2007年2月15日木曜日

2月4日 十字架上でおこったこと


最近の最もショッキングな事件と言えば、やはり近親者によるバラバラ事件でしょう。ひとつはセレブな妻がエリートの夫を殺した例です。妻の証言によると、慰謝料をとって離婚するだけでは足りないとのこと。もう一件は、歯科医を目指す兄が女優を目指す妹を殺したものです。こちらは両親に対する妹の態度が許せなかったとのこと。事件の悲惨さもさることながら、殺害に及ぶ理由が本人の中である程度正当化されていることに驚かされます。
夫と妻の関係や兄弟姉妹の関係は、キリストや教会を表した大切な雛型ですが、これらの事件においては、そのいずれもの関係が完全に崩れています。なぜこんなことになるのでしょうか。それは相手のことを自分を満たす手段としてとらえているからです。このふたつの例は非常に極端なものであるとしても、今日「影」である肉の家族の中で起こっている問題は、「実体」である教会の中でも起こっています。教会がバラバラになっていくのは、まさに同じ理屈なのです。キリストや教会が「自分を満たす手段」になっていくとき、それは個人の憎しみや狂気によってやがてバラバラにされます。その原動力は愛ではなく、初めからエゴなのです。結婚という契約や家族という形態があるからといって、夫婦や兄弟姉妹としての正しいあり方を保ち、実質的な機能を伴っているわけではありません。それは、教会も同じです。私は最近、妹殺しの被害者と加害者のお父さんである歯科医の手記を読みましたが、正直ぞっとしました。こういう事件が家庭内で起こって然るべしという何か不自然な空気が、その手記からじゅうぶん感じ取れたからです。狂気の沙汰に見える事件も、正気を装っている人たちの日常の価値観の中から生まれてくるのです。殺してバラバラにする瞬間だかが間違っているのではなく、全てが間違っているのです。

私たちがキリストや教会やお互いの関係を、自分の何かを守ったり、新たに何かを得たりする手段にすることがないように、ただ神の義を目的として、ひたすらイエスさまの栄光を求めて礼拝を続けるために、どうしても必要なことは、単純なことです。それはやはり十字架の価値と意味を正しく理解することに尽きるのです。イエスさまが十字架にかかられることによって、ユダヤの宗教やローマの政治、つまり神を忘れて生きる人の日常の営みがいかに異常なものであるかを明らかにされたのです。ですから、福音が正しく語られるとき、それは甘く耳障りの良いものであるはずがないのです。キリストが十字架にかかってくださったのは、私たちが十字架にかけたからです。私がイエスさまを殺したことがわからずに、どうしてイエスさまが私のために死んでくださったことがわかるでしょうか。わかるはずがないのです。

「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに避けた。」(ルカ23:44~45)
マルコの記録によると、イエスさまが十字架につけられたのは午前9時でした。(マルコ15:25)そして、息を引き取られたのは午後3時です。そして、12時から3時までの時間は、「全地が真っ暗になった」(マタイ27:45,マルコ15:33,ルカ23:44)と書いてあります。この暗黒の時間にいったい何があり、イエスさまの受けられた苦しみがどれほどのものであったのかは、わかりません。ただ私たちが何の値もなく義と認められ、義と認められるどころか栄光の中に招き入れられる特権を思うとそれに引き合うほどのものであったことだけはぼんやりとわかります。この暗闇の3時間が父と御子にとってどのようなものであったかは、人には永遠にわからないでしょう。しかし、そこで行われた事実によって、神殿の幕が真二つに避けました。これは、非常に重要な事実を伝える象徴であることを覚えてください。律法によっては誰も近づき得なかった恵みの御座への道が開かれたのです。

十字架の上でイエスさまが語られた7つのおことばを覚えて主を礼拝しましょう。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか、わからないでいるのです。」(ルカ23:34)「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう私とともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)「女の方。そこにあなたの息子がいます。」「そこにあなたの母がいます。」(ヨハネ19:26~27)「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)(マルコ15:34)「わたしは渇く。」(ヨハネ19:28)「完了した。」(ヨハネ19:30)「父よ。わが霊を御手に委ねます。」(ルカ23:46)この七つの驚くべきことばの中には、尽きることのない恵みがあふれています。このことばを書き留めてくださった聖霊に導かれながら、味わいたいものです。

2000年前の十字架上でおこったこと、それは単にひとりの偉大な人の死ではなく、すべてのいのちの源である神ご自身が経験された死です。
それは、この宇宙の創造よりも遙かに大きな出来事なのです。それは、罪を犯して神から離れた贖われる側の人間にとっては、なかなかピンとこないものです。しかし神は、ご自身が愛であるがゆえに、御使いや人間に自由意思をお与えになりました。そのために本来は神の御性質ではない罪が生まれました。御使いたちは、罪の結果もたらされたこの宇宙の混沌と被造物が服した虚無を、神がいかにして回復されるかをずっと注目していたのです。聖書に出てくる御使いは、そういう意味で、神の正義を見守り、贖いの偉大さを客観的に味わうという重要な役割を果たしていますが、不信仰な人間の知性にとっては、聖書の信憑性を疑わせる神話やおとぎ話の脇役にすぎないのです。
聖書全体の理解はもちろん、十字架で何がおこったのかを知るためには、人間の知識や感覚や経験は全く役に立たないばかりかむしろ弊害にしかなりません。みことばに対する信仰だけが、その秘められた奥義解く唯一の鍵です。鍵があれば、どのような扉でも容易に開きます。重い扉を開けることも、扉の向こうの世界を体験することも、それは特別な魔法でも霊感でもなく、それは普通の自然のことなのです。ポイントは扉にふさわしい鍵かどうかです。そういうところにポイントがある以上、本来、人の手柄や誇りや人間のドラマが入る余地のないのです。ただ神の一方的な恵みによって完成された救い、それが十字架なのです。

十字架の死の本当の偉大さは、イエスただひとりによって成し遂げられた御業の中に信じる「私たちの死」が含まれているところにあります。これは、十字架を理解する上で重要なポイントです。
たとえば、ある子どもが溺れそうになったとします。お父さんが子どもを助けるために冷たい水に飛び込み、子どもをすくいあげたので、その子どもは命をとり留めましたが、不幸なことにお父さんは死にました。たしかにお父さんは子どもを救い、身代わりに死にました。そしてその死は何よりも確かな子どもへの愛の証だと言えます。子どもはその父の身代わりによって再び与えられたいのちを慈しみながら、父への感謝を忘れず、よい人生を送るでしょう。しかし、それにしたところで、その救われたいのちは溺れる前のいのちと質的に同じであって、お父さんの死に子どもの死が含まれているわけではありません。当たり前ですよね。しかし、2000年前のイエスさまの死には、「私の死」が含まれているのです。この違いがおわかりですか。私たちは十字架の何を信じているのでしょう。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無駄にしません。もし、義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ22:20~21)
もちろん、私が直接十字架につけられたわけではありませんし、これから十字架のような苦しみを経験するのだとういう暗示でもありません。キリストが私のために死なれたという信じ受け入れることの中には、私もそのときキリストとともに十字架につけられたのだという事実が含まれているのです。このことの理解がないと、本当の意味で十字架を信じたとは言えないし、神の恵みを無駄にする可能性があります。
「十字架を信じる」と告白しておきながら、私が生きているのであれば、それは信じたとは言えないということです。十字架を信じていると言うのであれば、「キリストが私のうちに生きておられる」のです。「旧約聖書をあまり知らないから、自分は律法とは関係がない」と思っている人もいますが、恵みの中にいない人は自動的に律法の中にいるのです。

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)
十字架を信じる信仰によって、私たちはキリストとつなぎ合わされます。それによって、キリストの死とよみがえりともひとつにされ、そこで成し遂げられたことや獲得されたものを残らず得ることができるのです。十字架は私と世界との関係性の象徴でもあります。
世に対するこのスタンスがずれていれば、霊的なもの天的なものを獲得することはありません。「もし、私たちがキリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて私たちはこれからは罪の奴隷ではなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は罪から解放されているのです。もし、私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ガラテヤ6:5~8)
 イエスさまは、死ぬために死なれたのではなく、よみがえってご自分のいのちを信じる者に与えるために死なれたのです。大事なことは、そのよみがえいりのいのちと復活による新しい創造によるあゆみに入るためには、必ず「私はすでにキリストとともに死んだのだ」という確実な認識と信仰が必要だということです。

 先ほどのいのち拾いをした子どもがお父さんに感謝するレベルで十字架を思う人は世界中に大勢おられると思いますが、それはいのちの生まれ変わりに至っていません。キリストの死とつなぎ合わされることによって、ともによみがえりを経験し、新しいいのちともつなぎ合わされるのです。
時として、私たちは、信じて告白してもなお殆ど変化のない自分の姿に気づき驚かされます。かえって信仰を持ったがゆえに、信じる前に気にならなかったようなことにも激しく心が痛み傷つくようになり、こんなことで本当に自分はキリストとともに死んだなどと言えるのだろうかという疑問が出てきます。
しかしそれは、本気で信じて歩もうとする人たちに必ずおこってくることです。パウロの手紙はほとんど、このような葛藤の中で勝利するための処方箋となっていることに気づかれるはずです。このような中で、具体的な問題の扉を開くためのみことばの鍵が聖書の中に散りばめられています。自分の判断ではなく、みことばを重んじ、その鍵を使って新しい部屋に入った者は、自分が確かに少し新しくされたのに気づきます。このような日々の積み重ねによってイエスさまとつなぎ合わされていることを感じるのです。つまり、この世にあるものはそれが何であれ、もう私たちを満たすことは出来ないのだとわかるようになります。「世界が私に対して」「私が世界に対して」十字架にかかっているのだという事実を経験するのです。真のキリスト者の信仰の歩みは、味わいのある深いものです。「よみがえりのいのちによって得られる賜物は無敵のアイテムで、それを遣えば信仰の戦いに勝利できるのだ」というような陳腐なロールプレイングゲームではありません。キリストがともにいて歩んでくださるあゆみです。私の重荷ではなく、イエスさまの荷を負い、イエスさまとくびきをともにして歩むあゆみです。