2007年2月6日火曜日

1月14日 ゲツセマネ

ルカ22:39~46

オリーブ山と呼ばれる場所は、いつもイエスさまが祈ったり、弟子たちとともに集まったりしている場所です。いよいよ十字架に架かられる日が近づいたとき、この場所で特別な祈りがなされたことが詳しく記されています。福音書の中でも、十字架と復活の次に重要な箇所です。オリーブ山には、ゲツセマネと呼ばれる園がありました。ルカは祈りの山という点を強調してオリーブ山と記していますが、マタイとマルコはゲツセマネという場所を指定して書いています。ゲツセマネとは「油しぼり」という意味です。オリーブ山と言うくらいですから、オリーブの木がたくさん栽培されていて、オイルを採るための圧搾機があったのだと言われています。今も当時の様子を偲ばせる古いオリーブの木が残っています。

イエスさまは、弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われました。肉の弱さの中にあっては、常に葛藤があります。ここで言われているのは、単純に罪を犯さないようにという意味から、さらに深くみことばにのみ従えるようにということまで、幅広い意味合いで語られていると思います。
少し前の場面でも、「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことが出来るように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(ルカ21:36)と言われているので、弟子たちは、基本的はその延長線上にある注意だと受け取ったことでしょう。
他の福音書を見ると、イエスさまは、自分が祈っている間そばにすわっているように命じて、その中からペテロとヤコブとヨハネの3人だけを連れて、そこからさらに進まれ、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(マタイ26:38)とおっしゃっています。
少し話は横にそれますが、イエスさまが、この3人をなぜ連れていかれたのかをお話します。この3人は、ヤイロの娘がよみがえる場面や、イエスさまの変貌の場面にも立ち会っています。彼らは一番主のお心に近いお気に入りの弟子だったのでしょうか。そうではありません。律法は、真実を証言する場合2人または3人の証人を求めています。(申命記17:6,19:15)新約の時代でもすべての真実は2人または3人の証人の口で確認されると言われています。(マタイ18:16)彼らが特に大事な場面でイエスさまのそばにいることが許された本当の理由は、イエスさまの生涯の事実を確認し証言するためです。何を確認するのでしょう。それは、「この方が完全に神であり、そして、人であった」ということです。キリスト教の世界には、くだらない神学や教理が山ほどあります。しかし、いつもお話しているように一番大事なことはこのポイントなのです。イエスさまが特別な御方だと言わない教会はないでしょう。しかし、この御方のことを正しく証言しない教会は、まちがっているのです。「イエスは人である」というだけでも、「イエスは神である」というだけでも、いずれもとんでもない間違いなのです。イエスさまは、「完全に人であり、完全に神であった」ということです。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たキリストを告白する霊は神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」(Ⅰヨハネ4:1~2)このことを正しく告白させる霊が聖霊なのです。

祈りの中身に戻りましょう。「悲しみのあまり死ぬほどです。」とイエスさまはおっしゃいました。神のひとり子がお感じになった「死ぬほどの悲しみ」とはどのようなものなのでしょうか。また、その悲しみをもたらした原因は何なのでしょうか。そして、弟子たちに理解できるはずもないこの感情を吐露された背景には何があるのでしょうか。

弟子たちの思いとイエスさまの思いはあまりにもかけ離れています。弟子たちはどこまでもイエスさまに従っていけると思っていますが、イエスさまは全員が裏切って我が身かわいさに全員が散り散りに逃げていくことを知っておられました。お互いが愛し合って仕え合う必要を説かれますが、弟子たちは自分たちが裏切ることも、イエスさまがどのような最期をとげられるかもわからずに誰が一番偉いかを論じたりしているわけです。
そして、ゲツセマネでは、眠りこけてしまうどこまでも役立たずの弟子たちでした。物理的には「石を投げて届くほどの所」と書いてあるので、せいぜい40~50メートルの距離しかないわけですが、弟子たちとイエスさまとの間は、とんでもなく離れていました。
それでも、イエスさまはそんなとんちんかんな弟子たちに感謝のことばを述べられるのです。
「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまな試練のときにも、わたしについて来てくれた人たちです。」(ルカ22:28)
私たちは、このような場面で語られたイエスさまのこのことばに、何を感じるでしょうか。
罪人が、罪なき者が罪を背負うことの葛藤を知る由もありません。神との和解を要する者が、神と完全にひとつである状態から引き裂かれる苦しみを予感されて悶えるその痛みを推し量ることなど不可能です。このときの弟子たちに、そんなゲツセマネの苦しみを理解できるわけがありません。
それでも、イエスさまは、弟子たちの存在そのものを喜ばれたのです。役に立つとか立たないとか、能力があるとかないとかではなく、神は神から生まれた者を愛するのです。ただ、そばに置いておくだけでイエスさまは嬉しいのです。どこまでが正しく、どこからが間違っていようと、「あなたは幸いだ」と褒めているときも、「下がれ、サタン」と叱責しているときも、イエスさまは弟子たちがかわいくて仕方ないのです。
この後、ペテロはイエスさまがおっしゃったとおり見事に裏切ります。(ルカ23:60~61)鶏が鳴いた瞬間、ペテロはイエスさまのことばを思い出します。そのとき、イエスさまは振り向いてペテロを見つめました。そのときのイエスさまのまなざしをペテロは生涯忘れたことはないでしょう。もし、そのまなざしが、恨みや怒りのまなざしであれば、ペテロは立ち直ることはできなかったでしょう。子であれば、何度失敗しても愛されなくなることはないのです。子どもが窮地に陥るときこそ、親は何とかしてやりたいと思うものです。だからこそ、前もって厳しい宣告を与え、失敗したときには、責めるのではなく、赦し励ますまなざしをおくるのです。
ゲツセマネで、弟子たちはイエスさまが何を祈っておられるのかも、よくわからなかったと思います。ただ、イエスさまが苦しんでおられるのを見ました。何かとんでもない恐怖や悲しみがイエスさまを襲っているのを見ました。弟子たちは眠ってしまいましたが、それは「悲しみの果て」のことでした。弟子たちはそのときにわかる弟子たちなりの悲しみを共有したのです。

これが神から生まれ神の子とされた者に与えられた特権です。「この方はご自分のくに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
(ヨハネ1:11~13)

父に対して祈られた内容を見てみましょう。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。」(マタイ26:39)これは十字架を回避する可能性についての祈りです。イエスさまは十字架に架かるためにこそ生まれ、まさにその時を前にして激しく苦しんでおられるのです。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と書かれていますが、与えられた御子イエスは私たちと同じように肉体を持ち、意思や感情があるわけです。イエスさまの中には、「出来ることならば十字架は避けたい」という思いがありました。もしそれがなかったとしたら、十字架はこれほどまでに私たちの心を動かすことはないでしょう。しかし、イエスさまは「わたしの願いではなく、あなたのみこころのように」と言われたのです。これがゲツセマネの核心部です。そこには罪人への愛以上に父への従順の姿があります。そして、この祈りが聞き入れられ、イエスさまは裁かれ捨てられるのです。ゲツセマネは油しぼりです。どのような植物油も圧搾され実をすりつぶして採り出します。聖霊のことばやわざが現れるためには、そのような苦しみの中でもなお従順であることによってもたらされるのです。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)このみことばの続きを見れば、イエスさまが苦しみの中で従順を学ばれたことが記されています。
油はみこころを無視したわたしの願いの上に注がれるものではありません。みことばに対する従順と御父のみこころを願う従順の結果もたらされるのです。

「キリストは信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえにはずかしめをものともせずに、十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:1)
 イエスさまの前に置かれた喜びとは何でしょうか。それは、永遠に贖われた弟子たち、永遠の子どもたちをそばに置くことなのです。
 「父よ。お願いします。あなたがわたしにくださったものをわたしのいる所にわたしと一緒におらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしにくださったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
(ヨハネ17:24~26)