2009年12月14日月曜日

12月13日 メッセージのポイント

 ダビデの人口調査(ダビデの生涯と詩編⑫)
      Ⅱサムエル23~24章

          
A 人口調査は罪なのか
  ○荒野をさまよった前後の人口調査(民数記1:2,26:2)
  ○イエスのたとえ話(ルカ14:28~32)
  ○主がダビデを動かした(Ⅱサムエル21:4)
  ○サタンがダビデを誘い込んだ(Ⅰ歴代誌21:1)
  ○主の許しを得てヨブに災いをくだすサタン(ヨブ1:12)
  ○イエスは御霊に導かれて誘惑を受けた(マタイ4:1)

B 祝福の中心は何か
  ○主が怒りを燃え上がったのは、人口を数えたからではない(Ⅱサムエル24:1)
  ○祝福の中で神を忘れたダビデとイスラエル(ホセア13:5~6)
  ○祝福の中心は神御自身であり、その周辺部は宗教的御利益
  ○御利益を求める者には落とし穴や袋小路が仕掛けられている

C キリストの影
  ○人が心奮わせ涙を流すのは実は知るも知らぬも「キリストの影」
  ○祝福の中には「キリストの影」がある
  ○世を遠ざけ、世に怯え、世に媚びるのはあるべき姿ではない
  ○クリスチャンの責務はキリスト御自身を明らかにすること

D 力や栄光を数値化することの弊害
  ○ダビデの三勇士(Ⅱサムエル23:14~17)
  ○王は軍勢の多いことによっては救われない(詩編33:13~22)

E 主の手に陥ることを選択したダビデ
  ○7万人の民が疫病で死んだのはただダビデのせいではない
  ○ニネベに遣わされたヨナ
  ○ソドムをとりなしたアブラハム
  ○日本のために祈る祭司、語る預言者として

12月13日 ダビデの人口調査 (ダビデの生涯と詩編 ⑫ )

 ダビデほど波瀾万丈の生涯を送った人はいないでしょう。ダビデの生涯は、神の摂理の中にあって、イエスの地上での歩みの先行体験であり、クリスチャンにとっては追体験のモデルなのです。特に、その折々に残された喜びや悲しみの祈りは「詩編」となり、今日の至るまで、すべてのクリスチャンを慰め続けています。

 そんな「ダビデの生涯」を追いながら、詩編と合わせて学んで来たわけですが、「ダビデの信仰」には遠く及ばない私が、1年にわたってあれこれ偉そうにお話してきたことはとても心苦しいことです。私は私が経験してきた範囲でしか理解が及ばないので、「ダビデの生涯」をお伝えしても、実際よりはずいぶんスケールの小さいものになってしまったかも知れません。そのあたりの多少のお詫びの気持ちと、ダビデの残してくれた足跡への大きな感謝の気持ちをこめて、このシリーズの最後のお話をします。

 多くの苦しみの後、政治的にも安定期を迎えた晩年、ダビデは大きな罪を犯してしまいます。それが今日のお話の主題になります。それは何かと言うと、ダビデがイスラエルの民の数を数えたということでした。バテ・シェバとの姦通やそのもみ消しのための殺人が良くないことだというのはすぐにわかりますが、人口調査がどうして罪なのかという問題は若干わかりにくのではないでしょうか。改めて考えてみましょう。

 これは普通の感覚ではちょっと理解しにくい、デリケートな問題です。
 神は別の時代には、イスラエルの民に荒野をさまよった40年の前と後で、人口調査をすることを命じてもおられます。(民数記1:2,26:2)
 また、イエスは城を築くとき完成に充分な資金があるかどうか、その費用を計算することの大切さを説かれました。戦争の時には、敵を迎え打つ味方に充分な兵力があるかどうか、必要ならば講和を求めることの大切さについても語っておられます。(ルカ14:28~32)


 それなのになぜこのダビデの人口調査だけが、大きな災いを招くほどの罪なのでしょうか。聖書は、この人口調査に関して、ふたつの側面から語っています。
 Ⅱサムエル24:1では、「主がダビデを動かした」と記されています。ところが、Ⅰ歴代誌21:1では、「サタンがダビデを誘い込んだ」と書かれています。
 このふたつの記事は、矛盾するように感じられるかもしれませんが、聖書の表面上の矛盾を整合させるのは、人間の経験や感覚ではなく、さらに他の聖句との整合性ではかるべきです。

 ヨブ記を見れば、次々にヨブを襲った災いは、すべて主の許しを経たものであったことがわかります。    また福音書を見れば、イエスが荒野で誘惑を受けるために御霊が導かれたという記述もあります。このように考えると、この人口調査の背景にあるものが少し見えてきます。
 ダビデはそれを自分の意思で拒むこと出来ましたが、同時に主は今のダビデがそれ拒むことが出来ないこと、そして、その結果イスラエルが罰を受けて災いを被っても仕方がない霊的状態にあることを知っておられたのです。イスラエルは、かつてない繁栄と安定を得たことによってダビデ王にも国民にも慢心が生まれました。
 神の祝福に酔い、その祝福を与えてくださった御方を忘れてしまったのです。もし周辺諸国と総力を挙げて戦うことになったら、どれ程の兵を召集できるかを知りたい、それを広報して圧倒したいという気持ちが間違いなくダビデの中にありました。だから、数を数えたときに良心のとがめを感じたのです。(Ⅰ歴代誌21:10)

 「主なる神が怒って」と書かれているのは人口調査を行う前のことであり、その怒りの対象はダビデを含むイスラエルの全体だったわけです。
 イスラエルを懲らしめるために、王であるダビデの慢心を用いられたのです。私たちは何を学ぶでしょうか。オバマ大統領が誕生したのは、アメリカの国情を受けてのことです。日本では、自民党のリーダーがコロコロ代わり、誰もキチンと責任をとらないまま友愛鳩山政権に代わり、笑止千万の仕分け作業なんかをやっている。まさに日本国民の精神を反映しているわけです。悲しいかな、どこの国の国民も自分たちにふさわしいリーダーを選んでいるのでしょう。
 教会だってそうです。愚かな説教者を祭り上げ調子に乗らせるは、そういうメッセージを欲する人たちです。自分たちに都合のいいことを言ってくれる者を寄せ集めるのです。(Ⅱテモテ4:3)

 「傷つけられた」「ひどい目にあった」というのは、申し訳ないけど自業自得です。儲け話の詐欺にあった被害者たちほどみっともないものはないですね。欲深い奴が「楽」して「得」しようと思うから、騙されるのであって、それは、政治でも経済でも宗教でも何でも同じです。そういう祝福の中心である神を排除して、周辺の御利益だけ得ようという罪を明らかにするために、さまざまな落とし穴や袋小路をこの世に設けておられるわけです。これを仕掛けられたのはどなたでしょう。あるいはお許しになったのは誰ですか。神です。この世において一切の権威をお持ちの御方が、認められたのです。実務を担当してそそのかすのはサタンです。サムエル記は神が仕掛けられたという視点で表現され、歴代誌はサタンが実務を担当したという視点で表現されているわけです。そこに矛盾はありません。

 神の真の祝福とは何なのか、また、私たちは世に対してどのような認識を持ち、どのようにふるまうべきなのかを、わきまえておく必要があります。ダビデもイスラエルの民も祝福の中で、祝福そのものである御方を忘れたのです。あるいは軽くみたのです。
 このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」(ホセア13:5~6)

 人が心奮わせ涙を流すのは、実は知るも知らぬも「キリストの影」に対してなのです。クリスチャンはその祝福を豊かに享受し、その秘密を鮮やかに解き明かす責務があるのではないかと思っています。世を遠ざけ、世に怯え、世に媚びるのは、いずれもあるべき姿ではないのです。
 祝福の中には数々のキリストの影があります。私たちは神が与えてくださる祝福の中で、その本体である御方、実在である御方を慕い、感謝し、いつも覚えて礼拝することができるのです。
 困難や苦しみの中にいるときは、そこから逃れたい一心で神を求めます。しかし、肉の要求が満たされてしまうと、神を忘れてしまうのが人間の弱さなのです。ダビデとイスラエルの失敗から、私たちが学ばなければならないことは、今日の私たちにとっても極めて限実的に差し迫った事柄であることがおわかりいただけるのではないでしょうか。

 「数える」ということについて、もう少し別の角度から考えてみましょう。
 今年2009年を表す感じが決まったそうです。「新」という字ですね。
 選ばれた理由には、民主党による新政権や猛威をふるう新型インフルエンザに加え、イチローのメジャーリーグ新記録もあるそうです。そのイチロー選手に関することです。野球というのは数えるスポーツです。他の競技と比べても、野球にはやたら細かい記録がたくさんあります。いったい誰が数えているのかと思うくらいです。ほとんど草野球しか経験のない私が前人未踏の記録を打ち立てたトップアスリートのことを話すのもおこがましい限りですが、記録達成のプレッシャーがかかると、明らかに打席でのイチローの様子がおかしい。
 ものすごく簡単に言ってしまえば、「記録を追いかけると、野球そのものの愉しさが損なわれる」ということです。記録を目指すことが動機付けになると言う主張も当然あると思いますが、私はそれは「生きることの意義」や「愉しさ」ということに関する重要な議論だと考えています。200本のヒットも1本1本のヒットの積み重ねなわけで、基本は一球入魂の全力プレーです。それがあるとき、プレーする人も、見る人も純粋に野球が楽しい。数字を数えることに反対するわけではありませんが、力や栄光が数値化されることによって損なわれるものは少なくないでしょう。
 何万の大軍勢は、ひとりひとりの兵士のいのちなのですが、何万と数えてしまうと人格や個性や存在の尊さは消えてしまう。
 Ⅱサムエル記23章には、ダビデの勇士たちの名簿が出て来ますが、これは24章の数の記録とは違います。その中には、ダビデの三勇士もいます。この三人はダビデにただベツレヘムの井戸の水を飲ませるためでだけに、危険を顧みずペリシテの陣営を突破して、それをくみに行きます。しかし、ダビデはそれを飲もうとはせず、神に注ぐという何とも美しいエピソードが出て来ます。ダビデは戦場でおこるすべての出来事を神との関係性の中でとらえる信仰を持っていたはずでした。
 ダビデは、「王は軍勢の多いことによっては救われない」と歌っていたのです。(詩篇33:13~22)

こうした神を中心にした関係性が、24章の人口調査では完全に失われています。ダビデであってさえ、こうした罪に陥り、ダビデとともに苦楽をともにしてきた民でさえ、このように高ぶるのであれば、いわんや、日本の生ぬるい平和ボケの中で浮遊するようにいきている私たちは、あやうさを抱えて生きているのだと自らを省みる必要がありましょう。

 さて、この罪の結果、王であるダビデに対して、主は3種類の懲らしめの中からどれか一つを選ぶように言われました。 ①7年の飢饉、②3ヶ月間敵の前を逃げ、仇が追うこと、③3日間、国に疫病が蔓延することです。

 ダビデは悩み抜いた末、3日間主の手に陥ることを選びます。
 ダビデの心痛は自分の罪のために7万人のイスラエルの民が疫病によって倒れたことでしたが、(Ⅰ歴代誌21:8)それは、ダビデの認識不足であり、思い上がりです。主は、ただダビデの慢心のためだけに、罪のない7万人のイスラエルの民を巻き沿いにして疫病で打つというような理不尽はなさいません。疫病で倒れた民には、それにふさわしい罪があったはずです。
 それは、異邦人の町ニネベに遣わされたヨナとのやりとりや、ソドムとゴモラを滅ぼす前のアブラハムとのやりとりを見ればわかります。
 先にも、民がふわさしい指導者を選ぶと申しましたが、民の状態が指導者の選択にも反映するのでしょう。そこには相関関係があるようです。
 今、この地球上のあちこちで起こっているさまざまな出来事の背景には、必ずそこに住む人々の営みがあり、それをご覧になっている神の主権の範囲において、許されていることだけが起こっているだと私は理解しています。

 私たちは祭司です。今この時代の日本に生かされ、そこで感じる痛みや憂いは、預言者のそれと同じです。預言者たちが堕落していくイスラエルやユダを愛し、とりなしつつ、民には厳しく明確に語り続けたように、私たちもそうであるべきです。

 これで、一年にわたってお届けしてきたシリーズダビデの生涯と詩編はおしまいです。

2009年12月6日日曜日

12月6日 祈りについて(ひねくれ者のための聖書講座⑨)

 およそ祈ることほど馬鹿馬鹿しいことはないと思ってきました。自分でろくに努力探求せずに神様にすがるとは何事かと・・・・。人が祈る姿は、私の目には惨めでみっともないものだと映っていました。そして時には浅ましい姿にさえ思えました。敬虔を装う貪欲さを感じる場合もありました。「舌切り雀」の話を読んで、でっかい葛籠にはガラクタしか入っていないと知っているから、宝の入った小さい葛籠を選ぶような、「金の斧、銀の斧」の話を聞いて、水の女神に正直に答えて金銀の斧を両方せしめてやろうというようなしたたかさを感じるわけです。実際、「イエスに高価な香油を注いだマリヤは素晴らしい、だから、私たちも・・・・」なんて話はいっぱい聞かされるわけです。私はその手の話は苦手ですね。とにかく私はひねくれていますので、「信仰」を大事にする生き方も、弱者の杖、卑怯者の逃げ場所だと感じられたのです。今でもいわゆる宗教における「信仰」については、同じ印象を持ち続けています。

 クリスチャンになってからも、正直に言うと「祈り」にはずっと違和感がありました。祈りのことば使いやその内容が、どうにも嘘らしく思えました。どうにも嘘らしいというのはかなり控えめな表現ですね。特に、自分の祈りのことばに関して徹底的に違和感があり、結構長い間、しっくりきませんでした。実は今でも時々「何か違うぞ」と思っています。そういうわけだから、他の誰かと一緒に祈るのも決して楽しくはなかったし、充実した意味のある時間ではありませんでした。同じことばを使っていても全然違う内容をさしているようなすれ違いを感じ続けてきたわけです。
 昨日まで祈ることになど無縁だった連中が、企業の朝礼で社訓を連呼する如く、コンビニやハンバーガーショップの店員がマニュアル通りに接待する如く、けっこう流暢に祈り出す様子は、何とも不可解でした。そんなキリスト教用語で身を固めていく人たちの変わり身の「自然さ」というべきか、「不自然さ」というべきか、そこは悩むところですが、とにかくそういう生態は異様に思えました。教えとしては、「いのちが宿った」と言うことなんでしょうが、私は「洗脳」ということばを思い出しました。

 祈りに関するもうひとつの一般的なイメージとしては、「蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げた日」という歌の文句にもあるように、祈る姿自体が、ひとつのファッションというか、スタイルになっている。これも気にいらないことのひとつでした。そういうクリスチャンイメージが蔓延する中で、自分がクリスチャンとして見なされることに物凄い拒絶感がありました。それは今も同じです。そこで、蔦が絡まるどころか、舌が絡まるわけです。

 そういうことを全く感じないで、すうーっと自然に自分のことばで祈って来られた方々にとっては、逆に私の感じ方がおかしいと思われるでしょうが、それはそれでいいのです。しかし、世の中には、私のように「祈りにとまどう人たち」は少なからずいるはずです。「ことば」にこだわり、「自分のあり方」にこだわる人間にとっては、祈るという行為はそんなに単純なものではないのです。かと言って、無意味に理屈をこねまわして、「祈る」という行為を複雑なものにしようとは思っていません。「祈り」を否定しようとは思いません。
 ただ、何の疑問も感じていない人たちが、本当に正しく祈れているのかということについては、一言意見をのべたいという気持ちはあります。ただし、ひねくれ者にふさわしく、自分が何処につまずいてなかなか祈ることが出来なかったのかを明らかにしつつ、どうしてそうしたひっかかりを感じずに、あるいは、強引にかき消して、いとも簡単、かくも御立派に祈れる人になるのかということを問いただしたいと思います。

 まず、「一体何に向かって祈るのか」、次に、「何の為に祈るのか」、そして、「祈ることによって何がどう変わるのか」などが、どうにもすっきりしない。その上でさらにやっかいな、「どんなふうに、どの程度祈ればいいのか」という問題が出て来ます。私の場合も、先輩のクリスチャンたちから、それらしいマニュアルどおりの答えをいただきましたが、それがどうにも、聖書が語るところとピタッと一致するようには思えないわけです。何より、「教えてくれたその人自身があんまりよくわかってないんじゃないか」という疑念を拭えずにいました。そこで、私は他の誰がどう祈っていようが気にせず、イエスご自身がどのように祈り、何を祈れとおっしゃったのかを丹念に追求することにしました。さすがイエス・キリストです。キリスト教の教える祈りとイエスの祈りは天と地ほどの違いがあることがわかってすっとしました。
 
 「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときに自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6:5~15)
              
 まず何より腑に落ちたのは、「長々と祈るな」「往来や人前で祈るな」というイエスの祈りに関する叱責です。イエスは当時の宗教指導者たちが「これこそ祈りだ」と信じ込んでいたスタイルを根本的に否定しています。「祈りというのはそうじゃない」というメッセージですね。彼らが祈りだと思っていた祈りは、人が自分勝手に創作した言い伝えや習慣であり、何の価値も効力もないというわけです。言い換えれば、これは祈りを聞く神の側からの拒絶です。宗教的に祈りの功徳を積む人々は、一体何の教えに従ってそうするのでしょうか。聖書のこのページか国語の読解力か、そのいずれかが欠落しているとしか思えません。

 それらは、「偽善者の祈り」また「異邦人の祈り」と呼ばれています。「宗教的祈り」と言ってもいいでしょう。つまり、神ならぬ大いなるものの心を動かすための、人間側からの働きかけです。それを人間どうしがその姿勢や熱心さを評価し合うといったものになっているということです。音を鳴らしたり、仰々しい装束を身にまとったり、うやうやしく振る舞ったり、それらしい呪文をとなえたり、さまざまな難行苦行をしたり、供え物を捧げたりと、いろいろな条件が追加されます。また、朝早くから、夜を徹して、あるいは何日も連続して・・・など、何度も同じことを繰り返しながら、長時間そのことに集中して、それを見ているはずの神さまや人の心を動かそうとするわけです。こういう人の営みをすべてイエスは否定されたのです。ですから、「無駄だ」と言われていることをするのは無駄です。「やめろ」と言われていることをあえてするのは罪です。

 確認しますよ。祈りは同じことばを長く繰り返しても何の意味もありません。人前で人目を意識し、そのことによって「祈る自分」に意識が向いている時点でその祈りは無効だということです。
 イエスは「隠れたところで隠れたところにおられる御方に祈れ」と言われました。神は「隠れたところ」におられるのです。それを目に見える「かたち」にする必要はありません。隠れたところにおられる御方を信じられずに、木や石や金属でそれらしいかたちを与えたものを、聖書は「偶像」と呼んでいます。「偶像」に向かっていくら長時間それらしく祈っても何事も起こりません。もちろん「それだけ念じたのだ」という自己満足は残るでしょうが、ただそれだけのことです。このような人間の不安と自己満足を膨張させたものが「宗教」です。イエスは、キリスト教を含む一切の宗教を否定されたのです。マリヤ像のみならず、キリスト像や十字架に祈るのもまったく馬鹿げていますし、聖書はそれらを完全に否定しています。ユダヤ人はそれでも偶像を作って拝んだ時期はありましたが、イエスが来られた時代は、そういう「かたち」あるものに祈っていたから批判されたのではなく、祈る姿勢や、自分自身の信仰が偶像になっていたわけです。よもや自分に問題があるとは思っていないほど、自然にその祈り方を身につけてしまっていたわけです。そこが問題だとイエスは指摘されたわけです。

 イエスが直接叱責されても憎むばかりで悔い改める気配の乏しかった当時のパリサイ人や律法学者の様子を見れば、私ごときが意見を述べてもおそらく、気を悪くして逆に私がののしられるだけだろうと予想はしていますが、それでもイエスが語られた以上、私も言わないわけにはいかないので、決して好き好んでというわけではありませんが、こうしてメッセージをしているわけです。

 雅歌の中には、羊飼いである王、すなわちキリストが花嫁、すなわち教会を奥の間にともなう場面があり、いわゆる敬虔なキリスト教徒が眉をひそめるような官能的な描写もあります。その描写をみれば、祈りは、親しい者どうしの密室での交わりなのです。もちろん、集まって数人や教会全体で祈ったり、公の場で祈ることがすべて間違いで不純だとは言っておられるわけではありませんよ。イエスはここで、祈りというものの本質について語っておられるのです。この本質をわきまえないでいると、祈りは、形骸化し、かえって害をもたらすものになると言っておられるのです。妻や子どもや親といるときは、そんなに饒舌に語ったりしません。親しい関係になるほど、ことばの間にあるものや沈黙のコミュニケーションが多くなるのではないですか。

 イエスご自身は、弟子たちに対して「弟子になったからには、こういうことをこの程度祈るように」などと教えたり、命じたりしませんでした。学校で子どもたちに、あいさつすることを教える程度にさえ、「信じた者は祈るべきだ」と教えなかったのです。これは重要な認識です。有名な「主の祈り」があるじゃないかと思われるかも知れませんが、それは、「祈りについて教えて欲しい」と要求した弟子に対して、「祈るのならばこう祈れ」とおっしゃったものです。
 マタイは、祈りの本質を伝えるべく、先程の引用の続きに主の祈りをもってきましたが、時系列に出来事を記したルカは、主の祈りが伝えられた経緯を次のように書いています。
 「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこで、イエスは彼らに言われた。祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与え下さい。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」(ルカ11:1~13)

 この「主の祈り」が最も強く教えていることは何でしょう。それは、神の優先順位ということです。祈りのことばにおいてではなく、あらゆることにおいて、実際に第一にしていることは何なのか。ポイントはその一点です。「御国が来ますように」ということばに集約されています。それはつまり「神の国とその義を第一に求めること」です。私たちは多くの場面で、この優先順位を間違えているのです。多くの場合、世における悩みの解決や祝福が祈りの中心になっていないでしょうか。私たちは祈る前に、それらの問題を一瞬で解決できる御方が、なぜあえて、この世に多くのつまずきを置かれたのか、不合理や矛盾を容認しておられるのかを考えるべきなのです。それは、人間に「神の国とその義に目を向けさせるため」です。

 恥ずかしながら、私は詩集を2冊出版しているのですが、その1冊は「聞き手のない対話」と言います。神様を知らないとき、架空の聞き手に向かってことばを綴ったものです。2冊目は信仰を持ってからの葛藤とその根底にある喜びを綴ったもので「生贄タチの墓標」と言います。生贄たちの墓標は、次のことばで始まります。『祈りのことばを失ったとき、ぼくの祈りは始まった。』
 つまり、自分を出発点とするあらゆることばが尽き果て、イエスという「いのちのことば」が口から出てくる。これが聖書が語るところの祈りなのだと私は理解しています。

 私は通常の礼拝のメッセージは祈りで結ぶことにしていますが、この「ひねくれ者のための聖書講座」では最後に祈ることを控えています。そんなかたちの上のことは、別にどうだっていいのですが、とにかく、あいさつみたいに祈るのは嫌だということと、同時に、私と同じくひねくれた人たちへのささやかな配慮でもあったということをつけ加えておきたいと思います。

2009年11月15日日曜日

11月15日 メッセージのポイント

ダビデとアブシャロム(ダビデの生涯と詩編⑪)
        Ⅱサムエル16~19章
          
A 王の食卓の実際
  ○異母兄弟家庭
  ○恵まれた退屈がアムノンを生む
  ○「義」と「愛」・「恵」と「まこと」の両立は難しい
  ○「立場」と「状態」を埋める信仰
  ○信仰を培うための刈り取り

B ダビデの葛藤
  ○自分の罪を赦せない→他者に対する曖昧な態度や偽の寛容さ
  ○家族をおさめることの難しさ→近い人間関係ほど難しい

C ヨアブ
  ○有能な軍人(Ⅰ歴代誌11:6)
  ○ダビデの命令を守り、躊躇せずウリヤを殺す
  ○「自分も明日はウリヤのように殺されるかも知れない」という不安
  ○アブシャロムに対する共感(アサエルを殺されたアブネルへの憎しみ)
  ○ダビデとアブシャロムとの和解をとりもつ→アブシャロムへの乗り換えを図る

D アフィトフェル
  ○有能な議官(Ⅱサムエル15:12)(Ⅱサムエル16:23)
  ○知恵に満ちた進言(Ⅱサムエル16:21)は、預言を成就させる
(Ⅱサムエル12:11~12)
  ○アブシャロムがアフィトフェルの進言を退けて、
滅びを招く(Ⅱサムエル17:1~3)が、
これはダビデの祈りの成就(Ⅱサムエル15:31)であり、
     神のみこころ(Ⅱサムエル17:14)
  ○詩編38編に見られるダビデの態度と運命の明暗を分けた鍵
  ○アフィトフェルは、イエスを裏切ったユダの型

E アブシャロムの最期
  ○長所やプライドがつまずきとなる(Ⅱサムエル18:9)
  ○ダビデの悲しみ(Ⅱサムエル18:33~19:1)に見る
   イエスを裁く御父の心(マタイ27:4~5)

11月15日 ダビデとアブシャロム (ダビデの生涯と詩篇 ⑪)

 それぞれに違う母親から生まれた子どもどうしが、お互いにどのような感情をもって過ごしていたのかは、非常に興味深いものがあります。父親はダビデですが、母親は違うわけです。これは子どもの成長や発達にとっては非常に不健全です。ダビデにしても、特別に気にいった妻の子が一番可愛かったのかも知れないし、長男に愛情の偏りがあったのかも知れません。
 子どもたちの日常の暮らしを思い浮かべてみてください。何しろ王の食卓につながる子どもたちです。飢えることもないし、様々な必要に事欠くことなどあり得ないのですから、ただ生きることにエネルギーを奪われる庶民よりも、人間関係の葛藤は深くなるのです。考えてもみてください。だいたい長男のアムノンにしても、日々やつれていくのが人目にわかるほど、かなわぬ恋に熱中して、しかもろくでもない助言をそのまま聞き入れて、仮病を使って寝こんでいられるくらい暇なんですね。要するに、人生の多くの問題というのは、神の祝福の中心を抜き取った周辺の御利益の部分に、そのきっかけがあるのです。

 ダビデの長男はアムノンです。アブシャロムは3男です。(Ⅰ歴代誌3:1~9)3男が、腹違いの長男を殺した背景には、当初はアブシャロムの思惑にはなかったかも知れない意味合いが含まれてしまうのです。
 ダビデとアブシャロムの確執は、アブシャロムが兄弟アムノンを殺した頃から、始まったようです。ダビデはアブシャロムに対する「敵意」を持っていたと書かれています。(Ⅱサムエル14:1)この「敵意」という表現から、ダビデとアブシャロムの気持ちや関係性を考えてみたいと思います。
 アブシャロムは、妹タマルを陵辱したアムノンをどうしても赦すことが出来ませんでした。アブシャロムのアムノンに対する憎しみや殺意は、日に日に募らせていったというよりは、タマルの一件の直後にあったものだと書かれています。ダビデは、そんなアブシャロムの気持ちを全く理解出来ないことはなかったと思いますが、それでも「殺す」という選択をするとは予想しなかったでしょう。何しろタマルもアムノンも、そしてアブシャロムも、3人とも大切なダビデの子どもなのですから、「どちらがどれだけ悪いから、ああして、こうして」というような整理はなかなかつかないのです。

 「義」と「愛」が両立すること、「恵み」と「まこと」がひとつになるということは、人には到底出来ないことだし、その理想がどんなものであるのかということさえわかりません。それは人の想像を遥かに超えているのです。ダビデとダビデの子どもたちの通った道を見れば、ひとたび罪を犯してしまうと、それは簡単に元には戻らないことがわかります。ひとつの過ちが連鎖して、雪だるま式に大きな不幸を生みます。罪の最終的な結果は死であり、それぞれの選択にふさわしい具体的な刈り取りが待っています。
 それは、神の御前に罪の清算がついていることとは別の次元で展開していくのです。言うまでもなく、ダビデは罪が赦されなかったのでないし、信仰がなかったのでもありません。「霊」の中で処理されていることも、「魂」はそう簡単に受け入れられません。「目に見えない世界」で完了していている事柄も、「目に見える世界」では個々の具体的な解決に追われ続けます。ですから、人の心には残された葛藤があり、圧倒的な勝利を確信しながらも、片方ではボロボロになって涙を流すということが、時として起こってしまうのです。「立場」と「状態」には、大きな隔たりがあります。これを埋めるのが信仰です。
ダビデが父親として十分なリーダーシップを発揮できなかった原因を考えてみましょう。イスラエルという国を立派に治めていたダビデですが、家族を治めることに成功していたとは言えません。どちらが本当のダビデなのかというと、この家族の混乱こそがダビデという人の本質を表しています。子どもたちの連鎖する罪のそもそもの発端は、バテ・シェバに対して自分が起こしてしまったあの事件であることは明らかです。
 勿論、ダビデは、ナタンが宣言したとおり、自分の犯した罪は即座に主に赦されたことを疑わなかったでしょう。その恐れと感謝は詩編の中に綴られているとおりです。それでもなお、子どもたちが次々に引き起こす目の前の具体的な問題に対しては、自分のことを棚上げして戒めることが出来なかったのです。
 おそらく、ダビデの心の中では、いろんな苦しい気持ちがゴチャ混ぜになっていたと思います。タマルへの不憫さも、アムノンへの怒りもあったでしょう。あれこれの思いは去来するものの、それらの感情はすべて「子どもたちへの申し訳ない気持ち」に飲まれてしまい、その結果、子どもたちではなく、自分を責めてしまうという悪循環に陥ったのです。自分の罪を赦せない気持ちは、他者に対する曖昧な態度や偽の寛容さとして現れるものなのです。

 アブシャロムに対して抱いていたダビデの敵意を見抜いたのも、アムノンに対するアブシャロムの当初から殺意と2年後の計画を見通していた人物がいます。ヨアブというダビデの側近です。ヨアブはエブス人との戦いにおいて、軍団長になった有能な軍人です。(Ⅰ歴代誌11:6)この時の描写を見ても、野心に溢れる抜け目のない人物像が浮かびます。ダビデがバテ・シェバとの姦通を誤魔化そうとしたときも、ヨアブは、ダビデの命令通り、全く躊躇することなくウリヤを殺しています。ダビデの真意を確かめずに勇士ウリヤを殺したことが立派なのか愚かなのか、そこは議論がわかれるところですし、実際その時のヨアブの認識や感情を読み取ることは難しいです。
 しかし、このことは言えます。命令には黙って服従したヨアブですが、「自分も明日はウリヤのように殺されるかも知れない」という不安だけは確実に芽生えたに違いないということです。この不安感をきっかけにダビデに対する信頼や尊敬を失ったのかも知れません。ヨアブはある時点でダビデを見限り、若くて有能なアブシャロムに乗り換えようとした可能性があります。おそらくヨアブとアブシャロムとは心情的に結びつく要素があったからでしょう。ヨアブはアサエルを殺された報いにアブネルを殺したことを覚えておられるでしょうか。ダビデの気持ちはわからなくても、妹を殺されたアブシャロムの憎しみには共感出来たのです。

 ヨアブは、アムノンを殺して潜伏中だったアブシャロムをゲシェムからエルサレムへ呼び寄せようと努めます。ダビデと和解できるように、テコアの知恵のある女を使ってダビデを説得するのです。ダビデは、それがヨアブの入れ知恵であることを見破りますが、結果的にはその要求を受け入れ、アブシャロムがエルサレムに戻ることを許します。それでも、ダビデはなかなかアブシャロムに会おうとはしません。これでは何の為にエルサレムに戻ったのかわからないと怒ったアブシャロムは、今度はヨアブを利用して、無理矢理ダビデとの面会の機会を作ります。そこでダビデはアブシャロムに口づけし和解するのですが、それはかたちだけのものでした。この対面はただの親子の和解ではありません。一国を治める王と王子の対面です。この和解は王位継承者としてアブシャロムを認めるかどうかにつながる意味を持っています。アブシャロムはダビデと会うことができました。しかし、アブシャロムは、ダビデに対する悔い改めも感謝もなく、愛や憐れみを求めたわけでもありませんでした。アブシャロムは、この王であり父であるダビデとの会見によって、絶望を確かにします。ダビデとの本質的な和解はなく、王位が自分に継承されることはないと感じ取ったアブシャロムは、やがて周到な準備の後にヘブロンで旗揚げし、謀反を起こします。一方でヨアブは、エルサレムに帰れるように計らった自分に恩義を感じることなく、さらにダビデとの会見を暴力的に求めてきたアブシャロムに対して苛立ったはずです。そんなわけで、ヨアブはアブシャロムとダビデとの間で振り子のように揺れながら、結局アブシャロムの側にはつきませんでした。

 もうひとりのキーマンであるアヒトフェルをめぐっても、ダビデとアブシャロムの名案がくっきり分かれてしまいます。アヒトフェルは、ダビデの議官をしていた人でした(Ⅱサムエル15:12)そのアヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担します。その情報は、エルサレムから落ち、オリーブ山の坂をはだしで、泣きながら登るダビデのもとのもたらされました。ダビデはそのとき、「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31)と祈ります。
 ダビデがそのように祈ったのは、アヒトフェルが極めて聡明な人物だったからでした。「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた」(Ⅱサムエル16:23)と説明されています。三国志の諸葛孔明みたいなものでしょうか。
 その知恵に満ちた助言の一例が記されています。アブシャロムがエルサレムに入った時、アヒトフェルは「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにおはいりください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたにくみする者はみな、勇気を出すでしょう」(Ⅱサムエル16:21)と助言しています。これは道徳的ないかがなものかと思いますが、非常に効果的な作戦ではありました。当時は敗者の王の妻を、新しい支配者が奪うということがありました。それは支配者の交代とその権勢を強くに示すことになります。アブシャロム軍は「勝てば官軍」イスラエルの正規軍となるいわけです。アブシャロムにつき従う者たちにも、どこかにダビデに対する複雑な思いやうしろめたさを感じる者がいたとしても、そうした感情を一気に払拭する名案だったわけです。アヒトフェルは、戦の布陣を組んだり、戦法を授けるだけでなく、心理を読み取った人心掌握に長けた数々の作戦を立てて、ダビデを支えて来たのだと思われます。
 実はこの出来事は、人の営みとしてはアフィトフェルの知恵がもたらした作戦であり、アブシャロムが合意して実行されたものですが、霊的に見れば、ダビデの姦淫の罪に対する刈り取りであって、すでに預言者ナタンによって宣言されていたことでありました。「主はこう仰せられる。・・・あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。」(Ⅱサムエル12:11~12)これは、極めて厳粛なことです。
 そして、アヒトフェルは、ダビデ討伐の作戦をアブシャロムに進言します。「私に一万二千人を選ばせてください。私は、今夜、ダビデのあとを追って出発し、彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな穏やかになるでしょう」(Ⅱサムエル17:1~3)
 ポイントは、まず「時は今」、次に「敵は王ひとり」ということです。狙いはダビデひとり。ダビデがいなければ敵兵もアブシャロムの配下で戦力になるので、無意味に殺したり傷つけないほうがいいのです。非常に賢明な作戦です。ところが、この素晴らしい作戦をアブシャロムは退けます。フシャイは「アブシャロム自身が出陣し、全軍をもって壊滅すべきこと」を進言します。それは少しでも時間を稼いでダビデを遠くに逃がし、ダビデの得意とする野戦に持ち込むためでした。(Ⅱサムエル17:8~14) これも、アブシャロムが自分の意思で選んで決定したことですが、霊的には「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31)とダビデが祈ったからです。「これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった」(Ⅱサムエル17:14)と書かれています。この結果、ダビデはヨルダン川の東に逃げ、戦いにおいて勝利を得ます。アヒトフェルは、自分のはかりごとが行なわれないのを見て、首をくくって死にました。アヒトフェルは頭のいい人でしたから、自分の策を採用しないアブシャロム軍に勝機がないのを悟っていました。ダビデを裏切った限りはもはや彼の生きる道はないと思い詰めたのでしょう。ダビデを裏切ったアフィトフェルはイエスを裏切ったユダのモデルになっています。人はいくら知恵が豊かでも、その知恵によって己の身を救うことは出来ないのです。自分の力や策に頼ったアブシャロムと、自分の罪を隠さず、自分の可能性に絶望し、ただ主の憐れみを願ったダビデの明暗が分かれます。同時にダビデは、この神のお取り扱いの中で、アフィトフェルの裏切りに深く傷つきながらもイエスの地上での苦しみを先行体験し、彼のうるわしさを学ぶことを許されました。(詩編38:5~12)同じように経験する悲しみや苦しみであっても、アブシャロムやアフィトフェルのそれとダビデが味わったものとは、何と質が異なっていることでしょう。神の恵みのもとに服するものには、それがどんな苦しみであれ、一切に無駄がありません。神がそれに価値を与えるからです。

 ダビデと長男アブシャロムは心通わせることがないまま、悲劇的な最期を迎えます。ダビデは全面対決の中でも敵軍の将であるアブシャロムの安全を願い、「アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ」と家臣たちに命じています。ところが、ヨアブはその命に背いて、無抵抗な姿になったアブシャロムを殺します。彼の自慢であった髪の毛が、人より頭一つ高かったその頭が、樫の木に引っかかったのです。何という皮肉でしょうか。人は神の前に、己のプライドによってつまずくことの象徴的な絵となっています。
 ダビデは、アブシャロムの訃報を聞いて、尋常ならぬ悲しみを隠すことなく表します。(Ⅱサムエル18:33~Ⅱ19:4)このダビデの姿から考えさせられるのは、イエスを見捨てて、容赦なく裁いた父なる神の御心です。これほど敵意を剥き出しにして、自分に挑んでくる息子であったさえ、ダビデにとってはかけがえのない息子でした。ましてや、ご自身のすべてを反映し、完全に父のみこころに従って、従順に歩まれたイエスを、罪と見なして裁かねばならないその心中はいかばかりでしょうか。イエスが十字架にかかられたとき、全地は3時間真っ暗闇に包まれました。(マタイ27:45~46)この暗闇に秘められた神の愛を感じましょう。私たちはこの暗闇から生まれた光だということです。

2009年11月1日日曜日

11月1日 聖書を構造的に読む ひねくれ者のための聖書講座⑧ 資料

「茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる」
                   夏目漱石「三四郎」

「Fair is foul and foul is fair」(いいは悪いで、悪いはいい)
                シェイクスピア「マクベス」
 
【キアスマス】
 文節や文章などをABBAのように反転させる方法をキアスマス(カイアズマス・交差配列法)と言います。ABの例は最小単位のものですが、このように言葉を反転させて繰り返しながら、読者に状況を効果的にイメージさせることに成功しています。さらにABCCBAというように、いくらでも複雑になります。さらに、真ん中に中心点になるXを置いてABCXCBAというかたちで定型をなす場合もあります。
 これらが、詩の中で複数の行数で行われる時はどうなるでしょうか。例えば4行の詩があるとすると、1行と4行が、2行と3行がそれぞれ一対になります。反転したパラレルになるわけです。このカイアズマスがもたらす反転パラレルは短文だけでなく、行や幾つかのまとまった段落の対置関係にも使われたりします。奇数行や奇数のまとまりになって、一番真ん中の行やまとまりが、折り返し点になるような構成になるのです。

C.創世記7~8章 ノアの洪水

 1.7日間洪水を待つ(7:4)
  2.動物とともに箱船に入る(7:7~15)
   3.箱船の扉を閉める(7:16)
    4.40日の洪水(7:17)
     5.箱船浮かび上がる(7:18)
      6.山々まで覆う(7:19)
       7.150日間増え続ける(7:24)
        X.神はノアたちを心に留めておられた(8:1)
       7.150日の終わりに減り始め(8:3)
      6.山々の頂が現われ(8:5)
     5.箱船アララテ山頂へ(8:7)
    4.40日が過ぎ(8:6)
   3.ノアは扉を開いた(8:6)
  2.カラスと鳩を放った(8:7~8)
 1.さらに7日間水が退くのを待つ(8:10)

D.ルカの福音書1章のバプテスマのヨハネの受胎告知

1.ふたりは神の前に正しく戒めと定めを落ち度無く行っていた(6)
  2.エリザベツは子が無く、ふたりとも年をとっていた(7)
   3.ザカリヤは、当番で祭司の務めをしていた(8)
    4.くじを引いたところ、神殿にはいって香をたくことになった(9)
     5.香をたく間、大勢の民は、外で祈っていた(10)
      6.主の使いが現われ香壇の右に立った(11)
       7.ザカリヤは不安を覚え恐怖に襲われた(12)
        X.御使いの受胎告知(13~17)
       7.ザカリヤは御使いを疑った(18)
      6.ガブリエルが、主の命だと告げ、
      信じないから、誕生まで話せなくすると言われる(19~20)
     5.香ををたくザカリヤが暇取るので、人々は外で不思議がった(21)
    4.聖所から出たザカリヤは、口がきけなくなった(22)
   3.ザカリヤは、祭司の勤めの期間を終え、家に帰った(23)
  2.エリザベツは身ごもり、5ヶ月引きこもっていた(24)
 1.エリザベツは、主が自分に心をかけて下さったことを述べた(25)


E.ローマ2:6~11

  1.神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えにな  ります(6)
    2.忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠      のいのちを与え(7)
      ×党派心(自己中心)を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒       りと憤りを下されるのです(8)
      ×患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうす       べての者の上に下り(9)
    
    2.栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての     者の上にあります(10)
  1.神にはえこひいきなどはないからです(11)

11月1日 聖書を構造的に読む (ひねくれ者のための聖書講座 ⑧ )

 私がメッセージをする上で心がけていることは、無理に聴き手の感情を駆り立てたり、語り手の感動を押しつけたりしないことです。そして、決して自ら抽出した徳目へと導かないことです。私は落ち着いて淡々と話します。たぶんイエスもそれほど激して語りはしなかったでしょう。私が話したことをよく聴いた上で、拒絶されることも、正反対の意見をお持ちになることも当然あるということは十分承知していますし、そういう判断を尊重する姿勢をもっています。しかも、この講座に関してはひねくれ者対象です。ひねくれ者なら、ひねくれ者の話なら納得するだろうなんて思い上がってはいません。尚、拒んで批判するのもご自由にという感じです。もちろん私は神に心動かされて語ります。しかし、機械的に「知識」や「教理」を伝えているわけではありません。価値の伝達が目標ではないのです。もっとそれ以前のことであり、さらにそれ以上のことです。
 私が伝えたいことは、「聖書にはこう書いてあるでしょう。ほらね」ということです。そのことを通して、聖書が紹介する「イエスという御方」を明らかにすることです。「人の状態」や「正しい生き方」の話ではないのです。勿論そういう部分も含まれはするでしょうが、中心はイエスという御方です。ですから、「私だけがこういうことを読み取ったのだ」というような特別なことはひとつもありません。イエスという御方を紹介して、それぞれに甦られたイエスに出会っていただくからです。それで私の役割のほとんどはおしまいです。この御方はその個別の出会いによって信じる者にいのちを与えるのです。伝える者は、誰であれ特別な秘儀を語るのではありません。そんな秘められた教えなんてありません。さまざまなキリスト教がバラバラなことを語っていても、聖書は2千年以上変わらず、同じひとつのことを語っています。それは、「イエスはどういう御方で何をなさったか」ということです。「福音の奥義」という言い方もありますが、それはその気になれば誰もが味わうことの出来るところにあります。門を狭くしているのは、聴く者の態度の頑なさなのであって、初めから天国の定員が決まっていたり、偏差値が高かったりするわけではありません。もってまわった妙な手続きを加えたのは、人の好き勝手な言い伝えです。

 もう一度繰り返します。ポイントは、「イエスがどういう御方で、何をなさったか」ということです。それをそのまま書かれているとおりに素直に読むことを進めています。そのように読めば、各自が主イエスと出会えます。
 誰でも心の中に神の声を聞くチューナーを持っています。それを聖書は「霊」と呼んでいます。この「霊」を吹き込まれたので、「人」は「人」となったのです。ホモサピエンスとしての「人」は「ヒト」と片仮名表記されたりしますが、そのヒトは、遺伝子レベルでは確かに猿とほとんど変わりません。ヒトとチンパンジーの違いは、ウマとシマウマ程度の違いだと言います。しかし、人は神と永遠を思い、神と交わり、永遠に生きる可能性を持っています。ここに、人の特別な存在価値があるのです。

 猿が道具を使うことはあっても、猿が何かを奉ったり拝んだりすることはありません。なぜでしょうか。人だけが神と交流するための「霊的な存在」だからです。しかし、その人の霊は不完全にしか機能していません。聖書が描写するのは、善悪の知識の実を取って食べ、神の園エデンを追放され、神との交流が断たれた人の姿です。それで人は、神や神ならぬ大いなるものとの交流を持とうとしてあがき苦しんでいるのです。そのような理由で、人は無数の宗教を生み、それらを拒否する進化論という宗教を生み、さらに聖書の教えさえ宗教に貶めてしまったのです。

 「進化論と言えば、宗教ではなく科学じゃないか」と思われるかも知れませんが、私に言わせれば、最も悪質な宗教です。
 簡単なひとつの例を思い浮かべて考えてみましょう。昆虫の世界です。蜂や蟻などの小さな虫でさえ、圧倒的な組織力をもって見事な役割分担で自分の任務を遂行しますが、そんな虫たちよりも遥かに優秀なはずの人間が産み出した世の中のシステムには、さまざまな人間関係の確執や権力の闘争があります。妬みや憎しみから巣の秩序が崩壊することはありません。蜂や蟻のようにはうまくいかないわけです。人が罪に墜ちたことによって非贓物全体が虚無に服したと書いてあるので、昆虫の世界もエデンの園の状態とは違うでしょう。しかし、人間以外の動植物の間には、人間のような「神との関係の歪み」は見られません。だから、イエスは「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われるのです。自然の動植物には人のような霊はありません。しかし、「ただ神に養われている」だけで、神との霊的な交流がなくても、それらは喜びに満ちて己のいのちを奏でているではないかというのが、イエスのメッセージです。さらに進化したものが、進化の劣位にあるものに学ぶことなどないはずです。ポイントは、「神との関係の歪み」です。この歪みが、自らを猿の末裔に貶めるのです。
 神の園エデンを追放され、神なしでやりくりしてきた私たちですが、その神の第一としない勝手気ままなやりくりに問題があるのだと聖書は指摘します。
 霊の機能不全を回復へと導くのは神のことばです。「わたしのことばは霊でありいのちである」とイエスは語られました。聖書のことばは、ただの道徳やイデオロギーではないのです。

 さて、今日の講座では、神のことばである聖書の構造的な読み方のヒントについてお話したいと思います。言ってみれば、チューナーの使い方、ダイアルの合わせ方についての手引きです。妨害電波や、偽りの情報があまりにも多いですから、こういうメッセージもあってもいいのかなと思っています。
 各自がしっかり調べ、よく吟味することが大事です。丸かじり、丸呑みはいけません。私の話も簡単に信じてはいけません。ちゃんと疑って、自分で調べてください。罪や救いなんてそう簡単にわかるはずのないことです。

 みことばを読むことは、食べ物をよく咀嚼していただくことに喩えられています。食材にはそれにふさわしい食べ方があるということです。
 動物は肉も野菜も丸かじりです。味付けも何もありません。しかし、人間はさまざまに工夫を凝らして調理します。どこの国でも、おいしい料理とは、素材の持ち味を十二分に生かしたものです。神は予め人が知恵と工夫によってさまざまな調理方法で食材を楽しめるようにすべてのものをお作りになったのです。これは物凄いことだと思いませんか。

 聖書は、さまざまな文学の形式にのっとって書かれています。あるものは歴史、あるものは詩として書かれています。ひとつのことばの原語の意味にこだわることも大事ですが、全体の流れやつながりを見ることも大事です。
 特にある部分を文脈に関係なく切り取って、自分の願いや主張を練り込んで語ったり、読んだりすることは、キリスト信仰の大いなる歪みの原因になっていると思います。こういう読み方によって膨れあがったものがキリスト教という宗教なのです。
 
 魚や野菜にだって、そのさばき方や切り方には、その種類に従ったルールがあります。聖書の読み方もデタラメでは駄目で、理にかなった方法があるのです。つまり、それぞれの聖書記者の編集意図をとらえるということです。それぞれ独立した意図をもって、また別々の様式で書かれています。手紙は手紙、系図は系図、歴史は歴史、詩は詩として表現されています。そして同時に、聖書の他の箇所との整合性、全体を貫く、構造物の真柱である「イエスとはどのような御方で、何をなさったか」というテーマとの関連から読み解く必要があります。例えば、手紙であれば「いつ」「誰が」「誰に」「どこで」「何のために」書いたのかということです。それが、個人にあてたものか、教会にあてたものかによっても違います。5枚の便せんに書かれた手紙を3枚目の途中から読み始めたり、ある数行だけ書き写して残りは何を書いてあるか知らないというような読み方はしません。自分あての手紙を、自分が読むより先に誰かに読んでもらい、その意味を解説してもらうというような愚かなことはしません。そういうことは、実際あり得ないことだし、そんなことをしたら、差し出し人を馬鹿にしているとしか思えません。しかし、聖書に限れば、そういうことが平然と行われているのです。

 今日特に取り上げるのは、文学的手法としてのひとつの定型についてですが、これは手紙の中にも詩の中にも物語の中にも見られるものなので、知っていると参考になると思います。
 定型詩や定型文のスタイルのひとつとして、交差配列法(chiasmusカイアズマス)というのがあります。ギリシア語でキアスマスと言います。
 たとえば、「茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる」というような一文があったとします。これは漱石の「三四郎」の一節ですが、このように、文節や文章などをABBAのように反転させる方法をキアスマス(カイアズマス・交差並行法)と言います。この漱石の一文は最小単位の例ですが、このように言葉を反転させて繰り返しながら、読者に状況を効果的にイメージさせることに成功しています。さらにABCCBAというように、いくらでも複雑になります。
 さらに、真ん中に中心点になるXを置いてABCXCBAというかたちで定型をなす場合もあります。
 二つめの例をご紹介します。シェイクスピアの芝居の一節に「Fair is foul and foul is fair」(いいは悪いで、悪いはいい)というのがあります。これは「マクベス」の中の魔女の台詞ですが、andを中心にしてパラレル部が反転して、不思議な調子を作り出しています。
 これが、詩の中で複数の行数で行われる時はどうなるでしょうか。例えば4行の詩があるとすると、1行と4行が、2行と3行がそれぞれ一対になります。反転したパラレルになるわけです。このカイアズマスがもたらす反転パラレルは短文だけでなく、行や幾つかのまとまった段落の対置関係にも使われたりします。奇数行や奇数のまとまりになって、一番真ん中の行やまとまりが、折り返し点になるような構成になるのです。このような文章の構造は、日本人にとってはなじみの薄いものですが、実は聖書を理解する上で非常に重要な鍵のひとつです。
 創世記7章の「ノアの箱船」の記事を見てみましょう。(創世記7:4~8:10)

 1.7日間洪水を待つ(7:4)
  2.動物とともに箱船に入る(7:7~15)
   3.箱船の扉を閉める(7:16)
    4.40日の洪水(7:17)
     5.箱船浮かび上がる(7:18)
      6.山々まで覆う(7:19)
       7.150日間増え続ける(7:24)
        X.神はノアたちを心に留めておられた(8:1)
       7.150日の終わりに減り始め(8:3)
      6.山々の頂が現われ(8:5)
     5.箱船アララテ山頂へ(8:7)
    4.40日が過ぎ(8:6)
   3.ノアは扉を開いた(8:6)
  2.カラスと鳩を放った(8:7~8)
 1.さらに7日間水が退くのを待つ(8:10)

 中心は、折り返し点のXにあたる8章1節では、神がノアを心に留めていたことを印象づけています。そして、災いも救済もともに、神が計画し、神が執行されることを厳粛に物語って印象づけています。

 続いて、バプテスマのヨハネの受胎告知の場面を取り上げてみましょう。(ルカ1:6~25)
 
1.ふたりは神の前に正しく戒めと定めを落ち度無く行っていた(6)
  2.エリザベツは子が無く、ふたりとも年をとっていた(7)
   3.ザカリヤは、当番で祭司の務めをしていた(8)
    4.くじを引いたところ、神殿にはいって香をたくことになった(9)
     5.香をたく間、大勢の民は、外で祈っていた(10)
      6.主の使いが現われ香壇の右に立った(11)
       7.ザカリヤは不安を覚え恐怖に襲われた(12)
        X.御使いの受胎告知(13~17)
       7.ザカリヤは御使いを疑った(18)
      6.ガブリエルが、主の命だと告げ、
       信じないから、誕生まで話せなくすると言われる(19          ~20)
     5.香ををたくザカリヤが暇取るので、人々は外で不思議がっ      た(21)
    4.聖所から出たザカリヤは、口がきけなくなった(22)
   3.ザカリヤは、祭司の勤めの期間を終え、家に帰った(23)
  2.エリザベツは身ごもり、5ヶ月引きこもっていた(24)
 1.エリザベツは、主が自分に心をかけて下さったことを述べた(25)
 
 この箇所では、中心のXは御使いガブリエルのことばになっています。ガブリエルのことばはちょうど13~17節まで5つあって、その真ん中の15節が、意味的にも核を成すようになっています。面白いでしょう。

 聖書は長い間、現代のように、ひとりひとりが手にとれる紙の本ではなく、羊の皮に書かれて巻物にされていた時代がありました。章や節といったものが便宜的につけられるようになるのも、ずっと後のことです。また、紙の本になってからも、民衆が自分のことばで自分の聖書を手に持って読めるようになるには、長い時間を待たねばなりませんでした。ですから、こうした神の知恵と配慮によって、話のまとまりや内容が分かりやすいように効果的に書かれていたことを知ることは、とても大事なことだと思えるのです。
 多くの教会の中では、好きなことばを適当にぶつ切りにして使用しています。しかし、聖書は本来文脈の中で読むものです。ディデイルにこだわりすぎてもいけません。このキアスマスという構造は、人が勝手に中心点や焦点がぼけさせることのないようにされた神の配慮です。何が大事かは明らかなのです。聖書が語っている以上のこと、聖書が語っている以外のことを、読み取ったり、語ったりするのは大きな罪です。

 10月は「刈り取り」にまつわるお話をしました。ヤコブとダビデを例にあげましたね。そんな刈り取りに関するパウロのことばからキアスマスの例を確かめましよう。(ローマ2:6~11)

1神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになり ます(6)
 2忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者に  は、永遠のいのちを与え、(7)
  ×党派心(自己中心)を持ち、真理に従わないで不義に従う者に    は、怒りと憤りを下されるのです。(8)
  ×患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行な     うすべての者の上に下り、(9)
 2栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行な  うすべての者の上にあります(10)
1神にはえこひいきなどはないからだ(11)
   
 6節の「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになる」と11節の「神にはえこひいきなどはないからだ」は対になっています。この部分は神の公正さが語られています。
 7節の「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え」と、10節の「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にある」は対になっています。忍耐をもって善を行うことと、不滅の価値を希求することの関連が語られています。
そして、8節の「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下される」と9節の「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下る」も対になっています。この部分が核であり、真理に従わない悪を行なう者について語られています。
 この箇所を読むだけでも、アメリカのキリスト教の価値観に根ざした対イスラエル政策や、日本の親ユダヤ的な教会のあり方の偏りは見えるわけです。
 ローマ2章では、パウロは裁きについて語っていますが、要点は、「お互いを裁く必要はない。神が公正に裁かれるから」ということです。かなり繊細な内容ですが、この部分を読むと、神はえこひいきはなく、きちんと正しく裁いてくださるのだということが印象深く伝わって来ます。だから、私は神様の正しい裁定に期待して先走って誰とも無意味に争う気はありませんが、「正しく聖書を読みましょう」という発進は静かに続けていきます。

 このように、一人ひとりが構造的に、論理的に聖書を読んでいくことは、何にもまさって大事だと思っています。「知ってるつもりの人」も「知らない人」もです。むしろ既に信仰がある方々こそ、このような視点でみことば全体を鳥瞰する力をつけることが必要です。信じている人が信じていない人に語るとき、「ある断片を自分が信じているから正しいはず」という類の情報にはほとんど説得力はありません。
 一人ひとりが自分の責任で神のみことばを扱うとき、愚かなリーダーのミスリードを受けるリスクは軽減されますが、みことばのいいとこ取りをして、勝手気ままな「信仰ならぬ思いこみ」を増長させる危険も大いにあるからです。みことばのどの部分に何が書いてあって、それは他の箇所とどのような論理的な整合性があるのかをきちんと理解していることが大事です。

 そして、イエスという御方としっかり出会うことです。この御方を知っていれば、身勝手な読み方の間違いはわかります。この御方にふさわしくない断片は本質からずれているのです。そういうものには、本当にイエスと出会った方なら「何か違うぞ」と、内におられる聖霊は「アーメン」しないはずです。そういう違和感を、大切にしていただきたいと思います。

2009年10月19日月曜日

10月18日 メッセージのポイント

 罪を刈り取るダビデ(ダビデの生涯と詩編⑩)
    Ⅱサムエル13~15章
   
       
A 神の祝福を受けるということ 
  ○祝福は御利益ではない(ラッキーなことの連続や順風満帆の歩みではない)
  ○神の祝福は繊細で奥深い→私たちの願いではなく神の人格にふさわしい
  ○神の祝福は教育的、建設的、系統的、具体的(エレミヤ29:11)
  ○刈り取りと訓練を理解すること(箴言19:3)
  ○苦しみからの学び(詩編119:67.71.74)

B ダビデの失敗
  ○複数の妻は「信仰によって」ではなく「当時の習慣によって」得  たもの
  ○男女の関係は単なる道徳ではない→キリストと教会のモデル
  ○目に見えない神への信仰は目に見える人間関係に表れる

C バテ・シェバをめぐる三角関係とその結果
  ○第1子の死と第2子の祝福(Ⅱサムエル12:15~23)
  ○アムノンのタマル陵辱(Ⅱサムエル13:1~21)
  ○アブシャロムによるアムノン殺害(Ⅱサムエル13:23~27)
  ○アブシャロムの謀反(Ⅱサムエル15:1~12)

D 苦しみの中でダビデが学んだこと
  ○主が中心であるということ→神の箱は何処に
  ○主のみこころがなるということ→自分の願いや力や計画ではない
  ○主の御人格の深さ→そのいつくしみときびしさと・・・(Ⅱサムエル15:25~26)

E 詩編にみるダビデの信仰と霊的モデル
  ○詩編31:9~13
  ○詩編55:12~15
  ○詩編88:13~18
  ○詩編3編

10月18日 罪を刈り取るダビデ(ダビデの生涯と詩編 ⑩ )

 ダビデがバテ・シェバとその夫であるウリヤに対して犯した罪は、ダビデが預言者ナタンのメッセージを受け入れて、神の前にはっきり悔い改めたことによって完全な赦しを得ました。こうして、主の前にその罪は覆われ、ダビデはその後もさらに祝福を受け続けます。みなさんは、ダビデとバテ・シェバとウリヤの三角関係の中に起こった一連の出来事の顛末をご覧になってどんな印象を持たれるでしょうか。妻を寝取られたことも知らずに、ダビデを信じ切ったまま戦場に散ったウリヤとダビデを比べると、その扱いはまるで違うように見えます。私たちは、人の一生をどのように見つめて如何に評価するでしょう。神のお取り扱いは、非常に繊細で奥深いものです。一見不公平に思えることであっても、神は御自身にふさわしいやり方で、すべてのことを公正に取り扱われているのだということを、私は固く信じています。神の祝福の計画はよきものです。教育的で建設的です。系統的で具体的です。私たちは自分の将来、明日のことさえわかりません。しかし、神は私たちのために、すばらしい計画を持っていてくださり、それをよくご存じなのです。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

 「神の祝福を受ける」ということは、決して人間的に見てラッキーな出来事が連続することではありません。順風満帆の日々を送るということでもありません。もっと複雑です。望まぬ出来事に直面し、悲しみや苦しみの道を通ることもあります。私たちが出会うさまざまな出来事には、すべてを見通しておられる御方からの具体的なメッセージが含まれているのです。もちろん、蛇口をひねれば水が出るし、不養生をすれば風邪を引いたりするでしょう。そのような物事の当然の因果関係の法則の中で起こることに、いちいち神様の意図を深読みするのは行き過ぎですが、私たちが、神を信じ、具体的にみこころを求めて生きているにも関わらず、大きな人生の選択において、自分が強く願っていることや深く思い込んでいることと異なる展開になっていったとしたら、そこには、まず間違いなく、神様からのメッセージや訓練の意味合いがあるはずです。

 主は罪を完全に赦されるのですから、ダビデが家庭生活で味わった様々な悲しみや苦しみは、主が与えた罰というわけではありません。自分が選んだことの結果を見せられているのです。これは似ているようですが、全然違います。ダビデにせよ、私たちにせよ、誰であれ、自分が語ったこと、為したことの結果を見せられます。私たちは、自分の蒔いた種を刈り取ることを通して、「神がどのような御方であるか」を学ぶのです。すなわち、「神は決して侮られる御方ではないということ」、そして、「神は義であり、そして愛である」ということです。自分の蒔いた種の刈り取りをしながら、重要な神の学課を学んでいるのです。
 単にエゴを積み重ねて、健やかに富み栄えることは、祝福とは呼べません。本当の祝福とは「神を知ること」です。つまり、私たちが間違った選択をすれば、それがそのままうまくいくことはありません。神が「恵みによって」つまずかせてくださり、信仰によらない選択の結果を、きちんと見せてくださいます。私たちは愚かであやまった意志で突き進んでうまくいかないのは感謝すべきことなのです。ですから、うまくいかないとき、神に向かって憤ってはいけません。箴言にはそれを警告することばもあります。
「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る」(箴言19:3)
 失敗すること、挫折することは出来れば避けたいことですし、とても辛いことです。しかし、それは恵みです。その中でこそ、人ははじめて学ぶべきことを学ぶのです。神がお与えになる苦しみと神のおきてを学ぶこととの関連を詩編の作者は歌っています。(詩編119:67,71,75)
 妙な言い回しかも知れませんが、私たちは自分に裏切られる必要があります。そして、裏切らない御方はイエスただおひとりであると知る必要があるのです。ペテロやパウロが、いのちの信仰のスタートラインに立つまで失敗を思い返してみてください。私が語った「自分に裏切られる経験」がちゃんとあるでしょう。それは、刈り取りであると同時に重要な神の学課なのです。

 ダビデに話を元に戻しましょう。ダビデが複数の妻をもったことは、「信仰によって」ではなく、「当時の習慣」によってです。それを今の価値観で簡単に責めることは出来ませんが、神の原則は時代の価値観によって揺らぐものではありません。結婚の基準に限らず、時代とともに知らずに犯している罪はたくさんあると思います。知らずに悪に荷担しているのです。
 最初の男と女が作られたときから、神のみこころは一夫一妻です。これは「道徳」ではなく、それ以上の霊的な「価値」と「意味」があります。男女の関係は最もすばらしいキリストと教会のモデルだからです。ですから、複数の妻をもった場合は、必ず弊害が生まれます。当然妻どうしの確執、異母兄弟のねたみや争いという問題が発生するのです。人間の本質は、古今東西どこでも一緒です。こういう関係のもつれや感情の行き違いが、いつの時代、どこの国でも、あらゆる芝居や映画のモチーフになるわけです。人の興味は、専ら自分を中心にした人間関係に尽きるのです。
 信仰によって約束の祝福を受け継ぐ人々にとっても、目に見えない神に対する信仰の本質は目に見える人間関係の中に現れるわけです。ですから、神との「縦の関係」が全くデタラメなのに、人との「横の関係」を避けたがる人たちは、既に自分のあり方によって、自分の愚かさや恥を表現していると言えます。神を信じる人たちが、「神を信じる他の人たち」や「異なる神々を信じる人たち」また「神も仏も信じない人たち」との多様な人間関係の中で、ともに生きるというのは、それほど簡単なことではないのです。
 アブラハムもイサクもヤコブも、そしてダビデも、信仰の人はみな「旅人」「寄留者」です。「旅人」「寄留者」は、旅先、寄留先でいろんな人と上手に関わる必要があるわけです。ですから、同じような経験をして苦しみました。ダビデの場合はまた特別です。羊飼いから王になり、その大いなる成功とともに、その影にはウリヤの妻であるバテ・シェバとの不倫とそのもみ消しのための嘘や殺人がありました。ですから、ダビデの苦しみと刈り取りがアブラハムやヤコブのそれとは、比較にならないほど大きなもの深いものだったことが容易に想像されます。

 まず、バテ・シェバとの間に生まれた最初の子どもは死んでしまいました。これが、ダビデにとっては最初の具体的な罪の刈り取りでした。ところが、次の子どもは大いに祝福されます。その次の子どもこそ後の王であるソロモンです。このふたりの子どもの何が違うのでしょうか。神は最初の子どもを憐れむことは出来なかったのでしょうか。それは無理でした。確かにふたりとも、ダビデとバテ・シェバとの関係から生まれた子どもですが、最初の子はダビデが無理矢理犯して孕ませた子です。しかし、次の子どもはウリヤが死んで、正式に娶ってから合意の上で結ばれて与えられた子どもです。これは、大いに違います。最近は「出来ちゃった婚」などということばが市民権を得て、お腹が大きい新婦さんがウエディグドレスを着ている姿も珍しくなくなりました。おそらく、さげすまれることもなくないでしょう。しかしそれは、世の中が多様性を認める寛容さを持ったからではなく、感覚が麻痺してきているのです。このようなダビデのふたりの子どもに対する主の扱いを見ても、人が刈り取るべきことと、神の祝福そのものとの違いがわかるのではないでしょうか。単に御利益を求めて命乞いをしても聞き届けられることはないのです。

 この後、ダビデにはさらにつらい出来事がありました。息子アムノンが、娘タマルに恋して辱めるというとんでもない事件です。(Ⅱサムエル13:1~21)メフィボシェテのお話のときに、「キリストにある王の食卓」のすばらしさを語りましたが、雛形である「ダビデの王の食卓」連なっていた子どもたちの実際はこういう側面もあったのだという事実を正視する必要があるでしょう。
 この事件がダビデに与えたダメージは相当なものだったでしょう。加害者も被害者もともに大事な自分の子どもです。しかも、父であるダビデはアムノンの仮病を見破れなかったばかりか、彼の願いをそのまま聞き入れ、自分の命令でタマルを世話につかせたのです。ずる賢いヨナダブという友人でさえ、アムノンの様子がおかしいことに気がついたのです。ところが、ダビデは気づきませんでした。ダビデの家族には、親密な交わりがなかったということです。ここに大きな問題の根があります。
 欲望にかられて身勝手な思いを遂げる。これは、かつてダビデがバテ・シェバにしたことと同じです。しかも被害者はよその娘ではなく、可愛いわが子です。娘タマルは辱めを受け激しく傷つきましたが、娘の傷は、ダビデの心をも同じようにえぐりました。それは、まさに自分がウリヤに対してしたことの報いでした。

 次にダビデを襲った不幸は、子どもたちどうしの兄弟での殺し合いです。(Ⅱサムエル13:23~37)
 先の事件の被害者タマルの兄であるアブシャロムが加害者アムノンを殺すというものでした。アブシャロムは同じ母から生まれた妹タマルへの思いの深さ故にアムノンを許すことができませんでした。アブシャロムは機会をうかがいつつ2年間は沈黙し、ついにアムノンを殺しました。その際、アブシャロムはダビデも招待していましたが、ダビデは行きたがらず、アムノンの参加にも多少問題を感じながら、認めてしまいます。
 これらの一連の出来事に対してのダビデの態度は、全く煮え切らないものでした。自分の犯した罪を痛烈に思い知らされていただけに、子どもたちに対して毅然とした態度を保つ事が出来ず、適切な戒めや指導が出来なかったのです。(Ⅱサムエル13:20~22)(23~27)
 もしダビデが、アムノンやタマルに対して、きちんと納得のいく裁定をくだしていたなら、またアブシャロムの働きかけに対して、きちんと出向いて思いを伝えていたなら、いくつかの不幸は回避できたかも知れません。ところが、ダビデは心を痛めるだけで全く何も出来ませんでした。(Ⅱサムエル13:37~39)逆に言えば、それが出来ないほどダビデのダメージは深かったとも言えます。
 やがてアブシャロムは反旗を翻しました。ダビデはアブシャロムとの直接対決を避けて、逃げて行きます。息子を討つ気力はダビデにはありませんでした。それは勝てるとか、勝てないとかの力関係ではありません。それは愛ゆえ葛藤です。ダビデはアブシャロムを愛していたのです。
 3年間ゲシュルに逃げていたアブシャロムをエルサレムに連れ戻しはしますが、決して彼の顔を見ようとはしませんでした。アブシャロムの気持ちは、次第に父ダビデから離れ、屈折していったことに違いありません。ダビデの心情ばかりにスポットがあたりますが、アブシャロムも相当辛かったでしょう。この苦しみの中で、彼の心はどんどん屈折していくのです。ある日、アブシャロムは自分の親衛隊を作ります。さらに、不満があって、王に訴えようとする人々をつかまえて、門前でつかまえて「あなたの言い分はわかる。私が王ならあなたを弁護する……」と味方をするのです。 アブシャロムは、このようにことば巧みに「心を盗んで」いきます。アブシャロムがダビデに反旗を翻したのはヘブロンです。かつてダビデがユダの王として君臨していた町。アブシャロムはこのヘブロンの生まれたのです。ダビデはヘブロンを捨ててエルサレムに移ったので、ヘブロンの人々にしてみれば、ダビデ王に見捨てられたという思いもあったかも知れません。そのような心理を利用したとしたのかも知れません。アブシャロムは、蜂起するに当ってイスラエル全部族に使いを送り、「アブシャロムがヘブロンで王となった」と言わせました。ろくな通信手段のない時代です。この蜂起を全国に一斉に知らしめ、全イスラエルの人々を動かそうとした方法は実に効果的でした。全イスラエルの心が、アブシャロムに移り始めます。さらに、ダビデの参謀であったアヒトフェルという人を自分のもとに迎え入れました。このアヒトフェルの裏切りは、ダビデのダメージを決定的にします。その発言力はものすごい影響力があったようです。(Ⅱサムエル16:23)このアフィトフェルという人物、実はバテシェバの祖父にあたるのです。これも皮肉です。孫娘を手込めにしたダビデに対する複雑な感情がアブシャロムと共鳴したに違いありません。アフィトフェルによる裏切りはイエスとユダとの関係と重なります。

 さて、ダビデはどうしたでしょう。(Ⅱサムエル15:13~18)まさか、 息子が反旗を翻し、父である自分に刃を向くなどとは思いもしなかったでしょう。さらに。すでに多くの人々の心がアブシャロムに傾くなんて想像もしていなかったでしょう。いろいろな思いがダビデの心を去来したに違いありません。 
 ダビデは、「直ちに逃げる」という決断をしました。それは、身の安全のためだけではありませんでした。そうしなければ、アブシャロムは間違いなくエルサレムを討つでしょう。エルサレムは特別な場所です。神の箱を迎え入れて、主なる神様の都としたのです。エルサレムを息子との闘いで破壊することは出来ないと考えました。ほとんどダビデはいいとこなしですが、流石にポイントは押さえています。ダビデがこの苦しみの中で学んだ信仰告白が輝いています。
 「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は私を連れ戻してくださる。もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうかこの私に主が良いと思われることをしてください」」(Ⅱサムエル15:25~26)すべての決定は主の御手にある。あらゆることは主の御心次第だというのです。事を決するのは、アブシャロムの武力でも、アヒトフェルのはかりごとでもなく、自分の力でも、そして信仰でさえない。ただ主の御心がなるというのです。これは、諦めから来る投げやりなことばではありません。主は最善のことをされる。その恵みに自分が預かることが出来たなら・・・という追い詰められたダビデにとってギリギリの告白です。レビ人たちは神の箱を逃げるダビデを追うように移動させて来ましたが、ダビデは途中でそれを改め、エルサレムに戻すように命じています。王座に復権できなくても、エルサレムに帰れなくてもそれもまた良し。主がそのように導かれたのだからということです。「ただそれでも、主の憐れみにあずかることができますように・・・・」と、神の御人格に寄りかかっているのです。

 これから紹介するいくつかの詩編は、ダビデがまさにこの苦しみのただ中で記したものでしょう。ダビデの苦しみの中での心の叫びは、神の御前で昇華され、イエスの地上での苦しみと重なって眩しく輝いているのがわかります。(詩編31:9~13)(詩編55:12~15)(詩編88:13~18)(詩編3編)
 これを読むと、主がただいたずらに人に苦しみを与える御方ではないことがよくわかります。罪の刈り取りというのは、単なる罰ゲームではありません。神は私たちの愚かさや失敗さえも、さらに質の高いものに変えてくださるのです。

2009年10月11日日曜日

10月11日 御利益と祝福 (ひねくれ者のための聖書講座 ⑦ )

 私は聖書を信じているので、どんなに努力しても、妥協しても、信じていないような話は出来ません。しかし、元から聖書を信じていたわけではないし、喜んで信じたわけでもないので、信じていない人の気持ちやあり方についても、自分の経験の範囲ではありますが、ある程度は理解できるわけです。
 そして、何度かお話してきているように、「自分は聖書を信じていると信じている」さまざまなタイプの人たちが、「信じていない人たちを信じさせようとして」、さまざまな善意の押し付けや、神の名において行ってきたことをどうにも許容することができないという強い気持ちもあります。
 キリスト教の歴史は、言わば、闘争と文化侵略の歴史です。破壊や強奪、挙句の果てに殺戮まで行い、それが「信仰の結果」であり、「神のみこころである」と宣言する特に最近のアメリカの現状を見るに至っては、「本当の信仰」と「そうではないもの」をきちんと区別してお伝えする必要を強く感じるようになりました。この講座もそうした私なりのこだわりのひとつです。
 もちろん、「私だけ」が、また、「私の関連するグループだけが」正しい信仰を継承しているのだと、旗を掲げ、何かを主張したいと思っているのではありません。あるのは、「主の側」であって、そちらに誰がつくかという話なのです。分裂、分派の中で甲乙を競うことは全く無意味です。
 つまり、私が問いかけたいことは簡単に言うと、ふたつだけです。とてもシンプルです。そのひとつは、「聖書に何と書いてありますか」ということ。それは、特別な資格や資質を持った人でなくてもわかります。誰であっても誠実に検証すればわかることなのです。むしろおかしな知識や、妙な経験なんてない方がむしろいいのです。真理というのは、誰の目にも明らかなものです。いつまでたってもある一握りの人にしかわからないような秘密は真理とは言えません。そしてもうひとつは、「あなたは個人的に神の問いかけにどう答えるのですか」ということです。信仰は個人的なものです。集団で醸し出す雰囲気や形式、ともに遵守する約束事の中にあるのがキリスト教であるなら、聖書を自分の判断で読み、個人的に応答するのがキリスト者のあり方です。私はこれを「神の前のひとり」という言い方で、何度かHPでも発信して、かなりの反響を頂いています。

 さて、今日は、「御利益と祝福」というテーマで考えていきます。
 イエスを信じたらどんな御利益があるのでしょう。「神の子どもとされる特権」とか、「永遠のいのち」とか言われても、それがどれほど大きな祝福なのか、いかに確かなものなのか、すぐにはわかりません。
 福音書の中で、中風の人が癒される場面がありますが、その際にイエスは、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのとどちらがやさしいか」という問いかけをされます。これは、直接は「罪を赦す」という発言に敏感に反応した律法学者に対してのことばなのですが、同時に、今まさに「中風が癒されること」しか頭にない病気の人やその周辺の人々に対することばでもあります。「罪という概念」にとらわれていては、病気がもたらす人の痛みが見えなくなります。逆に目の前の「病気の痛み」にとらわれていては、神の前の罪が見えません。

 このイエスの問いかけが意味することは何でしょうか。
 それは、「目に見える奇跡」がもたらす「御利益」ではなく、それがいったい何の「しるし」であり、目に見えないどのような「価値」を暗示しているかを信仰によってとらえるべきであるというメッセージです。すなわち、神の与えようとしている「本当の祝福とは何か」ということです。

 しかし、この中風の人に限らず、借金を返せたとか、悪い習慣から解放されたとか、病気が治った、友だちができたとかいうような極めて自己中心で手前勝手な願いがかなうことが、本質的な罪の問題や神との関係に優先する価値に見えてしまうのが、人間の弱さというものです。
 そうした欲望を満たしてくれる力があるなら、何でもすがるし、何でも拝む。多少の無理も承知で、時間や財産も投資します・・・というのが宗教の本質です。宗教というのは、そのような「人の御利益願望」を満たす組織や体系」なのです。もちろん神は私たちが健やかに問題なく人生を楽しむことを望んでおられます。そのようなレベルでも人を祝福することは神の喜びではありません。それは神にとって難しいことではありませんが、神にふさわしいことではないのです。ですから、この世には目に見える一時的な不幸や災いは存在します。

 誰もが自分の子どもに対して無償ですべてを与えてやりたいと思う気持ちをもっていますが、賢明な親は、いくら裕福であっても、やたらめったら、物やら金やら与えたりはしません。子どもの発達や能力や特性に応じて、その必要に応じて順次与えていくものです。  
 神の祝福というのは計画的で教育的なものです。そして、何よりその祝福を通して伝えたいのは祝福そのものではなく、御自身の「愛」であり「人格」なのです。
 そのような意味における宗教が与える「御利益」と、神がお与えになる「祝福」の違いについてお話しましょう。「御利益」がすべて悪いというわけではありません。私もまず普通に願うことは、御利益的なものです。それは人間であれば当然です。
 私のことばの定義でも、祝福の中には御利益が含まれています。しかし、「本当の祝福や祝福の中心は御利益ではない」ということです。神の愛、神の御人格という、祝福の中心を失うと祝福の周辺も失われます。そのとき失われる周辺の祝福を、私は御利益と定義してお話しています。
このあたりをよくわかっていたくために、ユダヤ人の偉大な先祖であるヤコブという人について考えていきましょう。
 ヤコブというのは、「押しのける者」という意味です。ヤコブは、その名の通り兄をも押しのけて祝福を奪おうという貪欲さと、それを実現するための狡猾さを併せ持った男です。
 猟から帰って来た疲れ切った兄をだまして、長子の権利を強引に奪い取ったその手口には、やさしさも品格の欠片さえありません。どう読んでも褒められたものじゃないです。(創世記25:27~34)

 この記事からわかることは、ヤコブは日頃から弟である自分の立場を悲観し、兄エサウを妬んでいたことがわかります。それは父イサクが明らかにエサウを偏愛していたことにも原因があると思いますが、イサクがアブラハムから受け継いだ祝福がすべて兄に持って行かれることに怒りを感じていたようです。そうでなければ、疲れて帰って来た空腹の兄に「たった一杯のあつものと引き換えに長子の権利を売れ」などということばはとっさに出てきません。たまたま煮物が出来上がったタイミングでエサウが帰って来たのか、エサウが帰ってくるタイミングを見計らって、ヤコブが調理をしていたのかは定かではありませんが、おそらく計算ずくでしょう。本来、兄弟は苦しみや悲しみを分かちあったり、互いの弱さを補いあったりするものでしょうが、ヤコブはエサウの弱点を知り抜いて、この場面を設定したように思えます。このように解説すると、ますますヤコブは最低な人物に思えてきます。

 ヤコブの人格形成には、両親の養育態度も大きく影響していました。父イサクはエサウをひいきしていましたが、母リベカはヤコブをひいきしていました。これは家庭教育のあり方としていただけません。信仰なんか関係なく、紛れもまく馬鹿親の態度です。親子の関係が夫婦の絆に優先するのは、危険信号です。日本の家庭の場合はたいていこうなっています。昔から「子はかすがい」と言いますよね。かすがいとは、2つの材木をつなぎとめるためのコの字型の大きな釘のことです。聖書は、夫婦は一体、つまり一本の木だと言っているのです。死に瀕した夫をだます妻に、そうした麗しいものを感じることは出来ません。母リベカは大事なヤコブに入れ知恵して、死ぬ間際の夫イサクをだまします。イサクはその策略を見抜けず、ヤコブをエサウだと思って祝福してしまうのです。(創世記27章)愚かなストーリーです。

 しかし、これは決してリベカとヤコブの策略がすぐれていたからではなく、エサウが長子の権利を軽蔑した結果、こういう展開になったと見るのが聖書的な見解です。(創世記25:34)「一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がいないようにしなさい。」(ヘブル12:16)と聖書は言っています。
 人間の側のあれこれでヤコブが祝福を引き継ぐのですが、こうした一連の意地汚い不正行為の手口を使った結果、彼は祝福とともにその巻いた種を刈り取る経験をすることになります。
 一杯の食物と引き換えに長子の権利を奪った取引も姑息なら、父イサクの死に際してのこの嘘も、負けず劣らずとんでもないものです。年老いて目が見えにくくなった家長の弱点につけこんだこの卑劣で子どもじみたトリックをもう一度確認しましょう。
 「それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。」(創27:15,16)
 弟ヤコブは、母リベカと一緒になって策略をめぐらし、「兄の晴れ着と子やぎの毛皮」を使って兄エサウになりすましてイサクの枕辺に近づきました。年と共に視覚と聴覚は衰えても、臭覚と触覚はまだ大丈夫でした。残された自分の感覚を信じたイサクもまた愚かとしか言いようがありません。
 「ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。『声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。』ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。・・・イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。『ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。・・・』」(創27:22~27)
 このだました方法をよく覚えておいてください。

 弟ヤコブは兄エサウの憎しみと仕返しを恐れ、その後、おじラバンの家に潜伏します。母リベカは、ラバンが「自分の兄だから、可愛がっているヤコブを大事にしてくれる」と考えたのでしょうが、それは都合の良すぎる甘い考えというものです。ヤコブは死に際の父をだまし、兄の祝福を奪い取ったのです。より近い身内である親兄弟に進んで恥を追わせるような人間を、より関係の薄い親戚が親切に献身的に迎えるはずもありません。
 ヤコブは羊飼いとして働きますが、おじのラバンは幾度もヤコブの報酬を変えます。ヤコブはラバンの下の娘ラケルを愛し、彼女をめとるために7年間仕えますが、ラバンはヤコブをだまして姉のレアを与えます。そして、ラバンの下でさらに7年仕えることになります。(創世記29:25~27)当然、こうしてめとったふたりの妻はうまくいくわけがなく、嫌われているレアの方が先に子どもを産むので話はますますややこしくなります。(創世記30:1~8)おそらくヤコブは自分の卑劣な方法を思い返し、神の前に恥じたことでしょう。そんな中でもヤコブは不思議な方法で神に祝福を受けて豊かになっていきます。(創世記31:5~9)

 やがてイスラエル12部族の祖となる12人の子どもたちに恵まれ、安泰に老後を向かえると思えたときです
 またも、ヤコブは、過去の愚かさを思い起こされる出来事に遭遇します。リベカが自分を偏愛したように、ヤコブはヨセフを偏愛します。これに特別な服を着せるのです。この感覚も普通に考えればどうかしています。兄弟はヨセフを妬んで、彼をエジプトに売りとばし、さらに父ヤコブにはヨセフの長服に獣の血をつけて、自分たちの仕業ではなく死んだように見せかけます。

 「彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、『これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。』と言った。父は、それを調べて、言った。『これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。』ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、『私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。』と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」(創世記37:31~35)

 ヤコブは子どもたちからまんまとだまされました。しかもそれは、自分が兄をだましたのとそっくり同じ方法でした。たとえ、求めるものが正しかったとしても間違った方法で、それを求めたことを、主は見逃してはおられなかったのです。

 ヤコブの子であるユダも、家族である嫁のタマルからだまされています。それは彼女がやもめの服を脱ぎ、「ベールをかぶって遊女のふりをしていた」ので判別できなかったのです。これも情けない事件です。(創世記38:12~26)
 この自分の嫁を娼婦だと思いこんで床をともにして身ごもらせた事実が、マタイの福音書のあるキリストの系図に出てくるのです。(マタイ1:3)

 まだあります。ヨセフは実際に生きていてエジプトで大切にされます。エジプトのポティファルの妻に誘惑された場面でも、ヨセフは罪を犯さず逃れますが、「寝室に残された彼の上着」が物的証拠となってしまいます。
 「ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。それで彼女はヨセフの上着をつかんで、『私と寝ておくれ。』と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。 『ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。』彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。」(創39:11~16)
 ここまで来ると、横溝正史的な「ヤコブ家の一族、衣の呪い」とでも名付けたくなります。
 蒔いた種の種類に応じて、収穫を刈り取るように、その育て方が収穫を左右すりように、人は必ず蒔いたように育てたように、その実を刈る取ることになります。これは神の法則です。

 「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」(オバデヤ1:15)

 旧約聖書のみならず、新約の恵みの下でも、その法則は同じです。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7,8) 
 
 罪は信じた瞬間にすべて贖われています。ヤコブが受けたのは、決して罪が赦されなかったための罰ではありません。祝福とは、神の法則から、神の御性質を学ぶことです。神の御性質がわからなければ、交わりはできません。神の御性質とは何でしょうか。
 それは「人としてのイエス」です。私たちが、人生の歩みにおいて「十字架と復活を経験すること」これが祝福の中心なのです。ヤコブが兄を押しのけて求めた財産は、単なる「御利益」です。放蕩息子が父からもらった身代も「御利益」です。これらは、逆に苦しみや悲しみをもたらし、また、湯水のように無くなるものです。

 そのような中で、自分のあさましさや醜さが浮き彫りにされ、己の人格や力量の底を見せられること、これが十字架であり、そこから復活したいのちによって、永遠につながる祝福が始まるわけです。「死を越えたよみがえりのいのち」、これは宗教のもたらす御利益とは全く別の次元のものです。

2009年9月14日月曜日

9月13日 メッセージのポイント

 ダビデとバテ・シェバ(ダビデの生涯と詩編⑨)
Ⅱサムエル11章 
           
A いちじくの葉から皮の衣へ
  ○腰をおおう
  ○いちじくの葉・・・一時的 人の努力や取り繕い(創世記3:7)
  ○皮の衣・・・・・・永遠 神の恩寵と血の贖い(創世記3:21)

B 汚された結婚
  ○壊れた結婚のかたち→罪に墜ちたのは結婚の後
  ○夫と妻はキリストと教会のモデル(エペソ5:31~32)
  ○「模型」(ヘブル9:24)「型」(ヘブル11:9)と「実体」
  ○「影」(ヘブル10:1)と「実物」

C 夫と妻の関係はキリストと教会の関係を反映する
  ○からだの権利は相手にある→一対一対応(Ⅰコリント7:4)
  ○離れている場合も合意が必要→ともにいるのが原則(Ⅰコリント7:5)
  ○夫や妻が第一ならそれは世のこと→神が第一

D 偶像礼拝は一対多対応
  ○対象ではなく、欲望中心→愛は交換不可能 
  ○放蕩の裏表→ダビデの失敗もペテロの裏切りと同様のひとつのモデル
(ルカ15:29)
  
E ダビデの罪
  ○怠惰(Ⅱサムエル11:1~2)
  ○姦淫(3~5)
  ○ごまかし(6~11)
  ○人殺し(14~21)
  ○すべてはキリストから目を離した結果・・・すべてのポイントから引き返せた

F 葛藤と贖いそして赦しと刈り取り
  ○詩編51編
  ○アブシャロム(Ⅱサムエル15:1~5)
  ○第一の子どもの死、第二の子どもソロモン
  ○すべてを覆う神の摂理

9月13日 ダビデとバテ・シェバ (ダビデの生涯と詩編 9 )

 今日は「ダビデとバテ・シェバの物語」を見ていきます。(Ⅱサムエル11章)
 ダビデの数々の栄光の軌跡が書き綴られたサムエル記に、このような内容のエピソードが詳細に記されていることは本当に驚くべきことです。まさしく聖書は神のことばであると再認識させられます。
 これを単に「腰から下の物語」として、ワイドショー的な視点で評価し、「ダビデと言えども、ただの男なんだ」という程度の学びで終わってはいけません。結婚や男女の間の事柄というのは、目に見えない霊的な事実とダイレクトに結びついているのです。人間は罪を犯した次の瞬間には腰のまわりを覆いました。確かに私たちは、腰のまわりを覆われなければなりません。それは、自分たちでつづり合わせた「いちじくの葉」ではなく、主が着せてくださる「皮の衣」によってです。いちじくは一時的でよけいに罪を意識させます。皮の衣は血による贖いであり、永遠の祝福と恩寵を表しています。

 結婚というのは聖なるものです。一人の男と一人の女が、苦楽をともにして歩み、添い遂げるということは、極めて大切なことなのです。男と女は地上で一番大切なキリストと教会のモデルです。
 「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私はキリストと教会をさして言っているのです」(エペソ5:31~32)という有名な聖句のとおりです。
 そもそも模型というのは、実物をイメージするために作られます。ですから、このモデルを滅茶苦茶に破壊すること、あるいは微妙に歪めることは、サタンの有効な戦略だと考えられます。「モデルなんだから、実物が現れたらもういらない」というわけではありません。
 私は、今「模型」あるいは「モデル」という表現を使いましたが、それは、「キリストは、本物の模型にすぎない、手で作った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです」(ヘブル9:24)「それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」(ヘブル11:19)という表現が根拠です。しかし、もうひとつ忘れてはならない大事な表現があります。それは「実物と影」という言い方です。これは、「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はない」(ヘブル10:1)というみことばに基づいています。つまり、光が実物にあたって影をつくるわけですから、キリストと私の目に見えない関係が、夫や妻との関係に投影されるわけです。聖書は、この比喩によって、「実物を得れば模型は不要」という考え方の間違いがないように補っているのです。

 ですから、「キリストと熱心に交わるが、夫や妻との会話も交流もほとんどない」などということは実はあり得ないことです。神を第一にし、信仰によって生きるということとは別次元の話です。「そもそも結婚した時点で自分のからだに関する権利は相手が所有するのだ」(Ⅰコリント7:4)とパウロは言っています。これは、愛の関係においては一対一対応が原則だということです。「祈りに専心するために離れている場合でも、合意が必要だ」(Ⅰコリント7:5)と書いています。これは、ともに住む、一緒に時間や空間を共有することが原則だということです。お互いの態度にどちらかが、あるいは、両方が強い不満を持っているということは、あってはならないのです。これは、夫婦のいずれもが信者である場合も、いずれかが信者でない場合も同じことが言えます。
 また、「夫や妻を喜ばせることが、神に優先するならそれは世のことである」とも書かれています。(Ⅰコリント7:32~33)それらのみことばの論理的な整合を見るなら、語られていることは明らかです。キリストとの関係が実体であって、その逆ではない。しかし、キリストとの良好な関係は必ず夫婦関係に反映されるということです。大事なことは、神における前の夫婦の一体性であり、その交わりの実質です。
神を第一にしていれば、夫や妻を二の次、三の次にはしないということです。夫婦の危機は霊的危機です。

 偶像礼拝というのは、神ならぬものを第一とするということです。神の栄光を他のものに置き換え、移し替えて、それを拝むということです。夫や妻も偶像に成り得るし、また、夫以外の男や妻以外の女に心が動くということは、霊的にも偶像を求めている現れです。
 ダビデの時代、王が複数の妻を持っていることはごく普通のことでした。キリストのモデルであるダビデもその例外ではありませんでした。このように、時代の価値観や文化の中で、私たちの行動が不自然に制限されたり、過度に許容されることは確かにあるでしょう。しかし、神の律法が定める基準は天地が滅びても一点一画変えられることのない不易な価値を示しています。それは、決して時代の流行に左右されるものではない極めて厳格なものです。
 わかりやすい例をあげれば、ある「ことば」や「画像」、「映像」あるいは「行為」を見て、「破廉恥、あるいは、ふしだらである」また、「許せない」と感じる基準は、日本においても世代間の感覚的なズレはかなり大きいと思います。特にこのわずか数10年の間に、相当なソドム化が進行しているようにも感じます。私たちは目に見える現実ではなく、みことばに照らして判断すべきです。
 とは言うものの、昔の人のモラルが現代よりも高かったのかというと、決してそういうわけではありません。その時々の国や時代の空気というものがあるだけです。古今東西、力を持った男は必ずと言っていいほど美女をはべらせてきました。女の子もイケメンや金持ちが大好きです。「自分の遺伝子を受け継ぐ優秀で美しい子孫を残したいという本能がそうさせるのだ」という説明は、「なるほど」と納得したいところですが、それは主のみこころではありません。しかし、これは男にとっても女にとっても強い誘惑です。
 怪しげな宗教の指導者は、その他の手段で力をもった男と同様に、不健全な金と外見の美しい女を集めます。あるいは、その逆にストイックに金や女を遠ざけます。優越感と劣等感がひとつの感情の裏表であるように、いずれも、ものすごく金や女を意識しているわけです。
 「放蕩息子のたとえ」の中では、父の下で勤勉に過ごしていた兄息子は、弟の放蕩ぶりを評して「遊女におぼれて身代を食いつぶした」(ルカ15:29)と言っていますが、それは、裏返してみれば、自分のやってみたかったことを告白しているようなものです。
 もし、私たちがダビデの立場におり、彼の力を持っているならば、同じことをしなかったとは言い切れないし、そうした自由のきかないところにいて、手の届かないバテ・シェバの美貌に憧れてつつ、ダビデの不徳を責めているだけなら、放蕩息子の兄貴と似たようなものです。

 こうしたことを頭においた上でダビデの記事をもう一度丁寧に読んでいきましょう。
 ダビデは夕暮れ時になって起きて来ました。まず、このあたりに問題の根があります。ダビデは、罪を犯して神から目を離したのではなく、この時点で既に神から目を離していたので、簡単に誘惑に負けたのだと言えます。戦いではいつも最前線にいたダビデですが、このときは、イスラエル軍が戦っている最中であるにも関わらず、ダビデは寝ていました。いのちを狙われていたときにはあり得なかったことです。
 人は空腹に耐えられても満腹には耐えられないものです。逆風のときには、負けじと足をふんばりますが、風が凪ぐとよろけてしまうものなのです。ノアも箱舟を造っているときは忠実でした。しかし、洪水後に酔っぱらって裸になっています。長い極度の緊張から解放されたダビデの姿を単純に批判することは出来ないということは承知しています。しかし、罪は罪です。

 先程も申し上げましたが、王にとって、気に入った美女を召し抱えることはごく一般的なことでした。人妻であるバテ・シェバを招くことも、異邦人の王の基準なら何とか許容の範囲でしょうが、ユダヤ人であるダビデにとっては許されないことです。ダビデはユダヤの王であり、キリストのモデルなのです。
 その後はさらに問題です。バテ・シェバは月のさわりの汚れをきよめていたのですから、律法によれば、ダビデは彼女に触れてはいけません。しかし、ダビデはバテ・シェバと関係をもっただけでなく、そのことを誤魔化すために、詭弁を弄して何とかウリヤを家へ帰らせようとします。ところが生真面目なウリヤは王の許しを得たにも関わらず、自分を甘やかすことなく、家に戻ろうとしません。そんな忠実な家来をダビデはためらうことなく殺してしまったのです。男として、戦士として、王として、最低の行為です。彼の前半生の栄光を地に落とすような大きな罪です。

 さて、ダビデの物語を中心にウリヤを見れば、彼はただの不幸な脇役です。ダビデに召し出され、後にソロモンの母となる美しい女性バテ・シェバの殺された夫という役回りです。しかし、ウリヤの人生を中心に考えれば、そんな役回りを簡単に納得することなどできません。ウリヤは有能で忠実な兵士です。だからこそ、王が欲しがるような美しい妻を娶ることも出来たのでしょう。ウリヤには何の落ち度も問題もありません。原因はすべてダビデのわがままな欲望です。ウリヤはいのちがけで仕事をこなしているのに、暇を持て余した王に突然妻を奪われ、その王に信頼しきって戦っている戦場で罠にかけられて殺されるのです。
 神はなぜこのようなひどいことをお許しになるのでしょう。ダビデが罪の結果主に討たれるのならまだしも、後から悔い改めて許されるのですから、ウリヤや遺族の被害者の心情を考えれば全くうかばれません。世の中にはこうした不公平・不平等・不合理が山ほどあります。義なる神がいらっしゃるなら、なぜ、どうしてこんなことにと天に向かって叫びたくなるのは当然です。

 かつてアブラハムは、「全世界をさばく御方は、公義を行うべきではありませんか」(創世記18:25)と祈りました。私たちがある事実を目の当たりにしたときに、それは「不公平・不平等・不合理」だと感じる基準は神が与えてくださった物差しです。その物差しで私たちは自分を測り、キリストを測るように求められているわけです。しかし、預言者ナタンがダビデに語ったことばを丁寧に見れば、少しすっきりします。(Ⅱサムエル12:1~15)
 この譬えの中で、ウリヤは「貧しい人」になぞらえられ、彼が一緒に暮らしていた小さな雌の小羊をどれほど大事にしていたかを伝えています。神はウリヤがどれほどバテ・シェバを愛していたかをよくご存じでした。バテ・シェバもまたウリヤを愛していました。ウリヤの死を知らされ、「彼女は悼み悲しんだ」と記されています。(Ⅱサムエル11:26)
 ダビデはナタンが語った譬え話の中の卑劣な人物が自分自身であることに気づかされました。この気づきと明確な悔い改めこそが、私たちにとってもっとも大事なものだと思います。ダビデの罪はこの瞬間に完全に許されました。ダビデの心の葛藤は詩編51編に記されています。
 しかし、ダビデは罪の後始末をしなければなりませんでした。神の前に罪が赦されることと、人が自分の蒔いた種の刈り取りをすることは別のことです。ですから、ダビデは夫婦関係や家庭の中に常に安息を見出していたとは言えないのです。様々な思い煩いや心配事をかかえ、苦悩しています。これについては、時を改めて詳しく話します。

 繰り返しますが、結婚というのは、キリストと教会のモデルです。ダビデはキリストのモデルですから、ダビデの花嫁は教会のモデルです。一般の夫婦関係以上に際立った雛型です。そのダビデには、たくさんの妻がいました。それは時代の許容でしたが、みこころではありません。このたくさんの妻がそれぞれに子どもをもうけ、子どもどうしが互いに対立する様は、まるでキリストの看板を掲げる多くの教会が分裂分派を繰り返す歴史を予表しているようです。中でもアブシャロムがダビデを押しのけて王位と狙い、名誉を求める姿は、キリストを追い出した教会の姿そのままに写ります。アブシャロムは、ダビデとイスラエル人との間に入って群衆の心を操ります。「アブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ」と書いてあります。(Ⅱサムエル15:1~5)どこかで見聞きしたような光景です。

 「姦淫」「ごまかし」「人殺し」という罪のオンパレード。これが、あの勇敢で、憐れみ深い、信仰の人ダビデなのでしょうか。しかし、聖書は包み隠さず、英雄の汚点を書き残しています。ダビデは私たちと全く同じ罪人です。ダビデ自身がそのことをよく知っています。私たちもそれを知ることが大事です。偉大な王や預言者や聖人などと呼ばれる人は、人の言い伝えが産み出すものです。人類はみな生まれながらにアダムの罪を継承しており、「御怒りを受けるべき存在」なのです。聖書が語るのは、ただの贖われた罪人が信仰によって勝利する姿です。その秘密が「ただ信仰にある」ことを見失うと、単にその子孫であることを誇りとしたり、特別視して崇め奉ったり、そういう姿を努力して目指そうというようになったりします。これらはいずれも間違いです。
 ダビデの妻たちは、それぞれの理由、さまざまなタイミングでダビデの元にやってきました。サウルの子であったミカルはダビデとの間に子をもうけることが出来ませんでした。聖書はダビデをあざ笑ったことが原因であるかのように記述をしています。ダビデの信仰を評価しなかったミカルは神の祝福としての子宝を与えられませんでした。ところが、バテ・シェバの場合は、たった一度の交わりで、子どもが与えられてしまったわけです。その子は死にます。そしてこの次に出来る子が、かのソロモン王です。要するに、私たちの欲から生まれて来る者は死ななければならず、その死を越えて神がお与えになる第2の者にこそ、栄光があるのです。カインではなくアベル、イシュマエルではなくイサク、エサウではなくヤコブ、サウルではなくダビデ。アダムではなくイエスです。

 ダビデの生涯には、神の計画とダビデの信仰による選択が織りなされています。それは必ずしも、すべてが栄光の軌跡ではありません。しかし、ダビデも失敗や愚かささえも、神の恵みの御手がそれを受け止め、深い摂理のもとに、その上にさらにすばらしいキリストが描き出されることには、本当に驚くばかりです。ダビデの失敗を観て、女性たちが男性の愚かさを軽蔑してほしくはありません。既婚者は夫を遠ざけたり、未婚者は男を避けたりすることはみこころではありません。それは、サタンの思うつぼです。男たちはダビデの落ちた失敗へと同じように導かれる可能性が高くなるでしょうし、それは女性にとっても不幸なことなのです。預言者ナタンが話したウリヤとバテ・シェバのようなつながりがいい関係なのです。「貧しい人には、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子供たちと暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした」(Ⅱサムエル12:3)夫婦はいつまでも、このようであるべきです。このような関係の中にこそ、本物の神の祝福があるのです。

2009年8月31日月曜日

8月30日 メッセージのポイント

ダビデとメフィボシェテ (ダビデの生涯と詩編 ⑧ )
              Ⅱサムエル9章 
           
A メフィボシェテという人物
  ○サウルの孫・・・・・呪いを受けている
  ○ヨナタンの息子・・・祝福の約束がある
  ○5歳のとき、乳母の不注意で両足が不自由になる(Ⅱサムエル4:4)
  ○本来殺されるべきところを、命を助けられたばかりか、ダビデの息子のひとりの
   ように扱われ、食卓に連なる。(士師1:6~7)

B ダビデの誓い
  ○サウルとの誓い(Ⅰサムエル24:21~22)
  ○ヨナタンとの誓い(Ⅰサムエル20:12~17)
  ○誓いを果たすダビデ(Ⅱサムエル9:1)

C ダビデとヨナタンとメフィボシェテ
  ○サウルはアダムのモデル
  ○ヨナタンはイエスのモデル
  ○ダビデは父なる神のモデル
  ○「ヨナタンのために」恵みは施される(Ⅱサムエル9:1)

D 死んだ犬のような私を
  ○罪過と罪の中に死んでいた者(エペソ2:1)
  ○生まれながら御怒りをうけるべき子ら(エペソ2:3)
  ○天のところに座らせてくださった(エペソ2:6)
  ○行いではない(エペソ2:9)
  ○メフィボシェテの壁
  ○アモン人ハヌン(Ⅱサムエル10章)
  
E 神の前のダビデの思い
  ○自分が神にどう取り扱われたかを知っていたダビデ(Ⅱサムエル7:18~29)
  ○メフィボシェテを惜しむ(Ⅱサムエル21:1~9)

F リッパの母の愛に見る神の痛み
  ○愛は痛む(Ⅱサムエル21:10~14)
  ○ご褒美のない陣痛(ヨハネ16:21)

8月30日 ダビデとメフィボシェテ (ダビデの生涯と詩編 8 )

 ダビデは傑出した戦士であり、優秀な王でした。しかし、古今東西の歴史をひもとけば、ダビデと同じように、運動能力や戦略に長けた戦の天才や、偉大な戦績を持つ英雄は他にも何人かいるでしょう。ところが、今回取り上げるエピソードを持っているような人物は極めて稀です。どのような記録を引っ張り出しても、このような例は他に見つからないのではないかと思います。ちょっと勿体ぶった前振りをしましたが、それは何かと言いますと、敵であったサウルの家の者に施した恵みについてのエピソードです。(Ⅱサムエル9章)

 王権を勝ち取った者が、自分の命や地位を狙う可能性のある血筋の者を生かしておいたり、親切に扱ったりすることは、まずあり得ないことです。当時のパレスチナでも、戦いに敗れた国の王たちは殺してさえもらえず、手足の親指を切り取られて、奴隷以下の扱いを受けることも珍しくはなかったようです。(士師1:6~7)

 ダビデのはからいで特別な恩恵を受けるのは、メフィボシェテという人物です。メフィボシェテは、サウルの孫にあたります。あのヨナタンの息子です。ぺリシテ人との激しい戦いの中で、サウル王とヨナタンら3人の息子は戦死したとき、メフィボシェテはまだ5歳でした。サウル王とヨナタンら3人の息子の悲報を聞いて、乳母はメフィボシェテを抱きかかえて逃げたのですが、あまりに急いでいたため、乳母はメフィボシェテを落としてしまいました。そのせいで、メフィボシェテは、両足ともなってしまったのです。(Ⅱサムエル4:4)

 以前に詳しくお話しましたが、サウル王が死んだ後、サウル家とダビデ家の間には争いが続きました。サウルの将軍アブネルは、サウル家の王位継承権を持つイシュ・ボシェテによる傀儡政権を立て、ダビデに対抗しようとしますが、イシュ・ボシェテがサウルのそばめのこと疑いをかけたことをきっかけに、アブネルはイシュ・ボシェテを見限って、ダビデの側につこうと交渉に出ます。アブネルに見放されたイシュ・ボシェテは拠り所を失います。そのアブネルがダビデの将軍ヨアブの手にかかって殺され、ますます気力を失います。そんな失意の中、昼寝をしているときに、しもべに下腹を突かれて暗殺されてしまいました。

 イシュ・ボシェテが死んでしまえば、次の王にはヨナタンの息子メフィボシェテがしかいないわけですが、彼は足なえだったので、はじめから候補者にさえなりません。それでも、サウルの直系ですから、ダビデ王権のもとではいのちの危険がついてまわります。メフィボシェテがエルサレムから離れたところに移り住んだのは、エルサレムに近いところにいたのではダビデの陣営の者に殺されるかもしれないと恐れていたからです。
 
 このように、サウル家とダビデ家の間には長年にわたって争いがあり、大きな遺恨を残していましたが、ダビデにはメフィボシェテが知らない2つの誓いがあったのです。それは、「サウルの子孫を絶たず、サウルの名を根絶やしにしない」(Ⅰサムエル24::21~22)という誓いと、「たとい、ヨナタンが死ぬようなことがあっても、恵みをとこしえにヨナタンの家から絶たない」(Ⅰサムエル20:12~14)というものです。

 ダビデはこの2つの誓いを決して忘れてはいませんでした。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」(Ⅱサムエル記9:1)とダビデは言っています。そして、そのことば通り、ダビデ王は実際に使いを送り、メフィボシェテを王宮に呼び寄せました。メフィボシェテは、ダビデ王の前に出るとき、死を覚悟してひれ伏しました。「あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい」という王の言葉を聞いたとき、耳を疑ったことでしょう。

 この時の「恐れ」は、罪人が神の前に引き出されるときの心情に似ています。人が神を意識するとき、感じるのは「恐れ」です。なぜなら、私たちは生まれながらにアダムの罪を受け継いで神に敵対しているからです。私たちは一人の人アダムのせいで神に敵対する者として生まれましたが、一人の義人イエスの契約のゆえに罰を免れ、神との和解を受け継ぐ者となれるのです。ダビデとメフィボシェテの関係は、「神と人との関係」の美しいモデルとなっていることがわかります。確かにメフィボシェテは生まれながらに、怒りや呪いを引き継ぐサウルの孫でしたが、同時にダビデとの契約によって祝福を獲得したヨナタンの子でもあったのです。ですから、このメフィボシェテに対する恩寵は、ダビデの特別な慈悲深さを示すエピソードでを越えて、私たちが受けている救いや恩寵の一側面を見事に映した雛型となっています。したがって、この箇所から私たちが受け取るべき霊的なメッセージは、「神の取り扱い」ということです。ダビデの慈悲深さから道徳を抽出することではありません。

 メフィボシェテは「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」とダビデ王に感謝ししています。「死んだ犬」とは自分の身体の障害を強く意識した表現です。当時、障害者は宮にさえ入ることが許されていなかったので、メフィボシェテはよりいっそう強く自分の無価値を思い知らされていたはずです。(Ⅱサムエル5:8) 

 言い換えれば、「ダビデの恩恵を受けても何かをお返し出来る可能性がまるでない」とう告白でもあります。この神に対する「敵対」そして神の前における「無価値」は、私たちが救われる前の霊的な姿です。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・・・生まれながらに御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:1~3)とパウロは言っています。さらに、「・・・あなたがたが救われたのはただ恵みによる・・・天のところに座らせてくださった・・・・行いによるのではありません・・・・」(エペソ2:5~9) これらのことばは、まるでメフィボシェテのエピソードを解説しているようです。

 ダビデがメフィボシェテに恵みを施したのは、勿論ヨナタンとの契約があったからです。しかし、ダビデの施した恵みは、その誓い以上のものでした。社会的には無価値であるどころか、お荷物であるとみなされていた者、しかも敵の血筋の者を「王の息子のひとりのように」扱い、王の食卓につかせ、まるで息子のひとりであるかのように扱ったのです。しかも、サウルの地所をすべてメフィボシェテに返したのだから、本当に驚くばかりです。血筋を絶やさないようにいのちを守るのと、「王の息子のひとりのように扱う」のとでは全く次元が違います。ダビデはメフィボシェテを、自分の子どものように受け入れたのです。

 キリストの救いとは、本来殺されるべき私たちが、神の子どもとされることですが、そんな私たちが神に対して何かお返しすることが出来るでしょうか。何も出来ません。私たちは全く受ける資格のない祝福を一方的に受けているのです。これを「恵み」と言うのです。メフィボシェテの受けている祝福は、メフィボシェテの資質や経験には一切関係のない「恵み」です。彼の過去を評価したわけでもなければ、未来に期待しているわけでもありません。何しろ「死んだ犬」ですから。死んだ犬はペットにさえする者はいません。繰り返し言いますが、血統書付きの訓練された犬ではありません。死んだ犬です。それをペットではなく、子どもにしようというのですから、神様は変わり者です。しかし、それが神の愛であり、神の方法なのです。

 ダビデは、自分自身が神からどのように扱われ、自分が何者であるかをよくわきまえていました。ダビデは、人の前に王であり勇士であっても、神の前には自分も「死んだ犬のような者」であることを知っていました。ダビデは、神がやがて登場するキリストの故に自分を特別に取り扱われるのだということを知っていました。それと同じように、ヨナタンの故にメフィボシェテを最大限の恵みによって取り扱ったのです。ダビデの祈りを見ればそれが感じられます(Ⅱサムエル7:18~29)

 このように、原則はけっこう単純ですが、人を取り巻く背景や感情は複雑です。よく考えてみてください。メフィボシェテは世が世なら王になっている血筋に生まれました。サウルの直系ですから、顔も二枚目だったでしょう。ところが、たまたま親が戦いに敗れたためにいのちは危険にさらされ、さらにたまたま乳母の不注意によって障害者となってしまったのです。王家の血筋に生まれたことがよけい彼の心情をかき乱すわけです。このような経歴を持つ人は、屈折したプライドを持ち、不遇を嘆くことが多いのですが、メフィボシェテはそうではなく、自分の現実を真っ直ぐに見つめ、ダビデの恩寵も素直に受け入れています。この姿勢は大事です。「信仰」というのは、実は特別なことがらではなく、「神が示された事実をそのまま受け入れること」なのです。

 この後に、同じような申し出を無効にしてしまうアモン人ハヌンの例があるので、比較してみるとよくわかります。(Ⅱサムエル10)メフィボシェテは王の子どもとして扱われたのです。「メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした」(Ⅱサムエル9:13)です。食事は毎日のことです。日々、王の食卓に預かること。メフィボシェテはそれを味わったのです。交わりを楽しんだのです。決して卑屈な気持ちで食卓についていたわけではないと思います。

 そんなメフィボシェテにいのちの危機が訪れます。祖父サウルの罪のために、ギブオン人へのサウルの子どもたちが引き渡されることとなったからです。しかし、「ダビデは、メフィボシェテを差し出すことを惜しんだ」と書いてあります。(Ⅱサムエル21:7)ダビデはメフィボシェテを引き渡しませんでした。ダビデは最後まで、ヨナタンとの誓いを守ったのです。

 このように考えてくると、「恵み」を施すダビデにも、「恵み」を受けるメフィボシェテにも、それぞれに乗り越えねばならない「壁」があることがわかります。ふたりが織りなした美しいキリストの絵は、ともに信仰によってそれぞれの「壁」を乗り越えたからこそのものであると私は感じています。「恵み」を施す立場にあったダビデも、「恵み」を受ける側にあったメフィボシェテも、さらに大きな「神の恵み」に抱かれています。この世における社会的地位や能力の違いは、ある意味歴然としていて、その立場によるすれ違いもあれば、力の差による評価にも段階があるでしょう。しかし、ダビデとメフィボシェテの父ヨナタンが敵対する立場にありながら、信仰によって結ばれていたように、そのような困難な状況の中で生き続ける契約と、それを受け入れる信仰が、最終的には勝利につながるのです。「それぞれの立ち位置から見えるキリスト」を仰ぐことが大事だと言えます。

 メフィボシェテが、ダビデ由来の祝福とサウル由来の苦しみの間を往き来したように、私たちもまたキリストに贖われ、子どもとされていても、アダム由来の罪に苦しみ、老いや病や怪我や障害や、さまざまな葛藤の中で苦しみながら死を迎えます。このからだが完全な死を通して贖われる日まで、その戦いは続きます。変わることのない圧倒的な勝利は得ていますが、劣勢に見えることもしばしばです。

 神は、私たちをいたずらに苦しめたり、死に至る悩みを経験させようとはされません。激しい愛と痛みをもって見守ってくださっています。その愛なる神の張り裂けんばかりの胸の内は、狂気のような母の愛として表現されています。(Ⅱサムエル21:10~14)。彼女は自分の息子たちのために、その亡骸が骨になるまで、鳥や獣に近寄らせないように、岩の上に荒布を敷いて座り続けたと書いてあります。(Ⅱサムエル21:10)聖書は感情表現や細かい描写を殺して、事実を淡々と書いています。しかし、この母の愛の迫力は、ものすごいものがあります。このリッパの愛は誰が与えるのですか。神です。神はこのリッパ以上の愛で、敗者や罪人の最期をご覧になっているのだと理解してください。

 さらに、メフィボシェテにはミカという息子がおり、ヨナタンの家はこの後も長く続いたことが系図として残っています。(Ⅰ歴代誌8:34~40)これも、また素晴らしい記録です。メフィボシェテという名前は「恥を一掃する者」という意味です。ダビデは、その名前のとおり、ヨナタンのゆえに、メフィボシェテによって、サウル家の「恥を一掃」しようとしたのです。

 神はご自身の愛によっても、決して義を曲げることは出来ません。ここに痛みがあり、苦しみがあり、悲しみがあり、死があり、十字架があります。しかし、すべての痛み、苦しみ、悲しみは、新しいいのちが産み出される大きな喜びに変わります。イエスはそれらすべてを打ち破ってよみがえられたからです。

2009年8月5日水曜日

8月1日 メッセージのポイント

バプテスマについて(特別メッセージ Live in 北見)

 今回は3人の姉妹たちの洗礼式のために私がわざわざやって来たかと言うと、私はそこに大きな意義を感じているからです。

 私も3人の姉妹たちのことを第三者に詳しく紹介できるほど知っているわけではありません。しかし、前回お会いした印象や証の内容からはっきりわかることは、「イエスに対する信仰があるということ」、そして「洗礼を受けたいと願っておられるということ」です。
 「現地のどこかの教会に任せておく」という方法もあるでしょうし、一番良さそうな集まりとつながりを作ることの方が大事ではないかとお考えの方もきっとおられると思いますが、私は全くそうは思いませんでした。
 今後3人の方にどのようなかたちの導きがあるにせよ、そこに私が干渉する気は全くありません。しかし、現時点において、既存のキリスト教会に通う人たちが度肝を抜かれるような救いやいのちの成長があるのだということを発信することに大きな意義を感じています。
 まさに、使徒の働きの時代のように、通りがかりのクリスチャンが「イエスについて」解き明かし、水のあるところで、信仰をもった人の希望に従って洗礼を施すというこのシンプルで原初的な救いの事実を作るようにと導かれていると私は感じています。そのためにやって来ました。

 明日の洗礼に先立って、聖書の中から洗礼、即ち、バプテスマについてともに学びましょう。
 まず使徒時代のバプテスマの記事を見てみましょう。
 約2000年前、ピリポはエチオピヤ人の宦官に洗礼を授けるために、主の命を受けました。彼は「立って南へ行け」と言われたのですが、私の場合は「北へ行け」という感じです。(使徒8:26~40)

 このエチオピヤ人の宦官とピリポとのやりとりからバプテスマに関する非常に大事な教訓をいくつも読み取ることが出来ます。導かれる側と導く側の作法を学びたいと思います。まず、宦官はみことばを知りたいと願っていました。しかも、その霊的なポイントは非常に良かった。見事に的を射た興味と疑問を持っています。(使徒8:32~33)そして、ピリポにはみことばに基づいてイエスのことを正確に解き明かす力があるということです。(使徒8:35)

 宦官はピリポにみことばの解き明かしと洗礼を求めています。それは、「道を進んでいくうちに」ということですから、短時間での即断即決です。その間、ピリポが勧めたり押しつけたりした形跡はいっさいありません。勿論、このバプテスマは、何かの制度や形式に則ったわけではなく、ただ双方の信仰による確信に基づいて、一切のこの世の権威や組織と関係なく行われています。
 「ピリポも宦官も水の中へ降りて行き」(使徒8:38)と書いてあるので、ここで行われたバプテスマは、その意味から考えても水を頭にかける「滴礼」ではなく、体全体を水に沈める「浸礼」だったと考えられます。洗礼を意味するギリシャ語は、「浸す」という意味だし、バプテスマ後から見る雛型としての霊的意味から考えても、水の中に完全に没することには意味があります。

 このような劇的な主のお取り扱いを経験するふたりですが、ふたりの間に人間的な強い依存関係は見受けられません、宦官がそれ以降もピリポに頼ることも、ピリポが自分の影響力を行使することもありません。もちろん、愛着や信頼はあったはずです。しかし、べったり粘着した湿った人間関係はありません。(使徒8:39~40)互いにみことばを仲立ちとし主を見つめて、相互の信頼以上に主への強い信頼の中でことを行っているのが伺えます。

 さらに、重要なポイントについて確認します。ここでのピリポのメッセージの中心は何でしょうか。「イエスのこと」です、(使徒8:35)
 聖書を読むこと、祈ること、礼拝に出席すること、献金や奉仕をすることについてですか。違いますね。洗礼準備会などと称して、くだらない教理を確認していますか。答えは勿論NOです。ピリポが語ったのは、あくまでも「イエスのこと」です。イザヤ53章からイエスの苦難と人格、その人としてのみわざに着いて語り、そこからはじめてはらに「イエスのこと」を語ったのだと書いてあります。「イエスのこと」をまるで語らない、ほとんど語れない教会が何と多いことでしょう。

 あらゆる点において、このピリポと宦官の記事は理想的な洗礼を受けるモデルケースだと私は思っています。本来こうでないといけないのです。
 バプテスマが、教会という組織の仲間入りの儀式であったり、その組織における宗教的奉仕のための資格であったりすることが実際には多いのに驚きます。さらに、導いたり、洗礼を施したりした人が、いつまでも施された人の信仰や人生に口を挟んだりすることも普通に行われていると思いますが、人を操る権利は誰にもないし、操られることを良しとする義務もありません。キリストの奴隷となっても、組織の奴隷や人の奴隷になってはいけません。

 一般的にバプテスマという表現はポピュラーではありませんが、「洗礼」ということばは、比喩として誰でも普通に使います。たいていは、「生涯に一度だけの儀式であること」から転じて、初体験、とりわけ「人生において一度だけ経験せねばならぬ、ほぼ一方的に他者からもたらされる、大きな体験」などの場合にととえて使われます。特に「ワンランク高いところの厳しさを味わうことによって、結果的にステップアップする」というような意味でよく使われています。「○○選手も、初登板でホームランを打たれ、メジャーの洗礼を受けました」など。
 信仰においても、「洗礼」という通過儀礼を経て、ステップアップしていくようなイメージを持っている人がおられますが、それは全く間違っています。
 もうひとつ面白いのは、教会に通い始めた家族を見つめるまなざしです。「別に教会に通うぐらいかまわないが、洗礼は受けてはいかん」というのを結構聞きます。これは、洗礼を通過すると、一線を越えてしまう。得体の知れないものとひとつになってしまうという感覚でしょうね。これは、ある意味当たってます。
 ローマ6章の前半はバプテスマについてパウロが語った箇所です。(ローマ6:1~10)、パウロが言っていることを整理してみると、まず、バプテスマは、「キリストにつく」という意味があり、それは「キリストの死にあずかる」ということです。
 水に完全に没することは、「私たちがキリストとともに葬られたこと」であり、水からあがったということは「新しい歩みがそこから始まるのだ」ということです。ここで注目すべきことは、「もし私たちがキリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら」(ローマ6:5)また、「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば」(ローマ6:8)というふたつの条件節です。

 もう少し丁寧に解説するとこういうことになります。
 神は私たちがみことばに従い水に没したことによって、「キリストとともに死んだものと見なした」のです。しかし、私たちが水に没したことをそのように見なさないなら、神が見なしたことは無効になってしまうということです。
 死んだ者は、罪や誘惑に関して一切の反応を失います。しかし、実際の私たちは罪を犯したくなくても罪を犯してしまう弱さを持っています。水から上がっても罪を犯します。だから、たとえ現実がどうであったとしても、「もう死んでいるはずの私のしたことは幽霊の屁みたいなものだから気になどするな」と書かれているのです。このあたりの葛藤と苦悩は、7章に詳しく書かれているとおりです。(ローマ7:7~25)

 パウロは、正確にはこういう表現を使っています。「このように、あなたがたも、自分は罪に対して、死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい」(ローマ6:11)
 パウロの言い回しを読めば誰でもすぐにわかりますが、これらのメッセージはバプテスマをこれから受ける人たちに対してではなく、すでに受けた人たちへのメッセージです。(ローマ6:3)つまり、バプテスマを受けたのに、その意味を正しく理解していない信者が多かったということです。
 ですから、再度確認します。水に没したことは、罪TO

 ペテロによれば、「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」(Ⅰペテロ3:21)と語られています。 言い換えれば、バプテスマを受けても肉体は汚れたままだと言っているわけです。「正しい良心」の反意語として「邪悪な良心」ということばがあります。(ヘブル10:22)「邪悪な良心」とは、簡単に言えば、「自分は駄目だ」「ふさわしくない」と自分にこだわって神から遠ざかり、自分の内側をのぞき込むことです。そうではなく血の注ぎかけを受け、きよめられた心で、約束された方の真実にすがって近づく姿勢こそが、正しい良心に基づいた信仰姿勢です。(ヘブル10:19~23)

 さらに、使徒たちによるこれらのメッセージは、バプテスマの教理に関する知識理解を正すものだとは思わないでください。知識理解ではなく、「生き方」です。ペテロは「生き方」にこだわっています。(Ⅰペテロ3:2,16)「正しい良心」と「正しい生き方」には関連があるのです。もちろんこの正しさは人間から来るものではないのです。知識ではありません。信仰の基本的スタンスです。
 バプテスマの意味さえちゃんとわからずに、信じたつもり、従っているつもりでいる人たちは、自分がすでに死んだことがわかっていないので、未だに自分の性格の弱さや、罪の問題に悩んでいる。だから、約束の安息にも預かることができす、復活の力も味わえないでいると指摘しているのです。
 ですから、これからバプテスマを受ける方も、すでに受けた方も、その意味や価値を今一度かみしめて、ともに味わいたいのです。

 イエスがご自身の公生涯のはじめに受けられたバプテスマを、みなさんはどのように評価していらっしゃいますか。(マタイ3:13~17)
 ヨハネは、自分がイエスにバプテスマを授けるのは変だと感じたのです。だから、そうさせまいとしたと書いてあります。でも、あえてそうさせてくれと願われたイエスのことばに従ったのです。このことにはどのような意味があるのでしょう。

 神が私たちのバプテスマをイエスの十字架上の死と同一視することは、それ自体不可能なことです。それを可能ならしめるのは、「イエスが」罪人の代表者としての資格を得るために、「イエスが」罪人が悔い改める際に受けるバプテスマを受けてくださったからです。泥水の中で溺れている人を助けるためには、自らも泥水に飛ぶ込む必要があります。悔い改める罪を持たない聖なる御方が、悔い改めのバプテスマを受けに来られたとき、ヨハネがとまどったのは当然です。しかし、イエスの覚悟と思いに触れて、ヨハネは受け入れました。ヨハネはどれほど厳粛な気持ちでイエスにバプテスマを授けたことでしょう。

 バプテスマが私とイエスをひとつに繋いでいるのがおわかりでしょうか。それはイエスが十字架によって、アダムがもたらした罪と死を終わらせてくださり、よみがえりによって新しい聖霊のあゆみを始めてくださるということなのです。私の信仰によって受けるバプテスマが、このイエスとの一体化をもたらすものであるということを知ることほど大切なことはありません。ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」とあります。キリストとの一体性を、「キリストの義の衣を着ている」「贖いに包まれている」と考えるとイメージしやすいのではないでしょうか。

 イエスが水から上がられると、聖霊が目に見えるかたちでくだり、父の承認の声が聞く者の耳に聞こえました。父が喜ばれるのは、御子です。父を満足させるのは、常に御子です。御霊によって歩む御子なので。バプテスマを受けている私ではありません。従う決意をした私ではありません。そのことが分かれば、この呼びかけや承認は、神の子としての特権を得た私に対する主の呼びかけとなります。よろしいでしょうか。なぜなら、私とキリストはひとつになるからです。これは似ているようで全く違います。

 バプテスマを、父・子・聖霊の名によって授ける意味を今一度考えてみて欲しいのです。(マタイ28:18~20)

2009年7月25日土曜日

7月5日 メッセージのポイント

ひねくれ者のための聖書講座 ⑥ 悪魔

「通り魔みたいに出来るだけ多くの人を傷つけ殺したかった。」
此花区での放火殺人の犯人である高見素直という容疑者は、逃げ隠れようともせず、自ら出頭して、そのような動機を語ったと報道されています。こういう男の歪んだ欲求を満たすために、死ななければならなかったのかと思うと、お亡くなりになった方々や御遺族の方々もいたたまれないでしょう。
実は、「誰もいいから傷つけたい」という衝動や、「自分に明るい未来が期待できないので、多くの人を道連れに堕ちていこう」という破滅的な思考パターンは非常に「悪魔」的です。勿論「火をつける」という行為は、犯人自身が選んだ道ですが、「魔がさした」という表現もあるように、そこには「悪魔」が働いているのです。

「悪魔」などというと、この科学の時代に何の戯言かと思われるかもしれません。私も最初は「悪魔」の話なんて馬鹿げていると思いました。漫画のイメージが先行して、架空の存在であるという思い込みが支配していたからです。しかし、「悪魔」は実在します。それは、まさかと思うような生きものがジャングルの奥地や深海に存在するように存在するのです。人間が納得するとか、理解するとかではなく、「いるからいる」のです。創世記を読めば、「悪魔」よりも先に神が登場します。哲学者が試みるような神の存在証明など全くなく、いきなり神が世界を創造しています。しかもそれは科学者が納得のいくような記述ではありません。神話は人が作ったものですが、聖書は「神が人を作った」と言っています。「神が人を作った」という話を人が作ったのなら、神を作ったのは人です。
しかし、実際には「神が人を作ったのか、人が神を作ったのか」というのは埒の明かない議論です。論じても答えは出ないので、結局のところ、「信じるか信じないか」の話になります。私は、聖書は人が作った神話ではなく、神が与えた啓示であると信じています。「人が書いた最も真理に近い本」だとは思っていません。「神が人に与えたメッセージであり真理そのものである」と思っています。私がそれをどう感じるかより、聖書そのものが何を言っているかが大事です。理解できないところも、退屈なところも等しく大切なのです。
人は聖書と向き合うとき、個々の事実の検証を積み上げようとします。つまり、それが信じるに値するかどうかを試すのです。納得し、理解しようとするのです。それは、決して間違った態度とは言えません。ただし、その態度を貫いていると、最終的に「信じる」という結論に至ることありません。なぜかというと、神や神の言葉である聖書は、初めから「信じるべきもの」であり、そのすべてについて、納得したり、理解したりすることは出来ないのです。別に対象が神であろうとなかろうと、大事な心の問題は証明出来ません。しかし、ある段階までの納得や理解は絶対に必要です。だから、このようなもってまわった言い方で時間をさいて話しているわけです。

この問題をさらにややこしくしているのは、キリストについて教えていると思われるキリスト教がキリストについての事実を語っていないということです。これが、前にも取り上げたキリストとキリスト教の問題です。共産主義者のキリスト教解釈を支えたフォイエルバッハという哲学者は、「神学というのは人間学」だと言いました。その通りだと思います。キリスト教は人の創作であって、信じるべきものではありません。信じるべきはキリストそのものなのです。神はキリストをこの世に送りました。キリストはいのちの木へと導く門です。しかし、悪魔はキリスト教を創作しました。これは善悪の知識の木のまわりをグルグまわらせ、荒野で死なせます。

さて、創世記によれば、最初の人類であるアダムとエバのふたりは、エデンの園からは次の世代を待つことなく追放されます。その原因を作ったのが「悪魔」です。「悪魔」は蛇に化身して現れ、人間に語りかけ、ことば巧みに誘惑し、人間に「善悪」を教えます。そして、神と人との間に溝を作り、人を「自立の道」へと誘うのです。私たちは神なきエデンの東で、どこから来てどこへ行くのかを知らずに、自分が何者で何をするべきかもわからずに、さまよっているというわけです。
人は「悪」とともに「善」が何であるかを知り、神なき世界で自主独立の道を歩み、自前の能力で文明を築きあげてきたところに、すべての不幸の原因があります。人は「悪魔」のそそのかしによって、神との交わりを失ったばかりでなく、私たちをそのような不幸へと導いた超本人である悪魔への憎しみを忘れてしまいました。「悪魔」は地上の神として、私たちの肉体の世界を、この時間と空間における権限を一時的な神から委託されています。これが聖書の教えるところです。この「誘惑のくだり」は、今日のメッセージの最後にもう一度触れたいと思っています。

しかし、科学という名の近代宗教が優位を占める世界観では、神や「悪魔」を意識の中から閉め出して物事を考えます。つまり、神や「悪魔」を追い出してしまうと、残るのは宇宙や自然ということばに象徴されるエネルギー、現象、法則、そして五感でとらえられるあらゆる物体としての宇宙や自然の断片です。こうして、宇宙や自然はほとんど神と同義語になり、「悪魔」や悪魔的要素もその中にごちゃ混ぜにして織り込まれています。こうして「悪魔」は神々の一部として、善の中にもぐりこんでしまうわけです。
さらに、感覚的な一体感や恍惚感を感じれば、「人は宇宙や自然の一部である」と主張し始めます。さらに、「神々が宇宙の隅々に満ちているなら、人は神々のようになれるのではないか」という錯覚に陥るのです。汎神論をベースにした人の生み出す宗教はおおむねこうした考え方の上に成り立っています。
また、善と悪がごちゃ混ぜに織り込また世界では、完全に善である神などは元から存在しないのだから、善も悪ととも同様に価値を失い、あらゆる存在は無意味だというもうひとつの極端な考えも生まれたりします。これが無神論の世界観です。

ナルニア国物語の作者として知られるC.Sルイスは無神論について、こう述べています。「もし、全宇宙が無意味だとするなら、それが無意味であることをわれわれは絶対知り得なかったはずである。それはちょうど、宇宙に光がなかったら、したがって、目を持つ生物が一つもいなかったら、われわれはそれが暗いということを知る由もなかったであろう。と言いうるのと同じである。その場合、暗いという言葉は全く意味のない言葉となるだろう。」だから、無神論は単純だとルイスは言うのです。かく言うルイス自身はガチガチの無神論者でした。彼は宇宙を無意味だと強く感じていた、人生に光を見いだせない暗い人でした。しかし、その無意味さ、暗さを強く感じるのは、まことの意味と光があるからだとわかったのです。
文学者であるルイスは、子どもたちのための優れたファンタジーを残しました。それを、あんなクズみたいな映画にしてしまうとどうしようもありませんが、彼の残した作品はすべて聖書がベースになっているので、彼が寓話の中で意味づけしたことをきちんと聖書と照らし合わせれば、その本来の意図やメッセージを理解できます。彼の作ったお話は、信仰のある人の子どもたちや、大人になって信仰をもったかつての子どもたちのための、かなり手の込んだ贈り物なのです。
ルイスが感じたように、エデンの記憶は善悪の葛藤となって人の心を責め立てています。その葛藤から逃げずに、考えることは、信じることと対立しません。「考えないで、信じなさい」というのは、頭の悪い牧師のことばです。聖書は言います。「よく考えないので信じたのでないなら・・・」つまり「よく考えて、それから信じろ」ということです。馬鹿は何でもすぐ信じます。でも、何かあるとすぐ捨ててしまう。それは信じたことにはなりません。それは、「土の薄い岩地に落ちた種」と同じです。種まきのたとえの中で語れています。詐欺まがいのくだらない教えに騙される人は、騙されていたことに気づいて被害者面をすると、いっそう馬鹿に見えます。しっかり考えないから信じてしまうのです。簡単に信じたりしないでよく考えてください。よく考えて「信じるしかない」と思えば、信じたものを失ったりしません。

神と悪魔に関する考えた方はいろいろありますが、悪は善の対立概念ではあり得ません。なぜなら、善はそれ自体が善であるがゆえに希求できるが、悪はそれがどこまでも悪であるという理由だけでは悪ではありえないのです。悪は単独で悪ではありえず、悪の本質は、善なるものを間違った方法で獲得しようとするところにあります。つまり悪とは動機や手続き上の問題であり、要するに「歪んだ善」「腐った善」とでも言うべきものだからです。実は、私はあるとき、そのことにはっきり気づかされました。この点についても、ルイスが物凄く面白い表現を使っています。「悪は寄生虫であって、原初的なものではない。悪が活動を継続できるのは、善から与えられた力のおかげである。悪人が効果的に悪を発揮することを可能ならしめているのはすべて、-たとえば、決断力、聡明さ、美貌、存在そのものといったように-それ自体は、善きものなのである」

 私が「ひねくれ者のための聖書講座」をやろうと思った理由は、まず私自身が相当ひねくれていたからです。正式なタイトルは「ひねくれ者によるひねくれ者のための聖書講座」です。キャッチコピーは、「ひねくれていない人は聴かないでください」です。今日はルイスのことばを引用しましたが、私はルイスの著作には本当に慰められたのです。ルイスは私に負けず劣らずひねくれ者だったからです。そのもってまわった言い回しや見事な比喩がかなりフィットしました。他にもパスカルやピカートやヒルティがお気に入りでした。私は昔も今も感情を鼓舞するような信仰書は大嫌いです。もう少し、私自身の話をさせてください。私は、はじめから信じたくてキリストを信じたわけではありません。神になんぞ救ってもらいなんて思ったことはないし、世界が神の救いによってフラットになるなんて、考えただけでもゾッとしたくらいです。十字架にかかって愛を示すなんて、自虐的で狂気じみた手段だと思いました。また、自分が十字架にかかる演出のために弟子の誰かが裏切るようなシナリオはセンスが悪いというかタチが悪いというか、どうにも馴染めませんでした。 しかし、一方で「神は不正かも知れない」という疑念をいだくほどの、かなりレベルの高い公正さをはかる物差しが私自身の心の中にあることを知っていました。しかも、そのような公正さを実現する力は自分にはありません。しかし、神なら公正たれという思いは強くありました。「世界を創った、治める、さばく」というのなら、きちんとやってくれ、やるべきだろうと強く思っていたわけです。
はじめて旧約聖書を読んだとき、そのシンプルすぎる記述の内容の重みに圧倒されました。特に、創世記の冒頭の数章の乱暴さには絶句しましたが、読み進んでアブラハムのあたりまで来ると、少しずつ印象が変わってきました。先程言った「神は公正であるべきだ」という訴えに関して、私よりすでに何千年も前に、アブラハムがきちんと神に直談判する場面が、かなり詳細に描かれていたからです。そのくだりを読んだときに、私の心の霧がすっと晴れたのを感じました。それは本当に驚くような内容です。(創世記18:16~23)神がソドムとゴモラを滅ぼす前に、アブラハムにそのことを知らせます。すると、アブラハム身内のロトとその家族を救うため、神にとりなします。「世界をさばく御方は公儀を行うべきではありませんか」という言い分です。つまり、良い人と悪い人の住んでいる町を丸ごと滅ぼすような乱暴なやり方は神にふさわしくないと意見したわけです。では、その町に正しい人が何人いるだろうとアブラハムは考え、具体的な数の交渉に入っていくのです。
ここで、アブラハムの持っている正義感は公正さの基準はどこからやってきたのだろうと思ったわけです。神はアブラハムにとりなさせることによって、義と愛を教えたかったのではないかと悟ったのです。そして、この記事を読んだ者にも、アブラハムのようであることを願っておられるのだとわかりました。私たちに残されている良心のもっともピュアな部分は、非常に神の思いに近いものです。逆にだからこそ、私たちは、その良心がきよめられなければ、善悪の葛藤に苦しみ続けるのだということも見えたのです。

最後に誘惑の場面に戻ります。(創世記3:1~7)結局、悪魔のまどわしのパターンは決まっています。まず、悪魔は神のことばを語るということです。神のことばをそのまま繰り返して、それは本当かと考えさせるのです。(1)第2に、人間の欲望や願いをくみ取って、そこに彼自身の思いを混ぜます。(2~3)神の人格に対する信頼を揺るがせ、神のことばの正反対の結果に導きます。(4~5)
人は、私たちの五感に訴えかけてくるものを神のことば以上にリアルに感じてしまいます。それは神がそのようなバランスで私たちに感覚をお与えになったからです。神のことばそのものが、神への人格への信頼抜きにして、それ自体が官能的であったり、拒絶するすべを持たずに暴力的にコントロールするものであるとすれば、人間ははじめから神の奴隷かロボットです。神と交わり、神の人格を味わい、神に信頼していきていくものとして与えられた神のかたちに対して、あなたも善悪を知って目を開かれれば神のようになれるとそそのかすのです。「悪魔」は、蛇に化身して語りかけ、自分の本来の姿を示しません。使っているのは神のことばです。鍵は神のことばをどう解釈するかというよびかけなのです。キーワードは、「目が開かれる」「神のようになる」「善悪を知る」です。確かに人は目が開かれ、善とともに悪を知りました。自分の中にある明らかな悪と、果たし得ない遠いところにある善を知ったのです。そこで、腰におおいを作り、神から隠れました。神のようにはなれませんでした。

「悪魔」は、今日も同じやり方で、人をいざないます。イエスは「悪魔」を「偽りの父」と呼びました。「・・・・なぜなら、彼は偽り者であり、偽りの父であるからです・・・・」(ヨハネ8:43~47)

2009年7月5日日曜日

7月5日 メッセージのポイント

神の箱とダビデ(ダビデの生涯と詩編⑦)
         Ⅱサムエル6章 Ⅰ歴代誌13~16章
           
A 神の箱とは
   神の臨在にポイントが置かれた表現(ヨシュア記以降)
    「契約の箱」・「あかしの箱」・「主の箱」
  ○ モーセの時代に作られ、至聖所におかれた
  ○ アカシヤ材に金をかぶせて作られている(ちょうど日本の御輿のようなかたち)
  ○ 中には十戒の石板 アロンの杖 マナのつぼ
  
B ダビデの思惑
  ○ エルサレムを統一イスラエルの首都として、政治と礼拝の拠点にしたい
  ○ 神の箱の運搬で祝福を手中にしたい。(自分はサウルとは違う)
  ○ 代表者たち、会衆の同意を得て、劇的に演出したい
  ○ 神にも認めていただける みこころに違いない

C ウザの割り込み
  ○ 神の箱はずっとウザの家にあった
  ○ ウザが物理的に触ったことが問題ではない
  ○ どうして牛はよろめいたのか
  ○ ウザの割り込みは地名になって事件は語りつがれた
  ○ 神の怒りの対象

D ダビデの悔い改め
  ○ 私はどうして私のところに神の箱をお運びできましょうか(Ⅰ歴代誌13:12)
  ○ レビ人のケハテ族しか運搬にたずさわる事は出来ない(民数記4:15)
  ○ 肩に担がねばならない(民数記7:9)
  ○ 私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったから(Ⅰ歴代誌15:13)
  ○ あなたのみわざを静かに考えよう(詩編77:4~12)
      
E 踊るダビデ
  ○ 力の限り踊ったダビデ・・・かたちにとらわれない自由な礼拝
  ○ 6歩進んだときに生贄・・・不完全な歩みを赦す贖い
  ○ 亜麻布のエポデ・・・王としてではなく、一礼拝者としての賛美

7月5日 神の箱とダビデ (ダビデの生涯と詩編 7 )

 「聖地エルサレム」などという言い方をします。ある時期にはこの地を手中に治めるために、人はたくさんの血を流しました。いわゆる聖地争奪の争いです。こんな都市は世界中でこの町をおいて他にありません。エルサレムはご承知のように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教の聖地とされ、第2次大戦後に再建されたイスラエルとパレスチナや周辺アラブ国との確執はしばしば報道されるとおりです。今日も各種宗教のごった煮状況で紛争も絶え間なく、混沌としたイメージがあります。
 一番大事なことは、ダビデがキリストのモデルであるように、エルサレムは新エルサレムのモデルだということです。キリストのモデルとして見ないならダビデはただの歴史上の人物であるように、エルサレムを新エルサレムのモデルと見ないなら、エルサレムはロンドンやパリというような世界の一都市にすぎません。今日は、そのエルサレムを、特別な場所(神の臨在と祝福があふれる聖なる都市)にするため、「神の箱」(契約の箱)を運ぶというお話です。
 「神の箱」には4つの呼び方があり、場面よって使い分けられています。まず、「契約の箱」。次は「あかしの箱」。そして「主の箱」。最後が今日出てくる「神の箱」という言い方で、これはヨシュアの時代以後表現です。治められている契約そのものよりも、神の御臨在にポイントが置かれているからでしょう。「神の箱」はモーセの時代に作られ、会見の幕屋の至聖所に置かれ、そこから主はモーセに語られ、大祭司アロンが年に一度イスラエルの贖罪を行なったと伝えています。イメージしていただくために、もう少し補足説明すると、「神の箱」は、アカシヤ材という材で作られています。長さ約1.1m、幅約66cm、高さ約66cmで、純金をかぶせ、肩にかついで持ち運ぶために左右に2個ずつ金の環を取り付け、金で覆った担ぎ棒を差し込んであります。まるで、日本の御輿そのものです。箱の中には律法の象徴である十戒を書き記した2枚の石の板が収められました。後になってアロンの杖とマナのつぼも治められました。
 さて、そのダビデの時代に話を戻しますが、この当時のエルサレムはエブス人の町であり、異教徒の都市でした。ダビデは、このエルサレムをイスラエル統一王国の首都とするため、そこを政治・軍事の中心とするだけでなく、礼拝の拠点とする必要がありました。そこで、ダビデは自分を王位に導いた神の臨在の象徴である「神の箱」を、エルサレムに運んで来ることで、その権勢を確固たるものにしたかったのです。自分はサウルとは違うという自負があったでしょう。神の約束によって王位を得て、神の祝福によってその王権を確立するのだと宣言したかったのです。ですから、ダビデが王に即位してまず真っ先に取りかかった事業が、この「神の箱」の搬入でした。まさに国家的プロジェクトとして実行に移すわけです。ダビデはこの事業を出来るだけ劇的に行おうと考えたようです。この事業の決定に関しても、ダビデの鶴の一声ではなく、異例の民主的手続きをとっています。まず代表者たちと協議し、丁寧に全会衆の賛同を得ています。(Ⅰ歴代誌上13 :1~2)

 「ダビデは再びイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上ろうとして、自分につくすべての民とともに出かけた。神の箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名で呼ばれている。彼らは神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していた。丘の上にあるアビナダブの家からそれを神の箱とともに運び出したとき、アフヨは箱の前を歩いていた。ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で力の限り喜び踊った」(Ⅱサムエル6:1~5)

 凄く華やかな光景です。3万人の精鋭部隊です。(Ⅰ歴代誌12:23~38)しかも、この精鋭部隊は、誠実な心で並び集まって、心を一つにしてダビデを王にした武装兵士たちの中の選りすぐりです。契約の箱を載せる車も新しいものをあつらえました。車を御すのは、これまで神の箱を安置していたアビナダブ家の子どもたちです。音楽隊も大いにムードを盛り上げています。弦楽器や管楽器(歴代誌にはラッパの記述あり)打楽器の音に合わせて、全イスラエルが、王とともに神をほめたたえ、賛美の歌声が高らかに響いています。何事もうまく行くかのように思えました。しかし、ここで思わぬ事故が起こったのです。運搬中に、牛がよろめいて大切な「神の箱」が落ちそうになったのです。その時、御者のひとりであったウザが機転を利かし「これはいけない」とばかりに、あわてて手で押さえようとしたところ、神に打たれて即死するという事件です。

 落ちそうになった「神の箱」を反射的に受け止めようとしたわけですから、良いも悪いもないではないか。むしろ褒められることはあってもどうして殺されなければならないのかと理解に苦しまれる方もおられるかもしれません。しかも、たまたまウザは後ろにいて、同じ仕事をしていた兄弟のアフヨは前にいたのです。ウザがずいぶんかわいそうな気がします。アフヨがいい奴で、ウザが嫌な奴だったのでしょうか。いろいろ不思議に思います。 
そもそも、神の箱をエルサレムに運ぶのがみこころなら、どうしてここで牛がよろめくんでしょうか。
何が神をここまで怒らせたのでしょうか。神はただ気まぐれにご機嫌を損ねられたのでしょうか。物理的に箱に触れたから、電気ショックのように心臓が停止したのでしょうか。イスラエルの人たちも、ダビデもこの出来事をただの事故、偶然の変死とは見なしませんでした。神の怒り、神のさばきとして、またメッセージとして受け止めました。この事件を聖書は「ウザによる割り込み」と表現しています。(Ⅰ歴代誌13:11)それは、その場所の地名にもなって出来事も語りつがれたでしょう。

 その日ダビデは神を恐れて言った。「私はどうして、私のところに神の箱をお運びできましょうか」(Ⅰ歴代誌13:12)とダビデは告白しています。
 まさに、ダビデは自分のところに、神の箱を「祝福の道具」として運ぼうとしたのです。これが根本的に思い違いであることを知らされ、ダビデは恐れます。神は常に私たちの原因であり目的である御方です。決して私たちが何かを得るための、私たちが幸福になるための手段とは成り得ない御方だということです。たとえそれが、私ではなく、国家が安定して平和であるためであったとしても・・・です。

 直接打たれたのはウザでしたが、打たれるべきはダビデでした。そして、ダビデに賛成したイスラエルの全会衆だったわけです。このことについて、もう少し丁寧に見ていきましょう。この事件には、今日にも通じる大きな意味と教訓があります。
 「神の箱」は、神の人との契約の象徴です。それは本来、会見の幕屋の至聖所に置かれるものです。決してダビデの王権の象徴ではありません。ましてや、ペリシテ人をはじめとする諸外国に対して軍事的なキャンペーンをするための道具ではないのです。  律法によると、神の箱はレビ人のケハテ族だけが運搬に携わることが許されていました。(民数記4:15)さらに、箱の下の四隅に取り付けられた金の輪に竿をさして肩に担がなければならないと厳密に定められています。(民数記7:9)
 ですから、ダビデが準備すべきだったのは、3万人の精鋭部隊ではなく、レビ人のケハテ族4人だったのです。あれほど人の力を嫌い、自分の思いを退け、主によって王位についたはずのダビデですが、この時は明らかに油断や慢心があったのでしょう。ダビデは、決してみことばを侮っていたわけではありません。しかし、「神を礼拝すること」に関して、「神の聖ということ」に関して、一番大事なポイントを外していました。それは簡単に許されることではなかったのです。

 ダビデは、自分が神によって立てられた王であることのお墨付きとして、自分の町に神の箱を置いて、そこで国家的な礼拝が組織しようと考えました。そして自分の頭で考え、自分の力で、この事業を行ったのです。先にも見たように、この事業の決定についても、代表者と協議し、会衆の同意を取り付け、民主的に事をすすめますが、神は二番目でした。「もしもこのことが、あなたがたによく、私たちの神、主の御旨から出たことなら・・・」と確かにダビデは言っています。全集団は同意し、すべての民がそのことを正しいと見たと書かれています。(Ⅰ歴代誌13:1~4)しかし、敵を攻めるときのように、「主にうかがった」とは書かれていません。主にうかがったのなら、主がそうせよと命じられたのなら、代表者との協議や、会衆の意見を確認する必要はないのです。なぜ、ダビデはそれを怠ったのでしょう。ダビデの頭にはまずこの事業の成功が頭にありました。「それは悪いことであるはずがない」という思い込みがあったのです。新しい車を作ったことは、確かにダビデの敬虔さや心構えの現れです。ただ神の箱を運べばいいという横着さはないと思います。しかし、たとえ車が新しかろうが、お金をかけて作ったものであろうが、牛に牽かせて車で運ぶのは、異邦人が自分たちの偶像を運搬する方法だということです。実際にペリシテ人が神の箱をイスラエルに返した時に取った方法と同じものです。

 ダビデは、恐れてすぐには神の箱を運び直そうとはせず、オベデ・エドムの家にそれを置きます。神の箱がおかれた彼の家と彼に属するすべてのものが祝福されたのを見て、ダビデはもう一度神の箱を運びました。ダビデはこの3ヶ月の間に自分の慢心や油断を振り返り、罪を悔い改めました。そして、今度は正しい方法で神の箱を運搬するように命じています。(Ⅰ歴代誌15:2,12~15)
 ダビデは神の怒りが燃え上がったのは、「わたしたちがこの方を定めのとおりに求めなかったから」(Ⅰ歴代誌15:13)であるという結論に至っています。そうなのです。私たちが祝福されるのも、されないのも、このみことばの法則に従っているかいないかです。「ダビデだから祝福される」「良いことだからうまくいく」のではないとうことです。結果的に言えば、誰が賛成しようが、反対しようが、神の箱がエルサレムに運ばれることは神のみこころだったと言えるでしょう。
 確かに、福音を伝えること、神を賛美することは、みこころにかなっているでしょう。しかし、その動機や方法が問題です。キリストの名を自己実現の生活の手段にしているのは誰ですか。自分の安心や満足のために奉仕や伝道をしてはいませんか。それらすべてはウザの割り込みであって、神の怒りの対象だということを今日の箇所は厳しく、鋭く警告しています。
 これだけの厳しい訓練を受けて、いよいよ王位につこうというダビデが立ち止まらされたのです。神の臨在というのは、それほど厳粛なものだということです。私は、以上のような理由で軽薄な聖会だの代表者の協議を経た一致団結などを、心の底から嫌悪し、霊の痛みをもって拒否しているのです。もし私のメッセージを聞いて、心の奥底にアーメンがあるなら、直ちにそうした穢れたものからは離れるべきです。

 神への礼拝や奉仕は、人間の側の熱心や敬虔さによって成り立つものでありません。人間がどれほど熱意をもって奉仕に取り組み、礼拝を捧げたとしても、それがそのまま神に受け入れられ喜ばれるものではありません。神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません。当時は、神の箱を担ぐにはレビ人が必要でした。しかし、今はどうですか。その資格を自称する現代の使徒・預言者の力が必要ですか。「レビ系の祭司職は終わった」とヘブル人への手紙の記者は言います。メルキゼデクの位に等しい大祭司とは誰でしょう。イエスです。私たちがイエスの血以外の何かによって近づくとき、神の聖さが私たちを滅ぼしてしまいます。偶像を運ぶ人が偶像を運んでも実害はありません。しかし、クリスチャンを自称する者が、偶像を運ぶ方法で神の臨在を運ぼうとするなら、運び手は神に打たれます。

 ウザのことがあっただけに、「神の箱」が無事にエルサレムに運び上げられたことは、ダビデにとって大きな喜びだったでしょう。同時に物凄く大きな責任を感じていたはずですから。ダビデは嬉しさのあまり、民衆を前であることを気にせず、王としての威厳を捨てて、裸で踊ってその喜びを全身で表現します。「力の限り踊った」(Ⅱサムエル6:13)と書かれています。後のミカルのことばにもあるように、どうやら、それは身内でさえ嫌悪するような醜悪さだったようです。ただ単に服を脱いでいたことだけではなさそうです。こう考えると、いわゆる宗教儀式における見せかけの荘厳さや、もったいぶった形式とは無縁な自由さが、このエルサレムにおける最初の礼拝にはあったことがわかります。
 ダビデをとんだりはねたりして踊らせたのは、無事神の箱をエルサレムへ運び上げられたという満足感ではありません。赦されている喜び、神のみことばに従う中で、罪深い私が聖なる神の臨在にあずかれるという喜びなのです。なぜ、そう言えるのでしょうか。ダビデは、かつぎ手が6歩進んだときに、生贄を捧げたました。(Ⅱサムエル6:13)なぜ、6歩ですか。6は不完全さを表す人の数字です。不完全な人の歩みを赦してくださり、完全に贖ってくださる血を象徴した生贄でした。さらにダビデは亜麻布のエポデを身につけていました。これは、神の臨在の前に王としての立場ではなく、一礼拝者として賛美しますというダビデの告白なのです。最後に、このときダビデが組織した音楽隊が歌った賛美を見てみましょう。(歴代誌16:7~37)アサフに賛美させたこの歌は、ウザの割り込みの後に作ったものでしょう。特にダビデが過去のあゆみを振り返り、もう一度立ち直る心の動きを歌った箇所は心を打たれます。(詩編77:4~12)この歌の中ではワンフレーズでサラッと歌われるだけですが、背景には主の御前でのダビデの霊の葛藤があったことが伺えます。(Ⅰ歴代誌16:11~12)

2009年6月30日火曜日

6月28日 罪と罰 (ひねくれ者のための聖書講座 5 ) 

 足利事件の再審が決まりましたね。検察が先に謝罪するという異例の展開となっていたわけですが、その決め手は、無実の人を犯人にしたDNA鑑定の最新の結果だというから皮肉なものです。「最新」の結果が「再審」を決定させたのです。

 無罪放免が決まったとしても、誰がどんなかたちで管家さんの失われた日々を贖うのでしょうか?「無罪でした。ごめんなさい」で名誉回復というわけにはいきません。この過ちをつぐなうことなど誰にも出来ないことです。管家さんの前に当時の責任者や関係者が涙を流して土下座して謝ったなら、多少は気が晴れるでしょうが、それだけのことです。そのことによって、どれだけの悔しさや苦しみや悲しみを埋め合わせることができるでしょうか。

 私の願うところは、こうした冤罪事件を通して、当人や関係者はもちろん、この事件に興味をもった方々が「究極の冤罪事件」であるイエスの十字架に触れてくださることです。
 イエス・キリストほど不当な手続きによって、何の罪状もないのに極刑にされた人はいません。彼の罪状は、「人でありながら自分を神だと主張した」というものです。これが、ユダヤの指導者たちを不愉快にさせたわけですが、死刑の最終決定を出すことのできるローマ総督のピラトは、それはユダヤ人の宗教上の問題なので私はさばけない。さばきたくない。イエスには罪はないと言って、何とかイエスを釈放しようとしますが、ユダヤ人の指導者たちに扇動された群衆が暴動を起こす勢いだったので、ついに最終決定をくだしてしまうのです。
 「人でありながら自分を神だと主張したイエス」の、その主張が嘘なら、荒唐無稽な嘘をついたために不当な手続きで殺されたかわいそうな人だということになりますが、もしその主張が本当なら、つまりイエスが本当に神なら、人は不当な手続きによって神を殺したのです。

 聖書は、それが神の予めの計画であり、イエスが冤罪で死ぬことが人の罪の贖いになるのだと言っているのです。これは信じられないような驚くべきメッセージです。つまりイエスは十字架にかかるために生まれ、十字架にかかることによって、この世の罪を示すと同時にこの世を贖ったのです。人は、善悪の基準では神を正しくさばけませんでした。イエスも人の罪の世界を善悪ではさばきません。十字架によってさばかれるのです。

 もし、管家さんがイエスと出会い、この御方を自分の救い主として受け入れることがあれば、彼が負った傷は「全く違う意味」を持って輝きを放ち、ものすごく高い価値と意味を持つことになるでしょう。
 管家さんのようなひどい目に逢う人はめったにいません。こういう人がたくさんおられたら大変です。しかし、少しでも彼の身になって考えてみれば、人が人を裁く手続きの難しさや罪と罰についていろいろと考えさせられるはずです。今日は「罪と罰」という主題で、ひねくれたお話を進めていきたいと思っています。
 管家さんと同じ目に会うことはなくても、自分は何もしていないのに人からマイナスの評価を受けたり、自分の正当な主張を受け入れてもらえなかったり、人間としての尊厳をふみにじられるようにして居場所や時間を奪われたりといった擬似的な体験は、私たちの廻りに意外とたくさんあるのではないかと思います。
 勿論、逆の立場で人を責めたり追い立てたりすることもあるでしょうが、私たちの置かれた立場や受ける仕打ちが理不尽で不当なものであればあるほど、「正義」について、また正義を取り繕う「偽善」について、また「罪と罰」について多少なりとも考えるものです。
 管家さんも、「警察や検察にはきちんと謝ってもらいたい」と厳しい口調で訴えておられましたが、やはり悪いことをした人にはきちんと「謝ってもらいたい」し、かたちだけの謝罪ではなく、「心から反省して欲しい」と思うのは当然のことでしょう。

 一方では、「管家さん自身がもともと周囲の人に合わせてしまうきちんと自己主張のしにくい人だった」というような報道や言説がなされています。まるで冤罪を生んだ背景として、管家さんにもその責任の一部があったかのような言い分ですが、これは全く本質から離れた意見です。世の中には気の弱い人やしっかり自分の言い分を伝えられない人がたくさんいます。そういう人たちの権利を十分に守れなかった手続きの問題なのです。冤罪被害者にもそのした間違いを生んだ要因があるなどというのは、本末転倒のとんでもない言いがかりです。
 裁判員制度も本格的に導入され、私たちも好むと好まざるとに関わらず、裁きの場に立ち会わなくてはならぬようになりました。「罪と罰」が他人ごとではなくなってきたのです。
 
 聖書の中にも、人の心の中にある「罪と罰」の意識と具体的な法手続きとが絡み合う場面が出て来ます。
 ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女が出て来る比較的有名な箇所です。(ヨハネ8:1~11)
 「自分たちの社会にあるふしだらな行為は許せない」というのではなく、イエスを陥れるための罠として彼女の罪を利用した特殊な場面設定ですが、私がいつもこの箇所を呼んで思うのは、「どうして相手の男が一緒にいないのか」ということです。普通に考えれば、この策を練ったグループと相手の男は何らかのかたちでつながっていたのではないかと想像されます。あるいは、女を差し出すことで男だけが免罪されるという条件を飲まされたかどちらかでしょう。

 今日の日本社会では、「浮気は甲斐性」「不倫は文化」だとなどと言って、ちょっと眉をひそめられる程度になっていますが、当時のユダヤ社会での、こうした淫らな行為は死罪に当たるものでした。しかし、当時のユダヤはローマ帝国の統治下にありましたから、実際の死刑執行権はローマが握っていました。ですから、もし、律法に従って、「女を石で打て」と言えば、ローマの権威を侮ったことになるし、ローマに権威に服して、「女を石で打つな」と言えば、律法を無視したことになります。ユダヤの指導者たちは、このような巧妙な罠を仕掛けられたことにと得意になっていたことでしょう。
 人々の注目と尊敬を集め始めていたイエスをこの現場に立ち会わせることで、どちらを選択してもどちらかを否定しまうことになるという問題を突き付けたわけです。
 さて、イエスの反応はどうだったでしょうか。
 イエスは反論することなく、身を低くして地面に何かを書いておられました。人々の目には、答えることに窮して追いつめられた姿と見えたでしょう。「してやったり・・・・」と自分たちの作戦の成功を確信して問い続ける指導者たちの顔は、イエスにとっては、直視するに耐え難いものだったのかも知れません。
 イエスが地面に何かを書いておられたのかは、あきらかにはされていません。しかし、このような場面でイエスの秘められた心のうちを知りたい。イエスはどんな思いでいらっしゃったのか、何を伝えたかったのかを思いめぐらすことには意味があるでしょう。

 彼らが問い続けてやめないので、イエスは言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)
 罪には楽しみや快楽も伴うものです。ときにそれは甘い誘惑となります。人はそれがいけないとわかっていても道をふみはずし、罪を犯してしまいます。罪は相手を傷つけ、自分をも傷つけ、家族や周囲の人たちをみな傷つけます。
 ですから、罪を憎む気持ち、悔やむ気持ち、またその罪に対して罰を求める気持ちは誰にでもあるのです.。そこで、社会が被害者に変わって罰や制裁を加えることで、秩序を保とうと様々な約束事を作ってきたのです。
 しかし、実際の罪をさばく手続きやその執行のかたちは、一度犯されてしまった罪のダメージを完全に回復させることなど出来ないし、事件に関わるすべての人を決して満足させるものではないことも知っています。これは、いつの世の中でも同じです。この場面ではどうでしょう。ユダヤの社会には律法がありました。しかし、その律法よりも、ローマの法が事実上権威をもっていたのです。そこに横たわる矛盾を神に問い、逆に神に問かえされたのがこの場面です。この箇所には「罪と罰」の問題の本質が凝縮されています。

 イエスのことばを聞いた人々はみなその場から立ち去りました。年長者から順にひとりひとり出て行ったと書かれています。(ヨハネ8:7)
 誰も女に石を投げられなかったし、誰かが投げるのを見るのも辛かったのでしょう。今日、裁判員になって、重大事件に関わって判断したくない。凶悪犯にでも死刑判決などを出したくないという心理と非常によく似ています。
 しかも、年長者からひとりずつ立ち去って行ったのです。
 年を重ねるごとに、人は罪を重ねます。日頃は無自覚であって自分のことは棚上げしていたとしても、条件が揃えば、人の心には必ず自分の罪と向き合うように出来ているのです。自分の罪を知っているのも、それと向き合うことが出来るのも自分だけです。

 人が女を罪に定めないのと、イエスがこの女を罪に定めないのは違います。人がこの女に石を投げられないのは、罪の本質においてこの女と五十歩百歩の同罪だからです。ところが、イエスには全く罪というものがありませんでした。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)とイエスが言われた意味は、「罪がないのなら、石を投げることが出来ます」という意味ではなく、「誰も彼女に石を投げることなんか出来ないでしょう」という意味です。「義人はいない」つまり「神の前に完全に正しい罪の無い人など誰もいないんですよ」という意味です。義人はイエスおひとりだというのです。ですから、イエスだけがこの女を石で打つ権威をもっておられます。しかし、イエスはあえてそのあり方を捨ててこの女の汚らわしい罪をご自身の身に負われるのです。その覚悟のことばです。さらに言えば、イエスは、罪の当人以上にその罪の本質を知っておられ、そして憎んでおられるのだということを忘れてはなりません。
 この御方が関わってくださることを信じ、この御方の光の中で明らかにされる自分の罪を正直に認めるなら、私たちはその信仰のゆえに罰を免れます。そうでなければ、自分の罪の自分で負い、自分の罪の中で死ぬだけです。(ヨハネ8:23~24)イエスのことばを聞いて心の罪を責められ、自分の家にそれぞれ帰っていった人たちは、自分の罪の中で死ぬだけです。しかし、一番罪深いと思われたこの女は、イエスのもとに留まり、イエスのことばを受け入れ、イエスの救いを受け入れたので救われるのです。「女はそのままそこにいた」(ヨハネ8:9)イエスは語るべきひとことを語られた後は、再び身をかがめたと書いてあります。誰がここから立ち去り、誰が残るのかを腕組みして見守っておられたのではありません。
 この女もその時群衆に紛れてその場を立ち去ること出来たはずです。しかし、女は自分意思でそこにいたのです。イエスのひとことは、この女の心にも届きました。四方八方から石つぶてが飛んできて殺されるイメージが襲ったでしょう。言い訳しようのない現行犯としてとらえられ、自分の罪を否応なく意識していたその中で、自分を責めたてる人たちを追い払ってくれたのです。
 女はこの予期しなかった時間の中で、イエスにさばきを託し、自分自身をゆだねようと覚悟を決めたのでしょう。このとき、この女の心の中でおこったことが、彼女の永遠を変えました。この女は何かイエスに問いかけたり、言い訳したりしたでしょうか。女は自分の罪と向き合いながら、黙って聞いていたのです。イエスが身をおこして、「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と問われたとき、女は「だれもいません」と答えています。欄外脚注を見れば、原文には「主よ」という呼びかけがあると書いてあります。彼女はイエスを主として受け入れたことがわかります。

 イエスをためして問い続けてやめなかった指導者たちは、イエスからことばを聞いたとき、そこに留まることを嫌って立ち去りました。帰っていく「自分の領域」というか「自分の居場所」があるという思い込みがあるからです。女にはもう逃げる場所がなかった。こう感じることが出来たことは、実は感謝なのです。多くの人はイエスに従わない領域、ニュートラルな場所があるのだと思っていますが、実はイエスに従わないでいることは闇の中にいることなのです。
 「神がいるなら」と神を試すことをやめましょう。神に己の罪を隠すのもやめましょう。聖書は私たちの罪を指摘して、ちょっとでも罪を犯すことがないように正しい生活を送りなさいと教えているのではありません。神は人を罪の中に誕生させた責任をとって、自らを罰したのです。それが十字架です。この世のご自身の血で贖って、この世界のいっさいの不合理、矛盾にけりをつけられたのです。このことを知っているか、知らないか、受け入れるか、受け入れないかでは全く人生が変わります。このことは、最も価値のある情報だと私は信じています。

6月14日 メッセージのポイント

ダビデ王の誕生とその周辺(ダビデの生涯と詩編⑥)
                 Ⅱサムエル1~4章
           
A 登場人物
  ○サウル・・・・・・・・イスラエルの初代王。
              ペリシテとの闘いで悲惨な最期をとげる。

  ○イシュ・ボシェテ・・・サウルの息子。
              サウル亡き後王位を継承するが、アブネルの傀儡。
            
  ○アブネル・・・・・・・サウルの将軍。
              ヨアブの弟アサエルを殺し、ダビデとの講和を求めるが、
              交渉半ばでヨアブに殺される。

  ○ヨアブ・・・・・・・・ダビデの将軍。
              弟アサエルを殺されたことに恨みを持ちアブネルを殺す。

  ○アサエル・・・・・・・足の速いヨアブの弟。
              内戦においてアブネルを執拗に追い、返り討ちにあって戦死。

  ○ミカル・・・・・・・・サウルの娘でダビデの元妻。
              イスラエルとの和平の条件として取り戻す。   

B ダビデとその周辺人物の違い
 1 ダビデは羊・・・・・・自分の力で獲物を追う
 2 獅子や狼ではない。
         主の養いによって保たれ、羊飼いを求めていた。
  ○ダビデの遺言・・・・・ヨアブを殺せ(Ⅰ列王2:1~6)

C ふたつの詩編に綴られたダビデの心
  1 詩編37編・・・・・・あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。 
               主が成し遂げてくださる。(5
               主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
               おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対
               して、腹を立てるな。(6)
  2 詩編145編・・・・・すべての道 すべてのみわざ (17)

6月14日 ダビデ王の誕生とその周辺 (ダビデの生涯と詩篇 6 )

 今日はサウルの死後、ダビデがまずユダの王となり、それからイスラエル全土の王になるまでの7年半の間に、ダビデとその周辺でおこった出来事や、人物にスポットを当ててお話します。このあたりの出来事や登場人物について、よくご存じの方も、あまり馴染みのない方も、よく聴いてそれぞれのキャラクターや関係性を整理してください。

 まず、イスラエルの初代王サウル、そしてサウルの死後王位につく息子のイシュ・ボシェテ、将軍アブネル、そして、ダビデと将軍ヨアブ、その弟でアブネルに殺されるアサエル、ダビデが取り返すサウルの娘ミカルなどが主な登場人物です。

 サウル王の死は、いよいよ王位に着くときが近づいたことを意味していました。しかし、サウル王が死んだことを聞いても、ダビデは単純に喜びませんでした。自分のいのちを狙い、苦しめ続けてきた人間がいなくなったのですから、ほっとした気持ちが全くなかったとしたら、それは嘘になるかも知れませんが、サムエル記の中には、ダビデが喜んで「いよいよ王位が近づいた」と息巻いている姿は出て来ません。

 どうしてもダビデの引き立て役のような役回りを演じてしまうサウルですが、その最期も非常に惨めなものでした。絶望の中で自害するのですが、死にきれませんでした。激しいけいれんに襲われ、苦しみながら、最終的には異邦人に介錯を求めました。これはユダヤの王、軍人である者にとっては、最大の恥辱だったでしょう。その悔しい心のうちを察することが出来ます。

 サウルの最期を見取ったその男は、良き知らせを届けたつもりでしたが、ダビデは逆に怒って彼を殺しました。ダビデはこう言っています。
「主に油注がれた方に、手を下して殺すのを恐れなかったとはどうしたことか。」(Ⅰサムエル1:14)
 このことばはダビデの一貫した姿勢を表している重要なことばです。
 ダビデはサウルの手を逃れて国中を逃げ回り、結果的には国外にまで落ち延びますが、サウルの力に怯えたことなどありません。ガチンコ対決したらいつだって負けることなどなかったでしょう。ダビデが恐れたのは、サウルに油注がれた主です。王としては不適格で、自分のいのちをねらい続けるサウルをあえてそのまま王として扱っておられた主の摂理に服していたのです。ダビデは、理不尽な仕打ちや、理解できない展開に疲れ、傷つくことはあってもサウルに対しておじけずいていたわけではないのです。

 ダビデには勝てないのに、力ずくで殺そうとしたサウルと、勝とうと思えばいつで勝てるのに、あえてそうしなかったダビデ。ふたりが見つめているものは全く違っていました。
 ダビデの心にあったのは、主のみこころが実現することでした。単にサウルが死ぬことや、自分が王位につくことをのぞんでいたわけではありません。ダビデがサウルとヨナタンの死を悼む哀歌を読むと、不思議な気持ちになります。有能な戦士であり、竪琴奏者でもあったダビデの心意気と、彼の経験や人格を通して聖霊が豊かに語ってくださっているのを感じます。(Ⅱサムエル1:19~27)

 サウル亡き後、ダビデもアクションをおこします。しかし、軽はずみに自分から王位を宣言したりしません。その時カナンの南端に近いツィケラグに居たダビデは、これからどうしたらいいかを主にたずねました。「ユダの一つの町に上っていくべきでしょうか」主の答えは「上って行け」です。ダビデはどこへ上って行くべきかをたずねます。「ヘブロンに上って行け」と主から答えがありました。 
 もしヘブロンではなく、当時の首都であったギブアに上るなら、それは彼が王になりたがっている野心だと人々は理解したはずです。ダビデは、当然そういう可能性も考慮に入れて、「ユダの一つの町に上っていくべきでしょうか」と主に伺いを立てたのでしょう。主の答えは「ギブアへ」ではなく「ヘブロンへ」だったのです。この主のことばによって、ダビデは「王になるべき自分の時はまだ来ていないという」主からのメッセージを受け止めたはずです。

 ヘブロンはエルサレムから南西32㎞に位置しており、エルサレム、ガザ、ベエルシェバ、紅海の方面にのびる四大交通路の分岐点にあたる交通の要所であり、古くから栄えたユダの中心部でした。その地でとれるブドウは優良種として有名です。
 そして、ヘブロンはイスラエルの父であるアブラハムが亡くなった妻サラを葬るためにヘテ人エブロンから買い取った地所です。かつてアブラハムはここに天幕を張り、祭壇を築きました。アブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長とその妻たちであるサラ、リベカ、レアの墓もあります。そして、何よりこの町はユダ族に属し、あやまって大罪を犯した人たちをかくまう「逃れの町」でもありました。
 そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油を注いでユダの家の王としました。ユダの人々は主のみこころはよそに、ただ単純に、サウル亡き後はダビデしかないと思って集まって来たのです。 

 一方、首都ギブアでは、サウルの息子イシュ・ボシェテがサウルの後継者として、王位を継いでおりました。イシュ・ボシェテとは、「恥(ボシェト)の人(イシュ)」(恥さらし、面汚し)という意味です。本名はエシュ・バアルといいます。欄外に書かれているのが本名で、歴代誌にはちゃんとその名で記されています。(Ⅰ歴代8:33)ちなみに本名のエシュ・バアルは「神の子」の意味です。(Ⅱサムエル2:8~9)

 ギルボア山での決戦でペリシテ軍に大敗を喫したイスラエルですが、その後、ユダ族はヘブロンに戻ったダビデの許に集まり、彼に油を注いで「ユダの家の王」としました(Ⅱサムエル:1~4)残りの部族は、ヨルダン川東岸マハナイムへと拠点を移した将軍アブネルのもとで、サウルの子イシュ・ボシェテを「全イスラエルの王」とするのでした。ギルボアでの敗北以後、イスラエルはペリシテの属領となったため、サウルに続くイシュ・ボシェテ政権は、ペリシテの実質的な力が及ばないヨルダン川東岸のマハナイムで言わば、亡命政権のようなかたちで樹立されることになります。

 しかし、サウルの子イシュ・ボシェテはあくまでもお飾りであって、将軍アブネルが実権を握っていました。傀儡政権というやつです。これに対し、ヘブロンでユダの王になったと言っても、ダビデは敵国ペリシテの家臣にすぎませんでした。

 この時点では、まだイスラエル全体はペリシテの占領下にあり、独立した王国ではありません。そんなイスラエルの一部族にすぎないユダの王になったといっても、敵にとっても大した驚異ではなく、むしろ、ペリシテによる支配の延長と見なされていたようです。
 とは言え、イスラエルにしてみれば、ひとつの国に二人の王が擁立されたことになりそれはそれで大問題です。その結果、サウルの家とダビデの家の間に内戦が起こり、激しい闘いが続きますが、ダビデの軍が優勢だった様子が書かれています。(Ⅱサムエル2:17)

 この内戦においてダビデ軍の将軍ヨアブの弟である韋駄天のアサエルが、敗走するアブネルを執拗に追いかけた末に、逆にアブネルの返り討ちにあって戦死します。ダビデの将軍ヨアブはそのことを深く恨んでいました。(Ⅱサムエル2:18~23)

 一方、サウルの亡命政権の実権を握っていたアブネルですが、サウルの側女リツパと通じていました。それを王であり、サウルの子であるイシュ・ボシェトが非難したのは当然です。もちろんそれはふしだらなことですが、イシュボシェテは別に、道義的責任を追求する気はあまりないのです。むしろ、実質的に王権を奪おうという企みが見えたからでしょう。日本の摂関政治と同じですが、王の嫁や娘をめとるという行為の背景には、王位継承者であることの主張があります。(Ⅱサムエル3:6~11)ダビデは後にサウルの娘ミカルを取り戻しますが、それも、愛情というよりはおそらく戦略上の判断でしょう。

 イシュ・ボシェテは、アブネルに頭が上がりませんでしたが、対ペリシテ戦略を考えると、ダビデと敵対するよりは、取り入った方が有利だと判断したようです。やがてアブネルは、やがてイシュ・ボシェテを見限ってダビデと良い関係をもって操ろうと考えたのです。そんなアブネルの魂胆と行状を見切っていたダビデは、かつて娶っていたミカルを返すことを交換条件として提示します。これを交渉に来たアブネルだけでなく、王であるイシュ・ボシェテに使いを送って言わせました。(Ⅱサムエル3:12~16)この当たりの交渉術を見ると、ダビデは戦士としてはもちろん、政治家としても一流であったことがわかります。
アブネルよりも一枚上手だったダビデは、別に策を弄したわけでもなく。寛大な気持ちでアブネルを歓迎しますが、ダビデの将軍ヨアブはそれが気にいりません。「ネルの子アブネルが、あなたを惑わし、あなたの動静を探り、あなたのなさることを残らず知るために来たのに、お気づきにならなかったのですか」(Ⅱサムエル3:25)と言っています。ヨアブはダビデには断らずに自分の判断でアブネルを殺します。ヨアブは忠臣を装っていますが、本音は将軍の地位を脅かすであろうライバルの芽を断つことそして、何より兄弟アサエルの恨みをはらすためでした。(Ⅱサムエル3:26~27)
今日は、ダビデとダビデの周辺の人たちとの「信仰の違い」と「主のお取り扱いの違い」をしっかり見て欲しいのです。サムエル記を単なる「国盗り物語」や「軍記物」のように表面を追う読み方も出来るでしょうが、それだけでは十分ではありません。ダビデの信仰やサウルの不信仰だけでなく、「主のお取り扱い」に注目しながら注意深く読みたいものです。そのような視点で、もう一度整理してみましょう。

 まず、内戦でアブネルに殺されたヨアブの弟アサエルを思い出してください。アサエルは足が速く、そのことに物凄い自信を持っていたことがわかります。アブネルはアサエルを殺すことを嫌い、忠告を与えますが、アサエルは執拗に追い続けたのでした。ダビデの王アブシャロムも、自慢の髪の毛が木に引っかかって、それが殺されるきっかけとなりました。自分の美しさや力や富に頼る者は、それに裏切られます。

 ダビデの将軍だったヨアブと、サウルの将軍であり、サウル王家の実権を握るアブネルは、このアサエルを巡って遺恨を深めるわけですが、このふたりの確執からも、ダビデは一歩退いたところにいます。

 アブネルは野心家であり、策士でもあり、頭もキレました。イシュ・ボシェテを立てたものの、このままサウル家に仕えても、ダビデに勝ち目のないことを悟っていたからです。そこで、和解を申し出るわけですが、ダビデについておいて、少しでも自分の影響力を保とうという策略です。

 ダビデの将軍ヨアブは有能な軍人です。異邦人との戦いに数々の輝かしい戦績をあげ、ダビデ王朝の基盤を築き上げた功労者であることには間違いありません。しかしヨアブの心はダビデとは違っていました。主に頼るよりも、何でも自分の力でやりくりするタイプでした。敵を滅ぼすためには、勇猛果敢に、時には卑怯な手を使っても、容赦なく立ち向かいました。

 ダビデは歴戦の勇士ではありますが、彼が見ていたものは、ふたりの将軍とは全然違います。アブネルやヨアブが狼や獅子なら、ダビデは羊です。ダビデは少年時代から、いつも羊飼いである主の姿を追い続けてきました。

 サウルを殺す機会がありながら、ダビデはあえて手をくだすことをしませんでした。サウルが死んでも、それを喜ばず、ひたすら主の時を待ちます。自分の力で無理やり幸運を引き寄せようとするのではなく、神が実現してくださるのを待ち続けてきました。その結果、サウルの将軍アブネルも、サウルの後をとったイシュ・ボシェテも、ダビデが直接手をくださずに死んでしまいます。そして、サウルの死から7年後6ヶ月後に、ダビデは全イスラエルの王となるのです。

 ダビデはこう言っています。「ツェルヤの子(ヨアブ)らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。」(Ⅱサムエル3:39) 信仰によらずに、ことを推し進めようとするヨアブは、たとえ力強い味方であっても、ダビデの心からの信頼を得ていなかったことがわかります。

 そして、極めつけはこのことばです。(Ⅰ列王2:5~6)
 「ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように言いつけた。」その中でヨアブについて指示します。『あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルのふたりの将軍、ネルの子アブネルとエテルの子アマサとにしたことを知っている。彼は彼らを虐殺し、平和な時に、戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけたのだ。・・・彼のしらが頭を安らかによみに下らせてはならない。』」ビデはソロモンへの遺言の中で、自分に仕え続けたヨアブを殺せと命じたのです。

 このダビデの遺言の中にあるヨアブへの評価は、極めて公正なものとして注目に値します。ダビデはヨアブがアサエルのことで憎しみを燃え上がらせたように、ヨアブを恨んでいたわけではありません。ダビデは息子アブシャロムの件については触れず、アブネルアマサの件についての罪を指摘しているからです。
 いわゆるキリスト教の理解では、「アブネルは悪者、ヨアブは良い者、その心はダビデの味方だから」みたいなメッセージもあるようですが、このことばを見る限り、それは間違いであることがはっきりわかります。

 ヨアブは、アブネルとは似た者同士。お互いの腹は容易に読めるし、それだけに赦しがたい相手なのでしょう。エルサレムを攻めたとき、真っ先にエブス人を撃ったのも、ダビデの命令に従って、その意味を問うこともなく、ウリヤを殺したのも、自分に代わって将軍となったアマサを殺したのも、ダビデの息子アブシャロムにとどめを刺したのもヨアブでした。

 行動の動機が全く信仰と関係ないなら、かたちだけダビデに仕えても駄目です。たとえ、結果を出したように見えても、それは主がヨアブを使ってご自身のみことばを成就させただけであって、それは、ヨアブの信仰の結果ではないのです。
 
 自分で自分の未来を有利に切り開いていこうとせず、自分の思いを十字架につけ、みことばの成就を待ち続けるとで、主への絶対的な信頼を明らかにしたダビデの思いが、詩編の中に綴られています。

 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て
 おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
 悪を行う者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。
(詩編37:1-9)

 主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。
 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。
 また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。
 すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。
 私の口が主の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。
(詩篇145:17-21)

 自分の力に頼り、策をめぐらし、有利な展開を切り開こうとすることは、主の最善の計画が実現されることを阻みます。

 現実生活の中で単純にみことばの約束の実現を待つことは、実はそれほど簡単ではありません。多くの人が力を持てあまし、己を過信し、神のいのちによらず、神のことばによらず、勝手に計画を立て、巨大なプロジェクトを実現するために、多くの汗や血を流し、崩壊と破滅に向かっていくのです。

 ダビデにならって、みことばの約束をしっかりにぎり、主を愛し、主を求め、主の御手にゆだねることが大切です。

2009年5月26日火曜日

5月24日 罪について (ひねくれ者のための聖書講座 ④ )

 「これが聖書の教えだ」と言われて面食らうことのひとつに、「人は生まれながらに罪人だ」というのがあります。いわゆる「原罪」と言われるものです。今日の講座では、この「原罪」について少しばかり考えてみたいと思います。キリスト教のイメージというと、別に犯罪を犯したわけでもないのに、罪人だの何だの言ってウジウジ懺悔したり、ジメジメ祈ったりしている感じがしませんか。(ちなみに私は今でもそう思っていますが・・・)実際の聖書のメッセージはもっとクールでドライです。ハッキリ、スッキリしています。しかし、この「ウジウジ」「ジメジメ」といった感覚も、ある意味では、犯罪でない罪に対する反応としては、一時的には当然のものです。今日のメッセージでは、できれば、そのあたりの感覚をうまく伝えられたら・・・・と願っています。

 他人様の迷惑になるようなことをせず、自分のことは後回しにして家族を愛し、日々勤勉に仕事をし、慎ましく生きてきた善男善女に、いきなり「あなたは罪人ですよ」と言ってもなかなかピンとこないどころか、反発を買うのが関の山です。黒地に白で、「悔い改めよ」などという広報をしても、世間の感覚ではドン引きです。確かに神の前に悔い改めることは必須事項ではありますが、脈絡もなくみことばの断片を突き付けても、何の意味もありません。
 聖書は、「何かやましいことや隠れた罪があるでしょう」「はたけば埃も出てくるんじゃないの?」みたいなことを言っているわけではないのです。神はそんなイヤミな御方ではありません。
 また、神父さまに懺悔したり、牧師さまに悩みを相談したりなどというキリスト教的な光景も、信仰とは何の関係もないものです。そんなものはセキュラーなカウンセリングや占いやと同じです。私たちがいちいち申告しなければ、私たちの犯した罪や隠れた罪がわからないような神なら、そんなものが存在したとしても、別に役にも立たねば、恐ろしくもないでしょう。また、全知全能の神を紹介しながら、神に何か不自由でもあるかのように、神と人の間に割って入る存在とはいったい何なのでしょうか。このように、多くの場合、キリスト教のやっていることが、罪のイメージを歪め、聖書の教えを曲げて伝えているわけです。

 法に触れる犯罪を犯した人は、裁判にかけられ、有罪となれば、社会から隔離され、処罰されます。しかし、神様など存在していない世界でも、罪を十把一絡げにまとめて断罪したりはしません。例えば、同じ殺人でも、殺意があったのかなかったのか、計画的だったのか、責任を負える能力があるのか、動機に情状酌量の余地があるのかないのかなど、様々な段階をもうけて判断する柔軟な姿勢と慎重さがあります。先週始まった裁判員制度も、さまざまな意見や批判はあるものの、そうしたより公正で合理的な手続きを目指して取り入れられたものです。犯罪に対する社会の対応は決して十分とは言えませんが、法が適応される範囲においては、かなり繊細なものだと言えましょう。そして、罪に対して罰を与える最大の目的は、法によって社会の秩序が可能な限り守られるためです。

 あらゆる種類の法律は、共同体や共同作業が円滑に機能するために作り上げた約束事がベースになっているのですが、裁かれない「罪の意識」や「被害者の感情」というものに対しては、当然のことながら応えきれません。先程申し上げた「犯罪ではない罪の問題」に社会は無力なのです。私たちが深い悩みを抱えたり、時に心を病んだりするのは、法の逸脱にはあたらない、社会的には裁かれない罪が原因です。つまりそれが原罪です。

 するべきことがわかっていて、したいと思っていることがあるのにそれが出来ず、その気がないのに、嘘をついたり、傷つけたりしてしまうのが人間です。そういう人間が抱えている本質的な罪については、法は無力です。宗教は、こうした良心の呵責につけこんで、さまざまな教えを最もらしく語ります。宗教は、犯罪ではなく、原罪を勘定に入れた事業また商売だと言えます。

 では、聖書はこの点について何と言っているのでしょうか?
 「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし、私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。」(ローマ7:19~21)
 これはすごいことばです。私はやりたくて悪を選んでいるわけではない。つまり罪が「原理として」罪を犯していると言っているのです。原理というのは、そうなるべくしてなるという因果関係のことです。つまり人は罪を犯さざるを得ないわけです。

 これは、極めてストイックな生活を自らに強いて生きてきたパウロの告白です。デタラメに欲望に任せて放蕩してきた人の述懐ではありません。理想が高い人は現実がその基準に満たないことをよく知っています。プロ野球楽天の野村監督は、「理想と現実のギャップがボヤキ」なんだと言っています。思い描く理想に現実は遠く及ばないことを大抵の人は知っているはずです。しかし、だからといって、そのことで罪人として生き方を転換するほどの深い悔い改めを強いられることには、抵抗があるはずです。 
 なぜなら、私たちには「罪を犯した」という自覚症状がないからです。「基準に届かない」という認識は「私は罪を犯した」という感覚とは違います。しかし、聖書が私たちの罪を指摘するのは、「私は罪を犯したという感覚」ではなく、「基準に届かないという認識」を持てということなのです。これだと少しわかりやすくないですか。この基準を聖書では「法律」ではなく、「律法」と呼んでいますが、律法を持たない異邦人にも、神がインプットされた「良心」という機能において共有しうる感覚です。

 野球が好きなので、野球の例ばかりで恐縮ですが、4割にも届きそうな驚異的な打率を誇るイチロー選手でも、逆に表現すれば6割以上は凡打だということです。神の基準を言えば全打席ヒットを打たないと失格」つまり罪人というようなものなのです。人間の身体能力と野球というスポーツのルールを考えると、イチローは天才打者であって、人間としての身体機能を野球というスポーツにあわせて鍛え抜き、その可能性を限界まで突き詰めた人だと評してもいいでしょう。
 ですから、私たちの世界で「あの人は立派な人だ」「高僧だ」「聖人だ」などと言っても、所詮は3割打者のレベルだということです。勿論打率が2割台の平均的なプレイヤーと3割バッターは格が違うし、イチローともなれば、さらにその上です。
 しかし、聖書が「義人はいない。ひとりもいない」と言うとき、本当に一人もいないわけだから、神様の眼鏡にかなう「いい人」「立派な人」になってやろうという試みは、全く無駄だとわかります。神の要求する基準を満たすことは、100%不可能だからです。

 私たちは、この世に生を受けたと同時に自動的に罪人となりました。私が男であることも、日本人であることも、20世紀に生まれたことも、私は一切選択していません。それは私ではない何者か・・・私の存在を保障する主権者である神が、ある時代、ある地域に、ある家族の中に、私を男として、私を置いたのです。従って、私には責任がないし、なぜお前は男なんだ。どうして日本人なんだと責められる必要などないのです。
 同様に、罪人が罪を犯してしまうのは当然です。それは、「犬がワンとなくようなもの」です。これをパウロは「原理」だと表現したのです。ですから、神は私たちが罪人として生まれることを許しながら、私たちが罪人であるという理由で罰することは絶対ありません。

 では、神は私たちの何を責められるのでしょう。神は「私たちが罪人であること」を責められるのではなく、私たちがその罪のゆえに「神の存在を否定し、神の呼びかけを無視し、神の救いを受け入れないこと」を責められるのです。
 人間社会の中における法の逸脱行為やそれに対しての懲罰の経験は、罪の赦しの問題とは関係ありません。私たちは犯罪者を指さして、「私はあのような罪人ではない」と言いますが、そのような意識は、自分の罪を神の前に棚上げしているに過ぎません。それは、私たちの中にある原罪が顕在化しただけです。具体的に犯罪を犯していることも、犯していないことも罪人の「ある状態」を示しているに過ぎません。

 こんな譬えはどうでしょう。コップに水と泥が入っています。安定したテーブルの上に一定時間置いておけば、泥は沈殿し、上澄みの水はきれいに見えます。しかし、コップを手に持って揺らせば、とたんに水は濁るでしょう。澄んでいる水も、濁った水も、コップの状態にともなった視覚的な情報であって、コップの中に泥が入っているという事実そのものは変わらないのです。私たちのコップの中の状態はテーブルの安定度によって左右されているだけなのです。

 イエスが肉体をもってこの地上におられたとき、救いを受けた人たちの多くは、売春婦や取税人など、当時の社会からはみ出していた人たちでした。彼らは一般の人たちよりも、罪を意識しやすかった、つまりコップの泥がはっきりわかる人たちだったわけです。しかし、安定したテーブルを得ている人たちは、自分のコップの水は、泥水ではないと言い張ったのです。しかし、彼らのコップの中身が泥水にすぎないことは、イエスというどこまでもきよい御方を憎み、拒み、十字架につけることによって明らかになりました。
 「イエスの十字架を信じる」すなわち、キリストを受け入れるということは、私たちが、「もうひとつ別のコップを持つ」ということです。「コップを洗って中身を入れ替える」というよりは、コップそのものを破棄するイメージです。私のたとえでは、検尿に使った紙コップを水洗いして、おしいくビールを飲める人という感覚の人を聖人と言います。聖人と呼ばれる人の怪しさは、この拭いきれない小便臭さにあるわけです。

 人は罪それ自体を責められませんが、「罪は赦しがたいものであること」を認めなければなりません。
 「義人はひとりもいない」と主張する聖書はイエスにこう語らせています。
 「あなたがたのうちにだれか、私に罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか」(ヨハネ8:46)
 イエスは自分の罪に鈍感、無感覚なのでしょうか?
 姦淫の現場で捕らえられた女を責め立てる群衆に向かって「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:10)と静かに一喝された御方です。
 イエスが私たちと同じような罪を持った「ただの罪人」であったなら、全く聞くに値しません。しかし、イエスがこの証言どおり「罪のない人」なら、すべての問題がほどけるように解けていきます。
 人間の罪深さは、正しい人イエスと、その正しい人が受けた身代わりの罰を見ることによってわかります。
 イエスの正しさは、すべての生まれながらの罪人の罪を肩代わりするための資格を表すものです。
 聖書はこう言っています。
 「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、-それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
 「もしひとりの人の違犯により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物を豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違犯によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」(ローマ5:17~18)

 誰も神の前に真実であることは出来ません。そして、そのことは神がよく知っておられるし、それを理由に人を責めたり、裁いたりなさいません。何度も言うように、私たちは生まれながらに罪人だからです。しかし、私たちの誰もが出来ることがあります。それは、「神が真実であること」を告白することです。つまり、イエスは私たちと全く同じ人としてのからだを持ちながら、私たち誰もがもっている原罪がなく、そのゆえに、私たちの身代わりとなり得たこと、私たちの身代わりとなって死に、よみがえらたこと。その事実を信じ受け入れる者は、すべての罪を赦され、神の子としての特権を得て、永遠のいのちを得るということです。その約束が実現するのは、確かなことで、私たちの信じる力や誠実さではなく、神のことばであるがゆえに、キリストの贖いの完全さのゆえに、間違いなくそうなると聖書は告げるのです。このように見てくると、私たちが罪をもって誕生したことは、神との深い絆を結ぶための布石であったことがわかります。神を拒むことも、神を信じながらウジウジ、ジメジメすることも、的を外しているわけです。
 こんなところで、第4講座、「罪について」を終わります。

2009年5月11日月曜日

5月10日 メッセージのポイント

主によって奮い立つダビデ(ダビデの生涯と詩編⑤)
        Ⅰサムエル27~30章


A サウルは神秘体験が豊か
 ○預言者の一団と出会って激しく預言の霊を受ける
                (Ⅰサムエル10:10~12)
 ○ダビデの出現によって悪い霊の影響を受ける
                (Ⅰサムエル18:10~11,19:8~10)
 ○預言の霊を受け、裸で倒れる(Ⅰサムエル28:3~20)

B ダビデは霊の人・サウルは肉の人
 ○黙っていても心が違う(Ⅰサムエル10:25~27)
               (詩編37:7,39:7~9)
 ○御霊の実はイエスの人格の表面化(ガラテヤ5:16~25)
           The fruit of the Spirit【KJV】
 ○ダビデとサウルの対立は必然
   
C 主の不思議な配剤①
         (Ⅰサムエル29章)
 ○ダビデに押し迫った厳しい状況
 ○ペリシテ首長たちの反対によって救われる
   
D 主の不思議な配剤②
         (Ⅰサムエル30章)
 ○町を焼き払われ女たちを奪われる
 ○味方からもいのちを狙われる
 ○主によって奮い立つ
 ○案内役のエジプト人

E イエスの苦しみ
 ○サウルの苦しみとダビデの苦しみ
 ○ダビデの苦しみとイエスの苦しみ(詩編31:9~22)

5月10日 主によって奮い立つダビデ (ダビデの生涯と詩編 ⑤ )

 このギョウカイ、「癒しだ」「預言だ」「しるしだ」「不思議だ」と盛んですが、そんな占いや手品やイリュージョン、もしくは、自己啓発や三流のカウンセリングをやって人集めをしているうちに、ついに膿が出て、ご承知のようにとんでもない醜態をさらしています。教会は、「世の光」どころか「夜明けの行燈」、「地の塩」どころか「幼児向けの砂糖菓子」となっています。しかし、一方では人手によらないまことのエクレシアがあります。これは、誰かが狼煙を上げたり旗を振ったりして組織したり、同じ価値観を浸透させたりというようなムーブメントではありません。
 こうした、ふたつの流れは、アベルとカイン、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウというように、霊と肉、あるいは、信仰と宗教というふたつの道のモデルとして描かれてきました。
 さて、簡単なクイズです。ずっと見てきているサムエル記の中で、大きく取り扱われているイスラエルの初代の王サウルとダビデですが、いわゆる神秘体験、言い換えれば、キリスト教的な「しるし」「不思議」を多く経験したのはどっち? 

 答えは、サウルです。

 サウルは神秘体験の豊かな人でありました。サムエルに油注がれた後、サムエルのことばどおり、サウルは預言者の一団と出会い、激しく預言の霊を受けました(Ⅰサムエル10:10~12)

 ダビデの出現によって、主からの悪い霊にも度々悩まされます。(Ⅰサムエル18:10~11)(Ⅰサムエル19:8~10)

 ダビデを追って、サウルはラマのナヨテという町に行く道中で再び、預言の霊を受け、一昼夜裸のままで倒れていました(Ⅰサムエル19:19~24)

 サムエルが死んだ後は、心のよりどころを失ってさらに混乱し、霊媒師によって死んだサムエルの霊を呼び起こし、その霊と話をしています。(Ⅰサムエル28:3~20)

 主から新しい人に変えられる約束をいただきながら、自分の価値観にとどまり、感情に振り回され、その結果、悪い霊を受け、挙げ句に悪いとわかっていて自分で追い出した霊媒や口寄せに悩まされるサウルの姿は本当に哀れですが、残念ながらすべて自業自得です。

 一方、ダビデですが、彼にはサウルが経験したような種類の神秘体験は全くありません。このことは、しっかり記憶しておくべきことです。ダビデこそが「霊の人」、サムエルは「肉の人」です。 
 サウルが求めたもの、経験したことは、基本的に自分の感情を刺激し、高ぶらせるものです。約束された御方に対する人格的な信頼を置いていたダビデとは、求めているものが、本質的に異なっています。
 サウルは、終始主を見なかった人です。沈黙していても、主を仰ぎつつ黙したダビデとは違う印象を受けます。(Ⅰサムエル10:25~27)(詩編37:7)(詩編39:7~9)

 こうして、サウルとダビデを比べれてみれば、神秘的な体験をした人が必ずしも霊的な人ではないということがはっきりわかります。勿論、不思議やしるしは決して否定すべきもではありません。しかし、神の人格を信頼せず、みことばを無視して、しるしや不思議を求めるのは、本末転倒というものです。重要なことは、しるしや不思議ではなく、御霊の実を結ぶことなのです。(ガラテヤ5:16~25)
 ここに記されている御霊の実(ガラテヤ6:22)は、複数形ではなくて、単数形です。そして霊は大文字です。the fruit of the Spiritつまり、個々バラバラの徳ではなく、ひとりの人、イエスという御方の人格の現れだということです。ですから、これらの徳目が、私たち個々の人格を高める要素にはなり得ないということです。努力していい人になるための目当てが書いてあるわけではありません。
 しるしや不思議があったとしても、それが、イエスという御方の人格にふさわしいものかどうかということが判断の基準になるでしょう。冒頭にお話した、キリスト教会があげてきた滑稽なアドバルーンや、バラまいてきたクーポンつきの下品な広告は、いずれもイエスという御方のセンスや品性に全く似つかわしくないということが、「イエスという御方と本当に交わったことがあれば」すぐにわかるはずだと、私は思うのです。

 サウルがダビデに対立したのは必然といえます。同じように、サウルの道に追従する者はダビデの道を進む者に敵対するのです。それは、今日までずっと続いています。サウルは自分の満足を求めましたが、いつも不満を持ち、不安でいっぱいでした。ダビデは、自分の満足を求めませんでしたが、いつも満たされており、平安でした。この箇所を読みながら、肉の欲望を満足させるために生きたサウルと、御霊によって歩こうとしたダビデとを思い描いて当てはめてみてください。

 聖霊の満たしや、神の臨在というのは、いわゆる感覚的な神秘体験を意味しません。これは、クレオパたちが復活したイエスご自身と直接会話しながら、それと気づかず、気づいた時にはイエスは消えていたという場面を取り上げたときにもお話したとおりです。大事なのは、みことばです。みことばこそが、霊でありいのちです。逆説的な言い方をするなら、「みことばほど不思議なしるしはない」と私は思います。

 後半は、ペリシテ人の領地に逃れて、言わば、落ち延びて暮らしていたダビデの姿を追っていきましょう。ダビデは自国内で逃げ場を失ってペリシテ人の王の下で亡命生活をしていました。(Ⅰサムエル27;1~7)
 しかし、やがてペリシテ人がイスラエル人の間の緊張が高まると、ダビデもその部下たちと共にペリシテ軍の後軍として参戦せざるを得ない状空気になってきました。(Ⅰサムエル29:1~7)
 これは当然ダビデの本意ではありませんが、心ならずも同族を攻撃しなければならない局面を迎えます。ところが、ここで何が起こったでしょうか。ペリシテ人の首長たちがダビデの参戦に反対したのです。前にはイスラエルが、後ろにはダビデが後軍としているのだから、もし、ダビデが裏切ったなら、ペリシテはイスラエルにはさみ撃ちにされてしまいます。彼らの立場や考え方からすれば全うな主張です。ダビデが仕えていた王アキシュは、ダビデの平素の態度を見て深く信頼していたので、「ダビデが裏切るはずがない」と弁明しましたが、首長たちは納得しませんでした。
 人間的は首長たちの強い不信感が、王の信頼に勝ってしまったのですが、結果的には、このことによってダビデはイスラエルと戦わずにすんだのです。主はぺリシテ人の首長たちの判断や意見を通して、ダビデを窮地から救われました。このように、私たちは、大きな大きな主の御手とみこころなの中にいます。私が何も企てなくとも、「私の計画よりも主の導きが遥かにまさる」と心から信じて自らの人生を委ねているなら、このように敵の判断や、さまざまな状況を有利に展開してくださるのです。
 私も、大きなことではありませんが、いつもこの種のことは体験させてもらっています。理屈ではなかなか納得しない私の性格を主はよくご存じなので、その配剤の妙というか、あり得ない要素を組み合わせて、明らかにはじめから意図された絵を鮮やかに描いて見せることによって、いつも圧倒してくださっています。

 ただし、それはいわゆるラッキーなことの連続したり、無意味な単なる御利益があるというのとは違います。それは、この後のダビデの経験したことを見ればわかります。これで何もかもうまく行ったわけではありませんでした。ダビデがツィケラグに帰ると、とんでもないことが起こっていました。ダビデがいない間に、アマレク人がツィケラグを攻撃し、火で焼き払い、女たちをとりこにして、連れ去っていたのです。その中にはダビデの妻もたちもいました。ここで、皆が女たちを取り戻すために一致団結したのならいいのですが、そうはなりませんでした。民は悲しみのあまり、ダビデを石で打ち殺そうとしたのです。ダビデは非常に悩みました。なす術もなく、勝機を見出すこともありません。
 しかし、ダビデはこの絶望的な状況の中で、ただ彼の神、主によって奮い立ちました。(Ⅰサムエル30:6)

 この緊迫した状況の中でも、ダビデは決して焦りませんでした。冷静に主のみちびきを伺い、みことばを求めました。主はダビデに「アマレク人の略奪隊を追いついて勝てる」という約束を与えました。そればかりではありません。主は一人のアマレク軍の奴隷だったエジプト人に会うようセッティングしておられました。このエジプト人のおかげでダビデは首尾良く、抜群のタイミングでアマレク軍を討ち取ることが出来たのです。(Ⅰサムエル30:11~20)このエジプト人奴隷をちょうど3日前に病気にしたのは誰ですか。主人に置き去りにされたのは誰ですか。すべては主の配剤の中にあります。

 個々の出来事をバラバラに見てみると、ものすごく辛かったり、悲しかったりすることもあるでしょう。そして、それらは何の関連もなく、ただバラバラに起こっているように感じられるかも知れません。しかし、この世界にある全てのものは、主の御手の中にあります。そしてこの御方は、聖なる方、義なる方、愛なる方です。この世界をお造りになった方を信じるなら、この世界を贖ってくださる御方に委ねるなら、絶対に失望させられることはないのです。
 「ダビデは、彼の神、主によって奮い立った」(Ⅰサムエル30:6)これは、人間的には望みを持てる材料が何一つないときに、主と言う御方に人格的に信頼したことを意味しています。物凄く励まされることばです。クリスチャンのあゆみの中には、人間的に非常に厳しい場面もあります。そんなときこそ、私たちは主によって奮い立つべきときなのです。
 サウルには神秘体験はありましたが、「サウルは、彼の神、主によって奮い立った」という類のみことばは全く見あたりません。このことからも、サウルとダビデ、それぞれの主との関係がわかります。サウルもダビデも苦しみましたが、主に信頼したかどうかによって、その苦しみの質や価値は全く違うものとなりました。サウルは身から出た錆、自業自得の苦しみです。ダビデの場合は、人の子イエスのすばらしさを味わう喜びにつながる苦しみです。
 主に信頼する人としない人は何と大きく違っていることでしょうか。この後、サウルはその子どもたちや一族まで巻き込んで本当に悲惨な最期をむかえます。

 最後に詩編31編9~22を見てみましょう。ここには、敵ばかりか身内からも責められ、命を狙われるダビデの苦しみが描かれています。
 理由なく苦しみを受けるダビデの悩みは、イエスの十字架に至るそれを思わせる描写となっています。ダビデは主によって奮い立ちました。その結果、何の害も受けることなく救われました。
 ところが、イエスはダビデよりも遥かに厳しい苦しみや痛みの中で、最後の最後まで100%の信仰を告白しながら、父なる神に見捨てられました。
 イエスは十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この世の人はそれを敗北や不信のことばと評価しています。しかし、そうではありません。神の完全な義を前にして、「どうして私を捨てるのか」と言いうるあゆみをされたのは、この御方だけです。
 私たちは、この御方のなだめのゆえに、贖いの血のゆえに、祝福を受けるのです。この御方の支払われた犠牲があまりに大きいので、わたしたちは大いに祝福されて当たり前、その恵みを存分に味わうことがなければ申し訳が立たないのです。
 その恵みは、誰かが独り占めすべきものでも、この世の価値観で配当すべきものでもありません。ダビデが行ったように皆でともに分かち合うべきものです。なぜですか、それは恵みだからです。(Ⅰサムエル30:21~25)