2007年2月23日金曜日

2月18日 アリマタヤのヨセフ


十字架と復活の間にある埋葬の記事について、ともに分かち合いましょう。
ルカ23:50~56 ヨハネ19:38~42 マタイ27:57~61
マルコ15:42~47

埋葬についてしっかり確認することには、大切な意味があります。ひとつは、イエスさまには葬られる人としての肉体があったということです。もうひとつは、イエスさまは完全に絶命されたということです。そして、神の裁きと救いの御業は完了したということです。私は、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」(Ⅰヨハネ4:3)が神からのものであると強調してきました。この埋葬の記事からもわかるように、イエスさまは、人として神に従い、人として苦しみを受け、人として罪を犯さず、人として罪を背負われ、人として死なれました。(Ⅰペテロ2:22~25)(Ⅱコリント5:21)

イエスさまの亡骸を埋葬したのは、弟子たちではなく、アリマタヤのヨセフとニコデモのふたりでした。このとき弟子たちは何をしていたのでしょうか。ご承知のように、ユダヤ人を恐れて難く戸を閉ざして隠れていたのです。この事実をみことばから確認してみると、弟子たちがユダヤ人を恐れて身を潜めていたのは、「週の初めの日の夕方」です。(ヨハネ20:19)

アリマタヤのヨセフに関する事実を整理してみましょう。
この人は、これまでは「ユダヤ人を恐れて、弟子であることを隠して」いました。(ヨハネ19:38)マタイは「彼もイエスの弟子になっていた」(マタイ27:57)と証言しています。
ヨセフの社会的地位についてですが、彼は「金持ち」(マタイ27:52)であり、サンヘドリンの議員(マルコ15:43)(ルカ23:50)でした。しかし、彼はただの有力者ではありませんでした。
それぞれの時代、それぞれの国に、桁外れの金持ちや影響力のある議員はいたでしょう。しかし、福音書にその名前と行為が記された金持ちも議員もいません。ただアリマタヤのヨセフの名前は今も世界中で語られています。彼がイエスさまの埋葬に関わったことは、4人の福音書記者全員がそろって書きしるしたからです。
ルカは、彼のことを「りっぱな正しい人」(ルカ23:50)と書いています。そして、「この人は、議員たちの計画や行動には同意しなかった」こと、「神の国を待ち望んでいた」ことのふたつの事実を伝えています。ひとつは、具体的な行動についての記述であり、この世に対する態度に関することです。もうひとつは、心の問題であり、神さまに対するあり方や信仰に関することです。

アリマタヤのヨセフには、議員という社会的な地位もありました。議員といっても当選回数や貢献度によってランクがありますが、有力な議員でした。(マルコ15:43)ですから、当然周囲の尊敬もありました。経済的にも不自由のない豊かな生活もありました。身も心も傷ついた売春婦や、お金はあっても希望のない取税人や、収入の不安定な田舎の漁師とは違います。しかし、彼は人生にはもっと大切なことがあることを知っていました。人の前ではなく、神さまの前に自分が何者であり、どのような関係にあるのかということを大切に考えていました。
彼は「有力な議員」であることよりも、「無力なイエスの弟子」であることを重んじたのです。議会全体が興奮してイエスさまに対する憎しみを燃やす中で、ただひとり異なる立場をとり、反対票を投じることは、その時は勿論、これから先も大きなリスクを負うでしょう。それでも、彼は反対の立場を固持しました。ヨセフの見方はいません。誰も助けてはくれません。イエスさまもそのまま十字架にかかられるだけです。ただ、みことばは永遠にヨセフを支持します。 
ルカは、ヨセフが、この時代、この瞬間に、ただひとり異なった意見を持っていたことを記録しました。「この人は、議員たちの計画や行動には同意しなかった」(ルカ23:51)のです。何という素晴らしい信仰の証でしょうか。もし、このヨセフの行動がなければ、イエスさまの亡骸が、罪人のための共同墓地に捨てられるように葬られたり、あるいは、誰にも葬られないまま鳥や犬などの餌食になったりした可能性さえあります。

アリマタヤのヨセフは、自分の墓をイエスさまに捧げました。弟子たちがユダヤ人を恐れてできなかったことを、彼はしました。弟子たちに出来なかったことがヨセフに出来た理由がいくつかあります。ひとつは、復活を見るまでの弟子たちにとって、大事なのは生きているイエスさまであり、それ以上にそのイエスさまに従う自分だったということです。弟子たちが理解していたキリストのみわざはあくまでも世直しであり、地上での救いであり、弟子として活躍する自分の生き甲斐でした。それに対して、ヨセフが待ち望んでいたものは神の国でした。この心の置き所の違いが、行動の違いとなって現れています。
もうひとつは、その人間的には困難な行動へと促す力はみことばであるということです。つまり、ヨセフが弟子たちよりも心やさしい人だったわけでも、勇気や根性があったわけでもないということです。アリマタヤのヨセフと行動をともにしたのは、律法学者ニコデモでした。多くの人が絶対やろうともしないことを、時の有力者ふたりがやるわけです。たまたま同じことを思いついて道中出会ったというよりは、いずれかが連絡をとって申し合わせたと考えるのが普通です。当然ふたりは面識があったと考えるのが自然です。だとすれば、ヨセフはニコデモから聖書を学んだこともあったでしょうし、イエスさまのことについても語り合ったでしょう。

ニコデモには、十字架を見たときに確実に思い出したであろうみことばが与えられていました。「だれも天にのぼった者はいません。しかし、天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな永遠のいのちを持つためです」(ヨハネ3:14~15)
モーセが掲げた青銅の蛇を仰ぎみれば、蛇の毒からいのちが救われたという記事と、十字架を見上げれば、罪という毒から救われるという事実が、ニコデモの中でひとつになったはずです。さらに、律法の中に「木につるされた死体を必ずその日のうちに埋葬しなけらばならない」(申命記21:22~23)と記されていることをニコデモは知らないはずはないので、これらのみことばにつながる信仰が、ふたりを埋葬の奉仕へと向かわせたのです。

そして、みことばに従ったことが、偉大な礼拝となり、さらにみことばを成就させることにつながっています。イザヤはこの時代からさかのぼること約750年前に「彼は富む者とともに葬られた」(イザヤ53:9)と語っています。
この点については、はっきりと書かれていないので、若干想像で補っている部分もあるのですが、それほど無理なこじつけではないと思います。

アリマタヤのヨセフとニコデモのふたりがイエスさまの埋葬をしたのは、安息日の備え日、すなわち金曜日です。安息日は土曜日ですが、ユダヤの暦では金曜日の日没から始まります。
「この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた」(ルカ23:54)とルカは記しています。
マルコは、アリマタヤのヨセフが、その切迫した時間の中で思い切って決断したことを記しています。「すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフは思いきってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った」(マルコ15:42~43)
 イエスさまの十字架からわずか数時間後の決断でした。
 「救いは神から人への恩寵であり、すべては恵み。そしてそれは完了しており、私たちは何もそれに付け加えることも、お返しすることもできない。」
私のメッセージを要約すれば、いつもそういう内容です。
 しかし、ヨセフとニコデモが用意したものは、無駄なつけたしや不必要なお返しではありません。マリヤが注いだ香油と同じです。人が霊とまことをもってイエスを礼拝するとき、そこにはもはや利害や損得の計算などありません。それぞれに出来る限りのことを淡々と行うだけなのです。もちろんふたりにも、恐れや迷いはありましたが、それを越える熱い思いが埋葬へと駆り立てたのです。周囲の視線や攻撃が全く気にならないほどに、イエスさまへの感謝にあふれているからです。イエスさまの人格に捕らえられているからです。
このような行為を見るとき、何かを期待しての投資的動機を含む献金や、この世での就職代わりのキリスト教業界への献身がいかに滑稽で無意味かが、はっきりわかります。
また、この埋葬に関わったのは、社会的地位においても、経済的な豊かさにおいても、比類なきものを備えたエリートふたりですが、仮に、ヨセフやニコデモに、パワー・フォー・リビングの冊子に「顔写真入りで証を書いてください」とお願いしたら、何と答えるでしょう。
当然、答えはノーでしょう。彼らが「イエスを埋葬しよう」と決断したとき、あの冊子が紹介するような未来とは逆のものを背負う覚悟をしたからです。

 献金することが素晴らしいから献金しようというのは間違っています。
献身することが素晴らしいから献身しようというのは間違っています。
伝道することが素晴らしいから伝道しようというのは間違っています。
祈ることが素晴らしいから祈ろうというのは間違っています。
みことばを学ぶことが素晴らしいからみことばを学ぼうというのは間違っています。
イエスさまが素晴らしいから、そうしたい人は自分のしたいことをするのです。自ずとしてしまうのです。十字架の愛がわかってじっとしていられる人はいません。黙っていられる人はいません。祈りもせず、みことばに無関心でいられる人は、イエスさまとは関係のない人です。

イエスさまの素晴らしさを味わうことなく、定められた行為へ駆り立てられる人の日常は惨めです。そこにいのちや喜びなどあるわけがありません。
私たちが見ているのは何ですか。このままだと駄目になる自分ですか。それとも将来の祝福された姿ですか。いずれも違います。私たちが見るべきは、ただイエスさまです。