント4:10)
私たちは、キリストの十字架とつなぎ合わされています。だから、すでに復活も事実なのです。