2007年2月16日金曜日

2月11日 なだめの供え物


加害者と被害者の間や、あるいは利害が衝突している人たちの間に第三者がはいって仲裁することはあります。仲裁者は客観的に少しでも妥当な落としどころを見つけるだけで、自らが進んで当事者のリスクを負うことなどありません。
「なだめ」というのは、本当に難しいものです。その怒りが正当なものであればあるほど、「和解」は難しいのです。たとえば、学校を舞台にいじめなどの事象が起こった場合、教師たちは仲介者、また当事者として、その問題解決に関わるわけですが、なかなかうまくはいきません。失敗する場合の原因を分析してみると、双方の思いに十分共感できないのに、早く、うまく、ことを治めようとしています。そういう場合は、教師自らが子ども達の痛みに共感することにも、間違いは間違いとして、毅然として罪を戒めることも出来ていないのです。
十字架は、「被害者」であるイエスさまが「加害の意識さえない加害者」である人間を赦し、「正義の侵犯者」である神をなだめるというものです。誰が人類が積み上げて来たこの罪の数々をとりなし、神と人を和解に導くことが出来るのでしょうか。
「神は唯一です。また、神と人との仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)
ここでは、3つの重要なポイントが語られています。まず、神は唯一です。次に仲介者も唯一です。そして、その仲介者は、「人としてのイエス」です。この世には何と多くの神があふれていることでしょう。それは、人の側から大いなるものへの和解を求めたあえぎの結果です。しかし、仲介者は、双方の思いや痛みに共感できる、具体的な解決能力を持った者でなければなりません。それが人間としてお生まれになった神のひとり子イエスさまです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか、わからないでいるのです。」(ルカ23:34)
今日は、この十字架上でのとりなしのことばをより深く理解するために、「なだめの供え物」というキーワードで、みことばを繙いていきたいと思います。「なだめの供え物」ということばですが、何となく意味はわかりますが、一般にはあまり使わない聖書特有の表現ですが、極めて重要なことばです。

「この方こそ、私たちの罪のための、-私たちの罪だけでなく全世界のための、-なだめの供え物なのです。」(Ⅰヨハネ2:2)
御父の前で弁護してくださる方は、ただことばで弁護してくださるだけではなく、身代わりに罰を受けてとりなしてくださっているのですから、その弁護は完全なのです。御父はその裁きの正義を曲げることなく、この方の義のゆえに、罪人である者を義と宣言することができるのです。その犠牲の大きさのゆえに、祈りに答えて御子につながる者を赦さないわけにはいかないのです。これは全世界のためのとりなしです。キリストの死は全世界を贖うための犠牲なのです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)
神がご自分をなだめるための供え物を自ら用意されました。それが全てです。そして、神から人へ流れるもの、それが愛なのです。私たちがキリストにある兄弟姉妹を愛することができるとしたら、それは父の愛が自分をつきぬけて相手に届いているのです。
私たちは神をなだめることなど出来ませんし、その必要さえ感じませんでした。人間が必要を感じたのは自分自身に関することだけでした。偶像を拝むのは、自分のうしろめたさをなだめるためです。人生の幸福のために神を求めるのは、自分のむなしさを埋めるためです。いずれも神を礼拝することと似ているようで、実は全く関係がありません。それは人間が発明した身勝手な宗教です。「自分が愛ある人になるため、不特定多数の人を愛しましょう」というポーズを作るから胡散臭いのです。人は神のために何も供える物を持っていませんし、獲得も出来ません。そして、この偉大な供え物に何ひとつ付け足すことは出来ず、この供え物に対しておかえしも出来ません。この供え物の偉大さやなだめる意義がわからないので、いのちの福音とは無関係なキリスト教が生まれてくるのです。カインではなくアベルとその捧げものがどうして神に受け入れられたのですか。なぜ、アブラハムはイシュマエルではなく、イサクを捧げよと命じられたのですか。今日多くのキリスト教各派は、カインにつながり、イシュマエルへの流れを作っています。

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を忍耐をもって見逃して来られたからです。それは、今の時にご自分の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25~26)
ここでは、神の義を現わすためのなだめについて書かれています。この世にあふれる罪を見逃しておられるのも、義を現すためでした。逆説的な表現になりますが、キリストの十字架がそれほど完全であるからこそ、この世にこれほど多くの罪があふれているのです。もし、十字架がないなら、今なお各地でおこっている戦争、環境破壊、さまざまなに不正や犯罪を、正義の神が、何年も何十年も見逃しはされません。十字架以前の罪も、十字架以降の罪も、イエスさまが十字架に架かられたことによって、すべてを贖い、すべてを覆しました。それは完了したのです。今はまだ審判のときではありません。また、目には見えるかたちでの世界の回復もありません。しかし、より多くの人々がこの「なだめの供え物」の価値を享受できるように、時がのばされているのだと聖書は語ります。まず、すべてが終わるまでに、「なだめの供え物」として、十字架上で苦しみ、そして死なれたイエスさまの中に、「神の義」を見なければなりません。それが「信仰」です。

「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のためになだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:17~18)
罪のない御方が身代わりに十字架にかかっているだけでも、神の義は満たされたかも知れません。しかし、神の愛はそれ以上でした。キリストのとりなしが、より力強く、かつ、後に彼に従う者たちにもその力が及ぶようにと、あらゆる点で私たちと同じ弱さを身にまといながら、この祈りをしてくださったのです。このとき、イエスさまは体力も気力も限界であったと思いますが、その中で、ご自分を鞭打ち、嘲り、ののしる人々を、裏切った弟子たちを、そして私たちを覚えて、祈ってくださったのです。神の御子だから、やすやすと自動的に十字架上のことばが台詞のように口から出てきたわけではありません。人として試みの受け、別のことばや態度が現れたかも知れない可能性の中で、信仰の創始者また完成者として、みことばを選んでくださったのだからこそ、十字架の価値はいっそうすばらしいものになるのです。それゆえ、イエスさまは、あわれみ深い忠実な大祭司であり、王の王にふさわしい方とされたのです。
御父は何を満足されるのでしょうか。この偉大な御子の従順と信仰をご覧になり、良しとされるのです。聖書の中で、御父が直接語られる声を聞く場面はほとんどありません。直接語らないから御使いや預言者を遣わすわけです。そう考えてみれば、御父が直接語られたことばは、どれほど重要な内容であるかはわかるはずです。そのメッセージは、イエスさまが御父のみこころを満足させる唯一の方であるということです。
御子が洗礼を受けられたときは、御父は御子ご自身に直接語られました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)
そして、変貌の山では、弟子たちに対して語られました。「これは、私の愛する子、わたし選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」(ルカ9:35)
御子が御父のみこころを成し遂げるからこそ、この方のすべてが「なだめ」になるのです。愛する御子が、御父のみこころを選び取って自らの意思として、人の弱さを身にまといながら、苦しみの中で切に願われるのです。御父はどうしてその願いを聞かずにいられるでしょうか。私たちは御子があまりにも偉大で、その贖いが完全であるがゆえに、全く値なしに救われるのです。
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)と書かれているとおりです。私たちは救われるために、何ものである必要もないわけです。

イエスさまは、ただ「彼らをお赦しください」と祈られただけではなく、「彼らは自分で何をしているのか、わからないでいるのです」ととりなしておられます。「無知」には情状酌量の余地があるのです。しかし、「知ること」は責任を伴います。クリスチャンの責任、福音を聞いた者の責任についても、考えないわけにはいきません。十字架にかけるまでは、人の無知と神の予知の故です。しかし、十字架にかかられた今求められているのは、悔い改めです。(使徒17:30~31)クリスチャンはあらゆる場合に十字架を勘定にいれて、物事を霊的に評価できる目を持つべきです。相手が誰であっても、十字架を勘定に入れずに、この世の利害で対立すべきではありません。昔も今も、クリスチャンどうしというか、キリスト教関係者どうしというか、何とも見苦しい足の引っ張り合いや論争もあります。それは、本当に悲しいことです。そして、勿論、信仰のない人たちと十字架抜きの争いをすべきではありません。
これは、「理不尽なことにも沈黙して、何でも耐え忍べ」というような意味で申し上げているわけではありません。正当な要求はしてもかまいません。悪や不正に対しては怒るべきときに怒るべきであり、正せるものは正すべきです。「神が全てを新しくされるのだから、この世はどうなっても無関心」というような態度は、明らかに間違っています。環境を守り、戦争には反対すべきです。この世の弱者には可能な限り、手を差し伸べるべきです。心配しなくても、第一にすべきものを間違っていなければ、そういう世直し的なことが、生き甲斐や活動の中心になるはずはありません。私たちはあらゆることを吟味して、本当に良いものを見分けるべきです。いい人を装って何に対しても寛容ぶるのは、正しい態度ではありません。イエスさまのユダヤの指導者への痛烈な批判や宮きよめの行動は、この世の道徳的寛容さとはほど遠いものでした。彼らが信じていたのは、唯一の創造者ではなかったですか。彼らがメシアを待ち望んでいたのは、ただのポーズだったのでしょうか。彼らが大事にして守っていたのは、神のことばではなかったのですか。みことばにある生け贄をささげるために、鳩を売っていたのではなかったでしょうか。

試しに注文しておいた「パワー・フォー・リビング」の冊子が届きました。まさに「生きるための力」というタイトルどおり、その中心は、神をなだめる供え物についての記述は乏しく、人に媚びる内容が大半を占めていました。御父をなだめるものは、御子の人格です。その御生涯と贖いの血です。あれような冊子は、キリスト教文化の毒汁であって、その手法もアラブの大義を破壊するおせっかいな正義と同じものだと私は感じました。私流に要約すると、「私は私のままで、私の願いをかなえるために、成功するには私を愛してくださっている神のパワーに頼らなきゃ。」となります。私たちの人生に必要なのは、出どころのわからないパワーではなく、イエスさまのパーソンです。神と分離したままで成功のためのパワーを得ることではなく、私は弱いままでイエスのパーソンとひとつになることが大事なのです。
「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)これは、「女から生まれた者の中で最も偉大」と評価されたバプテスマのヨハネのことばです。どのような装いをしていようと、「私が盛んになる」話は、人間の宗教です。十字架は、私の終わりであって、よみがえりのいのちの始まりです。夢を実現させる自分史の転換点に、神のパワーを借りるだけなんて、ドラキュラよけのアイテムとしての十字架と似たりよったりではないかと、私には思えるのです。

それでもなお十字架は偉大です。何重ものオブラートに包まれていようと、そこにみことばがある以上、みことばにあるいのちが読み手の渇きに対して働きかける可能性には期待します。
「パワー・フォー・リビング」が主によって用いられますようにと祈ることは間違いではありません。