2007年2月6日火曜日

1月28日 十字架の右と左


最近のニュースで気になった話題からお話を始めます。

構造計算で改ざんを行ったことが明らかになったアパホテルの社長が大粒の涙を流して謝っていました。しかし、改ざんを行った建築士は、とぼけたことを言って責任を認めた様子はありませんでした。罪を犯しても、それが明るみに出るか出ないかによって本人の罪責感は異なってきます。その人の感性によってもずいぶん捉え方に違いがでるでしょう。例えば今回の場合、「知らなかった。お客さんに申し訳ない」という涙なのか、「ばれちゃった。ここは見苦しい言い訳をせずに謝ろう」という涙なのかは、社長の会見の様子を見るだけではよくわかりません。構造計算をした建築士は確信犯なのですが、こちらは相当腹黒そうです。しかし、実際自分が関わったホテルが倒壊して犠牲者が出たとしたら、そうとぼけてもいらないはずです。
不二家の経営体質が明るみに出て、こちらも食品メーカーとしては、再起不能のダメージを受けたでしょう。賞味期限切れの材料を使っていたことをはじめとして、大腸菌が発見された場合でも、社内で勝手に決めた基準値を越えるまでは商品として出荷するように命じていたとういうから驚きです。これも、それを命じた人、それに従った人がいます。その従った人の中には、疑問を感じ心を痛めつつ従った人もいれば、何の疑いもなく機械的に仕事としてこなしていた人もいるでしょう。ひとつの罪に関わるには、いろんな立場や関わり方があります。これらを正しく裁くのは非常に難しいことだと言わざるを得ません。
それぞれの問題について、誰かが涙を流したり、頭を下げたり、給料を減らしたり、退任したりして、その罪を償ったことになるのでしょうか。いずれも、病人やけが人や死者が出る可能性も含んでいます。それらの具体的被害者が出ること出ないことによって、またその人数によって、その罪は重くなったり、軽くなったりするのでしょうか。そもそも利用者の安全や満足を軽視して、自分の利益を優先した彼らの動機そのものに罪があるとしたら、アパホテルや不二家の事件の発覚はほんの氷山の一角だと言えそうです。

私たちが、多くの事件を耳にするとき、「善意の第三者」として批評したり、聞き流したりします。多くのニュース番組のキャスターやコメンテーターは、茶の間の代表選手で、自分はあたかも立派であるかのように、良識を語るのです。私もネットで公開しているダイアリーの中では厳しいことも書いていますが、出会いや環境が異なれば、麻原や宅間やサカキバラになっていたかも知れないという基本的な前提のもとで書いています。「贖われた者としての主観的な発言」であって、神のお告げでも何でもありません。特別安全な座に着いてものを言う気はありません。自分の意見を正当化するためにみことばを盾にしたことはないと思っています。みことばが誤解され、曲解されている場合に、そうではないはずだと言っているだけです。それはよく吟味していただければわかるはずです。

いよいよ十字架の場面です。(ルカ23:32~43)
イエスさまの十字架の両脇には、ふたりの犯罪人がともに十字架にかけられていました。そのまわりには、十字架刑を執行するローマの兵隊、それを見守るユダヤの指導者たちや大勢の群衆がいます。
人は自分のしてきたことの明らかな報いとして罰を受けるとき、どういう気持ちになるものなのでしょうか。また、自分はいっさいの罰とは関係がない、むしろあらゆる悪に制裁を加えるべきだと考えている善意の傍観者は、どれほど無神経で残酷になれるものなのかを見ていきます。

民衆はそばに立ってながめています。
指導者たちはあざ笑っています。
ローマの兵士たちもあざけり侮辱しています。
彼らの証言は、「あれは他人を救った」(ルカ23:35)というものです。イエスさまが他人を救ったということは、嘲る者たちにも否定できない事実だったのです。
マタイによれば、指導者たちはこうも言っています。「彼は他人は救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし、神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(マタイ27:42~43)
ここでも「彼は他人を救った」と言っているし、さらに「彼は神により頼んでいる」とも言っています。
祭司長、律法学者、長老たちがいっしょになって、「神により頼んで、自分を救わず、他人を救い続けてきた人」をののしって十字架につけているのです。
彼らが繰り返し言っているもうひとつのことは、「今、十字架から降りてみろ」と言うことです。何と愚かなことを言っているのでしょうか。歴史上のあらゆる発言の中でこれほどひどいものはまずないでしょう。もし、イエスさまが十字架から降りられたらどうだったでしょう。イエスさまがお生まれになったことも、地上で30年あまりを過ごしてくださったことも、そして、この世界が創造されたことさえも、すべてが意味を失うではありませんか。
もし、神の子が本来の力を帯びて勧善懲悪の大立ち回りをされたとしたら、どうなるでしょうか。自分の居場所を確保する者たちが、神に気に入られるために媚びを売るようになるだけです。そういう現実は組織化された大規模な宗教組織の中に見られるとおりです。キリスト教会も例外ではありません。
良いことがすぐさま報いを受け、悪いことが次の瞬間に罰を受けるとしたら、その条件付けによって、動機の純粋さは失われます。罪を犯す人たちが泣いたり頭を下げたりするのは、それが明るみに出て罰を受けたからであって、それを機会に本当に反省する人もいるでしょうが、多くの場合は追いつめられて、窮したが故に自分を守るために取りあえずわびているだけです。
良いことは、それが結果や評価に結びつかなかったとしても、むしろかえって自分に不利益をもたらすことになったとしても、「それがただ良いことであるがゆえにそれを選ぶこと」に価値があるのです。必ずしも正当に報われないからこそ、それを選び続けることに意味があるわけです。
悪いことも同じです。悪いことを選んですぐに痛い目にあうとしたら、人は痛い目にあわないように悪を避けるようになります。それは表面的には悪の総量は経るでしょうが、本質的な動機は、自分の利益を天秤にかけているだけであって、悪を避けることそのものが善に変わるわけではありません。
このような「そろばんづく」で従う人間の群れは、理想社会にはほど遠いものでしょう。

善と悪というのは、単純な対立概念ではありません。善悪の知識の実を食べて神のいのちから離れること自体が問題なのです。悪とは善を追求する手段を誤ることです。最も大切なこと(一番の善)は神さまに信頼してみことばに聞に従うことです。自己流の善悪の判断に陥ることが、すでにいのちの木から離れているのです。
今話題のパワー・フォー・リビングを巡る評価もさまざまです。無料で配布される本の内容を読むまでは何とも言えない部分も確かにあります。しかし、読まなくてもわかることは、イエスさまではなく、4人の社会的成功者が全面に出て広告塔になり、この本のメッセージを信じれば幸せになるというコマーシャルについてです。内容が福音的なものだとか、実績のある牧師の息子が日本の代表者だとか、そんなことはどうだっていいのです。確かに多くの人に無料で福音を届けることは、良いことか悪いことかと言われれば、良いことかも知れません。それを手にした人がひとりでも救われたらすばらしい神のみわざではないかと言う意見もあるでしょう。しかし、仮にそうであったとしても、その中に印刷されたみことばにいのちがあるのであって、その働きがみこころにかなった素晴らしいものだったというのとは本質的に次元の違う話です。
こういう金に任せた力づくの大規模な伝道の方法というのは、私が知っているイエスさまという御方のご生涯やそのご人格には、どうもそぐわないように思えます。イエスさまのみわざは、楔を引きちぎって十字架から飛び降りて人を屈服させるようなものではないのです。

良いことも悪いことも、この世においては、必ずしもすぐにそれにふさわしい結果には結びつきません。正直で良い仕事をする者が評価されず、悪意に満ちた横着な人間が成功したりします。悪い者が良い者を傷つけ、いのちさえ奪うこともあります。この世は理不尽なことだらけ、多くの矛盾に満ちています。
正しいことを選びながら、苦しみを味わい続けなければならない人にとっては、神などいないと思っても仕方がありません。
これほど悲惨な世の中に愛なる神の存在を見出すことは困難です。十字架以外には神の本質が明らかにされたものはありません。
十字架とは、この世界を容認された神が示される唯一の答えです。十字架上のイエスさまは、世界の混沌と矛盾を神ご自身が引き受けて身に負われた姿なのです。十字架は、良いことはただ良いからこそ、それを選び続けられた御方の生涯の結果であることに注目すべきです。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないでいるのです。」(ルカ23:34)何という深い祈りでしょうか。
十字架は人の罪と神に愛が現れる究極のみわざです。弟子たちも含むすべての人々が愚かさの極みにありました。しかしただひとり、十字架の片方にいた犯罪人だけが、イエスさまを受け入れました。
この犯罪人も最初はイエスさまをののしっていたのです。(マタイ27:44)しかし、十字架上のイエスさまを見るうちに、今にも息を引き取ろうとする弱々しく傷ついた姿の中にこそ、彼は神を見たのです。この御方はこのまま死んで終わるわけがない。そして、この御方は自分のことを顧みてくださる愛を持っていらっしゃるという希望も持ちました。自分も死ぬだけです。これまでの人生に対して社会が与えた評価は十字架刑です。これ以下に値踏みされることのない最低の生き様です。そして、これから先に出来ることは、ただ息を引き取ることだけです。この何ひとつ良いことをしなかったし、これからもやり直すことが出来ない犯罪人がパラダイスにいるのです。イエスさまとともに。この一箇所を見るだけでも、聖霊の満たしだの、きよめだの、献身だの、多額の献金だのが救いのためには、全く必要のない馬鹿らしい副産物であることがおわかりでしょう。
神が人のために死んだのです。人がそれに何かを付け加えることなど出来るはずがないのです。